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【宣伝・広告3】本日発売! 「イライラ多めの依頼者・相談者とのコミュニケーション術」(遠見書房) 心理士と弁護士の東日本大震災後の自死対策活動のコラボレーションの中から生まれた本 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


http://tomishobo.com/catalog/ca126.html

本になってみて気が付いたのですが、「はじめに」という個所(私が書いた)や「あとがき」に自死対策や自殺予防などという言葉がやたら出てきて、初めて読まれた方には訳が分からない感じがするかもしれません。

実はこの本は、実際にこういう経緯の中で生まれた本なので、裏話シリーズ第3弾として、その内訳をお話ししようと思いました。

東日本大震災から10年が経ちました。私の歳のせいでしょうか、まだ10年しかたっていないということが実感です。今年は10年目ということで津波の映像がテレビでバンバン流れたのですが、とても平気でいることはできません。かなり具合が悪くなりました。

震災直後、仙台ではこのあと自死が増えてしまうのではないかという心配の下で、様々な活動が行われました。自治体での精神保健活動や民間のワンストプ相談の立ち上げや、解決策の研究会等、様々な人たちが様々な活動を行いました。特徴的なことは、業種の垣根を越えて、研究や実践の交流を行ったり、共同での相談活動を行ったりというところでしょうか。何かもっと良いものを求めてみんなどん欲に考えていました。今はそれほどではないにしても、それでも、この人からお話を伺いたいと思えば、連絡を取ってみるということは昔よりも気軽にできるようになったような気がします。

この本の心理監修をしていただいた東北大学の若島孔文先生は、被災者の救助活動をしていた警察官や消防職員、自衛官といった人たちのカウンセリングを精力的に展開されていらっしゃったと伺っています。仙台市の自殺対策連絡協議会でも、当時先生は宮城県の臨床心理士会の副会長をされていて仙台弁護士会の担当者であった私も協議会をご一緒していました。ちょうどその頃、若島先生のお師匠様の長谷川啓三先生(東北大学名誉教授)とも偶然ボランティア活動みたいなことをご一緒する機会があり、いろいろ勉強させていただいたのですが、若島先生をご紹介いただいたという感謝しきれないできごともありました。
震災後は、出会いの機会が大変多くあったと思います。

仙台弁護士会は、震災の直前ともいうべき平成21年から自死対策プロジェクトチームを発足させ、他の弁護士会に先駆けて弁護士会として自死対策に取り組み始めました。私もメンバーですが、それまで私は過労自死の問題しか取り組んでこなかったということもあり、何をどうするのが弁護士会としての自死対策なのかが全く分かりませんでした。幸いなことに宮城県医師会のご協力を得て、シンポジウムをやったり協定を結んだりして、マスコミにも取り上げていただきました。自死問題は個人的な問題ではなく、社会的な問題だとアッピールできたと思います。
弁護士向けの自殺対策マニュアルも作成していたのですが、震災のために印刷がずれ込むということもありました。そのマニュアルの中で、自死が多いと、離婚が多い、失業率が多い、犯罪認知件数が多い、破産件数が多いという統計的な関係があることに目をつけてマニュアルの序文で発表しました。つまり、弁護士という職業は、自死のリスクの高い人と接する職業であるというようなことを主張しました。

県の心理士会も自死対策に取り組むということで、担当副会長だった若島先生にお声をかけて弁護士会と共同で対策を検討しましょうということで、東北大学に行って研究会を始めたような気がします。いつしか、県の心理士会が抜けて、先生の研究室の学者さん方に引き継がれるような形で、実践的なコラボレーションが開始されました。

弁護士の依頼者の中で、事件の問題もあって葛藤の強い、自死リスクの高い方がいらっしゃって、それでも法的問題を抱えていて、弁護士だけの対応だけでなく、カウンセラーのカウンセリングも並列的に行いながら裁判を乗り切るということが行われました。
うつ的傾向がある方が離婚調停を起こされて、ますます不安定になった事例
暴行事件の被害者の方の事例、
刑事事件の被告人、
と事件は様々ですが、やはり家族問題が多かったと記憶しています。

依頼者の許可を得て、事案の報告とカウンセリングの効果の検証などを行い、次にするべきことを検討したり、依頼者の心の状態の解説を受けたりと、極めて実践的で、心躍る時間でした。
それから、弁護士自身の精神問題についても研究は進み、弁護士が事件の中で心が折れた事例の報告などについても解説をいただき、対処方法を話し合ったりしました。

リスク者への個別対応ということを丁寧に実践的に研究していたということになりましょうか。

2018年には、若島先生の研究室が主体となり、日弁連の協力も得て、弁護士が業務で出会う自死リスクについてのアンケート調査を実施しました。弁護士は長く業務を続けるほど、依頼者の自死を経験する可能性が高くなり、多くの弁護士が依頼者の自死や自死未遂を経験しているという結果となりました。業務の分野としては、債務関係、家族関係、刑事事件が多いという結果になりました。

そうこうしているうちに、弁護士会の自死予防対策の概要が見えてきました。葛藤の高い人、自死リスクの高い人が弁護士の元を訪れることはそれほど期待できない。むしろこちらからその人たちの元に出向いて行って、弁護士という敷居を下げなければならないということが一つです。もう一つとしては、葛藤の強い人、自死リスクの高い人の、相談の機会を増やすことが必要だということで、例えば無料で弁護士が相談を聞くということであれば、話しても良いかもしれないと思うのではないかということです。自分の心理、精神の相談ということは敷居が高いけれど、その原因となっている対人関係の解決ということであれば、相談しやすいのではないかということです。東日本大震災の影響を受けて弁護士会としての予算が心もとないということであれば、各自治体の自死対策として、高葛藤の人向けの弁護士相談会をしてもらうということを考えました。

実はこれは仙台市では実施されています。純然とした法律相談ではなく、自治体の保健所の保健師さんや心理士、ケースワーカー、医師と一緒に相談を行うということで、できれば定期的な開催にするということです。
葛藤の高い人が相談に来やすい相談会の名称がポイントになるかもしれません。

さて、そうなると、どんな弁護士が担当しても良いというわけにはいきません。葛藤の強い人の葛藤をさらに高めるような回答をしていたのでは本末転倒になります。そもそも行政の方も弁護士に任せることができるだろうかと信用してもらえないのだと思います。

これに備えて、希望する弁護士に、研修をしてもらい、マニュアルも作成して(最近マニュアルがはやりのようですが、作るのは楽しいですが、活用には疑問がないわけではないのですが)、参照資料として提供しなければなりません。そうして、必要な研修を終えた弁護士を例えば「カウンセラー弁護士名簿」という名簿に登録して、自治体の相談会の担当を名簿の中から選んで派遣するというシステムが必要になります。

どうやって研修をやって、どうやって研修資料を作るかということの解決が先ず行われなければならなかったわけです。
本書が企画されたのは、こういう事情が元々はあったということです。但し、弁護士会の研修と言っても、弁護士だけで行ったのでは危険であります。そういうことで若島先生に図々しくお願いに上がったところ、本書の一般的な出版という話になり、本の内容も少し変わり本書が今日発売されるという運びになったわけです。

研修会の専用資料は別途作成しました。もう少し実務的な細かい話が具体的に盛り込まれています。服装や視線をどこに置くかとかそういうことから記載されています。当初の予定では、この本もそこまで盛り込んだ本にすることが予定されていましたが、いつの間にか誰かが原稿から落としていました。今一番有力な犯人は私で、執筆していなかったから落ちたのかもしれないということがオチのようです。おかげで一から執筆しなければなりませんでした。これも東日本大震災の被災者相談のマニュアルを作った経験が大いに役に立っています。

あまり書店には並ばないと思いますが、もし見つけたら手に取って目次だけでも見ていただければ幸いです。

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【宣伝・広告2】本日発売! 「イライラ多めの依頼者・相談者とのコミュニケーション術」(遠見書房) 家事紛争の中から生まれた一冊であるということ [家事]


本日(令和3年7月28日)私も関わった本が発売日を迎えました。
http://tomishobo.com/catalog/ca126.html
法律系の出版社の理解を得られなく、心理系の出版社である遠見書房様の英断で発売にこぎつけました。この本が出なければ、この問題がいつまでも取り残されると思うと、ご英断に感謝しきりです。せめて採算ラインまでは売り上げをもっていきたいということも、宣伝記事を載せる理由ではあります。

この本は、体裁としては、弁護士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、税理士等の、法律家向けの本ではあります。しかし、あとがきで心理学研究者の東北大学教授若島孔文先生がお書きになったとおり、対人関係を職業とする皆さんに読んでいただきたい本です。特に、行政職、福祉職、お医者さん等医療関係者の皆さんに是非読んでいただきたいと思っています。
そのプロフェッショナルの方の気持ちが軽くなるとともに、クライアントの方々が理解されることによって、必要なサービスを気持ちよく受けることができるようになるのではないかなと思うからです。

宣伝はこのくらいにして(社長様すいません)、裏話をさっそく始めたいと思います。
実は、この本は、家族問題の研究がもとになってできた本ということもいえるのです。
第1部は、弁護士の実際の事件、相談会のリアルな断片を切り出して事例を作って示して、その解決方法を考えています。この最初の事例をわかりやすく書いていただいたのは、主として大久保先生です。私にはこういう才能が乏しいということがつくづくわかりました。先生は、家族問題や女性の権利に造詣が深いということもあって、紹介している事例の多くが実は離婚事件のケースです。次いで職場のパワハラ・セクハラがあり、相続問題、金銭問題、近隣問題が取り上げられています。まあ、弁護士の相談会でよくある事例です。誰でも経験している内容といえるでしょう。この事例の紹介の仕方が一味違う。私のような偏った考え方(本来あるべき考え方だと思うのですが)の弁護士ではなく、良識的な弁護士も離婚事件については疑問を抱くことが多々あるということが紹介されています。虚偽DVの問題や、父親への親権変更の事例等きちんと取り上げてくれいます。すばらしい。
私の紹介は、このブログの別の記事をいくつか読んでいただくとわかるので、特に家事関係ですが、省略します。
心理監修の若島孔文先生は、あらゆる心理学分野の理論と実践理論をマスターされていますが、家族療法という心理療法の日本における第1人者です。世界的にも著名な先生です。家族の在り方という問題を見つめ続けていらっしゃるわけです。
そうすると、この本は、弁護士など法律家と依頼者、相談者という人間関係の断面を切り取っているのですが、その人間関係の在り方についての知見は家族の在り方についての考察を基礎としているということになると思います。

