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働き過ぎの男たちが不安定なパートタイム家族になっていないか。中高年の働き改革は定年後の自分のために急務 [家事]



夫が定年間近の妻たちの女子会での話題は、
定年後に夫が一日中家にいることになることに対する
不安と言うか、半ば嫌悪感を
確認しあうことらしいです。

男の立場からすると
家族のために体と睡眠時間と神経をすり減らして働いた挙句、
ようやく定年退職になって一息つこうとしたところを
邪魔者扱いされるのですから
とてもやりきれない思いがあります。

パートタイムや派遣労働等の非正規雇用は
不安定雇用等と言われ、潜在的失業者と言われることがありますが
家族という視点で見た場合、
働き過ぎの夫はパートタイム家族のようです。

朝ご飯を食べて家を出て、
夕方帰ってきて夕ご飯を食べたり食べなかったり、
風呂に入って寝る。
会話らしい会話もなく、
そして起きてまた仕事に行く。

余り人間らしい接点がないと言えばないかも知れません。

認知心理学でいうところの
単純接触効果は、
人間は、近くに長くいる人に情が湧いてしまう
仲間だと思ってしまうというものですが、

逆に一緒にいる時間が短いと
仲間だという意識が根付かないで薄れていくのでしょう。
一緒にいる時間中寝ていたのでは
何の意味もないわけです。

何か相談事があっても
例えば子どものこととか相談したくても
家にいなかったり、
「仕事で疲れているんだから後にしてくれ」
とか言って相手にしないことのつけが
積もり積もっているかもしれません。

家族は、あなたのお金以外の価値を
あなたに期待することをあきらめているかもしれません。

短時間だけ家に一緒にいるという
いわばパートタイム家族は、
不安定家族であり、潜在的孤立者なのかもしれません。

まさか追い出されたりはしないでしょうが、
好意をもって受け入れられなければ
大変居づらい余生となってしまいます。
健康面で不安がある場合も
あまり熱心に心配されることもなく
十分な介護をしてもらえないかも知れません。

仲間だと思われていない夫は注意する必要があります。
あなたは、自分が攻撃的意図をもって話をしなくても
家族は、特に妻は、
あなたに安心していません。
端的に言えば敵かもしれないと思っています。
あなたは自分を攻撃する存在かもしれないと思っているわけです。
これは理屈ではなく、感覚ないし本能です。

仲間は自分を守ってくれるものですが、
あなたが給与を家計に入れることは
高度に抽象的なので、本能を動かしにくいのです。
実感として守られているとすんなり受け止められないかも知れません。
ましてや、あなたの苦労が瞬時に理解できるわけでもありません。

さて、仲間だと実感できない場合は、
自分を攻撃するかもしれないと身構えるのは本能です。
あなたの些細な言動が
自分を攻撃しているものかもしれないと考え
危険の可能性のあるものに対して素早く対応しようとするのも本能です。

あなたが、家族に対して
うっかり会社で部下に対してする以上に
命令的な口調や辛辣な評価をしてしまうと
ああ、やっぱり自分を攻撃する存在なのだ
という防御を固めていくことになってしまいます。
次第にあなたから遠ざかることによって
妻は自分を守ろうとするでしょう。

自分は大丈夫だと自信のある方はどれくらいいるのでしょう。
そうならないためにどうしたら良いのでしょう。

私は、自分の働き方改革をすることが必要だと思います。

キーワードは、既に出ています。
「仕事で疲れているんだから後にしてくれ」
これは家庭のことは後にしてくれ、
自分以外の家族で解決してくれ
ということなのです。

誰しも働く男性は共感するセリフですが、
ここが間違っているということが「働き方改革」です。

考えても見てください
家族のために働いているのに
家族のために話を聞くこともできない
これは矛盾なのです。
本末転倒だったということをしっかり自覚する必要があります。

あなたがまだ定年前であるならば
このような働き方はやめるべきです。
長時間働いて、家族と一緒に過ごす時間が足りない上に
わずかの短い時間を家族のために使えないくらい
心身ともに疲労しているならば
それは「家族のために働いている」
とは考えてはならないのです。

自分が会社などで、上司や同僚や部下に
評価されるために働いている
そう思い直した方がよいようです。

そのことが悪いわけではありません。
しかし、不安定家族となる要素です。
どちらをとるかはあなた次第です。

ここで再度申し上げますが
仲間意識というのは、
理屈で構築するものではありません。
直感や本能で感じるものです。

あなたが家族のために給料を稼いできた
それが当たり前だと思うならば
あなたが家庭を顧みないで働いて
給料を家に入れることも当たり前だ
という意識になっているわけです。

こんなに頑張っても報われないなんてひどいじゃないか
と思うのも当然ですが、
仲間だと感じることができない「人」が不遇な思いをしても
その無念さに共感されることはないのです。
いち早くこのことに気が付くべきです。

家族との時間を減らしたり
家族との時間に疲労を残して貢献できないような仕事は
やめるべきです。

もちろん家族と話し合う必要はあります、
家族と一緒にいる時間を増やしたい、大切にしたい
という意思表示は、きっちり口に出して言うべきです。

必要な収入を確保しながら
家族といる時間を増やすということが理想です。
若い人ならば転職をするということもあるでしょう。
逆にあなたがある程度力があるならば、
労働時間短縮に知恵と力を使うべきです。

多少の収入減であれば
家族にも理解されるでしょう。
家族といる時間を増やすための努力も
家族に情報提供をするべきです。

失敗しても仲間意識だけは生まれていきますし、
家族のために働いているという意識も持ってもらえるでしょう。
何よりも、話をすることが
仲間意識を育てる大きなポイントです。

ロビン・ダンバーという私の尊敬する学者は
人間がサルのように他者の毛づくろいをしない理由は
言葉による接触ができるからだと
言葉の発生を説明しています。

攻撃的意味あいのない言葉は
敵意がないことを示しているということであれば
そういう側面が強くあるのだと思います。

自分のために、自分の老後のために
労働時間を短縮して家族といる時間
家族と話をする時間を増やすということが
私たちの働き方改革ということになるのだと思います。

では、家族といる時間を長く増やして
何をすればよいのでしょう。
何を話せばよいのでしょう。

もしかしたら、そのような不安を持っているかもしれません。

ロビン・ダンバーの学説は、
こういうところでも役に立ちます。

会話は「毛づくろい」ということです。

猿が毛づくろいをするのは敵意がないことを示し仲間意識を作るためです。
私はあなたに敵意がありませんということですから、
会社での会話のように
何か目的を達成するための手段ではありません。
何を話すということではありません。

もしかするとそれが一番苦手なのがわれわれ男性なのですが、
一番のコツは、
ニコニコして、話を聞くということです。
そして突っ込まない。
突っ込む場合でも、こういう場合もあるよというように
否定しないで修正する。
芸人のマネをして突っ込むと
家庭の中ではきつくなりやすいということを覚えましょう。

共感できるところを探し出して共感することも良いです。
「ああ、そうだね」ということでもよいです。
かなり面倒だと思っているかもしれませんが、
女性同士はみんなそうやっていますし、

要はなれということです。

進学に備えて勉強をして
就職に備えて進学したのですから
老後に備えて毛づくろいコミュニケーションを
学んでいくことはそれほど難しいことではありません。

また、常に完璧にしなければならないものでもないです。
攻撃的にならなければ
「わからない」という逃げ道もアリです。

また、会話が苦手な方は
家の外に出るということを積極的に行うことがよいでしょう。
家の外にいると、一緒にいるだけで心強いです。
荷物を持ってもらえばもっと嬉しいです。

まあ、同じ趣味をもって同じ時間を過ごすなんてことも
提唱されているようですが、
ハードルが高いように私は思います。
日常を共有する方が無難だし確実な気がします。

「ばかばかしい」

とここまで読まれた方の何割かはそう思っているでしょう。
そういう方こそ
人間の幸せについて考えるべきです。

一緒にいることを喜ばれる仲間がいること
私はこれが人間の幸せだと思っています。

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仲の良い家族関係は自死から守る事情になると同時に、自死を促進してしまう事情にもなる。知らない人が自死者の家族を非難することが犯罪的な理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死が起きると、
特に子どもが自死すると
ネットなどの書き込みに訳知り顔で
親が放置していたのだろう等と書き込みをする人がいる。

「自死の理由は一つではない」とか言って
親子関係にも問題があったはずだなどということは
余りにも愚かしく、自分の無知をさらすだけだ。
自死のメカニズムが複雑なことを説明しないで、
「自死の理由は複数ある」と断言することは
このような危険性がある。

一口に自死の理由と言っても
自死を考えるまで追い込まれた理由と
そこから自死の考えを無くすために機能しなかった理由では
意味合いがまるっきり違う。
説明を抜きに自死の理由は複数あるなんて言う説明は、
その人を追い込んだ理由を薄めてしまう。

自死の原因を家族に求める安直な人たちは、おそらく、
「自死する場合は、その直前に
これから自死しますよというなんらかのサインが出ていて
家族ならそれに気が付くはずなのに
それを見逃したから自死を止められなかった。」
なんて馬鹿なことを考えているのだろう。

