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メンタルを鍛えるなんてやめたほうが良いと思う 対人関係学の主張 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



心理学と対人関係学
 よく出てくる話として、コップに半分水が入っていることをイメージさせて、まだ半分水が入っていると考えるか、もう半分しか入っていないと感じるかによって、ポジティブ思考とかネガティブ思考とかそういう解説がされていることがありますね。
 その例えで言えば、対人関係学的思考は、のどが渇いていればもう半分しか入っていないと感じるし、薬を飲むため用意した水が余っていればまだ半分も残っていると感じることが一般的だろうと答えます。心とか感情は、与えられた環境に対する反応だと考えるのです。
 ところでこの時、もし脱水症状の危険のある人が、まだコップに半分も水が入っているとして新たな水を調達しなかったら、大変危険なことになります。一見望ましいポジティブ思考や誘導された思考が当人に危険を招くということをよく表すことができると思います。

 なぜ、環境に対して感情や心が動くのでしょうか。それは、新たな行動でるということや今の行動を修正するためのきっかけになるからなのです。水が足りないと感じるからこそ、もっと水を準備しようと思うわけです。水が足りないという不安が行動を促すわけです。このように感情や心を自由にしておくことで、危険を避けたり、良いことに近づいたりできると考えます。

 ところで、人間は群れを作る動物です。様々な個性を持つ構成員を群れは内包しています。心理学でいうところのポジティブな人、ネガティブの人がいて、それぞれの意見が尊重されている群れが強い群れです。強いというのは、永く存続し続けるという意味です。これは簡単に理解できるはずです。みんなポジティブな思考ばかりする群れは、イケイケどんどんということになり、良いときは爆発的に良いでしょう。しかし、警戒や対策を考えることをしないため、あるとき一気に群れ自体が滅亡する危険がはらまれています。逆にネガティブな構成員だけとなると、群にとどまることが嫌になり、不安に押しつぶされて自滅するでしょう。
 それぞれの考え方を自由に交流させて、自分の感情に固執せずに、理性的になすべきことを話し合える環境が最も合理的な選択をするということになるでしょう。民主主義とは、このように本来は、正しい結論を出すための技術だということになります。
 
 そうだとすると、自分の個性は、ネガティブであろうとポジティブであろうと、なんであろうと、群にとっては貴重な財産なのです。貴方が、引っ込み思案だったり、人前に出ることが極端に苦手だったりするならば、あなたでなければ感じられないこと、あなたでなければ提案できない案を作ることができるはずです。臆病であればそれを大事にするべきなのです。それはあなたのセールスポイントなのです。

 だから、本当は、群にとっても、あなたが個性、考え方を変えることは不利益となります。しかしながら、あなただったりあなたへの影響力の強い人だったりがあなたは変わらなければならないという考えをあなたに植え付けるわけです。そして、表面的に、一見、その変化は会社だったり国家だったり、そういう団体から望まれているわけです。自分を変えようとするときは、自覚することは難しいのですが、そういう誰かの都合を、自分の希望と勘違いして、自分を変化させようとしていることが多くあります。自分の考え方を変化させなくても、本来群れは、あなたの個性を受け入れるべきなのです。それを受け入れられないダメな群れは、あなたが居心地の悪い群れは、人間の集団ではなく無個性の道具を並べようとする集団ということが本質なのです。
 あなたが自分を変えようとすることはあなた自身にとって危険でもあります。これまでのあなたの人生の時の流れによって形成された自分というものを否定しなければならないかもしれないからです。自分という者の存在があやふやになる可能性もあると思います。本来あなたの性質からすれば、慎重になることで危険を回避してきたことが、回避できなくなる危険もあると思います。
 本当に、あなたが自分自身を変える必要があるのか否か、自分の個性を殺すのは誰のためか、慎重に考える必要があると思います。

 メンタルを鍛えるということはそういう危険のあることです。人間は器用に自分の正確を場合に分けて使い分けることはできません。その影響は会社内にとどまらず、家族との付き合い方に対しても微妙に影響を与えることでしょう。