だから、この本は、接客業という職業とクライアントという体裁をとっていますが、実は、家族同士の関係にこそ応用が利く内容が書かれているのです。但し、焦点の合わない本は出版できませんので、深く読みこなさないとそのことを理解することは難しいかもしれません。特に第2部を読みこなしていただきたいなと思います。

本当は、既婚者必携「イライラ多めの家族とのコミュニケーション術」という本を作れれば良いのでしょうが、そんなオファーが本当に来るとは思えませんので、申し訳ありません。弁護士がこういうことに取り組んでいるということはなかなかピント来ていただけないと思います。でももし来たら全力を挙げて執筆します。

ちょっと要約版を作ってみますね。
<楽しい夫婦であり続けるためのちょっとした工夫
そして紛争後の夫婦再生への挑戦>

第1部 楽しい夫婦であり続けるとは
 1章 妻が夫と同じ空気を吸いたくないというまでの道のり
    離婚したいと思うまでの葛藤とは、どういう心理状態か
    離婚したいと思うのは、自分が尊重されていないと感じるから
    尊重されていないと感じる事情はどういうものがある
      「暴力、暴言、物にあたる」だけではない
       本質は別にあるので、ここを否定しても心は動かない。
    味方ではなければ敵だと感じてしまう人間の脳。安心できない存在は不快な存在
 2章 円満な関係であり続けるちょっとした工夫
    尊重は相手に伝わらないと意味が無いが、「尊重している」と言っても伝わらない。
    話を聞いてうなずくということ
    相手に任せるということ
    その他のチップス
 3章 根本的な考え方は思い出の中にある。実はあなたが変わっただけ
    デート中のレストランを思い出そう
    価値基準をどこに置くか。
     正義や論理、合理性よりも相手の感情を行動原理とすること
    家内安全という普遍的な原理を見つめ直そう。
    本当はもっと必要とされているあなたという存在。
第2部 別居後の家族再生への挑戦
 1章 子連れ別居時の妻の心理 著しい高葛藤
    蓄積された「尊重されていない」という感覚
    事実は本人も自覚していない。しかし、今の感情は真実。
    原因はあなただけではないが、あなたの対応でずいぶん変わっていたはず。誰が良い悪いでは深淵に踏み出せない。相手に期待できない場合は自分が何とかするしかないということ。
 2章 修復のために何を獲得目標にするのか。
    「加害」をしないということでは足りない。
    反省ばかりでは重苦しい。
    明るく楽しい将来の約束。その裏付け。
 3章 相手に何をどう伝えるか
   どう伝えるか
    別居はしたけれど、連絡が取れる場合
    本人には連絡が取れないけれど、間に入ってくれる人がいる場合
    間に弁護士が入った場合や離婚調停を起こされた場合
   何を伝えるか
    安心を与えるということ
    先ず生活費の支払いをこちらから申し出ることが鉄則
第3部 家族再生のための離婚調停、離婚訴訟、保護命令
 1章 離婚訴訟の現実 
    どういう場合に離婚の結論になるか、どういう事情があると離婚請求が棄却されるか。一方の離婚の意思が固い場合。
    離婚訴訟の結果を考えるべき一番の要素は子どもであるということ。
 2章 保護命令手続きの現実
    法律要件と乖離する1審手続き
    初めから相手方は不利な構造の中での戦いだということ
 3章 調停
    すべては調停で完結するべきであるということ
 
第3部は別の本だね。



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【宣伝広告】明日刊行 弁護士を依頼する人、適切な相談を受けたい人に本当は読んでいただきたい一冊 「イライラ多めの依頼者・相談者とのコミュニケーション術」(遠見書房) [進化心理学、生理学、対人関係学]

私も関わった本が明日発売されます。既にAmazonをはじめとして申し込みを受け付けているようです。(遠見書房 1800円+税)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B3%95%E5%BE%8B%E5%AE%B6%E5%BF%85%E6%90%BA%EF%BC%81%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A9%E5%A4%9A%E3%82%81%E3%81%AE%E4%BE%9D%E9%A0%BC%E8%80%85%E3%83%BB%E7%9B%B8%E8%AB%87%E8%80%85%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E8%A1%93/dp/4866161264
(ブックオフや、セブンネットなどの通販でも買えるのですね。)

表向きは、弁護士が、法律相談や依頼を受けた人の感情的な行動にどう対処するかなどというマニュアル本のようになっていて、弁護士救済のための本のように見えます。しかし、読んでいただければわかると思いますが、実際は、表題通りコミュニケーションの問題を扱った本です。
心理監修は、あらゆる心理学分野をマスターされた東北大学教授の若島孔文先生です。そのため、素人である我々も、安心して思いっきり執筆することができました。
この本の人間観をまず説明しましょう。
元々の性格に関わらず、紛争の当事者になれば、程度の違いはあるけれど誰でも心理的影響を受けてしまう。影響を受けた心理状態では、感情が勝ってしまって、十分な意思や情報の伝達ができなくなってしまう。これによって、本来味方である弁護士等に対しても、攻撃的な態度をしてしまうとか、裁判等の目的に反する行動を自らしてしまうことがある。この行動原理を理解できない弁護士の場合は、依頼者・相談者に対して恐怖や嫌悪だけを感じてしまい、十分なパフォーマンスを発揮できなくなる可能性がある。というか、見ていると実際このような事例を少なからず目にしています。

要するに紛争に巻き込まれた人は、解決の場面においても損をしているわけです。

例えば、妻からDVを原因として離婚調停を申し立てられた夫が、法律相談に行くと、離婚理由が身に覚えのないため理不尽な出来事に対して怒りに震えていて、弁護士と話をしていても、自分を疑っていて、妻の言い分を信じているように「みえて」しまいます。自分の言い分を通そうとして、言葉を選べばよいのに、さらに声を大きくしてしまったりするわけです。これは無意識に行われているのだからなかなか制御することができません。
言われている弁護士の方も生身の人間ですし、女性であったり経験が浅かったりすれば、怖いですし、嫌な気持ちになるのも同じ人間だから仕方がありません。よくあるのは、「このように感情的になる人なのだから、妻の主張のDVも本当にあったのかもしれないな。」と思うようになってしまう危険があるということです。

このような危険は枚挙にいとまがありません。せっかく判決で勝訴、敗訴どちらかわらないというところまで弁護士がもっていっても、本人尋問で感情を抑えることをせず、相手方に対する敵対感情をあらわにして、裁判官から「こういう行動をしていたからこうなったんだな」と、不利な証拠が無かったにもかかわらず印象を悪くして、さらに休廷中に自分の弁護士と大喧嘩をして、不利な心象を固めてしまったというケースもつい最近見ています。相手方のストーリーに説得力を与えてしまうということなのです。

細かいことでは、自分の弁護士が信じられなくなるという被害者の心理から、やらなければ良いこと、言わなければ良いことを弁護士に言わないで勝手にやってしまって、自分を不利な方向に追い込んでいくということは自分が担当する例でもありました。

本来、方針をしっかり打ち合わせをすれば、具体的な活動は専門家にゆだねる方がうまくいきます。しかし、葛藤が強くなるとそれができなくなります。しかも自分の今の心の状態が葛藤が強すぎる状態だということにはなかなか気が付きません。
葛藤が強すぎてしまうと、ご自分を追い込み、自分の弁護士を追い込み、そして自分の裁判を不利にもっていってしまうというのです。そして、追い込まれる弁護士というのは、私のように図々しい弁護士ではなく、真面目で責任感が強すぎるから追い込まれるのです。味方にすれば心強い弁護士を自分から手放しているわけです。これ以上の損はないと思います。

そこでこの本の出番なのです。

紛争の当事者になったら起こる人間として当たり前の心理反応について事例ごとに説明がなされており、その時弁護士はどうしたらよいのかマニュアル的に書いてあります。この本は、心理学の知見を踏まえて、ご本人の過剰な心理反応をコントロールして、コミュニケーションが可能とし、必要な情報提供が相互にできるようになるように誘導しています。
実際の本書の究極の目的は、紛争に巻き込まれて当たり前に心理的反応を起こしている当事者の方々の法的サービスを受ける権利をよりよく実現することにあります。まじめな弁護士の心理的負担も軽減できれば、まさにウインウインの関係が構築できるのではないでしょうか。

しかし、しかしですよ。
この本を切望するのは、いま言った通り、依頼者・相談者の心の状態に反応できる真面目な弁護士だけです。その中の何割が、この本を信じてお金を出すでしょうか。また、買った後読むでしょうか。弁護士も色々な経験を経てしまうと、「心が強く」なってしまって、あまり気にしなくなるとか、適当に当事者の言いなりに行動して結果に対しては責任を負わないという気持ちが心のどこかに芽生えてきているかもしれません。

