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【なぜ最近間接間接交流に誘導されるのか】裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 2 「ニュートラルフラット」という言葉が誤解のポイント 本来どうするべきか [家事]

・はじめに 前回の記事の要約
・ニュートラルフラットという言葉自体の問題点
・ニュートラルフラットという言葉の現実の効果
・そもそも調停実務においてニュートラルフラットという言葉は必要だったのか
・調停委員がニュートラルフラットを逸脱するように見える場合
・同居親から見て面会交流調停で偏った運用に見える場合
・ニュートラルフラットの本当の意味、あるべき調停運営
・もう一つだけ、人間は変化するものだということ

<はじめに 前回の記事の要約>

前回の記事で、東京家裁PTの論文が誤解されているということ、その原因の根本が、これまで東京家裁とその支部のごく一部という極限的な場面でしか行われなかったであろう、直接交流一本やりという調停実務があり、同居親の感情を無視して直接交流を押し付けてきたという反省を、無限定的に行った。ところが圧倒的多数の家裁調停実務は直接交流原則主義など行っていないのに、ますます同居親の感情を調停実務の重要要素として取り上げるようになり、その結果子どもが別居親と会う直接交流が減少していく誤った実務運用となっていると批判しました。今回はその続きです。

<ニュートラルフラットという言葉自体の問題点>

東京家裁PTの提言の冒頭部分で出てくるのが「ニュートラルフラット」という言葉です。PTは、この言葉に二つの意味を持たせており、1)同居親及び別居親のいずれの側にも偏ることなく、先入観を持つことなく、2)ひらすら子の利益を最優先に考慮する。そういう立場だと定義づけています。結論から言って、実務的にはニュートラルフラットという言葉は2)の意味が軽視される傾向に誘導する効果があるようです。ネーミングに原因があることは明らかです。
なぜならば、言葉の意味から、2)は当然に出てこないからです。さらに、提言自身が、提言の次の部分で、1)の意味でニュートラルフラットという言葉を使用しているからです。子の利益を最優先するということを強調しようとしたあまり、1)の意味で言葉を使ってしまっているように読めるということです。
どうして、「同居親、別居親の主張よりも、家庭裁判所の後見的立場から子の利益を最優先して考える」と明確にできなかったのでしょうか。世間的には、こういうと反発されることを考慮したのだとは思います。しかし、概念があいまいになり、誤解を作り出した原因になっていると感じます。

<ニュートラルフラットという言葉の現実の効果>
改めて1)の文言を再掲しますが
同居親及び別居親のいずれの側にも偏ることなく、先入観を持つことなく、
というのです。

これまでの実務で、あまり別居親に偏られた調停があったということは経験ありません。これは、別居親が男性、女性にかかわらずです。別居親が先入観、偏見を持たれたという経験ならあります。典型的には、同居親が女性で、事実に反するDVや精神的虐待を主張されて、別居親が調停委員会や裁判所によって妙に警戒されたという経験はあります。事実調査も何も行わないで同居親の言い分だけで、インカムをかぶった裁判所職員が別居親を見張っていたのです。しかし、一部の例外を除いて、概ね偏りなく扱われているように感じています。ただ、全国の当事者の方々からの相談では、同居親に偏った運用がなされているような相談を受けています。私も、面会交流調停の代理で他県の家裁の支部で、別居親が面会交流の目的はなんだと調停の冒頭で調停委員から詰問された経験があります。
 そういう意味からは、別居親にとって、ニュートラルフラットは歓迎するべき言葉になるはずなのですが、実務は違っています。提言の解説において、同居親から直接交流一本やりだという批判があって、それに対して改善を提言していると読めることが原因です。あたかもこれまでの家裁実務では、会わせたくないという同居親に、先入観をもって直接交流を押し付けてきたという反省をしているように受け止める人が少なくないのです。しかし、圧倒的な実務運用は、このような直接交流一本やりをしていません。それでもこれまでを改めて、ニュートラルフラットだといわれてしまうと、ニュートラルフラットという言葉は、会わせたくないという同居親への説得を自粛させる方向にしか働かないようなのです。

<そもそも調停実務においてニュートラルフラットという言葉は必要だったのか>

私も裁判所や弁護士会で調停委員の役割を担当していますが、あえて「どちらの当事者にも偏らず、先入観を持たない」ということを裁判所が提言することは必要だったのかということに、自分が言われる立場として疑問があります。

これ、裁判所が誰に向かって言っているかということなのです。言われているのは調停委員の人たちなんです。実際は、裁判官に対して、調停委員会をこういう風に運営しろということなのですが、主に反省を促しているのは、調停委員だということになります。当事者と直接やり取りしているのは、多くの事件で調停委員と調査官です。だから、偏っているとか先入観を持っているといわれているのは調停委員だということになるわけです。少なくとも調停委員からすればそう受け止めてしまいます。

しかし、私の実務上の経験からは、調停委員の方々は、むしろ当事者の心情に配慮して偏りがないことを第一に調停運営をされているような印象を受けます(これは必ずしも積極的に支持されることでなく、子の利益の最優先よりも親の感情を優先しているのではないかという感想なのです。)。言葉は変ですが、調停委員は本能的に、偏りのない調停運営を心掛けるという特質があります。自分の価値観を優先するような調停委員は、通常はいません。1)の意味でのニュートラルフラットな立場に立っています。
それを超えて、少なくとも別居親の立場に偏った調停委員がいるということは今まで聞いたことがありません。もしそういう実例があるならば、具体的に例示するべきだと思います。そうでなければ、もともとニュートラルフラットを心掛けている調停委員に対してあまりにも配慮を欠きすぎた提言になってはいないかという疑問があるわけです。調停委員をお願いしている立場の裁判所の言い方としては、あまりにも無礼だろうと思ってしまいます。もっとも調停員に反省を促しているとした場合のことですが。
もしかしたら、ここに裁判所の調停委員に対する誤解があるのかもしれません。もう少し検討してみましょう。

<調停委員がニュートラルフラットを逸脱するように見える場合>

調停委員が、客観的に見れば、偏りとか先入観に基づいて公平を逸脱する場合があります。それは当事者の感情に過剰に共感しすぎてしまう場合です。一方当事者が弱い立場であるとか、追い込まれて苦しんでいるとか、おびえているとか、本能的に味方にならなければいけないと感じてしまい、つい肩入れしてしまう場合です。この場合、その当事者に対して、範囲を限定するならば思う存分に共感を示すということは問題ないと思います。しかし、一方に肩入れしてしまった結果、他方に不利な対応することは厳しく戒められなければなりません。その人の感情と発言が万人からみて根拠があっての感情と発言だとは限りません。感情があるから原因があるでは調停ではなくなります。
もう一つ、偏りがうまれてしまう場面は、一方当事者が感情的になりすぎて収拾がつかず、合理的な解決に向かうことが不可能だと思うときです。こういう場合は、調停の行方に関する重要な事情ですから、事情を他方当事者に告げて進行についての意見を求めるべきです。事実を告げないで、感情的な当事者に沿う形で調停をまとめようとしてしまうことは、調停委員の都合で調停の方向を決めるということであり、これもしてはいけないことです。
そもそも、一方当事者が調停委員会に対して感情的になる場合は、その当事者の主張が実現しそうもないという事実に対して憤るという場合よりも、調停委員会が、自分にはわからない事情によって相手に偏った運用をしている、不公平な運用をしていると感じられる場合だということはよく考えてほしいと思います。
ここは調停委員会の事実認定の問題にも関連するところだと思います・

<同居親から見て面会交流調停で偏った運用に見える場合>

同居親の批判である、直接交流一本やりで強引に調停が進められたという批判には、そのような事実がないのにそう感じるだろうということは、実務家ならば理解できるところです。
子の利益を最優先として考えるならば、条件が許せば直接交流が一番望ましいということは、あまり争いがありません。そのためには、本来代理人は、双方の当事者の葛藤を高めることなく、落ち着いて両当事者が子の利益を優先して考えることができるような環境を作っていくことが求められるわけです。話し合い自体でも、無駄な争いをせず、相手の意見を尊重しながら子の利益を優先するように相手方を誘導することが求められます。また、面会自体も方法を工夫して、子どもがより安心して面会できるように同居親の安心感を構築してく努力が必要だと考えています。仙台弁護士会では、同居親の代理人の弁護士、同居親を安心させて子どもの利益を最優先するために、ボランティアで休日をつぶして面会交流に協力している人たちがいます。頭が下がります。
しかしながら、一定割合で、客観的には面会交流が制限されるべきではない事案でも、感情的に面会をさせたくないと主張する同居親が多くいます。会わせたくない理由としてあげられることは支離滅裂なことがほとんどで、子の利益からは会わせない理由がないことを隠そうとすらしない場合もあります。つまり、自己制御ができない状態であり、子どもの利益を考慮して意思決定することが不能な心理状態の同居親の場合です。それなりに理由をつける場合がありますが、簡単にそれが事実ではないことがはっきりする場合が多いです。つまり別居親(通常は父親)に、DVもなく、児童虐待もなく、精神的虐待もなく、連れ去りの危険すらない場合です。別居親からの同居親に対する敵対感情は強くなく、一方的に同居親が感情的になっている場合です。
 こういう場合、子の利益を最優先に考えた場合、同居親に対しては、理由なく子どもの面会を拒否していると調停委員会は受け止めることになるでしょう。そうすると、調停の大部分の時間は、同居親への調停委員会の説得に費やされます。事実私の代理人となっている面会交流調停期日の大部分は、待ち時間です。調停委員会は、時間をかけて同居親だけを説得するというのが毎回の調停となるわけです。同居親からすると、調停委員が自分にだけ注文を付けるのですから、「直接交流ありき」、偏った調停運営と感じるのはありうることです。これは、東京家裁PTのニュートラルフラットな調停運用の結果こうなるということが正確なのです。だからと言って問題もないのに、別居親との調停の時間をいたずらに取ったところで、面会交流の内容を下げろという話にしかならないわけです。これは、子の利益を最優先するというそもそも論から見れば本末転倒な話です。
 同居親からの批判の事実関係は、こういう流れではないかと考えることが私の実務体験(代理人実務、相談実務)からは自然のことです。だから、こういう場合、つまり同居親が理由もなく面会を拒否しているので説得されている場合でなければ、どういう場合なのか事例を上げなくてはなりません。あえてニュートラルフラットなどという言葉を使って誤解を招き、子の利益を最優先で考えられなくなるような提言をするべきではないのです。東京家裁PTは、全国の家裁運用をミスリードしないように、誤解を含んだ形での影響力が生じることを看過してはならないということを自覚するべきでしょう。

