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【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(後編)】被害者の心理 [弁護士会 民主主義 人権]



<被害者の心理がどのように失敗に結び付くか>

自分もある方面で渦中にいるので、自分の心理状態と心理反応を分析して、被害者の心理とその弊害を考えてみました。

1)前提として、人間の思考や言動は必ずしも理性的でも合理的でもない

弁護士をしているとつくづく感じるのですが、人は大事なところでもあっても、よく考えて行動しているわけではないということです。一般の方々は、どんな時も、冷静に後々のことを考えて大事な場面で意思決定をしていると勘違いされていますが、どちらかと言えば人間の意思決定はそうではない、何となく直感的に行われていることが多いようです。
例えば対立している人のどちらかに味方をしなければならない場合でも、「双方の言い分を吟味して論理的にこちらが分のあることを言っている」なんて言うことでどちらに味方するかなんて考えていません。大体は、どちらと付き合いが長いか、どちらがその場の人間関係の秩序を維持することに役立つと感じるか、どちらの顔や服装が好ましいか、あるいはどちらが負けているか、どちらが勝っているか、その年齢、かわいそうなのはどちらか、自分が反撃されないためにはどうするかなどという、こういうことでどうするか決めているようです。これは人間一般の傾向で、考える労力を省いて、直感的に意思決定をして省エネする傾向にあると言われています。
自分が被害者ともなれば、自分を守ろうとする意識がどうしても出てきてしまいます。この場合はさらにじっくり考えることは至難の業です。いち早くなるべく簡便に、自分に降りかかった危険を跳ね飛ばそうとしてしまいます。多かれ少なかれ人間はそのような傾向があるわけです。生きるための仕組みということになります。
それでは、どうしようもないかというとそうでもないようです。最近のノーベル賞受賞者や心理学の賞の受賞者は、まさにこういう研究をしている人が多いのです。人間のこのような傾向を分析し、それにどう対処するかというテーマです。つまり、人間がどういう風に間違いをする傾向にあるかを予め知っていれば、間違いの場面に直面していると気が付きやすくなる。そのときに直感的思考ではなく、分析的思考をするように意識づけることによって、その場面で間違いをする確立を低下させようという考え方です。また、他者がどのように思考を省略するかということをつかんでいれば、ではどうやってアッピールすればよいかという戦略も組み立てられるわけです。ノーベル賞を取った心理学者はノーベル経済学賞を受賞しています。
一番大事なことは、被害当事者の方は、自分には間違った行動、利敵行動をする可能性があるのだということを自覚することです。それはあなたの能力や人格の問題ではなく、被害者だから無意識に自ら損を招いているということなのだということなのです。


2)被害者が陥る心理状態

わかりやすく説明するために、ある日ある時突然子どもを連れ去られて、様々な手段を使われて子どもと会えないという連れ去り被害を受けた被害者の心理を中心に考えていきましょう。
以下の心理になることは当然だと思います。
・何が起きたのかわからない。
・事実を受け入れられない。なかったことにしたい。
・相手が出て行った理由がわからない。
・事態を飲み込めないうちは、相手と子どもの安否が心配になる。

ごくごく初期はこのような混乱が多いでしょう。少し落ち着くと次の感情も出てくると思います。
・相手が自分を否定的に考えていることはわかるが、具体的にはどういう考えか、どういう理由なのかわからない。
・相手が自分について、誰にどのようなことを言っているかわからない。
・相手に対してもやもやした怒り、不気味さ、気持ち悪さがわいてくる。
・自分について自信が無くなりやる気が起きなくなる。
・自分の未来がことごとく今回のことで妨害され、障害を受け、何をやってもうまくいかないかもしれない等と考えてしまう。自分のこれまで積み上げてきた実績が、こんなことで終わりを迎えるのかという考えがよぎる。

さらに警察や行政や司法が絡んでくるとさらに複雑になると思われます。
・誰が味方で誰が敵なのか見当がつかない。誰が手伝ったのかわからない。
・理不尽なことを誰も是正してくれないのはどうしてなのか。自分は大きなものから否定されているのかもしれない。
・自分を守らなければならないほど危険な状態だとはわかるが、どうやって自分を守ればよいのかわからない。解決の方法が見えてこない。

一言で言えば、連れ去りの被害者は不条理を実感しているのだといえるでしょう。しかし、被害者は、自分が不条理な目にあっているということさえ自覚できないことがあります。何が起きたかわからないままに苦しみ続けることもあります。自分のわからないところで、「自分のこと」が勝手に進められているということ、自分を守らなければならないのに守る方法が無いということは、人間の精神を激しく攻撃します。この激しさを考えれば、心理的に正常でいるということはあり得ないことは当事者ではなくともよくわかると思います。

3)被害者の第三者に対する感情・要求

不条理にさらされた人がどのように考えるか。
・不条理は是正されるべきだし、早急に是正されるはずだ。
・第三者、特に公平な人、人間関係の秩序を維持する役割の人たちは自分の味方になるはずだ。裁判官、弁護士、警察官、公務員等々。
・事情を説明すれば、誰しも自分の味方になってくれるはずだ。
・自分の被害は誰でも共感されるはずだし、親身になってもらって当然だ。
・誰かが自分を助けてくれるはずだ

人間は危険にさらされると、仲間に助けてもらうことをつい期待してしまう生き物のようです。自分を殺そうとする人間に対しても多くの人が命乞いをするのは当然のことです。
文明発祥以前、人間は仲間と助け合って厳しい生存競争を生き抜いてきたわけです。それが現代においても遺伝子に残存してしまっているようです。このシステムは人間の敵が人間以外の例えば猛獣である場合は、とても良く機能します。仲間の人間よりも猛獣を助けようとする行動をとるということはおよそ考えられません。自分の命を顧みずに仲間は猛獣から仲間を助けようとしたでしょう(袋叩き反撃仮説)。しかし、現代社会は、人間の敵の多くは人間です。人間と人間との対立に苦しむわけです。そしてその対立を見ている第三者もいることが特徴です。その人たちは、文明以前のように、どちらが敵でどちらが味方なのかを判断したがるようです。これを本能的に一瞬で決めてしまいます。そして、仲間でない方は敵だとしてしまいます。つまり仲間でない方は猛獣を扱うみたいな扱いをされる危険が生まれてしまいます。その判断こそ、非論理的に思考省略的に決定してしまうのです。自分が期待するほど、第三者は自分を味方してくれないことを経験するわけです。そして、関係のない第三者が自分を攻撃していることを知ることになります。もちろんわけがわかりません。
このような状態に陥った場合の人間の心理として、私は以下のような発想、行動傾向を良く目撃しています。自分でもつい最近体験しています。

・他者、特に秩序を守るべき人物に対する要求度が高くなる。(その人の事情を考慮しなくなる。)
・自分の期待に応えてくれない人に対してじれったい思いが強くなる。(同)
・自分の感情を聞いてくれる人に対して、怒りをぶちまけてしまう。(同)
・何か自分に不利な事態が、他者によって維持固定されるのではないかと疑うようになる。何かをしなくてはいけないという焦りが生まれる。
・他者が話をしていても、自分にとって悪い結論を言おうとしているのではないかと思い、つい話を先取りして、話が終わらないうちから反論を始めてしまう。(実際はその予感は当たることが多いが、話を遮ること自体が相手を怒らせる)
・自分が置かれている理不尽さですべての人は価値判断をするべきだと思う。つまり、期待している人も自分の敵を一緒に攻撃しないことはおかしいと感じてしまう。
・自分の思い通りにならないことは、誰かの自分への攻撃意思の表れなのではないかと悲観的に考える。