要するにこの本はそれほど多くの弁護士には読まれないでしょうということです。

それならば、ご自分が今、対人関係などで不具合が生じ、紛争の当事者になって、弁護士の援助が必要だという方が読むほうが手っ取り早いというわけなのです。
この本の第1部には、弁護士が心が折れる事例を具体的に示しています。どういう行動があれば、弁護士はやる気をなくす危険があるかということを列挙しています。ご自分の心を見つめることは難しいですが、行動を思い出すことはそれほど難しくないでしょう。ご自分ではその気がないのに、結果として自分の弁護士を攻撃してしまい、心が離れていく危険な行為は、この本を読めば気が付くことができると思います。
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そして第2部には、どうしてそのような行動をしてしまうか、本来どう行動すれば人間紛争の解決に向かうのかということが、弁護士、心理士、精神科医師の立場から検討が加えられています。これを読んで弁護士から教えられるより、ご自分で読んで弁護士に教えた方が、よほど効率が良いと思います。

このような本はこれまであまりなかったと思います。特に、弁護士分野での研究や理解が少ないように感じていました。当事者の方々は理解されず、若手弁護士や女性弁護士は、葛藤が強くなると怖くなる人たちの相談を受け無くなり、依頼も断ってきたわけです。「どうすればよいか。」という発想はなく、細々と仲間内で愚痴を言い合って終わりということが多かったのではないでしょうか。同僚にはなかなか言えない悩みということで一人で抱えてメンタルを悪くしたという例も聞こえてきます。これでは、弁護士も当事者も救われません。なるべく、人と接しないで、葛藤の少ない企業の担当者とだけ打ち合わせをしたいと思うようになる傾向がありますが、それは必ずしも収入だけの問題ではないように感じています。しかし、紛争が起きると当事者の心は変化し、イライラがつのり、緊張やストレスが増加し、落ち着かなくなり、何とかしてほしいという気持ちが大きくなるということは、多かれ少なかれ誰でも起きることです。だったらそれはどういうことか、どう対応するべきなのかということを科学的に検討する必要があるはずです。
それをすることなく、真面目な弁護士のストレスの予防も、当事者の法的サービスをよりよく受ける権利も研究してこなかったというのなら、業界としての野蛮な対応、怠慢だと批判されてもやむを得ないと思います。
そのような研究もおそらくないわけではなく、私たちの不勉強である可能性も大いにあると思います。しかし、不幸なことに、そのような先行研究を知らないでこの本を出しました。まず一石を投じるという意味はあると思います。大いに批判されて、さらに改善されることがあれば望外の喜びということになるでしょう。

法律系の出版社ではなく、心理系の出版社である遠見書房様からの出版という理由は、このような人間の心のあたりまえの理解が前提として必要だったということを象徴的に物語っていると思われます。それにしても、心理学の本から一歩踏み出した本の出版を決断していただいた遠見書房様には感謝しきれません。また、若島先生をはじめとして、公認心理士であり、心理学の研究者の先生方、精神科医の先生の「善意」があって、初めて科学の視点を取り入れた内容とすることができました。つまり、それがあって初めて意味のある本にすることができたと思います。おそらく弁護士2名だけでは、書籍という形には永遠にならか無かったと思います。改めて感謝申し上げたいと思います。

この本で、1人でも多くの人たちの「肩の力が抜ける」ことに貢献できたら幸いです。

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「ホワイトフラジリティ」を勝手に解説 内なる差別を認めなければ差別を解消できない。差別解消に最も邪魔なものは、過剰な正義感と自己防衛本能。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



仕事上差別についての勉強を深める必要があり、ホワイトフラジリティ(明石書店)をはじめとして、差別というか社会心理学の本を三冊緊急購入しました。その最初の本がこれ。本書は、白人のアメリカ人の著者が、レイシズムはアメリカという社会制度に構造的に存在しており、その中で育った白人にはレイシズムの考え方は見についており、必ず存在するということを、ダイバーシティ研修などの実務的経験から述べています。
私は、レイシズムに関わらない差別についての学習という観点から、本書を読み解き、以下の点を学びました。
1 差別意識、差別的思考は、意識に上らない段階で社会制度の等の環境から生まれるものであり、誰にでもあるものである。
2 差別的行動を行わないためには、自分の差別意識、差別思考を自覚し、行動に移る前に修正するしかない。
3 そのため、内なる差別意識、差別思考を認める必要があるが、真面目な人ほど頑迷にこれを認めない。
4 内なる差別意識、差別思考を認めない理由は、二項対立的思考にもとづく過度の罪悪感、自己防衛意識である。

順に勝手に解説していきます。

1 差別意識は誰にでもある。―――人間の本能に根差すという意味

それが良いことか悪いことかという議論は少し脇に置いておきましょう。
差別意識は、緻密かつ分析的な思考の結果生まれるものではなく、反射的に感覚的な反応として生まれるということから説明を始めましょう。
社会心理学の教科書を読み直していたところで、「内集団バイアス」という概念が出てきました。人間は自分の仲間の利益を図ろうとして、そのためなら仲間以外の人間の不利益によって利益を図る傾向にあるということらしいです。また、同じ行動をとっても仲間に対しては好評価を行うという、つまりえこひいきをする傾向があるようです。その集団は、何かの必然性のある仲間ではなく、ある日ある時、誰かが勝手に配属した場合でも、自分が所属する仲間に対して起きてしまう感情、意識のようです。そして、自分の所属しない集団に対して敵対的な感情持つことも多いようです。

私は、これが、人間が持って生まれた本能的な意識傾向だと考えています。人間は、今から1万年以上前では、30人くらいの小集団を作り、小集団は全体で150人くらいの緩やかな集合体を作っていたようです。この状態が約200万年前から続いていたようです。言葉の無いころから集団を作ってきたことになります。どうやって集団を作れたのでしょうか。私は、仲間を作る感情を持っていたのだろうと考えています。逆に言うとそういう感情を持った人間たちだけが群れをつくる子ができて、子孫を作ることができたということです。どのような感情かというと、
仲間の中にいないと不安でたまらなくなる。
仲間から外されないようにしたくなる。
仲間に貢献したくなる。
仲間の中の弱い者を守りたくなる。
というような感情です。こういう感情があれば、お互いに自然に助け合って、協力して、生きていくことができると思われます。当時は生まれてから死ぬまで一つの仲間ですから、どんなに仲間と助け合っても、誰にも迷惑は掛からなかったでしょう。仲間の中では実質的平等原理が働いていたようです。当時の自然環境を考えると、これはきれいごとではなく、それで初めてギリギリ生きてこられたといういべきだろうと思われます。
ところが、現代社会では無数の人と関係を持ちますし、複数の群れに人間は所属します。家族、学校、会社、趣味の集まり、地域、国等々です。200万年前は、仲間以外の存在は、人間ではなく野獣などですからよかったのですが、現代は仲間以外にも人間がたくさんいるわけです。一つのグループをひいきすると他のグループから恨まれるということが簡単に起きてしまいます。
しかし、人間の脳は200万年前と大きさや構造がほとんど変わっていないとのことです。どうしても、自分の仲間をひいきしたくなってしまうようです。自分の仲間以外は、仲間と考える能力が弱く、他者に対する共感力、配慮も失われてしまうようです。そうして自分の仲間をひいきした結果、仲間以外の人間との軋轢が生まれてしまうわけです。結果的に差別が起きる第1の原因がここにあります。

第2の原因も脳にあります。
人間の意思決定は、何となく感覚的に決めてしまうということが、自覚しないのですが、多くあるようです。分析的に緻密に考えることもできるのですが、私たちがよく経験しているように大変疲れてしまいます。この労力を省エネするために、何となく決めてしまうのです。例えば、選挙に行くか行かないか、行くとしてだれに投票するか、あるいは対立している人間関係から遠ざかるか、巻き込まれるか、巻き込まれた場合どちらに味方するか。例えば就職や結婚相手に関しても、分析的に緻密に考えるというより、運命などという言葉を使って勢いに任せて決めてしまうということがあると思います。特に、言葉に弱いという特徴があるようです。例えば「DV」という言葉を聞けば、具体的事情も知らないのに奥さんに同情をしたりし始めています。「虐待」という言葉を聞けば、子どもを守るべく親を制裁しなければならないと感じ始めてしまいます。「いじめ」と聞けば、やはり加害者を制裁しようという意識が出てきたりします。具体的にどのような行為があったのか、それはどういう背景で起きたことなのか、誰にどのような責任があるか等ということはあまり考えません。報道の範囲での情報だけで、加害者と思われる人間やその家族などへのネット攻撃が始まります。
仲間と仲間以外を瞬時に、何となく決めてしまって、仲間に対しては優遇し、仲間以外に対しては不利益も仕方ないと思うし、攻撃的気持ちまで出てくる。仲間以外は敵だという感覚にいつの間にかなってしまう。
差別なんて簡単に生まれてしまいます。

だから、肌の色は目で見てわかることですから、うっかり、自分と同じ肌の色の人間は仲間だと決めてしまったり、違う色の人間は仲間ではないと感じてしまったりすることは、よくあることなのです。

本書ホワイトフラジリティでは、レイシズムを取り上げていますので、社会構造が白人の支配を前提に作られてきたため、この構造によって白人はレイシズムを生まれたときから染みつけられているという言い方をしています。

2 差別意識を認めることが差別解消の必要条件

それでは差別は無くならないのか。差別をなくするためには人間の集団を150人に制限しなくてはならないのか。そんなことを考える必要はありません。
最近のトレンドの考え方は、例えば行動経済学もそうなのですが、人間は失敗をするということを当たり前に認める、自覚するということを前提に、どういう場面でどういう失敗をするかということを予め知っていれば、その場面で必要な対処をあらかじめ想定できるので、そうやって誤りを未然に防ぐという方法が提案されています。
これを差別問題でもやればよいということになります。