<ニュートラルフラットの本当の意味、あるべき説得スタイル>

私のブログでも何度も言っていることなのですが、意思を持つ人間の何らかの行動を求める場合は、強硬に結論を押し付けても失敗するのであって、その結論に誘導していくことが求められることだということです。提言は、システム論にこだわりすぎて、わかったようなわからないようなものになっています。ここでPDCAサイクルみたいな話をしても仕方がないのですが、若い裁判官には理解した気になる論法なのかもしれません。
 要は、まず、「同居親が別居親に子どもを会わせたくないということは、特に理由がなくても当然生じうる感情だ」というリアルを承認することから始めるということです。感情だから仕方がないと割り切るところから出発するべきです。危険だとか子どもが心配だとか言うことではなく、面白くない、不愉快だ、子どもの心を奪われたら怖いということは、普通の人間の感情だと思います。こういう感情があること自体は積極的に承認してよいと思います。こういう感情さえも否定されたら次に進みません。
 その感情を他人が否定すると、その感情主体は自分を守るために感情が生まれることには合理的理由があるということを述べなくてはならなくなります。そこに嘘や大げさな言葉が必要になる理由があります。そうではなくて、「離婚した夫には子どもは会わせたくないよね。」と始まった方が、その後スムーズになると感じています。
 ここで、調停委員から「でも子どもにとっては会わせた方が良いのだ」とか、「そんなことで子どもに申し訳ないと思わないのか」という説教が始まれば、同居親はへそを曲げてしまうし、あることないこと主張が始まって収拾がつかなくなります。調停が長期化してしまい、何も責任のない子どもが別居親に会えない状態が続いてしまいます。会わせたくないというものだということを他人から言われることで、同居親は、自分の感情が承認されたという安心感を獲得できるようになります。自分の素直な感情を話しても否定されないという安心感です。これが調停委員に対する信頼感につながるわけです。同時に、わかるけれどじゃあ、調停終わりということにならないことから、同居親は「どうにかしなくてはならないのだな」という考えが生まれる可能性が出てくるようです。
 ここで調停委員は、「会わせたくないのはわかるけれど、子どものためには会わせなくてはならないのよ。」と先を急いでしまうと、せっかくの負の感情の承認の効果がなくなってしまうかもしれません。今回の提言の良いところは、急がない、時間をかけるということです。むしろ、子どもの成育状況、母親としてのかかわりを話してもらうとか、父親に対する感情を聞き出すという回り道をするべきなのだと思います。提言にもそれらしいことが抽象的には述べられているのですが、母親の会わせたくない感情に、合理的理由があるはずだという前提に立って、調停において先々検討するいわゆる6つの課題の聴取をするようなことを述べています。これでは、面会交流阻害事由があるという主張をさせるように誘導してしまっています。ニュートラルフラットの手法とは言えません。
 徐々に、会わせたくないとはいっても、もし会わせるとしたら、どういうことを条件とするかということを考え出してもらう工夫をすることが求められると思います。つまり、無条件に会わせるわけではなく、自分が少しでも納得する形で会わせる、会わせ方をコントロールできるのだという安心感を持ってもらうということです。
 この時同時並行で別居親と話をしているわけですから、別居親に対して、同居親の安心感につながるような発言を引き出していくことが大切です。そうして、その発言を同居親にフィードバックしていくという作業が必要になるでしょう。つまり、人間には弱い部分があり、離婚をしたとしても、子どもがいる場合は、双方が親として相手の弱い部分をカバーしあうという協力関係を持つことが求められているとして、この協力関係を子の利益のために双方に努力してもらうということが調停のあるべき姿だと私は思います。
もちろん、面会交流を禁止するべき事情がある場合は、事実認定ができるか否か双方から主張立証をしてもらうことが必要となりますが、今考えているのは圧倒的多数の面会を禁止する理由のない場合です。また、偶然起きたような、人格に基づかないような行動や、主張が曖昧過ぎて事実認定ができそうもない事情しか主張されないような場合は、まずは協力関係の構築の努力をするべきであろうと私は思います。
現代の調停は、逆に、双方の非難合戦を仲介しているとみられる場面があります。これと違って、あえて主張の全部を告げないで、協力関係を形成していくためには、何が調停の方向に影響のある事実であるか、ただ調停委員は聞いておけばよいだけの事実か見極めて、調停委員会の合意が確立していなければなりません。裁判官の強いイニシアチブが必要になる場面です。
また、調停委員と当事者との間の心理学でいうところの信頼関係、ラポールの形成をもう少し意識してよいのではないかと思われます。そうでなければ、人生の一大事について、当事者が見ず知らずの調停委員に対して心を開くということはないと思います。この際注意しなければならないのは、双方に公平な関係を維持するということです。これは実際は難しいことではなく、申立人と話しているときは申立人の感情を承認し、相手方と話しているときは相手方の感情を承認するということで解決できます。両方にえこひいきするという手法です。私は昭和の時代の小学校の先生から伝授されましたが、心理学でも確立している手法のようです。双方が感情が対立しているとしても、どちらかの感情に共感することが他方の感情に共感することと矛盾しないことがほとんどですが、矛盾したとしても気にしなくてよいと思います。

<もう一つだけ、人間は変化するものだということ>

今述べたような調停運営がなされて、当事者双方が安心していくと、当事者双方は安心感を獲得することができるようになります。そのような調停に立ち会うと、人間が変化していく様子を見て感動することがあります。
だから、調停の一時点をとらえて直ちに、面会交流の方法を決定することには抵抗があります。面会交流調停は急がないというのであれば、少しずつ面会交流を始めていくことで、様子を確認して、さらに子の福祉のためにより良い方法を検討していくことが適切だと思います。一方で、過大な面会条件としないために馴れという経験が双方必要だということと、他方で、子どもにとって不十分な面会を永続化しないためです。もう一つ、無駄にお互いに不信感を抱き続けたり、景観間をもっておびえ続けなくするという効果も期待できます。

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裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 誤解されるポイントと誤解の理由 1 現状分析についての誤解 [家事]

 
<この記事を書く動機というか必要性>
<実務運用分析の誤り。極限的な実務運用がスタンダードとされて分析がなされているように読めることが原因。そしてその弊害>

<この記事を書く動機というか必要性>
面会交流については、近時、今後の実務の方法について、家庭裁判所関係者から提言された大きな二つの論文があります。
・家裁調査官研究紀要の27巻 「子の利益に関する面会交流に向けた調査実務の研究」小澤真嗣他
・家庭の法と裁判  26号 「東京家庭裁判所における面会交流調停事件の運営方針の確認及び新たな運営モデル」東京家庭裁判所面会交流プロジェクトチーム
です。
それぞれ、最初に私が読んだときは、私の考えている運用論が家庭裁判所からも支持されるようになったと、すんなりと受け止めていました。しかし、実務的には、これらの二つの論文が、昨今、子の利益よりも大人の利益を優先しようとする実務運用に使われているという実感がわいてきてしまいました。
一つは、子どもに別居親を会わせたくないという同居親に寄り添って、会わせないための調停での方法を指南している弁護士が何らかのマニュアルを書いているとのことで、その論文の中で面会拒否のテクニックとして二つの論文を指摘しろと言っているというのです。論文を読まないで都合の良いことを言っているのかなとその時は素通りしたのです。
しかし、その後、家庭裁判所で面会交流の事件をしていたら、若い裁判官から、「最近は、直接面会を裁判所も必ずしも認めない流れになっている。」というような発言がありました。どうやら、東京家裁PTの論文のことを言っているらしいのです。論文を読みもせずに雰囲気だけを拾い取っていたり、誤解をしている誰かの話をうのみにしていたりして、東京家裁PTの論文を誤解している可能性がありそうです。裁判官ですらこのありさまなのだから、弁護士やユーザーも同じように誤解をしているのではないかと心配になりました。
以下、東京家裁PTの提言の何が誤解されているのか、どうして誤解されているのかということを検討しようと思います。