4)第三者の心理
  当然のことながら、第三者は、被害者の心理なんてわかりません。このことに被害者は気が付きませんし、だから自分の行動をどのように修正するべきかという発想はなかなか持てないのです。
 ⅰ)敵対する第三者
   先に述べたように、敵対する第三者は、あなたが悪だから、あなたに反対だから敵対するわけではありません。実際に対立する二人うちの、どちらの言い分が正しいか吟味しているわけではないのです。ただ、あなたと対立する人物を擁護しようとしているだけなのです。あなたと対立する人を擁護しようとして、反射的にあなたを攻撃する結果になっているだけです。つまり、こういう人は、「1人が落ち込んでいるのだから誰か落ち込ませた犯人がいる」という二項対立的な観点に立っていつのです。思考省略型の発想の典型ですね。そうして目の前のかわいそうな人を助けるということで、その人が仲間だと思うわけです。そうすると、その人にかわいそうな思いをさせている人があなただと思い、あなたは敵だという発想になってしまうわけです。敵には容赦しないわけですから、その人の相手であるあなたを攻撃してしまっているだけです。そこでいうかわいそうという判断も、性別が自分と一緒とか、年齢が低いとか、救いを求めている顔をしているとか類型的に弱い立場の人を助けようという反射的に決めているだけです。その人が本当に助けられるべき人なのかを吟味しているわけではありません。そうして、敵と味方を自分の頭の中で分けてしまうと、あとは思考停止です。多くの人間の思考省略型の意思決定はこういう風に行われています。対立者が猛獣であり、倒すべき存在ということに自動的に思考が成立してしまいます。
  こういう場合、猛獣扱いをされた方は、事実を証明していくことが有効ではあります。しかし、一度敵味方が区別されてしまうと、味方の言い分を疑うことを差し控える気持ちが生まれてしまいますし、何とか敵の反論の落ち度を探そうという意識になってしまいます。通常では有効性のある証明もなかなかそれを受け入れようとしなくなるということが起きます。話が通じなくなるのはこういうメカニズムです。これは頭に入れておいていただきたいと思います。また、元々、自分がどこで、どのように攻撃されているのかわからないので、反論しようがないということも重大な問題です。
 ⅱ)仲間だと思える第三者
  仲間のように見える第三者でも、被害者の要求するほど支援してくれるということはありません。被害者は他者に対して過大な要求を持ってしまうから、そのフィルターで仲間に見える第三者を評価してしまいます。
  しかし、通常第三者は完全な仲間にはなりません。利害関係が一致する第三者はこの世にいないからです。利害が一致している部分では仲間ですが、利害が異なる点では仲間であることを要求できません。全部同じ境遇の仲間は一人もいないと考えるべきでしょう。
  それでもこの第三者なりに被害者を支援しようとしているわけですが、あまり要求が過大になってしまうと、第三者は正論を突き付けられている、正義感情を刺激させられているという受動的な意識が強くなり、被害者を持て余すようになります。特にその第三者が、被害者をかばって、その人としては大変危険を冒して行動しているのに、被害者が「どうしてもっと自分を助けようとしてくれないのだ」というような態度、言動を第三に向けると途端に不愉快な気持ちになるでしょう。通常被害者は、その第三者が自分のためにどのようなことをしてくれているのかわかりません。さらなる援助をリクエストしてしまいます。第三者は、被害者が何を知っていて何を知らないかということをあまり認識していませんから、必要な情報を提供しようという意識は薄いかもしれません。これは、その第三者に問題があるというよりも、第三者とはそういうものだと頭に入れることが実践的には役に立つことだと思われます。
  第三者は、紛争に巻き込まれることを嫌がります。そのように考えることは誠実な人柄だと本来は評価するべきです。何が起きたのか、第三者はわからないですから被害者に一方的に加担しようとしないならば、むしろ本来信用するべき第三者なのです。
  また、第三者は、被害者が自分で解決することを望む傾向があります。なるべく自分の労力を省エネしたいわけです。これは人間の思考パターンとして普遍的なものです。たとえ、被害者が一方的に被害を受けていたとしても、できれば加害者と話合って解決しろということを言うこともありますし、自分以外の仲間を増やして加害者と対決するように提案することもあります。第三者は、被害者の心細い気持ち、そもそも自分が孤立している理由がわからないといおう理不尽な気持ちまでなかなか配慮することはできません。第三者は、自分だけが対立する二人の間に入って、やらなくても良い仕事をさせられているのに、ただ感情的になって解決に向かって何もしていないように見える被害者に、イライラしているのかもしれません。
  しかし、なすすべなく一方的な被害を受けている被害者に解決能力はないということが多くの場合当てはまるように感じます。
  このような第三者の心理は、人類普遍的なもので、よほど何らかの事情で肩入れをしていない以上は、そういうように感じるものだということを頭に入れておくことが大切です。そうでなければ、知らないうちに孤立していく危険があります。
 ⅲ)純然たる傍観者
  何も理解しようとしない傍観者という人たちが圧倒的多数なわけです。こういう人たちは、とにかく紛争に巻き込まれることを嫌います。それはそうだと思います。紛争が好きだからといって首を突っ込みたがる人はそれほどいないでしょう。
  純然たる傍観者は、怒りの感情を本能的に拒否する傾向にあります。人が怒っていることをみることを嫌がるわけです。怒りの感情を目撃すると、どうして怒っているのだろうかと懇切丁寧に理由を紐解く人もそれほどいないことはお分かりだと思います。
  怒りのとばっちりを食うとか、八つ当たりを受けるとか、自分も激しい感情を持たされるのではないかということが億劫に感じるのだと思います。また、現在の自分の置かれている状況から、他人の話で心を動かす余裕はないと考えやすいのかもしれません。案外人間は消極的な意味での平和主義者なのかもしれません。自分にはモチベーションがないのに、何かをしなくてはいけないということも、近づくことを拒否する理由になると思います。
 ⅳ)人間はキャッチ―な言葉に弱い
  わかりやすい言葉に弱いということも、人間の特徴かもしれません。これは特に対立する第三者、純然たる傍観者に強くなるように思われます。
  例えば「DV」という言葉出れば、自分が想定しうる最悪のDVが起きていたのだというイメージを作ってしまいます。本当は、嫌みが多いとか、ダメ出しが多いだけという話というか、そう感じてモラハラだ、DVだと言っているのかもしれません。しかし、第三者はDVという言葉を聞くだけで、土下座させて1時間説教するとか、何かあるとすぐに平手打ちするとか、人格を否定しつくすような脅迫が続くとかそういうことが起きている、あるいは主張しているなどというように勝手にイメージが作られていきます。 
これと似たような言葉が、「いじめ」、「虐待」、「パワハラ」、「モラハラ」等です。具体的には何もわからないのに、悪い方向でのイメージが勝手に膨らんでいくわけです。DVがあったと主張するだけで、本当にあったとして話が始まってしまいます。しかも激烈なDVがあったというイメージになります。実際、それを聞いた第三者は、その人が大変恐ろしい人間だというイメージが育っていきます。その人から自分を守らなければならないという防衛意識が強くなります。つまり怖いのです。怖いときに最近の人間は、マニュアルに頼ろうとします。その時点では、第三者から見ると、被害者は名前を持った一人の人格主体ではなく、1人の「DV加害者」になります。誰彼構わず文句を言って、気に食わないとクレーマーのように執拗に第三者自身が攻撃を受けると、つい想定をしているものです。なんとあなたは警戒されているのです。あなたから自分を守るという意識が、第三者のイメージの中であなたをさらにモンスターに育ててしまいます。
5)結果としての被害者の孤立
  見てきたように、被害者は、理不尽な状態から脱却したい、支援者は自分を十分に支援しつくすべきだ、第三者も自分に共感するべきだと思ってしまいます。これに対して通常の第三者は、そこまでは付き合いきれないという気持ちにあり、その間にギャップがあります。
  これは被害者と被害者の支援者に常にあることのような気がしてきました。精神的に衝撃的なダメージが残る被害を受けた場合は特にそういうギャップがあるようです。もちろん、人によって程度はだいぶ違うのですが、そういう火種は常にあると思います。そもそも支援者は、被害者を支援するだけでなく、他の仕事もありますし、他の人間関係でも時間を使わなくてはなりません。すべての時間と労力を被害者に捧げることは不可能です。
  被害者はそういう温度差を感じ取り、ますます苛立ちや自分が尊重されていないという思いが強くなります。

  その結果、以下のような現象が起きがちになります。
・本来、ニュートラルの立場にある人や、どちらかというと自分の味方である人の、些細な落ち度が目につく、自分に対する共感度が足りないと感じやすくなる。
・相手の気持ちを考えにくい状態なので、もっとあれをやれ、これをやれと指図をしてしまいます。自分の不安に任せたかなり細かい指示をしてしまいます。
・事態が進展しなかったり悪化したりすると、支援者を責めたりすることも怒ったりします。
・支援者は、これだけいろいろ手を尽くしているのに、あまり本質的ではないことで労力を使わされたリ、顔をつぶされたり、時間をとられたりすると、だんだん被害者が怖くなったり、不愉快になったりします。もちろんパフォーマンスは下がります。瞬間的なものであっても、支援の気持ちが失われることがあります。
 ・これが続いていくと、どうして自分が攻撃されながらこの人のために行動しなければならないかわからなくなっていきます。
 ・結局支援を打ち切ることになるわけです。
 被害者が支援者を攻撃しているわけではないのに、支援者は攻撃されているという意識を持ち、自分を守るためにその場から離脱しようとするわけです。

 
 ここまで極端な例ではないけれど、被害者の感情がさらに亢進してしまうと、以下のような印象を他者に与えています。
・単に相手に便宜を与えているだけの人(自分を攻撃しているわけではない)に対して、限りの無い恨みを抱く。自分の味方ではない人は自分の敵だと感じてしまう。
・自分の利益を図るために、周到に計画を立てて計画に従った行動ができないし、計画も立てられない。感情的な、反射的な言動が増える。
・自分だけが苦しんでおり、敗者となっている。他者、特に相手は、勝者であり自分と反対の立場であるから、楽しく勝ち誇って過ごしていると感じるようになる。
・相手は自分に対して、現時点でも、さらに攻撃しようと思っているし、貶めようと思っているはずだと確信している
 ・些細な出来事に対しても、自分が不利益を与えられるのではないかと思い、攻撃をすることをためらわない。第三者から見るとけんかっ早く、誰彼構わず攻撃するとみられていきます。

もしかすると被害者が感じているように、加害者が高笑いしていることもないわけではないでしょうが、実際は加害者も苦しんでおびえていることの方が多いように感じます。
いつも被害者の自己防衛的発想と言動、他者に対する攻撃的言動を見せられると、心が苦しくなっていきます。勢い、なるべく関わらないようにしようと思うわけです。
無駄な鉄砲を多く撃つようになります。例えば共同親権に反対する人に対して意見を言えば良いのに、あたかもDV支援者がDVがあったと決めつけるときのように、この人たちは共同親権に反対するに決まっていると決めつけて攻撃してしまう。あるいは、仲間として協働することをこちらから拒否する。

第三者は、すべての善悪、価値観、正義を、親子の断絶と交流という一つの物差しだけで二つに分けようとはしていません。

そこまでこの問題に肩入れはしません。それでも、意見を聞かれたら共同親権に賛成だというかもしれない人も多くいるわけです。実際に世の中は、完璧な支援者もいないと言いましたが、完ぺきな敵対者も多くはないのです。それにもかかわらず、共同親権反対者が、例えばAさんの主張に賛成しているという一事をもって、こちらの仲間ではなく、敵の仲間だと決めつけてしまう傾向があるようです。働きかければ味方になってくれるはずの人を自分から遠ざけてしまうということがよく見られます。味方でなければ敵だと考えやすいのは被害者の方かもしれません。そればかりではなく、反対者が別の論点で持ち上げたというだけで、そのAさんを攻撃することもあるのです。味方に鉄砲を撃っているわけです。これでは、比較的全面的に支援する人だけが仲間であり、そうでない人はみんな的だという扱いになってしまいます。そうして、自分の賛成者の中だけで共同親権推進の意見を交流させるだけになってしまう結果となるわけです。これでは、世論形成は永遠にできないでしょう。
さらに、一般の人たちに対して、極めて致命的な印象を与えてしまいます。つまり、このようにむやみに人を攻撃する人とは一緒に住めるはずがない。という印象操作です。多くの被害者は、被害前は円満な性格をしている人が多いようなので、被害が影響をしていると感じているのですが、一般の方はそこまで考えることはありません。今見ている事実に基づいて判断するしかありません。
結局、第三者から見ると反対論者の言う通り、子どもを連れ去られた被害者と自称している人たちは、元々攻撃的で、家族についてもいちいち細かい揚げ足をとっていて、相手の気持ちを考えずに自分の主張ばかりをしている人だという印象を与えてしまう危険があるわけです。その結果、連れ去れたということはDVがあったということだよねという確信を持ってしまいかねません。これでは、反対論者の言う通り、離婚の多くがDVが原因だという誤った認識を裏書きしてしまうことになります。
これが痛恨の利敵行為です。
こういうことを繰り返していたのでは、共同親権の世論形成ができないどころではありません。共同親権は危険な制度だということを宣伝しているようなものです。共同親権制度を阻害する一番の問題は、むしろ少数の反対論者ではなく、反対論者の挑発に生真面目にのってしまう「被害者の心理」なのかもしれません。

