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苦しんでいる人に寄り添うカウンセリングが人間関係を破綻させるメカニズム。母親の味方をして父親を攻撃する子は、必ずしも父親を嫌いなわけではないこととの共通性と許されない相違。 [事務所生活]



私は、何年か前から、一部の精神科医や心理カウンセラー、それと何も考えないでマニュアル通り対応する一部の弁護士や行政などの支援者が、傾聴とか言って、精神的に苦しんでいる人の「言葉」を否定せずに、「寄り添い」とか言って、すべて駄々洩れのように肯定し、あろうことか、積極的に言語化して「こういうお気持ちですね。」などと念押しまでしていることに違和感を覚えてきました。本能的に言い知れぬ不快を感じていました。

また、そのような「寄り添い」が、壊れなくても良い人間関係を壊し、結局当事者を孤立させるなど、新たな不幸を招いていることもみてきました。

(夫婦間のケース)
典型的な話は夫婦間の話です。色々な理由で、妻なり夫なりは、夫婦でい続けることに自信が持てなくなることが多くあるようです。自分が嫌がられているのではないかと思うことがあるのが実際の人間のようです。その疑心暗鬼が体調や偶然の出来事が原因で病的になることもそれほど珍しくありません。そんな時、誰かに相談をして、「それは夫の(妻の)モラルハラスメントです。あなたが苦しいのは当然です。」等と言われれば、単なる疑心暗鬼が、自分が迫害を受けているという確信に変わり、仲良くし続けたかったはずの相手が、自分にとって害悪をもたらす「敵」に変わっていってしまいます。このようなケースの離婚は、最近多いです。こういうケースの場合に離婚を突き付けられた相手は、自分の何が悪いのか心当たりがありませんから、離婚自体を激しく争うわけです。また、二人の間の出来事が悪意に満ちて表現されて裁判所で主張されるわけですから、新たな憎しみがおこるわけです。裁判所は関係破綻のアリ地獄のような様相を見せます。

(親子間のケース)
親子関係が壊されるケースがありました。子どもも大きくなりかけた人が、精神的に悩んでいてカウンセリングを受けたところ、その相談者の母親の相談者に対する育て方が悪い、育て方が原因で相談者は苦しんでいるということになってしまって、相談者は母親を攻撃するようになってしまいました。相談者は、ある心理的に影響を与えた出来事をカウンセラーに隠していました。軽いミュンヒハウゼン症候群みたいなところがありました。その相談者が嘘をついたことでその相談者自身が不利益を受けることは仕方がないのですが、その相談者の母親は攻撃を受けてとても苦しむようになりました。その相談者の母親はこれまで働きながら家事をして一生懸命生きてきたのですが、その人の人生そのものが否定された結果になりました。

(いじめ被害者の家族)
いじめを受けたお子さんの親御さんについても同じようなことがありました。いじめの被害者は、実際よりも孤立していると感じやすくなっています。よく聞くと大抵のケースでは、いじめられている子を心配して、手を差し伸べる子がいるもので、その事実をいじめ被害者も認知しているのですが、手を差し伸べている、自分を心配しているというその子の心情を理解できない状態になります。支援者は、その子の歪んだ認知を肯定してしまい、被害者と家族を絶望させ、何らかの差別からいじめが始まったと思わせてしまい、破れかぶれの攻撃を仕掛けさせてしまいました。本来支持されるはずの被害者家族は、その行動によって地域から孤立してしまい、いじめによる被害のスパイラルが拡大してしまう要因を作ってしまいました。

(いじめを受けた本人のケース)
噂話を流されて、心理的に参ってしまった人のケースもありました。特定の人が相談者に対して、何度もやることなすこと揚げ足をとるようなSNSを発信していました。言われている被害者は、だんだん認知がゆがんでしまって、自分がこんなことを言うと自慢話をしていると言われてしまうとか、こういうことを言うと批判されてしまうという「被害者の心理」に陥っていました。その批判者の論理や価値観で物事を考えるようになってしまっていたのです。支援者は、その批判者の論理を前提として、発言や行動を控えようとしていた被害者の行動を支持してしまいました。しかし、それは、批判者の論理や感情が一般的な社会常識であり、従うべきことだという被害者の被害者の心理を増強させてしまいました。被害者の要求がそういうものでしたので、その被害者の要求の言葉に無条件に寄り添ったわけです。私は、行動を控えるということは一次的には賛同したものの、社会常識的に考えて、それが自慢と受け止める人はいない。悪意のある人でなければ自慢とは取らない。批判があったとしても正当ではないと思うと言いました。被害者の言葉を肯定し、承認するのではなく、批判者の論理、価値観を否定することが必要なことではないかと思いました。

もちろんカウンセリングが有効ではないということを言いたいのではありません。私自身、信頼しているカウンセリングチームや精神科医に対して、自分の依頼者を積極的に紹介し、精神的体力を整えて人間関係の紛争を解決するという手法をとっていますし、その方法論の第1人者であると自負もしています。

しかし、真面目で優しい、そして正義感が強い心理的支援者ほど、間違いを犯すことが多いように感じていることも言うべきだと思うようになりました。

ところで、このように人間関係に苦しんでいる人は、感じ方が「被害者の感じ方」になっていることが多いです。実際の困った事態以上に困って苦しんでいるのです。「被害者の感じ方」としては、
悲観的になる(どうせだめだろう。状況はますます悪くなる。)。
二者択一的になる(どちらが善でどちらが悪か。敵か味方か)。
原因を単純化して特定して責めたくなる(私を苦しめるのはどの人)。

カウンセリングは、このような感じ方の変化(認知の歪み)を見つけて、修正し、必要以上に悩まなくなるように、誘導するべきなのではないかと漠然と考えています。ただ、苦しんでいること自体は否定することはしてはらないということは素人の私にもなんとなくわかります。
もっとも私は弁護士ですので、認知の歪みを正すことを目的とした支援をするわけではありません。人間関係の不具合を是正する、あるいは緩和することが仕事の内容です。認知の歪みを積極的に見つけるということは二の次の話です。こういうアプローチにはメリットも多くあるようです。修正するべき人間関係がない、あるいはそれほど修正の必要性が高いとは思えないということを指摘することができるのは、そういう仕事の性質というアドバンテージがあるのかもしれません。テクニックというよりも、自分がこれまで歩んできた経験と合理的な第三者的思考を活かすというか、まさに人格対人格の切り結びの中で一番良い方法を考えていこうというアプローチというしかないのかもしれません。操作的テクニックがあるわけではないのだろうと思います。
また、状況によって被害者の心理が生まれることも理解することは大切です。本来そのように苦しまなくても良いのに苦しんでしまうことが人間の心理というか生理というか、ごく自然なことであることも説明することができます。
つまり、
「あなたが、苦しんでいることには理由がある。私があなたでも同じように苦しむでしょう。それはこういう人間の性質から苦しんでしまうし、実際より余計に苦しんでしまう。誰でもそうなる。実際の状況はこうである。そうすると、こういう戦略をとる必要はない。そういう戦略はデメリットが大きく、こういう新たな不利益を生みやすい。むしろ、実際の状況がこうなのだから、この人を味方に引き入れることができる。しかし、相手方の負担を考えると、ここまで協力してくれれば御の字で、これ以上初めから要求するべきではない。大事なことは着地点をどこにすることを目標として、現状よりどう改善するかだ。」
と、問題解決の方向に発想を切り替えることが可能となるわけです。

一部の支援者やカウンセラーは、どうしても、目の前の苦しんでいる人を助けたいと思われるのでしょう。苦しみを否定したくない、あるいは否定してはならないという縛られた発想から、その人の歪んだ認知にもとづく苦しみの原因についても否定しないという誤りを犯してしまう原因がここにあるようです。結局、この人たちは、苦しんでいる人がその人間関係の中でこれからも生活することをリアルに想定していないと批判するべきではないでしょうか。相談に来た自分の前で、苦しんでいる人の苦しみが軽くなったという報告を受けたいということになるように思われてならないことが最近特に多くあります。だから、アドバイスの結果、その人間関係にいることがその人の苦しみの原因だということになってしまい、乱暴にもその人間関係からの離脱が単純な結論になってしまうのかもしれません。人間関係の離脱を自己目的化したマニュアルもあるようです。まじめな支援者たちは、そのことに気が付いていないようです。そうして、今の苦しみから逃れたいと渇望している人が、藁をもすがる気持ちでその人間関係から離脱して、その結果生活が苦しくなって、相談員に相談をすると、その相談員は自分が責められていると感じて、その離脱は「あなたが決めたことです。」等と平然と言ってしまうことができるのだろうと思います。一時的に心が救われたらよいというわけではないと言いたい事例は残念ながら多いです。

よくあるケースですが、専業主婦の相談者から、私は毎月の家計を夫から2万円しか渡されていないという類型の相談がされることが良くあります。そうしてその相談の結果、経済的虐待だということが離婚の大きな理由として離婚訴訟が提起されることがあります。しかし、よく話を聞くと、夫の収入は手取りで20万円以下。光熱費や子どもの学費は口座引き落とし、食料品や雑費は毎週家族で買いに行き、これは夫が出している。結局その2万円は、妻の小遣いだったわけです。もちろん小遣いとしても少ないという不満は正当ですが、ある意味仕方がないということも言えるわけです。もちろん夫には小遣いはありません。どちらかというと、虐待されているわけではなく、精いっぱい尊重されていると私は思います。私ならば、相談を受けたとき、そこまで聞きます。最近の相談員は、簡単に相談者の相手を否定評価してしまいます。この事例等、完全にミスリードです。自分は小遣いもないのに妻には精いっぱいのお金を渡しているのですから、妻は愛されていると思いますよ。給与明細を見せないという不満も聞かれますが、それは妻をないがしろにしているというよりも、自分の収入の低さを気に病んで事実を見せたくないという気持ちではないかと自分の考えを伝えるわけです。どちらが正しいかはご本人が判断することですが、選択肢は本来たくさんあって当たり前のはずです。しかし、一部の相談員に相談に行くと、不思議なまでに選択肢は一つなのです。
但し、これは思想的なものとばかりは言えないようで、どちらかというと相談者の心に「寄り添う」ことを第一に行わなくてはならないというカウンセリング手法に問題があるように思えてきました。人格的な切り結びという、相談員にとってもかなりの精神的体力が必要な相談手法を省略して、マニュアルをなぞる相談手法は楽なのだと思います。でもそれって、相談者をある意味人間扱いしていないのではないかという恐怖を感じるところです。

さて、このように目の前の人の感情を緩和させることが唯一最大の目的で行動することを事件の過程でよく目にします。
別居や離婚をした母親の苦しみを緩和させるために、父親を攻撃する子ども(特に娘)の事例です。このメカニズムについては、既に長々と考えましたので、割愛します
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29

子どもは一緒に住んでいる母親が苦しんでいることを目撃すれば、母親の苦しみを軽くしてあげたいと思うわけです。母親の苦しみには自然と共感してしまい、自分も苦しくなるからです。そうして自分が父親を嫌っている、必要としていないということを言うと、母親の苦しみが軽減することを体験的に学習してしまっています。ありもしない父親の暴力があったということを言い出すと母親が安心することも学習しています。母親は病的に苦しんでいることが実に多く、不安症圏の診断名が付いていることも多くあります。実際は頭部外傷の後遺症であったり、婦人科疾患によるものであることも多くあります。子どもにとってそんなことはどうでも良いことです。一緒に住んでいる唯一の肉親が苦しんでいるのだから無条件に何とかしてあげたいと思うわけです。同居中の真実なんてどうでもよいわけです。
実際は見ていない(存在しないし、存在したとしてもその場にその子どもはいない)夫婦間暴力によって、PTSDの診断がついてしまうのも、あながち精神科医が適当なことをやっているというよりも、繰り返し母親から聞かせられた出来事や母親の精神的苦痛が刷り込まれて、自分の苦痛だと思ってしまっているという事情があるのかもしれません。
離婚調停などで、子どもは、調査官調査の中でとか、母親が書かせた子どもの陳述書などで父親を攻撃する言動をしているかもしれません。しかし、それは、母親を守ろうという意識が精いっぱいで、それ以上物を考えていないからです。それから、同居中の記憶が失われていたり、本当は、自分が悪く親から注意を受けている場面も、親が自分に暴言を吐いたというように記憶が変容しているからです。子どもはけなげに自分の母親を助けようとしているだけなのです。
これ冷静に考えると、同居中だって、夫婦喧嘩の時に母親が先に取り乱せば母親の味方をすることが多いように思うのですよね。父親は裏切られたと思うのですが、結局被害者アピールを見せる方に、子どもは味方するわけです。だから、