<実務運用分析の誤り。極限的な実務運用がスタンダードとされて分析がなされているように読めることが原因。そしてその弊害>

1)論文の実務に対する二つの批判
論文では、これまでの実務運用が改められるべきだと述べられています。まとめると
・直接交流一本やりで同居親に配慮を欠き批判された。
・面会交流の内容が貧弱であること、実際に履行されないことを別居親から批判された
というものです。
2)同居親からの批判についての改善の提言
同居親の批判に対しては、同居親に対して説教や命令をするだけでなく、心情をくみ取ったうえで、面会交流の子どもにとっての必要性と、面会が禁止される場面があることを丁寧に説明していくという改善を提言しています。
3)分析が例外的な実務運用を一般化したこととその弊害
 この分析は、面会交流調停について全国の家裁実務を調査検討したものではありません。私の仕事は、東北地方中心ではありますが、北海道から関東まで、結構多くの家庭裁判所で面会交流事件を担当してきました。また、全国の当事者の方々から電話などで相談が寄せられています。直接交流一本やりで、面会交流調停が行われているという体験もありませんし、当事者からの報告もありません。東京家裁の事件でも同様です。同居親からの批判としてあげられた内容については、ジャンダーフリーを主張する弁護士から、直接交流一本やりの家裁実務の批判を見聞きしたことはありました。しかし、特定の政治的立場からの感じ方だろうと高をくくっていました。しかし、当の東京家庭裁判所が自分たちは配慮に欠ける強引な調停をしていたというのですから、そういうこともあったのでしょう。なんとも不思議な話です。
 少なくとも、私が相談を受けた事案の調停実務の問題点は、会いたい、会わせたくないという当事者間の争いが「どっちもどっち論」になってしまい、子どもの利益が最優先とはされない調停が進められているというものばかりです。私が担当した事案の調停でも、直接交流一本やりで、強引に同居親を説得するという運用は皆無で、会わせたくない心情を解きほぐして一緒に考えていくという運用がなされています。そうでなければ、面会交流は、現実には行われないからです。もし、直接交流一本やりの調停があったとしても、それは東京家裁とその支部の極一部の事件で行われたものだと、私の実務経験からは考えざるを得ません。
 このような、調停実務の極めて情緒的な分析が、提言の誤解の根本原因になっています。つまり、全国の家庭裁判所は、東京家裁が反省しているのだから、自分たちも同じように反省して、運用を改めなければいけないと機械的に思うようです。そもそも、東京家裁の傾向を敏感に反映した実務をしていないくせに、自分たちも同じ誤りを犯しているのだと感じるようです。これまで、子ども利益のためには、できるならば直接交流を実施した方が良いと考えて、いろいろ同居親に働きかけてきたけれど、それ自体が悪かったと誤解するようです。東京家裁の反省するべき実態が示されていないために、自分たちの実務が同居親に冷たかったとした、受け止められないわけです。しかし、二つの論文とも、直接交流が条件が許せば一番子の利益に最も効果があるといっているのです。ところが東京家裁PTの「反省」によって、他の裁判所ではこの根本が落ちてしまうようです。ますます同居親へ配慮しなくてはならないということだけが結果として見えてきてしまいます。結果として、「子の利益を最優先して調停を運営する」という根本的価値観よりも、同居親への寄り添いが優先されるという結果が起きてしまっています。
4)別居親からの批判についての改善の提言
別居親の批判に対しては、現実の課題や問題点を克服していきながら、自主的な解決を実現することも視野に入れて調停を運営するという改善方法が報告されています。
5)提言の改善ポイントについての誤解とその原因
別居親の、「調停や審判事項が守られない」という批判にどう答えるかということがあいまいだと批判されるべきでしょう。間違っているわけではないけれど、あいまいだから誤解されるのです。別居親の批判は、子どもに会いたいということが根幹にあり、「調停や審判で会えることが決まったのに会えない」という批判です。これに対して解決方法は二通り考えられます。Aは、実現不可能な取り決めをしないで、実現可能な範囲で調停、審判を行う。Bは、調停や審判を家裁の手続きが終わっても同居親が自主的に履行するように、同居親の心に働きかける調停を行うということです。PTの結論はBであることが読めばわかります。私から言わせれば、同居親の自主的な面会協力を後押しするように別居親も自分のふるまいを考えるということも大切です。しかしながら、どうも裁判所というのは、自分たちの関与に批判が来なければよいと思っているのでしょうか、Aの解決方法を、おそらく無意識に志向してしまうようです。つまり、実現可能な範囲で面会交流の方法を低くとどめようとする実務傾向が最近見られています。つまり、直接交流が守られそうもないなら、初めから間接交流で決めればよいやという安易な考え方です。子どもの利益を最優先する考えが消失しているだけでなく、当事者の利益よりも裁判所の自分が批判されないという利益を優先しているようにさえ感じられることがあります。
二つの論文とも、「子の利益を最優先する」という根本価値を繰り返し述べているのですが、どうやらそれは、読んでいる裁判所では、意味が入ってこず、枕詞のように扱われているのかもしれません。
6)この分析の現実の実務的効果
 この分析の部分の実務的効果は、先ほどのBのような選択肢が取られる理想的な調停実務が展開されるのではなく、単に同居親の感情に寄り添って、同居親に積極的に働きかけることを自粛し、「嫌なものは仕方がない。できる範囲で間接交流でまとめるか、時期尚早で面会を認めないか。」という傾向になりつつあるのではないかという危機感を感じています。

<ニュートラルフラットという言葉の弊害>
 提言の冒頭に出てくる「ニュートラルフラット」という言葉の弊害については、次回また述べたいと思います。

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それでも逃げろと私が言う理由。いじめの被害者の方が転校することは確かにおかしい。しかし、だからと言って逃げないということは、極めて危険なこと。命を守るのは理屈ではないということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

テレビドラマで、いじめの体験をしたという役の人が
いじめられていた時に、誰も「逃げてよいのだ」と言ってくれなかった
というセリフを言ったところ、主人公が
「いじめの加害者が学校に残って被害者が転校するなんておかしいだろう。どうして被害者が逃げなければならないのだろう。」という趣旨の発言をしました。

インターネットの商業記事でこの発言が肯定されて拡散されているのですが、大変心配になってしまいました。

どんな心配かというと
転校して新しい人間関係を形成して円満な人生が送れる可能性があるのに、
正義に固執して、いじめられている環境に子どもをとどめておいて
子どもが逃げることができなくなり、
さらに心理的に追い込まれるということが起きるのではないか
逃げたいのに、逃げられなくなってしまうことによって
自死が起きる事態になるのではないか。
という心配です。

確かに被害者が、いじめの被害を受けた挙句に転校という
さらなる不利益を受けることは不合理です。
いじめ被害は転校だけではなく、
不登校、引きこもりという損害も生まれますし
学校に出てきても「またあの時のようにいじめられるのではないか」
というようなトラウマの損害も見られます。
学業の遅れということもよく見られる損害です。

これらの損害について、いじめ加害者が弁償するということは
ほとんどないと思います。
いじめを受ける被害は、実際は莫大な損害であり、
生まれてきた喜びが失われるほどの被害を受けることもあります。
最悪の事態に自死があるわけです。
だから、「加害者が転校して、被害者が学校にとどまるべきだ」
という考えは理屈ではその通りだと思います。

しかし、いじめ及びいじめ被害という事象はそう単純ではありません。
1)何がいじめか、どちらが悪いのかということを、速やかに学校等が認定するということは、現実には期待できません。
2)仮に加害者が転校すれば、被害者は大手を振って元の学校で快適に暮らせるのでしょうか。もしそんなことを考えているのであれば、いじめやいじめ被害について何もわかっていないといわなければなりません。
 いじめで被害者がどうして傷つくのか、心理的に重い負担を受けるのかというところですが、いじめられて痛いとか苦しいとかということは想像しやすいのですが、それだけではありません。同級生などの前でいじめを受けることによって、自分が友達の一員としての立場がなくなる、顔をつぶされる、配慮をしなくてもよい人間だと思われるなどの対人関係的危険を感じます。この危険から脱したいと思うのですが、その追い込まれた心理として、自分の仲の良かったはずの人間が助けてくれるはずだという援助希求が生まれ、追い込まれれば追い込まれるほどこの援助希求が大きくなっていきます。そういう友達が何らかの援助をしていることがほぼ必ずあるのですが、追い詰められた本人の援助希求は肥大化して、「今この危険を除去してほしい」という結論を求めてしまうので、それが援助だとは感じられなくなっています。そして孤立無援、危険除去の不可能感を抱いて心理的に追い込まれていくわけです。
そうすると、少数の加害者が転校させられたとしても、自分に対するいじめを黙認していたと被害者が認識している圧倒的多数の「傍観者」がすべて在校し続けているわけです。そんな人間関係にとどまって、被害者は癒されるのでしょうか。そんなめでたしめでたしにはならないような気がします。加害者が転校すれば解決だというのは、いじめの現実を知らない人の理屈に過ぎないと思います。ただし、例外的に、職業的加害者がいて、その被害者だけでなく、圧倒的多数の子どもたちが被害にあっているような場合等で、多数者が傍観者と言えないような場面があるとすれば、その時に加害者の排除によって、被害者の平穏が実現するという可能性は否定できないでしょう。
 さらに、現実に起きているいじめでは、加害者と被害者がはっきりしていると、圧倒的多数の傍観者は感じていません。実際には被害者が一方的にいじめられているとしても、傍観者たちは、傍観をしている自分を正当化しようとします。ここでよく起きる傍観者の心理は、「被害者にも落ち度がある。加害者の感情も理解できる。」というものです。現実の学校や職場のいじめで、傍観者たちはこういう言い方をするのです。そしてだから、いじめではなかったというわけです。
そういう意識のままで、加害者が転校させられてしまうと、傍観者たちは加害者が転校した事態を受け入れるでしょうか。「どうして一方的に、あの人たちが加害者だと決めつけられて、学校からいられなくなったのだ。おかしい。その原因を作ったのはあいつだ。」と被害者に対して敵対的感情が起きる原因がここにあります。そんなところに被害者がとどまって、健やかに学校生活を送ることができるでしょうか。
 確かにこの現実は不合理です。不合理な現実は変えなければなりません。それはそうだと思います。しかし、これが現実なのです。不合理が是正できるまで、この現実の中で被害者を放置して、死の危険にさらし続けることはできないと私は思います。
 一体誰が、不合理だから、理屈に合わないから転校を拒否するというのでしょうか。
 被害者が精神的に追い込まれてしまっているならば、転校を拒否したとしても転校をさせるべきだと思います。もっとも精神的に追いこまれて危険な場合は、転校をして今の危険から逃れることができるというアイデアを拒否する精神力は残されていないことが多いと思います。
 親ならどうでしょうか。自分の子が被害を受けているのに、さらに転校しなければならないとなると怒りを覚えるのはよくわかります。転校に伴う諸手続きの時間や費用、転校後の例えば通学等の時間や費用、さらなる心配など、様々な負担が生じます。何よりも、自分の子どもの将来の制度設計が成り立たなくなってしまうことは大きな打撃です。それはよくわかりますが、考えなければないことは、子どもの気持ち、現在の学校にとどまるとした場合に起きるわが子の精神的負担なのだと思います。わが子の心理的圧迫を継続しないということを第一の行動原理としなければ、子どもはさらに追い込まれていくことになるでしょう。特に子どもが逃げたいという意思表示をしているときに、親の正義感で子どもの願いを否定するということは、子どもに絶望感を与えてしまう大きな危険があると思います。
 しかし、子どもの気持ちなんてかかわりなく、自分の正義感を振りかざして、子どもやその親御さんに合理的な行動を強要する人たちというのは必ずいます。善意なのですが、考えが足りないために、子どもを追い込んでしまう人たちです。親は、子どもの命を最優先して、外野に耳を貸さないようにする必要があると思います。
 いじめを受けた段階で、被害はすでに生じています。これを無かったことにしようとすると被害が拡大していく危険があるわけです。すでに生じている被害をいかに拡大させないで、最小限にとどめるのかという発想こそが必要だということになります。意地や正義を貫いて被害を無かったことにしようとして、子どもがさらなる被害を受けては悔やんでも悔やみきれません。