そのためには、自分は差別をする人間であるということを認めなければなりません。どんな時にどういう差別をするかというレクチャーを受ければ、それほど分析的に緻密に考えなくても、差別という失敗を回避することができます。
しかしながら、自分が差別をしない人間だということで頑張ってしまうと、せっかく対処の方法があったとしても聞く耳すら持たないので、対処ができません。みすみす差別行為をしてしまい、相手を傷つけてしまう。殺伐とした社会にしてしまうということになってしまいます。
どういうことで差別的意識を認めないのでしょうか。

3 差別的意識を認めない理由としての二項対立的発想からの過度の罪悪感

内なるレイシズムを認めない人のタイプは、真面目な人、リベラルな人、道徳的な人、宗教的な人と言った人が多いようです。そしてこの世のすべての行動は善と悪で区別されているという二項対立的な価値観を持っていることが多いようです。このため、自分が差別的意識を持っているということを認めてしまうことは、自分が忌み嫌っているはずの差別主義者という悪の烙印を押されてしまうという強烈な不安というか拒否反応を起こすようです。
そこには、差別という意識は、悪の人格、不道徳な人格によって生まれる許されないことだという思い込みがあるようです。

これは日本においても同じようなことを見ます。差別に対する裁判で、差別をしたと主張された方は、それは差別ではないと差別を訴えた相手の主張を否定します。自分には悪意はない。それが相手を傷つけるとは知らなかった。業務の必要性という理由のある言動だ。例えば障害者差別の裁判では、私は「障害者」という言葉も使ったことがないと本当に言っているのです。このような主張を見ると、ああ、この人はまた同じことをするなと思ってしまいますし、このような主張してくる団体は信じられないなと思ってしまいます。差別行為を解消しようとする意思も、合理的配慮をしようとする意思も感じられません。明確に方向が間違っています。

それが差別か否かは、差別行動をした人の主観はあまり関係がありません。差別行動を受けた方の立場に立って考えられなければならないことです。

1つ解決のヒントがここにあるのではないかと考えています。それは、差別意識、差別的思考というその人の内面の部分と、差別的行動、言動という相手に伝わる部分を切り分けるということです。あくまでも伝わった相手の問題なので、このように切り分けることができるでしょう。どんなに差別主義者であったとしても、例えば取引上、取引規則に従って公平公正に取引を行い、相手に不利益を与えなければ、とりあえず相手は傷つかないし損もしません。ここが大切です。もちろん差別的感情は生まれないに越したことがありませんが、優先順位は相手に伝わる行動、言動に置くべきなのです。そして、行動、言動を修正していきながら、そこから逆に差別意識、差別的思考を修正していくということが最も合理的な方法だと思います。

4 差別意識を認めない理由としての自己防衛意識

真面目な人、リベラルな人、道徳的な人、宗教的な人が自分の差別意識を認めない理由として、自己防衛意識が強すぎるということを本書では指摘していて、差別をなくすためには自己防衛意識を弱めるということも一つの方法だということを提案しています。
結論はその通りだと思うのですが、解説が必要だと思います。
元々差別は、人間が群れをつくる本能があって、群れの中にいたい、群れから尊重されたいという意識が高まって、勢い、自分の仲間を優遇してしまう結果として自分の仲間ではないと感じた相手に不利益を与えたり、低評価をしたり、攻撃をするという側面があります。自分を守ろう、群れにとどまろうという意識が強い人は差別になじみやすくなります。こういう意識が強くなる時は、自分が群れから尊重されていない、仲間から低評価を受けている等の危機感がある場合が多いです。自分を守ろうという意識が強くなればなるほど、他者への配慮が欠けていくという関係になるようです。
これは自分の仲間全体が攻撃を受けるときも同じです。自分の仲間集団を守ろうとする意識が強すぎて、仲間を攻撃する人や仲間以外の人に、組織の論理で攻撃しようとしてしまいます。自ら敵を作っていくということになります。
自分の内なる差別意識を認めようとしない理由も、これを認めてしまったら仲間から低評価を受けてしまうという意識が反映しているのではないでしょうか。自分が仲間から認められるために、真面目でなければならない、リベラルでなければならない、道徳的、宗教的に敬虔でなくてはならないという意識が強まっているわけです。
このような状態のとき、人は色々な誤った行動を起こしてしまい、ますます人間関係を悪化させてしまうことが多くあります。考えてみれば、差別を理由に訴えられた人はこのような状態にあるのだから、ますます自分の差別行動を認めたくないことは当然かもしれません。

それにしても、自分を大切にしすぎないということは、私も家族問題で提案したことがありますが、なかなかその意味を伝えることは難しいし、賛同を得られにくいと感じました。本当は相手を差別しないことによって、人を傷つけないこと、それが自分を本当に大切にすることなのです。

自分を大切にしないという提案よりは、意識や何となくの思考は、反射的な反応だからあまり気にしないと割り切ることが実践的ではないでしょうか。要するに影が動いたことにおびえて後ずさりしたら自分の影だったみたいなもので、間違いが起きることは仕方がないという割り切りですね。そして先ほど言ったように、実践的な修正を積み重ねていったところに高潔な思考、感じ方が約束される・・・かもしれないということですね。まあ、こういう考え方自体が著者によるところの自分を大切にしすぎないということかもしれません。

補論 差別を受ける側の危険性

ホワイトフラジリティは、白人側の説明ですから、差別を受ける側の心理、その危険性については、また別の人が記載すればよいのですが、差別を行う人間の心理が、そのまま差別被害の心理、危険性を説明しているので補論を述べます。

差別をするのは、人間が、仲間の中にいたいという本能的な要求に根差していると言いました。仲間から外されることに不安を感じてしまい、何とか仲間に貢献することによって仲間にとどまりたいという感情を持ち、反応をしてしまうということを述べました。
差別というのは、仲間から外される、仲間から低評価を受けるという人間の不安を掻き立てられる最たるものです。そんな奴初めから仲間じゃないと思えればそれほどダメージはないのですが、人間は他の人間に無条件に仲間として認められたいと感じやすい動物のようです。なんといっても人間の脳は200万年前から発展していませんから、仲間でもないのに野獣以外の動物である人間を、うっかり仲間であると感じてしまう傾向があるのです。だから社会の中で差別行為を受ければ、自然と「仲間から外される」という危機感を強く持ってしまいます。そしてその原因が、自分ではどうしようもないこと、努力しても修正できないことであれば、絶望感を抱くこともあります。差別行為を受けることによって極めて危険な心理的影響を受けてしまいかねないということを述べておきたいと思います。また、差別は、自分の不安を解消するために相手により大きな不安を与えることだという構造を持っていることも付言したいと思います。

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母親がわが子と引き離されて会えなくさせられる口実 月経前症候群(PMS) 月経困難症 先ずは理解を広めることと、対処の方法をまじめに検討すること [家事]


父親がわが子と引き離されて、わが子と会えないし、どこにいるかもわからないという状態になる場合、父親の母親に対する「DV」が口実にされます。しかし、離婚調停や離婚裁判の中で、「DV」の具体的な中身が主張されることは少なく、主張されたとしても、客観的な資料と矛盾したり、離婚理由になるほどの行為が無かったりということが多いということが実感です。

最近では若者の間でも女性が男性に対する身体的暴力をふるうことを見聞するのですが、母親が子どもから引き離される口実として使われるのは、DVではありません。以下のような母親の精神状態を口実にされることがほとんどです。
・統合失調症や妄想性障害
・パーソナリティ障害(境界型)
・発達障害
・うつ病ないし不安障害

それにしてもうつ病や不安障害の症状を呈している母親から子どもを奪ったらますます悪化するだろうに、容赦なく子どもを引き離します。

そして、実際にそれらの病気にかかっているのかといえば、そうではありません。実際に引き離される原因となっているのは俗にいうヒステリーであり、その原因は月経前症候群ないし月経困難症の月経随伴症状です。併発している事例もありました。特に月経前症候群は、のぼせ、過腹部膨満感、下腹部痛、便秘、嘔気、嘔吐、腰痛、頭重感、乳房痛、めまい、動悸、発汗、肩こりなどの身体症状に加えて、いらいら、怒りっぽくなる、頭痛、落ち着かない、憂うつ、抑うつ、集中力の低下、不眠などの精神症状とも思われる症状が出ることがあります。月経随伴症状は結構ポピュラーな疾患で、ある統計では成人女性の40%以上が月経痛を経験していると報告されていました。
しかし、逆に言うと半数以上の人にそれらの症状がない、あるいは自覚されていないということになります。ヒステリーや精神症状類似の症状は、実際は危険がないことが通常ですが、不快であったり、困惑することもあったりします。自分の母親や姉や妹が月経随伴症の精神症状類似の症状があった場合は、「ああ、いつものね。」と頭を低くしてやり過ごすこともできるのですが、そのような体験もなく、結婚して初めて至近距離で体験した場合は、絶望的な気持ちになる夫も出てきます。夫の方が精神的に参ってしまったという相談もありました。

 法律家の責任論的な発想からすると、これらの症状が出ることは、女性の責任ではないので、非難するべきではないということになるのですが、夫の感じ方については何とも難しい問題です。ここで問題なのは、夫婦が夫の母親と同居している場合です。夫の母親がこのような症状を知らないということはないと思うのですが、自分の随伴症状が軽微な場合、随伴症状が重い人を、単にわきまえない人、我慢ができない人、失礼な人と感じるようです。また、以前から息子の結婚に反対していて、息子の妻を気に入らなく思っていたり、孫を自分が独占したいというよこしまな考えを持っていたりする場合は、追い出す格好の口実にするということもあるようです。私が最初に子どもと引き離された親の代理人になったのがまさにこのケースです。当時はまだ、これらの随伴症状が正式な病名になり始めたころの時代の事件でした。女性自身もヒステリー症状になることをものすごく気にしていらっしゃいました。どうして自分だけこういう症状になるのだろうと思い、子どもを引き離されてから必死に勉強して私に教えてくれました。裁判では勝ちましたが、色々な事情があって、このお母さんは子どもをあきらめました。その代わり、自分のケースを世の中に広めてほしいと言われていました。何度かこのブログでも取り上げてきましたが、まだまだ十分ではないと思います。