子どもに正当なジャッジを期待していけない

ということは、親として肝に銘じなければなりません。また、子どもは、父親に会うことが現実的になった場合、罪悪感に苦しみます。実際会ったときに、父親が「あの時悪口を言いやがったな」という気持ちになれば、顔に出て、面会はぎくしゃくします。そうではなく父親が「そんな事ちっとも気にしないよ。パパの代わりにお母さんをかばってありがとうね。」という意識で、いつも通り「やあ。」と言えば、子どもはすべてを許してもらったことを理解し、時間の流れを飛び越えて同居中と変わらない関係が瞬時に再現できるわけです。
(困ったことは、こういう子どもの気持ちを家裁の一部の調査官が理解していないことです。子どもの矛盾した言動が矛盾していることにも気が付かないし、別居親を否定するときに具体的なことを言わないこと、すべて調停や訴訟で出てきた同居親が主張した出来事しか言わないということに疑問を持ちません。母親の意識とは独立して子どもの意識があるはずだとか、子どもしか知りえない様子があるということを理解していない。つまり子どもが独立した人格を有する人間であることに思いが至っていないと感じます。子どもの発した言葉を言質を取ったように考察の根拠としています。)

子どもは母親と人格的な切り結びをすることは無理です。母親が子どもに依存すればするほど子どもも母親に奉仕しようとするし、喜びや悲しみという感情さえも依存しようとしてしまうようです。その関係にくさびを打つ可能性があるとすれば、それは父親の子どもに対する寛容の姿勢を示すこと。そこからしか物事は始まらないのだと思います。


いずれにしても、子どもが母親(場合によっては父親)をかばうことは、大目に見なければなりません。父親を攻撃しているわけではありませんから。しかし、中途半端な職業支援者が、クライアントを擁護するために、別の人を攻撃した場合は許されることではないと感じています。クライアントの気持ちを軽くすることはよいとしても、だからといってそのために別の誰かを傷つけて良いということにはなりません。そして、そういうクライアントしか人間として認めない手法の支援は、結局クライアント自身も苦しみから解放しない可能性が高いということからです。

自分の人格を総動員して、相談に乗る。こういう姿勢がない相談は、相談者にはわかられてしまうと思うのですが、どうなんでしょう。
ある相談員のおおもとの組織のあるマニュアルというものを見て、危機感が募ったものだからこんなことを考えてみました。

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仲良くしたいなら、言わなくてもよいことを言わないことがいかに大切か。夫婦間紛争に見られる言わなくても良いことを言ってしまう現象。共感を示す訓練としてのSNSの活用 [家事]


夫婦問題だけではなく、SNSなんかでもそうですよね。
本当はお互い仲良くしたいのですが、第三者から見て喧嘩を売っているようにしか見えない行動ばかりする人っていますね。そんな発言を自分に浴びせられ、時には衆人環視の下で攻撃を受けていると感じさせてしまう。それでも、言っている本人はそのことに気が付かない。前の前の記事でも書きましたが、自分は正当な行為をしているからやらなくてはならないことをしているという正義感が、人に対する攻撃を可能にするわけです。まあ職業的にやっている人もいるようですが。

例えば、そういうことが積もり重なって、妻が家を出ていくという段階になれば、もはや妻の側が怒りの攻撃モードですから、何の容赦もなく夫を精神的にも踏みにじるわけです。裁判所での離婚手続きでも専門家から見てかなりえげつないことを主張するなということもあります。
でも、同居を始めた段階では、後にそうなってしまった妻も、夫と仲良くしていたい、ずうっと添い遂げたいと思っているものなのです。むしろその気持ちが無ければ、夫からどんなことを言われても傷つくことはないし、利用するだけ利用してちょうどよいときに離婚すればよいやと割り切ることができるわけです。

むしろ、仲良くしていきたいと思うから、夫の些細な言動にも傷つくのです。

これは、第三者としてみればよくわかることです。しかし、おそらく当事者は、結果として相手から攻撃されているという感覚をもってしまっていますから、その結果自分を守ろうとする気持ちが強くなっているために、相手の弱い部分が見えてこないのだろうと思います。こう整理すると、とても当たり前のことに思えるから不思議です。

精神的ダメージとは何か。これは、自分を守れないという見通しを持ってしまうことです(まあそう割り切って考えてみてください)。守れないとはどういうことか、自分の危険を回避することができないということです。自分の危険とは何か。それは一つは身体生命の危険です。もう一つは、対人関係的危険です。対人関係的危機とは、今いる人間関係に安住することができない、追放されるという危険です。人類は言葉がない時代からこの対人関係危険をもち、生命身体の危険と同様に反応して、行動を修正して群れをつくることができたのだと考えています(対人関係学)。

現代の日本社会では、心理的に夫婦関係に依存する傾向があり、自分が夫婦という立場で尊重されていないと感じるととても不安になるようです。「尊重されていると感じ続けないと不安になりやすい」ともいえると思います。仲良く過ごす時間が多いほど、自分の要求が認められやすいほど不安が少なくなります。逆に仲良く過ごす時間が短いほど、自分の要求を相手がかなえないほど、この関係が長続きしないという見通しをもってしまい不安になっていくわけです。
男女差がどこまであるかわかりませんが、事件に現れた限りの共通項として、妻が夫に求める要求が、共感を示してほしいということのように感じます。
そうだね。
あなたの言うとおりだと思う。
おんなじことを考えていた。
そう言われればその通りだね。
その気持ちわかる。
賛成です。
そのセレクト感じよいね。
等々、実は私も共感の示し方は修業中の身です。

まじめすぎる男性に、経験者のアドバイスとしては、

共感を「する」のではなく、共感を「示す」という発想が大切だということです。

夫婦といっても、元々他人ですし、育った環境も経験も違う。だから、性格が一致することありえません。若い頃は幻想を抱くものですが、繁殖期を過ぎる頃は夢見るころを過ぎる頃です。現実に気が付きます。でも知恵が生まれます。経験値も獲得しています。共感を示すこと自体はだれでも比較的簡単にできることです。

共感を言葉にしていくうちに、だんだん自然と共感できていくということもあるわけです。心は後からついていくものです。私なんかが示した共感で相手が安心してくれるならば、なんてありがたいことでしょうか。人間としてこの世に生まれてきた意義を感じるわけです。それでもこれができない。相手に精神的ダメージを与えることを言ってしまう。こういう問題だと思います。

見当はずれの正義感を持つのは良いとしてもそれを言っても何も良いことが起きないことを言うことでどういうことが起きるでしょうか。

相手は本能的に自分の行為を肯定してほしい。共感を示してほしいと思っているのです。つまり仲良くしたいということなのです。それなのに、ついつい言わなくても良いことを言ってしまうことで、きれいともいえる見事なカウンター攻撃をしているわけです。

例えば、
「パラリンピックって感動するね。
 望みを捨てないで頑張ることの尊さを教えられるね。」
という言葉に対して、
「緊急事態宣言下でやるパラリンピックなんて信じられない。
 パラリンピックやめて、医療従事者をコロナ治療に回さないと
 自宅で死んでしまう人が増えてしまうだけだよ。」
という何気ない会話があるとします。

最初の発言者は、純然とパラリンピック見て感動したということを言いたいわけです。発言者からすると感動した気持ちを共有したいことがわかります。しかしこれに対して、パラリンピックの選手の頑張りとは違うことを言い出してもっと別の感覚を持たなければならないと相手の発言を否定して、感覚までも否定してしまっているわけです。後者の発言(政治的な意味ではない)をする男性は結構多く、我が身を振り返ってもそうかもしれないと思うことがあるのですが、あなたが夫婦の会話で正しいことを言ったとしても世の中に何の影響も与えないわけです。世界中で何一つ良いことはおきない。ただ、自分のかけがえのないパートナーが自分を否定された、自分に共感してくれないというもやもやを残す記憶が蓄積されていくだけです。自分に共感をしてくれて、自分の感覚、自分自身を肯定してくれる、つまり、自分を大事にして、いつまでも仲良くいたいという同じ気持ちをもっていてくれるから二人でこのまま暮らしていけると思える、そう思えるリアクションを要求して、せっかく発言しているのに、その要求はこの人には簡単に否定されて、要求がかなえてもらえなかったという記憶が残るだけなのです。特に楽しい気持ち、悲しい気持ち、感動を共有したいということを拒否されたということは強烈なダメージを受けるでしょう。しつこいですがダメージを受ける理由は、仲良くしたいのに拒否されたということからなのです。あなたのパートナーが、「どうせわたしの気持ちなんてどうでもよいと思っている」と割り切っていれば、そういう語り掛け自体が無くなるわけです。「どうせ都合の良いときに離婚すればよいや」と思っていればどんなリアクションしても気にはならないわけです。

離婚訴訟にもなれば、少しでも相手の落ち度を主張して、相手の責任で離婚するしかなくなったと主張したいわけです。そうすると、代理人としては、「こんなに強く離婚したいという気持ちがあるのに、どこからそのような離婚をしたい気持ちが出てきたのか」と何か理由があるに違い無いと思い(こういう発想は大事)、当事者も自分でもうまく説明することがで来ていないなと思われるケースに多く出会います。マニュアルに当てはめようとする代理人たちは、なにか暴力があったのではないか、なにか暴言があったのではないか、虐待事例があったのではないかという視点で聴き取りを行います。そうすると、そういうはっきりした記憶はなかなかない。ただ、大きな音を出されたことを覚えているということで、なにかを倒して落としたという出来事を、自分を威嚇するために重量物を投げたという主張になるし、ハサミで怖い思いをしたということを言われれば、本当はペットの毛を刈ろうとしてペットを追いかけていたことをハサミをもって自分が追いかけられたという主張になるわけです。これ、大げさではないと思います。けっこうリアルな例えです。自分に対して不信感を持ったのではないかと心配したという出来事があれば、不信感を口に出されて侮辱されたという主張になることも良くあります。事実と違うことを裁判所で主張しているのだから、嘘をついているということになり、言われた方もムキになって反論するのは当然のことです。
しかし、私が女性の側の代理人をすると、心が壊れるというか、信頼が壊れるというか、仲間ではなく敵だという感情が育つというか、そういうリアルな過程が見えてくるわけです。それがわからないと、ずいぶん前の暴力だから離婚理由になるのかなという発想でものを考えますが、実際にどうだったかということで主張をすればよいだけと余計なことを考えなくて済むようになります。そうして実際に起きたことを冷静に積み重ねていくことによって、裁判をしないで離婚の話し合いが進むということが多くなるように感じています。マニュアル通りに、判決に有利にしようという発想に基づく活動が、逆に離婚紛争を長期化し、激烈化しているように感じることが多くあります。また立証できない主張をして不利益を受けた人たちをたくさん見ています。

そうやって離婚事件をとらえ直すと、離婚に至るリアルな流れというのは、元々はこの関係を大切にしたいという気持ちが強いために、同居中も自分は尊重されていないのではないか、自分という存在は相手の中で否定されているのではないかという「予期不安」が先行し、そうではないと自分に言い聞かせていながら、自分の不安を裏書きしているような相手の行動が起きてしまう、最終的には衝動的に別離の言葉を相手から聞くと、「ああやっぱり自分という存在が否定されていたのだ」という意識が強くなり、それまでの時間がひどく屈辱的に思えてくるし、相手に対する信頼は無くなり、嫌悪や憎悪が募ってくる。そういうタイプの離婚が実数としては多いように感じています。

それでも、そういう激烈な離婚訴訟を仕掛けられても、なお、やり直しを目指す人たちがいます。私は、やり直したいと思うことはとても素晴らしいことだと思うので、無条件に尊敬します。特に夫婦の間に子どもがいる場合は、少しでも信頼関係を回復することが子どもにとっての利益になります。全力で応援したいと思うのです。
しかし、そういう方々の多くが、つい余計なことを離婚訴訟においても言ってしまうのです。確かに、事実に反することは事実に反するとはっきりさせる必要性が離婚訴訟と保護命令手続きでは特に大きくなります。ただでさえ、相手の発言を否定しなくてはならないのに、さらに余計な、意味のない正義感にもとづいた発言をしようとしてしまうのです。前の前の記事でもこのことを書きました。そういう行為をしたから心が離れたというのに、ついそれを改めて裏書きしてしまうのです。結果的に自分の目標とは逆方向の行為をしてしまうのです。

私、SNSって、このような逆方向の行為をしないための訓練に利用できると思っています。フェイスブックを例に挙げて説明します。

先ず、共感が持てる主張、応援したい人の記事、参考になった投稿には気持ちに応じたリアクションボタンを押す。こういうリアクションがあったらうれしいだろうなと思えばやはり押す。応援したい発言は、それなりのリアクションを選んで押す。
次に、以下のコメント欄への書き込みは善意や親切心であってもしない。
内容が不正確であると思われることの指摘、修正、補足
スレ主と意見が違うという表明、
もちろん批判、反対意見、
スレ主の本当に言いたいことと違うテーマ、自分の興味関心
スレ主が知らないであろうと思われる情報の提供
要するにスレ主が言いたいことに対する共感、肯定以外の書き込みはしない。