だから、やるべきことは、前編の結論と同じです。共同親権、共同養育が子どもの利益であるということを淡々と語っていくことです。これを分かりやすく表現する。あなたを支援しない人も、子どもの心細い姿はイメージしやすいのです。まさに我々がやりたいことは、このような子どもに自信をもって人生を渡って行ってもらうことです。子ども視線で、子どもの利益のために行っているということをアッピールすることが鉄則です。
運動の中で「子どもはお父さんともお母さんとも暮らしたい。」というアピールを見ることがありますが、とても素晴らしいと思います。
共同親権がいかに子どもにとって利益なのかということを淡々と説得していくことが極めて有効です。子ども目線の主張こそが最優先でなされるべきだと思います。
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【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(前編)】 反対者の「論理」を踏まえた、私の考える「何を主張するべきか」。 [弁護士会 民主主義 人権]


<共同親権制度は、ほぼ外圧頼みという現状なので、選択的共同親権制度という骨抜きに着地させられる危険性が高いこと 当事者の奮闘が求められているという客観的な状態であること>

現在、法務省において離婚後の共同親権制度が議論されています。国の制度ですから世論の支持が必要になります。過労死等防止法の制定の際は、過労死防止に表立って反対する人はいませんでした。県議会や市議会でも全会派一致で制定を促進する決議があげられました。遺族の方々を中心として、少数派にならないように、多数派になることを意識して運動をされていました。政権与党(安倍総裁の自民党)の分厚い支持、法案推進の方針を勝ち取り、法律は制定されました。
ところが、共同親権制度創設には、少数者ですが表立った根強い反対派がいます。また、「単独親権をやめて共同親権にする」ということには、「過労死防止」という誰でも賛同されやすいものと違って、多くの国民にとってわかりにくいスローガンです。
共同親権制定には外圧がありますから、言葉の上では「共同親権」という言葉が入る制度ができるとは思います。実践的な問題は、言葉では「共同親権」とはつくけれども、例えば「選択的共同親権」制度ということで骨抜きの制度が作られてしまう危険をどう克服するかというところにあると思います。
選択的共同親権制度とは、夫婦の双方が合意すれば共同親権になるけれど、一方が拒否すればこれまで通りの単独親権制度とするという方法です。これでは、現状とそれほど変わりはないでしょう。様々な政治家のこれまでの発言からすると、「落としどころ」として、選択的共同親権制度が、数年前から検討されていたのではないかと感じる事情がたくさん見られます。これでは、一方的な連れ去り別居をして、子どもの監護を排他的に継続し、離婚をして親権を取得し、そのまま子どもを他方の親と遮断するという行動が、親権制度が変わっても維持されてしまうことでしょう。制度創設は、なかなか難しいことですから、今のタイミングで選択的共同親権制度となってしまったらその後に修正することは当面難しいと覚悟をする必要があると思います。
今、親権制度について知識があり、子どものための制度であるということを知っている人はどれだけいるでしょうか。かなり絶望的だと思います。共同親権制度を主張するべきである常日頃子どもの権利を主張している人たちの推進の主張も知りません。私が不案内なだけかもしれませんが、子どもの権利を一番無視する連れ去りや単独親権について何も言わないことが不思議でなりません。当たり前の、世界レベルの共同親権制度とするためには、結局当事者の方々の頑張りがとても重要だということになります。
私ごときが、運動論をお話しすることはいささか出しゃばりすぎかもしれません。しかし、当事者の方々のそばで運動を見ている者として、また自分も別の分野で同じような立場に苦しんでいるということから、色々見えることがありました。また自分の図々しい性格からも、これは私でなければ言えないことだなあと思いました。変な使命感からこの記事を書くことにしました。

<世論形成のためにという視点が必須 反対派の弱点>

先ず、情勢分析をすることが大切です。先に述べました通り、法案成立の推進力は今は外圧が中心です。これは強力な推進力です。ところが国内の反対派の力が大きくなれば、こちらに配慮して国は何とか外圧をかわそうとすると思います。その場合は、翻訳しにくい日本語を屈指して選択的共同親権とするという方法をとるでしょう。だから、今は反対派との切り結びが重要にはなると思います。ただ、ここでいう「切り結び」というのは、どちらが世論の多数を獲得するかということです。この観点からの一番の誤った行動は反対派を直接攻撃すること、例えば論破しつくそうとすることです。(論破しようとするほど、多数が離れていく仕組みについては後編で。)
先に、反対派とどう切り結ぶか、直接対決するような場面ではどのようなことを心掛けることが戦略上有効かということについての私の考えをお話しします。
共同親権制度の目的は、子どもの利益の推進です。ご案内の通り諸外国では離婚は自由ではなく、裁判所などの関与を経て、子どもの養育方針を確立させて初めて離婚が認められるという法制度をとっています。子どもの利益を度外視して離婚は認められないのです。日本だけが、世界の常識とは異なり、大人が自分たちで勝手に離婚ができるという制度となっています。他国と比べて日本ではまだ子どもの権利、子どもの利益ということの検討が圧倒的に遅れているということが言えます。だから、外国は、日本に共同親権制度を作ることは人権問題だから、圧力をかけても内政干渉ではないという考えをとっています。
では、共同親権反対派は、どのような理由で反対するのでしょうか。子どもの利益になることならば、反対する理由はないはずです。実は反対派は、私から言わせてもらうと、争点となっている離婚後の子どもの利益という観点では何も考えていない、少なくとも争点については主張が無いといってよいでしょう。あくまでも、母親という大人の利益を理由に反対していると私には感じられます。「DV夫」から女性を解放するためには、離婚後も子どもについてDV夫と話をしなくてはならなくなる共同親権制度は創設してはならないという意見が主たる理由ではないでしょうか。
つまり、反対派の最大の弱点は、子どもの利益を促進するための制度を作ろうという時に、それは大人の利益にならないから反対だというところにあります。正面切った議論を回避しているわけです。
こちらとしては、大人の利益も考えましょうというおおらかな態度で良いわけです。共同親権としたうえで、例外的なDVの問題は例外的な対応をして女性を苦しめないようにしましょうということで良いわけです。但し、子どものためには、それでも一緒に暮らしていない親との交流が有益であるとされているので、その例外措置をどのようなものにするかについては細やかな制度設計が必要だということになります。
ところが、反対派は子どもの利益をどうはかるかということについて、定見はないようです。制度には必ずメリットデメリットが両方ありますから、デメリットを述べることはよいのですが、それではメリットがないことをどう手当てするかということを述べるべきですが述べません。極めて無責任な態度だと批判されなければなりません。まさに争点そらしで、かみ合わない議論を敢えてしているということになります。意見表明できない子どもの利益を無視しているわけです。「子どもの利益をどう図るか」という問いに対して答えないのですから、「ご飯食べた」という質問に対して「ご飯は食べていない」(パンを食べたから)というご飯論法と本質的には変わらないと思います。
さらに反対派はDV夫からの解放を言うのですが、離婚の原因の多くは、実際はDVと言えるようなことではありません。圧倒的多数の子どもたちは、親がDVをしているわけではないのに一人の親とは会わせてもらえないのです。親が家から追放されていることも日本には多く残っています。通常家から追い出されて子どもが会えなくなるのは母親です。単独親権を残存させることは、子どもと一方の親を断絶させることにつながっています。それにもかかわらず、圧倒的少数の事例であるDV離婚のために、それ以外の大多数の子どもが親に会えない、親を慕うことができないという親子の断絶の中で成長することを余儀なくされているわけです。反対派、この悲劇を継続させる結果になるということが、私からすれば大きな弱点だと思うのです。離婚するほど嫌だとしても、子どものために我慢してもらうしかないと思います。もっとも野放しにするわけではなく、主として行政が、話し合いの場の設定など安心して協議ができる人的物的支援をする必要があると思います。このシステムは、本来離婚前から活用できるようにして、離婚自体を減らすことが本当の子どもの支援だと思っています。支援がとてもできないような、面会が重度の損害をもたらすような、そんな激しいDVがあった離婚というのは、極めて少数であるということが私の実務家としての実感です。
大事なことは、大人の利益をいうことはよい。けれど、制度の目的である子どもの利益をどのように考えるかにこたえるべきだということなのです。ここを言えない反対派の論拠が貧弱であるということが反対派の最大の弱点です。どこの国でも共同親権制度を創設するにあたって、子どもの利益とDV被害をどのように調整するかということが十分議論をされています。その論議の結果、どこの国も共同親権制度を創設しているのです。DV被害はどこの国でも共同親権制度の問題の所在とはなっていますが、制度を創設しない理由にはなっていないのです。
さて、ではどうするか。反対派を批判すれば、共同親権制度が推進されるかというと、これは必ずしもそうではありません。ここが大事なところです。批判はそれがどんなに正当なものであっても、第三者は正当な批判を支持するとは限りません。むしろ批判すればするほど、第三者は引いていきます。ここが大事です。
誰かが誰かを批判することは、第三者からすれば、それを見聞きすることは抵抗があるものです。むしろすんなり共感できにくくなります。感情を交えないで純粋に議論を進めようとしても、第三者は意見の対立自体に不穏な空気を感じて引いてしまいます。ましてや、被害者ともなれば、感情を交えないで議論をすることは、自分ではできているつもりでいても、客観的にはできていません。感情が勝るのは当然ですし、感情が勝ると反射的に相手の弱点をこれでもかと突きたくなるのも自然なことです。
相手の批判に重点を置かないことが大切です。あくまでも共同親権制度は、子どもの利益のために必要なことだということを、一般の人に向けて静かに語っていくことです。そして世論を少しでも共同親権は必要かなという方向に誘導して、外圧に結び付ける。これしかないと思います。
そのためには、ひとまず感情は棚上げして、共同親権と子どもの利益について勉強しなくてはなりません。