だから、自死のサインを見逃さないように
何がそのサインなのかわかるように一生懸命勉強するのだろう。
こんなことに血眼をあげているから
自死予防を困難にさせる原因になっている。

自死のサインなんて死んでからしかわからない。
それもこじつけのような話であることが多い。

自分は関係がないのに、しかも自死について知らないのに
自死遺族を非難するのは実は理由がある。
自分を守るためだ。

自死の事実があったことを知ると、
大抵の人は事の大きさ、深刻さを精神的に持て余してしまう。
病気で死ぬことはある程度納得することができる。
しかし、病気でもないのに死んでしまうことは
それは誰しも脅威である。

脅威、危険を感じてしまうと、人間は、
とにかく自分や自分の家族に自死が起きないようにという
防衛意識を無意識のうちに抱いてしまう。

自死のメカニズムや、その人の具体的な悩みなんてものは
残された人はなかなかわからない。
説明してもすぐには理解できない。
そうなると、同じことが自分や家族に起きないということを
どうにか納得して安心したくなる。
誰かに落ち度があることを声に出して言い聞かせて
自分はそうではないと安心しようとしている行為のようだ。

遺族を苦しめて、
自分が安心したいという行為なわけだ。

そうでなければ
自分がその人を自死に追い込んだと自覚している者が
別に原因があると他者を責めて、
自分が責められないようにして
ムキになっているかどっちかのことが多いようだ。

親子関係については、
自殺対策の専門家の方々でも
誤解をしている向きがあるように感じてならない。

現在専門家が自殺対策を考える場合、
「自死の「保護因子」を増やし、強化し、
自死への「危険因子」を減らす」
という一件もっともな考え方が示されることが多い。
医学的用語がまだまだ頻繁に用いられている。
あたかもがんの保護因子を増やし危険因子を減らす
という文脈のごとしである。

この二者択一的な考え方の最大の問題点は
評価を誤りやすく
逆方向の働きかけをしてしまう危険がある
ということだ。

ある局面においては保護因子になるが
ある局面においては危険因子になるものがある。

だから局面を間違えると、
支援者たちが自死を促進させてしまっていることがありうる。
例えば良好な親子関係である。

つまり、仲の良い親子関係は
自死を防ぐ場合もあるが
自死を後押ししてしまう場合もある。

どちらかというと自死を後押しすることが多い
と感じる。

逆に、仲の悪い人間の顔(例えば姑)を思い出して
自分が死んだらあいつを喜ばせるということに気が付き、
自死を思いとどまったという例もある。
本当に直前、ギリギリのところで命拾いをした実例である。

なぜ、仲の良い家族の存在が
自死を後押ししてしまうか。

おさらいとして自死のメカニズムを確認する。

主として対人関係の危険となる事情を認識
  ↓
危険と感じ、不安が募る
  ↓
不安を解消したいという要求が生まれる
  ↓
不安解消するための行動を行う
  ↓
不安解消をする行動が見つからない
  → 絶望感、孤立感
  ↓
不安解消要求の著しい肥大化
  ↓
不安さえ解消できれば死んでも良い
  ↓
死ぬことが「希望」となる
  ↓
自分は死ななければならない

という過程をたどる。

不安を解消する行動を探すとき
家族に相談ができれば
確かに自死を実行することが少なくなるだろう。

しかし、追い込まれた人は
家族に相談することができない。

原因はいくつもある。

1 家族に心配をかけたくない
2 追いつめられたものの心理としての孤立感が
  他者へ頼る発想を奪う
  (追いつめられると、自ら孤立していってしまう。)
3 同様に相談しても無駄だという悲観的な思考を産む
4 自分受けている辱めを家族に伝えることが
  家族に申し訳がない。
  自分が情けない人間であることが
  家族に申し訳ない。
5 家族から励まされることを想像してしまうと
  とても耐えられない
6 家族に、これまで通り普通に接してもらえなくなる

もともとそれほど仲の良くない家族関係であれば、
「自分が今苦しんでいるのはお前のせいだ」
と責任転嫁することができる。
自罰意識をそらすことができることは大きい。

仲の良い家族の場合
こういう責任転嫁の言葉を吐くことによって
家族を傷つけることを恐れてしまう。
もともとそういう発想にはならない。

家族が大切だからこそ
自分が苦しんでいることが重荷になって行く。


その他にも苦しんでいることを
家族が気が付かない理由はいっぱいある
長時間労働や単身赴任で
そもそも家族と顔を会わせない。

家族の元にいる時は安心しているので、
不安な様子を見せない。
不安な様子があっても務めて家族の前では
平気なそぶりをしたり、笑い顔を作ったりする。

これはとてつもなく精神的エネルギーが必要で
家族の前でごまかすと
その後の大半は寝て過ごしたくなるくらい
消耗しきっているとのことだ。

当然、きちんと考えることも
正当に評価することもできなくなり、
こらえる力も無くなり
自死が促進されていく要因になる。

しかし、まだ訳知り顔でいう人が出てくるだろう

「家族の仲が良いならば
学校や職場で嫌なことがあっても
家に逃げ込めばよいのだから
転校や退職をすればよいのだから
死のうとはしないのではないか」

これを説明するのが対人関係学の理論だが、
結論だけを述べるにとどめる。

現代の人間はいくつかの集団に所属して生活している
家族、学校、職場、職場の中でも派閥、その他
それらの集団は、相対的なものであって
本来は離脱することが可能な人間関係である。
しかし、人間の脳の理解力は
それを正しく認識することができず、
一つの相対的な集団からの離脱の危険があると
本能的に離脱を回避しようという
要求(意思)を持ってしまい、
回避のための行動を探してしまう。
こういう動物なのだということである。

簡単に退学すればいい、転校すればよいというけれど
実際にそれを検討したり決意するという精神活動は
人間が最も苦手としているのである。
追い込まれれば追い込まれるほどしがみついてしまう。
人間はそういう生き物であるようだ。

もう一言いうと、
認知心理学の定説だが、
人間の心はおよそ200万年前にできた。
この時の人間は生まれてから死ぬまで
一つの群れで生活していた。

人間の心はこの時からそれほど進化していないのに
環境が複数の群れで生活するよう劇的に変化してしまった。
人間の心、脳と環境のミスマッチが起きているので苦しい
ということになる。

このように自死予防は
実はとても難しい。
合理的に考えれば自死は防げるのだが、
合理的に考えることができない状況に追い込まれるから
自死が起きてしまう。

この理解をしないで、追い込まれている人に対して、
家族の優しい圧力
良好な人間関係力を浴びせて
自我消耗させてしまうことは
文字通り致命的な誤りになる。


自分にとって精神的に負担な出来事が起きても
深く考えることなくそれを誰かのせいにするということは
とにかくやめた方がよい。

自死者の遺書を見ると
自死者がいかに家族を大切に考えていたかがよくわかる
そして家族の具体的な状況を
事細かに知っていることが分かる。
子どもの学校行事や部活動の大会など
事細かく心配している。

しかし合理的な思考ができない状態になっているので、
「だから生き抜こう」
という結論にはならない。

自死遺族の大部分は良好な人間関係であった家族を自死で亡くしている。
自死をなかったことにしたいという不可能を願っている
自死を受け止めることのできない第三者から攻撃を受ければ
絶対的な孤立が訪れてしまう。
考えもなく遺族に責任を求める言動は
極めて危険なことであることは
落ち着いて考えてみれば当たり前のことだと
理解していただけることだと思われる。



文中で自死のサインを探すことでは
自死を防ぐことはできないと述べています。
ではどうするかということですが、
自死が、ほぼ無意識の領域で決意されることからも、
本人の苦しさを基準に考えてはならないということを
提案しているところです。

ややメンタルの弱い人を基準に、
その人の置かれている状況を客観的に判断し、
不可能を強いられている
孤立感が起きる可能性のある状態だ
と第三者が判断したら、
その環境からその人を離脱させる
環境を改善するか、集団から文字通り脱退させる
そして、安全な集団に一時避難をさせる
安全な集団もどのようにその人に接するか
きっちりレクチャーされた集団で、
外部の人間が随時修正ができる状態
にして、回復を待つ
大雑把に言えばそういう政策に重点を置くべきだ
と考えています。

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離婚調停で、実質的な話し合い抜きの不成立は許されない。真面目に本来の家事調停を実施しよう。 [家事]


離婚調停を担当していてとてもおかしいと思うことがあります。
実質的に離婚についての話し合いをしてもいないのに、
調停委員から、
「申立人は離婚の意思が固いです。
 あなたは、離婚をしたくないという。
 これでは、話し合いは平行線のままなので
 申立人は不成立で終わりにしたいというのです。」
つまり調停を打ち切って裁判にしたらどうだというのです。