 自分が代理人として担当した事件だけでなく、別の弁護士(女性)に依頼しているが悔しい気持ちを分かってくれないという相談もありました。精神科医が、月経随伴症を見落として、簡単に精神病の診断をしてしまうということがあるようで、自分の代理人も自分が精神病だと思っているというのです。その精神病のリストが上記の病名です。
 本来、身体的な原因がありそれに伴う精神症状であれば、上記の診断名はつかないはずです。先ず身体に原因が無いということを診断して初めて、上記の診断名となるのではないでしょうか。実際にカルテを見ると、月経随伴症状が主訴として繰り返し述べられているし、出現時期が月経の前後という時期的な特徴があるのに、月経困難症や月経前症候群という診断は行わず、精神病の病名が診断されているのです。中には深刻な事件もありますから、不本意ではありますが、私のいつもお願いしている精神科の先生に診断をしてもらい、精神疾患排除の診断と、精神疾患の診断書に根拠がないことの意見書をいただいて裁判所に提出することがあります。通常医師は他の医師を批判しませんが、あまりにも目に余る診断だったのでご批判いただいたということなのでしょう。内科の知識のある精神科医を受診するべきですし、女性であれば婦人科の知識のある精神科を受診しなければとんでもないことになるということがよくわかりました。
 お医者さんを批判することは本意ではないのですが、婦人科のお医者さんは、なかなか精神的なフォローをしてくれません。このような精神状態になることがあるけれど、それはあなたに異常があるからではなく、時期的な問題だから必要以上に悩まないこと、症状が強い場合に備えて改善のための方法、投薬などを処方していただければ、女性も対処があるだろうし、家族にも説明できるはずで、無用な軋轢も起きないと思うのです。家族の受け止め方を工夫すれば、症状を持った女性も安心して症状が出にくくなったり軽くなったりするのではないかとも思うのですが、そのような文献はなかなか見つかりません。これは女性だけの問題ではなく、家族の問題です。このブログでも以前甲状腺の問題でも同じようなことを言いました。臓器の疾患に対する問題は対処してくださるのですが、その身体状態から派生する精神症状や家族の問題についての認識や対処の方法についての研究が薄いのではないかということを、離婚問題や子の連れ去り問題を担当すると痛感するのです。医師に限らず、誰かがそれをするべきだと思います。それがなされていないために壊れる家族も多いのではないかと感じているわけです。

この問題は、夫が排除されるDV口実の連れ去りの構造と極めて似ているところがあります。夫のDVの場合も、具体的にどんなことがあったかわからないのにDVという言葉が出たとたん、夫は人格を否定され、市民としての扱いをうけなくなり、連れ去りが正当化されてしまいます。連れ去りを正当化する多くの事情を語らず、DVという言葉が一つあれば、あとはスムーズに連れ去ることができるのです。
妻の精神疾患もこの点は全く同じです。パーソナリティ障害、発達障害、うつ、あるいは統合失調症でさえも程度や症状は人によって全く違います。しかし、ひとたび病名が付けば、あとは妻は母親であることを尊重されず、全く無慈悲に子どもと遮断されてしまいます。遮断が正当化されてしまうのです。具体的な問題は特に論じられないということが多いと思います。
親から子どもを引き離すということに、あまりにも寛容に扱われているのではないでしょうか。これはDV連れ去りという行為が行政などに受け入れられていることと無関係ではないと思います。行政が親から子どもを引き離すことにいつしか鈍感になってしまったのだと思います。
どうして女性の権利を主張する方々は、本件の問題に何も言わないのでしょうか。しかし、おそらく言っていらっしゃると思います。だって、この問題は女性であるがゆえに攻撃されるのですから、女性に対する攻撃又は差別の問題だからです。有益な情報に接したく熱望いたします。

もう一つ観点は違うのですが、言っておきたいことがあります。
それは、生理休暇の問題です。昔は労働基準法に生理休暇という項目の規定があったのです。ところが過度な女性保護は、女性の職場での出世の妨げになるということで、雇用機会均等法の成立とセットで労基法が改正されて、条文上の文言は変わらないけれど、生理休暇という項目が無くなり、その時々の個別の生理日の就業が著しく困難な場合の休暇となりました。労働基準法制定時は、月経前症候群とか月経困難症という病名はなかったものの、月経に随伴する症状は認識されていたわけですから、単に処理の問題だけでなく、様々な身体的精神的困難な状況が多くの女性に見られることから生理休暇を認めたのだと思います。働き方改革ということもありますので、もう少し緩やかな運用で、本当に必要な女性が堂々と休暇をとれる制度を要求する動きがあっても良いのではないかと感じます。少子化対策にもなると思うのです。この点についても、女性の権利を主張している方々が有益な資料に基づいたご主張を展開されていると思われますので、ぜひ情報に接したいと思います。



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【家族擁護主義宣言】 現代日本の社会病理の理由と人間を守る家族というシステム [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 現代日本の社会病理
  <攻撃、不安、不寛容、緊張、一時しのぎ>
  現代日本を特徴づけている、いじめ、虐待、パワハラ、DV、子の連れ去り、ネットいじめ、セクハラ等各種の社会病理がなぜ起こるのかということの検討をします。まず結論です。
  理由の1つは、攻撃者が、攻撃とは関係のない不安を抱えているということ、そしてその不安を一時的にも感じなくするために誰かを怒りをもって攻撃するということです。
  理由の2つは、攻撃者は反撃を受ける心配が少ないという事情があるということです。その事情としては、攻撃者が自分が誰であるかを明かさない攻撃手段を持っていることや、被害者に反撃をすることができにくい事情があること、あるいは、「世間的に」被害者が攻撃を受けても仕方が無いという評価を受けていることです。

2 怒り攻撃と不安
  怒りをもって攻撃をすると不安を感じにくくなるメカニズムは実に簡単です。
  人間は同時に違った感情を持つことができないということです。一方で不安を感じていながら、同時に怒りを持つということは苦手です。一度に一つの感情を持つしかできないのです。
  だから、進学の不安、リストラの不安、収入の不安が慢性的にあったとしても、誰かを攻撃しているときは、この不安が一時的に感じにくくなるわけです。不安が慢性的に持続すれば持続するほど、何とか不安から解放されたいという要求も強くなります。誰かを攻撃することで、一時的にも不安を感じにくくなることは、一時の清涼剤になります。これを覚えてしまうと、麻薬のように、一時の解放を求めたくなり、誰かを攻撃したくなるという心理的変化が起きるようです。

3 怒りは弱い者に向かう
  例えば、会社で上司からパワハラを受けても、上司に対して怒りをもって攻撃するということは現実には難しいです。パワハラを受けて感じる不安には、このままいけば解雇されるのではないかという不安が伴っているわけですから、上司を攻撃すれば解雇されるだろうということは単純に考えてもわかりますので実際にはできません。この不安解消のための怒りは、自分の部下、家族、劣位の取引相手、サービス業の従業員、社会的な少数者、孤立者等に向かうのはこういう仕組みです。もっとも、何らかの怒る事情はあります。しかし、不安が無ければ、何も感じないような相手の些細なミスや不十分な能力等口実を作って怒りを爆発させます。ただ、弱い者に怒りが向かうということには例外があって、仲間を守るために怒る場合は、相手に勝てるか否かという基準は無くなります。不安が慢性的に持続すると、怒る口実と怒る相手を探しているような感じになるわけです。

4 つまり自分が反撃されない状態を作り安心して攻撃する
  弱い相手に八つ当たりをする理由は、自分が反撃されて痛まないためです。そうすると、先に述べた人間感情の優位を利用する場合があるのはわかりやすいと思います。また、攻撃はするけれども、自分が誰かを明かさない形で攻撃すれば反撃を受けにくいということになります。ネット炎上は匿名性を武器にして行われているわけです。
  また、相手を孤立させて攻撃するという方法がとられます。いじめという行動はこの典型的な場面でしょう。多数対少数であれば、反撃を受ける心配はありません。差別も突き詰めればこの仕組みだと考えています。

5 社会が「弱者」を作り出す 怒りの口実
  怒りを向ける口実というのはどうしても必要なようです。人間は口実がなければ怒りを感じることができないようです。家族や部下などは些細な口実で怒りを向けます。例えば、何らかのミスをしたとか、些細な道徳違反、例えば仕事中にスマホが鳴ったこととか、勉強をしないで眠ってしまったとか、忘れ物をしたとか一応の口実はあるようです。これも、八つ当たりをする人間だけでなく、社会全体が厳しくなればなるほど、怒りの対象の口実にもなりますし、怒りの程度も大きくすることができるようになります。例えば、昔ならば、勤務中のちょっとした息抜きで前日の野球の結果等を言い合ったりすることがそれほど不道徳とは思われていませんでしたが、最近は勤務中の私語は禁止されるようになっていますから、スマートフォンを私用で見るなんてことは、着信履歴だけでも怒りを向ける口実になるようです。
  これに対してネット炎上等の場合は、見ず知らずの相手ですから、本来何もその人が攻撃する理由はないはずです。しかし、例えば不倫、例えばDV、虐待、いじめなど、その言葉に対して過敏に反応して攻撃の材料、怒りの口実となるようです。特徴的なことは、実際に何があったかわからないということです。何があったかわからないけれど、DVがあったという以上は、過激な攻撃があったと決めつけ、子どもが泣き叫んでいたら虐待と決めつけて、正義の鉄槌を下すわけです。「DV」「虐待」「いじめ」という言葉が出てしまうと、正義を口実に、何があったかわからないにもかかわらず、攻撃してよいのだという意識をもつようです。この場合、正義は口実に過ぎないと思います。正義は、人間を、敵と決めつけても良いのだないし攻撃をしてもよいのだと思わせる闘いのための口実として機能しているのです。
  多数を形成して相手を孤立させる場合も、この正義がしばしば使われることを目撃しています。部活をさぼる生徒は攻撃しても良い、受験をしないから勉強をしない子どもは攻撃しても良い、1人だけ財産があるとか、才能があるとか、美貌があるとかいう子は他人を馬鹿にしているはずだから攻撃しても良いなどのいじめの口実が、正義と結びついて怒りの口実を正当化していることを目にすることがありました。
  国籍差別では差別者は少数者ですが、差別者のコミュニティーでは多数派になります。攻撃や怒りが相乗効果で生まれますし、何らかの「正義」が導入され、ヘイトスピーチが生まれているのではないでしょうか。

