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満場一致パラドクス 反対意見が提出されない集団はやがて消滅するというその理由 民主主義の優位性を保証するのは少数意見(へそまがり)の尊重であるということ(組織の意思決定時の満場一致における系統誤差の由来と様相に関する考察) [弁護士会 民主主義 人権]

YouTubeをみていて、「満場一致パラドクス」についての動画をみつけました。満場一致パラドクスとは、何かの課題が満場一致で決められる場合、反対意見がある場合に比べて、そこには誤りが存在する可能性が高くなるという理論です。(もっとも、定義を忠実になぞるだけの議論の余地のない課題は除きます。例えば、イチゴとミカンがあるところから、イチゴを持ってくるような場合は、満場一致でイチゴがこれだと思うわけですから、そういう場合は除くわけです。)

この世の中、答えが一つしかないということは少ないですから、理論的に反対説が現れても不思議ではない場合にまでいつも満場一致となることは、逆に、真実がその一致した結論だからではなく、別の事情によって満場一致になってしまっているのではないかと疑うべきだというのです。この別の事情を「系統誤差」という言い方をするようです。

YouTubeだけでなく、インターネットにおいて、結構満場一致パラドクスは紹介されているようです。統計学や認知心理学、犯罪捜査の観点からうまく説明されているようです。この記事は、集団的意思決定における満場一致パラドクスに絞って、どこに系統誤差が起こりやすいのかということを述べるとともに、民主主義の一番大事なことは多数決ではなく少数意見の尊重だという意味もお話ししていきます。



集団的意思決定は、私たちの身近で多くあることですし、人間が群れを作る以上どうしても必要なことです。身近では、家族で週末にどこに出かけるかというところから始まって、友人関係、会社、ボランティアなどの集まり、大きくなれば、自治体や国家、社会においても意思決定が行われます。そのすべてにおいて、満場一致やそれに準ずる賛成多数は、集団を発展させず、滅ぼしてしまう危険性をはらんでいます。

たとえば、大きな会社で、大規模な不正事件が時折起こります。詳しい報道を見てみると、ワンマン経営者が他の取締役の意見を出させないようにして、いわゆるイエスマンばかりが取締役となり、その結果不正を止める者がいなくなってしまったので不祥事を起こしたという報道は記憶に新しいと思います。夫婦や友人関係でも、リーダー的にふるまう人が、他者に意見を言わせないようにして、自分の意思でどんどんいろいろなことを決めているうちに、愛想をつかされてその人が排除されてしまい、夫婦は離婚し、友人関係は解消されるなんてこともよくあることです。満場一致ということは疑ってかかる方が良いのかもしれません。
特に組織の行動方針なんていうものは、どれが正解かはっきりした答えがないのが普通です。常に満場一致という組織はこの不自然さを組織自体が容認するようになっているわけですから、慎重に帰属や支持を検討するべきです。

この満場一致になる集団的傾向、集団心理となることは、私は「秩序を形成しようという人間の本能」に原因があると考えています。つまり、人間は集団の中に権威を作る生き物のようです。権威をもつ者は自分の立場を維持しようとして、自分の意見を通して秩序を形成しようとします。権威を持たないものは、無意識に権威に迎合して秩序を維持しようとします。スタンレー・ミルグラムは「服従」と言いましたが、対人関係学はこのような人間の群れを作る本能に由来するものであり、「迎合」という表現が適切だと述べました。

「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-05

集団的意思決定の場合において、不正確な満場一致になってしまう理由、系統誤差について、権威側と迎合側に分けて考えてみます。

わたしも10年以上前に所属する弁護士会の執行部の仕事をしていまして、1年間だけですが、権威側の立場にいたことがあります。執行部は様々な弁護士会としての意思決定をする必要がありました。日常的な意思決定は数人の執行部会で行います。少し重い意思決定は、毎月行われる代議員の議会みたいなところで行われ、予算や規約の変更など最重要の意思決定は年に1度行われる総会や臨時総会で行われます。執行部会議でも課題が多いということから毎週行わなければならなず、夜遅くなることが多かったと思います。そして、毎月の代議員会に議案を提出して議決をしてもらうわけです。満場一致とは言いませんが、スムーズに提案を承認してもらいたいという気持ちがあったことは間違いありません。
反対意見があっても、なるほどもっともだという意見であれば、提案を引っ込めることに何ら躊躇はありません。困るのは、どこをどう考えるとそういう反対意見が出てくるのだろうという意見が出され、議論が混乱するときに、イライラとしてしまいます。そういうことを言う人は大体決まっています。そして、議論になることが予想される議案ではなく、この提案はスムーズに議決されるだろうというところで、質問や意見が繰り出されるとイライラがますます大きくなっていきました。

と言っても、私はそれほど重要なポストではなかったので、時間がたつうちに、もしかして面白い意見なのではないかと思う余裕が出てきました。そうしてその人の話を意識的に聞いていると、こちらの気が付かない次元の話を思いつくという才能があり、それを言葉にするという行動力があることに気が付くようになりました。コミュニケーションがうまく取れなかったことがイライラの原因だったらしく、その代議員の言いたいことはこういう観点からの心配なのかといことを確認するようになり、コミュニケーションの阻害が解決して苦痛は無くなりました。むしろ、新たな観点から提案内容を修正して、すきのない提案にすることができるようになったり、運用面で配慮をするヒントとなるという、会としてはきめて有益な問題提起だったことに気が付くようになりました。権威に迎合しようとしない傾向にあるという変わり者としてのシンパシーもあり、重要な人物であるという認識に代わりました。

この些細な私の経験から考えると、権威者側から満場一致の系統誤差を作る要因としては、「効率性」というものがあげられると痛感しています。意思決定をして行動を進めるということが最優先になってしまうと、立ち止まることができなくなってしまいます。立ち止まって、もっと良い意思決定を追及することが必要な場面で、あるいはその意思決定は勇気をもって撤回することを考えるべき場面で、それができなくなってしまうのは権威側が効率性を求めすぎてしまって、迎合側の迎合を強く求めてしまうときなのではないかと考えております。

職場のパワハラにそのような面があることをよく目にしています。その効率性を部下に求めることは不可能であるにもかかわらず、「結果」を出すという効率性だけが勝ちになってしまい、無理を通そうと結果を押し付ける過程が生まれてしまい、方法論が省略されてしまう。それで、部下の人格や健康に配慮ができなくなってしまう。部下の反論は言い訳としか受け止められなくなってしまうわけです。

集団が、行動を目的とする場合は、どうしても行動を行わないで足踏みすることができません。何とか行動に移す、しかも効率的に行動に移すということは、集団の本能みたいなものですから、権威側が効率性を求めるということは常にありますし、そのために満場一致という迎合を求めてくることは常にあると考えて、そうなってしまって欠陥だらけの行動提起にならないように少数の意見こそを尊重するべきだということが一つの結論でしょう。

もう一つ、権威側の自己保身ということも、系統誤差を生み出す要因になるようです。権威側は、自分の権威を盤石にすることで集団秩序を形成しようとするので、自分を高めようとします。実質的にリーダーの能力や技術、度量なんかが高まれば、組織にとってもプラスになるでしょう。ところが、そのような実質を伴わないで権威だけを高めようとしてしまう、秩序維持という結論だけを求めてしまうと、本来集団行動をするための秩序作りが逆に集団自身を傷つけていくことになってしまいます。中規模の集団でよく見られます。

NPОのような規模で、カリスマ的魅力のある人が創業者的に組織を立ち上げて運用する場合を考えてみましょう。組織を作り始めて軌道に乗せるためには、少人数のカリスマ的行動力で組織を動かしていくことが有効であるようです。超人的な行動に依拠して組織は立ち上がるでしょう。個人の直感や努力、あるいは運のようなものが必要な時期です。そこに人が集まってくるわけです。創業時の迎合は、一方的服従というよりも、権威者であるリーダーを立てながらも自分の意見もどんどん行って、いい感じで少数者の意見も反映されながら組織は大きくなっていきます。

しかし、組織が大きくなってしまうと、一人の意見で組織のすべてを決定することは不可能となると同時に、外部からの信用や印象というものが、その人ひとりの行動だけで決まらなくなるのは当然です。組織が大きくなるということはそういうことです。内部でも、創業者リーダーに全面的に迎合する人もいるでしょうけれども、サブリーダーの行動に迎合(行動を支持)する人も出てくるわけです。そのような迎合の対象がいくつかって、それら相互に協力体制が作られていけば組織は軌道に乗るわけです。

但し、創業者的リーダーは、本能的に権威者であり続けたいと思うわけです。創業当初はそうでなければ軌道に乗らなかった組織ですから、その意識は悪い意識ではありません。むしろ必要な意識かもしれません。しかし、創業から安定期に向かうときに、その意識は組織の動きや発展を止めることになるわけです。独裁から集団へ軌道修正をすることがうまくいかなければ、どんなに立派な理念を掲げていても発展をすることはありません。個人の頑張りからシステムの確立に移行するべき時期なのですが、多くの組織で当初確立していたシステムが風化していき、むしろ個人の頑張りに依存していく逆行が起こることがよくあります。

このような権威による迎合の強制が特に起きやすい場合というのは、組織に対抗組織があり、対抗組織との緊張関係がある場合です。議論をしているだけであると対抗組織に飲み込まれてしまうという危機感があり、効率性をとことん重視しなくてはならないという発想が無意識に強化されて生きます。また、そのような組織変化に対応できないために、組織の発展や維持に陰りが見えてきた場合にも同様の誤りが起きやすいようです。
秩序を作るためには効果があった個人に対する権威付けが、時期的推移によって、秩序や集団の利益から離れて、個人自体の保身のためのものになっている。こういう場合、満場一致圧をかけようとしやすくなるわけです。

権威側からの満場一致圧、迎合圧が、効率性と自己保身というところにありました。逆に迎合側の要因で満場一致圧という系統誤差が生じる要因を見ていきます。

「迎合」ではなくて「支配」という言葉を使うことのデメリットは、満場一致圧や支配と服従の本質を見誤るところにあります。支配者の一方的な欲得によって、満場一致が生まれてしまうと考えてしまいがちになることが最大の間違いです。責任がどこにあるかという議論をわきに置けば、迎合者の迎合は、支配者の意図にそうものだけではなく、迎合者にとっても権威者にとっても、組織の秩序を形成するという共通の目的のもとに、両方の意識や行動によって生まれるということを見逃してしまいます。権威者は必ずしも自分のわがままや希望で権威者になれるのではありません。迎合者が迎合するから権威者としてふるまうし、ふるまおうという動機が生まれるし、実際に権威者としてふるまうことができるというところを見落としてはなりません。


わたしも年齢とともに変化を感じているのですが、若いころは特に権威に対する反発が強く、権威をやみくもに信じないという傾向がありました。普通に迎合をする人たちの行動や心情に共感できないでいました。少しずつ歳を重ねていく中で、権威に寄り添うことに、安心感や安楽な感じを抱くようになってきています。

人が迎合しようとする行動原理はここにあるのではないでしょうか。群れの秩序の中で、秩序を維持する方向で行動することによって、安心感や安楽感とでもいうような感覚を得ることができるということです。逆に権威に対して反対意見を述べ、権威に従わないということが、何か不安や焦燥感を掻き立てるという感覚ですね。この感覚こそが人間が群れを作るためのツール、感情モジュールの一つなのだろうと考えています。

人間は、そこに権威があれば、できるだけ迎合したいと思う生き物なのだと考えると理解が進むと思っています。ミルグラムは、服従実験で、この権威について、社会的権威ではないかと提案しています。例えば名の通った大学の教授であるから権威があるという形です。対人関係学は、その迎合する人が、「自分の群れ、仲間」と感じている中で、その群れの秩序を作ろうとすることが迎合の心理であると考えるので、社会的権威とは限らず、群れの中で自分の迎合する対象として認識しうる権威で足りると考えています。人が苦しんでいることを止めようとしない理由は、支配者に服従するからだというのがミルグラムの結論かもしれません。対人関係学では、群れの秩序を形成しているという安心感があるため、具体的な人間の苦痛よりも秩序維持が優先されてしまうということが結論です。そして、その秩序形成の的になっている権威とは、仲間内の権威で足りるということが恐ろしいところだということが結論です。

迎合側の満場一致圧は、権威である執行部、権威であるリーダーに迎合しようという本能的な思考傾向があるため、そもそも人間社会では起きやすいということです。群れを作り始めた何百年も前であればそれで足りていたのだと思います。現代は群れが競合するという環境の大きな変化があるため、この本能のままに動いていたら群れは消滅していくわけです。

満場一致の系統誤差が生じる原因を見てきましたが、最後に具体的に系統誤差が生まれるその方法を見ていきましょう。

権威側の事情として系統誤差が生じる場合は、リーダーによる反対意見者に対する攻撃です。自分に迎合しないメンバーに目を付け、些細な失敗や他のメンバーからの遊離を見つけた場合に、チャンスを逃さないように、攻撃するわけです。この時の特徴は、攻撃対象に反論の機会を与えないことです。一方的に攻撃することが鉄則です。公開の議論をしてはいけません。自分の取り巻きの中で、攻撃対象が組織を害するもの、組織にはふさわしくないものという認識を共有することで完成するわけです。これが組織内で行われるだけならばまだよいのですが、組織の外に向かって攻撃をあらわにしてしまうと、問題が大きくなってしまいます。取り巻きの迎合者はリーダーを批判しません。取り巻きの迎合者は、リーダーからの評価を維持するという自己保身が働いている場合があります。大体において、子どものいじめの原理もこのようなものです。攻撃対象者が自分を否定評価していると権威者が考えた場合、自分の地位がとってかわられるのではないかと権威者が恐れる場合、これがいじめの始まりの典型的な一つのパターンです。