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家族再生を目指す場合の「専門家」の関り方。加害者プログラムの受講者さん方と話して気が付いたこと、相手のこころに働きかけるというアプローチこそが重要ではないかということ。弁護士と心理士とのすみわけとコラボレーション。 [家事]


要は、ユーザーが何をどのように利用するかという話です。

最近、男性からの離婚事件の相談を受けていると
心理的な学習をなさっているというか、
「加害者プログラム」の研修を受けている人たちが多くいます。
こういう方々はよく勉強していて、
・自分が妻に何をしたのか
・どうして自分はそういうことをしたのか
・自分の気持
については、驚くほど正確に文章として記録し、説得力あるお話をされます。
つまり「自分について」はよく語れるのです。
また、その結果妻が自分から去っていったのだ
という「結論」はご自分で語ることができます。

ただ、加害者プログラムという性質からでしょうか
自分のネガティブな側面がクローズアップされすぎているような
印象は受けています。

それよりも問題ではないかと感じるところは、
自分の行動によって妻がどういう気持ちになって、
別居という選択をして行動に出たのか
というリアルな流れの説明がかなり希薄な感じがするのです。

自分についての考察がかなり正確だからこそ
際立ってそう感じるのでしょうね。

どんなに自分について詳しく説明できるようになっても
対策は生まれません。

「自分と相手の関係」を修復したいならば
相手の気持ちを動かさなければなりません。
相手の気持ちについての理解が無ければ
相手の気持を動かしようがないので、話しが始まらないからです。

自分の気持や行動を、反省に基づいて
止めるべきところをやめただけでは
二人の関係は改善されません。

この意味で
デメリットが多くてメリットが少ない例として、
「自分の気持の中に相手に対する支配欲があったことに気が付いて
自分はなんて暴君だったのだろう。」という反省です。
そんなことに気が付いたところで
仲直りができるわけではありません。

反省の内容を手紙にして相手に届けたところで、
自分も相手も苦しくなる結果にしかならないというのが
弁護士としての経験上の実務的な実感です。

あまり現実(相手のこころ)を動かさないわけです。

(そもそもわたしは「支配欲」という欲を持っている人間がいるとは思っていません。自分を守るために、つまり自分が安定して妻との関係を維持できるために、妻の自分の否定的評価をことごとく消さなければならないという過剰な防衛行動が程度を超えると「配偶者加害」(DV)となると考えています。あなたは支配をしたいわけではない。ただ、自分に自信がない状態になっているから、相手が自分に理不尽な評価をすることを何とか無かったことにしたいと思って、後先かまわずに防衛行動を起こしているのではないでしょうか。しかし、相手があなたのそのような内心を理解することは無理です。その結果、相手からしてみると、自分がどう扱われたかだけを認識しますから、支配されている、服従を強いられているという感覚を持つということだと思います。あなた、自分の愛する人に自分の奴隷として行動してほしいと思いますでしょうか。そんな他人を支配しようなんてことを考える人がパートナーをそもそも作れるでしょうか。そうではなくて、仲良くする方法がわからないのです。本当はただ「ふたりの関係の中に安心していたい」ということなのだろうと思うのです。)

だから、相手の気持ちを考えて
「どうすれば相手は安心するだろうか。」
ということを考える方がよほど現実を動かすと思うのです。

うっとうしい夫の懺悔話なんて
誰が聞きたいと思うでしょうか。
夫の自己正当化と、
真実に気が付かなかった自分(妻)への非難と受け止められ、
逆効果になるということがこれまでの経験です。

ではどうするか。
方法論はそれほど簡単ではありません。
なぜならば、人のこころに、客観的な基準なんてないからです。
こうすればうまくいくという一般論はありません。

その一人の人がどう受け止めるのか
その一人の人のこころをどう動かすのかということがテーマです。

その回答を導くための素材は、
あなた自身が誰よりも豊富に持っていることに気が付いてください。

男女として一緒にいた時間が多かったあなた自身だからこそ
その人のこころに関する情報を誰よりも持っているのです。

あくまでも相手のこころを変えるということが唯一の目標です。
あなたの内心が変わろうと変わるまいと
あなたの働きかけに対して相手は反応するわけです。
たとえあなたが、妻に対して
二度と許せない一生恨んでやるというよこしまな気持ちがあっても
それを微塵も感じない行動をとって安心させれば
相手はあなたに近づいてくるかもしれません。

逆に、あなたが誠心誠意懺悔して、申し訳ない気持ちがいっぱいになっても
相手のこころを動かす行動をしなければ
相手があなたに対する気持ちに変化は生まれませんから
何も変わらないわけです。

どんなに攻撃的な心が内心に渦巻いていても
相手から歩み寄りがあり、信頼関係を築くことができれば
つまりあなたと相手の関係性が生まれれば、
その結果
あなたのこころも相手のことを想うように代わっていくはずです。

こころは後からついてくればよいわけです。
この点で、同じ過ちを犯さないようにするという意味では
自分の行動の反省も役に立つのかもしれません。
でも、自分の反省も、相手のこころを抜きにして行っても
あまり意味が無いと思うのです。

自分を守ることをやめて、自分のこころなんてうっちゃっておいて
相手の心を動かすことに専念する
これがあなたのやるべきことのすべてなのだと思うのです。

そうすると「自分というものが無くなってしまう」という
頼りない気持ちになるのかもしれませんが
ある意味これが対人関係学の出発点で
ここが大事なところです。

要するに
「人間というのは、いかなる意味でも
1人では生きていくことができないし
『自分』という概念ももつことはできない。
仲間の中の自分という
他者とのかかわりの中で初めて自分というものが存在し
自分という存在を感じることができる」
という側面を重視することです。

人間の紛争の解決に人間の相互作用という問題を重視するというのが
対人関係学の立場です。
この思考パターンは元々弁護士的な発想なのかもしれません。

これと違い心理学の多くは
どうしてもクライアントの心理分析が主体となっているようです。
そういうアプローチをする学問なのでしょう。

但し、これには例外があって
私も常々勉強させていただいている「家族療法」という学派は
家族の相互作用ということを大変重視されていますし、
カップルカウンセリングという学派もどうやら相互作用が
解決の指針のようであります。
これらの学派からは学ぶところが多くありそうです。

しかし、多くの依頼者のカウンセリング経験を聞くと、
この相互作用という視点がどうも足りないような感じを受けますし
クライアントの心理を重視し過ぎているような印象を受けます。
「どちらがより悪いか」ということをカウンセラーが直感で判断して
悪いと判断された方が変化するべきだというカウンセリングが
とても多く感じます。

何よりもカウンセリングが成功していないだろうなと感じるポイントは
そのカウンセリングを受けている人たちが
自分に対する内省は進めながらも
相手の行動に対する怒りがちっとも減らないで
自己の行動を制御することをあまり訓練されていないようだ
というところです。

何にも刺激のないところでは反省をしているのですが、
相手のアクションがあるとつい反応してしまうところは
あまり変わっていないというところでしょうか。

「相手のこころをどう動かすか」という視点を持っているようには
とても思えないのです。

自分で自分を大切にしているのだろうなというお話はよく聞くのですが、
自分を守ろうとする結果なんだろうと感じるのですが、
無駄な争いを目的もなく繰り広げて
家族の再生とは逆方向に歩んでいるなという姿をよく目にします。

もちろんうまくいっている加害者プログラムはあると思います。
また、プログラムは立派なものだとしても、当の本人が
まだ研修の半ばのためにうまくいかないということもありそうです。

あるいは、カウンセリングを受けたため、
ここまで前進したということも真実かもしれません。

ショックが大きすぎると、
自分が攻撃されているという意識が拡張していきますから
冷静に考えるということさえできないかもしれません。

カウンセリングのおかげで私と話ができるようになり、
次のステップを目指すことができるようになったのかもしれません。

もしかしたら対人関係学はこういうところは
あまり関心を持っておらず
その人任せにしているのかもしれません。

そうだとすると、
家族の再生に向かうための他人の関りは
複合的なものが良いのかもしれません。
つまり、何人かの専門家がフォローをすると言うことですね。

その際には、お互いのフォローがお互いに邪魔しないで
効率的に家族再生を進めるために
情報交流をした上で相互に利用し合う形が生まれると
良いのかもしれません。

つまり、認知のゆがみを是正するパートと
相手に対する働きかけを担当するパートということになるでしょう。

そうすれば、もっとうまく解決する例も増えてくるかもしれません。

但し、その最大の弱点は費用が掛かりすぎるということかもしれません。

個別の連携よりも
家族を再生させるためのプログラムを確立して
各専門家がどのように関与していくかという
サンプルを蓄積していくことが実務的ではないかと思われます。