どうやら、申立人側についた代理人の意向らしいのです。
極端な場合は、調停の最初の日にそんなことを言われることもあります。

調停委員の考えでは、
離婚調停が申し立てられた以上、
離婚を受け入れて慰謝料や財産分与、親権などを話し合うのが
調停だというかのようです。

なんとなく、
確かに離婚するしないで意見が対立しているならば
話し合いが成立しないから仕方がないか
などと考えてしまいそうになります。

しかし、これは大間違いだと思うのです。
なぜ大間違いなのかをこれからお話しします。

一般の方はあまり意識しないことだと思うのですが、
調停にまでなる離婚というのは、
どちらかが離婚したくて、
どちらかが離婚したくない場合がほとんどです。

そうだとすると、
離婚をするかどうかの話し合いは許されず
離婚調停は、離婚をしたい人のためだけの制度ということになります。
離婚をしたくない人は話し合いをできず、
裁判をしなければならなくなります。

しかし、離婚は、調停で話し合いをしなければ
裁判をすることができなくなっています。
これは一つに、離婚をするかしないかは当事者が決めることが第一で
裁判所が介入することは必要最小限度にしようという考えと
特に子供たちがいる場合は、
離婚をして終わりではなく、
離婚後も新たな関係が続くわけですから、
話し合いで解決して、できるだけわだかまりを小さくすることが
関係者一堂のために最善だということから
法律で決められているのです。

ある意味、
離婚したくない人も
話し合いをする具体的な権利を有していると
いうことができると思います。

離婚を受け入れなければ裁判だとなれば
この話し合いの権利を奪われることになります。

では、何を話し合うか。

離婚をしたくて離婚を申し立てたほうにこそ
実は話し合いの利益が大きいのです。

「私が離婚したい理由はこれこれだ。
確かにあなたが悪意でこういうことをしているわけではない
ということは私もよくわかる。
でも、あなたはこうしてしまう。
私は何度もあなたに対してこう言ってきたはずだ。
それでもあなたはそうしてくれなかった。
貴方と一緒にいることはとても苦しい。
このままの関係を続けることができない。」

大体こういうことを言うわけです。

ここで、相手方が、
「それは分かった、自分の生き方を変える
これこれの人にもそういわれて
今回別居や離婚調停が始まって、
初めて身にしみてわかった。
どうかこうして欲しい。」

申立人が
「それはこういう理由で不可能だと思う。」とか

こんなやりとりをしながら、
離婚をしたい理由や心情を相手方に理解させる

相手方は、離婚自体に納得できないとしても
相手が離婚したい気持ちをおぼろげながらでも
把握することができる。

そうすることができれば、
案外離婚の成立は早いものです。
そのためには、相互に相手を理解する努力をして
自分を理解してもらう努力をする
それが離婚調停なわけです。
ひところまでは、
そうですね、10年以上前まではそれが常識でした。

弁護士の仕事は、
相手と自分を理解する作業を一緒に行い、
相手に理解してもらう作業を行うということでした。

そうやって、
一方的な離婚とせずに、
また、相手を全面否定することなしに、
できるだけソフトランディングするように努力する。
そして最低限度の信頼関係構築して
離婚後も別居親が子供の成長にかかわることができるように
養育費や面会を実現する基礎を作ったものでした。
もちろんうまくいかないこともあります。

ただ、相互理解がある程度できれば
離婚までの期間が短くなる。
離婚後の関係がある程度良好になる
というメリットがあったわけです。

今の離婚調停は、
離婚するかしないかの結論が違うならば
調停をしないとでもいうようなものです。
しかし、その結論が違うから調停になるわけです。
それなのに、なぜ離婚をしたいかという
肝心なことを話し合えないなら、
離婚を先に進めるための制度になってはいないか
離婚をしたくない人の権利をあまりにもないがしろにしていないか
という大きな疑問が生まれるわけです。

実際は、このような一方的な離婚調停をしているから、
離婚裁判が長引き、
離婚後のトラブルが起きやすくなっているのだと
私は思います。

あたかも、離婚という結論を急ぎたい
そういう焦りみたいなものを感じてなりません。

しかしそんなに離婚を急がなければならない事情が
本当にあるのでしょうか。
それまで夫婦として同居していて、
楽しいことも、一緒に頑張ったこともあったわけです。
離婚ともなれば、精神的にもショックですし、
人生に対して暗い影を背負うことも実際にあります。

何よりも子どもたちに対するマイナスの影響が
これでもかと押し寄せるのです。

感情的な、相手方に対する憎しみが強いほど、
離婚の悪影響が子どもたちに浴びせられます。

突如一方が離婚をしたくなったから、その意思が固いからと言って
そんなに急いで離婚をする利益を認める必要があるでしょうか。
それまで結婚した相手や子供たちに対して
できる限り納得できる機会を与えることが、
優先されないということはどうしてもおかしいと思えてなりません。

私も調停委員です。
家事調停ではなく、主に民事調停を担当しています。
「双方の意見が違うから
話し合いにならないとして
調停をやめて裁判にしてください」
などということは最後の最後まで言いません。

意見が違うから紛争になるのであり、
どうして意見が違うのか、
双方が納得する結論はないのか
真剣に双方と調整をしています。

調停委員もまるっきりのボランティアではありません。
税金からわずかながら報酬をいただいています。
始めから調停をする気がないようなことをするわけにはいかないのです。

そんな実質的な話し合いもしないで裁判をやれなんてことは
調停制度を否定するものだと調停委員に言うと、
「それではそのお話を相手方に伝えます」
と言われることがよくあります。

確かに結論を伝える時は
正確に伝えなければなりません。
当事者が言ってもいないことを
勝手に忖度していうわけにはいきません。

しかし、相手の話を伝えることが調停委員の役割ではありません。
紛争の要点を見極めて、
お互いの納得ができるように働きかけることが肝要です。
特に調停の進行については、
調停委員の役割です。
調停委員の考えで、責任をもって調停を行わなければなりません。
特に調停の進行に関する意見は
伝書バトになるわけにはいきません。

調停委員は、その意見について自分の意見を示すべきでしょう。
家事調停を行うべき調停委員が
家事調停の自殺をするような進行になってしまうと思ったら、
実質的に家事調停を行うべく、
相手方を説得しなければなりません。

また、裁判官も、
このような調停の進行に対する意見が出たら
調停委員会を総括するものとして
見解を示すべきです。

毅然として実質的な家事調停をするように
自らが調停に参加しなければなりません。
不幸にして未熟な調停委員会が
実質的な調停をすることなく不成立として
訴訟を提起した場合は、
付調停にするなどして
話し合いを再開させなければなりません。

それが法律の姿勢だと私は思います。

何よりも批判されなければならないのは
実質的な話し合いをしないで不成立にする弁護士です。

なぜ、実質的な話し合いをしないのか、
なぜ弁護士が不成立を急ぐのか、
これは大問題を秘めている場合があります。

離婚をしたい当事者は、話し合いをしたくないのでしょうか。

これはそんなことはありません。
むしろ調停という安全な場所で、
相手が調停に来ているせっかくのチャンスの中で、
弁護士という見方がついていたら、
どうして離婚をしたいのか、
どうして自分を苦しめる行動をしたのか
その時自分がどういう思いだったのか、
積極的に話をしたいという人がほとんどです。

子どもたちのために行動を改めてほしいと
実際はそう願っているのです。

これが申立人側の代理人をやっていての実感です。
第1回期日で相手方が何も言わないで離婚を受け入れ
条件もほぼすんなり決まってしまって、
これが調停なのかと怒り出す元妻もいました。

人生のけじめをきちっと大人同士として付けたいようです。
もっともなことだと私は思いました。

当事者の中には、
弁護士が入ってしまうと
弁護士の都合で離婚調停などを決められてしまっていると
考えている人たちが実に多くいます。

つまり、離婚調停を早く打ち切りたいのは
弁護士の都合だというのです。
裁判をやって一方的に離婚判決を得て、
(そのために、出来事を針小棒大に主張して)
一日も早く報酬を得て、
次の仕事をしたい
そういうことだろうというのです。

他人の人生を自分の儲けの道具としか考えていないと
憤っている人たちが実にたくさんいます。
もし、これが本当であれば
弁護士としての品位を汚す行為になると思います。

そういう考えは、自分を悪く考えられない、
(実際に落ち度がない場合と、
他人に原因を求めてしまう性格と
色んな場合とあるようです)
という当事者の特殊な考え方だけではありません。

実際に人権擁護委員の先生とお話をしていると、
役所や相談機関の言う通り離婚をしたが、
性格は苦しいし、心理的にも追い込まれている
こんなはずじゃなかったと連絡をしたところ、
「離婚を決めたのはあなた自身です。
 こちらに責任を求められても困ります。」
と言われたという相談が来るようになったというのです。

離婚調停や訴訟で、
自分から離婚を求めていながら、
相手から反対の証拠を出したりしてなかなかうまくいかないと
自らが警察や役所で相談したときの相談記録を
証拠として提出してきて、
「この通り、自分は説得されて別居したし調停を申し立てた
本当は自分は、別居も離婚もしたくなかった」
という主張がなされることがぼつぼつ出てきています。