原理的に言えば、権威側は、攻撃対象者を孤立させることで自己保身を図るわけです。攻撃対象者、少数意見を言いそうな相手に十分な情報を与えないで情報がないために陥った誤りを逆攻撃するとか、論点をすり替えた人格攻撃をするとか、迎合者たちに、秩序を壊す者だと刷り込むわけです。その人の反対意見の是非や価値について検討せずに、その人の反対意見に至る発想を批判したり、別の目的があるのではないかと決めつけて攻撃したりするわけです。迎合者たちも、秩序を乱すものだという、自己の無意識の利益に逆行する人間ですから、攻撃の材料を無意識に探しています。だから攻撃の提案があれば攻撃に加担することが止められなくなる事情も出てくることがあります。

創業者リーダーが交代するべき時期は、このリーダーの発言で分かります。有力なメンバーの悪口が増えてきたとき。特にその人の行動の誤りに対して人格的な批判を展開するとき。人を説得するべき時に、事情に応じた論理を展開できないで、決まり文句を言って逃げ込むようになったとき(初めてそれを聞く人にとって何を言っているわからない発言。コアな人間でしか理解できない用語を使って仲間意識を思い起こさせる。)。自分の経験、自分の努力を聞かれもしないのに滔々と話すようになったとき。役割と無関係な自分の良いところをアッピールし始めたとき。そして、高度な集団を作るためには、満場一致で選出されたときも本来は権威の的になるべきではないのかもしれません。民主主義のメリットを生かすという観点からは、有害な人物かもしれません。また、十分な根拠もなく少数意見を封殺するような権威者、反対意見がさも不道徳であるように、つまり組織、集団にふさわしくないということを感情的に述べる場合も権威者としてふさわしくなくなっているということになりそうです。自分でこのような行動をする場合もありますし、大きな組織になれば子飼いの取り巻きにこの役をやらせたりします。

迎合者側の事情としては、先に挙げたとおり、本能的行動から権威者の提案を尊重しようとしてしまう傾向をそもそも人間は持っているという事情があります。志をもって議員になっても、提案者の意見を尊重しようとしたり、自分たちのユニットの代表者の意見に追随したりする傾向にあるわけです。理性的な行動を心掛けなければ当然の行動となってしまいます。

迎合者が、権威に迎合することで本能的な要求を満足させてしまって、提案に対して考えないという形の迎合が、もしかするともっとも一般的な満場一致に向かう系統誤差なのかもしれません。本来、組織、集団の意思決定において意見を述べなくてはならない立場なのに、「よくわからないから提案者に賛成する。」という態度です。「権威者に任せていれば、大丈夫だろう。」という態度です。この迎合で、誰かが傷ついていたり、回復しがたい損害を受けていたりしているかもしれないということには、思いを寄せないわけです。

迎合する心理、秩序を形成しようとする心理は、人間が群れを作って生き延びるためには必要な心理だったと思います。特に、人間が数十人から200人程度の群れで一生を終えるという環境の中では、この心理があれば、言葉がなくても群れを作ることができたのかもしれません。しかし、現代社会では、一つの群れに帰属しなくても生きていけますし、複数の群れに所属しています。大事な人間関係はその人との人間関係ではなく、家族だという場合も本当はたくさんあるわけです。そのような環境の変化に、人間の感情は対応しきれないようです。夫婦、家族でさえも同じような問題起きて、解決が難しいという事情があります。パートナーに安心して生活してもらいたいために、何らかの権威をもって行動提起をしようすることがあるでしょう。しかし、その権威的な行動が、他者から見れば、威張っている、横暴だ、自己中心的だと評価されてしまうことも多くあるわけです。家庭の中で効率を二の次にして、メンバーの意見を引き出すということを意識するべきかもしれません。しかし、相談ばかりして頼りない、信頼できない、安心できないと言われることもあるようです。
家庭の中ですらこうですから、難しい世の中になっていると思います。ただ、今日の話をどこか頭の片隅おいていただければ、危機を敏感に察して修正をすることに役立つのではないかとおもって、書いた次第です。

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【完全ネタバレ御免】相棒(令和4年2月23日放映)の自死(自殺)の描き方の大いに評価するポイントとリアリティの問題について 高橋和也を絶賛する [自死(自殺)・不明死、葛藤]

これからテレビ朝日系の相棒season20 第16話「ある晴れた日の殺人」(令和4年2月23日放映分)についての論評を行います。肝心の謎解きの部分がバレバレになるので、ご注意願います。


いきなりネタバレから入ります。

水谷豊演じる刑事が、自死をしたサラリーマンのことを評して、概要「彼は死にたかったのではないと思う。自分の人間関係の中で円満に生活していたいと思っていたと思います。捜査をした結果そういうことを感じました。」と述べています。
これはとても、大事な視点です。自死をする方は、死にたかったのではなく、生きたかったから死ぬしかなかった。ということは真実だと思います。ただ、単に「生きたかった」というとよくわかりません。「生きたかった」というよりも、「対人関係の中で尊重されて生きたかった。」と言わないとわからないと思います。テレビ番組でそこまで行き届いた説明がされていたことに感心しました。

文学的にはこういう話なのですが、演出上の問題としては、この話を死者であるサラリーマンが聞いているという設定があり、その話を聞いて表情を変化させるのです。その変化は見所で、演じた高橋和也はすごい俳優だと思いました。この人は男闘呼組の時から寅さん映画が好きで、話せるやつだなと注目していたのですが、俳優として大成しつつあるように感じました。よく勉強しているのだと思いました。

この部分があれば、これはテレビドラマとして、評価してよいと思います。
以下に私が述べるリアリティを追及してしまうと、説明が難しくなり、時間が足りなくなり、そもそも娯楽作品としては成り立たず、そもそも電波に乗らなかったと思うので、目をつぶってよいのですが、この記事は、ある意味テレビ番組をよいことに、自死について説明がしたいということで説明しているとご理解ください。


リアリティを欠くと思われたのは、自死者が、自分で自分を「殺した」と繰り返し述べるところです。用語を問題としているのではなく、自死についての動機としてのリアリティの問題です。

もう少し詳しく言うと、高橋和也演じるサラリーマンは、(結局)自分に対して「出世争いをするために、同僚の足を引っ張ろうとしたり、他人の失敗を許せなかったり、人間として許せない。そのよこしまなことを考えているときに表情の醜さを嫌悪する。生きている価値のない人間であり、殺しても罪悪感なんてない。」ということを何回か繰り返して述べます。視聴者は、高橋和也演じるサラリーマンが被害者である他人を殺したと錯覚していますから、殺人の動機として受け止めているわけです。しかし殺人の動機としても、自分に損害を被らせることに対する反発ではなく、一般的道徳というか、正義感の観点から殺害を行うということもリアリティが希薄だと感じて違和感がありました。

結局、他者ではなく自分に対する否定評価だったわけですが、それにしてもそのような動機で自死を行うということもやはりリアリティが感じられません。
生物の原理に反して自分で自分の命を絶とうとしている人が、道徳規範や正義感に照らして、自分を否定評価するということは、ずいぶん余裕がありすぎる心理状態だと思われるのです。

自死をした人の事情の調査結果や、自死をしようとして未遂で終わった人たちの話を聞いても、そのような冷静な思考が働いていたということはこれまでありませんでした。自死未遂をした方々の話を聞くと、半分くらいは、自分が自死行為をしたという記憶すらないのです。

記憶がない自死行為の典型は、向精神薬やアルコールの影響で、自分の行動を自分で制御できない状態になっているという場合です。おそらく、ただ眠りたいという気持ちだけをもって、眠れない間中、睡眠薬をぼりぼり無意識に食べているという感じでの過剰服薬です。後は、気が付かないで、屋上など高いところに上って行っていたというケースです。向精神薬やアルコールの影響があったとは思いますが、一種のトランス状態にあったようです。命のあるなしをわけたのは、その行為に気が付いて無理やり止めた人がいたかいないかということでした。

自分から命を絶とうとして数人で死地に赴いていたが、憎んでいた人の顔がちらついて、「自分が死ぬことで、こいつを喜ばしてなるものか」という気持ちが生まれ、一人引き返した人がいました。同行した人たちはみな亡くなったようです。この人の自死の動機も、なんとなくわかるような気もする事情もあったのですが、結局は動機というまとまった因果関係があるものではなく、「自分は死ななければならない。」という理屈を超えた信念のようなものに支配されていたようです。職場から抜け出して、別のビルの屋上から飛び降りた方の場合も、直前の行動は、パソコンの画面には向かっていたけれど何もしていない状態、インスタントコーヒーを入れようと粉をコップに入れたけれど、お湯を入れていない状態等、意識があったのかさえ疑問となる事情がありました。それでも確実に死ぬ方法を選び実行をしているのです。

冷めた目で、制裁でも自己否定でもよいのですが、「自分を殺そうとして自死をする」というケースは、実際は存在しないか、あったとしても非常にまれなケースではないかと思われます。自分が苦しんでいる理由が、自分の行動や考え方が自分で嫌だ、人間としておかしいというようなところにあるということに気が付いているならば、おそらく自死には至らないということがリアルだと思います。実際はどうして苦しいかわからないことが多いですし、つじつまが合わないことで苦しんでいることも多いですし、もっと多いのは自分が苦しんでいるということに気が付かない人たちが自死する場合です。「自分が実は苦しんでいるのだ」ということを、自分で分かってあげれば自死をしなくても済んだことが多いように感じられます。

この番組の最後の高橋和也の表情の変化は、自分が苦しんでいること、自分が尊重されたいのに尊重されていなかったことに苦しんでいることを理解したという感情の変化を表現した、なんとも言えない素晴らしい演技だったと思いました。

だから、リアリティを出すためには、自分が出世のために同僚の足を引っ張っていることを悩んでいたり、部下に配慮が足りず、逆に部下から貶められようにしているところに苦しんでいたり、妻との関係で葛藤を高めていたりするシーンが描かれて入ることが必要だったのだと思います。自分が解決方法のない苦しみに追い込まれている様子が描かれればリアリティが得られたのだと思いますが、それは一時間番組のエンターテイメントでは無理でしょう。何かを割愛することはやむを得ないと思います。

「自分を殺す」という表現が何度も使われたのは、殺人事件として展開する演出上やむを得ないと思いますが、リアリティは無くなるわけです。この言葉から罪悪感云々というセリフも出てきたのでしょうけれど、実際に自死している人たちは、自分を殺すという意識はないと思いますから、そもそも罪悪感が論点にはならないと思います。自死をしそうな人に自死の罪悪感を持たせて自死予防をしようと考える人たちがいますが(だから自死ではなく自殺というべきだというようです。)、そんな余裕のある人は自死しませんから、あまり的を射た議論ではないと思います。客観的には自分を殺しているのかもしれませんが、自死者の主観では、自分を殺すという意識はないはずです。

もう一つ、自己肯定感が低くなるとか、自己否定とかいう言葉が、最後のセリフの前に二人の刑事の間でもっともらしく語られるのですが、私は、全く頭に入ってきませんでした。ない方がよかったなと思いました。人が一人死んでいるのに、「何余裕ぶっこいて話してるんだ。」とさえ思いながら音を聞いていました。

おそらく自分を「殺す」ことから、本来「罪悪感」を抱かなければいけないという論理の中で、自分は死んでもよい人間だという自己評価の全否定があったので、罪悪感を抱かなかったという流れの中の話なのでしょう。そんな自分を客観的に評価している自死はないと思うので、意味のないセリフだと感じました。言葉に引きずられすぎた思考ということになるでしょう。

この流れも、自死予防の中でよくみられる間違いです。自死する人は、自分を大切にしない、自分を大切にできなくなっているから、「殺す」ことができるのだという考えの元、自死予防は、「自分を大事にしよう。」、「自分の命を守ろう。」というキャンペーンになるわけです。
自死は、「自分を殺そう」という主観や動機があって行うわけではないという視点が欠落しているとそういうメリットのないキャンペーンにつながるわけです。

どちらかというと、自死する人は自分を大切にしていますし、自尊心も強いように思われます。もともと「自分なんて幸せになれるはずがない。」と考えているならば、それほど強い絶望を感じたりしないのかもしれません。自分は、自分を取り巻く人間関係の中で大切にされたいという期待があるからこそ、そうではない現実に落胆し絶望するのだと思いますし、それでも何とか解決策を求めて不安感、焦燥感を抱き、それがかなえられないために絶望が深まるのではないでしょうか。冒頭申し上げましたが、自死は死にたいのではないのです。「自分の関わる人間関係の中で、尊重されて、協調して生活したい」という望みがかなえられないところに苦しむのです。その苦しみ切った先に、何かをしたいという長期的な願望はないと思います。ただ、その苦しみから解放されたいという控えめな望みしかないわけです。その手段として自死を思いとどまることができないほど苦しみ切っている、冷静な思考、自分に対する評価ができないから自死を思いとどまることができなくなっているだけだということだと思うのです。

だから、自分を「殺す」という表現も的外れですし、人を殺すから罪悪感があるかどうかもそんな余裕のある話ではありませんし、ましてや自分を殺したから許さないという表現も的外れだと思います。

まあ、刑事二人が余裕をもって話をしているのも演出で、自死という出来事の持つ重苦しさを緩和させる効果を期待したのだと思います。「許さない」というセリフも、亡くなったサラリーマンに対して、「あなたはかけがえのない人であり、死んでもよい人では決してない。」という意味が込められているのだろうと考えようと思います。

そういう前向きな解釈をさせたのも、高橋和也の表情の変化という演技だったのだということを最後に強調したいと思います。




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幽霊の正体見たり枯れ尾花 不安が社会病理を招く経路 (結果的に四部作になってしまった、今度こそ完結) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



怖い怖いと思っていると、何も危険性のない物を危険だと感じてしまうこと。ただ、怖がっているだけならば笑い話で済みます。しかし、人間、危険があると誤解すると、危険から逃れようと行動をしてしまいます。このメカニズム自体は人間に限らず動物全般の行動です。まさに「生きる」ということはそういうことなのでしょう。しかし、実際は危険性がないにもかかわらず、危険を回避しようとする行為は、メリットが何もないかわりに、デメリットがあることが多いようです。
例えばススキを幽霊だと思った人は、怖さのあまりその先に行くことをやめて走って帰ってしまったりして、実際は笑い話に終わらないこともあると思います。