6 執拗に繰り返される怒りの行動の構造
  怒りは、怒っているときだ、他者を攻撃しているときだけ不安を感じにくくするだけなので、怒りが収まったり、行動が収まったり、一時的な多数派が解散したときは、また不安がぶり返してくるわけです。不安の根源が無くならない限りは不安は消えません。
  不安を感じにくくしたいという要求もまた、その都度生まれます。一時的に不安から解放された快感は記憶に残ります。そして正義の口実も記憶に残ります。自分の怒りの行動を反省する契機はあまり存在しないという事情もあります。不安を感じなくするために何度も怒りの行動に逃げていく傾向にある理由はわかりやすいと思います。いじめも差別もパワハラ、虐待も執拗に繰り返されることになるでしょう。怒り依存とでもいうような状態かもしれません。

7 不安とは何か
  それでは元々あった不安とは何でしょう。
  これは、人それぞれ不安の原因は違うのではないかと仮説を立てることは容易です。職場の問題、学校の問題、家族の問題、その他の人間関係の問題、あるいは健康面での問題もありますし、不安を生み出す病気にかかっていたり、薬の副作用で不安がうまれたりすることもあるでしょう。
しかし、これだけ他者への攻撃行動、怒りの感情が社会にありふれているということは、人の個性を超えた何らかの共通する要因があるのではないかと考えるべきではないかと思うのです。社会に存在する不安を起こさせる共通の原因があるのではないかと考えるのです。
  不安を感じるとは、自分に対する危険が迫っていることの心理状態であり、生理的変化も起きています。この危険の典型は身体生命の危険です。しかし、身体生命の危険が、最近著しく増加したと考えることは難しいのではないでしょうか。今回は他に探してみます。不安症という精神疾患も考えるべきですが、これは理由なく増大したというよりも、社会的要因が先行して不安症にかかりやすくなっているという関係にあると仮定して、これも検討から外します。そうすると、不安とは、自分が属している人間関係から排除されるのではないかという対人関係的な不安が増大したのではないかと仮定してみます。自分が属している人間関係とは、社会、職場、学校、家族。趣味のサークル、ママ友等々のなどの人間関係を念頭に置いています。ここから排除されるのではないかという予期不安を排除の予期不安とこれから省略して述べていきます。現代日本の他者に対する攻撃、怒りの感情が増大したのは、このような排除の予期不安を感じやすい社会の在り方に原因があるのではないかという考えです。<対人関係的不安仮説>

8 排除の予期不安の由来
  排除の予期不安というシステムも、人が生きていくために進化の過程で獲得したシステムだと私は考えています。
人間は、文明成立以前は特に、群れを形成しなければ自分を守ることも食料を獲得することもできず、絶滅するようなひ弱な生き物でした。生き延びるためには群れをつくらなければならない。しかし、文明成立以前に言葉もない時代ですから、現代のような法律や道徳を作ることはできなかったでしょう。しかし、排除の予期不安を感じるという遺伝子上の仕組みがあれば、言葉が無くても群れをつくることは可能だったと思います。
自分が排除されそうになったときに不安を感じれば、不安を回避しようとする行動を起こすことができます。何とか群れにとどまるように仲間に行動で示すことができたわけです。自分だけが食料を確保して仲間に平等に渡さなければ、仲間から白い目で見られたり、攻撃を受けたりするわけです。そうすると、今この食べ物を食べられなくなるという不安と、仲間から排除されるかもしれないという不安と両方を天秤にかけるわけです。これは無意識に行われたのでしょう。どちらかというと排除の不安の方が、より行動原理となったとすれば、自分の本来の分け前を残して、あとは仲間に提供するという行動ができるわけです。排除の予期不安を感じるためには、他者の心理の洞察や将来的因果関係等をある程度理解しなければならないことになるのではないでしょうか。
実際は、自分だけ多くの食料を獲得した後に行動を修正するというよりも、自分だけズルいことをして食料を確保してしまうと、排除されることになるので、予めそれをしないという形で機能していた方が多いのだろうと想像しています。

9 排除の予期不安が起きるとき
排除の予期不安とは、このように将来の排除を予感させることで不安が生じるということです。実際に排除されたら仕方が無いと開き直ることもできるし、そうするしかありません。おそらく、不安が強まるのは、現実に排除を言い渡されるよりも、排除を言い渡されるような事情に直面したときだろうと思われます。
このような将来の排除を予感させる事情としては、仲間でいる資格が無いと仲間から低評価を受けることです。低評価がなされるきっかけとしては、自分の失敗、自分は特定の能力上の弱点、何らかの不十分な行動があったことが考えられます。「失敗して仲間に申し訳がない。」、「仲間の役に立たない自分が辛い。」という自分の行動に対して仲間の低評価を予想してしまう場合と、自分の失敗などのあるなしにかかわらず、仲間の自分に向けた感情、攻撃など仲間の自分に対する反応から低評価を受けていると感じる場合と二通りあると思います。
こうやって人間は、身体生命上の危険が無くても、自分が失敗することを恐れ、能力の向上に努め、十分な行動をしようと心がけますし、仲間を無駄に攻撃して怒らせないようにしたり、仲間の役に立とうと頑張ったりするわけです。すべては仲間としての低評価を受けないための行動原理だとまとめることができるのではないでしょうか。もっともそれはあまりにもプラグマティックな表現です。観点と表現を変えると、仲間に寛容になったり、仲間の役に立ったりすることに喜びを感じていたと表現することもできると思います。

10 不寛容の常態化と低評価の横行
人間は、仲間からの低評価によって不安を抱きやすいという特質があるにもかかわらず、現代社会の様々な人間関係において、低評価が横行しているように思われます。まず、個人の失敗、弱点、不十分点に対しては極めて不寛容です。人の個性を否定して、会社は画一的に確実な業務の遂行を望みますし、学校や家庭は学業の到達に大きな価値を子どもたちに押し付けてきます。ちょっとした失敗でも致命的なものとなり、一生涯影響を受け続けるということが多いような気がします。ちょっとした失敗で、進学をあきらめざるを得なくなったり、安定した生活を送れる企業に入れなかったりするわけです。安定した企業に入るためには、ちょっとの失敗も許されないという言い方も可能でしょう。企業に入っても、毎年一度ないし数度、人事評価の対象となり、そこで最低ランクを続けるとやがて企業から排除される危険が高まります。しかも一定割合の人間が確実に評価される仕組みになっていれば、自分の評価が最低ランクとされるのを免れるために、自分より劣るものが劣っているというアッピールをする必要もあるでしょう。安心して仕事をすることができず、評価されやすい行動ばかりを行うことも自然なのかもしれません。毎日が闘いともなれば、自分も敗れるリスクがあります。自分を評価する上司の言動は特別な意味を持つことになり、過剰に反応していくことになるでしょう。こういうぎりぎりの精神状態を押し付けられてしまうと、人間は確かなものにすがりたくなるようです。合理性の追求、正義の厳守等ルール化が厳格に守られることによって自分を守ろうとするわけです。
そして、このような社会に子どもたちを対応させるために、子どもの時間のほとんどを勉強や、推奨される遊びに費やさそうとするわけです。子どものわがままを聞いていたら子どもが脱落してしまうと思えば、子どもに対して寛容な態度はなかなかできなくなるでしょう。また、不合理なことや些細な正義違反に対しても、過敏になっていますから、不寛容になるのだと思います。
これらの事情が現代社会の特徴を形成しているのではないかと思います。多少の失敗、多少の弱点、多少の不十分点は人間である以上必ずあるものです。また、人間が画一的な能力、性格を持たず、様々な人間がいたために、社会は守られてきたと私は考えています。ところが現代社会の人間関係は人間である以上当然にあるところの、失敗、弱点、不十分点を見逃さず、それらを厳しく指摘して低評価を行い、不利益を課し、利益を奪おうとしているように感じます。だから、多くの人が、その仲間、自分が所属したい人間関係から自己に対する低評価を理由として追放される危険を現実のものとして認識し続けることが蔓延しているわけです。そうすると、ほとんどの人間が慢性的に何らかの排除の予期不安を慢性的に抱えていることになるのではないでしょうか。仲間の役に立ちたいという人間の本能は前面に出てこずに、低評価を避けたいということが最優先の行動原理になるということなのだと思います。
こうやってつくられた慢性的不安、排除の予期不安は、社会構造がそのようにつくられていますから、合理的な解決方法がなかなか見つかりません。逃げ場を失った不安は、自分より弱い者を探し、怒りの口実を探し、怒りの方法を探し続けることになります。攻撃は頻繁に繰り返され、攻撃の程度は強くなる傾向にあり、陰湿になっていくわけです。
これが、先に上げた社会病理が蔓延している根本的な原因だと思います。