情報を広く提供して
専門家に個別の費用をかけないで自分で解決していく
ということができれば
当事者にとってはなお良いということになるでしょう。


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ジェンダー平等の夫婦を築く方法 どういう男性と結婚するべきか。男性を操作する方法 「DV」をしやすい男性とは  [家事]


私が男性ということもあって
夫婦を楽しいものにするために
男性に対してどう自分を修正するかということばかり
お話ししてしまっているようです。
必ずしも男性だけに向けて言っているのではないのですが
表現として男性の視点で言っています。

それは自分のこととして考えて、その結果をお話ししているので
自然とそうなっているだけのことです。
ジェンダーバイアスがかかっているからではありません。
しかし、結果的に、
「女性は男性によって幸せにしてもらう」
というジェンダーバイアスを進めていることになりそうなので、
なんとか頭を絞って女性に対してお話しする表現
ということで考えてみました。

この「女性は男性によって幸せにしてもらう」ということになれば、
それは女性という性を馬鹿にしたことになる
ということをまず認識してください。

「それでも良いのじゃないの」というならば
ジェンダー云々なんてことを言わないで
男性に従属して生きて行ってください。
しかし、現代社会では
その結果、不幸になる人が多くなっている
と私が感じていることだけ頭に入れておいてください。

弁護士という仕事がら離婚の場面という切り口からお話ししていきます。

離婚理由で本当によく聞かされるのは、
「夫は自分の気持ちを察してくれなかった。」
というものです。

それを詳しく聞いてみると
「なるほど、それはガサツすぎる。無神経だ。」
という場合もあるにはあるのですが、
その妻の気持を夫が察するということは
微妙なこと過ぎて難しすぎるのではないか
というようなケースの方が多くあります。

この「察しない」ということについて
どんなに離婚訴訟の中で説明を重ねられても
夫は、「どうして妻が離婚したいのか。」について
それでは全く理解をすることができません。
私もわからないのです。
(だからもしれませんが、そのときはそれほど嫌なことではなかったのではないか。後から振り返ったときに、新たな意味づけをされたのではないかと感じるのかもしれません。)

この点妻側の代理人は、もう少し当事者とディスカッションをして
夫に伝わりやすく表現を工夫するべきだと思います。
すっきりした離婚、あるいは再生のためにはそうするべきです。

しかし、家庭裁判所はそのような曖昧な離婚理由でも
夫婦関係は「回復しがたいほど破綻している」と認定して
離婚の判決を出してしまう傾向にあります。
だから妻側の代理人の伝える技術、前提として聴き取る技術は
その必要がないと判断しているのか、向上されません。
離婚訴訟が泥沼化する大きな要因になっていると感じています。

こういう主張をされる妻の一番の問題は
離婚の問題が始まる前に、同居期間中に、
自分の何を知ってもらい、どう修正してもらいたいのか
ということについて、夫に対して全く言葉にしていないことです。

シビアな見方をすれば
・自分は夫から幸せにしてもらう客体である
・だから自分で自分の立場を改善する必要はない。
・夫は自分が何も言わなくても自分のこころを察するべきである。
・その上で夫は夫自身の行動を修正して妻である自分のこころを満足させるべきである。
と主張していることになると思います。

これでは、
夫の男性という性が、妻という女性を支配したいというのではなく、
妻という女性の性の方が、
夫に支配されたい気持ちが満々だというように聞こえてしまいます。
こういう「夫が察しない」という離婚時の主張は
男女平等なんてそんなの関係ないという主張に感じてなりません。

こんな男性依存にしがみつくような主張は
ジェンダー平等の足かせにしかならないと感じる次第です。


第1の私の主張
自分が幸せになるためには、自分の環境を自分で改善する必要がある。
それが大人というものだ。

第2の主張
他人はあなたの心の中はわからない
そのために言葉というものがあるのだ。

第3の主張
男も女も関係なく、自分で意見を言って、
共同生活を心地よいものにすること
これが二人が一緒に幸せになることだ。

<なぜ相手に改善を求められないのでしょうか>

離婚訴訟の場合は、本来夫に主たる原因がないのに
妻が自分の気持ちをうまく説明できないこと
特に自分のネガティブな気持ちの由来を説明できないため
すべての原因を夫に求めるという無茶な視点の働きかけがあり、
妻自身が自分の記憶を改変させていることもあるので、
こういうケースは除外しましょう。
今はこうならないためのお話なので必要ないと思います。

提案ができない原因の1つには、
遠慮というか恐れがあると思います。
「こんなことを言うと、相手の機嫌が悪くなるのではないか。」
「自分がわがままだと思われるのではないか。」
「相手から嫌われるのではないか。」
ということです。

2つ目は
言い方がわからないということがあると思います。
相手の貧乏ゆすりだったり、口を開けて咀嚼をする癖だったり
声が大きすぎてこちらが怖くなるとかに対して、
ただ単に「嫌だからやめて」というのは
「少しきついかな」と思うのかもしれません。
命令みたいに受け止められて空気が重くなった
という経験がしこりになっている可能性もあるでしょう。

3つ目には
自分がお願いしたことで、
自分も何かいわれたら面倒くさいな
ということもあるかもしれません。

<ではどうやって改善を提案するか>

1)心構え

自分だけが我慢することは不満が蓄積して楽しくない
その結果、二人とも幸せな感覚が薄れていく
つまり
相手に修正ポイントを教えてあげるのは、
一緒に幸せになるためだ
という心構えでいきましょう。

おっかなびっくり物申すと夫からは
「ああ、自分のことを悪く言っているのだな。」
と変な解釈をされてしまいます。
堂々とにこやかに、一緒に幸せになりましょう

言い方を工夫すれば、相手単体にとってもいいことしかありません。

2)方法論
全面否定をしない。

相手に何か行動を求める場合全般なのですが、
全面否定をすることはメリットが少なくデメリットが多いです。

「声が大きいからしゃべるな」と言いたくなる前に
「今少し声が大きすぎると思う。ちょっとびっくりしてしまった。」
という方がよほどリアルに、あるいはニュートラルに
つまりは事務連絡的に伝わると思うんです。

ここで「ごめんね」と付け足すことは潤滑油の役割を果たします。
あなたが悪いわけではないにしても、
悪意がないことがわかっているのに、他人に修正を提案することは
相手に動揺を与えるわけです。
その時、「こちらにはあなたを攻撃する気持ちはありませんよ」
という表明が「ごめんね」等の目的です。

英語のNo thank you.
のサンキュー見たいなものです。

夫からすれば「しゃべるな」と余計なことまで言われれば
自分が否定されたと思い反発するでしょうが、
ちょっとボリュームが大きいならば、改善することができますから
改善することに抵抗は少ないのではないでしょうか。

(私もよく言われるのですが、夫側は全く「大きな声」という自覚はありません。言われると意外な気持ちや、自分を攻撃しているのではないかという気持ちになりますが、「大きい」か「小さい」かは、聞いている人が決めることですから、一緒にいる人の心地よい方を選んでも、傷つく必要はありません。また、聴覚というか耳の神経の過敏な人は、少し大きい音でもかなり苦痛を感じるようです。)

また、
「貧乏ゆすりしてみっともないからやめて。」
というよりも
「あら珍しいね。なにかあったの?でもよそでせわしなく動いていると
あまり良い印象を受けないから、もったいないわよ。」
なんていう方が「すまんすまん」というようになると思うけど、どうでしょう。

マイナスを指摘してゼロを目指すように促すことよりも、
プラスを目指そうという方が相手も受け入れられやすいし、
その気になると思います。
自分が否定されているという気持ちになるのではなく
一緒にプラスを目指そうということで仲間として見られている
ということを実感できるからです。

特に相手が自分や家族のために一生懸命やった努力は
否定してはなりません。
「そんな無駄なことに時間とお金をかけてバカじゃないの」
という言い方は「臓物をえぐる悪罵」だと思います。
そこに十分感謝をした上で、あるいは努力に感謝をした上で
少し時間をおいて
「こうすればもっと良くなるのではないか」
という提案をしていくのがより良いと思います。

あるいは、全体としては称賛しつつも
部分的に修正するべき問題の所在を一緒に考える
ということならなおよいのですが、
すいません具体的な例が思い浮かばない。
どうしても否定しなければならない時は
別のことを十分肯定しておいてから切り出すということが
有効です。

要するに、
「その失敗、その不十分によって
私はあなたの評価を下げることはしない
安心して私の言うことを聞けばよいのだ。」
ということを伝える努力なのです。

相手が機嫌を損ねるポイントが
・自分を否定された
・自分の評価を下げられた
・自分の努力を否定された
というところにあるからです。
(人間が傷つくポイントがここにあるわけです。)

ただ、だからと言って
「あなたを否定するわけではないけれど、口閉じて食べて」
とか
「あなたの評価を下げるわけではないけれど、大声で話さないで」
等と言っても意味ないですからね。
ここは言葉で説明すればよいというのではなく
そう思わせない工夫をすると言うことですから。