生命身体の危険だけでなく、人間は群れを作る動物として、仲間の自分に対する評価を気にしてしまいます。仲間の中で自分の評価を下がることを、身体生命の危険と同じような脳と体のメカニズムで反応してしまうようです。やはり「危険」としてとらえているのでしょう。現代の人間は、複数の群れで生活しています。家族、学校、会社、地域、社会、趣味のサークル、友人等々、放っておけばそのそれぞれすべてで、自分の評価が下がることを心配しているようです。
心配する理由として考えられるのは、今の世の中、すべての群れで、自分の代わりがいるという事情があることです。考えてみたら恐ろしいことです。会社で自分が倒れても、すぐに自分の代わりが同じ仕事をして会社は続くわけです。家族でさえも、離婚などで、自分が仲間から追放されて、別の人が自分の代わりとして生活を始めたりします。
すべての群れの中で、尊重されて生活していればよいでしょうけれど、そんな人はどれほどいるのでしょうか。多くの人はどこかの群れで、不具合を抱えているのではないでしょうか。
例えば、会社で何があろうと、家で幸せならばそれでよいというならば簡単ですが、そう割り切ることはできないようです。

会社でパワハラを受けたり、不合理な低評価がなされたりすると、それが会社だけの出来事ではなく、自分に対する全人格的な低評価だと受け止めてしまうのが人間のようです。その結果、自分に対する自信がなくなってしまい、無意識というやかったいな仕組みで、どの群れであっても自分は低評価をされているのではないかと過剰に不安になってしまうようです。

会社で不合理な扱いを受けて会社は敵であり報復してやろうと思い、敵であるからルールも何も守る必要がないなんて考えて会社の財産を窃盗とか横領とかで被害を与えるというのは比較的単純な話です。

仲間として尊重されていないという危機感、不安は、尊重を回復させようと無理な要求を行うため、あれこれとストレスを大きくしていくのですが、悪くすると回復の兆しは一切なくてさらなるパワハラ、低評価が加わってしまいます。この場合の絶望は、社会的ルールを守る、相手に迷惑をかけないようにするという意識を失わせやすく、犯罪に対する抵抗が弱くなってしまうという効果が生まれやすくなります。

会社で不合理な低評価を受けて減給処分を受けたり、自営業者が風評被害にあって売り上げが下がって、収入を得るという自分の能力に自信がなくなると、そのことを言われてしまうのではないかという怖い怖いが募って、自分の子どものお小遣いのおねだりさえも、自分の収入をあざ笑っているのではないかと過剰反応をしてしまうわけです。

妻の言動も、過剰にとらえすぎて、なんでも自分に対する低評価が込められていると悪く悪く聞こえてしまいます。扱いにくくなって、実際の評価も下がるでしょう。ますます、夫の危機意識は高まり、夫婦間に緊張状態が生まれてしまいます。

さらに、例えば、就職活動をしても採用されず、もう就職活動すらしたくないという場合は、自分でも駄目だなあと思うわけです。家族でも友人でも、交際相手でも、自分を否定評価しているだろうなあと思うわけです。すると、乳児が泣き止まないことに対しても、自分を馬鹿にしているように感じてしまうようになるわけです。過剰な危機感というのはそういうものです。自分の能力のなさを突き付けられたような気がするのでしょう。

あるいは、低評価されているわけではないけれども、自分で自分のことを決められないという形での不安が持続してしまうと、自分が誰かから支配されていて、自分で自分のことを決められないという形での不安が高まるようです。無意識にその不安を払しょくしようとして、自分より弱い者を支配しようとするようです。性犯罪の加害者側の背景をみると、こういう事情があることが多いように感じます。

ストレスの解放行動としての怒りは、自分よりも弱い相手に向かうようです。自分よりも弱い相手がいない場合、あるいは他人に迷惑をかけることができないという意識が強すぎると、怒りはほかに向かいようがなくて自分に向かっていきます。自分から自分を守るということは盲点であり、対応が難しく自死が遂げられてしまうようです。

2010年、震災の直前に私は、あるラジオ番組のオファーで、離婚の統計について簡単に調べていました。そして、離婚件数の移り変わりにあるデータとの共通点を見出しました。それは、破産の申立件数でした。数字を折れ線グラフに直してみると、人数こそ違えど同じような形になりました。このグラフは自死の人数、失業者の人数と同じ形でした。犯罪認知件数もどうかと思ったら、やはり同じ形でした。特徴は、1998年に、飛躍的に数が上昇し、2002年から3年にピークを迎え、その後は緩やかに減少していったのです。

その後東日本大震災の経験なども踏まえ、離婚、破産、自死、失業、犯罪認知件数の連動の意味は、不安の推移によるものではないかという仮説を立てました。但し、破産に関しては、利息制限法などの改正によって減少傾向を見せていますので、連動の度合いは低くなっているかもしれません。

失業というのは、就労を希望してもかなわないという事情の方が多いと思いますので、これも外します。残った離婚、自死、犯罪というのは、人間の意思が関与しています。共通の要素としては、とても大きな不安があり、不安を解消したいという要求が強くあるのだけれど、解消することがなかなかできない、そのため不安解消要求がさらに強くなってしまい、不安解消が果たせるならば、どんな手段でも使いたくなり、それを思いとどまることができなくなるという共通の意思決定のメカニズムがあるということに気が付きました。

不安は危機意識を持っているときの心の状態なのですが、これらの社会病理の不安は、生命身体の危機に基づくものよりも、自分の人間関係上の低評価、孤立の危機に基づくものであるようです。

ススキを見て幽霊だと思うだけなら、走って逃げれば安全だと思う場所に着きますから、いつまでも不安を感じ続けなくてよいでしょう。しかし、職場、家族、あるいは社会の中での、自分に対する低評価の危機感というものは、持続するものであり、解消が難しく、絶望を抱きやすいということが特徴です。不安解消要求はいやがうえにも高くなり、それが解消されるとか軽減されることに、一も二もなく飛びついてしまうようです。自死も同様の原理だと考えられます。不安を感じそれを解消することが生きるということならば、生きるために自死に至るというなんとも不合理な事態になるようです。

離婚については、少し説明が必要だと思います。先ほどは会社で働いている家族が、自分の会社での低評価に過敏になっていて、家庭での些細な言動に危機感を募らせて反撃してしまうという経路を説明しました。しかし、近年の離婚については、特に理由がなく不安になってしまうところがから始まる事例が増えているように思います。精神疾患の診断書が裁判所に出されることもあるのですが、かなりの高い確率で精神状態に影響を与える内科疾患、婦人科疾患、副作用のある薬の使用が確認されます。病的な事情で、夫婦でいることで相手から否定評価を受けるのではないかという不安が先行して、そのような不安から解消されようとして離婚を申し出るというケースが圧倒的多数になっているような気がします。少なくとも性格の不一致、精神的虐待を主張するケースは、大半がこう言う類型です。

思うに霊長類は、不安を感じやすいことを自覚して、一日の大半を不安解消行動に費やしていると言えるかもしれません。ゴリラが胸をたたく行動がどのくらい一日の時間を占めているかわかりませんが、サルは毛づくろいをしてお互いの不安を解消しあうようです。毛づくろいはかなりの時間を使うようです。

人間だって、仲間内では、意識的に、積極的に不安解消行動をお互いに行わなければならないはずです。しかし、霊長類の中で、人間だけが仲間の不安に対して無理解であり、対応をしないという特徴があるように思われます。社会を変えるという大きな話題ではないのですが、自分の仲間の不安を解消する努力を行う、自分はあなたとの関係を終わりにしようなんてことは一切考えていない、安心してほしいというメッセージ、もっと実務的に言えば、感謝と謝罪をこまめに行い、敵対心がないことのアッピールをしていくということがまず私たちが誰でもできることなのだと思います。

仲間の不安を軽減し、消滅させることは、メリットしかないようにも思う次第です。

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下手な考え休むに似たり 理性は、期待できるものなのか。理性とは何か、なぜ理性を使えないのか。 (期せずして三部作になった一応の完結編)草稿 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

 

前々回の記事は、人間は心というツールで群れを作って生き延びることができた。そこで言う心とは、群れの中にいたい、群れから外されそうになると不安になるという仕組みだった。そして人間は仲間のために役に立とうとする動物であり、特に弱い者を守ろうとする心がある、それは基本的に現代の人間も変わらないというようなことを言いました。

前回の記事は、そんな人間が、どうして戦争を起こしたり、貧富の差を容認したり、いじめや虐待、犯罪を行うのかということの理由として、人間の能力を超えた人数とかかわること、複数の群れに所属して群れ同士の利害対立があること、どの群れも永続性のない不安定な群れであることが原因だと説明しました。

本当はここで、群れへの帰属の不安定性が不安を生み、それが社会病理につながる仕組みを述べる必要があると思うのですが、短時間で書きなぐるこのブログでは、バリエーションを整理する自信がなく、また今度の機会とします。今回は、
前回の記事の最後で、これだけ多くのかかわりの人数、群れの数、利害対立があるとすれば人類はやがて滅びそうなものですが、理性の力によって人類は再生すると、勢いに乗って述べました。それは本当なの?という疑問が当然出てくると思いますので、やはりやや荷が重いのですが、これについて考えを巡らせてみようと思います。

<問題の所在>

1 人間には理性がある。しかし、現状の社会の問題もある。つまり、理性は問題解決に役に立たないという証拠がありすぎるのではないか。
2 そもそも理性とは何か。理性はそれほど万能なのか。
3 もし理性が問題解決に有効だとすると、現在の不具合の理由はどこにあるのか。

<この草稿における「理性」の定義と対義語>

理性という言葉を便宜的に使っているのですが、ここではわかりやすく、「感情にとらわれずに、冷静な思考で真実を見極めようとする意思決定方法」という言い方をしておきます。
だから、理性の対義語は、感情的、感覚的な意思決定方法ということになります。本当は感情ではなく「情動」という言葉を使いたいのですが、説明が面倒なのでやめておきます。また、ここでは、感情的な意思決定がすべてだめだということを言うつもりはありません。あくまでも社会病理をなくし、人類を存続させるための意思決定方法ということで考えています。

<人間は、理性を使うことを本能的に嫌がる傾向にある>

人間は、そもそもものを考えることを嫌がるようです。例えば算数の掛け算で、175×221=なんて問題を出されて、暗算で解こうとして解けないことはないと思います。175+3500+35000ですから、38500に175を足して38675と考えることは不可能ではないでしょう。しかし、解けと言われれば、そろばんとか訓練をしていない普通の私たちは、立て算を紙に書いて解くわけです。こうすると、九九という暗記している記憶を呼び寄せながら、並べていくだけだから思考力はだいぶ節約できます。(ひっ算以上に計算機を使う方が節約できるわけですが。)

結構大事なこと、結婚相手を選ぶとかいう場合も、感情的、感覚的に、例えば「自分の好きだという気持ちを大切にして」なんてことを言いながら、勢いで決めるということが案外実態なのではないでしょうか。少なくとも、この人と結婚することのメリット、デメリットを並び立てて、理性的に判断するなんてことをやっていたら、結婚なんてとても難しい意思決定になってしまいます。これはこれで人類滅亡の論理になってしまいかねません。

朝起きて食事をして着替えて出勤するなんてこともルーティンで行います。服を決めたりすることに時間がかかるとしても、なんとなくどっちにしようかなということで、TPOの問題はあるにしても、感覚的に決めているのではないでしょうか。この感覚的なあるいは感情的な、あるいはいつもと同じということは、迅速な意思決定をすることができるので、この意思決定方法を使わなければ、生活することも不便になるでしょう。

ただ、人類が理性を使わない一番の理由は、理性的な思考が大量のエネルギーを使うという問題があるようです。人間は無意識にエネルギーを節約させる傾向があり、この傾向によって餓死などを防いできたのかもしれません。これが思考方法にも徹底されていることから、感覚的、感情的に行える思考の場合は、そちらを優先するという仕組みらしいです。(感覚的感情的行動というのが生物としての原初的行動でありスムーズに思考がまとまり、理性的思考は人が群れを作り出してから発達していたため、不慣れな行動ということも関係しているのではないかとにらんではいます。)

<非理性的思考あれこれ>
非理性的思考としては、一瞬の危険を回避する仕組みが典型でしょう。仕事中、何かが自分に飛んでくるということを目で感じたり、飛ぶ音がきこえたり、風の動きという肌感覚で把握すると、脳が危険だと判断して、ほとんど反射的に手で頭を守ったり、できる場合はよけようとします。これも理性的思考を行っていたらぶつかってしまいますから合理的な思考方法でしょう。

誰か二人が対立をしているとしましょう。この場合、どちらかが自分の知っている人間、特に何らかの仲間だとすると、仲間の方に多少問題がある場合でも、仲間の方に味方をしてしまう傾向にあります。どちらの言い分が正しいか、理性的に考えて、間違っている方に注意するなんてことは起こりにくくなります。仲間が世間的に迫害されているような場合は、よりこの傾向が強くなるようです。罪もない人を一緒になって攻撃するということはよくあることです。国家レベルでも起こりますし、政治的にもよく起きています。その組織の定められた方針、理念よりも、組織の論理(仲間だから応援する)が優先されることもこれで説明できるでしょう。

同じように、認知心理学者が説明している、様々な思考バイアスも、なるべく理性的な思考をしないでエネルギーを節約させるための方法だと評価できるのではないでしょうか。

<感情は理性より先に生まれ、その前に生理的反応があるという順番問題>

先ほどの飛んでくる物体の話が説明しやすいのでそれで説明します。まず、視覚、聴覚、触覚で、物が近づいてくることを脳がキャッチします。その後に脳のさらに中枢で、それは危険だと判断します、その後副腎のホルモンなどが分泌され、心拍数が増え血圧が上昇し、体を動きやすくするように生理的変化が起きだします。そのあとに、危険だという意識が生まれ、危険回避行動が行われるわけです。ほとんど理性が登場することはありません。

ひとしきり、安全が確認されたのちに、ようやく理性が働く余地が出てきます。大事なことは順番です。理性が一番後で、その前に感情が生まれていて、その前に体の反応がすでに始めっている。体の反応が危機回避の反応ですから、それによって意識や感情も形作られて、そのあとになってようやく理性が働き始めるということに着目するべきです。