以下、後編に続きます。




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誤解だらけの親権制度 封建制度の残存物として排斥するのがいかに浅はかであるかについて [弁護士会 民主主義 人権]

親権というと、親が子を思い通りにする権利というニュアンスがある等という浅はかな意見があります。また、家制度を前提として戸主の子どもに対する支配権だという勘違いもあります。
現代社会において、明治民法(1898年)は知識を持つ必要性は乏しいです。わからないならば言及しなければ良いのですが、思い込みで発言する人たちがいるので困ったものです。

1)親権者は戸主ではなく父

先ず、親権者は、戸主ではなく父です。戸主と父を同一に考える人がいますが、これは戦前の「家」制度を知らない人です。我々古い弁護士は、実務上の必要から戦前の戸籍を取得した経験があります。その古い戸籍謄本をみればわかるのですが、戦前の「家」は、夫婦と子どもを単位としたものではなく、もっと広い親族を中心として成立していたものです。姪や甥、あるいは父や母なんかも普通に一つの戸籍に入っており、その中の代表が戸主となります。
明治民法の成立過程でも親権者が誰かということが争点となりました。結局対外的な代表は戸主であるが、体内的な責任者は必ずしも戸主ではなく、家族内のことである親権者は父親と定められたのです。ここは、男女差別が背景にあったものとして時代の限界として留意する必要があります。もっとも、明治民法の前の旧民法では、子どもの養育義務は父母双方にあると定めていました。

2)親権の内容は支配権ではないことは学会、社会の常識だった

確かに支配権だと主張する学者は穂積八束という先生が一人いたようです。かなり高名な先生ではありますが、1人説だったということです。誰も賛同しなかったということです。その他すべての学者は支配権であることを否定しています。法律家も日本国民の常識も、親が子どもを支配することが正当であるということは、感覚的にも存在しなかったことになると思います。
親権の内容として中心的にとらえられていたのは、明治の時代から、子を監護養育する義務です。学説でも、親が子どもに対して監護養育する義務を負っているという解釈が一般的でありました。これが明治民法における親権の本質です。この本質を果たすために、つまり親が子どもを守り育てる必要があるから、この住所を決める権利や懲戒権を親が行使することを国が認めたというのが親権制度なのです。こういう解釈が明治の法学です。どうやら「封建制度」という言葉が出てくると、何でもかんでも悪いことだと思い、その中の最悪の事態が起きているという言葉のもつ効果があるようです。つまり、印象と思い込みだけで話をしていることとなります。明治民法の民法は、親の子どもを支配する権利ではなく、子どもの監護養育のために必要な権限が規定されたということが法解釈的には常識です。
子どもが、国や戸主に勝手に連れ去られていたならば、親は子どもを守ることができません。子どもをどこに住ませるかということは、親の権利にする必要がありました。子どもが自由に法律行為をしてしまうと、思わぬ損をすることが多いので、子どもに代わって法律行為を行う権限も子の監護養育に必要なことです。懲戒も、当時の考え方は現在と同じではありませんが、「ほめ育て」等という言葉の無い時代ですから、子どもが間違った道に足を踏み入れないために必要な親の義務だとされていました。だから、懲戒権と言っても、親が子どもの人格を無視して、子の養育と関係のない八つ当たりなどをする権利ではなかったのです。現在と違って、当時の日本にはそれが当たり前のこととして受け入れられていたことになります。
おそらく、戦後教育の中で、戦前の教育を全面的に否定するという作業が行われたため、戦前の教育や社会制度というものが暗黒の歴史のように私たちは受け止めるようになってしまったものと思われます。確かに戦争や他国の侵略という恥ずべき歴史はありますが、人間の生活の営みは戦前から戦後にかけて確実に継続しているのです。それにもかかわらず、歴史を二項対立の観点から見るような態度は極めて非科学的で感情的な態度だと思います。戦前が全面否定されることはとても残念なことですが、私はそれより明治政府によって江戸時代以前の日本が全面否定されて、日本人が自分たちの過去を知識として持てないことのほうがより残念です。とにかく間違ったことは言わないでおいてほしいというのが私の願いです。

3)親権の自由権的な機能

では、どうして、家制度がありながら戸主ではなく親が親権を行使すると定めたのでしょうか。これも明治民法制定の際に論争がありました。大方が一致していた理由は、子どもの監護養育は親の自然な情愛にもとづいて行われるべきだということです。戸主は伯父さんだったり、大伯父さんだったりして、一緒に暮らしていない人がいる場合が多いのですが、そういう法律的な立場の人間にゆだねるのではなく、親子の情愛にもとづくべきだということが戸主ではなく父親が親権を取得する大きな理由でした。
日本の法律はよく指摘されるように儒教の影響を受けています。その根底にある思想は、これもよく誤解されます。誤解というのは、人間は親に孝行し、さらにその上の天皇、国家に忠実であれということが儒教の本質だと、これまたあまりにも通俗的な決めつけをする人たちがいます。わからないなら言及するなと思うのですが、とにかく戦前を否定することが善だということをヒステリックに唱える人は多いものです。論語の本質とは、違います。論語は国の指導者となりたかった孔子があちこちで語った話を孟子がまとめたものとされています。道徳という庶民が守るべきものをつづったものではなく、国家とはどうあるべきか、政治とはどうあるべきかということを語ったものです。その中で、孔子は、国家の目的は、家族など自然な情愛で集まり生活している人が幸せに生活するためにあるのであり、家庭の中では国家秩序より家庭の情愛を優先させるべきだということと、国の政治は親子兄弟の情愛を国中に広めていくことだと述べています(論語:子路第13の18等)。
「親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-11

実際に日本の現行刑法は、この考えに基づいて、親族間の犯罪を必ずしも罰しないという制度がありますし、家族が犯人の場合かくまうことも罰しない場合を認めています。法律を勉強してきたものはよくわかっているはずです。
論語の見解では、国の秩序を守るために家族を国に売るような行為は否定されているのです。だから、国も、勝手に子どもを親から引き離すことができない。子どものことはその親が決めるということが親権だということになります。それだから徴兵制は、特に未成年者の徴兵は論語に反する政策だと私は思います。
明治民法下の学者の議論は、あまりこの自由権的側面を強調してはいませんでしたが、常識的なものとして議論の前提にあったようです。

4)まとめ

明治民法の条文、及び学者の議論の様子を勉強しても、当時、学者も国も、親権が親の子を支配する権限という議論はあったにしても相手にされなかったということがわかりました。むしろ親の子どもに対する監護養育義務が中心に親権がとらえられていたようです。監護養育として親権行使をしなければならないということで、親権の及ぶ限界が画されていました。社会の常識もそれを支持していたと思われます。
確かに現代社会は、家族が孤立化してしまい、家庭の中のことが閉じた世界になっています。また、明治時代には考えられなかった日常のストレスの持続というものもあります。日本人の親子についての常識が戦前と比べて歪んだことを示す事件も大きく報道されているところです。家のメンバーや近所の人たちが個人の家庭に入り込む余地が著しく無くなったため、行政がそれに代わって介入するということも選択肢としては持たなければならないのかもしれません。
しかし、誤った知識、思い込みの考えだけで、制度や概念が否定されてしまったところに、あるべき新しい制度の構築は難しいのではないでしょうか。無駄な観点からの制度の提案がなされる危険があります。また、誤った知識、思い込みの考えでは、何をなすべきかの優先順位も見当はずれになるだろうということも危惧しているところであります。

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【共同親権を推進したい方々に】敵を見誤らないこと。家庭を壊そうとしている本体(家族解体主義)をきちんと見極めよう。女性やフェミニストを攻撃することは家族解体主義者の思うつぼ 共同親権制度が骨抜きになる原因だということ [弁護士会 民主主義 人権]



今回の主張はシンプルです。
共同親権の妨害をしているのは、妨害をする必要のある人です。
その人たちやその人を支援している人を批判すればよいのに、
ちょっと遠い人ばかりを批判していたのでは、
いつまでたっても本丸を落とせないどころか
外堀も埋められませんよということです。

妨害する必要がある人は二つのタイプに分かれます。

1つは家族解体主義思想を持っている人たちです。
それが家族解体主義であることを深く考えないで
それに何となく追随している「良心的」な人と「組織的」な人
物言わない子どもの利益まで頭の回らない人。

もう1つは、女性を安い労働力として
無理やり労働市場に登場させたい人というか企業でしょうね。

どちらの方たちも自分たちの立場を強調こそしませんが
隠してもいません。
よく読めばどういう人脈の下、どういう使命を受けて発言しているか
すぐにわかります。
何となく追随する人は、良く考えて行動せず
素朴すぎる正義感を利用されていることに気が付きません。

女性の利益やフェミニズムを何でもかんでも攻撃すると
結果的には、二つの立場の人の思うつぼです。

家族解体主義については、前にお話ししました。

家族解体主義という思想 なぜリベラルがそれを受け入れるのか 共同親権制度に反対する人々
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-03-22

要約すると
「家族」という制度自体が
女性に母親とか妻とかという役割を押し付ける制度であり、
女性を縛り付ける制度だから
家族から女性を解放するということが正義だという
尋常ではない考え方だと私は理解しています。