すべてのフェイスブックをこう使えとは言いませんが、あくまでも訓練として利用する場合の話です。本当は見ず知らずの人の記事なのに、コメント欄に見当はずれのコメントを敢えてする人って多いですよね。要するにこんな感じのことをやめる訓練というわけです。

自分にも覚えがあります。また、そのテーマで自分で記事を投稿したり、メッセンジャーで連絡をしたりというならまだよいのですが、それもどうしてもしなければならない時に限定するべきだったと今では感じています。ご迷惑をおかけしたすべての方々にお詫びします。

提灯記事みたいな投稿ばかりで馬鹿らしいと思うでしょう。私にはよくわかります。つい最近までそんな感じでした。でも最近気が付いたのですが、案外みんな(一部の人を除いて)こんな感じで利用しているようなのです。フェイスブックで間違いを指摘して是正してよいことなんてそんなにないし、そういう書き込みをしている人の書き込みは的を外れたことが多いようです。誰の需要も満たさない。ただ書きたい人の書きたいという要求を満たすだけ。でも正しい指摘をしたいという要求は無くなってくれません。私とか正義感の強い人は他人が間違ったことをしていたと思うとどうしても指摘したくなるようです。これですこれが問題なわけです。案外多くの人は、そういう相手の言うことを部分的にでも否定することをしたがらないもののようです。

どうも、我々は、いうべきことを言うことを躊躇してはいけないということを誰かに思い込まされているようです。最初はばかばかしいと思うかもしれませんが、これをやっているうちに、だんだんと穏やかな気持ちが加速していきますから、人間関係を修復したい方は是非お試ししてください。

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怒ると、容赦なく攻撃してしまう理由 家族を怒りの対象にするべきではなく、これは人間の脳と現代社会の環境のミスマッチによって起きる間違った現象であること、家庭の中に敵が生まれる理由3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


煩わしかったり、別のことをやっていて面倒くさくてぞんざいな扱いをしたりするということまで問題にしているのではありません。しかし、例えば大きな声を出して抗議したり、目を吊り上げて注意したり、物にあたったり、執拗に相手の落ち度を責めるということは、本来人間が家族に対して行うべきではないようです。ひとたび怒りの対象を家族に向けてしまうと、自分では手加減しているように思っても、対象とされた家族は容赦なく攻撃されていると感じて、大変恐ろしいようです。前回お話しした正義や道徳という言い訳があると、ますますそのギャップに気が付くことはありません。
人に怒りを向けるということは、日常よく起きることですが、大変怖いことのようです。自分では気が付かないうちに、相手を恐怖におとしいれ、相手が自分を仲間だと思わず去っていく原因に十分なりうるのです。
このことについて説明します。

昔は、人間は群れの仲間に対して怒りを持たなかった。

昔というのは、今から200万年ほど前から数年前という約200万年のことです。なんでそんな昔のことが関係するのかというと、人間の脳や心が完成したのが200万年前なんだそうです。脳や心については200万年にわたって、さしたる進化は無いそうです。頭蓋骨の分析からそういうことが言えるらしいです。しかし、200万年前と今では生活様式は全く違うわけです。私たちの生活の不具合は、200万年の変化を調べてみれば見えてくるかもしれません。
私たちの脳や心が完成したということは、200万年前の生活様式(自然環境)に適合していたということです。適合していたからこそ生物種として生き残ってきたわけです。しかし、その環境が全く違うとすると、現代社会には適合していない可能性があるということになります。わたしは(対人関係学は)、これこそが、つまり脳と環境のミスマッチこそが、現代社会の社会病理の原因だと考えています。家族の問題もここから始まっていると考えているのです。

(面倒なときはこのカタマリは読み飛ばしてください)
その200万年前というのは、人間30人程度のコアの群れとそれが数個で構成される150人くらいの緩やかな集合体で生活していたと考えられています。生まれてから死ぬまで原則として30人で生活していたということになります。人間は戦闘能力が低い動物なので、頭数が少なくなれば群れ全体が弱い存在になり、肉食獣の餌食になりやすかったと思われます。ヒトという比較的対抗の高い動物が一定の頭数で固まっていることによって、肉食獣が襲いにくく、襲ってきても数を頼みに反撃をして頭数の減少を食い止めていたのでしょう。また、ある程度安定して食料を調達するにしても、その狩りのスタイル(どこまでもみんなで小動物を追い詰めて熱中症にして捕まえる)から、一定の人数の狩猟チームを構成することが必要だったようです。頭数を確保は、人間が生きるために不可欠の条件でした。その頭数を確保する方法というのが、群れの中にいることで安心する感覚を持っていること、群れからはずされそうになると(追放されそうになると)不安でたまらなくなり、自分の行動を修正していたことということになります。そのためには自分以外の群れの構成員が自分をどのように感じているかを共感力で感じ取る能力が必要になります。逆に言うとこれらの能力の無かった人間の先祖は群れを作れず、生き抜くことができなかったと思います。だから、生き残ったのはこういう性質を持った人間だけだったということになるはずです。つまり私たちの先祖はそちらの都合よくできている方です。

(読み飛ばしても良いですが、少しわかりづらくなるかもしれません)
30人の群れは生まれたときから運命共同体でしたし、特定の構成員が気に入らないからと言ってチェンジをすることはできませんし、人間の能力は言っても向上することがあまりありませんでしたから、そういう能力の仲間だと割り切って共同生活をしていたことでしょう。できないことはできない、それを前提として仲間として生活するしかありません。何よりも頭数が大切です。また、共感力が発達して相手の感情は手に取るようにわかりますから、相手が悲しいと自分も悲しくなります。自分と相手の区別があまりつかなかった運命共同体ということになるでしょう。このため相手を差別することなく平等に扱っていたでしょう。さらには、弱い個体から死ぬ可能性が高いですから、頭数を守るために、弱い個体を特に大切にしたと思われます。典型的には赤ん坊です。なんの知識が無くても、赤ん坊は可愛いから大事にしようという感情があれば大切にできるわけです。このかわいいという感情は今も受け継がれているところです。

(最初の結論部分です)
この結果、200万年前ころは、群れの仲間に対して怒りを覚えるということはなかっただろうということが結論です。かなり思い切った結論だと思います。でもこう考えることは合理的だし、次の話題との関係で都合の良い仮説なのです。
200万年前は誰も差別的にも扱われないし、誰かが失敗をしてもその失敗した本人と同じ感情を共有していたので責めるということもなかったことでしょう。失敗を原因に仲間から追放するという発想もなかったわけですから、怒りを感じるということはなかったと思われます。仲間の行動によって自分に多少の危害が加わるということがあっても、それはそれなりの理由があったことだと思ったことでしょう。また、その理由もよくわかるほど密な関係だったはずです。厳密に言えば、子ども同士は喧嘩することがあったと思われますが、大人は止めたでしょうし、誰かが庇ってくれたでしょうから、後々まで残る争いということは起きなかったと思われます。
これが正しいとしたならば、怒りという感情は、人間にとって仲間に向ける感情ではなかったということになります。そして仲間以外の人間と出会う確率が極めて低かった時代は、怒りはおよそ人間に向ける感情ではなかったということになると思うのです。

では、200万年前は、誰に向かって、どういう時に怒りを感じていたのでしょうか。

それでも怒りは遺伝的にあるきっかけで生じる人間の反応です。200万年前だからといって、全く怒りの感情がなかったと考えるのは非科学的です。怒りはあったはずです。但し、それが人間に向かわないで別のものに向かっていたということなのだと思います。

ここで怒りについて説明しますが、怒りは危険を感じたときにおこる感情(情動)です。危険の原因を攻撃することで危険を除去するという無意識の選択をした時に起きます。危険を感じた場合、普通の動物はおそれを感じて逃げます。逃げることと怒り攻撃することは全く別のように見えますが、逃げることも怒って攻撃することも、同じ脳の仕組みで、脳から副腎等への信号の流れが生じ、脈拍を増加させ、血圧を上昇させ、筋肉に血液が回るようになり、走って逃げることにも、相手を叩きのめすことにも都合がよい生理的変化で、自然に備わっている共通のものです。ではどこで逃亡と闘争の選択の境目があるかというと、動物共通の要素としては、勝てると考えたときに怒りと攻撃モードとなり、勝てると思わない時に逃走モードになると思われます。

但し、哺乳類や子育てをする鳥類などの場合は、子が危険にさらされていて子を守らなければならないと感じると、勝てるかどうかにかかわらず怒りの攻撃モードが出現するようです。母親が子どもを守ろうとしなければ、一般に無防備な子は殺されてしまいます。そうすると子孫が残りませんのでその種は絶滅してしまいます。子育てをすると言う本能は子どもを守るという強い感情を伴うもののようです。母親が頑張ればなんとかなる可能性も高いので、このように怒りを感じて無謀な攻撃を仕掛けるという仕組みは、種の残る可能性は格段に高くするでしょう。

この場合、怒りは自分のかけがえのない子育て中の子どもの敵に向かうことになります。こんな敵に対して容赦をする必要など何もありません。相手が立ち去るまで、あるいは相手が死に絶えるまで、つまり子の危険が解消されるまで怒りを継続することで攻撃を継続する、これが危険から子どもを守るために最も有効な行動パターンだということになります。

これに対して人間の場合は、母親に限らず怒りを持ち、守るべき対象も赤ん坊に限らなかったようです。仲間を守るために肉食獣に立ち向かっていたはずです。小動物からすれば強い人間も肉食獣からすれば単体では勝ち目がありません。他の動物は色々な防御能力から母親が子どもを守っていれば種はつながれていったのだと思いますが、人間は母性だけでは種を残すことはできなかったのではないでしょうか。仲間に対しても守るという感情が必要でした。都合の良いことに、人間は比較的大柄な動物でしたし、肉食獣からすれば自分に反撃する動物もあまりありませんから、反撃されること自体が脅威だったはずです。また、群れという多人数で攻撃しますので、肉食獣からすれば防御を整えていることはできませんし、防御に力を入れてしまえばえさを確保することがおろそかになってしまいます。人間を食べることはあきらめざるを得ません。やがて、人間を襲うことは効率が悪いと考えるようになったのではないかと想像を巡らせています(袋叩き反撃仮説)。

人間は仲間を守ろうとしたときに、怒りを感じるという特質があるということになるでしょう。そして怒りは、そもそもは人間ではないものに対しての感情でした。敵に対して共感も容赦も起こることはなかったでしょう。脅威がなくなるまで、おそらくその野獣が死に絶えるまで攻撃をやめないということが多くあったはずです。野獣の牙や毛皮が勇者のあかしとされることが多いのですが、それは力が強いということに対する評価ではなく、仲間を守ったことに対する評価だったのではないでしょうか。わたしは、このように仲間を守る場合に起こる感情が怒りであり、その場合は勇気であると思うのです。しかし、誰かの力が大きく貢献したとしても、1人で野獣と闘っていたわけではないと思います。必ず他の仲間も自分を助けて一緒に攻撃してくれるという仲間に対する信頼があってこその行動だと思います。誰かが野獣に襲われた時、自分が襲われた感覚になり、その襲われた人がこうしてほしいということを自然に行う。それができるのは、仲間が自分と同じに攻撃参加してくれるという信頼があり、経験があるから。自分の背後に仲間がいるという意識や群れが一体として反撃しているという意識は、古典的な怒りのパターンである、「勝てる」という意識も生まれるのだろうと思うのです。

怒りが人間に対して向かい始めた理由

さて、このように仲間に向かわないはずの怒りが、現代では友人や家族に対してまで向かうようになっています。どうして人間に怒りが向かうようになったのでしょう。

これを考える前に、最初の人間に向かった怒りというものがどういう風に起きたのかを考えてみましょう。今から1万年、せいぜい数万年前のことだと思います。

これは、人間なのだけど、仲間ではない人間とかかわりを持つようになったからなのだと思います。

先ほど言ったように、200万年前から数万年前は、人間は30人程度の群れで生活していて、せいぜい150人程度の緩やかな集合体だけで一生の関わる人間のすべてだったはずです。定住せず、移動をしながら狩猟採集をして生活をしていたと言われています。この時までは、怒りは人間に向いていなかったと思います。

このような少人数の狩猟採集生活も、農業が始まることで終わりになります。農業は、狭い地域に共同作業を求めていましたし、定住により人は農業の適した地域に集まってきたものと思われます。農業が始まり定住生活となると、比較的に近い地域に150人を超える集落ができてしまうわけです。