少し時間の余裕があるのは、対人関係的危険です。自分が友達から悪口を言われているみたいだという危険を感じてしまうと、やはり体が反応して心拍数が増加し、血圧が上がるなどの変化が起きてしまいます。そのあと嫌な気持ちになって、何とかしようと思って行動するわけです。悔しくて大声を出して暴れたりすると、「やっぱりあなたはそういう人ね。」と改めて否定評価されるわけです。逆効果ですね。そうではなくて、例えば相手にしないという態度をとったり、上手に問題提起をするという理性的思考によって、あなたの評価を下げない効果が生まれるわけです。

本論とはあまり関係ありませんが、だから、自分がどのようなことを考えてしまうかなんてことに意味はあまりないということです。まず、体が反応していることが生き物として当然のことです。それから生まれる感情が、どんなにドロドロしていようと、不道徳であろうと、自分の主義理想に反しようと、あまり自分の人格とは関係がないということです。どういう風な状況であったかということを振り返ることの方がよほど大切です。同時に、身近な人の感情も、そのような本人の自分を取り巻く状況についての反応にすぎず、一時的な喜怒哀楽については、多少大目に見なければならないと思うのです。人格とかかわりなく脳が反応してしまうのですから、その反応で非難をしたところで改善することはなかなか難しいということだけは理解しておいた方が良いと思います。

<理性が働くなる場合あれこれ>

弁護士をしていると、例えば刑事弁護の仕事をしていると、あるいは人間関係の紛争に携わると、理性が働きにくくなる場面があるということに気が付きます。
いくつか紹介しようと思います。

1 自分を守らなければならない状況

理性が働きにくくなる第1の状況は、自分を守らなければならないと強く感じているときです。誰かに襲われたときには、一直線に自分の身を守らなければ自分が絶命する可能性もありますので、やみくもにでも逃げるか、命がけで反撃するわけです。自分を守らなければならないときに、理性的に手段を吟味していては自分を守れません。

生命、身体の危険を感じている場合もそうですが、仲間の中で否定評価をされている場合なども、なりふり構わず自分を守ろうとしてしまいます。先ほどの例のように危険だという意識が発動してしまい、感覚的な行動をやみくもに行って、逆効果になることもよくあります。危険に対する反応は「逃げるか戦うか」ですが、いずれにしても心拍数が増加し、血圧が上がるという反応が起きています。対人関係的な危険で、この身体生命の危険回避の仕組みが発動されることは逆効果になることがほとんどなのですがしかたがありません。自分を守ることをやめることによって、理性が働き、うまい解決方法が見つかるということが良くあります。なくしものがあって探しているときに見つからないのは、危機感を感じてやみくもな行動をしているからです。探すのをやめて、危機感を鎮めると、理性が働き、見つけることができるようになることには理由があるわけです。

2 危険がないのに自分を守ろうとする生理変化が起きている場合

自分を守ろうとしているという意識がなくても、自分を守らなくてはならないという生理的メカニズムが発令されることは、順番が生理的メカニズムという反応が先なので、当然あるわけです。理性的に考えれば、自分を守る必要がないにもかかわらず、脳が勝手に反応をしてしまう。その反応を自覚することによって危機意識が生まれて、理性が働きにくい場合が良くあります。

1) 疲労、睡眠不足
疲労や睡眠不足がある場合は、危機に対応しにくい状態にあるという自覚を意識ではなくて脳が勝手に行っているのかもしれません。睡眠ができなくなれば死にますし、疲労が蓄積されていけば動けなくなります。だから、危険に対して過剰に感じやすくなるようです。疲労の蓄積や睡眠不足によって、理性の働きが減少してしまいます。
2) 過密行動、複数同時並行行動、マニュアル行動
例えば仕事などで、予定が詰まっていて、短時間で一つの仕事を終えなければならないということがあると思います。また、自分の考えで行動することができないで、会社から渡されたマニュアルに従って行動しなくてはならないような場合もあるでしょう。一方でこのような労働は、時間当たりの労働の結果が増えるように感じますが、他方で自分で自分の行動を決められないという危機感が生まれてしまうようです。このため、自分を守ろうという意識が無駄に生まれてしまい、理性的な思考が後退してしまうということがあるようです。同じく、二つのことを一度にやるということは人間の脳の特質に反する行動のようで、たいしたことでもないのに、過剰な防衛志向が生まれやすくなるようです。実際に行動する人の理性的判断が求められている種類の労働などの場合は、疲労を蓄積させることをせず、睡眠時間を確保し、過密にならないように、そして自分の判断ができる部分を残しておくことが上手な労務管理ということになるでしょう。

3 仲間を守ろうとするとき

動物全般として自分を守ろうとするので、人間も動物的に自分を守ろうとするわけです。植物も、自分の危険を回避する仕組みがありますから、生きとし生けるもの自分を守ろうとするわけです。
しかし、群れを作る動物の中でも、人間は特に、自分を犠牲にしてまでも群れの仲間を助けようとすることがあります。私は、これは本能的な行動であり、この本能的行動があったため、人間は文明のない時代であっても群れを作って生き延びることができたのだと思っています(袋叩き反撃仮設)。

先ほどお話しした組織の論理(事の善悪で行動するのではなく、仲間を支援する方向で行動をする傾向)も仲間を守るという人間の本能で説明できると思います。つまり、仲間を守ろうとか、弱い者を守ろうという意識は、一見尊いように思われるのですが、対立当事者がいる人間関係の紛争では、罪もない人の攻撃に加担するというデメリットもある行動なのです。そういう意味で、私は自分の考えが性善説ではないと思っています。また、性善説、性悪説という議論にあまり価値があるとは思えません。

他人の命を守るために自分の命を犠牲にするようなこと(自由意思で行う場合)を、私はそれほど高く評価をすることができません。人間は基本的には、自分の最もコアな群れである家族を守るべきだからです。家族の中で、家族よりも他人を優先するというコンセンサスがある場合には自己犠牲も賛美できますが、そうではない場合は、やはり理性的な考え抜きの衝動的な行動だというべきだと思います。それを、賛美して、正しいとか、行うべき見本だという考え方にははっきりと反対します。

4 善悪の二項対立 道徳違反等

理性が働かなくなる場合の一つとして、既に他者によって、善と悪との対立だという構造が設定されている場合があります。実際の犯罪の刑事弁護に携わったり、損害賠償事案に携わると、新聞で報道されるような、どちらかが一方的に悪で、どちらかが一方的に善だという場合だけではない場合をよく目にします。特に、自分が関与している事案を見ると、ことさらに、誰かを悪者にして非難をあおるような報道を多く目にします。世の中はそれほど単純ではないですし、決めつけた上で感情をあおるような報道姿勢は大変危険です。
しかし、現代人は、攻撃材料があるとすぐに飛びついて、報道機関などの意図に沿った感情の変化をしてしまうという危険があるようです。噂話程度の情報に基づいて、あるいは虚構の演出を真実だと決めつけて、特定の人間を攻撃するという行動を起こしてしまいます。ネットいじめが典型ですが、よくよく考えると日常にありふれているようです。その被害を受けるとよくわかることです。

正義や倫理、道徳などに反する行為であると社会的に認定されてしまうと、批判をしたくなるのも人間のようです。これは、仲間を守るという本能から派生した感覚であると考えるとわかりやすくなるのではないでしょうか。
見ず知らずの人、自分や自分の仲間とかかわりのない人を攻撃する心理として、自分の何らかの不安を、他人を攻撃することによって感じにくくなるというメカニズムも関与していると私は思います。
怒り依存症 怒ることで幸せになれる条件と、怒り続けるしかないことになってしまう不幸を産むメカニズム
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-01-03

5 では、社会病理をなくすために理性は使い物になるのか

ここまで理性が役に立たない場合が多いみたいなことを言っていると、社会病理をなくすために、本当に理性は使えるのかという疑問も出てくると思います。

理性を働かせる条件を、これまでの話をもとに逆説的に挙げてみましょう。
1 自分を守ることをしない。
2 体調を整えて、余裕のある思考のできる環境を作る。
3 仲間意識を捨てる。
4 過度に道徳を重視しない。
こういうことが条件になるようです。
しかし、こういう条件で、およそ何かものを考えようかという気持ちになるのか、かなり心配です。行き当たりばったりの思考になりかねないような頼りない感じがします。

理性を正しく発揮するためには以下の条件が必要だと思います。
1 生きること、生きようとすることに絶対的価値を認める。
2 人間として生きる、他者と協調しながら生きることに大きな価値を認める。
3 理性的思考をしないために、1と2の価値を擁護できないポイントを予め認識して、誤りのパターンを共通理解にする。

つまり、あらゆる場面で、感覚的意思決定をせずに理性的な意思決定をするということは人間にとって不可能なことであることを理解する。ただ、感覚的な意思決定をしてしまうと、不利益を受けてしまう人間が生まれたり、誰かを強く心理的に圧迫するということを類型化して、予めみんなの共通理解にしておくということです。この失敗のポイントがわかれば、用心することができますし、理性的な思考をする場面であることに気が付くことできるから、理性的な思考が行われやすくなる、こういうことなのです。

そんなに難しいことを考えなくても、生きること、生きようとすることを無条件に肯定し、人間として生きるということを積極的に肯定しようという意識が生まれて、本当に安心して生きていこうと大勢が思えば、代わっていくことだと思っています。

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二兎追うものは一兎も得ず 人間が他人を攻撃し、追い詰め、自分だけが利益を得ようとする根本的な原理 昨日の続きみたいなもの [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



前回の記事で、人間は
仲間と助け合う動物、弱い者を守ろうとする動物、仲間の利益のためには自分が損をしてもかまわないという傾向のある動物と言いました。
それは人間の心がそういう風にできているためだと述べ、その心は私たち現代の人間に受け継がれていると言い切りました。

当然、「なにそれ。きれいごとじゃないか。実際はだいぶ違うのだもの、説得力がないよ。」と思われることはもっともです。世界レベルで見れば貧富の差や戦争が現代も続けられ、家庭の中でさえ虐待が行われたという報道が後を絶ちません。孤独死や自死もなくならず、いじめもあり、詐欺など弱い者を食い物にする犯罪も多く報道され、インターネットは一人の人を自分とは利害関係ものないのに寄ってたかって攻撃しているわけです。とても人間が美しい動物とは言えないと思うのも無理はありません。

私は間違っているのでしょうか。そうではないということを説明させていただくことが今回の記事です。

つまり私は、頑固なまでに、人間の心は、200万年前のように、仲間の利益のために、我が身を犠牲にしてまで、協力しあうこと、弱い者を助けようとし、そうすることに喜びを感じる心を持っていると主張いたします。

実際、自分たちは気が付かないかもしれませんが、誰か人間を攻撃する側も、実は攻撃をすることによって、嫌な気持ちになったり、心が傷ついて荒んだりしているわけです。不安というストレスを感じているということが実態です。
そうではないという方も、優れた創作物で人が人と助け合う姿が描かれていたり、実際に弱い者を身を挺して助ける人間の姿に感動を覚えたりするのではないでしょうか。
つまり、実際の行動がどうあれ、心は200万年前のままだということが言いたいことです。また、心のままに行動できていないだけだということも言いたいところです。

しかし、200万年前は心のままに生きていたため、人間は群れを作り子孫を作ることができたのだと言っていながら、現代は心のままに生きていないというのはあまりにも都合の良い言い訳に聞こえるかもしれません。でも、現代社会では、人間は心のままに生きていけない事情があると思うのです。

こころのままに生きていけない事情としては、自分を守らなければならないという事情があるということが第一です。他人の利益のために行動をしてしまうと、自分が致命的な損害を受けてしまうという事情です。極端な話、戦争のさなかで、自分が敵を殺さなければ敵から殺されてしまうという事情があれば、私も迷わないようにして敵を殺すのだろうと思います。自分に対するいわれのない非難、中傷、悪口を言われれば頭にきて、相手を攻撃するということもやるかもしれません。誰しもそうではないでしょうか。怒り、攻撃するのでなければ、人と争うことが嫌になり、孤立を選ぶのかもしれません。

しかし、なお、頭の良い人は追及の手を緩めないでしょう。でもそういう自分を守らなければならないことは200万年前からあったのではないだろうか。現代と200万年前と何が違うのかと言われるのではないでしょうか。

この答えは、第1に、おそらく200万年前には、少なくとも仲間から自分を守るために仲間に攻撃するということはほとんどなかったという回答となりますし、第2に200万年前と現代(1万年くらい前から現代)では、決定的な違いがあるということが回答になります。

第1の仲間から攻撃されることはない。ということを説明します。当時の仲間、群れというのは30人から50人くらいのコアな群れを中核にして、そのコアな群れが数個集まっておおよそ150人程度の集団で、原則としてメンバーが変わらず、同じ人たちだけと生まれてから死ぬまで暮らしていたとされています。生まれてから死ぬまで同じメンバーなので、だれがどのような性格で、どのような特徴があるということはみんなお互いにとことんわかっています。どういう顔をすればどういう気持ちなのかもよくわかっています。そうです。言葉が不要なほど分かりあっていたわけです。だから、おなかをすかせていたら自分がおなかがすいているようにかわいそうだと思い、けがをしたら自分がけがをしたかのように悲しんだのだと思います。悲しませること、不安になられると自分も悲しくなり、不安になるため、みんなは平等にするしかなかったのです。仲間通し、完全に信じあい、感情を共有し、利益が同一ですから、自分と他人の区別はあまりつかなかったのではないでしょうか。だから、仲間から攻撃されるようなこともしませんから、仲間から攻撃されるということはなかったのではないかと考える次第です。

第2に、では現代と一番違う条件は何かということですが、これは人間がかかわる他人という人間の人数と自分が所属する群れの数が、200万年前の現代では全く違うということなのです。

人間の頭脳の限界として、個体識別できる人間の人数は150人程度だと言われています。150人くらいであれば、お互いが共感してお互いの感情を自分の感情として扱い、全力で仲間を助けようとすることができるのだろうと思います。それが200万年前の人間の群れですし、その環境に適応した脳に進化したわけです。脳は200万年前から変わっていません。