「ジェンダーを利用する」というのも昔からの知恵です。

夫婦は、全世界、全時代の、男性と女性の代表同士の二人である。
あなた個人の問題であっても女性の性質ということで説明すればよい
という論法です。
「私はそういうの嫌なの」という代わりに
「女性はそういうのは嫌なものなのよ」
というということも相手の機嫌を損ねない工夫だと思います。

つまりあなたが悪いわけではなく
男性はそうするものだからそのことであなたの評価を下げないよと
わかってもらえば良いのだからというアッピールにもなりますね。

そうして相手があなたの話を聞いてくれれば感謝を示す。
あなたの提案で行動を修正してくれればさらに感謝を示す。

この方法は一つにあなたが嫌なことを減らすことになりますが、
相手もあなたに要求するときに、マネをするはずです。
あなたが言われるときに、必要以上にダメージを受けないように
という予防措置にもなるわけです。

こうしてこまめに修正をし合えれば
解決しやすいうちに解決できるので
不満をためることも少なくなるでしょう。

感謝ということも、実は、自分の気持を満足させることではなく、
何かをしてもらった相手に安心してもらうための言葉なのだと思います。
ちゃんと自分の努力が評価されている
自分は人間関係の中で肯定され、尊重されている
という潤滑油なのだと思います。

自分の中で一定の基準があり
この基準を超えた場合はありがとうと言おうとか
この基準を超えない場合は感謝する必要がない
と、「なんでありがとうと言わなければならないの」
という人もたまに見ますが、
どちらが楽しいか、幸せを感じるか
ということで、絶対ありがとう、ごめんなさいが
自然に言える方が幸せになれると思うのですがどうでしょう。

相互に感謝し合うことによって
あるいは自分の要求に応えようと相手が努力するのを見ることによって
とても居心地の良い、安心できる人間関係がカスタマイズできると思います。

大人どうしが人間関係を形成するということは
こういうことだと思うのです。

<夫の操作方法まとめ>

人間は、仲間の中で貢献しているという実感を持てば
本来とてもうれしい気持ちになります。
逆に否定評価をされると
悲しんだり、がっかりしたり
場合によっては評価の仕方が悪いと反発することがあります。

自分はあなたを否定評価していませんよ
ということを上手に伝えて
相手がしたことに感謝を示すことによって

相手はあなたとの人間関係に安心をして
自分の能力を発揮してあなたに貢献しようとするわけです。

おだてられて木に登った豚は
幸せに包まれているわけです。

<最後に>

ここまで読まれた方には本当に感謝します。
どういうご感想を持たれたでしょうか
そんな面倒なことをやる人はいないのではないか
というご感想を持たれた方もいらっしゃると思います。

ただ、これがうまく回り出すと
とても楽しいし、充実感をもてるし
家に帰るのも楽しみになります。

ただ、面倒にならないためには
完璧を目指さないことだと思います。
いろんなコンディションで、できない時もありますし
条件反射的に相手を否定してしまう時もあるでしょう。

そんな時は失敗を大後悔するより先に
謝っちゃえばよいのだろうと思います。

知らん顔して、相手を尊重することを示す別のことを始める
ということも、実際はよくあることです。
話しを変えるということはそういうことです。

いかに家族であっても、最低限の尊敬の念を持つべきだと思います。
自分が他人を動かすときは、敬意を払う必要がありますし、
他人が動いてくれたときは感謝を示す必要があると思います。

言葉をどうして人間が持ったのか
私は、毛づくろい説に賛成しています。
つまり、仲間を安心させるために言葉がある
ということです。
そうやって言葉を使えるようになった人間を
大人と呼べるのだと思っています。

また、相手を動かすことで
自分が幸せになるだけでなく
相手と一緒に幸せになるならば
人間もまんざらではないなと思うのですが
いかがでしょうか。

<どういう男性と結婚するべきか>

忘れるところでした。
どういう男性と結婚するべきか。

何か言われるとムキになって反論するような男性とは
結婚するべきではないでしょうね。
こちらがどんなに言い方を気遣っても伝わらないならば
確実にお互い不幸になっていくことになるでしょう。

こういう男性(女性)は、あまりにも自分に自信がなく
あらゆることが自分を攻撃していると
被害を取り込んでしまう傾向にあります。
自分を守ることに過敏になっています。

自分が何とかしてあげるということはなかなか至難の業ですし
家に帰ると常に緊張しているというのでは長続きしません。

結婚前に相手と十分やりとりをして
こちらがうまく事を運ぼうとすれば、うまくいく
という実感を持てる相手と結婚すればよいと思います。

ただ、100パーセントを目指すと結婚は無理だということも
頭の中に入れておいていただくとなおよいと思います。

自信たっぷりに見える相手というのも警戒する必要があるかもしれません。
本当に自信があれば、自信があるぞということをアッピールしません。
これをアッピールするのは、自信があることを装っているだけの
気弱な不器用な人間である可能性があります。
相手の心をつなぎとめる方法がわからず
結果として相手を否定して縛り付けようとする男性は
こういうタイプかもしれません。

柔軟な考えができて、あなたのことを1番に尊重してくれる
そういう相手をお互いに選ぶと幸せになるのではないか
また、何年経っても夫婦はそうあるように
お互いに努力するべきではないか
今のところそう考えています。

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コロナ禍の経験を活かす リモートワーク、自宅勤務増でDVが増えなかった理由と家族コミュニケーションで本当に必要なもの そしてDVとは何なのか [家事]




年が明けてコロナ禍3年目となりました。思えば一昨年、コロナ禍が始まり、リモートワーク、自宅勤務という勤務体系が増加し、夫が家庭にいる時間が長くなるという変化が生まれました。その際、夫によるDVが増加すると警鐘を鳴らした人たちがいました。新聞なども夫による家庭内暴力の特集を組んだくらいです。
しかし、実際はDVは増えず、現在では自宅勤務とDVを結び付ける議論自体がなくなりました。われらが仙台弁護士会の所管委員会も、そのような警鐘が鳴らされたことで、本当にDVが増えているのだろうかということで昨年特別電話相談などを実施し、実態把握に努めたところ、コロナ禍によるDV相談は増えなかったということが結論だったそうです。

本記事は、どうしてDVは増えなかったのかということの理由を説明します。

理由の一つは予想自体が特定の思想に基づく政治活動であったということ、これは幾分皮肉めいた話になりますが、大切なことなので敢えてお話しすることとしました。
理由の二つ目は、対人関係学的考察で、そもそも現在喧伝されているDVは夫が妻を支配しようとして行われているのではなく、卑近な言い方をすれば仲良くしたいために攻撃してしまうというものであること、あわせて、家族相互に安心感が生まれるコミュニケーションとは質だけでなく量の問題が重要であることをお話ししていきたいと思います。

先ず、第一の理由は、「家庭時間の増加でDVが増える」という主張は、科学的根拠のある見通しではなく、DV相談の需要が高くなるから予算をよこせという政治活動だったということです。コロナ禍で人々の不安が高まっているだろうと当て込んで、「その不安の原因は、夫のDVです。」という決まり文句を言って離婚に誘導するという、いつも個人個人の女性に対して行っている手法をマクロ的に行ったというだけのことです。かなり宣伝活動を行って相談を募集していましたから一定件数相談は増えたと思いますが、詳細を見れば、予算や相談員の増加に見合った相談件数も増えておらず、DV案件が増えたわけではないということは現場の実感のようです。それでも、昨年、文部科学省の審議会である「児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議」という機関では、たった2回のリモート会議を行い、報告書をあげています。その中で、コロナ禍である令和2年の児童生徒の時の原因のトップが受験以外の進路問題と健康問題であり、コロナ前は1番だった家族問題という原因が後退したにもかかわらず、増えた原因についての分析を行わず、夫が自宅にいる時間が長くなったので生徒の自死が増えたというような報告書を出しています。こういう何が何でも夫が家庭の癌だという考え方が滑稽であり、政治的な主張に過ぎないということがわかりやすくなりました。この会議は、増加傾向にある児童生徒の自死予防よりも、家族解体という主張を優先しているわけです。子どもの自死問題について真面目に考える機関が文科省内に存在しないことの象徴として注目されることでしょう。こんなやっつけ仕事の審議会にも税金が使われているわけです。

コロナ禍でDVが増えなかった第2の理由こそ重要です。
但し、冷静に先入観なく考えてみれば、極めて当たり前のことです。つまり、一緒にいる時間が長くなったので、仲良くなった。これだけの話なのです。現代社会では、これが当たり前のことではなくなっているということが問題です。一緒にいると仲良くなるということの意味、構造を理解することは、いま求められていることだと思います。

1)家族解体主義者の考えるDVの原因 男性の支配欲求

「家庭時間の増加でDVが増える」という主張の極端な理由を述べるのは、家族解体主義を主張する人たちです。家族解体主義とは、「家族というものは女性を支配する装置であり、女性は妻として母として家族に支配されてきた。だから、女性の幸せのためには家庭から女性を解放しなくてはならない。」という考えを本当に言っています。この考え方では、「男性は、女性を支配しようという性質がある。」とされてしまいます。だから、長時間夫婦が一緒にいるということは、即ち、「男性が女性を支配しようとする時間が長くなる。」ということになるわけです。だから支配の手段であるDVが増えるという考え方なのです。これが新聞などで、取り上げられて特集まで組まれているということです。また、文科省の審議会で税金を使って、子どもの自死予防よりも優先して取り上げられていることなのです。家族解体主義は、一部の際物思想ではなく、マスコミや国家機関に浸透している考え方だと私は考えています。

2)対人関係学の考えるDVの原因 孤立化防止の防衛活動 知識不足

家族解体主義の対極として、対人関係学の考え方があります。ほとんどのDVとされる事案は、関係を継続したいという欲求を原因として、自分が相手から否定評価されること、相手から愛想をつかされることを極度に恐れて、相手の自分に対する否定評価を打ち消すために、相手を否定してしまうという矛盾が原因で起きているというものです。
だから、自分が家族の一員、夫婦のパートナーとして安心できているならば、攻撃的感情は起こらない。という考え方です。男性に特有の現象ではないということになります。