しかし、家族が、夫婦と子どもを中心としたユニットになったのは
戦後の話ですし、
電気の無い時代に、筋肉量が多い男性が力仕事をして
女性は、調理、洗濯、炊事をしていたことも
あるいは出産をして授乳することも
女性は被害的に認識するべきことなのでしょうか。

それではどうやって人間が子孫を残して来ればよかったのでしょうか。
ちなみに日本において嫁入り婚が一般的になったのは
鎌倉時代以降だと言われています。
それまでは、女性が男性の家に嫁ぐということは
一般的ではないとされています。

誰が家族解体主義者かということについては
家族解体主義を批判する人を
「家族擁護主義者」と批判しますからわかりやすいです。

ちなみに家族解体主義を唱える人たちは
国の審議会のメンバーだったり、参考人聴取をされたりしていますが、
どうやらかなり貧しい理由のようです。

昭和の後半に男女差別撤廃条約が締結されるなどして、外圧が起こり
国が男女差別の解消の政策を行わなければならない状況になりました。
そこで、雇用機会均等法や男女参画局を作ったわけですが、
国は何をどうやってよいか自信がなかったわけです。
そこで、男女平等運動を声高にやっている人を政策過程に参画させて
政策の立案を行い、権威付け、正当化をねらっていたようです。

この人たちはフェミニストというわけではなく、家族解体主義者ですから
職場における男女不平等の解消は
あまり関心を持っていらっしゃらなくて、
勢い国の男女参画の雇用分野は開店休業中になり
家庭の中での女性の「解放」だけがゆがんだ形で進められた
というわけです。

政府としても、雇用の男女差別の解消にそれほど熱心ではなかったので
お互いを利用した形になったというのはうがちすぎでしょうか。

いずれにしてもDVという曖昧な概念をツールにして
女性を家庭から「解放」しよういうのが本音ですから
何がDVなのかということは厳密に定めないことや
DVが真実か虚偽か、思い込みかも
それほど気にならないのはこういうわけです。

真実を吟味することなく、弁解の機会を与えることなく
相談をすれば被害者、被害者の夫は加害者という
国が乱暴な用語を使った根源もここにあります。

家族解体という目標からすれば
女性が家庭から出ればそれでよいわけです。
あくまでも「女性の解放」ですから
男性は加害者の一部ですし、子どもは女性の付属物なのでしょう。
利益は考慮されていません。

私は、少なくとも江戸時代以前の日本では
男女の区別はあったけれど、
その区別でどちらが優位かということは
あまり意識されていなかったという考えです。
優位性が認識されるようになったのは
男性をおだてて戦争に駆り出すために
国家権力が意図的に作った政策的なものだ
という考えです。
これらはこの一つ前の記事で述べています。

私は、共同親権、共同養育は、
子どもにとって利益であるばかりではなく
特に女性を子育てに縛り付けないという
女性の解放の制度でもあると考えています。

どちらが育てるかという問題提起がナンセンスです。
双方が子育てに共同参画するべきでしょう。

「子どもは女性が育てるもの」という考え方こそが
ジェンダーバイアスがかかった考え方だと思います。
兵士は子育てしませんからね。

女性が社会の中で孤立して
子どもをなげうって仕事をしなければならない
という状況に追い込むことこそストップするべきです。

ここが共同親権か単独親権を維持するかの
根本的な分かれ道だと思います。

それなのに、女性に対して敵対心をあからさまにして
女性やフェミニスト攻撃ばかりしていると
やっぱり、夫婦間紛争がある場合の夫は攻撃的な人間であり
こういう人と一緒に子育てをしなければならない共同親権制度は、
敵対的な男性の攻撃に女性さらすための制度だと
共同親権反対派の論拠を裏付けるだけの言動になってしまっています。

さらに大問題なのは、本来ニュートラルな圧倒的多数の国民も
誰彼構わず攻撃を行う人たちに
反発するというか、ひいてしまって
共同親権が世論とならないという最大のデメリットが生まれる
ということです。

女性であることに苦痛を感じていた人が
その差別を作ったわけでもないのに
恩恵を受けていただろう男性を不公正の観点から攻撃することは
心理学的に理解できるということは前回言いました。

女性から、女性の権利を口実に
不合理な目にあった男性が
それによって恩恵を受けるかもしれない女性一般に
敵対的な感情を持つ心理は全く同じだと思います。

しかしその感情は、圧倒的多数の一般国民には理解されません。
単なる「攻撃的な人」つまり一緒にいたくない人としか映りません。

考えてもみてください
家族解体主義者の最大のツールが曖昧な概念のDVです。
攻撃的な夫から妻を逃がさなければならない
というキャンペーンです。
この状況で感情的な言動をすることは
このキャンペーンに乗っかっていることになります。

共同親権は、離婚してもなお、
夫が妻を攻撃するための制度だという
家族解体主義者の主張を
裏付けをしているということになります。

家族解体主義以外のフェミニズムには積極的に賛同しても良いのです。
私はフェミニズムの観点から共同親権を主張することにしています。
特にジェンダーフリー論者からは叱られるかもしれませんが
男性は女性に優しくするのは、レディーファーストとかは
人間のあるべき姿だと思っています。
(思い込みDV対策として人類が育んできた有効な対策だった
と思うことで間違いはないと思います。)

批判するべきなのはフェミニズムという思想ではなく
家族解体主義という思想なのだということが腹に落ちない限り
共同親権制度の先行きはかなり怪しいということになるでしょう。

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現在に残存する戦争遂行イデオロギーとしての作られたジェンダー [弁護士会 民主主義 人権]



女性が女性であるがゆえに社会的に差別されているという側面は、私はあると思います。つまり、女性という「くくり」で見られて、不合理な扱いを受け、当然受けるべき利益を受けないという差別は確かに残存していると思います。
差別は、人類古来のものではなく、日本においても最近のものだと思っています。性別による区別は昔からありました。国民のごく一部を占める支配層では、厳然とした区別があったようです。政治を行う男性と行わない女性、戦を行う男性と行わない女性という具合です。もっとも奈良時代には執務は男性が行っていたものの女性も政治に参加していたような記録もあるようです。国民の圧倒的多数を占める農業においては、それほど性別での役割分担はなかったのではないでしょうか。家事においては女性が従事した率は高いでしょうけれど、電化製品が普及するまで、調理、掃除、洗濯は、時間がかかる重労働だったので、女性がそれらの行為を担当する割合が多いとしても、男女のどちらに価値が多くあるかという意識はなかったはずです。筋肉量が相対的に男性の方が多いので、より筋肉を使う農作業を男性が多く担当し、反射的に女性が家事を行うということは当たり前であり、みんなが納得した分担だったと思われます。