ところが現代では、家を出てから勤務先に行くまでに、何千人という人と出会うわけです。人間の能力の限界を超えていますから、誰(どのような人)と会ったかについては、記憶にも残らないほどです。テレビやインターネットの人間に関する情報を混ぜると、何十億人という人間とかかわりをもって生きなくてはならないということが実情です。

また、インターネット上で誰かのことを話題にする場合には、実際はあったこともない人たちのことです。その人たちの感情に共感して、自分の行動を修正するということは到底不可能です。誰かの悪口をSNSなどで発信する場合、攻撃を受ける対象と攻撃をする人間は同じ人間同士の関係ですが、200万年前の生まれてから死ぬまで生活を共にする人間同士の関係とは全く異なるわけです。

とてもすべての人間、なんからの関わり合いになる人間だけをみても、実態のある生身の人間同士のかかわりにはなっていないことがわかると思います。共感が働かないということはよく理解できると思います。

もう一つ重要なことは、現代の人間は複数の群れに所属するということです。まず、まずそれぞれの人間がそれぞれの家族に所属するわけです。その家族も、親子であっても子が結婚すれば別の家族になってしまいます。自分たち夫婦の利益と親の利益が矛盾すれば対立が生まれてしまいます。これは別の群れになったことによって対立が生まれるということになります。(同居をしていても別の群れになっている場合も対立が生まれます。)学校へ行けば、友達という群れの中で安心感を持って生活をしていても、家族の意向から友達と利害対立をしなければならないことが出てくるでしょう。学校の教室の中でも、いくつかの仲良しグループがありそれぞれのグループ間に緊張関係があります。部活動などの関係でも群れが複雑に交錯してしまいます。職場でも地域でも群れや利害対立は容易に起こるわけです。すべてが一時的な群れだということも200万年前とは違う重要な要素かもしれません。

人間は、それぞれ、自分を守り、あるいは自分以上に仲間を守ろうとします。その行動がある群れにとっては全体に利益を与えてくれる価値のある行動だとしても、他の群れでは自分たちの群れに損害を与える行動になるということが当たり前のように起きてしまいます。
群れを大切にしようとすることが、他の群れを排斥する行動になってしまうということは、悪意がなくてもよく見られることです。

だから、一つの群れとの関係では、例えば友達との関係では、安心感を獲得できる行動だとしても、他の群れ、例えば家族との間では家族に損害をもたらす行動になってしまい、たちまち不安がかきたてられるという結果になることはよくあるわけです。もっと大きな話をすれば、自国民の利益を得るために、他国の国民や他の民族に犠牲を強いるということもあるのですが、自国民、自分たちの民族との関係では英雄になったりするわけです。

ズバリ言えば、人間は、これほど大勢の人間とかかわりあいになったり、これほど多くの群れに所属したりする能力、文字通り脳の力が欠落しているのです。それにもかかわらずそのような環境にいることが強制されている。これが虐待、いじめ、戦争、貧富の差等、あらゆる社会病理の根源にあるということです。

それでも人間は、自分が所属するすべての群れの中で、すべての人間のかかわりの中で、安心して暮らしたい、尊重されていたいという根源的要求を持っています。200万年前と心が変わっていないからです。だから余計に傷つくし、怒るし、不安になってしまうわけです。どこか1つの群れ、例えば職場で不具合があっただけで、家族に八つ当たりをしたり、家族と良好な関係にあるのに精神的に破綻してしまう仕組みはここにあります。

人間は群れの中にいることで不安をなくして、安心していたという根源的要求があり、一つの群れでそのような良好な関係にあることで満足せず、所属している以上、他の群れでも不安をなくして、安心していたいと思ってしまうということです。そのため、不安が生まれてしまいます。二つの安心を得ようとしてしまうために、不安も生まれてしまう。このことを二兎追うものは一兎も得ずと表現してみました。

今日の最後に、そうだとすると、人間には未来がないのでしょうか。何か破滅的な出来事が起きて、200万年前と同じ人数のかかわりの中で唯一の群れの中で生きるような出来事がなければ、滅びてしまうのでしょうか。また、滅びないために、心を変えていかなければならないのでしょうか。

この答えは、人間は現代の人間関係を維持しながら、各人が幸せを感じながら生きていき、他人を攻撃したり、追い詰めたりしないで生きていく可能性があるということです。

その時に使うツールは、理性です。但し、人類の共存という価値観に向かって進んでいくという目標をしっかり持ったうえで、それをどう実現していくかということを考え抜くという理性によって、人類の幸せな未来の可能性が切り開かれていくことになると思います。簡単な話ではありませんが、可能性は切り開かれるはずだと思っています。

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馬鹿な子ほどかわいいということが当然である理由 「かわいい」とは人間が人間であるために必要な感情だということも含めて。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

意外に思われるかもしれませんが、まじめなまじめな話です。

現代では、馬鹿な子ほどかわいいということの意味は、例えば「馬鹿なことをやってみんなを笑わせるような子はかわいい」とかいうように、何とか理解しやすいように意味を改変して解釈して納得していることが多いようです。しかし、これは、昔に作られたことわざの解釈としては間違っているというべきでしょう。「馬鹿」という評価は、ちょっと深刻な、まじめに心配な気持ちを起こさせる文字通りの意味でよいと思います。厳しい世の中で、要領よく立ち回れずに損をしてしまうような状態ということになろうかと思います。
だから、辞書などでは、「不憫な子ほどかわいい」という意味だと説明しているものもあるようです。当たらずしも遠からずと思います。辞書という短い字数での説明を求められていることを考えると、これで精いっぱいという評価もあるでしょう。
日常会話では、「手のかかる子どもほどかわいい」という意味でつかわれることが多いと思います。こちらは正鵠を射ていると思います。

「馬鹿」という言葉も難しいのですが、「かわいい」という言葉の意味もやはり正しく使われていないところにも、このことわざを難解にしている理由があると思います。
現代では、いろいろな肯定的評価の意味で、「かわいい」という誉め言葉を使うようです。仲間内でならば、どんな言葉にどんな意味を込めて使おうと、通じているなら他人がとやかく言うことはありません。但し、ことわざのような古典を味わうためには、そのことわざが成立したころの意味を知らないと意味が通じません。結構もったいない話なんです。このカテゴリーはそういう役に立つことわざを発掘することがテーマなのであります。

ところでかわいいという感情ですが、これがなかなか難しい。古典的な日本語の意味は、「神々しくて顔を向けることもはばかられる。」という意味でつかわれていたようですが、そのうちにその意味に付け加えて「自分も何かをしなければいけない気持ちになる」という感情を伴うことも付け加えられた意味の言葉になっていったそうです。その後、「自分も何かをしなくてはならない」という感情をそのまま残しながら、それに付け加えて自分よりも弱い者、小さい者に対しての肯定的評価、好ましいという感覚が込められて使われるようになっていきました。

なんとなく、言葉の変遷は理解できるような気がしませんか。高校生の頃、とてもきれいなモデルさんがいて、「ああ美しいな。この人の役に立ちたいなと思うけれど、その人が近くにいたら恥ずかしくてたまらずにとてもじっと見つめることなんてできない。」というような感情がもともとのかわいいなのかもしれませんし、働くようになって、自分のことを「おっさん」と自称するようになるころは、よその子でも道で泣いていたら「どうしたの?」と声をかけたくなるというような、そんな変遷でしょうか。

子どもをかわいいと思う気持ちは、太古から各時代の大人の心にあったのだと思います。しかし、それを表現する言葉が、少なくとも「かわいい」という言葉ではなかったわけです。しかし、徐々に、本来人間が持っていた気持ちを「かわいい」という言葉にあてはめて表現するようになっていったという流れだと思います。時々見られる美しいものをかわいいと表現することは、太古の意味の名残なのかもしれません。しかし、単なる美人よりも、少し隙のあるような人間の方が可愛いと思うのも、こう考えると合理的かもしれません。「あの人は美男子だと思うけれど、かわいいとは思えない。」ということはよく理解できると思います。

現代で乱発されている「かわいい」ですが、私は、共通項として、安心できる対象(形状、色、柔らかさその他が自分に災いをもたらすとは思えないもの)であり、かつ自分もそのものと何らかの形でかかわりたいという感情を呼び起こすものということでつかわれているような感じがしているのですが、若い人に聞いてみないとわかりません。

さて、意味が変遷するので混乱してきましたが、元に戻って、ことわざができたころの「かわいい」という感情についてまとめてみましょう。
かわいいという言葉は、自分よりも弱い者、あるいは小さいものに対して使うもので、自分がかかわってその弱さなどを手当てしたくなるという感情を言うとまとめられるのではないでしょうか。典型的には赤ん坊に対する感情です。

こういう意味でかわいいという感情はどこから来るのでしょうか。また、かわいいという感情が人間の本能に根差した感情だと説明されることがあるのですが、それはどういう意味でしょう。

私は、「かわいい」という感情は、人間が群れを作るために不可欠な感情だったと思っています。私たちの祖先は、文明のない時代から群れを作ることによって、肉食獣から身を守り、飢えないように食料を獲得して生き延びてきました。言葉もない時代です。それでも数十人から100人余り程度の群れを作ってきたのです。

群れを作る動物はたくさんあります。イワシも巨大なウミヘビのような魚群を作りますが、それは各魚が、群れの内側で泳ぎたいという本能を持っているために結果として魚群が成立するそうです。馬は群れの先頭に立って走りたいという本能があり、鳥は風圧を軽減して飛びたいという本能があって隊列の形が生まれるそうです。それぞれ、理由があって群れの形、群れをつく方法が変わってくるように見えます。

そんな都合の良い進化はどうやって発生したのだろうか、誰かがそのような動物のデザインをしたのだろうかと思いたくなるのも無理はありません。しかし、実際は、地球が生まれてから現在までの間に、群れの中に入りたいと思わないイワシも生まれたでしょうし、群れ内で逃げたいという馬も生まれたでしょうし、風圧を好む鳥もいたでしょう。しかし、そういう不合理な行動傾向をもった個体は、死滅していったわけです。一人でゆらゆら泳いでいたイワシは簡単に大魚や海洋哺乳類に捕食さるでしょうし、群れから離れて草を食んでいる馬は集団で狩りをする肉食獣の格好の標的になったでしょう、風圧を好む鳥は渡りをする体力を消耗して渡りができなくなるわけです。つまり、都合よく進化したのではなく、環境に適応できた個体群が生き残り、子孫を作ることができたということなのです。数字を数えるだけで気が遠くなるような年数をかけて、現在生き延びた子孫という結果だけが見えているだけなのです。

さて、そうすると、どのような人間が、群れを作って生き延びてきたのでしょうか。群れを作る本能とは何でしょうか。

私は、人間が群れを作ることができたツールは「心」ないし「感情」、あるいは「情動」というシステムなのだと考えています。つまり群れの中にいると安心して、群れから外れると不安になるという心です。認知心理学的に言えば、「心というモジュール」ということになるでしょう。

群れにいると安心するという心から派生した心は、群れから尊重される、感謝される、高評価をされると嬉しいという心。努力をねぎらわれると嬉しいという心、群れの役に立つことを自分が行ったというと安心する心等です。
群れから外されると不安になるという心は、群れから外されそうになると不安になるという心を派生させ、共感力を背景に、仲間が自分を低評価をしているとか、自分が差別されているとか、攻撃される、健康を顧みられない等の事情があると不安になるという心を発生させました。
それらが組み合わさって、様々な心が生まれたと考えています。

人類は他の動物と比べて卓越した共感力を持つことによって、仲間の心における自分の状態、評価を感じ取ることができ、安心感や不安感が生まれたわけです。安心感の得られる行動は率先して行い、不安感が生まれる行動はしないようにして、うっかりそれをした場合や、仲間から否定的に思われていると感じた場合は、自分の行動を修正し、仲間の中にとどまろうとしたということになります。この仕組みで群れを作っているのは、人間だけです。自分が損をしても他人である仲間に得をさせる利他行為は、一見自分が損をしているように見えても、仲間の中にいたいという根源的要求を満足させるという自分の究極の利益を獲得するための行為ということになるわけです。

かわいいという感情も、人間が人間になった時代(200万年前と言われています)から、存在していたはずです。すなわち人間の赤ん坊は、全く無力で自力で生きていくことができません。また、人間は母親だけで赤ん坊を養育するようにはできておらず、多くの大人たちが一人の赤ん坊の面倒を見ていたと言われています。ここがサルと人間の本質的違いです。大人たちは、無防備な赤ん坊を見て、かわいいと思い、自分ができることをしようとしていたというのが人間の歴史です。こうやって、何もできない赤ん坊は、群れの大人たちから可愛がられ、面倒を見てもらい、大人になることができたということです。

もしこの感情を人間が持たないで、他の哺乳類のように母親だけが赤ん坊の面倒を見たならば、そもそもお産で母体が死んだ場合は、赤ん坊も死んでしまうことになるでしょう。また、母親だけが一日中赤ん坊の面倒を見ていたら餌を確保することができず、母乳も出なくなってしまっていたでしょう。赤ん坊が成体になることは極めて難しかったはずです。また、1年に一人くらいしか産めない人間からすれば、また、当時は赤ん坊の成長する確率は今より格段に低かったということを考えれば、母親だけが子どもの面倒を見るサルみたいな修正があったら、人間はあっという間に死滅したことでしょう。いわばかわいいという感情が赤ん坊を成体とすることができ、人類を存続させてきたわけです。小さくて弱い者をいとおしいと思い、自分のできることを行い役割を果たしたいと思い、赤ん坊が健やかに育つことに喜びを感じるということが人間に不可欠な感情だったわけです。そして私たちは、その人間の子孫たちなのです。