ところが現代社会は、おそらく物心ついてからずうっと、自分が否定評価されることに不安にさらされて、自分を守ることが私たちの多くの、大きなテーマにされてしまっているようです。例えば職場でも、自分に落ち度があるとは思われないことで叱責され、責任を取らされ、あるいはわけのわからない理由で評価を下げられ、または正当な評価をされず、気をはりつめて周囲の中に溶け込まないと孤立してしまうという不安にさらされ続けているのではないでしょうか。自分がよかれと思ってこつこつ行ってきた努力も、誰かの気まぐれで一瞬にしてなかったことにされてしまう。こういうことが起きている世の中だと思います。常に自分を守ろうとしている意識は、家庭の中に帰ってきてもなかなか消えません。子どもの無邪気な言葉でさえも、自分を否定評価しているのではないかと、おびえて、腹が立って、本気になって否定しようとしているということはないでしょうか。そこには、冷静な思考はありません。「自分が不当に否定されている。→ 自分を守らなければならない。 → 否定評価こそ否定する。」という条件反射的な短絡的な行動です。余裕がないのです。

つい大きな声で反論してしまう。
つい、言葉を選ばないで反論してしまう。
つい手が出てしまう。(これは現代のDV主張では驚くほど少ないです。)
自分が上司から叱責された内容よりもはるかに落ち度が大きいことをやってるのに誰からも否定されないから、教えてやる。という心理もよく見られます。

これらは、職場の影響を家庭に持ち込むという事例です。このように家庭自体に原因が無くても、家庭に中で不安が起きてしまう事例は多くあります。職場の影響のほかには、子どもたちは学校での出来事ですし、大人の場合は体調の変化から不安が生じることも特別なことではありません。

前々回の記事に書いたとおり、私は現代の夫婦は、相手に対して依存傾向が強く、相手から否定評価されたり離別を切り出されたりすることについて、過敏に反応してしまうという傾向があると感じています。

この不安に基づく反射的な反撃は、相手方は攻撃している意識はありませんから、とても驚くとともに、相手が先に自分を攻撃してきたという意識になりますから、やはり反撃しようとするのは無理のないことになってしまいます。家族の間に怒りが生まれ、新たな、裏付けのある不安が生まれてしまいます。

この一連の流れの中のどこを切り取るかで変わるのかもしれませんが、当事者にとっては理由のある反撃としてしか意識できませんが、善意の第三者が後から見ればもったいないいさかいであることがとても多いわけです。

3)それでは、なぜコロナ禍でDVは増えなかったのか むしろ減ったのか

家族解体主義者の「男性は支配しようとする性別である」という差別的な考えに基づけば、コロナ禍でDVが増えるはずです。これが統計的に増えていないむしろ減っているということであれば、「DVが巧妙化して相談ができなくなっている」のだというのかもしれません。そうであれば、従来のDV相談をやめて予算を削り、その分でもっと被害実態をあぶりだす方法をとるべきです。また、家族時間が長くなるとDVが巧妙化するという論法もよくわからない論法です。端的にDVは増えなかった、現代日本の男性に無茶な支配欲に基づく行動は一般的ではなかったとすることが無理のない解釈でしょう。

対人関係学的解釈では、支配欲と言われていたものは、実は関係性を維持するという欲求であり、これがDVとされるものの原因になっているという考え方では、「家庭時間が長くなったために不安を感じるきっかけが少なくなった」だからいさかいが減ったという流れが認められなければなりません。そんなことがありうるのでしょうか。

実はここが、今回一番言いたかったことで、私がコロナから学んだことなのです。
つまり、「家族コミュニケーションの一つの重要な方法は、一緒にいることによってお互いに安心感を持つこと」ということだということです。

これまで私は、時間軸の変化をあまり考慮せず、同じ時間軸で生活を続けることを前提に、コミュニケーションの「質」を高めることに重点を置いて提案してきました。しかし、コロナ禍の人間関係の研究を見ると、質とともに、コミュニケーションの「量」もコミュニケーション効果を高めるということが報告され始めているのです。しかも、一緒にいるということはまさに近くにいるということで、インターネットなどを間に挟まないで、「一緒にいる」ということのようなのです。

家族という人間関係の特徴は、毎日関係が継続していくというところにあります。特に、昼間の仕事や学校や他人との関係という緊張を余儀なくされている人間関係の時間を過ごした後の、緊張を緩めて、食事や睡眠を共有する時間を共に過ごすという関係にあります。
どうやら、一緒にいるということだけで、しかも、リラックスしてよい時間を一緒にいるということだけで、人間は一緒にいる相手に安心感を持つようです。人間の根源的要求である「特定の人間関係の中で安心していたい。」という要求が満足されるようです。

それから、毎日関係が継続するということは、毎日かかわり方の変化が生じ、新しいルールの小さな変更に全員が対応していっていることが起きているようです。こういうことが起きているためか、日々、新たな安心の記憶が生まれていくようです。

そして、リモートワークによって自宅にいる時間が延びれば伸びるほど、ストレスフルな職場などの関係から遠ざかり、自分を守るという緊張感が緩められていくようです。そうすると家族に対する八つ当たりの要素が生まれる機会も少なくなっていくようです。

このような日々刻々と積み上げられていく新しい安心の記憶と、外部的なストレスフルの出来事が減るために、外部の緊張の時間と、内部の緊張緩和の時間が意識の上でもはっきりと区別できるようになるのではないでしょうか。ひとたび、自分の不安の高まりが減り、家族への安心感が高まっていけば、家族から何か言われたとしても、それは自分に対する評価を下げるような危険な意識を持つ必要を感じられなくなると思います。無駄な反撃が起きる理由が少なくなっていく。相乗効果で家庭内が安心できる方向に動いていっているのではないでしょうか。

安心できる仲間と一緒にいる時間が長くなれば、単純に共鳴力、共感力も高まっていくでしょうし、この人のために貢献したいという気持ちも高くなるというのが対人関係学の主張でもあります。

4)コロナ禍が過ぎても安心できる家庭を維持するために

①一緒に過ごす時間が長くなったことで家族の状態がどうなったかを各自が検証する。
 今、私の仮説を述べました。これは一般論ですから、各御家庭に必ずしもきれいに当てはまることは無いかもしれません。どうぞ、それぞれの方々が自分の時間について考えていただきたいと思います。

②良かったと思う経験を意識し、記憶する
 これまでと比べて、良かったと思うことをピックアップしていただきたいと思います。自分が感情的になる時間が少なくなったとか、家族の自分に対する発言、自分が家族に貢献できたと感じること、家族の表情の変化、家族のために使用としたこと等小さなことの積み重ねを記憶されて、コロナ禍が終わって過重労働が始まっても、できることをできるだけ維持することを考えるというのはどうでしょう。
 特にご自分がしたことで、ご家族が喜ばれたことはしっかり記憶しましょう。

③コロナ禍以前の、自分の間違いをあぶりだしましょう。そして、それがコロナ禍が終わったときの自分が犯しやすい失敗だということを予め知っていれば、失敗しにくくなりますし、失敗してもすぐに気が付いて謝ること、訂正することができると思います。



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怒り依存症 怒ることで幸せになれる条件と、怒り続けるしかないことになってしまう不幸を産むメカニズム [進化心理学、生理学、対人関係学]



<怒りが幸福を呼び込んだ事例>

怒りという感情も人間が生きるために必要な感情だと思います。

ある人間関係に関する事件で、
私の依頼者にも落ち度があって、
そこを攻撃されて落ち込んでしまい、
立ち直れなくなって、うつ状態になって通院していました。

ところが、怪我の功名みたいな出来事があり
突如、相手方に対して怒りが込み上げてきて
相手方と気持ちの上で決別することができるようになりました。

怒りを持てるようになった結果、
ストレスを感じ続けていた人間関係から
自分の意思で離脱をすることができました。
その結果ストレス自体が無くなったのです。
現在は、健康で、穏やかに、楽しく人生を謳歌されています。

この仕組みというのは以下のように説明ができると思います。

私の依頼者は、自分の失敗が原因で、
自分と相手の人間関係がダメになってしまいそうだ
自分がその人間関係から追放されてしまいそうだ
という感覚になっていたのだと思います。

相手方はその失敗を執拗に責めてきたわけです。
私の依頼者はますます、
その人間関係から追放されるという危機感が強くなりうつになりました。
追放されたらどういう実害があるかということをかんがえたわけではなく、
ただ、人間関係からの追放ということに危機感を感じさせられていた
ということになると思います。

しかし、怒りによって、相手を責める気持ちを持つことによって
危機感を感じることが中断したのだと思います。
だいぶ気持ちが楽になったのだと思います。

おそらく、追放の予期不安が苦しかったのですが、
実際に自分でその人間関係からの離脱を決意したとたん
離脱による実害が実はたいしたことがなく
予期不安の苦しみよりもよほど楽だった
ということを実感したということだったのだと思います。

ここでいう不安、危機感というのは
その人間関係から自分が外されそうになっているというもので
何とか外されまいとしがみつくので余計苦しいのです。

外されてしまうと考えると
何かとてつもなく悪いことが起きてしまうのではないか
ということが不安の正体のようです。
ところが、実際その関係から外れてみれば
(厳密には、自分から外れようと決断をすれば)
「なんだこんなものか。こんなものなら恐れることはなかった。」