女性が女性であることで、差別、即ち、低評価を受けることになった時期は、明治政府樹立後であると仮定するとわかりやすいと思います。この時代以降、一部の職域だけでなく、全体的に男性であることの価値が付与されていきました。つまり、男は兵隊として使えるという価値です。
明治政府は富国強兵政策に大きくかじを取り、次々と戦争を行ってきました。1894年日中戦争、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦と10年おきに大きな戦争をしていました。その後日中戦争が1937年に始まりました。ちなみに明治元年が1968年、大正元年は1912年、昭和元年は1926年です。
これらの戦争遂行中、戦争反対の声は大きくは叫ばれずに、国民の支持のもとに戦争は遂行されました。日露戦争などは、講和条約の戦利品が少ないと言って日比谷焼き討ち事件が起きるほど、戦争による経済的利益を獲得することが国是となっていたようです。挙国一致体制を敷いて戦争遂行をしていたのだから、現代からすれば驚きです。第1次大戦までは、戦争にも牧歌的な面もあったとはいえ人を殺すのが戦争ですから、自然な感情としての戦争反対論が起きても良かったはずです。これがなぜ起きなかったかその理由を考えなければならないはずです。
私は、その答えとしては、明治政府が国民の価値観を戦争勝利一色に誘導する工夫を周到に、そして地道に行っていたからだと考えるのです。その方法が、子どものころからの教育だと思います。但し、学校教育ばかりではなく、文学や音楽などを通じた情操教育、文化の普及が大きな効果をもたらしていたのではないかと思うようになりました。
こういう戦争イデオロギーの論点でよく出されるのは、国家至上主義とか天皇制イデオロギー、軍国主義教育ということなのですが、私は、少し違う角度を考えています。もっと、国民一人一人の感情のベースになる部分に働きかけていたのではないかということです。あからさまな軍国主義イデオロギーを政府などが喧伝したところで、国民にそれを受け入れる素地が無ければ反発も起こるでしょう。軍国主義教育に対して国民が反発してしまえば、政府が瓦解して体制が変わってしまうわけです。昭和初期の国民の中でも、年配の人たちは軍国主義イデオロギーに反発していた人や馬鹿にしていた人もある程度いたようですが、それはそれとして戦争に消極的には賛成していたことになるようです。積極的に反対できなかった理由は、政府の締め付けや第二次世界大戦前夜の相互監視という強硬な事情もあったのですが、若年層を中心とした戦争が道徳的に正しい、あるいは必要悪、やむを得ない行動という根本的な価値観が確立されてしまっていたという事情があると思うのです。
この根本的な価値観を形成するキーワードが、「男は男らしく、女は女らしく」をはじめとして、「勧善懲悪」、「立身出世」であろうと考えています。明治政府以前はなかった。つくられた「日本人のこころ」を創作しだしたということになると思われます。
「男は男らしく、女は女らしく」に焦点を当て考えてみましょう。
当時の戦争戦略に照らした戦争遂行イデオロギーで意味があるのは、男は男らしくというところです。その「男らしい」の意味を考えてみましょう。
・いざとなったら命を懸けて戦うこと
・わがままを言わず自分の利益、感情よりも組織を優先すること、
・理屈を言わず寡黙に行動すること、
・上に立つ人を尊敬し、命令に従うこと、
・不言実行として言い訳を言わずやるべきことをやること、
こんな感じでしょうか。
要するに、自分の頭で考えないで上官の命令に従い、危険な行動でも国のために喜んで自発的に行うこと、当時の戦争の形態からするとこれが理想的な兵隊像になっていることはすぐにお分かりのことでしょう。
女は女らしくというのは、女性としての理想像があったというよりも、男はこうあってはならないという例示という副産物だと思います。男は女々しいことをするな、考えるなという対比の中で出てきた概念なのでしょう。要するに、兵隊でふさわしくない行動パターン思考パターンを「女々しい」ということで表したのでしょう。だから、男性の同性愛者に怒りを感じるようになるのは、国家政策が浸透した段階では必然的なことだったと思います。
戦前は姦通罪という犯罪がありましたが、戦後は廃止されました。これは夫のある女性が浮気をすることを罰するものです。どうして、女性を罰するのかというと、男性は兵隊として海外に行くわけですが、その間日本に残した妻が浮気をするのではないかと思うと闘いに集中できない。だから不安を少しでも解消するために、妻の不貞を犯罪にして社会が監視し、国家が刑罰を与えるということにしたのです。世界共通で姦通罪は徴兵制とセットで設けられる犯罪類型です。富国強兵のための法律ということになります。結果としては男女差別ですが、男女差別の結果ばかりが言われていて、その根幹が戦争遂行イデオロギーだということはそれほど指摘されていないように感じます。
このように考えると、男女の区別は自然に存在していたけれど、区別に価値が込められたのは、明治以降の、戦争遂行のための国家政策の結果だと思われてきます。要するに、兵隊さんになる男性は偉いから命を懸けて戦いましょうということです。男は闘うのは当たり前、外国の無理難題から日本を守らなければならない。そのためには、命をなげうってでも日本を守らなければならない。こういう流れる思考方法が幼いころから身につけさせられていたのでしょう。おだてあげられて戦地という危険な場所で人殺しをさせられていたというわけです。
男らしさ、女らしさという概念は国家によって作られたものであり、それ以前に価値観は込められていなかったという事情を示す証拠としては「方言」があります。特に東北地方の方言には、相手を呼ぶ際に、女性が男性を呼ぶ場合と男性が女性を呼ぶ場合の区別はありません。東北地方で言えば「おめ」ですね。共通です。言葉は、国の権力の中枢から等距離で広まっていくものだそうです。かつては京都が国の中心でしたから京都から同心円状に言葉が分布されていたようです。離れていればいるほど、言葉の伝わりが遅く、政権の影響も遅くなるということらしいです。明治時代の首都は東京都ですから、東京から離れるほど、言葉の流行から取り残されていくわけです。これは、富国強兵イデオロギー政策、つまり男女差別や男は男らしく及び女は女らしく、が先ず首都から始まったこと、あるいは地方に行くほど影響力が薄くなっていったということを表しているのではないでしょうか。男は男らしくということは、首都から始まり、地方に行くにつれて広まり方が弱まったということです。こう考えると日本国の世論が戦争を支持していたという場合も、例えば東北地方の農民の声がどこまで反映されていたか疑わしいわけです。戦争遂行イデオロギーを浸透させていく場合も、まず首都を固めることから始まったのでしょう。国の中心部の意見が容易に国民の世論とされてしまい、日本を動かしていたのかもしれません。
この男の子を文字通り兵隊予備軍として持ち上げる戦争遂行イデオロギーをどうやって普及したかということは、大変興味深いところですが、詳細はまたの機会に譲ります。ただ、ここでは、先ほど述べた通り明治以来一貫した文字、文章、歌によって普及していき、大正期あたりまでは、心の奥底に働きかけていくという戦略をとっていたということです。教科書、童話、童謡で、男は男らしく、女は女らしくという土壌を耕していたということです。そこで言われていることが当たり前のように感じられるようになっていったのでしょう。男らしくありたい、男らしくとはどういうことかということで、兵隊になるということが受け入れられやすくなったのだと思います。少なくとも、人の殺し合いである戦争なのに、男らしい行為ということで、自然にあるべきの戦争を嫌がるという意識が生まれにくくなったと思います。そうして、昭和のあからさまな戦争遂行イデオロギーにもいつの間にか従う素地が生まれたのでしょう。
童話で言えば、明治政府は、桃太郎、かちかち山、一寸法師等、話の原形は江戸時代以前にさかのぼるものの、原型にあった残虐な描写を割愛して誰しも受け入れられる表現に改めて、どのご家庭でも読み聞かせできる内容にして普及をしました。悪い者、弱い者を苦しめる者は必ず処罰されなければならない。この処罰をする男子は英雄視されなければならない。英雄視されるため、反撃については問題視されない。このような悪い敵を懲らしめることによって立身出世が叶う。勧善懲悪、立身出世、そしてその主体は男子であるという共通項があります。この考えが浸透すれば、残虐な描写はアクセスを妨げるために削除したほうが良いわけです。
もちろんこれに対して文化的に対抗した勢力もありました。それが「赤い鳥」創刊です。良質で、リアリズムにあふれた童話、童謡、絵が盛り込まれた鈴木三重吉を中心とした雑誌です。1918年に創刊されました。男らしくとか勧善懲悪とか、立身出世をテーマにせず、人間関係の再生、寛容、思いやりなどがテーマになっています。およそ兵隊の育成には向かない話ばかりです。その芸術家たちは、明治政府の戦争遂行イデオロギーの普及にあまり影響されない教育環境を得られたという条件を持っていたのかもしれません。「赤い鳥」は鈴木三重吉の死によって1936年に廃刊になります。第2次世界大戦が翌年から始まることと関係があるようにも思われます。

さて、現代に残る男らしさは、批判らしき批判も受けないで世間一般に肯定的に残存しているように感じます。
・いざとなったら命を懸けて戦うこと、
・わがままを言わず自分の利益、感情よりも組織を優先すること、
・理屈を言わず寡黙に行動すること、
・上に立つ人を尊敬し、命令に従うこと、
・不言実行として言い訳を言わずやるべきことをやること、
最もこの男らしさが幅を利かせているのは労働現場なのだろうと思います。企業戦士やブラック企業にとっては都合の良い兵隊像ということには変わらないわけです。しかし、あまりにも労働環境が劣悪になり、賃金水準も世界レベルに達せず、将来に向けた条件改善も見込まれませんので、徐々に男らしさのメリットがないことに気が付いていくことでしょう。
収入に男女格差をつけて、男性の方が女性より価値が高いということも、明治政府のイデオロギー政策の残存物としてみる必要がありそうです。現代の非正規雇用世帯では、賃金格差は不合理さがあらわになっています。それでも、賃金の男女差別は、不自然なほど是正が求められていないように感じます。

男性であることに価値があるということはそれほど普遍的なものではないことを示す資料もあります。近年、女性の若者が、自己の性的役割を受け入れがたくなっているとのアンケート結果があるそうです。それはそうだと思います。繁殖以外は、男女の区別の合理性がほとんどなくなっているからです。家事は電化によって著しく時間が短縮されました。労働も、電化やIT化によって、男女の区別の必要性が著しく小さくなっています。しかも、社会全体が、筋肉に負担のかかる労働に対して不当だと思えるほど価値を認め無くなっています。もはや、男性と女性とを生物的特徴以外で差別はもちろん、区別する理由さえ薄れていると思います。差別感は、自然発生的に存在したものでないならば、差別を助長するエネルギーが外部から注入されないと消滅していくものです。社会構造の変化の影響もありますが、元々、男女の間に価値の違いがあるとは考えないという方が自然的な考え方なのだということを表していると思われます。

女性差別をなくすことは合理的なことであると思います。ではどうやって差別をなくしていくか。この場合、一般男性を攻撃することはあまり意味のあることではありません。一般男性は、明治以降、戦争に駆り出されて、戦争が終わっても企業戦士ともてはやされて過重労働に従事させられていました。男らしさを求められた結果だともいえると思います。あるいは、身についた男らしさという価値観に抵抗する術がなかったという評価もできるのではないでしょうか。
女性の中には、女性であるがゆえに不合理な扱いを受けたり、利益を害されたりしてきたのですから、反射的に不合理な利益を享受していたはずの男性を「不公正」な存在として攻撃したくなるという感情は、心理学的には理解できます。しかし、それは単に自分の感情を満足させることであり、女性差別の解消の方向をむいてはいません。そのような誤りが起きる決定的な原因が、男女差別というものを人間社会の自然な社会感情、自然発生的な文化だと誤解しているところにあると思います。区別は自然なものだとしても、差別は誰かが、特定の目的をもって作ったものだと私は思います。私の考えが正しいとしたら、女性差別が自然な感情であるという考えは、差別解消に向かわないばかりではなく、国民を対立させて利得を得ることを容認することになると思われます。結局国民の間で差別があることによって利益を受けている人たちが喜ぶばかりではないでしょうか。最も利益を受けている人は、女性であるというだけで低賃金の支払いという恩恵を受け、いつでも雇用を打ち切ることができることを利用して利益を受けている企業だと思います。これからも何十年か、女性は、ミスリードを誘発する活動家によって、戦わないこと、逃げることを、押し付けられていくのだろうと思えてなりません。いずれ解消されるとしても、差別が温存される要因を作っている場合もあるように感じられます。


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片親疎外の作り方 とある団体の公式見解に最大限の抗議をする。子どもに自分の親に会いたくないと言わせてはいけないこと [家事]


離婚や別居で、子どもが一方の親とだけ同居している場合、
子どもが、もう一人の一緒に住んでいない親に対して
「別に会いたくない。」
という現象があります。

ちょっと考えてみればわかるのですが、
自分の親ですから、会いたくないわけはありません。
両親が喧嘩をしていても
子どもはもう一方の親とも
仲よく遊んだり、普通に話をしていたというケースが
ほとんどです。

ではどうして会いたくないというのでしょうか。
詳しくは考えたところを既にお話ししていますので。
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29
こちらを参考にしてください。