この150人という数字がたびたび出ますが、これは人間の脳が個体識別できる他者の人数の限界値が平均するとこんなもんだということなのです。他者の個体識別の限界は、どうやら脳の構造(大脳新皮質の大きさ)によって決まるようです。農業が始まると、150人どころではない人数が近くに住み始めます。個体識別ができない人間とのかかわりが嫌でも生まれてしまいます。そうすると人間同士の利害対立が生まれます。誰しも自分の群れの中で平等に扱われて不自由なく暮らしたいと思います。例えば用水の水量に限りがある場合など、どちらが水を野内に利用するかで争いが生じ、他の群れが自分の群れの利益を脅かす敵だと感じたことでしょう。多少の逸脱をしてでも自分の群れの農地を潤したいと思うことは人間の脳の限界から仕方がないことだったと思われます。こうして、仲間と感じられない人間が生まれ、人間の中にも敵が生まれたのだと思います。

しかし、そうやっていがみ合っていると、肝心の農業もうまくいかず、常に闘いにおびえて生活しなければなりません。これでは人間は絶命してしまうでしょう。だから争いをやめる方法が欲しくなります。もともと人間の形をしているものに対しては強く共感をしてしまうのも人間ですから、相手を容赦なく痛めつけてしまうと後味が悪くなる感情も抱くと思います。放っておけば争うのですが、争えば争いをやめたいという感情も起きるわけです。パンドラの箱のような話だと思いませんでしょうか。
そこでなんとなく、社会的ルールあるいは群れどうしの取り決めというものが自然発生してきたのでしょう。これがない人間の群れは、やはり滅びたものと思われます。この取り決めは「正義」と言っても、「道徳」と言っても良いと思います。世界中で人間が生きていく必要に迫られてこのルールを作ったのだと思います。
ひとたびルールができれば、ルールを守ってさえいれば自分が不利益を受けないと感じるほかはありません。自分もルールに従わざるを得ません。自分の感情を制御しなければならないのですからこれはかなり不自由な人類の発明品です。だから、自分が守っているルールを守らないものに対しては、容赦なく怒りの感情が生まれるのでしょう。ルールを破ること自体が、理屈抜きで自分に対する攻撃だと感じられるようになったのだと思います。そしてルールがある限り、自分の背後には圧倒的多数の味方がいると感じるようです。ルールを破る者に対して、ルールを盾に取る自分は「勝てる」と思うのだろうと思います。

それまでの狩猟採集時代は、人間=仲間ですから、およそ人間に対する怒りというものは感じなかったということが私の仮説です。ところが、おそらく最初は仲間を守るための怒りだったのでしょう。これまでは人間は全て仲間ですから、人間である以上不利益を与えないということをしていたのですが、脳の能力の限界を超えた相手の人間ですから共感もできず、人となりを知らない相手だとなおさら許す要素も思い当たりません。容赦のない感情を向けても罪悪感もないでしょう。さらには、そのよく知らない人間の行為によって、自分の仲間が不利益を受けてしまうということになれば、戦わなくてはならないし、勝てるという意識も生まれてしまうということになったのだと思います。

ひとたび「人間」に対して怒りの感情が向けられると、人間に対して怒りを向けるということが、人間の心に解禁されてしまったのだと思います。人間の脳は、そう都合よく、同じ人間だけど仲間の人間と敵の人間がいて、その違いによって感情をコントロールするということが上手にできなかったのだと思われます。

現代社会は人間関係がさらに複雑になってしまいました。封建時代までは圧倒的な人口を占める農民は、やはり生まれてから死ぬまで同じ群れで暮らしていて顔見知り同士で生きてきました。これが徐々に学校に行くようになり、別の地域の職場に通勤するようになり、生活上の群れとは異なる群れに所属するようになりました。今では学校の中や職場の中にも、小さな群れにわかれているようなありさまです。家族の利益だけを考えていても、それだけだと生きていくことも難しい状態なのではないでしょうか。学校や職場のことを家族に秘密にしたり、友人を家族よりも優先して考えたりということはよくあることです。そうして複数の群れに所属しているうちに、家族を大切にしなくなるようになるのではないでしょうか。家族の相対化、希薄化という現象が起きていると思うのです。これは人間の脳が複数の群れに帰属することに対応できないために起きているのだと思います。

本来ならば職場で嫌なことがあったり、大きなピンチがあったり、自分が人より劣っていると感じるときこそ、家族に親切にして自分の役割を再認識することが様々な良い効果があがるのです。しかし、職場で言われたことを言われたように家族に向かって言ってしまう。家族を大切にすることが人間として自分を守る基本であるのに、そうは思えなくなってしまっていると思います。家族が替えの利かない、かけがえのない存在だとすれば、このように家族に八つ当たりをすると言うことは無いと思います。現代社会では人間は家族でさえも替えが利くと思ってしまっているのではないでしょうか。

家族と他の群れを区別できないという言うことは、結局、自分の大切な人に対する接し方がわからないということです。家族だったり、恋人だったりという関係でさえも、相手の心に共感して、相手が楽しい、嬉しいと思うことをして、嫌だと思うことをしないということが行動原理にならなくなってしまう温床がここにあるのだと思います。そうして他人同士を規律するはずの、法律、道徳、社会的要請、あるいは常識に違反すると、あたかも自分の利益を奪われたかのような怒りを感じてしまう。怒りは容赦のない攻撃をするための感情(情動)ですから、ひとたび怒ると、相手をかわいそうだと思わなくなり、自分の怒りの行動を制御できなくなってしまう。攻撃は正当で悪いのは相手だということになってしまう。

家族に対してさえ、このように怒りを向けるのです。名前しか知らない相手が道徳的に逸脱する行為があるとすれば、自分の応援する人間が多数であるという意識を持ち、勝てると思い、怒りを公的に表明するでしょう。怒りが増えれば増えるほど、安心して怒りを表明することがさらにできるようになります。これがネット炎上でしょう。

いじめも、最初は何かしらの正義が言い訳になっていることが多いです。学校のルールを破った生徒だったり、自分との約束を破った生徒だったり、味方だと思ったのに自分を攻撃したことの復讐だったり、社会的に求められる謙虚な行動をしなかったり、どんどん自分なりの攻撃のための正義の概念が大きくなっていくようです。

パワーハラスメントで利用される正義は、会社の利益ですね。パワハラの対象となる人の事情は通常考慮されません。家庭の中、夫婦間は、この人前の記事で書いた通りです。

家族にルール違反があったとしても、怒りをぶつけることは間違っているということを結論とするべきだと思います。間違いをしてしまうと、家族は、自分が仲間ではなく仲間を害する肉食獣などの敵だと扱われたという感覚を持ちかねないのです。そうやって怒りを向けられるということはとても苦しむようにできているわけです。
もし怒りの理由が道徳違反、あるいは約束違反などのルール違反であればそもそも、ルール違反に対する感情は敵に対しての制裁のつまり怒りの感情を呼び起こしますから、ルール違反の程度と制裁の程度は、常に制裁の程度の方が大きく、強くなります。元々は人間に向けられた感情ではなく、死ぬまで攻撃をやめないで危険を解消するための情動だったわけです。自分の制裁(攻撃、批判)に対する相手の表情は、制裁をした者を後々長きにわたって苦しめるでしょう。
怒りという感情は、このようにして生まれ、人間の仲間同士を苦しめ、仲間を壊す感情だと考えるとそういう結論になりました。

まとめ
怒りは、そもそも他者、人間以外のものに対して向かう感情だった。
相手を亡き者にするため容赦を無くして攻撃を遂行する目的を持っている。
怒りの程度をコントロールすることはそもそもできない。
怒りは自分が害される危険がある場合、あるいは仲間を守ろうとする場合、もしくはルールや道徳が破られた時に発動する。
家族に怒りが向かうのは、人間の能力を超えた人間関係を強いられている社会と人間の脳とのミスマッチが原因である。
家族は代替不能な存在だと認識できれば怒りを持たなくても済むかもしれない。

そうはいっても、環境の中で私たちの行動や感情は、私たち自身ではコントロールがしにくいのも確かです。気が付く前に怒りの行動をしてしまっているもののようです。
ただ、怒りというものがこのようなものだということを頭の中に入れていれば、
怒りがわいてもそれを相手に伝える前に行動を制御する可能性も高くなるでしょう。
また、怒りを相手に伝えてしまった後でも、謝ったり、自己否定したり、ごまかしたりするなどのフォローができる可能性も高くなるでしょう。
かけがえのない家族に対しての接し方をご一緒に考えていきませんか。
私も努力しようと思います。


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夫婦仲を壊し、再生を妨げるのは「正義感」かもしれない つい家族を攻撃してしまう人の心理 家庭の中に敵が生まれるとき2 [家事]



この一つ前の記事で、出産をしたり、特定の病気になったりすると、自然と夫婦仲が壊れやすくなることについてお話ししました。
その壊れ方を加速させる問題として、家庭の中に正義感が持ち込まれることの害悪についてお話をしたいと思います。
正義感についての考察については前に書きました。
「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-02-18

今回はこれの家族版ということになります。

典型的なのは、子どもを妻に連れ去られて離婚を突き付けられている人が、家族再生を目指す場合にも、つい相手の行動が許せなくなって責めたり批判したりしてしまうということがあります。
ある日仕事から帰ったら妻子が家におらず、荷物もなくなっている。連絡も取りようがない。妻の実家に行ってみたら、大勢の警察官に取り囲まれてしまった。というような事案です。通常、例えば私なら、子どもを奪われたということや、自分の人間性にダメ出しを食らったということで、怒りに任せて行動するところです。それでも、そういう状況にあってもなお一定の方々は、自分にも修正するべきところがあるとして、専門機関にレクチャーを受けに行ったりして、何とか家族やり直そうと努力する方々がいます。これ自体とてもすごいことです。私も、何とか力になりたい、また、何とか子どもをもう一人の親である父親に会わせたいという思いで、取り組んでいます。
大体の妻が出ていく原理と心情がわかってきて、どうやら、妻は、夫と一緒にいると安心できない気持ちになる。その理由の大まかなところは前回の記事でお話ししました。問題は、妻の心が離れかけているのに、つまり夫から攻撃されていると感じやすくなっているにもかかわらず、火に油を注ぐ様な行為を夫がしてしまうということのようなのです。妻の心が離れるにあたって夫の暴君的な心理的圧迫が先行する事例というのは、現代では少数になっていると感じます。実数として多いのは、前は気にしなかったことを妻が気にするようになっているということから心が離れ始めていると感じています。
そうだとしても、もしかしたら、夫の対応を修正することによって、妻の安心できない心情がそこまでエスカレートしなかったのではないかという思いもあります。

そうすると家族再生を目指す場合の方法というのはわかりやすいです。新たな攻撃と受け止められる行為をすることをせず、過去の攻撃と受け止められた行為を自ら否定評価し、感謝と尊敬をきちんと言葉に出していくことで、あるいは妻の心情に寄り添うことによって、家族再生の方向へ向かうと考えることができるはずです。そしてこれができたケースでは、復縁というところまではいかなくても、子どもとの比較的自由な時間を、長く充実したものにできるというケースが確実に生まれ始めていると実感しています。あくまでも私の感覚なので、頼りなくて申し訳ありません。

ところが、家族再生を目指す方々であっても、少なくない割合でこの努力がうまくできません。ついつい、妻にとって攻撃だと受け止められることを、妥協を許さない感情をもってしてしまっています。

これが何なのか、
どうして家族再生と矛盾する感情が生まれてしまうのか、
どうすればそれを抑えることができるのか
について、考えてみました。

<家庭の中の正義感が家庭を壊すメカニズム>

一言で言って「正義感」が問題だと思っています。
正義感の具体的中身としてよく見られるのは、
・前に言ったことと違うことを言っている。
・約束を破っている。
・合理性のない行動や効率の悪い行動をしている。
・不公平な扱いをしている。
・社会常識に反している。
・社会的に要請されることをできていない。
・嘘を言っている。
こんな時に正義感が発動されてしまうようです。

一見すると、そういう場合は何か言って当たり前なのではないかと思われることと思います。問題は、こういう正義に反する行動について、容赦なく批判したり、怒ったり、否定したりして、当初の目的である家族再生を忘れてしまうことなのです。人の価値観ですから、こうするべきだということは言えません。こういうことができない人間とは一緒にいることはできないから、別れると言うならばそれを止めることはしません。私はあくまでも、家族再生という大目的の助力を依頼されているので、その目的に照らして、目的を前に進める言動か、後退させる言動かを述べるだけです。

それでも、家族再生を後退させる言動だと指摘すると、怒りがこちらに向かってくることも少なくありません。私は自分の仕事をするだけですから、口論になることもあるわけです。これまでの私の関わった仕事の中で離婚後の家族再生に一番近い方とは、調停の時間中ずうっと口論していたような気がします。