第2部 現代の社会病理発生の根本理由
  <人間の能力と社会という環境のミスマッチ>
11 能力と環境のミスマッチ
昭和、平成、令和と3時代の労働現場、学校現場などを見ていると、その変化は不寛容と他者に対する低評価が増大したのではないかという感想を持つわけです。本来もう少し社会分析をするべきところですが、私はもう少し原理的観点から、「人間の脳と人間関係という環境のミスマッチ」という視点でアプローチをしてみます。このミスマッチが現代日本で増幅されるようになったという事情があれば、社会的分析にも貢献するはずです。
  人間の能力と人間関係という環境のミスマッチとは、人間の脳は、現代の社会環境に適合してはいないということです。人間の脳が形成された時の社会環境には適合していたが、その後の社会の変化によって現代社会に適合しなくなってしまったということです。

12 人間の脳が適応していたころの社会
  人の脳が形成されたのは、人類がチンパンジーの祖先と別れた約700万年前から始まり、人間が分化しきった200万年前ころだとされています。頭蓋骨から推測できる脳の容量に変化がないため、その後はほとんど脳は進化していないだろうとされています。人間の脳は、その200万年前から文明が成立する以前の社会環境に脳は適合していたことになります。その時代は、狩猟採取時代といい、今からおよそ1万年前まで続いていたとされています。つまり農業が営まれるようになるまでということです。現在まで人類が生き残った理由は、脳が200万年前頃から1万年前ころまでの人間の住んできた環境に適合してきたからだということになります。
ところで、その狩猟採取時代の環境とはどういうものかということですが、人間は狩猟採集を基本として生活し、約30人の小さな群れをつくり、その群れが数個集まって大きな群れをつくり、その対人関係がほぼすべてという生活をしていたらしいです。大きな群れと言ってもせいぜい200人弱、150名程度ではないかということが、霊長類の大脳皮質の研究から算出されています。生まれてから死ぬまで、原則としてその高々200人の群れだけで生活していたということになります。
  狩猟採集時代の人の群れは、頭数(あたまかず)が減ってしまうと途端に弱くなります。食料を獲得する場面では、多人数で小動物を取り囲んでどこまでも追い詰めていくという狩りの方法をとっていたため、頭数が減ってしまうと獲物の獲得可能性が低下してしまうという不具合があったようです。また、肉食獣などの外敵からの攻撃に対しては、反撃する頭数と仲間を守る勇気だけで対抗していたわけですから(袋叩き反撃仮説)、群れの頭数が減ってしまうと途端に弱くなります。一定程度以下の人数になってしまうと、その群れは食糧もなかなか取れないし、外敵に襲われるとほぼ確実に一定数死んでしまうわけですから、頭数が減少していって消滅していくしかなかったのです。
頭数を減らさないための最も効率よい考え方は、自分が群れにとどまろうとするということと、「群れの中の弱い者を守る」という行動パターンです。今でも、サークル勧誘などで見られるむやみやたらに仲間を大きくしようとする行動や、小さくて弱い者は「かわいい」と感じて、守りたくなる意識を持ってしまうことはどなたも経験があると思います。いまだにその遺伝子は継承されているのだと思います。
  また、生まれてから死ぬまで、仲間は顔見知りという環境でした。仲間という意識が生まれ、1人の仲間をすべての仲間で守ろうとしていたシステムを作動させるツールになったのが、個体識別により仲間だと認識する能力と中に対して「共感」するという能力です。いつも一緒にいる仲間ですから表情から仲間の感情がはっきりわかります。仲間が悲しい表情をすると自分も悲しくなり、何とか明るい気持ちにさせたいと自然に思ったでしょう。失敗や能力の未発達は、その仲間の個性であると自然と受け止めますから、失敗や能力を理由として叱責するという発想すらなかったでしょう。すべてにおいて寛容であり、すべてを受容していたはずです。そうではないと群れが維持できず、人間が滅びているはずだからです。誰かを排除するということは、おそらくめったにはなかったものと思われます。排除しようという発想すること自体がなかったのではないでしょうか。仲間は生まれてから死ぬまで一緒に生活するものということが自然の意識だったと思います。現代社会の我々からすると、200万年前の仲間の中では他人と自分の区別がそれほど明確ではなかったと考えるべきかもしれません。
  文明の無い時代ですから、1人でいると人間は恐怖を感じたでしょう。少人数の場合でも危険を意識せざるを得なかったと思います。群れは狩猟組と子育てや食物採取をする留守番組と二手に分かれて行動したとされています(狩猟採集時代)。狩猟組が外敵等の危険と闘っている時は獲物をとるため必然的に外敵の危険が高まっています。また狩猟組が留守で採取組が留守番をしているときも、守り手が少なくなるわけですから外敵から襲われるという身体生命の危険が発生するわけです。みんな命がけで生きていたのだと思います。だから、狩猟組が帰還して留守番組と合流すると、群れは密集して互いに守り合う形となるわけですから、安全度が格段に高くなります。群れに帰るということで、みんな無条件に安心を感じていたと思います。

13 人間の脳から見た現代社会
  では、これほどまで共感に満ちて、寛容と受容があふれている人間の脳がありながら、現代社会では紛争や緊張が起こるのはなぜでしょうか。それは、現代社会は、人間の脳の能力を超えた人間関係を余儀なくされているからだというのが私の主張です。人間の能力と環境のミスマッチ
  人間の脳がいま述べたような機能を十分に発揮するための条件は、
・仲間が少人数であること(せいぜい150人くらいと言われている)、
・生まれてから死ぬまで常に一緒にいること、
・利害対立がない運命共同体であること。
数百万年かけて人間の脳はこのように形成され、完成してから200万年それほど進化をしてきませんでした。このような狩猟採集生活をやめて農耕が主となったのは今からせいぜい1万年位前のことです。生物の進化のスピードからすればつい最近のことで、真価が追いつく十分な時間がなかったということなのでしょう。人間の脳は、200万年前の環境には合理的に働くけれど、今の社会ではむしろ苦しみや不安が生まれる原因になるということをもっと意識するべきだと思います。
  現代社会は狩猟採取時代の200万年間とは、人間関係の状態に着目すると、全く異なっていることがわかります。
先ず、複数の人間関係に同時に帰属します。家庭、学校、職場、大きな意味で社会、国家、その他地域や趣味やボランティアの人間関係など様々です。今現在いる人間関係、例えば職場にいても、他の人間関係、例えば家族の思惑が入り込み、職場の人間関係だけを尊重するということは難しいです。<群れの数>
  次に、圧倒的に多い人間と何らかの関係を形成しています。職場の同僚、学校の同級生、家族、家から通勤通学中にも、莫大な数の人間たちと、触れ合うほど、満員で車では体がゆがむほど近くにいるし、何かを買う時は店員と関わったりします。車を運転すれば、誰からが交通ルールを守らないと大変危険な状態になるほど、見ず知らずの人と運命共同体にならなければなりません。これでは、人間の能力では、すべての人が仲間だとは思わないし、共感や共鳴をしていたらきりがないということになるわけです。つまり他者に対する共感や共鳴が希薄になるという性質があるということです。<人間の数>
  また、それぞれの群れは、ある程度長期に継続して人間関係が継続するとしても、構成員は入れ替わりが効くようになっています。退職、退学、脱退があり、家族ですら、排斥される可能性があるわけです。なかなか一生涯メンバーが変わらないという群れはありません。<代替可能な群れ>
  まとめると、人間の脳の能力を超えた群れの数、関わる人数が膨大過ぎて、人間が一人一人の人間に対して、共感することができず、相手の苦しみを目の当たりにしても寛容になれず、自分を煩わすものを受容することができなくなっているということになります。排除の予期不安は様々な群れすべてで起きやすくなっているわけです。
  その結果、自分が所属する人間関係から自分が共感されず、寛容をもって受容されないということが起こりやすいのです。そのため自分を守るという意識が敏感になり、自分を守る、自分の不安を解消するという目的で、他者を攻撃することが「できてしまう」ということなのだと思います。他方、攻撃される被害者は、必ずしも攻撃者が仲間として生き指定ないし、共感も十分行われないという特徴があります。攻撃の手を緩めてもらえない事情がここにあるわけです。相手に対する気遣いが無くなり、正義感情にもとづく攻撃が簡単に正当化される仕組みがここにあるわけです。
  攻撃は、自分より弱い者、反撃を受ける危険が少ない者に向かう性質があります。不安を強く感じやすく防衛意識が強いものが、防衛意識と能力の低い者を攻撃するという連鎖が起きるわけです。これが現代社会病理のメカニズムないし原動力なのだと思うわけです。

14 期待される家族の役割
  <寛容、受容>
  複数の群れの中のどの群れに対しても、人間は排除の予期不安を感じます。複数の群れ、しかも代替可能な群れに所属するということに馴れていないのです。買い物をしている一回限りの関係でも、失礼な態度に過敏になってしまいます。あたかも、200万年前の群れの仲間から攻撃されているようなダメージを受けることがあります。
このダメージを受けにくくする方法、受けたダメージから回復する方法としては、理屈の上では以下のとおりになります。
・ ダメージを受けた群れは、自分の唯一絶対の群れではなく、ダメージを受ける必要がないと思考をすること、いざとなったら群れから離脱すればよいということ。これによって、特定の人間関係の対人関係的不安を感じにくくする。
・ 自分の基本となる人間関係(アンカーとなる人間関係)との結びつきを意識的に強めることによって、他の人間関係でのダメージを感じにくくする。アンカーとなる人間関係の帰属意識が強くすることによって、安心を感じ、他の人間関係の排除の予期不安を感じにくくする。
  こういうことを考えています。
そのアンカーとなる人間関係は、家族であろうと思われます。少なくとも子どもにとっては家族しかありません。
家族の住む家は、通常は眠るために帰ってくるところです。帰る場所が癒される場所であることによって、翌日良い意味での緊張感を持った活動がよりよく期待できます。家族がアンカーとなることは合理的です。
  そして、職場や学校、あるいは隣近所の不具合があったとしても、家族が機能を果たしているならば、いざとなったら退職し、退学し、引っ越しをするということもできるという選択肢を持つことができます。不具合のある人間関係をこちらから中断すればよいと考えることができることは、予期不安の解消にも有効だと思います。
  家族は、生まれてから一緒に過ごしている人間関係なので、相手の感情もわかりやすく、情も抱きやすい関係と言えるでしょう。家族のために収入を得る活動をして、家族のために頑張るということは自然な感情ということになるでしょう。
  人間関係の中で代替可能性が一番低いのも家族なのではないでしょうか。
  この反対に必ず帰る人間関係である家族に不具合があることは、深刻です。家に帰れば、今の辛い状況から解放されるという希望を持つこともできません。逃げ場のない不安になってしまいます。