簡単に言うとこういうことです。

子どもは、今まで一緒に暮らしていた片方の親が
突然自分の目の前からいなくなっていますし、
その原因が十分理解できていません。

このため、親は突然いなくなるかもしれない存在だ
という不幸な学習をしてしまっていることになり、
今一緒にいる親も突然いなくなるのではないか
という不安におびえて精神的に不安定になっています。

また、ちいさい子どもは、
自己中心的にしか物事を認識できませんから
自分が悪い子だから、何か自分に落ち度があるから
もう一方の親は自分に会いに来てくれないのだ
と考えてしまうようです。

これは親を過労死で亡くした子どもも
同様の苦しみを見せることがあります。

ただでさえ、子どもは親の顔色を窺って成長していくものですが
一方の親と会えない子どもは
この傾向がいやがうえにも高まる場合があるわけです。

そうすると、親の意向に沿う自分でありたい
という感情が自然と強くなります。
一緒に住んでいる親をつなぎとめておきたいと
かわいそうにも思ってしまいます。

同居している親が、一緒に暮らしていない親を悪く思っていて
子ども会わせたくないという強い気持ちになっていることは
子どもは簡単に見抜いています。親子ですから。

また、親が子どもに対して、自分の味方になるよう要求する場合もあります。
自分の味方になるということは、子どもからすれば
一緒に住まない親と自分と同じように敵対しろということと同じ意味です。

子どもは、自分が、
一緒に住んでいない親と会いたいと言うと
同居親を悲しませたり、失望させたり、怒らせたり
場合によっては自分を嫌いになるのではないかと
色々な思いで、
「別に会いたくない」と言っているわけです。

少し子どもの年齢が高くなると
そういう感情的になる同居親が煩わしくなって面倒くさく
「別に会いたくない」という場合もあります。

それでも一緒に住んでいる親も
子どもが会いたくないと言っていても
本当は会いたいだろうなと気が付いているようです。
親子なので、子どもが無理していることは気が付きます。
しかし、
「支援」者たちは、その子どもに対する愛情なんてありませんから
子どもが「会いたくない」と言ったというそれだけの事情で
子どもに一緒に住まない親と会わせることは
子どもの意思を無視した「面会の強制」だというのです。

科学も、人情もない人たちが実際にいますし
そういう子どものことを考えていないことがはっきりしている見解を
得意になって正式に公表している団体もあります。
恥ずかしい限りです。
醜悪です。

それがどのように罪深いかが今回のテーマです。
どうか耳をふさがないで聞いていただきたいと思います。

子どもが会いたくないということは
一緒に住んでいる親の気持ちを感じ取って言っているだけで、
もう一人の親のことまで考えて言っているわけではありません。

しかし、会いたくないと口にした後で
自分の「会いたくない」と言った声が耳から聞こえてきます。
記憶に残ってしまいます。

年齢や性格によってもだいぶ違うのですが、
子どもは、もう一人の親の気持ちを想像してしまうことがあります。
一緒に住んでいない親と同居中に一緒に遊んだときなどの、
楽しい思い出を思い出しているとき
その親が笑顔で自分に優しく話しかけている時を思い出したとき、
自分の「会いたくない」という声が聞こえてくるわけです。

自分はなんてひどい人間なのだろうと
自己嫌悪になると同時に
申し訳ない気持ちになるようです。

もう一人の親に会えない理由は自分が悪いからだという
罪悪感に苦しめられることがあるようです。

人間の心は、その罪悪感に耐え続けるようにはできていません。
それなのに耐え続けてしまったら
だんだんと
自分はなんてひどい人間なんだ
こんな自分は価値のない人間だ
幸せになる資格がない人間だ
という自己評価が低くなってしまう危険があります。

人間は、本能的にこのような絶望を回避する
心のメカニズムがあるようです。
ちょうど熱いものに触ったら反射的に手を引っ込めるようにです。

どうやって罪悪感を感じにくくするか
それは、
自分が悪いのではなく、
一緒に住んでいない親が悪い人間だからこれで良いのだ
という正当化、合理化です。

一緒に住んでいる親の言うとおりだ
あの親は、一緒に住んでいる親を散々苦しめたのだ
自分が会う価値のない人間だ
自分と会って楽しむ資格のない人間だ
と一緒に住んでいない親を繰り返し否定していくことです。

親の前でも家裁の調査官の前でも
積極的に一緒に住んでいない親の悪口を言うようになります。
どんなに自分が苦しめられたか
記憶を変容させてありもしない事実を
さもあったかのように告げる子どもも少なからずいます。
(客観的事情から虚偽だったことが証明された事案だけでも驚くほど多い)

本当は些細な出来事だったのに
自分が泣いたという記憶と
別居後に作り上げた親の悪性格を
無理やり記憶の中で結びつけるわけです。
そしてそれが本当に起きたことだと
記憶を変容させるようです。

そのような虐待や悪感情が無くても
同居中に厳しくしつけられていれば
親が自分のことを想ってやっていたことでも
親の悪性格が原因で不必要に厳しく当たった
つまり虐待だったというように記憶を変容させるのです。

これは自分を守るために行う自動的に進行するプログラムです。

では、罪悪感を解消できたのであれば
めでたしめでたしでしょうか。

とんでもありません。
もしかしたら罪悪感に苦しみ続けるよりも
悪影響が出てくるかもしれません。

つまり、罪悪感を感じなくするために
新たに罪悪感の理由となる行為を上書きしていくわけですから
最初の罪悪感が消えても
上書き行為の罪悪感が新たに加わるからです。

それでは、
罪悪感を感じなくなるまで
一緒に住んでいない親を否定しきったらどうでしょう。

これまで述べてきたことは
「片親疎外」という現象が現れるメカニズムです。
この片親疎外の最大の問題(子どもが受ける深刻な影響)が
親を否定しきるということなのです。

ちょっと考えればすぐ気が付くことですが、
自分(この場合子ども)という存在は
半分はその親の遺伝子を受け継いでいるわけです。
(昔は血を分けたという言い方をしていましたね)

自分のルーツの半分を否定しまったとすると
「自分とは何か」ということ考えるようになった場合、
自分が極めて不安定な存在だということなり、
自分とは何か分からなくなってしまうとされています。

自分は、完全に否定するべき親と
全面的に支持し助けなければいけない親という
完全に対立する性質を持つ親の子どもだ
ということになってしまうからです。
じゃあ、自分は何者だということが分からなくなることは
想像しやすいのではないでしょうか。
これが起きる時期は15歳ころだとされています。

他人は、「人は親がすべてではない」と簡単に言いますが
本人は、そう割り切ることはできません。
当たり前だと思います。
他人や支援者は、ちょっと考えればわかることを
考えようとしません。
子どもと一緒に暮らしている親の「支援」で頭がいっぱいだからです。

片親疎外が完成してしまうと
自分というものが何だか分からなくなり
自信を持てなくなり
自分が幸せになることはできないのではないか
自分が生きている価値があるのだろうか
という感覚になる危険があるわけです。

15歳くらいから引きこもりがちになり
20歳前で精神科病棟に入退院を繰り返すお子さんたちを
何人か見てきました。

しかし、病院は、片親疎外という知識がありませんでした。
あったとしても、少なくとも治療の方法を身に着けていないようです。
なかなか良くなることはありません。
統合失調症、人格障害などと病名をつけていたところもありました。

そのうちのおひとりは一緒に住んでいない親御さんと
交流をすることができるようになり
就職ができるまでに回復しました。
一緒に住んでいた親御さんも
もう一方の親との交流に頑張って協力されたことがわかります。

その他の事例はその後連絡が取れなくなっているので
お子さんが社会復帰できたのかわかりません。
大変心配です。

子どもは、体が成長するということはみんな知っていますが
心も成長するということは
あまり意識されることがないようです。
自分の振る舞いで子どもの心の成長を阻害することに
一緒に住んでいる親は気が付きません。

子どもが自分を思いやって
一緒に住んでいない親の悪口を言っても
「あなたの親なのだから悪く言うのはやめなさい」
という方は必ずしも多くないように感じています。

自分の心を守ることで精いっぱいだからです。

子どもは成長するものだということは、
今子どもに問題が生じなければそれで良いというわけではない
ということなのです。
このままでいると子どもが何年後かに悪い影響が出てきてしまう
という今は見えないけれど、
将来の子どもの成長を見通して
子どもがどうあるべきかという考えをもつことが
なかなか家庭裁判所でもできていないと今日も実感しました。

子どもは自分で自分の将来を見通すこともできませんし
両親が仲良くしていてほしいという
当たり前の希望も、
自分の胸にしまってしまい
自分でも気が付かないふりをしているわけです。

「子どもの意思を尊重する」と
さも、もっともらしいことを言って
子どもに「会いたくない」と言わせて
ほらだから会わせないんだ
強制はするななどということが
いかに愚かしく、子どもに対して残酷なことか
少しでも多くの方に理解していただきたいです。

子どもの一番言いたいこと
「お父さんとお母さんと仲良く笑って安心して暮らしたい」
という意思を
誰も尊重しようとしないではないですか。

自分達に都合の良いときだけ
子どもの意思を尊重するという大人たちに
強烈な嫌悪、憎悪を覚えます。

片親疎外の悪影響を受けることは
子どもの自己責任ではありません。
両親、裁判所をはじめとする法律家という大人の責任です。

片親疎外はお子さんの性質や
一緒に暮らしている親御さんのふるまい
親以外の人間交流によって
影響が出るお子さんと出ないお子さんがいます。
それは間違いないようです。

ただ、一緒に暮らしている親御さんと
一緒に暮らしていないもう一人の親御さんと
両方から養育されて、愛情を感じているお子さんには
確実に片親疎外は出ません。
簡単に防止できることだと言えます。

子どものことを何も知らないで
勉強もしないで
ちょっと考えればわかりそうなことも気が付かず
つまり人間の心、情を忘れて
冷酷な意見表明をしている人たちは、
子どもを危険にさらしていることに
生まれてきた意味を見失う子どもたちが生まれることに
どうやって責任を持つというのでしょうか。