今家族再生を目標として、色々と学んで反省をして、さあ家族再生だと頑張ろうとしているにもかかわらず、正義感がどうしても優先して出てきてしまうようです。
これは、今何事も無いように結婚生活を送っている人でも、覚えがある人が多いのではないでしょうか。もちろん自分にも覚えがあります。
例えば
子どもを幼稚園に送り出すときに、子どものお着替えを妻が担当していたのに、夫がたまたま仕事の途中で家に立ち寄ったら、ズボンもシャツも脱いだままに丸まって床にそのままになっていた。だらしないからきちんとしろと言ってしまう。
本当は、自分がたたんで収納すればよいのです。それで終わりで良いはずです。何らかの事情があって服を収納する時間がなかったのだろうなと想像すればよいのです。それをしないで責めてしまう。これ、服のことならやりすぎだとはっきりわかるのですが、食べ物の管理がだらしないとなると、相手を責めたくなる気持ちが出てくる人が多いのではないでしょうか。
例えば
週末に家族でドライブに行くという約束をしたのですが、妻が自分の服のバーゲンセールの情報をゲットしたので、買い物に行きたいと言い出した。子どもも楽しみにしていたので、それはないだろうと責める。ここまでの事案ではないにしても、突然の心変わりは結構あるようで、回転寿司に行こうと約束していたのに、今はそういう気分でないからイタリアンレストランに行こうと言われるとか。それだけの話なのに約束と違うからと怒る場合もあるのではないでしょうか。
では、あなたはセールに行きなさい。私は子どもが楽しむところに行くと行動を分けるということも1つの解決方法ですね。時間帯をずらすということもありうる話です。そういう発想はなく、約束を破ったことに腹を立てる。本当は炙りしめさばなんてそれほど食べたくなかったに、ぐずぐずとハンバーグの生あたたかさに文句をつけ続けるとか。
例えば
出張などでホテルに泊まる場合、日にちが決まっているので、何日か前に予約すれば色々特典もあってお得なのに、ぐずぐずしていたために少々割高で、特典ももらえなくなった。大したことがない景品だったり割引率なのに怒る。
怒ることはないわけです。まあ、この場合、必ずしも怒っているわけではないのですが、言われた相手からすると、やるべきことをやらなかったと真顔で指摘されますし、得するところを得しなかったということは客観的事実ですから、何となく罪悪感を与えられてしまうわけです。自分が何かとてつもない間違いをしてしまったような気持ちにさせられます。また、逃げ場を与えられないということもポイントですかね。それから、ぐずぐずしていたことには、なんらかの理由があるわけで、そういう理由をすべて否定されてしまうと、今後は機械的に動かなければならないというようなことを命じられているような感覚になって、苦しい気持ちになるのかもしれません。

失敗や不十分なことは、本当はとても些細なことかもしれません。でも、約束違反、不合理、非効率的な行動があれば無条件に正義感が沸き起こってきて、相手を批判してしまうようです。特に子どもに与える影響を感じるとなおさら、つい反発する心がわいてきてしまい、相手からすれば容赦なく攻撃されていると感じるような行動をしてしまうようです。

<正義感の生まれる場所>

指摘する方は、指摘して当然だという意識がありますから、それを言わないとか、言い方を考えるという発想をなかなか持つことができません。

ところで、この「正義感」は本当に当然でのこと、自然な感情なのでしょうか。

私は、場面に応じて、人間関係の内容に応じて区別するべき概念だと思っています。家族など、いわゆる仲間の間では、正義感よりも相手の感情を優先させるべきで、相手がどう思うかということを基準に行動するべきだと考えています。詳しくは前掲の記事に書きました。また、「正義」感は有害であり、あまり正義感は振りかざすべきではない。道徳や法律も、あくまでも他人同士を縛る概念であり、家庭の中に持ち込まれるべきではないと別のところで考えています。
親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-11

正義とか道徳とかは、人間が生物としての人間の脳の能力を超えた人数の人間と関係してから、つまり仲間ではない人間とも関係を持たなければならなくなったために必要に迫られて作り出されたものだと考えています。かけがえのない仲間の中であれば、自然に持つような感情ではないはずです。これが家族の中に持ち込まれているのは、やはり人間がその脳の能力を超えた人間と関わり合いを持たなくてはならないので、つい仲間ではない人間を規律する論理を仲間である家庭の中に持ち込んでしまっているという、環境と脳のミスマッチを原因として起こる現象だと考えています。これは別の機会で少し説明を詳しくしたいと思います。

この正義感を持ち込む理由は、育ってきた経験ということもあるでしょう。この合理性や効率性も含めた「正義感」を大切にして、受験競争を勝ち抜き、就職競争も勝ち抜いてきたし、会社でもこのような「正義感」でもって、他者と関わってきたために、どうしても自然と私たちの心にしみこんでしまっているのだと思います。学籍の高い人、国家試験をクリアして原職にある人、専門性の高いお仕事をしている人等に、家庭の中でも正義感が強い人が少なくないように感じています。だから、現代人は、放っておくとつい正義感が何よりも優先されてしまうし、正義感を満足させる行動は極端な話何をしても許されるような感覚になってしまうような感じもします。

身についた正義感が発動してしまうため、ついつい、離婚調停の段階で、後に調停から裁判になったとしてもそれを認めても何の影響もないような話でも、ムキになって否定し、訂正を求めていくのだと思います。また、新たな約束違反や不合理な言動に対して攻撃してしまうのだと思います。

<正義感によって容赦が無くなる様子>

同居期間中の時も、あるいは仕事で自分がこんなことをすると大変なことになるという感覚そのまま妻を批判してしまうのでしょう。まるで自分が上司から言われているみたいにということなのかもしれません。職場などでの緊張感を家庭でも持てと言っているような感覚です。
その感覚で、どうしてこんなことをするのだろうという気持ちをもち、そのまま言葉に出てしまうわけです。
どうしてこんなことができないのだ。
これをしてしまえば、こういうことになることにどうして気が付かないのだ。
こんなことをしたら、相手はこういう気持ちになるだろう。
こんなことをするなんて信じられない。
こんなことができないなんて信じられない。

そして相手が、自分と同じ気持ち、つまり、「ああ自分はとんでもないことをしたんだな」と見てわかる様子が無いと、つまり自分に賛意を示さないと、それが示されるまで攻め続けたりしてしまいます。

相手方は、自分のその行為だけを責められているとは感じにくく、全人格的に否定されたと感じる事でしょう。言い方の問題です。本当は色々事情があってのことなのに、それをどう言っていいかわかりません。夫の中では自分に対する評価が決定的に下がっているのだなあと感じていることは確実です。
自分の立場を気にしない人はいませ。ある人はむきになって頑張ってできなくて益々心理的に追い込まれるか、別のタイプの人はもう夫と自分は価値観が違う、性格の不一致があると割り切るようになるのは当然かもしれません。少なくとも、自分を守ってくれる人ではないと強烈に感じていることでしょう。

夫は、自分は正義に基づいて発言しているという感覚がありますから、まさか妻がそんなことを考えているとは想像すらしません。正義の役割はここにあります。

しかし、そんなにムキになって妻を責める必要性のあることなのか、冷静になって考えると疑問がわいてきたリ、不確かなことが多いのではないでしょうか。もしかしたら、結果として実害がなかったことかもしれません。何らかの失敗や不十分なことがあったとしても、冷静に将来に向けて注意を促せば足りることや、スルーしたりフォローしたりする方が、失敗が防げるという実益が上がることが多いかもしれません。でも、妻が夫から攻撃されたと感じた場合には、確実に自分を夫が仲間として見ていないと感じるデメリットが蓄積されていくというもののようにつくづく感じています。実は、費用対効果を考えたときに、無駄な損を生み出していることが多いのかもしれません。

そもそも、家族の間で、特定の家族の特定の行為を、誰か別の家族が評価して、その人を裁くということ自体が、本当に妥当なのだろうかということも考えなければならないと思います。夫は妻の上司ではありません。教育する立場でもありません。正義を言い訳に人を批判するときは、どうやらそういうことも忘れてしまうようです。しかし、家族は批判すればよいのではなく、実質的に将来の危険を除去する等、結果を出さなければなりません。正義感をぶつけるという方法はあまり効率的な行動ではないようです。一緒に考えて、不足の部分があったら他の誰かが補うのが仲間です。

<対策として頭に入れること>

知らないうちに身についていた考え方で、自分でも自覚していな考え方の対処はなかなか難しいでしょう。口で、正義感の優先から相手の感情優先に切り替えましょうと言っても実際には難しいと思います。
つい言ってしまうことも当然出てくると思います。今の家庭には、「そんなことをムキになって言うものではない。」とたしなめる年配者はいません。不安定な自分の立場にたちつつ、正義だけを頼りに生きているという人が多いかもしれません。だから、家庭の中ではそれを出すなと言われてもなかなか難しいのは当然かもしれません。

少しずつ変えていくことが大切なのだと思います。

先ず、正義感がかえって家族の中では悪さをしているということを頭にとどめておくこと。これはやらなければなりません。そうすることによって、大きな声を出しそうになる時、あるいはしつこく話そうとするとき、自分をセーブすることができるかもしれません。

次に、もし言ってしまっても、ごまかして謝ることができるということを頭に入れておきましょう。言い過ぎた、ごめんということは誰でもできることです。

そして、自分が相手を責めているときの相手の悲しそうな表情、感情を失ったような表情、こういうことを思い出しましょう。「言われた相手がかわいそうだ」という気持ちを持つことはとても有効だと思います。正義感や怒りは、相手がかわいそうだという感情を奪うためのものです。自分を頼りにしてくれる人を自分が心細い思いにさせたということを良く感じ取りましょう。この相手の表情は絶対に忘れてはなりません。

言ってしまった後は、十分なフォローをしましょう。自分が相手を尊重していることを言語化、あるいは、行動で示しましょう。

既に紛争になっている場合は、自分の正義感を抑えてくれる人を近くに配置しましょう。

家事分担など、相手に任せたことについては、絶対文句を言わない。これは、日本の様式美でもあります。男女で炊事の役割分担があったときに、男子厨房に入らず、出された食事に文句を言わないという掟はこういう意味だと思います。

また、家庭の中では、どうでも良いことのカテゴリーを増やしていきましょう。家族が努力していることならば、その結果が悪くても怒らない。努力していなくても、何か理由があるのだろうと先ず推測する。何とか力になりたくても、求められないなら、自分は力になれないと思うようにする。求められた全力で力になる。それでも家族として尊重することは止めない。むしろ、積極的に対等の仲間だとして、尊敬をもって接する。


どうでしょう。なんか窮屈な感じがしますか。家庭の中なのだからもっと気ままに、自分の感情に任せて行動すればよいのではないかという感想を持たれる方もいらっしゃるでしょう。なお、正義感を後退させるなんて許されないと思う方もいらっしゃるとも思います。

最近感じるのは、家庭の中だから、家族に対しても自由に感情を示してよいのは、子どもだけではないかということです。子どもと大人の違いは何かと言うと、楽しい家族の恩恵を受けるのが子どもで、楽しい家族を作っていくのが大人なのだと思います。現代社会の複雑さや大量の人間とのかかわりは、本来無関係の人間関係の在り方を身に沁みさせてしまいます。その結果、本来無関係の人間関係が家族とのかかわりの中に滑り込んでしまうわけです。家族も希薄になっていくのだと思います。このことを良く自覚して、本来の家族の在り方を理性的に探り出し、家族が家庭に帰ってきたらリラックスできる家庭を作る。これが大人の仕事なのではないかと考えるようになってきました。そしてそういう家庭を作ることは、何よりも自分にとってメリットが大きいことだと思うのです。もちろん、滑り込んだ価値観がひょいと表面化してしまうことが多いと思います。それはある程度は仕方がないので、フォローを頑張るということが前向きな対象方法だと思います。私自身年齢だけは重ねてきましたが、まだまだ人間ができていないようです。自分でもできないことを発表することは気が引けるのですが、このことが頭の片隅にあることで、壊れなくても良い家族が壊れてしまうことを防げたらという思いで、自分の心に棚を作って書いているわけです。

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家庭の中の敵が生まれるとき(仮題)妻は二度夫を品定めをする。一度目は結婚するとき、二度目は子どもが生まれたとき。 [進化心理学、生理学、対人関係学]




夫婦間紛争に携われば、夫婦が双方感情をぶつけながら争う場面を目にすることになります。紛争が進み、私たち弁護士が選任された段階では、多くのご夫婦はすでに別居しています。ただ、離れて暮らしていても、紛争の様子を見ていると、家族内の紛争だという感覚を持ちます。子どもがいる場合は、全くの他人として今後の人生を歩むことは難しく、関りを100%絶つということは不可能だと思います。これまでの家族というユニットとしては解体されると同時に、客観的には新しい家族の形のユニットが生まれるという二つのことが同時に起きているのですが、当事者がそれを理解することは実際は難しいことだとつくづく感じています。