15 アンカーとしての家族に必要なこと
  では家族には何が必要でしょうか。どうすればアンカーとして機能するのでしょうか。それは、共感と寛容だと思います。これは実は簡単なことではなく、どういう方向に意識するかという教科書などもない状態です。
これは、不安がどこから来るかを考えれば自然にはっきりしてきます。現代日本の不安が、排除の予期不安であり、排除の予期不安の原因が自分のマイナスポイントに対して寛容に扱われず自分の個性が受容されない、他の人間関係では自分が共感を受けられず仲間として扱われないというところにあるわけです。そして排除の予期不安が生まれるということから始まるとすれば、その逆を行うことが家族の役割ということになると思います。
根本的に、家族の誰かが失敗しても、特定の能力が低くても、不十分なところがあっても、かけがえのない家族の個性として共感し、寛容の態度を示し、受容することによって、排除の予期不安を与えないということになると思います。突き詰めて言えば、家族から絶対に見捨てられることが無いという安心感を与えるということだと思います。観点と表現を変えて言えば、不安を感じないこと、仲間が自分を受容することが、人間にとって幸せを感じる環境なのではないかと考えています。それが200万年前の人間の環境だったわけです。
  こうやって家族から受容されることによって、人間は家族に対しての帰属意識が生まれます。他の人間関係で不具合があっても、家族のために頑張ろうという気持ちが生まれたり、家族にとって退職することの方が良いかもしれないという選択肢も生まれたりします。家族以外の人間関係で不具合を起こしても、その人間関係は自分にとってそれほど重要な人間関係ではないという意識が持つように誘導して、不具合によって受けるダメージを軽減する方法につなげることができます(対人関係療法等)。
  こうやって、私は、依頼者の方々と共に、いじめやパワハラ、虐待を解決しようと家族に働きかけてきましたし、一定の成果は上がっていると思います。
  社会病理にあふれる現代社会においては、家族が有効に機能を果たしていることは大変重要なことだと言えると思います。

16 家族が機能不全になる理由
  <孤立家族、病理にさらされる家族、家族が安心できる仲間ではない>
  現代日本における家族は、必ずしもみんながみんな、このような機能を果たせているわけではなさそうです。それにはいくつかの要因があります。
  一つは、家族以外の人間関係の状態が家族に悪い影響を与える場合です。これまで述べたことから理解されると思いますが、大人が職場やその他の対人関係で、排除の予期不安を感じている場合に、家族を攻撃しようとしてしまうことです。例えば、職場で上司に理不尽な低評価をされていて、嫌みを言われ続けていると排除の予期不安を感じます。同時に他者であるその上司を通じて自分を評価してしまい、自分に対する自信も失うことがあります。そのような不安が慢性的に続くと、常に自分を守る意識が強くなってしまい、家族の些細な言葉、子どもの意味のない言葉でも、自分が馬鹿にされていると感じられてしまい、不安が怒りになり、強い言動をしてしまうということがあるようです。
  これは、現在の人間関係だけでなく、これまで人間関係、場合によっては育った環境によっても、自分を過度に守る思考パターンになっていて、些細な刺激に過敏に反応するということが起こることもありそうです。巡り巡ると安心できない人間関係の中で、自分を取り巻く家族も苦しんでいたことの結果なのかもしれません。
  また、顔の見える人間関係だけでなく、社会という漠然な人間関係でも、自分が評価されていないという不安感があると家族への影響が生じる場合もあるようです。
  このパターンは、現代社会の特徴による被害が家族に及んでいると言える典型的な場面でしょう。
  二つ目は、体の問題が、家族に対する態度に影響を与える場合です。他の人間関係の不具合のようなはっきりした原因の無いにもかかわらず不安が抑えきれない時があります。元々原因が無くても不安を感じやすい性質だったり、病気の症状として不安が出現している場合や薬の副作用などの要因がある場合です。
  このパターンも深刻な人間関係の破綻を招くことがあります。このパターンは不安を感じている本人に主として原因があるのですが、それは本人も家族も周囲も気が付くことができません。本人が家族の誰かに不安を感じている以上、その家族が本人にDV等の攻撃をしていると思われることが多いです。相手は理由もなく攻撃をされていると思いますから、反撃をしてしまうわけです。どんどん家族の間に入った亀裂が大きくなってゆきます。
  このような事情は、薬の副作用以外は古来からあるようで、現代的な特徴ではないようにも思えます。しかし、古来は、家族は、地域や親せきに囲まれていて、不条理な不安という知識も受け継がれていたし、家族を維持する方向で周囲も支援をしていたという事情がありました。現代では、家族は孤立しています。また周囲は、不安を感じている人に支援をし、本人の主張をただ受け容れるという単純な支援をすることが多く、昔の人のように本人に言って聞かせるということはしませんから、家族は分断される方向に向かうばかりです。このような「家族の孤立」が現代的特徴なのだと思います。
  三つ目は、二つ目と関連しますが、家族を壊すアドバイスが横行しているという現代的特徴があります。家族の一人が不安を感じていて、その理由として家族の誰かの行為をあげたとします。それが、不適当な行為か否かは本来その相手の人の話も聞かなければ真実は分からないわけです。しかし、一方の不安に寄り添い、その不安を疑ってはいけないという思い込みがあり、訳も分からないのに他方の家族に対する攻撃を増長してしまう。こういう現象が全国に蔓延しています。人権は個人が個人として尊重されるべきだということは正しいと思います。それがゆがんだ形で扱われていると思います。
  本来、病気の症状として不安が起きている場合は、その病気を治療することが優先されなければなりません。しかし、本人の感覚を無条件に受け入れて、家族攻撃を行うわけです。本人は、自分の勘違いではなく、アドバイスをする立場の人が攻撃、怒りに同調しているのだから、自分の勘違いではないと考えてしまいます。その結果、自分は家族から低評価をされているという考えを再構成し、強化してしまいます。感じなくても良い排除の予期不安を感じさせられているということになると思います。
  このように、周囲がわかったふりをして本人の不安に「寄り添って」、不安を慢性化させていることも現代社会の特徴でしょう。本人に対して自分の意見を言って本人に改善を提案するのではなく、稚拙なマニュアルに従って本人の不安を助長する結果を生ぜしめて、人助けをしたような高揚感を得ているというのも現代社会の特徴のような気がします。
  四つ目は、家族が孤立していることです。忙しい家族が孤立していれば、家族の異変に気が付いて、立ち止まって対策を講じるというところまで行きません。また、家族の異変に気が付いても、少ない人数の場合は解決方法を見つける可能性も低くなります。間違った方法で行動をして逆効果となったり、何もできないで事態を悪化させるということもそもそも人数が少ない上に孤立していることが原因であることが多いと思います。過去の人間の対処方法であるおばあちゃんの知恵袋なども使うことができずに、時代にうずもれてしまうというもったいないことが起きているのだと思います。家族の外に緩やかな仲間を形成しにくいということも現代日本の特徴だと思われます。

17 家族の機能不全に対抗し、人間を守り、社会を変えてゆく 自然と湧きあがらない理性という人間にしかないツールの活用
  世の中にはひどい誤解が蔓延していて、ようやく21世紀になってそれが誤解であるということが浸透してきました。それは、人間は理性によってものを考えて行動をするという誤解です。
  もちろん人間は、理性を持っています。しかし、理性を使うということはなかなか行いません。理性を使うことは大変なエネルギーを使いますので、無意識に理性を使うことを回避しようとします。その代わり、本能的な意思決定をして、思考エネルギーを節約しようとしています。この考え方を「ヒューリスティック」といいます。例えば、いつも一緒にいる人が言っているのだから賛成しておこうとか、外見の良い有名人は自分にも親切ではないかとか、自分の意見によく反対している人が言っているから、自分はその人の意見に賛成しないとか、反射的に判断をしてしまうわけです。これは多くの場合は、思考エネルギーを節約するうえに、結論としてもそれほど不具合は起こりません。
  だから、日常生活において、立ち止まって考える習慣がどんどんなくなっていくわけです。子どもが学校に行きたくないと言えば、何となく怠けているのだろうから絶対に行かなければならないと言ってしまいますし、夫が尊敬できる上司からひどく叱責されたと言えば夫が何か失敗をしたのだろうと考えてしまうのかもしれません。専業主婦の妻が片付けをしなければ、自分だけ外に出て辛い目にあって給料を得ているのに何サボっているのだとなると思います。ヒューリスティックの意思決定に任せていたのでは、とても家族に寛容になることも、失敗を許すこともできないでしょう。
  不安を持っている人たちは、どんどん家族の中で孤立していきます。家族の失敗、能力不足、行動の不十分点に寛容を示し、受容するためには、どうやらヒューリスティックの思考を排除して、理性を使う必要性がありそうなのです。
  理性を使うためには、自分は家族に貢献できていない、もっと家族に貢献しなければならない、家族から見捨てられるのではないかという自分の責任感、生真面目さも克服していくことが必要なのかもしれません。ここがもしかしたら一番難しいことなのかもしれません。

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