さてさて、最初の問題に向かい合いましょう。馬鹿な子ほどかわいいということわざの真実性です。もはや小さくて弱いとは言えなくなった年齢の子どもであっても、親として子どものために手をかける余地が大きいというのであれば、親は子どものために、我が身を削っても役に立とうとするわけです。自分が先に死ぬわけですから、死んだ後のことまでも考えてしまうのも当然です。大事にして、何とか傷つかず、楽しく生きていてほしいというのが、多くの親の願いなのではないでしょうか。そして自分が子どもの役に立ったと思えば、満足もするし、喜ぶわけです。生きがいと言ってもよいと思います。

馬鹿な子ほどかわいい。このことわざは、人間という動物の特徴を端的に、象徴的に表していると私は思います。

蛇足
可愛い子には旅をさせよということわざもありますね。かわいいと親が感じれば、なんでも親がしたがりますから、子どもがなかなか自立することができません。旅に出して、親の庇護を離れて、他人の恩義を受けながら育つことで、子どもは自立していくことができるようになるということなのかもしれませんね。

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家族問題に警察の介入の余地を広げることに反対する。警察は家族紛争の調整機関ではない 紛争の断面だけが評価の対象となる。 [弁護士会 民主主義 人権]

警察を目の敵にしているわけではなく、職務として対応する場合、それぞれの職務内容にふさわしい発想で対応してしまう傾向になるということです。今進められている警察の家族への介入の拡大は家族と国家という観点からすると、デメリットが大きいという理由で反対するわけです。

現在、家族の問題に対して、警察の介入が拡大されようとしています。大きいところでは、夫婦問題と親子問題です。

夫婦問題というのは、いわゆるDV保護の強化ということで、これまでは身体的暴力があった場合にだけ警察が家庭に介入することが許されるという法律を、身体的暴力がなく精神的虐待があるだけでも警察介入を導入するという動きです。親子問題については、前回の記事で書いたとおり、虐待されている子どもがいる場合、警察が介入して子どもを保護するということです。

これだけ言えば、DVや虐待を警察が防止するのだから結構なことではないかと考えてしまうことは当然です。介入拡大を推進する人たちはここだけを強調します。そうして、法拡大の世論が形成されていけば、私のようにそれに反対する者は、批判の的になってしまいます。もっとも私の意見が広まればの話です。おそらく、リアルな予想としては一顧だにされないというところでしょうか。

<言葉のマジックの落とし穴>


この落とし穴のポイントは、言葉のマジックです。
例えば「DV」防止というと、具体的には何が起きているかもわからないのに、聞く者のイメージとしては、酔っぱらって毎日のように理由もなく妻を殴って妻の体中をあざだらけにする夫とか、会計が10円合わないだけで夜通し家中を探させる夫、些細な失敗で何時間も妻を正座をさせて説教する夫などが思い浮かぶことと思います。しかし、DVを理由として離婚調停が申し立てられますが、そのような典型的なDVというのは、まずお目にかかることはありません。私が弁護士になってから30年近くたちますが、そのような夫の身体的暴力があった事案は記憶にありません。身体的接触がある典型的なケースは、精神的に不安定な妻が、はだしのまま家を飛び出そうとしたのを心配してとどめようとして夫が身を挺して止める場合です。裁判などで妻がする主張は、どうして夫が妻を止めたのかということについては一切触れず、ぶつかって床に倒れたというところだけを主張してDVだというわけです。「どうして自分が床に倒れていたかわからない」ということを正直に書いている妻の書面もあります。どうも曖昧な記憶のまま、DVを主張していることが多いように感じます。
確かに間接的な暴力が存在することがあります。妻の言動に対して腹を立てて、ゴミ箱等をけるとかそういうことはこれまでの事例でありました。ところが、これが、裁判では、小さい子どもの近くにめがけてゴミ箱を投げつけてきたとして主張するのです。かというと、夫から殴られた事案でも、それがDVだとは認識できない女性も多くいます。その一度の暴力が徐々に夫婦間の緊張を高めて離婚に至るのですが、そのことを覚えていないというケースです。これは、私が控訴審で妻の代理人になり、暴力の影響について丹念に説明をして、1審敗訴事案がひっくり返ったことがありました。
つまり、DV事例には典型的な執拗な暴力という事例はほとんどなく、それがDVに当たるか否かよくわからないという事例と、実は精神的に深刻な影響が生じる暴力なのにDVの自覚がない事例、そして、離婚を有利に進めるための虚偽DVがあるのです。

これまで、身体的暴力という条件を課していたため、警察の過剰介入を制限する建前がありました。身体的暴力が夫婦間で行われた場合は、暴行罪や傷害罪に該当しますから、当然に刑法犯ですから、警察の介入が元も予定されています。刑法犯の被害者保護のバリエーションということで、犯罪として立件するだけではない柔軟な対応を可能とするという意味では、現行のDV法はある程度合理性のある規定でした。

<警察の行為の逸脱と思われる事例>

しかし、それでも私が相談を受けた警察の介入には、逸脱だと思われる事例も多くあります。
妻も暴力があると主張していない事例で、身体的暴力がある場合に限定された警察施設を利用させた被害防止交渉をさせて、夫が預かる合意があった子供を警察の圧力で妻に引き渡させた事例。精神的に不安定な妻が、包丁を持ち出して暴れていたので、夫が110番をしたら、警察は妻を保護し、子どもまで連れて行ってしまったので、半年ほど子どもが母親によって監禁されて、行方不明となり、ようやく子どもが自力で交番に逃げ込んで父親のもとに帰れた事例。やはり精神的に不安定で、二つの精神科をはしごして向精神薬を入手していた妻が、まったく虚偽の事実で相談にいったところ、警察官は「夫から殺されるから、早く逃げ出せ」と妻に申し向け、妻は驚いて警察官の説得に抵抗したところ、2時間説得して逃げ出させた事例。この事例では、妻は別居に際して限度枠いっぱいでカードキャッシングをしていました。どの事例も、裁判所で妻の主張は認められていません。DVは、警察以外では認められていないのです。
その他にも、離婚して何年かして、家族で住んでいた家を売却することになったのでその案内と転居先の案内の通知に、事務的に「お近くにおいでの際にはお立ち寄りください」と書いたら、ストーカー警告がなされた事例。突然、妻が子どもを連れて出て行ったので、妻の実家に行ってみたら、実家付近で警察官に取り囲まれて、警察署に連行され、「今後は妻に暴力を振るいません」という誓約書を書くまで返さないと言われた事例。この警察官に、現行のDV法を説明したところ、「DVとは身体的暴力だけではないのです。」と悪びれることもなく、法律を知らないことを自白していました。研修で教わったそうですが、自分の行動の根拠となる法律こそ研修を受けるべきだと思いました。やはり妻が子どもを連れて出て行ったので、親戚に相談しに行ったところ、妻の出ていった先が隣の町内という結構近いところだったということから、ストーカー規制法の警告を受けた事例。保護命令も出ていないのに、ストーカー警告がなされるという事例は多くあります。ストーカー警告の予告を出されるという自由な法執行もありました。

まとめますと、「警察は、女性が被害を訴えると事実を吟味せずに警察官の立場を生かして女性保護を図ろうとする。」ということになると思います。

この理由については、男女参画局として、女性保護案件数を増やすことが行政的な使命となっていることもさることながら、もっと本質的な理由があることを見逃してはいけません。

第1に、警察官は正義感が強く、被害者保護を第1に考えること
第2に、そもそも真実がどこにあるかは、捜査を開始してから探し出すという職業であり、ファーストアタックにおいては、被害防止が最優先となるため真実性の吟味は最小限にとどまる職務内容。
ということを重視するべきです。

<最初の接触が先入観を与えやすい職業であること>

警察官は、通報があって当事者に初めて接するわけですが、通常は被害を主張する妻とだけコンタクトを取ります。「夫が追いかけてきて暴力をふるう恐れがある。私の身の安全を確保してください。」というような感じです。夫婦喧嘩だろうということで取り合わないわけにはいきませんから、現場に行くわけです。一人で行くことは危険である可能性があるから複数人で行くわけですが、用心のために10名程度が現場に駆け付けることが多いようです。警察官も生身の人間ですから、自分の身を守るという意識は当然なければなりません。緊張と警戒をもって現場に到着するわけです。そこにわれらの夫が妻の言う通りやってくるわけです。夫は心配で、ともかくも無事を確認したくてやってくるわけです。日中の仕事で疲れて帰ったら、何も連絡もなく妻と幼い子どもが消えているからかなり動揺しています。動揺して、目が血走っている男を見て、警察官は緊張を高めるわけです。警察官に大勢で取り囲まれてそれでも暴力的抵抗をする人間はほとんどいませんから、大勢で取り囲むわけです。夫は、どうして警察が自分を取り囲むか理解できません。通常それはそうでしょう。まさか妻が自分が来るから危険が生じていると警察に通報しているとは思いません。取り囲まれても、家族の安否が心配なので、実家に行こうとするわけです。すると、警察官から夫を見た場合どういう風に映るでしょうか。「この男は、これだけ警察官に取り囲まれてもなお抵抗をしようとするのか。」と映り、警戒を強めます。また、妻や自分たちを守ろうという気持ちが起きます。身体生命に対する危機感です。身体生命に対する危機感が生じた場合に動物の行動は二者択一的になります。「逃げるか戦うか」です。言うまでもなく警察官には丸腰の男一人に対して逃げるという選択肢はありませんから、攻撃的アプローチが発動されてしまいます。その時の感情は「怒り」です。ただただ、夫を妻に近づけないという任務を怒りをもって遂行するだけの行動になるわけです。
こうしたファーストアタックの段階で、妻は守るべき弱い者、夫はこちらの身の安全を脅かす駆逐する対象となっているわけです。そうなれば、正義感はもっぱら被害を訴え、困っているか弱き妻を保護する方向で働き、夫に対してはDV男で妻から隔離する対象という方向で働く定めにあるわけです。警察がDV案件に公平中立でかかわるということは土台不可能なことです。
明らかに先入観を抱いて、その後の対応をするわけです。
被害防止交渉として、警察の会議室に夫を呼び寄せて、やってもいない暴行等について夫を説得すれば、説得される夫は委縮して従うしかありません。夫婦の話し合いではなく、実質的に、客観的に、警察の威力で夫を従わせようとしていることがリアルなものの見方でしょう。
その時になっても警察は、犯罪が認められない夫婦関係がどうしてこじれたかということについて、聞き出す知識も経験もありません。先入観が維持されれば、弱い女性を保護する、すなわち弱い女性の言い分を前提に行動するしかないのです。弱い者を守るという素朴すぎる正義感は、継続的な人間関係である夫婦の機微に適切に対応することは不可能です。ところが、警察という威力を背景に事が進んでいきます。夫婦間で夫が子どもを養育するという合意があったとしても、その場で子どもを妻に引き渡すという合意をさせられて、子どもを渡したきり会えなくなるということが実際に起きていることです。警察は、子どもは母親が育てるもの、母親が子どもを育てるといったならそれはかなえるべきだという素朴なジェンダーバイアスがかかった見方をするわけです。しかしその威力はすさまじく、波の一般人は抵抗することはできません。いったい何人の親が、警察を通じて子どもと会えなくなったことでしょう。
本来親の監護権については、当事者の合意が整わない場合、家庭裁判所の判断によらなくてはなりません。しかし、現行法下において、既に身体的暴力が認められない場合でも子どもは警察の素朴な感じ方によって母親に連れ去られているわけです。児童保護のケースもそうですが、子どもが親から強制的に分離される場合に、実質的に裁判所が関与しないのは日本だけではないでしょうか。国際的批判を浴びているところですが、あまり報道もなされません。この結果子どもが同居親から虐待を受けていたり、同居親の交際相手から虐待を受けていることこそ問題なのです。
裁判所は、両当事者に公平に、申立書と答弁書など両当事者の意見を聞いて、子どもの心理や行動科学精通した調査官が調査を行って子の監護について判断する建前を持っていますが、警察にはそのような建前すら初めから用意されていないのです。

<ある一断面だけで、夫婦関係を評価してしまうこと>

どうしても警察がこのような対応をしてしまうのは、経過のある夫婦の人間関係のある断面だけを見ているという理由もあります。それは被害を受けた妻を見ているというのは不正確で、被害を受けたように精神的にダメージを受けている妻だけを見ているということにあります。大人が一人、とても不安な様子を見せていて、精神的に消耗しているようだ。これには理由があるはずだ。誰かが、妻を子のようになるまで攻撃していたに違いない。DVがあったに違いない。原因がなければ結果はない。というこれまた素朴な感想のもと事実を決めつけてしまうようです。だから、統合失調症で包丁を持って暴れた妻の方を保護するわけですし、子どもがけがをしていれば、父親の児童虐待があったはずだということになるわけです。乳児の脳挫傷があればゆすぶられ症候群があったはずだという論理です。しかし、私が「思い込みDV」となずけたように、疾患によって、不安が増大し、収拾がつかなくなる情勢はとても多くいます。その不安や焦燥感について、何も根拠がないのに夫のDVがあると妻を説得する警察、役所の相談員は事欠きません。事実関係を吟味しないのです。少し常識的な考えで話を聞けば、不合理な事実関係があることは本来すぐにわかるのですが、素朴な正義感がそれを邪魔するわけです。

<警察庁自身の立場は私と同じであること>

このように、警察が家族の問題に介入すると、家族が崩壊する方向にしか進まなくなります。これは、警察官が横暴だというわけではなく、そういう職業だということなのです。むしろ、素朴な正義感が家族調整には邪魔なものだということなのでしょう。これは、私が警察官を低く評価していっていることではありません。警察自身が言っていることです。インターネットで検索できると思いますが、平成25年12月20日付、警察庁生活安全局長、警察庁長官官房長、警察庁刑事局長連名の通達において、身体的暴力があったときでなければ、警察が家族紛争に介入してはならないことについて、「精神的暴力や性的暴力は犯罪に該当しない行為を幅広く含むものであるため、警察がこれに実効ある措置をとることは困難であり、他方、警察による配偶者間の問題に対する過度の関与となり、その職務の範囲を超える恐れがあると考えられるためである。」と全く正しい認識を示しているのです。