夫婦間紛争を第三者として見ていると、家族の中に味方ではない敵がいるという状態に見えてしまうのです。

味方とは何か、敵とは何かについては、色々な切り口で説明できるでしょう。ここでは単純に考えて、「味方」とは自分に利益をもたらすもの、「敵」とは自分に損害を与えるもという意味から出発します。ここで使っている利益とか損害とかいうものは、経済的なものに限りません。むしろ、精神的なものの比重が高いように感じます。
ここでいう利益とは、
・自分を援助してくれること、
・自分をフォローしてくれること、
・自分ができないことをしてくれること
(かなり抽象化して言っていますので、想像で補っていただければ幸いです。)

こういう利益があって、そのために味方に対しては
・一緒にいて安心できる
・その人のために自分が役に立ちたいと思う
・その人が喜ぶと自分もうれしい等の感情の共有
という心理的効果が生まれ、

・いつまでもずっと一緒にいたい
という意識にさせる。
これが味方ではないでしょうか。

これに対して敵についても考えてみましょう。要するに味方とは逆のパターンを考えればよいわけです。
損害とは、
・いつも身近にいてほしいのに自分を放っておく。
・自分が失敗したり窮地に立っていても助けてくれない。
・自分ができないこと、不十分なことを責めたり嘲笑したりする。

こういう損害があって、そのためにそういう人物に対しては
・一緒にいて安心できない
・その人のために自分が何かをしようとは思えない
・その人の感情は無関心ないし自分に対する敵愾心の表れただと感じる
という心理的効果が生まれ

・一刻も早く遠ざかりたい、無関係になりたい
という意識にさせることになります。

敵か味方かなんて極端な人間関係ばかりではないと思う人もいらっしゃることでしょう。大事なことはその人との「距離」だと思います。自分の人生の時間に関係ない人、距離の遠い人はその他大勢の風景です。無害であるため敵か味方かを区別する必要はありません。しかし、自分の人生の時間に関わってくるという意味で近い距離の人間は、敵か味方かどちらかという判断を、人間はどうしてもするようです。しかもこれは一瞬で判断してしまいます。人間も動物である以上、自分を守ろうとします。そして動物一般がそうするように、敵だと感じれば逃げたり攻撃したりする行動をとり、味方だと認識したときは群れを形成するための心理が生まれます。じっくり考えていたのでは逃げられないので、一瞬で判断するようにできているのでしょう。これは人間が生きるための遺伝子に組み込まれたシステムです。

夫婦という密接な距離に存在する他人については、無意識に敵か味方かを判断せざるを得ないというのが人間なのだと思います。

但し、長年一緒に暮らしていけば、「馴れ」が生まれます。馴れてしまえば敵だとは思わなくなるということはありうると思います。だから、通常は密接な人間関係を続づけていけるものなのですが、この「馴れ」が消えてしまうことがけっこうあるということを人間関係の紛争を見ていて実感します。典型的には認知症で記憶力や見当識が弱くなる場合です。自分の子どもでさえもどこの誰だか分らなくなり、自分が今いる場所も分からなくなり、確認しようと付近を徘徊してしまうということのようです。いささか極端ですが、馴れがなくなるということがどういうことかわかりやすいと思います。私の実務でよく見るのは、出産というイベントを経験した母親です。出産を経験した後、一番身近にいる夫が自分の敵なのか味方なのかわからなくなってしまったような思考傾向をされる方が多くいらっしゃるようです。いったん馴れが解消されても、また、馴れが始まることが実際には多いのだろうと思います。しかし、馴れを再構築できず、どうしても一緒にいることが我慢できなくなっていくということもあり、これが離婚の本当の原因になっているように感じることが少なからずあります。また、内科疾患や薬の副作用で馴れが消滅してしまい、相手に対する原因不明の不安が生まれて、それに伴って馴れが消えてしまうということも見ています。本人はそのことに気が付きません。ずうっと連続した時間を過ごしていることを疑いません。夫からしても、馴れが消えた本当の原因は自分にはないので、自分が妻の理由のない不安の対象になっているという事実に気が付かないのは当然かもしれません。

馴れが消失してしまうことはある意味自然の摂理なので仕方のないことです。馴れがリセットされたのであれば、本来ならば新たに「味方意識を上書きしていく」という作業をすればよいはずです。この時、馴れの結晶である子どもの存在は、かつて味方の関係にあったということを思い出させる切り札にもなります。しかし、再構築ということの意識がない場合は、子どもの存在がかえってお互いを敵だと認識させることを推進してしまう原因にもなるようです。

体調の関係や生理的問題から、相手を味方だと認識できなくなることは不幸なことです。しかし、生きるためのメカニズムのためやむを得ないということが最近の内外の脳科学の研究は示しています。即ち、生まれてきた赤ん坊の命を確実に維持するために、母親は赤ん坊の状態に共鳴しやすくなるように脳の活動の形が変わるらしいのです。内外の研究は、「母親」の変化として研究発表をしています。
(しかし、これはおそらく、ホルモンバランスによる変化というより、人間の本能的な性質ではないかと私は疑っています。即ち、父親もこのような脳の活動の変化が起きる場合があるということです。また母親も父親も変化が起きない、あるいはわずかな変化しか起きないということはありうると思います。母親のホルモンバランスの変化は、このような脳の活動状況の変化を引き起こしやすくするわけですが、それだけで変化が起きるわけではないと考えているのです。ちょうどサックスやクラリネットが、オクターブキーやレジスターキーを押しながら吹くと、同じ指の抑えをしても1オクターブや1オクターブキー高くなりやすくなることと似ていると思います。これらのキーを押しても実際は必ずしも高くならないで、息のスピードを変化させることによってはじめてきちんとした変化が生じます。逆にオクターブキーなどを押さないでも息の吹き方を変えると高い音を出すこともできるわけです。)

いずれにしても、こうやって人間は赤ん坊が泣いていれば、泣き方に共鳴して、赤ん坊の空腹とか、不快とか、痛みとかを聞き分けるということになります。だから適切に対処することができるわけです。但し、大人の側が赤ん坊の問題を解消してあげたいと思う感情がなければ、聞き分けることも難しいし、聞き分けても対処しないということもありえます。

夫婦にとっての問題は、その共鳴力、共感力が赤ん坊の方に主として向いてしまうあまり、成人の方に対しては向かいにくくなるということなのです。人間の脳は万能ではありません。同時には一つのことしかできないようになっています。赤ん坊への共感力が働くようになると、大人への共感力が後退せざるを得ないようです。大人の仲間を援助する感情が起きにくくなるのはこういう仕組みです。どうしても哺乳類の生きる仕組みから、大人は後回しにならざるを得ず、これは脳の活動の変化によるものだから仕方がないのです。つまり感情に任せたまま行動してしまうと、どうしても赤ん坊が最優先になってしまいます。

大人同士が仲間であることを安定的に維持するためには、感情に任せた行動以外の行動原理が必要です。つまり、理屈、理性で行動することが必要だということになります。心は不要です。心を求めることは自然摂理に反することを要求することで過酷なことです。相手が心地よくなる行動をするということは理性の力があればよく、かつそれが必要だということになるわけです。何をするべきかという知識と知恵があればよいということが正解だと思います。

母親が赤ん坊にだけ共鳴しやすい脳の状態になっていることは間違いないようです。その反射として、父親に共鳴することや、父親のために何かしたいという感情が著しく減少することになります。この結果、父親との出産前の楽しかった記憶も色あせていることも多いようです。つまり、いつも一緒に生活し、ごく身近にいる男性に対して、共感することができない、つまり何を考えているかわからないという状態になっていることになるようです。記憶が薄れるという言い方も当たらずしも遠からずのようです。安心の記憶、楽しかった記憶が失われる、夫に対する感じ方、馴れがリセットされるということになるようです。自然の摂理であると割り切る必要があるのだと思われます。

出産によって母親の馴れはリセットされているのだから、出産後の時期は、母親が夫が敵か味方かを改めて判断を迫られている時期だということになります。仲間だと受け容れられる自然な感情は、赤ん坊にだけ向かいやすいので、父親にハンディキャップがあります。またこの時期は、母親にとって子育てという肉体的にも精神的にも激務を強いられているときです。夫が子育てに役に立つか、邪魔にしかならないかという新たな判断基準が生まれやすくなっています。また、母親が子育てをすることに被害意識を持つと、父親の行動を正当に評価することは難しくなります。父親が何をどう奮闘しようと、「ちっとも足りない。やっていない」と必ず感じます。父親の立場に立って考えることはできません。母親にとって必要な行動がなされているか否かという結果だけを評価するようです。そして子育ての役に立たないと感じられる父親はますます味方だと感じられにくくなりがちだということになります。

味方ではない近距離の他人は、敵として警戒するのも生物の仕組みです。多くの哺乳類では、子どもの出産後は、父親は子育てに関与しません。子育てにはあまり哺乳類のオスは役に立たず、邪魔者扱いをされているようです。しかし、人間は、父親が子育てに関与しています。人間の父親は子育てに大いに貢献していたか、あるいは、母親に自分は敵ではないということをうまく伝えていたのか、どちらかということになります。私は人類のオスは両方の努力をしていたのだと思っています。

母親が父親を自分の仲間なのか敵なのかを判断するにあたって大切な要素となる母親の求める利益は、みんな共通ではありません。多くの母親が切実に希望する利益は、「安定した生活」ということが多いようです。安定した生活は、不安のない生活です。借金(住宅ローン)の無い生活、低収入を得る職業、浮気をしない夫、そして身体生命の安心ということになるようです。本来それらの要求を満足させるから(あるいは妥協できたから)結婚したはずなのですが、出産によってこの合格評価はリセットされています。子育てをするという条件が付加された形での安定の評価となりますから厳しくなります。そして必ずしも正確な見通しでもないようです。住宅ローンが何十年も続けばそれだけで逃げ場のない苦しい思いを強いられているように感じるし、夫が自由業であれば定収入のある勤め人になってもらいたいと感じるようです。出産前の考えもリセットされているようです。このため夫からすれば、あっと驚くところに不安を感じてしまうようです。妻の不安や不満は、ますます理解できないことになっているようです。

いずれにしても、母親は、一度は結婚するときに夫をパートナーとして満足できる(妥協できる)存在かどうか品定めをしますが、出産後も別の評価基準で品定めをすると考えるとわかりやすいのかもしれません。

ところが、夫は致命的な失敗をしがちです。それは一言に尽きます。「出産前と何ら変わらない対応を続けた」ということです。

夫はいくつものことを既に忘れています。交際を始めたころは、将来の妻となる女性に対して極めて慎重に、ていねいに働きかけていました。そして自分の働きかけに対する相手の一挙手一投足の反応に一喜一憂していました。女性の歓心を得るために、一生懸命考えて、相手が喜びそうなことを行い、お金も使っていました。自分の利益よりも相手の利益を優先していたはずです。相手が嫌がりそうなことはもちろんやらないようにしていたはずです。その後、このような努力が実を結んだからこそ結婚できたわけです。

その後長く一緒にいる中で、緊張を解き始め、声が大きくなり、自分の都合を優先することも出てきて、痛いところを突かれると乱暴な言葉を発したりしていくわけです。都合が良いことに妻も馴れが生じるために、結婚前ならば恐怖を感じていたかもしれない夫の言動も、自分を攻撃しているわけではないということを理解できるようになり、味方だと感じ続け、そして出産に至ります。こんなことを結婚前にやっていたら結婚できなかったはずの行動も、結婚後にそれをやっても結婚が維持されていたのは、すべてこの「馴れ」のおかげなのです。

気を使って自分を守らなくても良いのだ、緊張しなくてよいのだという学習こそが「馴れ」なのです。

女性も馴れが生じるとともに、男性も馴れが生じているということになるでしょう。

しかし、出産に伴って、母親の「馴れ」はリセットされてしまっています。あなたが赤ん坊の母親(妻)の近くで大きな声を出せば、それだけで母親はおびえるようになります。乱暴な言葉をつかえばますます怖がるのは当然です。父親が趣味や外の付き合いなど自分(母親以外)の都合を優先すると母親に不信感も生まれるでしょう。母親が困っているのに放っておくことは論外だとしても、生活上の母親の不十分なことをニコニコと自分がやるのではなく、不十分であることを責めるようになってしまえば、あるいは眉間にしわを寄せて、あるいは最上級の恩を着せた態度でやるならば、もはや母親が父親を仲間だと無意識の判断をすることを期待する方が無理でしょう。忘れてはいけないことは、人間も動物も、仲間でなければ敵だと判断することです。