記録を読むと確かに、
役所の人たちは何時間も説得して
別居をさせているようです。
ようやく説得することができたなどと
報告書に書いてあります。

警察まで呼んで夫の抗議を遮って別居しながら
やっぱり、自分は離婚をしたくなかったとして
離婚届を出したと保護機関にうそを言って
夫の元に戻ってきたという事例もありました。

どうも、当事者は、特に妻は
自分の意見をきちんと言えず
公的な人から言われたまま離婚手続きに入ってしまうことが
確かにあるようです。

調停を早く打ち切って裁判にする
という姿勢と共通のにおいを感じます。

つまり、
調停を続けていくと
妻が「やっぱり離婚をすることをやめる」と言い出すかもしれない
早く調停を打ち切って裁判にしたほうが良い
裁判にすれば夫の方も
悪いのは妻の方だと妻を攻撃してくる
裁判での夫の態度を見れば
妻の離婚の決意は固まる
こんな考えで行ってはいないか心配になってきました。

要するに、
可哀そうな妻は、
自立する行動を毅然と取ることができないために、
後戻りできないように手続きを進めなければならない
自分で自分の幸せに向かっていくことができない
男性に依存している可哀そうな女性であるから、
こちらで前に進めてあげなければいけない人なのだ
そんな蔑視をしている考えで行っていたら大変なことだと思います。

あたかも売春防止法の女性保護と同じ構造というわけでは
いくらなんでも違うだろうとは思うのですが、
担当部署は同じであるようです。

揺れ動くのが人間だと思います。
また、夫婦として一緒に生きてきたということだと思います。
特に「子供たちのために我慢する」という考えが
今家庭裁判所で通用しにくい場合があるようです。

調停委員会だけでなく、弁護士の相互批判によって
法律に従った情のある家事調停を取り戻すことが求められています。

一般の方々も離婚調停を経験した当事者の方々のお話を聞く機会があれば
自分のこと、自分の子供のことになりかねないことです。
ユーザーとして制度に大いに口出しをしていただきたいと思っています。

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「死にたい」という人にどのように働きかけるか 死にたい「くらい」辛い事情の探し方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


前回、死にたいという人にがんばれと言ってはいけない
ということを書いたところ
「ではどう言えばいいのだ」というお問い合わせが来ました。

なるほどごもっともです。
めったに、他人に死にたいとは言わないものですが、
もし言われたらどうしよう
励ましてはいけないしとなれば、
いったいどうすればよいのか。
黙っているわけにもいかないし
と思われるでしょう。

わからない時は、黙って聞くということも正解です。
理解しようとする気持ちを示すことになるからです。

寄り添い、共感するということが第一なのですが、
それは相手の苦しみを部分的にであれ引き受けることになるので、
大変苦しい思いをすることになります。
心中になることがあるのは絶望を共有してしまうからです。
無理をすることは避けるべきです。
「カウンセラーやなにがしかの専門家につなぐ」
という選択肢も「あり」だと思います。

実際、あなたに死にたいと言っている人は
助けてほしいという気持を無自覚ですが持っているようです。
でも、あなたが自分を助けてほしいということではなく、
「誰でもいいから助けてほしい」ということなので、
誰かにつなぐということは間違っているわけではありません。

しかし、そのお話を、あなたが
聴かなければならない立場である場合があるでしょう。

何をどう聞くかということから始めて
聞いてどうするかということを
少しお話してみます。

まず、死にたいと言うお話を聞く場合
時間を用意することが大切です。
目安として2時間くらいを確保しましょう。
確保できない場合は、
予めリミットを告げて、改めていつお話を聞く
ということをはっきり示しましょう。

話はとりとめがなくなることがほとんどです。
プロは、とにかく話を聞き続けるのですが、
私は、時系列に沿ってお話しして頂くようお願いします。
そして、聞きながら時系列表を作ります。

例えば離婚が絡むのであれば、
結婚した日、出会いの方法を
まず聞いてお話して頂きます。

職場の辛いことであれば、
いつ入社をしましたかということから始めます。

時系列は、細かい日付が大切なのではなく
エピソードの前後関係が大切です。
前後関係さえ間違えなければ
「いつ頃」ということが分かればよいです。
もちろん、話していくうちに
前後関係が入れ替わることもありますが、
それは良いことの場合が多いです。

相談者の頭の中が整理されてきた証拠です。
時系列は最終的に確認できれば良いです。

さて、お話をしてもらうということも一つの目的ですが、
こちらとしては、死にたいくらい辛い事情がどこにあるか
ということを知りたいわけです。

おさらいですが死にたい気持ちは
以下のような流れで出てくるようです。

対人関係上の問題
  ↓
危険の認識=不安
  ↓
不安解決要求
  ↓
不安解決行動

ということがノーマルな課題克服法ですが
不安解決方法が見つからない場合
不安解決要求が大きくなってしまいます。
あまりにも大きくなりすぎて
不安解決がなされればそれがすべてだという意識になり
究極的には死んで不安を感じなくしたい
という本末転倒な結論を抱いてしまうのが自死の原理です。

こちらとしては
結論としては死ぬことを否定したいわけです。

聞く側は、早くこの結論、「死んではいけない」
という結論に飛びつきたいものです。

このため、やみくもに、
相手の発言や考えを否定したくなります
ここに最大の注意を払う必要があります。

相手は思考能力にはそれほど問題がないことが多いです。
考えることができないわけではない。
しかし、本末転倒の考えに陥るのは、
十分な考えなしに、ある前提を作って
思考を出発させてしまうところにあります。

どこに問題があるのかは実はなかなか難しいものです。

それにもかかわらずやみくもに否定してしまうと
話している方は
「自分の話を聞くつもりがない」と感じたり、
「自分を馬鹿にしている」、「自分を否定している」
と感じてしまうわけです。

話を聞くほうの自分は
死にたいという人の結論を否定したいから
つい、やみくもに否定してしまう傾向にあるということを
しっかり自覚して、自分を制御し、
じっくり話を聞くことは
意識しなければできないことかもしれません。

また話すほうは、
細部にも手抜きができませんので
回りくどくなったり
遠回りすることがあります。
覚悟して付き合う必要があります。

しかし、遠回りのような気がする場合は
ある程度聞いたら
時系列に戻してもよいでしょう。
その時は、「先ほどの話ですが」
という質問をすることが有効でした。

さて聞くポイントは
当初の問題点、不安を感じた事情と
どうしてそれが解決不能なのか
その人がどのように孤立しているか
その人は何を大事にしているのか(こだわっているのか)
というところにあります。

・解決不能のポイント

・孤立

・本人のこだわり

この3要素を考えることになります。

「解決不能」とは
その人にとって解決不能であるということです。
自分なら解決できるということより、
なるほどその人は解決できないだろうな
と思えればよいわけです。

「孤立」は、
天涯孤独である必要はありません
特定の集団で孤立していれば足ります。
また、本人の言葉から
本人は、実は孤立していなくて
援助を申し出る人がいることに気が付くことが多いです。
本人が孤立を感じている
ということが分かれば孤立していると評価するべきです。

最後の「こだわり」なのですが、
このこだわりは
一般の人ならば大事にしないこだわりもあるのですが、
一般的にはそれを大事にすることが非難されないこともあります。

仕事を一生懸命行うとか
子どもを大事にするとか
通常の程度であればこだわることを肯定できることもあります。
そうです、程度の問題に着目することになります。

これらの要素が存在すれば
「死にたいくらい辛い」となるわけです。

その3要素の存在が理解できれば
「なるほどそれはつらいよね」
「あなたの状況なら誰だってつらいだろうね」
という、辛さについての共感を示すことになります。

ここまでが一区切りということになります。

繰り返しますが、
貴方が専門家でなければ、
専門家につなぐことをお勧めします。
できれば、専門家のところに
一緒に行ってあげるということが望ましいとは思います。

では解決編です。
あくまでも、専門家向けのお話になります。

ここまでお話を聞ければ
辛さのもとになった事情が理解できていると思います。

もし、何がもとになっているのわからず、
病的に全般的に不安になっている場合は
精神疾患にり患してしまっている場合があります。
これはあまり多くありませんが、確かにそういう場合があります。

職場のことが原因で不安になっているようなことを言っていても
心配の仕方が支離滅裂で、
例えば、
自分が会計を担当していて、
営業担当の上司からマスキングテープ200円を買った日付を
実際よりちょっと後で帳簿につけてほしいと言われ
それをしたとします。
確かに不正ですし、会社から処分されることを心配するのは良いのですが、
「東京地検特捜部が捜査にくる」
「自分は刑務所から出られなくなる」
などということを本気で心配して
気が付けば口にしているということは
異常だと考える選択肢を持つべきです。
これは治療適応だと思います。
そして急ぐべきです。

できれば、カウンセリングができる精神科医がベストでしょう。
2時間くらい話を聞いてくれる精神科医です。

しかし、何かわからないが
「顔の左側から危険が来る」
ということをしきりに述べるという人がいて話を聞いたら、
会社で突然、頭がおかしくなった人間がいて、
前触なく、突然顔を殴られたという出来事があったというのです。
その頭がおかしくなった同僚が左の席に座っていた
というように、なにがしかの理由がある場合もあるので、
記憶のメカニズムを説明したら
当の本人が納得したということもありました。
統合失調症と診断されて
入院して強い薬を処方され
強い副作用が出たことによって
障碍者だと認定されていた人でした。