さて、現在、国の方では、身体的暴力がない場合でも警察の関与を拡大しようとする動きがあるようです。これらの警察の能力の限界が変わる何らかの事情があるのでしょうか。ないとするならば、どうして拡大することのデメリットを防止するつもりなのでしょうか。


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懲戒権の廃止、体罰禁止に反対する。親権と懲戒権の本当の関係。そして国民が警戒しなければならない改正の本当のデメリット。 [弁護士会 民主主義 人権]

国の機関である法制審議会で、民法の懲戒権規定を削除し、体罰禁止規定を設けるという動きがあるそうです。私はこの動きに反対します。懲戒権の規定は残し、体罰を禁止するべきではないという意見です。

法改正の理由は、子を虐待した親が、「虐待ではなくしつけだ。」という言い訳をするから、懲戒権規定を削除し、体罰を明文で禁止ししなくてはならないというのだそうです。

これだけ聞けば、「虐待は禁止されるべきだ。虐待につながる体罰は禁止されるべきだ。虐待が減るなら懲戒権なんてわけのわからないものはいらない。」とつい反応してしまうことは当然かもしれません。法改正の動きに反対する私に対しては、「虐待を肯定するのか」という怒りの反応もあるかもしれません。反対することがはばかられるような空気もあると感じています。しかし、私のひねくれた感性は、この法改正の動きは誤った方向への大衆扇動ではないかと反射的に警戒心がわくのです。その心を少し分析していきます。

まず、「しつけのつもりだった」という虐待親の言い訳が、民法の懲戒権規定と何か関係があるかのか皆目見当がつかず、関係はないと考えるべきではないかと思うのです。子を虐待する親は、反射的に、感情に任せて攻撃しているのではないでしょうか。面白がって、虐待して動画をアップしているのではないでしょうか。少なくともこういう虐待を徹底してなくすべきです。乳児を虐待する動画をアップして笑っている人間が「しつけのつもりだった。」と言っても、無視をすればよいだけだと思います。

いったいどの虐待事例が、しつけのつもりで行ったのに虐待となったのか、審議会は説明するべきです。「虐待をするつもりではなく、しつけをするつもりだった」というたくさんある虐待親の言い訳のうちの、どの事案はその発言が真実だというのでしょうか。「ああ、そうだね、虐待するつもりではなかったのだよね。」という事実認定が行われなければ、「懲戒権があるから虐待を正当化してしまう」という理屈は出てきません。でもそんなこと考えて虐待する親なんていないと思います。そんな言い訳を肯定した上に立った法改正が行われるということになりますが、とても説得力はないと思います。少なくとも懲戒権を廃止することは、虐待防止以外の目的があることを隠しているのではないかと疑う必要性があると思います。

そもそも、懲戒規定が民法で親権者に認められているということについて、どれだけ多くの虐待をした親たちは知っていたのでしょうか。弁護士の私ですら、懲戒権という規定は実務にあまり出てこないということもあり、そんな規定があることすら忘れていました。虐待をした親が、「民法には懲戒権があるな。よし、これを行使することとしよう。少し厳しくなりすぎても懲戒権が規定されているから自分の行為は正当だ。」と考えているというのでしょうか。あまりにもばかばかしい妄想です。初めから懲戒権を敵視していて、虐待事例を都合よく使っているという印象しかありません。

私の、虐待は感情的に行われる、あるいはしつけとは無関係に行われるという第1の結論、虐待親は民法の懲戒権を意識して虐待をしているわけではないという第2の結論が正しければ、懲戒権規定を削除したところで、虐待は減らないということになります。特に、感情的な虐待や、SNSで動画をアップする虐待は懲戒権規定とは全くの無関係だから、そのような虐待の数は減らないでしょう。

さて、法制審議会が敵視する懲戒権は、どのような経緯で民法に定められたのでしょうか。どうして、親権者が懲戒権を有すると定められたのでしょうか。
日本には、明治以来3つの民法が制定されました。当初の民法を明治民法ということとしますが、この中では親の子に対する教育義務が定められています。この明治民法は、日本の風土になじまないということで、間もなく改正されます。改正された新しい民法を旧民法と言いましょう。そして戦後に改正がなされて現在の民法があるということになります。旧民法で、親権者を定め、親権の内容として、法定代理権、監護権、懲戒権を規定し、現在の民法が引き継ぎました。
大事なことは、旧民法において、親権の内容として、懲戒権を定めたのはどうしてかということをきちんと理解することです。

現在の無学な人たちは、旧民法は封建的な内容であり、親権とは親の子を支配する権利だと決めつける人が多いのです。はなはだしい間違いとして、戸主の権利だという人までいます。これは完全に間違っています。実に嘆かわしい。旧民法は、現代と異なり、政治家が作ったというよりも、法律家が意見を述べて作っていったという時代です。国会の議事録だけでなく、学会の議論の様子からも立法理由を知る手掛かりになります。

まず、親権をだれに帰属させるかということについて、一応議論はなされているようです。考えられるのは天皇(国家機関としての天皇)、戸主、親の3つの主体に親権を帰属させる可能性があったわけです。封建制度であれば、領主に親権を持たせるという可能性もあったわけですから、明治時代は天皇にという法的技術を使うということはあり得たのではないでしょうか。実際の議論では、天皇に親権を抽象的に与えて誰かが代理するという議論は全くなく、圧倒的多数は親に親権を与えるという考えでした。ここで旧民法が父親としたのは、女性に権利能力がないという規定だったために、母親が法定代理権を行使することが難しいという封建的男女差別があったからです。戸主に親権を与えるべきだという少数説がなかったわけではありません。ここで戸主ということを夫と誤解している人がいるのですが、戸主がトップに立つ「家」というのは、血縁を通じた何家族かまとまった家族のユニットでした。ユニットと言っても戸籍上まとまっているだけで、別々に住んでいたわけです。だから、旧民法下では、上京してきた夫婦に子どもが生まれても、なかなか戸主のいる親の実家の役所に届け出ることができず、実際の生まれた日から戸籍上の誕生日がだいぶ遅れた日になっているということが当たり前のようにありました。夫であっても戸主ではない男たちはたくさんいたわけです。ここ大事だと思います。それでも、戸主という概念を国が作りましたから、親権も戸主がもち、戸主の指導で親が行使するということは考えられたようです。それでも圧倒的多数の学者は、親が持つべきだと考えました。

多くの学者が親権者を親と定められるべきだと考えたのは、親権というものは、親が子を支配する権利ではなく、子どもを健全に成長させる親の義務という感覚だったようです。明治民法でさえ、教育義務を明記しています(ここは、父親と母親の双方に義務を課しています。)。子どもを健全に成長させるために必要な権能として、親権が認められたという流れになります。変な契約によって子どもが不利な債務を負わないためなどの法定代理権、子どもが健やかに育つために適切な住居を与えて、適切なかかわりをするという監護権、子どもが間違ったことを行って、生命身体の危険が発生することを防止したりや社会的に致命的な状態にならないように懲戒権が認められたということなのです。親権はこのような子どもの健全な成長を図るための権能ですから、自然な愛情を持つ親が親権を持つことが必要であり、親こそが最もよく親権を行使できるだろうという考えからでした。子どもがあったこともない戸主に親権を与えるのは理由がないということで、親が親権を有するということになりました。

これに対して、親権は親の支配権だと主張した学者がいないわけではありませんが、一人だけだったようです。どうして、そのような考えがあったのかについては興味があります。というのも、法律は、有象無象のあらゆることを解決する基準を簡潔な言葉で定めているわけです。無駄な条文は法律とならないわけです。子の支配権をだれが持つかを明らかにする必要がなければ支配権の定めを法律で定める必要はないはずです。支配権だと主張した学者は、それを明確に定める必要があると考えたのだということになります。そうだとすると、国でも戸主でもなく、親が子を支配するということを明確にするべきだという結論になることになります。そうだとすると、子どもからすれば支配されることになるのかもしれませんが、法的には、国家や戸主から親が独立して子どもにかかわることを正面から認めたという自由権的な発想だったのかもしれません。

明治の学者たちと同じく「親権とは親が子どもを健全に成長させるための権能だ」と考えた場合、おのずと懲戒権の内容は制限されます。
一つは、その懲戒権の行使で、子どもの身体生命の危険が発生する行為は、懲戒権の行使として認められないということになります。命が失われるような持続的な食事制限、暴力は子どもの健全な成長とは矛盾しますので認められません。手術をすれば命が助かるのに、それをさせないという場合も認められないでしょう。社会的に致命的な状態になるような、子の進学を理由なく許可をしない行為とか、職業訓練の妨害など収入を得る道を妨害する行為などが該当すると思われます。そして、実際に、現行法でも、こういうような行為は、裁判所でも同じように扱われて、親権の停止が決定されています。
乳幼児が泣き止まないということを懲戒しても健全な成長とは関係がないので、そのことを理由にした叱責や暴力も親権の行使でも、懲戒権の行使でもありません。

このような懲戒ではなく、子どもが間違った道に進むような場合や、命の危険のあるような行為をやめさせるための懲戒や体罰については、誰かがやらなければならないことだと私は思います。どういう場合にそれをやめさせるべきだと判断することはやはり親が一番ふさわしいと私は思います。

騙されて暴力団に加入を勧められて心が動いているという場合、一定期間通信手段や移動手段を奪い、家に拘束することは、懲戒ないし体罰に当たりかねませんが、私なら虐待だと言われてもそれをするでしょう。

実際にあったケースでは、自宅近所に沼があり、沼に落ちての死亡事故も多数あるために、沼に近づかないように言っていた。しかし、小学校低学年の男子の子が友達と遊んでいるうちに、うっかり沼に近づいて、そこで暗くなるまで遊んでいた。母親が探しに行ったらそこにいるのを発見しました。このため母親が、自宅で、自分も正座して、子どもも正座させて、腕を出させて、しっぺのような体罰を与えたという例がありました。この母親が外国人で、夫と離婚したシングルマザーで、地域から孤立していたということがありました。自分の国では、当たり前の懲戒なので、子どものために迷わず体罰をしました。そうしたところ、児童相談所がやってきて、子どもを保護するという事態になってしまったのです。

うまく子どもを説諭して、子どもに危険に近づかせないようにできればよいでしょう。しかし、それがうまくいく大人だけではないことは、自分を振り返ってもそう思います。まして、命の危険のある行為が行われた場合、驚いて、あるいは心配のあまり、頭が真っ白になってしまい、うまく言葉でいうことができない場合があると思います。懲戒や体罰をしないで済む親もいるでしょうけれど、そうしなければ命の危険を防ぐことができない親もいるのです。そんな親から懲戒や体罰を奪ったら、誰が子どもを命の危険から守るのでしょう。

子どももの方も同様です。沼に近づいたところで、あるいはちょっと足を入れたところで直ちに命の危険が生じることはありません。そのため、子どもは近づくこと、ちょっと水をいじることは「危険ではないと学習してしまう」のです。でも、足を滑られせたり、転んだり、勢いがついて沼の比較的奥の方に落ちてしまうと、何かに足がからまったり、心臓マヒを起こしたりして、死亡するわけです。でも安全学習しているので、危険だとは思わなくなっている。そうすると親から体罰を受けるから、大目玉を食らうから近づかないということも、年齢が低い場合は特に有効な命を守る手段となると思います。子どもを守ることはきれいごとではありません。
どこまでが許される懲戒か、どこまでが許される体罰かということは、線引きが難しいかもしれません。だからこそ、親にある程度の裁量を与え、各家庭で両親が話し合って決めるべきことだと思います。
世の中には、立派な親、立派な子どもばかりがいるわけではないのです。これは、親としての自分、子どもの頃の自分を振り返れば、強くそう思うのです。

親から懲戒権を奪い、体罰を禁止することを全国画一的に決めてしまうことが恐ろしいと私は思うのです。これでは、自由権的意味の親の子に対する支配権も奪われてしまう危険があるのではないでしょうか。つまり、国家によって、子どもが支配されてしまう危険があるということです。国家や自治体の気まぐれのようなその場の判断、偏見に満ちた先入観で、子どもを親から隔離してしまうということが、頻繁に起きる危険があるということです。

懲戒権を削除するという考えの人たちも、しつけを言い訳に虐待する人たちが民法の規定を正確に把握して、これを虐待の言い訳にしていると本気で考えているわけではないと思います。社会常識として「親が子どもをしつけるものだ」ということが、民法の懲戒権規定と何らかの関連があるというくらいの話だと思います。私はそれさえなく、民法の懲戒権は虐待の動機とはほとんど無関係だという立場です。この人たちの考えが仮に少しは的を射ているというならば、懲戒権を削除することによって、「親が子どもをしつけるものだ」という社会常識さえも否定しようと考えていることになり、それを狙っているということにはならないでしょうか。虐待をした親たちが、虐待の言い訳に「しつけ」を語ったばっかりに、親がしつけをすることさえも否定してしまう風潮を作る効果を期待しているように思えてなりません。私は、端的にすり替えであり、懲戒権を削除する理由としては成立していないと思います。
こういう人たちは、「子どもは親から独立した独自の権利主体である。」ということをよく言いますが、そのことと親から分離することは全く違います。子どもは発達する時期の人間であり、発達のためには適切な親のかかわりが不可欠です。親から独立させることが子どもの権利ではありません。親から引き離されないことが子どもの権利条約の内容なのです。

推進者たちの本音を以下のように考えると理解ができるのです。
つまり、今回の法改正は、もともと親による虐待そのものをダイレクトに減らすための削除ではないということです。児童相談所や警察が、家庭に入りやすくするための口実なのだということです。もっとも、児童相談所や警察が家庭に入って、虐待されている子どもを保護しやすくして、間接的に虐待を減らすということを狙っているのではないかということです。しかし、そうあからさまに言うと、リベラルを標榜する人たちからの反発が来る。このため、「児童虐待防止」ということを前面に掲げることによって反対することができない風潮を作ることができる。最近あった虐待事件を感情的な意味で大いに利用できる。そういう押し出しをしても嘘をついているわけではないということなのではないかと疑っているわけです。
しかし、警察や児童相談所という強い権限を持つ組織が家庭に入ると、そこには強い効果が生まれてしまいます。なるほど、虐待から命を救う案件も出てくるかもしれませんが、本来家庭に入るべきではない事案で公権力が家庭に入っていき、親子分離をして、子どもの将来に悪影響が及ぶ事例も必ず出てきます。