(最近の紛争の形態としては、父親が母親以上に子どもに共鳴力を向けてしまい、母親に対して味方意識が薄れるために生じる類型です。子どもの利益を考える余り、子どもにとって利益であれば、大人は我慢して批判も受けなければならないし、何をさておいても子どものために行動しなければならないという過剰な意識を持ち、それを十分にしない相手を責めてしまいます。やはり、父親も母親の立場に立って考えることができなくなり、結果だけで評価をしてしまいます。しかし、母親にとって「馴れ」は既にリセットされています。責められると母親はますます父親を味方だと思わなくなってしまうだけです。母親は、自分があたかも子どもの奴隷として生きろと言われているような感覚を受けてしまいます。もちろん人によって程度の違いは大きくあるわけですが、自分が子育て以外に自分の価値を見出した母親程このような傾向があるように感じます。逆に言うと、世の中が、子どもを守り育てることに価値評価しなくなったということだと思います。収入をあげることに、人間としての価値が集約されているような歪んだ社会となっているように私には思えてなりません。)

そして、男性は出産ということがありません。馴れが強制リセットされる事情がないので、馴れは継続してしまっています。父親が出産前までと同じようにふるまうことは、むしろ当たり前のことだと思います。そして、母親も同じように出産前と同じ思考をするのだろうという思い込みが生まれています。そこに悲劇が生まれるわけです。この悲劇を回避するためには、理性を働かせて、意識的に、そしてわかりやすく自分があなたの仲間と働きかける必要があるということになります。悲劇を回避する手っ取り早い確実な方法は、産前産後に関わらず、結婚前後に関わらず、レディーファーストを徹底して、女性を最上級に扱うということなのだろうと思います。これはとても優れたシステムではないでしょうか。少し女性にとっては後退した方法としては、少なくとも出産後、2年くらいは子どもを産んでもらった感謝を奉るという行動に徹することだと思います。

しかし、通常、このような知識がある男性はいないわけです。その上馴れも係属しているから、丁寧な言葉遣いに改めようというきっかけがありません。妻は、自然と夫が、危険な、不快な、不愉快な、邪魔な存在になっていくわけです。

これまでは、夫も妻もこのような感覚を持っても破綻を回避する方法が用意されていました。それは密接な人間関係です。両親、上司、近所の年配の人、親戚、あるいは学校時代の先生など。「みんなおんなじことを感じてきたのだから、少しだけ我慢するとよい。すぐにまたまったりとした関係になるから。心配しなくてよいよ。あの人には人にない、こういう良いところもあるし。」等の優しく諌める言葉があったのだと思います。

子どもを産んだ母親に対するいたわりと経緯を自然な感情としてもち、それを示さない夫をたしなめるというようなことをするでしょう。子どもが生まれたのだから、安定した生活をするように説教する大人もいたでしょう。馴れのシステムなんてわからなくても、経験で何をするべきかを語り継いでいたはずです。理屈がわからなくても、やってみて幸せになるならやる。とてもシンプルな力強い真理だと思います。習慣とか祖先の知恵を軽視する風潮があったわけです。

今は、子育て世代は孤立の中で、インターネットを相談相手に生活しなければならないようです。この孤立婚が現代人の不幸を加速しているような感覚さえ持ちます。確かにやみくもに慣習などの過去に縛られることは不合理ですが、慣習という自分の先輩たちの実践の中で検証されてきた方法論を軽視してはならないと思います。私は、このような慣習や故事、ことわざなどの合理性を科学的に検討することもライフワークにしています。学ぶべきことが多すぎるということが実感です。慣習や言い伝えの類を排斥し、自由を獲得しても、それが感情のままに行動するということになってしまえば、起きなくても良い紛争が起きるということは当たり前のような気もするのです。

さて、現代の子育て世代は孤立していて、自分の両親の経験も伝わらず、ましてや先祖伝来の慣習も伝わらない上に、妥当しない人間関係になっているようです。横のつながりがあったとしても、あまりにも個人的な経験しか持ちあわせていない同世代からの情報しかありません。悲劇を防ぐ手立てはなく、無防備に危険にさらされている世代だと感じています。

そうこうしているうちに、父親は母親が自分をぞんざいに扱っているのではないかと感じることが多くなります。母親の側は出産前の「今まで通りではなくなっている」からです。哺乳類の子育てモードになっているから、成人男性がどう思おうとあまり気にしなくなっています。自分がこれまで妻にしてきた努力も忘れているような気配もあります。夫の側は妻の自分に対する態度が「今まで通り」ではないので、このような妻の態度に「なんとなく」危機感を感じ始めるのもそれは仕方がないことかもしれません。
ここでいう「今まで通り」とは、
・妻は夫である自分を誰よりも尊重してくれる。
・妻は自分に多くを与えてくれる。食事、時間、労力(掃除、調理、洗濯などの家事等)
・妻は、自分の窮地をいやしてくれる。
・妻は、自分の不十分なことを代わってやってくれる。
危機感とは、このような妻の今までどおりがないことから、自分が妻から見て「仲間として認識されていないのではないか」という危機感です。

これを女性の立場から見ると、母親が父親の行動が出産前の「今まで通り」と感じられるためには、これらの今まで通りを、今まで以上に父親が行うことをしなければならないと考えていると置き換えるとわかりやすいかもしれません。

さて、夫婦に危機が発生することを予防することを第一に考えるならば、父親の「今まで通り」がかなわないことは仕方がないことだとあきらめ、母親の「今まで通りを強化」するということが鉄則になると考えると、やるべきことが見えてくることと思います。

でもこれは、案外幸せな気持ちで、自然に解決する人たちも多いのですよね。子どもが生まれた喜びと、出産の母親の苦労に対する感謝と敬意を抱き、自分の生きる意味を家族に奉仕することに集中できる人ですね。これはしかしバランスが難しく、円満さが長続きしない場合も少なくありません。弱い者を守ろうという正義感の強すぎる人だと、子どもの利益だけを最優先にして、母親の感情を顧みられなくなってしまう人ですね。「ちょうどよく」ということはなかなか難しいようです。母親側からすれば、父親はなかったものと割り切って、邪魔をしなければ良し、家計を入れれば良し、子どもが笑っていて花が咲いていれば幸せだというたくましい母親と、疎外感を感じながらも、家の外で頑張るという父親ならばこのような疎外感は悪い方向に導かないかもしれなかったかもしれません。これはもしかしたら昭和以前の家族のタイプなのかもしれません。現代社会でこれを再現することは不可能でしょう。

多くの事例では、人間の考え方には大きな変化があるという知識も理解もなく、日本の慣習や一世代前の経験もなく、無防備に危険にさらされる家族が多くあるわけです。

父親は、今までに比べて、自分がぞんざいに扱われているわけですから、いつかそのことを相手に文句を言ってやろうと思っていたりします。母親にとって父親は共感の対象ではありませんから、フォローすることは自然体では難しい。多少の父親のアッピールがあってもぞんざいに扱い続けるし、父親をフォローするとか、子どもと平等に扱うとか、そんな発想はありません。共感力が無くなっているから、父親の失敗を責めたり、不十分なところを責めてしまうことができるようになってしまいます。父親は家庭にいることがそれほど幸せに感じなくなることもありうることです。そして、報復感情もあり、母親の失敗や不十分点を見つけると、母親が自分にしたように、鬼の首を取ったように、あざ笑ったり、批判、叱責したりするわけです。母親は、ますます、というか、はっきりと父親が自分の敵だと認識し始めるわけです。

父親は、母親とコミュニケーションをとることが難しいと感じてくるでしょう。何を言っても反応が鈍いし、自分の言っていることを聞いていないのではないか、無視しているのではないかと感じることも多くなってきます。このため、必要以上に、強く、厳しく母親に対して物を言うようになっていきます。また、被害者意識が芽生えてしまうと、母親の何気ない言動が、自分を攻撃する目的ではないかと感じ始めていきます。そのため、自分を守るために、自分を攻撃する行動に対して怒りを持ってしまいます。しかし、それは単に生理的に共感ができなくなっているために起きているだけのことです。

父親はそれがわかりません。父親は母親が嫌な存在だと思うわけではなく、母親の具体的な言動や、無視だと感じる行動に対して抗議しているだけだという傾向が強いようです。

しかし、こういうことが続くと、母親は、常に自分は父親からこのように見られているのだという意識を抱かされるようになるようです。物をきちんと折りたたまないでしまい忘れたりして、父親が帰宅早々眉間にしわを寄せて黙り込むと、父親は自分がだらしない人間だと思っているのだろうと思うようになります。何か口論になり、「ああ、父親は自分に対して、『言い訳ばかりする人だ』と言いたいに違いない」と思うようになり、記憶の中でそう言われたと変貌していくようです。
第三者がいれば、理屈はどうあれ、そこまで言うことはないだろう。もう少し暖かく接しろというかもしれません。しかし、そういうことを言ってお互いをたしなめてくれる人は現代社会にはいません。勘違いの不安に、「寄り添う」という愚かなことをする人ばかりです。
このため、夫婦双方に、相手に対する不信が加速していくということが現代の離婚事情だと私は感じています。いくら母親が父親に共感する能力が減退していたとしても、今まで馴れて許容していた範囲を超えて、父親が自分に対して大きな声で、乱暴な言葉づかいで、怒りの表情をして、些細などうでもよいことに腹を立てているのです。自分が毎日毎日否定されて、フォローされているという実感は全くありません。しかし、近くにいつもいる。毎日家に帰ってくる。また帰ってくると、訳の分からないことに腹を立てて自分を攻撃してくる。という毎日が母親の毎日になってくる危険性が生まれています。父親は、自分の感情や母親に対する言動は当然のことだと感じていますから、母親が自分を嫌悪しているということに気が付きません。母親は、父親が完全に自分の味方ではなく、自分の存在脅かす存在と認識されますので、一緒にいることが危険だと勝手に感じ、不快だと感じていきます。一緒に同じ空気を吸いたくないという感情となることは容易に想像することができるのではないでしょうか。

夫婦すべてがこうだとは言いませんが、多かれ少なかれこういうことが起きています。しかも、その途中経過を認識して、「ああ、このままだと、自分は敵だと思われそうだ。」なんてことに気が付くのは至難の業でしょう。ある日ある時、夫婦は破綻しているということが現代では少なくありません。母親は子どもにしか共感できませんので、子どもは自分の味方です。父親は敵です。子どもを連れ去るという別居形態はこのようにして生まれるのだろうと思います。

そうならないためには以下のことを忘れないようにしましょう。

・人間は時間が過ぎれば、感じ方、考え方が別人のように変わる生き物である。
・特に出産によって女性はほぼ確実に変わる。
・出産後少なくとも2年は、主役は子どもに譲り、父親はわき役に徹する。
・出産後は特に、妻に対しては結婚直前直後の自分の態度に戻す。
・子どもが小さいうちは、妻からないがしろにされることは当たり前のこと。
・出産という行為は、生死を掛けた行為であり、男は生涯かけてやらない行為。
・母親に対して無条件に尊敬の情を示す。
・夫婦、家族の感情的な満足、充足は出産しない父親の役割。
・真心よりも、相手に伝わる言動を優先実行。心は後からついてくる。
・常にねぎらい、感謝の言葉を発すること。

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試行面会マニュアル 別居親がやるべきこととやってはいけないこと [家事]


1 試行面会の目的

夫婦が別居すると、その間に生まれた子どもはどちらかの親と同居し、どちらかの親と別居することになります。別居親と子どもが普通にあえていればよいのですが、同居親が別居親と子どもとの面会を拒否することになれば、当たり前の話ですが、親子ともども会いたいですし、子どもの健全な成長のためにも別居親と定期的に面会することが望ましいとされていますので、間に家庭裁判所が入って、面会交流の段取りをするわけです。これが面会交流調停とか、面会交流審判という手続きです。
同居親は裁判所が間に入っても会わせようとしないことが少なくありません。会わせないには理由が必要なので、ここで別居親が同居親に精神的虐待をしていてそれを子どもが見ていたとか、子どもに精神的虐待をしていたとか、子どもが会いたいと言わない、会わなくても良いと言っているとか主張するわけです。
そうすると、裁判所も何かあってからでは遅いし、子どもの福祉のために行う面会交流で子どもが精神的にダメージを負ったというのではまずいので、親子関係の実態を実際に観察して、面会交流を実施するか、実施するとしてどの程度の内容とするかを判断する必要性があるということになります。
つまり、試行面会は、その時面会できれば良いやということではなく、将来的な定期的な面会の在り方を決めるための試行ということなのです。
子どもが別居親を怖がってもいなしし、嫌ってもいないという事実をみせ、むしろ子どもが楽しそうに面会しているということがみんなの前ではっきりさせることによって、充実した面会交流の足掛かりになる重要な機会ということになります。
試行面会までは、同居親は別居親のDVやらモラルハラスメントやらを主張しますので、裁判所ももしかしたらそうなのかもしれないと半信半疑とはいえ疑いを持つわけです。裁判所に限らず「DV」とか「虐待」という言葉には抵抗力があまりありません。具体的に何があったかはあまり吟味せずに、暴力があったという言葉だけで相手方を警戒します。離婚事件では妻側のDVの主張があれば、書記官を警備に当たらせることがあります。こちらはどうして警備が入っているかわかりませんから、反論のしようもありません。ところが試行面会によって、子どもが嬉しそうに別居親と遊んでいる様子を見ると、裁判所関係者も手のひらを返したように別居親に対して共鳴共感を示してくるという事例は多く報告されています。
試行面会は重要です。できるだけ早期に試行面会が実施されるべきだと思うようになりました。