次に、困った事情がそれなりに理解できる場合、
そうして困った事情とそれによって3要素が結び付けられる場合です。

おおもとの理由は、大体一つです。
一つの事情に端を発していることが多いです。

(但し、3要素に至る事情は複数あります。)

例えば、学校のいじめとか
上司の横暴とかパワハラとか
夫婦の問題とか
子どもの問題とか、
自分の体調ということもあるでしょう。
(不治の病にり患した。大きな手術を控えているなど)

但し、おおもとが修正要素となるとは限りません。
おおもとの人間関係をそのままにして
考え方を修正するということ
こだわりを修正する場合もありうるわけです。

「死にたい」という人の何が間違っていることが多いかというと

解決不能だと思うこと
孤立していると感じること
こだわり続けること

この3点です。

こだわりがあるから解決しない
こだわりがあるから孤立する
ということもあります。

まず、それぞれの専門家が判断するべきなのですが
本当に解決不能なのかということを吟味する必要があるでしょう。

そのためにはなぜ解決不能なのかを考える必要があります。

一人では解決できない。援助が必要だ。
自分本位のものの見方をしている
本来解決しなくて良いことだ
解決の方向が硬直している
解決とするレベルが高すぎる

追い詰められた人の意思決定がゆがんでいるというのは
分析的な思考によって決定される意思ではなく
直感で導かれる意思決定パターンの領域のようです。

もともと人間の意思決定は2種類あり
分析的思考をし、ち密にメリットデメリットを評価したり、
派生問題を考えたりして決める場合と
直感で決める場合とあるようです。

驚くほど多くのことを直感で決めているようです。
そのことを特段意識さえしないようです。
どちらの足から歩き出すかというようなことから始まって、
誰が味方で信頼できて
誰が敵で警戒したほうが良いとか
自分の進路や思想選択すら
結局は直感で決めていることが多いようです。

経済活動ですら分析的思考では決めておらず
不合理な意思決定過程を経ることが多いということを発見したことを理由に
最近のノーベル経済学賞を心理学者が受賞しているくらいです。

これには合理性があって
あらゆることが分析的思考によらなければならないとなると
行動が遅れてしまうということや
脳が消耗してしまうというデメリットがあるので
直感的に意思決定をして
エネルギーを節約しているらしいのです。
そうして、直感的判断で
たいていはうまくいくわけです。

どうやら、「死にたい」と言える人は
分析的な思考のゆがみよりも
このような直観的な意思決定に
歪みが強く表れているようです。

分析的思考ができるものだから
自分は頭はしっかりしていると思うわけです。
また、直感的思考は無意識に行われていることが多いので、
自分の「無意識の思考」のゆがみに気が付かないということも
ごく当たり前のことだということになります。

孤立にしても
「自分には味方がいない」という敵味方の判断は
まさに直感的に行うもののようで、
その人が、他人からいろいろと働きかけられていることを認識していながら
味方であると判断できないだけのことが実に多くあります。

「ここまでいかないと味方だと思えない」
という頑固な判断は、こうして生まれるようです。
また、追い詰められれば悲観的なものの見方にもなっているわけです。
例えば、
官僚や財界の地位のある人が
一度刑事処分を受けてしまうと
すべての見方がなくなり自分は社会復帰できないと
自死リスクが高まりますが、
そこまで復帰のハードルを上げる必要がない
という考えもありうるわけです。

一度過ちを犯した人は
その人でなければできない社会貢献がたくさんありますし、
どん底から這い上がるところを
家族に見せてあげるということができるわけです。

また、危険な職場から離脱して
新たな職場を求めるということも
同様に、検討事項になりにくい
ということもあり得ます。

解決のためには現状維持の要求を捨てなければならない場合が多いようです。

これに対しては、
まず、一時的にダウンサイジングをする
ビバークするという考え方を提案することが有効です。

今後レベルを落とすということは衝撃ですが、
少しずつ鳴らしていく一方で
将来に向けての再帰以上の目標を持つ
というアイデアは
第三者が提案しなければ自然には生まれないでしょう。

こだわりを捨て去る必要はなく
形を変える、一事留保する
という提案をするわけです。

人間関係について
最近、研鑽を受けもせず、深く考えもせず
まるっきり共感もしない人が介入して
かえって人を追い込む現象が多発しています。

確かに、その集団にいることが
危険性が強く、デメリットしかない
という場合は集団からの離脱が最終手段なのですが、

追い込まれた人の思考は
死んで楽になりたいという極端な場合でなくても
夫婦の困難な問題から逃げるために離婚を選択したり、
退職したり、退学したりということが行われます。
これはうつ病の症状として
従来から言われていることですが、
「不安解消要求が強くなりすぎた結果だ」と
統一した説明が可能となったわけです。

さて、
このようなゆがんだ不安解消要求を追認して
安易に離婚させることによって、
離婚をした後で、
「こんなはずではなかった。今とても苦しい。
 しかし、そのことを離婚を進めた機関に言うと
 離婚を選択したのはあなたですよ。
 こちらは責任がありません。」
といわれるという人権相談が多く寄せられています。

夫婦問題の多くは
適切な介入によって
関係が改善することが多くあります。

(問題は適切な介入をする人が少なすぎる
不適切な介入をする機関が多すぎるということにあるのですが)

安易に不安解消要求を追認することは
結局自死を追認することになるのと程度の違いしかない
と厳しく批判されなければなりません。
つまり問題の先送りです。

さらに困ったことは、
対人関係の悩みの中で
不安解消要求を追認することは
その人のパートナーを攻撃することになります。

例えば
妻が漠然とした不安がある
マニュアルで夫の精神的虐待がないかどうかしつこく尋ねる
市井の夫婦であれば必ずあるような夫婦喧嘩をもって
それは精神的虐待だ、モラルハラスメントだと決めつける
貴方は殺される危険があるから子供を連れて逃げろ
というパターンがあるとします。

子どもを連れて逃げられた夫は
呆然として、わけがわからないうちに
行政や警察からも目をつけられて
社会的に孤立してしまう
裁判所も自分の味方をしてくれない
絶対的な孤立と解決不能感が強力に置きますから
自死リスクがかなり増大していきます。

自死に至らなくても
追い込まれたことによる認知のゆがみが強くなり、
敵と味方の区別がつかなくなり
味方を攻撃する現象が起きやすくなるわけです。

どうしても困った人を見ると味方になってあげたくて
その人さえ守ることができれば
その他の人が傷つくことに気が回らなくなったり、
それほど罪のない人を敵視したりしてしまいます。

もともとの奥さんの不安を解消できないばかりか
新たに夫の自死リスクを高めるという
深刻な弊害を生んでいます。

死にたいという人に対する支援は
その人そのものを支援するだけでなく、
その人が所属する集団を支援、修正していくことだと
考えを改める必要が高いと考えています。

個人に対する治療ではないのです。

そうして、一番のその人の所属する集団は家族です。

家族の在り方に問題があるならば
修正を提案することが
真面目な支援だということになります。

私は弁護士ですが、
弁護士は人間の対立の中で
紛争を解決する専門家のはずです。

人間関係の修正という視点を
比較的持ちやすい職業のはずです。

また、今までお話ししてきたように
精神医学の観点、カウンセリングの観点
問題解決に当たってはケースワークの知識など
いろいろな専門家が集団的討論をし、
メリットデメリットを明らかにしたうえで
本人に意思決定をしてもらう

これが死にたいという人に対する
本当の支援なのだと思うのです。

私が生きているうちに
どこまで近づくのか
あまり楽観的にはなれないところです。


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なぜ、自死を考えている人に「死んだら負け」と言ってはいけないか。励ますことの危険性を知らなくてはならない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

似たような言葉に
「死ぬことを考えれば何でもできる」とか
「親が悲しむから死ぬな」とか

善意なのでしょうが、
これは人を苦しめるだけの言葉です。

苦しむのは
今死にたいと考えている人、
自死した人の遺族、
そして自死した本人です。

考えてもみてください。
今自死を考えている人に
「死んだら負けだよ」と言って
「ああそうだ、そのとおりだ
 死なないで頑張ろう。」
となることをイメージできますか。

ただ、例外的にどんな言葉でも力になることがあります。
同じ目線に立って、一緒に苦しさを共有している人です。
自分を理解してくれる人の言葉は
言葉の内容を超えた力があります。

そうではない通りすがりの人が
「頑張れよ」ということは
悩んでいる人に大変つらい気持ちを浴びせて
こらえる気持ちを消耗させることになります。

自分が理解されていないという絶望感と孤立感を
強烈に与えられてしまいます。
「こんなにギリギリ頑張っているのに、
もっと頑張れと言うのか
自分はもうこれ以上頑張れないのに」
ということになるわけです。