と別離という危険が現実化したことによる危険の実態を把握できたことで
予期不安から解放されたということなのだと思います。

このケースは怒りによって危険の感覚自体が喪失したケースなので
まさに怒りが人を救った事例でした。

<怒りが依存症のようにやめられなくなってしまう事例>

危険の状態が変化がなければ怒りによって人は救われない
さらに、怒りは放っておいてはなくならないので
ずうっと怒りが持続してしまうということを
それは危険の感覚も持続して精神的に消耗するということを
今回はお話しします。

人間に限らず動物は
危険を感じた場合、3種類の方法をとります。
逃亡(flight)
闘争(fight)
凍結(freeze)
このどれかの方法を自動的に(本能的に)とることによって
危険から身を守っているわけです。

逃亡と闘争については、生理的反応が一つです。
つまり、感覚野から扁桃体に信号が出され危険を把握し
扁桃体から副腎皮質等に指令を出して
筋肉を動かしやすい血流変化を起こして
逃げたり戦ったりしやすい体の状態にするそうです。

逃亡時の感情が、恐怖の感情ということになり、
今は安全ではないと感じ続けることによって
いつまでも逃げ続ける心理状態という便利な感情が作られるようです。
簡単に安全になったと思わないので、逃げ切ることができやすくなるわけです。

闘争時の感情は、怒りの感情ということになり、
いつまでも攻撃し続けることに便利な感情になるわけです。
相手を完全に叩きのめすまで攻撃をやめないから
確実に相手を倒すことができるからです。

感情と行動は切っても切り離せないようで、
逃げるから怖くなるという順番もあるし(ウイリアム・ジェームズ)
攻撃するから怒りもわいてくるという順番もあるようです。

そうすると冒頭の例では
自分の失敗とそのための人間関係の切断が怖くて逃げてばかりいたから
逃げることばかり考えていたために益々苦しくなってうつになっていった
という側面もあるのかもしれません。
そして、怒りに転じたことで、怖さを感じなくなった
という説明もありうるのではないでしょうか。

幸いなことに、冒頭の例では責める相手と縁が切れたので
責められることが無くなり、
恐怖も怒りも必要が無くなり
穏やかに生活することができるようになった
と説明できるのではないでしょうか。

これに対して
怒りが苦しさを軽減するという事例をまず挙げて
そのメカニズムとイメージを持っていただき
怒りが持続していくという事例を順に説明していきます。

例えば
職場で自分がミスをして上司に叱責された場合、
自分が悪かったと感じるだけだと
自責の念が生まれるだけですから
職場における自分の評価がずうっと低いままかもしれないと
危機感に襲われるだけです。

これが例えば、上司の指図の仕方が悪かったのだとか
同僚に足を引っ張られたのだとか
他人に原因があるとして、他人を責めると
自責の念が少し軽くなるようです。

また、夫婦間では、
妻が夫から落ち度を指摘されることがあり
自分に対して、夫から否定評価されるという危機感に対して
「そんなことを落ち度だと思う夫が悪い」
と逆切れをすると、逃げ場がないという意識は解消されるようです。

つまり、逃亡は、逃げなければならないという意識を作り
「危険がある」という危機感に加えて、
「逃げなければならない」という
もう一つの危機感や負担感を持つようです。

逃亡の意識から闘争に意識を転換し、
感情も恐怖から怒りの感情に転換することによって
このもう一つの「逃げなければならない」という負担感から
解放されることになるようです。

これはとても精神的負担を減らすようです。

ネズミとして逃げるよりも猫として追う方が気が楽でしょう。

職場の問題と夫婦の問題と例に挙げましたが、
人間の心理はもう少し複雑なようです。
職場で、同僚が大きなミスをして会社にいられなくなり
上司からパワハラのような叱責を受ける出来事があるとします。

仲の良い同僚であればあるだけ
自分が何とかしてやらなかったかとか
これから自分がフォローしてやらなければならないのではないか
とかつい考えてしまうわけです。

どうやら人間は仲間に貢献できなかったということを感じても
危機感を感じるもののようです。
貢献できないということで自分の評価が下がる
という危機感を感じるのでしょう。

でも、実際は自分が何もしてやれないと思ったり
「気にするなよ」などと声をかけてしまったら
今度は自分が上司から目を付けられるのではないかという
現実的な、新たな危険もあります。
かばわないことで同僚に対して後ろめたさも感じるでしょう。

とにかく危険を回避しようとするのも人間のようです。

この危険を感じることを回避しようとする方法として
怒りを発動させるわけです。

つまり怒りによって
自分の危機感を感じなくさせるわけです。
「同僚が、不真面目に仕事していたから悪かったのだ」とか
「やるべき手順をしない単純ミスをするなんて
プロとしてあまりにも失格だ」とか
同僚を責めることで、
自分を責めることをしなくてすむことになります。

怒りが負担を減らすということを知っていてやるというのではなく
怒りを持ってみたら少し楽になるという学習をするのでしょう。

学習効果が高い人は、何か困ると
すぐに怒りを他者に向けるようになってしまうのかもしれません。

似たようなことはいじめでも起きます。
いじめられている子がいるとします。
当初は一人ないし少人数の主犯者グループだけがいじめているのです。

周囲の子どもたちは、いじめられている子がかわいそうですから
あるいは、正義に反することですから
いじめを止めなければならないと自然に感じます。

いじめられている子どもと近しい関係だったりすると
あるいは感受性の強い子だったりしても、
いじめられている苦しさや恐怖、強烈な孤立感に
共鳴してしまい、さらに苦しくなってしまいます。

もちろんいじめを止めたりすると
今度は自分がいじめられるという
新たな危険が来ることがわかっていますし
それは予期不安なので、
実際の不利益よりも大きな不利益を
漠然と予想してしまいます。

この場合怒りを加害者に向けることが合理的なのですが
加害者と自分の力関係を考えてしまうと
怒りは加害者に向かいません。
怒りは、勝てると感じる相手にしか向かいません。
例外的に自分の仲間だと感じる場合に
負けても仲間を守らなければならないという感覚になったときだけ
加害者に怒りは向かいます。

いじめが悪化する場合には
そこまでいじめられている子どもを仲間だとは感じないのでしょう。
あるいは加害者も被害者も仲間だと感じているのかもしれません。
いずれにしても怒りは加害者に向かいません。

いじめを止めない別の子どもに怒ったり
いじめられている子どもに怒りが向かうようです。

いじめられていることは、いじめられる理由があるからいじめられる
というようなことを心の中の言い訳にして、
さらに、いじめられている子どもを心の中で責めるわけです。
部活をさぼるとか、借りたものを返さないとか、調子に乗っているとか
そうして、いじめに加担しないにしても
いじめられている子どもに怒りを持つわけです。

怒りを持つことによって、その場をしのぐことができます。
怒りを持たないで自分を責めているような場合に比べると
とても楽になります。

でも怒りを感じ続けているということは
危険を感じ続けているということなのだと思います。

自分に危険を感じない場合は
怒りを感じる必要がないからです。

危険が去れば怒りを感じなくなるはずです。
怒りという感情もエネルギーが必要ですから
怒り続けるだけでとても疲れてしまいます。
しかも根本的に危険を感じ続けているのですから
この観点からも精神的な消耗が起き続けることになるのでしょう。

人間関係の紛争を見ていると
どうも怒りを感じ続ける理由となる
過去の危険があったことは間違いないのですが
いろいろな理由で怒りだけが継続してしまい
感情の収拾がつかなくなって
精神的に追い込まれるという現象があるように思えてならないのです。

怒り、恐怖、あるいは焦燥感などは
自分を守るための感情のシステムです。
人間の心が成立した今から200万年前は
危険といっても生命身体の危険でしょうから
こういうやみくもに危険を回避する方法が
一番有効な方法だったのでしょう。

ところが、現代は人間関係が複雑になってしまいました。
逃げたり戦ったり焦ったりという危険回避のシステムは
人間関係をさらに悪化させるという逆効果になることがあっても
有効に危険を回避することから遠ざかってしまうようです。
現代の人間の不安を解消するためには
理性を働かさなければ解決しません。
それどころかより大きな不利益を受ける危険があります。

過度の苦しみから逃れる方法としての怒りも
怒っている以上、精神的に消耗していきますし
危険から逃れられたという感覚を持ちにくいものです。

特に相手を叩きのめしたという実感がない限り
怒りは解消することができない
怒りが解消できない以上危険から逃れたという感覚を持てない
こういうデメリットがあるように感じられます。

人間関係については、決着がついてしまったのに
(それは不合理な決着であることが多い)
いつまでも、怒りを持続して、
危機意識を反芻しては、また怒るということを
延々と継続しなければならない怒りスパイラルに陥る
そんな不幸があふれているように感じられるのです。

漠然とした不安を感じている人に対して
不安の原因が特定の個人にあるということで
その特定の個人に対しての怒りをあおることをもって
「支援」だという人たちがいます。

確かに怒っているときは、
精神的負担が幾分軽減されて楽になるかもしれません。
しかし、怒りが継続していくと
終わったはずの危険意識も継続してしまい
場合によっては
怒りなのか恐怖なのかわからないような感情が
長年継続してしまう事例もたくさん見られます。

間違いなく不幸だと思います。

こういう解決しない支援をするのは
「当面の解決をすれば後は支援は終わり」
という支援がほとんどだからです。

まるで、昔の童話みたいに
王子様とお姫様が結婚してめでたしめでたしみたいな
そんな印象を受けるときもあります。

現在の感情ばかりを考えて、将来のその人を考えず
とりあえず不安を解消すればよいやというような
刹那的支援が横行しているように思います。

しかし、それでは不安が解消しているわけではなく
不安が怒りに姿を変えて継続しているだけなのではないでしょうか。
危険を解消し、怒らなくて済む状態に向かう
こういう発想の、人とのかかわり、解決の方向を
考えていかなければならないと私は思います。


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