2 試行面会までの道のり
 
試行面会は重要なのですが、同居親が抵抗するとなかなか実現しません。最近は裁判官が積極的に介入し、同居親を説得し試行面会が実現するようになりましたが、介入が遅い。中には、会わせるか否かは親の自由意思だとして働きかけない人たちもいます。しかし、ここで考えなければならないのは子どもの成長という子どもの権利なのです。家庭裁判所は子どもの権利として実現に向けて努力するべきだと私は思います。
私がここで理屈を言っても、物事は進みません。裁判所が渋る同居親を説得するように誘導する工夫が必要です。また、その説得を受け入れるように同居親を誘導するという視点も大切です。
大切なことは、面会を求める同居親は、温厚で、子どもを会わせても、誰にも何も悪いことは起きないという安心感を与えることです。
一番多い失敗のパターンは、同居親が繰り出す、DVや虐待について、目を三角にして大声で口汚くののしって否定することです。あるいは、相手の些細な言い間違いをくどくどといつまでも執拗に指摘して、こちらが正しいということを頑張ることです。
違うならば違うと言えば良いのですが、いくつかの事情で、このような攻撃的な態度をあらわにする失敗が実に多いです。事情というのは、最愛の子度を引き離されたこと、自分が父親として夫として人間として否定されたと感じる被害者意識が一つ。これがあれば、放っておけば攻撃的になるかあきらめるかどちらかです。もう一つの事情は、同居親の主張が不正確であったり、正義に反する虚偽主張が許せないということも独立してあるようです。
気持ちはわかるのですが、この気持ちのおもむくまま行動すると裁判所では決定的に不利になります。「この人は自分の感情を制御できない人だ。家族の失敗を許すことができずに制裁をしようと常に考えてしまう人だ。誰が聞いても不愉快になるようなことを人前で平気で言う人だ。それならば多少の誤差はあったとしても、同居親の主張するようなモラルハラスメントもあったかもしれないな。」という思考の流れができてしまい、子どもに会わせると何が起きるかわからないと警戒を高めてしまうだけなのです。
相手の主張した事実は嘘だというよりも、「実際はこう言うことが起きていて、相手が言うこういうことは起きていない。しかしこういう事情から相手がこう感じたということはありうるかもしれない。」等と事実と感情を分離させて、相手の主張の共感できる部分を探し出してでも共感して見せた方がよほど有利になります。ここが踏ん張りどころです。
相手の主張に関わらず、相手の良いところは積極的に主張していくことも有効ではないかと思っています。
また、相手の言い分をよく聞くという姿勢が大切です。そういう事実があったか無かったかというよりも、相手が何を本当は言いたいのか考えながら聞くということです。そして賛成できる部分を抉り出して、加工してでも賛成を示すということ増やしていくことが大切です。
婚姻費用などの金額に争いがあったとしても、自分の主張する金額は調停成立前から払い始める申し入れをして払い始める。足りない分は後から払うからとりあえず必要だからと言って払い始める。これは、鉄則です。少なくとも養育費相当額は支払うべきだと思います。
このように、別居親が同居親を気遣ったり、配慮したりする態度を見せていき、温厚な対応に終始していけば、ヒステリックに面会を拒否する同居親と対照的な姿勢が際立っていきます。次第に面会交流の実施に流れが傾いていきます。
ある審判事件では、裁判官が、丹念に同居親の心情について話をさせて、いつのまにか試行的面会に向かう流れができてしまったという経験もあります。
詳しい話は省略しますが、一言で言えば相手に敵対する気持ちを持っていないこと、感謝と謝罪を示すということです。それが安心の材料になると思っています。

3 試行面会の実際

それぞれの家庭裁判所で条件が違うので何とも言えませんが、通常の支部ではない本庁と呼ばれる家庭裁判所では、調停で使う部屋とは別の階に、面会に使う部屋が用意されていて、おもちゃなどが豊富におかれています。靴を脱いで座れるようにパズルのように組み合わせるマットが敷かれていることが多いかもしれません。調査官が先に子どもと部屋に入り、一緒に遊んだり、子どもの遊ぶところを調査官が見ていたりして、後から別居親がその部屋に入ります。隣などの部屋でマジックミラーあるいはモニターなどでその様子を、代理人や同居親が観察します。調査官は面会の間中面会室にいて、内容を詳細に記録し、その記録を裁判官に提出して報告します。小一時間くらい面会をして、そろそろ時間だから片付けをしてというのも調査官の仕事です。
子どもが楽しそうにしていれば、全員がその事実を把握できるようになっています。ここで、些細なことで揚げ足をとって面会交流はうまくいかなかったと主張する弁護士もいます。しかし、そういう細かいことではなく、全体として子どもは別居親を怖がっていたり、嫌っていたりしたかどうか、調査官がいなくても二人の世界が築けたかどうかという事情を見ますので、些細な揚げ足取りは全く効果がありません。細かいことに気を使う必要はありません。小一時間と言っても久しぶりの二人が過ごすことは、途中で中だるみがあることが通常です。焦る必要はありません。
試行面会以降の調停や審判は、試行面会の実際をもとに進められることになります。ただ、代理人や当事者の感想と調査官の感想に違いが見られることがありますので、後に作成される調査官報告書は担任に読みこなす必要があると思います。少々厳しいことがあっても、今後の課題だと受け止めれば、大変参考になる指摘がなされていることが多いです。

試行面会の前に、電話やテレビ電話で、短時間でもゆったりとした時間を一緒に過ごすということは、試行面会を決定的に成功させるポイントになるようです。最終決定の前の間接交流はどんどんやった方が良いと思います。

4 では試行面会はどうすればよいのか やってはいけないこと

ようやく本題ですね。
ここでは子どもが楽しく面会の時間を過ごすということが唯一の目標です。
楽しく感じられない要素を列挙します。
・別居親と一緒に暮らしていないという罪悪感を強められる。
・自分の感情を出すことを妨げられる。
・自分のできないことをやらされる。<同居親に言うなということを言わせられる。自分の意思に反したことをやらされる。>
・同居親の悪口を言われる。
等々です・
もちろん、暴力暴言を受けたら楽しくありません。

やってはいけないことは感動の再開です。
それは久し振りであったのだから別居親はうれしいし、はたで見ていても涙が出ますから本人はなおさらでしょう。でもそれをやってしまうと子どもは重く感じてしまいます。また、子どもは年齢にもよりますが、自分が悪くもないのに別居親と離れて暮らすことに罪悪感を抱いています。感動の再開は会えなかった期間別居親が苦しい思いをしていたということを子どもにアッピールすることですから、子どもにとっては罪悪感を強められてしまいます。こんな思いをするならば会いたくないと感じてしまうこともあるようです。

また親が泣いてしまったり、興奮してわけがわからなくなると(実際にありますよ、それはわかります)、子どもは自分の感情をあらわにすることができなくなることがあります。しらけてしまうことがあります。あくまでも子どもために親が務めを果たすという意識で臨んでください。
子どもにあれこれと聞き出そうとすることはもちろん厳禁です。子どもが困惑してしまうからです。子どもは直接同居親に口止めされなくても、何となく言っても良いことと悪いことがありそうだということはわかります。子どもに負担を与えてはならないということは念のためにお話ししておきます。

同居親の悪口は、後の面会交流でも厳禁です。子どもは親の悪口を言われるのは、もう一人の親からだとしても大変苦痛です。自分の半分はもう一人の親だから当然です。

子どもが一方の親に連れされても、子どもが自主的に戻ってきてしまうパターンは、同居親とその親から別居親の悪口を聞かせられたこと、兄弟の中で自分が差別されたことという事情がある場合がとても多いです。それだけ親の悪口を言われると精神的に苦痛であり、悪口を言わない親の方が精神的に楽なので、そちらと一緒にいたいと思うようです。

5 では試行面会はどうすればよいか

私は必ず別居親の方に言うことがあります。それは
昨日も会っていたように、明日も会うように
という接し方です。これは鉄則のようです。

例えば「やあ」とか「よう」とか、当たり前のように挨拶をして、ニコニコ入ってくれば、子どもは
・自分が別居親から同居中と変わらずに愛されていると一瞬にしてわかる。別居親は何も変わっていないとわかる。
・別居親は離れて暮らしていることに逆上しているわけではなく、罪悪感を抱く必要はないということも一瞬でわかる。
・別居親は喜んでくれているのだから、自分は自由に感情を爆発させても良いのだと一瞬にしてわかる。
・自分は別居親といつもの空間で生きていると感じる。
・自分はそのうち別居親と自由に会うことができるようになる。

つまり、はたから見ていると、一瞬の後、これまでの日常の中に二人が舞い戻って、いつもの親子の時間を過ごしていると感じるものです。

こう考えると、服装などもいつもの格好が良いのかもしれません。

最初は、別居親が入室する前から子どもは面会室にあるおもちゃで遊んでいますから、そのおもちゃで一緒に遊ぶとよいと思います。親から遊びを提案するよりも、子どもに任せた方が良いと思います。「たくさんおもちゃあるね。これ前にやったことあるね。」と水を向けるのは良いのですが、子どもがリクエストした遊びを一緒に楽しむということがよいでしょう。特に子どもが女の子の場合は、子どもにリードしてもらうことが鉄板です。子どもの様子を良く感じ取るということが大切です。しかし、最初の挨拶がうまくいけば、同居中と同じ感覚で時間を過ごせばよいので、あれこれと思い悩む必要はありません。
どうしても心配ならば、気の利いた子ども向けジョークを三つくらい用意しておくとよいかもしれません。話題は、昨日今日の自分の体験ということで良いです。昨日も会ったのだし、明日も会うのだと思えば、そんなに構えて親子は会話をしないと思います。子どもが小さいならば、本を読んであげるということも良いですが、これも子どものリクエストがあっての方が良いです。
それでも、気づまりな感じで最初がうまくいかなかったら。
とにかく静かに楽しそうにしていることです。おもちゃで遊んでも良いですし、何か気の利いたことを話し出しても良いです。子どもは楽しそうにしている大人に寄ってきます。焦る必要は何もありません。子どもが退屈していても、大人が楽しそうにしていて、最終的に大人に興味を持てば成功だとして良いと思います。嫌がられたり怖がられたりしていなければ、まずは失敗ではないというくらいでいましょう。
別れ際もぐずぐずしない。どうせまた明日も会うのだからという雰囲気を親が作ってあげてください。ここ大事です。子どもは別れ際の寂しさ、辛さを感じなくて済みます。そうすると、純粋に楽しい体験になります。別居親が退出した後、短い時間調査官と子どもが二人きりになります。この時、子どもがニコニコしているか、悲しさや負担感を漂わせているかによって、印象が全く違います。この時子どもが、「この次会う時は・・・」なんて期待を語り出すと、是が非でも定期的な面会交流を実現させようと思うことは人情だと思います。

6 アフターフォロー

目標はあくまでも定期的な面会です。試行面会の直後が大きなポイントとなります。試行面会後、調停委員が両当事者から感想を聞くことが多いと思います。もちろん率直に感想を語ることはよいのですが、感想というよりも半ば儀礼的な発言をすることが効果的です。同居親に安心感を持たせるチャンスです。
誰でも久し振りに子どもに会った親は共通の感想を持ちますが、先ず子どもがちゃんと育っていて安心したということです。これははっきり調停委員に伝えて同居親に調停委員に言ってもらいましょう。
もし、このような感想会がなければ、自分の代理人を通じて、相手方の代理人にファクシミリでも入れてもらうとよいでしょう。
無事に育っていて安心したこと、1人で育ててくれたことに対する感謝、ねぎらい、今日子どもを連れてきてくれたことに対する感謝などです。
子どもを引き離した相手にこういうことを言う気持ちになれないかもしれませんが、作戦だと思って、子どものためだと思って実践してください。敵対心が無いと分かってもらえれば、その後内容が決まる定期的な面会交流の取り決めにとっても計り知れない効果が生まれます。

事情があって、夫婦が仲たがいして別居しているわけです。そのこと自体についてどうするかは私の意見するところではありません。しかし、子どもは同居親とも別れたくないし、別居親ともできるだけを多く会っていたいと感じることが圧倒的多数です。子どもができるだけ自由に別居親に会えるように、それを第1に行動して欲しいと思いますし、それが親の義務なのではないでしょうか。そのためには、父親と母親の間に最低限の信頼関係、安心できる関係が無くてはなりません。最初は嫌々、作戦として感謝を述べていても、感謝を述べ続けているうちに、後から心はついてくるものです。試行面会は、親どうしの訓練の場でもあるのかもしれません。

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