自死したい人たちの気持ちは
命を無くすということが目的ではないのです。

目の前に解決できない問題があり、
それをどうやって解決しようかと思い悩むわけです。
解決できないことを考えると心配になります。
どうしても解決しなければならないという気持ちが徐々に
今いる場所から助けてほしいという気持ちになります。

ところが、今いる状態から抜けられる方法がないと
「何とか、この不安から解放されたい」
という要求が大きくなります。
そして、その方法がないと絶望していきます。

「誰も自分の味方はいない」と考えていくのですが、
それは真実ではなく
悲観的なものの見方に病的に支配されているからです。

実際の事件を見ると
手を差し伸べている人はいるのですが、
助けだとは感じなくなっていることが多いようです。

そもそも生きるために危険を回避しようとするわけです。
これは、危険情報を理解し、その危険を回避しようとするわけです。
例えば、刃物を持った人がうろうろしているのを見たら
その人に見つからないように別のところに逃げる
できるだけ遠ざかるという行動をします。

刃物を持った人がいることを視覚的に確認する
  ↓
危険だと判断する
  ↓
危険回避行動(別の道に逃げる)

という理解が一般的なようです。

しかし、実際はどうやら
刃物を持った人がいることを視覚的に確認する
  ↓
危険だと判断する
  ↓
危険を回避したい(不安を解消したい)  ↓
危険回避行動(別の道に逃げる)

という
「不安を解消したいという意識・意欲が生まれて
それで初めて危険回避行動に出ることができる」
と考えるべきであるようです。

いずれにしても命を守り
生き抜くためのシステムです。

生き続けるために不安を解消したいのです。
これは通常では、つまり
人間が生きていくために通常想定された範囲では
危険を回避するとても優れたシステムです。

ところが、不安を解消したくても
その方法がないということになると、

「何もできなくなる=凍りつく」という現象を起こします。
それでも、不安解消要求は高まります。
生きていたいからです。

不安解消行動が高まるのに
その方法が見つからない
これを絶望感と呼びます。

そうすると、人や状況によって異なるのですが、
とにかく何でもよいから不安を解消することだけ
それだけが最大かつ唯一のテーマになってしまいがちになります。

本当は生きるためのシステムであるのに、
生き続けたいという要求よりも
不安を解消したいという要求が
大きく前面に出てくるわけです。
要するに、
「不安が解消できるならば死んでもよいや」
という気持ちになるということです。
本末転倒なのですが、
そこまで追い込まれているということです。

だから自死を考える人は
「死ねばこの不安から解放される」
と思うので、自死という手段を思いつくと
仄かに明るい気持ちになるそうです。
追いつめられるということはそういうことのようです。

そうして、追いつめられつづけて精神的に破たんしてきたり、
(病的な精神状態になったり)
睡眠不足や向精神薬の影響で
冷静な判断をする力が奪われていくと、

死ねば楽なるという気持ちではなく、
「自分は死ななければならない」
という強迫観念にとらわれるようになることがあります。

自死をする人は
第1希望は生き続けたいわけです。
そのために不安を解消したいという要求が生まれ、
それがいびつなほど大きくなりすぎて
本末転倒になるわけですから、

通常想定された追い込まれ方ではない
極めて異常な追い込まれ方をしている
という言い方ができるでしょう。

自死を考えている人たちは
死にたいのではなく、強く生きていきたいという要求がある
それなのに、生きていくための
不安解消方法が見つからない

他人から頑張れと言われなくたって
本人は頑張って頑張って、それでも答えがでない
という状態に追い込まれないと
死にたいとは思わないわけです。

この状態になった人に
抽象的に「頑張れ」と言っても
「死ぬくらいなら何でもできる」と言ったって
「もっと頑張れ」としか聞こえないし
それは、
「もっと苦しめ、もっと不安になれ」
ということと同じなのです。

さらには、
「お前はダメな奴だ」
という強烈なメッセージになってしまいます。
それは「生きる資格がない」ということと同じです。

一方で立ち直る力を消耗させるとともに
死ぬことを怖くなくする効果が生まれてくるのです。

逆療法、ショック療法は極めて危険です。
叱咤激励は危険なのです。

善意だからと言って容認することはできません。
マスコミも無責任に発言を増幅させてはいけません。
発言者を責める気持ちではなく、
止めていただきたいという気持ちです。

人間も生き物です。
本能的に生き続けていたいのです。
それを放棄するということは
よほどの精神的状態であることを
十分理解していただかなければなりません。



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10分で話す家庭の中の子どもの人権 子育てで最優先するべき一つのこと [家事]

こういう事態は避けるべきなのですが、
事情があって10分で家庭の中の子どもの人権を
語らなければならないことになりました。

とは言っても、
時間をとって、くどくどと説明したから
相手に伝わるかと言えばそうでもなく、
どんなに話しても心に残るのは
それほど多くないとは思うので、
一つの修行だと思って準備をするわけです。

この記事がそれなのですが、
今担当している事件の主張文にもつながるので
前向きに頑張っています。

先ず、人権を語るということは外せません。
ただ、これをくどくどと説明すると1年講義でも終わりません。
ここでは結論だけ。

「人間が長い時間をかけて作ってきた
 共同生活をするための工夫」
という程度にとどめておきましょう。

人権が侵害されると、
人間は、他人の中で生活することが苦しくなるわけです。
そういうものが人権とも言えますね。

家庭の中の子どもの人権、
特に家庭の中の人権ということは
概念的にとても面白いのですが、
国家権力概念をどのように反映させるかとか
この辺は全て省略しましょう。

ただ、子どもが家庭の中で健全に成長する
「健やかに育つ」の方がよいでしょうかね。
そのために親がやるべきことは何か
ということでよいかもしれません。

ここで「港の理論」に行きたいのですが
なにせ10分ですからつながりを気にしていてはいけません。
強引に話を進めることになります。

幼児が歩き始めて、
歩く距離をどんどん伸ばしていくわけです。
これは、親から離れていくことにもつながるわけですが、
最初は、親に背を向けて歩き出すだけで不安になります。
直ぐに振り返って親がいることを確認して、
また歩き出します。
振り返って「もと来た道を戻れば必ず親がいる
という安心感」があるからこそ、
思い切って遠くまで歩いていくことができるわけです。

これは、精神的にも、あるいは社会活動の意味でも同じだということ、
学校や、塾や、地域や、さらには職場と
子どもは成長するにつれていろいろな集団に所属します。

親が自分を受け入れてくれる
あるいは「自分には帰るべき家族がいる
という安心感」があるからこそ
家庭をはなれて、活動をすることができるわけです。

親が子どものためにしなければならないことは
この、
「自分には帰るべき家族がいるという安心感」
を与えてあげることなのだと思います。

どうやったら良いのか?
安心感とはどういうことか?

ここはいろいろと理屈を言えれば説得力があるのですが
やはり結論を示すだけ。

いつまでも仲間として扱われるということです。
仲間はずれにされないということが安心感です。

これと反対なのは、
テストで100点取れなければ家から出て行けとか
スポーツチームのレギュラーになれなければだめだとか
どこの幼稚園に入らなければどうのこうのか
仲間でいるための条件を課せられないということです。
もちろん虐待があったのでは安心できません。
仲間はずれの危険フルスロットになります。

友達といざこざがあっただけで
簡単に天涯孤独を感じるようになってしまいます。

では、仲間として扱うということはどう言うことでしょうか。
「どんなことがあっても見捨てない」ということのアッピールになると思います。
でもその言葉を繰り返しても仕方がありません。

私が提唱しているのは、
「弱点、欠点、不十分点を
 責めない、批判しない、笑わない」
逆に、自分のことのようにフォローするということです。

これは親が赤ん坊にやっていることそのものなのです。
成長に合わせて形を変えて行うということです。

帰るべき家庭があれば
子どもは強くなります。
自己肯定感が出てくるわけです。
いじめにも強くなるし、
成績も上がってきます。

ただ、虐待をしようとしているわけではないし
虐待とまでは言えないけれど
どうしても子どもに八つ当たりをしてしまう。
辛く当たってしまう
という悩みは誰しも持っています。

こういう時、子どものことばかり考えていると
どうしてもそこから抜け出すことはできません。
自分と子どもの関係を
幽体離脱でもしているように天井から見る
ということをお薦めしています。

自分も含めて関係の中で子どもを見るというか

そうして自分の気持ち、子どもの気持ちを考えてみる
ここでは平等に考えてみる。

そうして、自分の行動を修正するべきだと考えるならば
一人で解決しようとしない
多くは、子どもとの時間が長すぎて
他の人と過ごす時間、自分の時間が無くなっていることの焦り
ですから、

子育てを誰かに時間だけ預けてしまうということが有効です。
子どもの父親が先ず考えられますし、
自治体の子育て支援も良いところが多いようです。

実は離婚していて子どもの父親と同居していない
という場合でも、
近くに住んでいるなら子どもを預けてしまう
養育費だけではもったいないということですね。

急な延長保育も無料で(喜んで)対応してもらえるし、
娯楽の提供を受けたり、ご飯も食べさせてもらえるし
お土産までついてただ
シングルマザーこそ賢く生活しましょう。