 メンタルを鍛える方法として、十分な睡眠を確保しようといわれることがあります。これは比較的まともな話なのですが、落とし穴もあります。睡眠を確保するために犠牲にするものは労働時間ならばよいでしょう。残業時間を極力抑えて睡眠時間を確保するというなら、極めて健全です。ところが、長時間労働をそのままにして、長時間労働に耐えるために早く睡眠をしましょうということならば、全く本末転倒の議論となります。自分の趣味や家族との団らんや家族の誰かの問題を一緒に解決するための時間を放り投げて、会社のために使うということになるからです。これでは、自分のプライベートまで会社に提供するということになるでしょう。やはり自分が何のために生きているかわかりません。

 中には、確かに、少し成長したほうが良いかしらと、協調性の問題において考える人もいるかもしれません。
 しかし、協調性が無いといっても、右向け右に反発することは組織の中に必ず確保している必要があるというのが強い組織論です。誰か、他人からの批判を極端に嫌う上司の存在は極端に組織を劣化させます。現代の日本では障害者といわれかねない、あまり人前に立つことに躊躇を感じず、恥ずかしさを感じないのではないかという人は、極めて重要な役割があります。物言わぬ多数派を代弁することも多くあります。ただ、こういう人だらけになると収拾がつかなくなりますので、イエスマン的な人も一定程度必要なのかもしれません。人の後について行くことができるというのも一つの才能だと思います。

それでも、もう少し、ドキドキしないで生活をしたいということであれば、対人関係学的には、いくつか方法があります。

それは、群れの中の誰かと特別に仲良くなることです。みんなと仲良くしようと思わないことがコツでしょう。べたべたすることでも、その人の価値観に追随していることでもありません。ただ、自分の本音を聞いてくれて、相手のネガティブな部分も聞いてあげることのできる関係です。自分と似ている必要もなく、本当のことを言うと誰でもよいのです。ただ、これまでの人生において、いろいろな雑念が他人に対する見方に入ってきています。(これを純化したものが易学です。)それは人間が生きてきた以上、仕方がないものです。いろいろな個人的な体験が原因となっています。そうだとすれば、一番話しかけることに抵抗がない人、一緒にいて安心できる見た目の人を選ぶべきです。その人があなたの本音を否定したり、無条件に追随しているばかりであれば別の人を選びなおす必要があるのですが、まあ、それでも拒まれなければ上出来でしょう。こういう人を作ることによって、対人関係の環境が変わりますので、環境の反応である心や感情自体、それによって新たに始まる行動や修正する行動も変わってきます。

また、「誰かのために」という意識を持つことも有効です。これも本来人間が持っている力です。ただ、これほど都合よく利用される意識もないです。家族のためにとか自分より弱い立場の人のためという意識が健全だと思います。いつしか、これを外部から利用されていることがあるかもしれないという意識も必要だと思います。自分が自分の近くの誰を大切にするかということこそが人間としての各人のテーマだと思います。

ドキドキや不安を止める方法としてもう一つ。自分の体を感じるという方法があります。そうすると体が勝手に、「今は危険ではない」ということを認識します。深呼吸をするのは、肺でガス交換をするためではなく、のどや肺に空気が入り、鼻や口から息が出ていくことを感じるためです。ですから、余裕をもって体を動かすということも精神を安定させる有効な方法だということになります。

メンタルを鍛えなければ、とてもこの企業、この学校ではやっていけない。それが究極の真実ならば、対人関係学は、あなたを変えるよりも、あなたの職場、学校を変えるべきだと結論付けるでしょう。それが、あなたにとって不利益に見えたとしても、そのような環境であなたの心が悪い方に変化していくことは極めてあなたの人生にとってマイナスになるからです。自死は、このようなことからレールが敷かれ始めるわけです。

あなたは、ただあなただから、代えがたい価値がある。