わからないことは黙っているべきだと思います。
物言わない子どもの利益を全く考えない考えを
心から軽蔑します。


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第20回 意見が違う時の歩み寄りの方法 コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント20 [家事]

新婚時代は意見が違えば無条件に相手に従うわけです。
対立は起きません。

しかし、しばらくすると
相手はいつも自分を優先してくれなくなりますから
(母親と赤ん坊の関係ではないので)
本当に自分は愛されているのかしらと
疑問に思うことが少しずつ増えていくわけです。

自分の意見に反対されると
自分をないがしろにしているように感じてしまうわけです。
だから、自分を守るために自分の意見を通したくなるようです。

第三者から見ると
どうしてそんなくだらないことにこだわるのと思うことでも、
その時は自分を守る戦いになっているから必死です。

例えば、週末は海に行こうねと言ったのに、
疲れているから外出したくないと言われれば
以前なら「それは休んだ方が良い。ゆっくり寝ていてね。」
と言えたはずなのに、
自分が愛されているという自信がなくなると
せっかく楽しみにしていたのに、
自分がないがしろにされている
と瞬間的に被害的に考えてしまうわけです。

自分との約束なんてどうでもよいということかという意識になるようです。

確かに、約束は守らなければならないということが道徳でしょうが、
家族の中には約束よりも相手の体調、場合によっては気分を
尊重することが真の道徳だと思います。

前のように、「じゃあ今週の週末は家でのんびりしよう
私がランチを作るよ」というようなことを言えば
相手も体調を整えて次の週末に海に行けるのですが
争いになってしまうと
海に行くこと自体がうっとうしくなるし
お互いの関係もしっくりこなくなることがあります。

まず考えるべきことは家族を怒らないという鉄則です。

家族の意見と反対の意見にこだわる理由になりそうなことは
約束、合理性、道徳、あるいは常識、正義、権利法律ですから、
これらの言葉が自分から出た場合は特に気を付けましょう。
そして、むきになって意見を言っている自分に気が付いたら
「自分」が「相手」から被害を被っているという考えは極力捨てて
「二人は」、「私たちは」どうするべきか
という発想で考えてみるようにしましょう。

約束を破る方は、家族ですから遠慮しなくてよいのですから
身構えず、
楽しみにしていたのに申し訳ないと
ヘロっと謝るくらいの心の余裕を持った方がうまく行くでしょう。
相手はあなたから尊重されないと感じたから怒るのだから
しっかり謝るとか、代替案を提案するとか
相手のことを自分は尊重しているということを分かってもらえればよいわけです。


千字式は、今回20回目でいったん終了します。
また思いついたら、突拍子なく第21とか言いながら始めるかもしれません。
一家族でもより多くの家庭が安心の場所になりますように
お祈り申し上げます。
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第19回 赤ん坊が生まれれば上の子が可愛いと思えなくなることは当然 だから上の子を意識的にかわいがることが大切 コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント19 [家事]



新たに赤ん坊が生まれてしまうと
上の子が可愛いとは思えなくなって
自分はなんてひどい親なんだろうと悩まれる人がいるようです。

悩む必要はありません。全く正常な感覚です。

人間が哺乳類である以上逃れられない宿命です。

「可愛い」という感覚は、
小さくて弱い者を守ろうとするときの感情なのですね。
そうやって哺乳類は一番弱い赤ん坊を
守ろうとすることができたわけです。

もしこの感覚がなかったら、
自分が大事ということになってしまって、
赤ん坊が泣こうが気にしないで
自分の都合を優先してしまいますから
弱い赤ん坊は簡単に死んでしまうわけです。

これでは、子孫を残すことができません。
その種は絶滅しまいます。

弱い者を守ろうと進化したというよりも
弱い者を守ろうという仕組みを持った種だけが
子孫を残したと考える方がわかりやすいと思います。

だから可愛いという感情は、
われわれ人間が赤ん坊をかわいがることによって
子孫を残してきた遺伝子的戦略
本能的な感情です。

赤ん坊が生まれると2年くらいは、
母親の脳が生理学的に変化して
生まれたばかりの赤ん坊をかわいがるように脳が動き出すそうです。
もっとも個人差はあるみたいです。

さて、人間は他の多くの哺乳類とは異なり、
子どもが大人として独り立ちするのには
途方もなく長い時間を必要とします。

だから、兄弟が同時に同じ家族の中にいて
同時に同じ大人に養育されているという形態をとります。

かわいく感じてしまう赤ん坊と
それほどかわいく感じられなくなった上の子と
子どもが複数いるご家庭では
多かれ少なかれそういうことが起きているわけです。

赤ん坊が生き抜くためには仕方がない体の仕組みなのですが、
上の子もかわいそうです。

うまくできていることは、人間には本能だけでなく
理性や言葉が備わっているということです。

自然には可愛いとは思えないお姉ちゃんお兄ちゃんには
理性で愛情を示せばよいということになります。

言葉というものは便利なもので
「あなたが一番大切だよ」ということは
苦労しないで言えるわけです。
あとは食い物での特別扱いですね(私基準)。

もう一つ人間には進化で獲得したものがあります。
それは家族です。
他の動物は母親が子育てをしますが
人間は家族で子育てをします。
母親だけで子育てをすることは
年代の違う子どもが同時に存在する人間の養育形態では
無理がある話だと言えると思います。

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第18回  自分を守ることをやめて家族全体を守ろうと切り替えることが自分を守る最大の方法かもしれない 自分を勘定に入れるということ コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント18 [家事]



一緒に住んでいると多くの時間を共有しているわけですから、
誤解が生じたり、うっかり虎の尾を踏んだりして、
けんかが起きる可能性はあるわけです。

それら日常の不満が蓄積されたり、
体調の問題が悪く影響を与えたりして、
家族の中に深刻な亀裂が生じてしまうことも見てきました。

「自分は妻の被害者だ」という夫も、その逆も当然いらっしゃるわけで、
ある局面だけを見ると、そう思いたくなることも当然だということは確かにあります。

でも、そのときは被害者なのに、
過剰な反撃をしてしまえば加害者になってしまいます。
家族は再生の方向に向かわずに崩壊し、
子どもたちが犠牲者になってしまいます。
また、当事者夫婦もやはり大きな痛手を受けます。

家族の再生、メンテナンスは、
早いうちに細目に行う必要があると感じています。
でも相手から攻撃されてしまうと、つい反撃をしてしまうのが人間のようで、
反撃すれば相手にとっては新たに攻撃されたという記憶になるだけなのです。

どうしたらよいでしょうか。

なかなか難しい話なのですが、
家族の間では、自分を守ろうとすることをやめることが一つの方法です。
生きるという行動と逆行する行動ですから、自然にできることではありません。
自分を攻撃にさらし続けるという発想は、精神的にも悪いと思います。

ここで発想を切り替えるということの提案です。
自分を守るという意識から
家族全体を守るという意識に
切り替えるということです。

相手の言い分、子どもの言い分や利益、
そして自分の言い分、
そのすべて守ろうと考えるということです。

この時自分の言い分も正当に取り上げることが肝心です。
全員の言い分が通ることはないのですが、
できるだけ家族全体の利益を守るためにはどうしたらよいか、
その中で自分は家族のためにどのような役割を果たすべきか
という発想に立つということです。

このような形での自己犠牲は人類は誕生の時から行っていますから、
比較的無理がありません。

問題は自分が攻撃されているときに、
家族という仲間意識を持てるかということにあるかもしれません。

そうやって、対立関係から離脱できれば、相手を攻撃しなくて済みます。
家族が再生されれば、自分にとっても利益になるというわけです。

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第17回  相手ができないことをフォローすることは実は相手を傷つけていることがある こういう時こそデリケートさが必要 コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント17 [家事]



今回は難しい問題です。
どうしてそうなるかの説明は簡単なのですが、
じゃあどうすればよいかということが難しい。

そして、結構「あるある」の問題のようなのです。
そして、われわれは良かれと思ってやる場合、
結構無神経に、雑な行動をしてしまっている場合があるようです。

人間いろいろできないことってあるわけです。
仕事でもそうですが、
家庭でよくあるのは、
片付けができない。掃除をしない。調理が苦手。お金の計算が苦手。

他の家族は、それが「できない」ということをなかなか理解できません。
サボっている、自分を馬鹿にしているとか思う人まで出てきてしまいます。

じゃあ、「そっちができないならこっちがやるよ」で本当は良いのでしょう。
しかし離婚事件では、
どうやら自分のできないことを上手にやって見せることで
自分が馬鹿にされている、否定されていると感じてしまい、
それが蓄積して憎しみになってしまうことが案外多いようです。

片づけをしない妻を見るに見かねて、夫が片づけをやり始めたところ、
妻が包丁を振りかざして片付けをやめろと脅かされるというケースもありました。

片付けをしているときに、
眉を寄せていやそうな顔をして片づけをしてはならないということはわかることだと思います。
言葉には出さないものの相手を明白に責めていますから、
相手は自分を守ろうとして逆上していると整理することができます。

問題は、ニコニコして片付けをするとか、
こちらがやるのは当たり前だと言いながら片づけをする場合でも、
やはり不快な気持ちになる場合が多いということです。
対処が難しい。

どうすればよいのか、特効薬が見当たらないのです。
ただ、例えば今の例で言えば、
夫が片付いていないことをそれほど気にしていないけれど、
片付けられないことに妻が気にしていて、
妻にしてみれば夫からの評価が下がるという不安を抱いていることがあるということです。

妻自身、世間がそれを許さないだろうという気持ちを持っていますから、
当然夫も自分を軽蔑しているだろうと常々おびえているのかもしれません。
その敏感な部分に触る行為ですので、
デリケートな対応が必要な場合があるわけです。

相手にやってもらってラッキーと思える図々しさがあれば簡単なのですが、
案外繊細で責任感も強すぎる人なのかもしれません。

でもできないものはできないのです。

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