相手に子どもを会わせるのは嫌だって言っている
余裕のある人はそれほどいないというのが実感です。

子育てをなるべく一人で行わない
これが人間が他の動物と一番違うことです。

この内容を詰め込んで10分
それ以上は話さないという決意が必要かもしれません。

質問があれば
かわいそうと思う心が育つということも
お話ししたいのですが
いかんいかん
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従業員のモチベーションをあげる方法 パワハラ型労務管理から学ぶ [進化心理学、生理学、対人関係学]

前々回お約束していたお題です。

案外簡単だけれど、
現在の企業の常識に反するため
なかなか実行しようという気が起きない盲点かもしれません。

ブラック企業やパワハラ現場では
どんどん士気が下がり、
従業員は叱責を恐れて言われたことしかしなくなります。
あれもこれも叱責ならば
度の叱責を選ぶことが一番つらくないかという発想になり、
ごまかすこと、こっそり手を抜くことが上手になり、
他人の足を引っ張って自分を守るなんてことにも
抵抗がなくるわけです。

1+1が2に達しない状態ですから、
当然生産性は落ちていきます。
それを補うために労働は過重になって行くという
典型的な悪循環が生まれているわけです。

このような職場は、
従業員には、いつまでも一緒に仕事をする仲間だとは見ていません。
消耗したら交換しようという行動になっているわけです。
当然従業員達も、
自分が仲間として尊重されていない
ということに気が付いています。


会社は、自分を守らないとわかっているのだから
会社のために頑張ろうという気持ちなど
どこからも出てくるわけがありません。
これは理性的な結論ではなく、
人間の本能による思考、行動傾向ですから
どんなに利益誘導しても失敗する確率が高くなります。

また、
会社が自分を守らないという観念は
居心地が悪くなります。
会社にいることに不安を感じてきます。
危険を感じているのです。

野犬のいると知らされたエリアをさまよっているようなもので、
危険に敏感になり、
常に逃げる準備をしています。
交感神経が活性化されて生理的な反応が生じている上
複雑な思考ができなくなります。

複雑な思考とは
少し離れた将来の予測
因果関係の把握
数字に寄らない形而上学的な思考
他人の感情の推測です。
単純ミスも起きやすくなりますので、
およそ仕事にはなりません。

マニュアルをこなしたり、
言われたことを忠実にやったり
つまり機転が利かなくなりますから
およそ仕事にはならないでしょう。

これが1+1が2以下になる原因にもなっています。

これの逆をすれば従業員のモチベーションは上がり、
会社のために
という発想が生まれてくるわけです。

つまり、
会社は自分の所属するべき群れだ、
「私たち」と自然に考えることができる状態にすることです。

従業員を尊重すること
仲間として扱うこと
これをすればよいわけです。
どうすればよいか。

人間は、他の動物と違って、
群れに帰属しようとする本能があります。
自分が所属していると思っている群れのなかで
所属に障害を感じると不安になります。
これが、居心地の悪くなる危険の正体です。

帰属に不安がある場合は
群れに協調しようという圧がかかります。
同じ服を着たり、似たような髪型をしたりと
個性を殺そうとします。
実際は、人間は人間であると同時に動物ですから
個性を殺すことに苦しさがあります。
自分のことは自分で決めたいというところが動物としての基本です。

ここからの結論として、
居心地の良い職場というのは、
自分の帰属が承認されている職場ということになるでしょう。

帰属の障害事由であると考えてしまう事由があっても
帰属の障害にならないという経験の積み重ねが
帰属の承認につながるわけです。

先ず個性、つまり他人との違いがあっても
帰属の障害事由にならないということを感じさせることです。
個性を承認すること、一人一人として尊重することです。

最低限名前を覚える
様々な職務遂行上必要な属性を把握する
ここで障害になるのが個人情報ですが、
履歴書などで提供された情報は把握しましょう
また、上司でなければわからない情報は
他の同僚の前では決して口外しないという姿勢を明らかにしましょう。

経験スキルを把握し、適切な人員配置をする
苦手だけど必要なスキルアップは慎重に求める
結果を求めるならば、結果に至る道筋を提案すること

スキルアップが必須でないのならば
特異の分野をやらせて、活かし、
苦手はカバーすることが良いわけです。

個性以外の帰属の障害事由が
欠点、不十分点、失敗です。
これが出て来たらモチベーションアップのチャンスです。

決して感情的にならない
失敗に対しては、対策を細部まで構築する
失敗の大きさを示す方法は
叱責ではなく、
対策の徹底です。
対策をたてなければならない、真剣に立てなければならない
程重大な失敗だということで示すわけです。

そしてその失敗を個人責任としないで
上司の徹底的な指導という形で
連帯責任とする。

指導の上で、主体の能力修正が図られれば
挽回のチャンスを与える。

例えば行為方法で仲間として尊重されている職場
ということが実感できるわけです。

また、特定の個人だけそういうことをするのではなく、
誰かが失敗しても尊重されていることを見るだけでも
自分の職場という誇りを持つようになります。

失敗を恐れなくなるし、
マニュアルの内容ではなく
なぜそういう行動をするべきかということまで
考えが及ぶのですから
機転も効くようになるわけです。

叱責されている人がいる職場から
助け合い、皆で一体となって仕事に当たっている職場に
転換することはそんなに難しいことではありません。





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IT化が若者のコミュニケーション能力を低下させる? もしそうだとしたらどういうことか。 [労務管理・労働環境]



コミュニケーション能力とは何かということになると
余り本格的な議論をする能力がないのですが、
会社の経営者や管理職の話では、

10年前と比べても
社会人として当然あるはずの能力がない
具体的に言えば
言われたことしかできない
応用力がない
機転が利かない
無断欠勤する
ということで、コミュニケーション能力がない
と言っているようです。

コミュニケーション能力なので、
一方だけが能力が低下したと言えず
大人の方も低下したのではないかと
まぜっかえすこともできるのでしょうが、
もしかしてということで
考えてみようと思いました。

引っかかるのが
「10年前に比べて」というところです。

この言葉を発した社長さんは結構年配の方なので、
新人類と言われた私の世代が社会人になったのも
迎え撃つ立場だったはずです。
もしかした、真剣に考えるべきではないかと
思ったということはこういうことです。

ところで、今の20歳前後の特徴は何かということにあたって
スマートフォンや携帯電話、タブレットなどの
メールやラインによるコミュニケーションを
いつ始めたか、どの程度はじめたか
というところにあるのではないでしょうか。

今の20歳くらいの若者は、
おそらく中学生の時点では
既にラインやメールでの会話が
結構な割合を占めるようになっていたのではないでしょうか。

私はこれまで、中学生や高校生に対して
ラインの使い方を注意するお話をしてきました。

ラインやメールという非対面式ツールの問題点は、
文字(絵文字を含む)だけで情報伝達をするので、
それを読んだ相手の感情を受け取ることが難しい
また、事前に相手の文字以外の情報に接していれば、
そんなことを言わなかったのにとか
そんな言い方をしなかったのにということが
文字伝達ツールではしてしまうところにある
ということを述べていました。

人間は対面コミュニケーションの場合は、
文字だけでなく、
表情やしぐさ、
声の質、大きさ、速さ
身振り手振り
等から
言葉以上の情報を受け取る。

そうして相手が楽しんでいるならば
多少羽目を外したり、冗談を言ったりする。
相手が脅えているのであれば
言い方を控えたり、別のことを言ったりする。
そういう相手の反応、
つまり相手の感情を受け取って
相手とのコミュニケーションを修正する
ということを行うことが容易にできたわけです。

それがITコミュニケーションではできない。

ちなみに手紙の場合は、
即時的な反応ができません。
封筒に入れて、ポストに入れて、相手に届くという仮定があります。
先ず、書く時も相手の状態を思い浮かべながら書くでしょうし、
気に入らなければ書き直しをしたり
出さないということもあるでしょう。

ところがメールやラインは、書いて送信してしまえば、
相手に届いてしまいます。
また、ラインなどでは
返事が急がされていますので、
ゆっくり書くということができませんので、
手紙とはだいぶ事情が違うようです。

対面で話をしている場合、
相手の表情を見ているから
言い方を変えるか言わない言葉でも
相手の表情を考える前に
キーボードで入力して送信してしまう可能性がある

相手も文字情報だけしか見ていないから
ストレートに言葉に反応して苦しんでしまうことがある
とても危険な事態となる可能性のあるツールであることが
本当なのです。

そんなことを高校生にお話ししながら
ラインのノリによって
あっという間にいじめが成立してしまうなんてことを
お話していたのでした。

しかし、もしかしたら
ITコミュニケーションの問題点は
もっと深刻なところにあるのかもしれないと感じます。

要するに
ITコミュニケーションツールの依存によって
対面コミュニケーションが苦手になっているのかもしれない
ということなのです。

どういうことかというと
一つに、文字以外の情報を瞬時に理解すること
が苦手になっている可能性があるということです。
文字と表情と口調を総合して
何を言いたいかということを理解する
ということが苦手だということですね。

これが進んでしまうと
文字以外の情報を無意識に拒否するようになる、
例えば、対面で話をしているのに
相手を見ない。
逆に、相手の表情やしぐさに集中して
言葉による文字情報が頭に入らない。

例えばこういうことです。
そうすると、ニコニコとした表情で
少しきついことを言って、
普通ならジョークだとわかってくれるだろう
と思っていたら、
言葉に反応して深刻に受け止めてしまうとか

ニコニコという表情にばかり気をとられてしまい
「そんなに熱心にやらなくても流していいから」
という印象的な言葉ばかり耳に残り
結局その仕事をやらないとか

そういうことが起きているのではないかと心配になります。

それから報告書などで
文字情報が漏れなく記載はされているけれど
字が小さすぎて読めないとか
いう現象が起きてはいないでしょうか。

文字情報が多くなってしまい、
自動的に出力文字が小さくなってしまうのに
相手が読むことを考えないでそのまま提出してしまう。

つまり、相手のことを考えて自分の行動を修正する
ということが苦手になって行かないかという心配です。

これは、例えば接客業でも起こりえると思います。

例えば洋服を売る場合、
お客さんが「どうかしらね」
という場合、表情から見て気に入ったか
それはどうかねえ(だめだよね)
という表情の区別がつかないとか

ダメだという場合に相手の気持ちを考えての
(次につなげるという意識の)
行動をとれないとか。

考えて行けばキリがありません。

もう一つ、
ラインに依存しているような場合の問題点ですが
ラインの特徴は、、
前の書き込みを受けて話が続いていく
というところにあります。
頻繁に書き込みをしている場合は
前提の言葉が省略されるので
その書き込みだけを見ても
何が何やらわかないということがあります。

もしかしたら若者は
こういう話の流れの中でコミュニケーションをとることになれていて、
自分で前提を構築して話を始めることが
訓練されていない可能性があります。


高校や中学でも
IT化に対応した授業も行われているようです。
単に入力やツールの使い方だけを教えるのではなく、
弊害を予想して弊害が生まれないようにする訓練も
この先必要になっているのかもしれません。


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なぜ、普通の企業なのに、中間管理職のあなたはパワーハラスメントをしてしまうのか [労務管理・労働環境]

例によって、講演の草稿をここでつくるわけです。
誰かに読んでいただけると考えるだけで、
実力以上の力を発揮できるような気もするからです。

今回のお題は、決してブラック企業ではないはずなのに、
どうして中間管理職が部下にパワハラをするのか
どうやって防止するかにあります。

そもそもパワハラとは何かということですが、
後で理由は述べるとして、
とりあえず、
1 身体的暴力又は人格的攻撃を含む言動
2 部下を孤立させる言動(顔をつぶされる、立場を無くす)
3 その上司の言動に対して部下が解決不能に陥るもの

要約すると
攻撃、孤立、絶望を与える上司の言動です。
指導の要素が含まれていても、
上記3要素がある場合は、パワハラだと考えましょう。

パワハラの定義は目的によって異なりますが、
ここでは、部下特に新卒の健康を守るための目的とします。
加えて
上司が不意な損害賠償や懲戒を受けないために
ということも加えておきましょう。

もう少し具体的に新卒者に対するパワハラをみてみますと、
客観的に、あるいは新卒者の主観として、
仕事を教えないくせに、
できないことを叱責し、制裁が課されるということがあります。
具体的な言葉として
「社会人のくせにそんなことも分からないのか」
「1度きいたら覚えろ、俺は2度は言わない」
「なんでも人に聞こうとしないで自分で調べろ」
ということがよく言われているようです。

少なくとも新卒者は、これでは
どうすればよいかわからない。
どうやったらわかるようになるかもわからない。
「不可能を強いられている」と感じています。

こういうことが同僚の前でいわれてしまうと
強烈な孤立を感じます。

また、当然、これは自分が攻撃されていると思うわけです。
3要素そろった完全なパワハラ言動というべきだと思います。

このような言葉を出してしまう新卒者側の要素もあるようです。
中間管理職だけでなく、経営者も
今どきの若い者は、社会常識がない
10年前と比べても気転が効かなくなった
コミュニケーション能力がない
等と嘆く傾向にあるようです。

こういう傾向は実際あるかもしれませんが、
とりあえず、「若者は変わらない。変わったのは環境だ」
という仮定をたててみます。

ピラミッドに刻まれた世界最古の落書きを解読したら
「今どきの若い者は・・・」という内容だったということで、
若者とコミュニケーションをとることは
そもそも人類は苦手なようです。

また、採用試験を潜り抜けて採用されているのだから
それほどコミュニケーションに問題があるとは思えません。
さらには、若者同士はコミュニケーションをとっているようです。
実際の事例では、
部署が変わったら急にパワハラが始まったということもあるようです。

若者が変わったのではないとすれば
何がパワハラの引き金なのでしょうか。

一つは、上司に余裕がなくなったということがあるようです。
やるべきノルマが多く、期限が迫っていると、
結果を出すことだけを考えるようになります。
仕事ですから結果を出すのは常に求められているのですが、
常に、短期間に結果を出さなければならない。

本来即戦力ではない新卒採用なのに
長期的に育てるという観点を持つことができない。
そのため、自分が管轄するセクションにとって
頭数として計算できるほど成長していない場合、
ノルマを達成するためには、邪魔な存在
妨害者のように感じてしまうということがあるようです。

上司も焦っているので、
懇切丁寧な説明はくどくどしくてできない。
部下は言われた言葉はわかるけれど、
経験がないので、それに着手するまで自分が何が分からないかが分からない。
この段階で聞き返そうとすると
上司は別のことを必死にやっているので答える余裕がない。

本来こういう時は、経験者やせめて同年代と相談できれば良いのですが、
最近の職場は、同僚間の打ち合わせを禁じるようなところも出てきています。
また、上司の「あたり」が強く、
その者がターゲットになっているとおもうと
下手に助けると自分に叱責が飛んでくると思って
助けられないということが多く、
その結果、新卒者は命じられた仕事ができていない
最初の質問の前の段階で止まっているということになるようです。

あるいは、やるにはやったが、
使い物にならない代物を提出する。
言葉は埋められているが読んでも理解できない。
音声は録音されているが、良く聞こえない。

AパターンとBパターンのやり方があるのに、
Aパターンばかりをやってできないという。

これらは上司の指導が十分できていないことから
部下がセクションの妨害者となり
怒りが募ってパワハラとなるパターンです。

会社が一つのチームになれば良いのですが、
実際の人間関係は一つにチームになりにくいようです。

経営者と中間管理職のラインがあり、
そのライン上の人間は仲間関係が成立しているのですが、
そのラインからは一般従業員は外れてしまう。
そうすると、中間管理職は、
一般従業員に対して過酷な対応をしてしまう。
言われた方の立場にたって考えることができなくなるのです。

新卒社員が別ラインになってしまうのは、
中間管理職自身が身分が安定しておらず、
自分が管轄するセクションの結果次第で
有利になったり不利になったりする
そうなると自己防衛という意識が強くなり、
なんとか中間管理職自身が
経営者とのラインに乗るように強く求めてしまう。

また、部下を含めてセクションで仲間意識が強くても、
つまりセクションがラインとして成立していても
お荷物的な労働者がいると
セクション全体の足を引っ張るものということで、
その者だけがセクションの仲間から外されてしまう
その結果、その者だけが「いけにえ」になってしまう。

自分を守るため、セクションの仲間を守るため
という無意識の防衛意識が、
新卒者に対して過酷な対応をとらせてしまうわけです。

中間管理職は、
部下、特に新卒の部下について
・仲間だと思えなくなった(弱点をかばう気がない)、
・攻撃するし、感情的になる、
・不可能を強いている(新卒者の主観的に)
・新卒者が他の同僚から冷たい対応をとられることに
 喜びを感じてしまったら

自分は既にパワハラをしているかもしれないと思うべきでしょう。

そしてこの三要素がないかどうか
何が自分を焦らせているか
じっくり振り返る必要があると思います。

例えば、経営者から無理なノルマ、無理な業務指示があれば
無理だと洞察することも中間管理職の仕事です。
もちろん無理だからやらないのではなく、
やってもメリットが少ないということであれば
長期的な戦略を一部導入することです。

プロ野球で9月になって最下位に沈んで
3位に10ゲーム以上離されているのに
優勝しようと思っても仕方がないので、
新人にチャンスを与えてチームの若返りを図る
こういうことですね。

一つの方法としては、
新卒労働者に自分がつきっきりになり
懇切丁寧に仕事を教えていく。
基本はまねをさせるということ、
一つ一つのアクションの意味、狙い、目標を繰り返し刷り込む。

弱点、不十分点を徹底的に補うということです。
分からない時にはどんどん質問させる。
くだらない質問でも質問したことに肯定評価をしていく。

やる気を出させる方法は、
お金をかけないで手間をかける、心を砕く
という方法で可能ですが、
これは、また改めて。

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