なぜ、公権力が介入しやすくなるかというと、警察の場合、刑事事件がないと捜査という形で市民生活に介入することができません。傷害が起これば、傷害罪や暴行罪ということで捜査介入できそうですが、そこに懲戒権の行使という「正当事由」が認められれば、実際は警察の捜査はやりにくくなります。児童相談所も、親権の行使と言われて声高に叫ばれると、子どもの保護はやりにくくなります。これに対して懲戒権規定が削除されると、刑事的な正当事由を言い出しにくくなり、体罰はすべて禁止ということになると、家庭に介入しやすくなる。こういう流れです。

しかし、実際に児童相談所が介入しないケースは、親からの反発を恐れてのことであり、法律を解釈しているわけではありません。また介入するケースは、親が孤立しているケースが多いように思います。親が外国人の場合、親が一人の場合、親が何らかの疾患を患っている場合、親が被災者の場合もありました。また、親が生活保護を受けている場合ということが圧倒的に多いような実感もあります。つまり、介入しても返り血を浴びにくいケースです。

実際の法改正の効果は、事実上親の反発が面倒な事例の介入を促進させることはしないでしょう。ますます、孤立している親から子どもを隔離するという事例が増えていくだけだと思います。最悪のケースは、抵抗する親を警察を使って拘束して、そのすきに子どもを保護するというケースです。保護の必要性があるケースならばよいのですが、そうでもないケースだからこそ親が抵抗するのだと考えた場合、冤罪保護事例は増加する危険があります。

現に、現在でもいわゆるDV法で、妻が夫の手を振り払って、夫の爪が肌に当たりけがをしたというケースでさえも、警察は立件するようになっています。警察の家庭への介入は加速度的に増えています。奇妙なことに、今回、懲戒権を廃止し、体罰を禁止しようと行動している人たちは、夫婦間でも同じような立場の人が多いように感じます。家庭の問題は警察の力で解決しようという立場です。

法律や政策には、完璧な政策、つまり、万人にメリットがあり、デメリットがないという政策はありません。だから、法律を議論する場合は、必ず両者を国民に提示して、国民がどちらを選択するかを決められる建前を作らなければなりません。日本は、政治過程や立法過程において、このメリットとデメリットが提示されないことが通常の状態になっています。いわゆる賛成か反対かだけで、賛成者は必要性や有効性ばかり声高に主張し、反対者はデメリットだけを強調するという形です。今回も法改正推進者は良いことばかりを言っているようです。
今回の改正は、家庭に中に児童相談所や警察が入ってきやすくするという効果が起きる場合は、そのデメリットを心配して法案を警戒することが、民主主義の発達している国のやり方です。二大政党制となっている国では、政権交代が容易に起こるという特徴から、一方が政権をとっている場合は、他方はリベラル的観点から反体制派として政権を批判します。そうして民主主義の土台である、「国家からの自由」を維持しようとするわけです。ところがわが国では、政権交代を目指している野党がほとんどないため、このようなリベラルの視点に立って、法案を警戒する政党が無いようです。どこからも法改正反対の意見は聞こえてきません。反体制という視点を民主主義の要素とみておらず、犯罪の一種だと野党自身が考えているということなのでしょう。民主主義や人権の観点では日本は後進国のようです。

我が国のリベラルを自称している人たちが、警察の家庭介入を、様々な場面で促進している始末です。デメリットがあることを決して明らかにはしません。実は日本の戦争も、米英の日本に対する不利益取り扱いばかりを強調し、戦争開始に反対できない素地を作って、論理を飛び越えて戦争開始の世論を形成していったという側面が色濃くあるわけです。今回も虐待防止を大義名分として、誰も反対できないような空気を作り、虐待防止との関連が良くわからない法改正がなされようとしています。戦争遂行と同じような国家意思の形成に誰も疑問を呈することができないような状況となっているように感じます。これは明らかな大衆扇動の一種です。

私は、今回の法改正のメリットが考えにくく、デメリットは確実にあると思いますので、懲戒権の削除にも、体罰の禁止条項の創設にも反対する次第です。




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愛しているから別離を選ぶ?精神症状を伴う疾患ないし体調不良から離婚に至る過程のサンプル 解決のヒントは、あなたの態度を改め余から私たちの状態を改善しように変えること [家事]

典型的な事案10数件をもとにした仮想事例を作って深堀りしてみます。
<事案>
子どもは3歳。双方30代後半の夫婦。夫はサラリーマン。妻は結婚後も働いていたが、出産に伴い退職。出産後は育児に専念していた専業主婦。
妻は、ある内科の病気にかかっている。症状としては、良いときと悪いときの波が大きくあるが、悪いときは、疲れやすい、意欲が低下している、理由なく気分が落ち込む等。この症状のため、前にはできていた家事がどうしてもきちんとできない。見た目からは妻に病気があることがわからないため、周囲はこの苦しみを理解できない。妻本人も、それが病気のせいだということを十分に自覚していない。
妻は、いろいろなことができなくなったことから自分に落胆している。日中働いている夫から家事のことでいろいろ言われるのではないかということを始終おびえるようになる。夫は、本当は、あまり人を批判するような性格ではないが、やや細かいところがある。常識的範囲で、日中家にいるのに家事がゆき届かないことに疑問を述べることもある。
妻は自分の体調についてうまく説明できない。このため、夫の悪意のない指摘に過敏に反応してしまう。夫が何か批判めいたことを言い出そうとすると、大きな声を出して先制攻撃をするようになる。夫は、妻がどうして不機嫌なのか、何がきっかけで自分に攻撃的になるのかわからず、困惑している。理不尽だと思い始めている。時に理不尽に耐えかねず、どうして自分を攻撃するのかというポイントで怒りだすことがあった。妻もますますエキサイトしていった。
そのうち妻は、夫が夜勤の時などに子どもを連れて、車で1時間ほどの距離の実家に泊まりに行くようになる。家事をやらなくてよいということと、夫から文句を言われることを、一緒にいる時間を少なくすることによって少なくしようとしたようだ。但し、意識としては、実家にいるほうが楽だから、わがまま言えるからというくらいかもしれない。夫は、夜勤明けの週末だけ妻の実家に行って家族3人の時間をすごす状態になっていた。妻の実家に親子3人で居住することは様々な事情で不可能だった。
3人が自宅で時間を過ごすこともあったが、妻は、夫が口を開くと、自分が家事をできないことを批判するのではないかと戦々恐々としていた。些細な行動も、自分に対する批判であると受け止める傾向が出てきた。夫から具体的に何かを言われる前に、夫に対して先制攻撃的に感情的言動をすることも頻繁になってきた。
夫からすると、それでも毎回怒るということはしなかった。しかし、何回かに一度怒るときは、どうして家にいないのか、どうして家事をしないのか、どうしてすぐに怒って大声を出すのかというこれまでに蓄積していた不満を合わせて述べるようになっていた。様々な妻の行動が、自分を馬鹿にして行っているのではないか、自分を嫌っていて自分と一緒にいることが苦痛で、嫌悪行動をしているのではないかと感じるようになる。妻が、買い物に行くのもおっくうで、食事もあまりにも貧弱なものしか作らなくなり、そのことを夫が指摘しようとしたとき、敏感にそれを察して妻の防衛感情が爆発して、夫も日ごろの不満が爆発して、収拾がつかなくなり、別居に至った。
別居に至るまでの間、妻の調子が良いときに、家族で楽しく外食をしたり、旅行に行くこともあった。妻なりに、子どもと一緒に楽しく過ごすことは必要だと考えて努力していたということもあった。それでも努力がどうしてもできないこともあった。それは妻も自覚していた。たまには頑張ろうと遠出のドライブを計画したこともあった。本当は家で寝ていたかったが、そうもいかないと思い、近場に変更するならと、ドライブに応じた。しかし、夫も子どもも自分の努力を評価することはなく、遠出から近場に変更することに不満そうだった。
別居の原因となった調理の際も、本当は、記念するべき日でもあったので、凝った料理をして、夫を驚かそうと当初は思っていた。頑張って段取りを考えていた。段取りを実行に移そうとした際に、思考のエネルギーが切れたように意欲が失われていき、結局家にあったレトルト食品を出すしかなかった。自分でも、それでは夫も怒るだろうなと思っていたので、夫の帰宅が怖かった。そうしたら案の定、夫は食卓を見たとたん口数が減って、眉間にしわが寄ったように見えた。「言われる」という感覚が稲妻のように頭にとどろいた。その瞬間、自分は大声を出していた。大声を出しながら、「もう駄目だ。元に戻ることはないだろう。」というあきらめた感情がわいてきた。興奮状態は変わらないが、張り詰めた気持ちが切れてしまった。

<解説>

1 医師。医学の問題

これはあくまでも病気が原因の事例です。精神疾患ではなくとも、病気が原因で、精神症状が現れることは少なくありません。私が担当した事例で、診断書がある事例だけでも結構な事例に上ります。しかし、その病気と夫婦仲が悪くなったことの関連性に気が付いていない当事者がほとんどです。
 私は、これは医師の問題、あるいは現代日本の医学の問題があるように思われます。もし、医師が、病気がメンタルに影響を与えて、結婚生活に支障が出る可能性があるということを患者さんに告げていたら、だいぶ様相が変わることだろうと思います。あらかじめわかっていたら、自分で気を付けることもできますし、家族に援助を申し出る可能性だって広がるわけです。患者のメンタルへの影響だけでなく、その患者の症状によって家族のメンタルも影響が生じてしまうということも研究して、家族にも病気に対する説明が行われていれば、この事例の夫ならば、もっともっと配慮することができたでしょう。ところが、実際の事例では、家族どころか、本人に対しても病気のメンタルに対する影響を十分説明がなされていなかったことがほとんどでした。少なくとも本人は、病気と自分の行動、メンタルの関連性を知りませんでした。

2 妻の不幸の原因にまじめすぎることがある。夫に対する愛情をかけすぎていることがある。

本事例の妻は、夫からの現実の批判によって追い込まれたというよりも、自分で自分に対して高い最低ラインを引いて、これに到達しなかったということで自分を追い込んでいます。「妻たるものこうでなくては失格だ。」、「夫は外で働いて苦労しているのだから、自分が家の中のことをきちんとしなくては、自分の存在価値がない。」というように、夫婦の関係を維持するための「資格」みたいなことを考えているようです。そしてそれができないと、「夫から自分が否定的に評価されるだろう」という不安を抱くようになるようです。これが自分の体調によって、できないことが続くうちに、夫からの否定評価の不安も続いていくようです。その妻の考えの根本には「夫と子どもと自分が尊重されながら暮らし続けたい。」という要求があり、これができなくなるのではないかという予想をしてしまうから不安になるのだと思います。本当は家族を維持したいのに、それが強すぎて逆に不安になっているわけです。そして愛する人にあれもしてあげたい、これもしてあげたいという優しい気持ちが、あれもできない、これもできないと自分を苦しめているわけです。こういう不安が持続してしまうと、人間は不安から逃れるということが第一希望になってしまうようです。「いつまでも夫の否定評価の不安を感じ続けたくない」という気持ちが強くなって、「もうこの関係から抜けたい」という方法論に飛びついてしまっているように私には見えてしまいます。「いつまでも仲良くしていたいから、逃げ出したくなる。」という痛ましいお気持ちを見ることが多くあります。
実際に、裁判資料などで妻の日記などが出てくることがあるのですが、そこには、自分と夫だけがわかる記載があるのです。妻の代理人にそんなことは説明しないから、代理人はその意味も分からず、証拠として出してしまうんですね。その記載からすると、妻がどんなに夫のことを好きで、一緒にいたいかということが良くわかるんです。「ああ、この人は、この時確かに幸せだったんだな」とわかるんです。それと矛盾するような記述が違う筆記用具で書かれていて、ああなるほど後から書き加えたのねということもわかってしまいます。夫を好きすぎると、妻の不安は大きくなるようです。妻の代理人は、その日記の時期の夫の妻に対する無理解があったことの証拠として日記を出すのですが、妻の代理人が気が付いていない書き込みを合わせて読むと、たいてい妻は、夫の一挙手一投足に喜んだり、悲しんだりしているし、些細なことで落ち込んだりしていて、見ている方は微笑ましく感じる事情、妻が幸せを感じていた事情が証拠として出されているとしか思えないことがあります。
もし、妻の方が「他に適当な人がいなかったから結婚したまで、疲れてできないことは仕方がないから文句があれば自分でやれ。」という合理的?な発想を持っていたならば、こういう、「夫から批判されるかもしれない」という不安は抱かなかったと思います。「離婚上等」ということで、子どもを夫に押し付けて自由に暮らそうとするのではないでしょうか。逆切れする妻ほど、まじめで夫を愛しているということは、真実のようです。
妻からすると、「できないことを批判されること」も嫌だし、恐れているのですが、それよりも「頑張ってやろうとしたのに、あるいはやったのに、何もしていなかったと批判されること」が特に傷つくようです。カウンターパンチを受けたようなダメージのようです。また、妻にとってうれしいのは、感謝の気持ちよりも、感謝の言葉なのかもしれないということを感じることが多いです。

3 夫の対応が「悪い」のか

夫が、妻の対応を理不尽に思うことはよく理解できます。自分は取引先や上司の嫌味や無理難題をくぐり抜けて、心と体力を削って外で働いてきているのに、感謝もされないどころか、稼ぎが悪いと言わんばかりのお金のかからない安易なレトルト食品があまりにもぶっきらぼうに食卓に並んでいるわけです。私は馬鹿にされている?尊重されていない?あの渡した給料はどうなっているのだろう?とそれは思うでしょう。体の調子が悪くて、意欲がわかない、料理の段取りを考える力が出てこない、一歩、二歩だけ体を動かしてごみをゴミ箱に入れることができないという状態を想像することができないということもやむを得ないでしょう。夫は靴底をすり減らして歩き回っているわけです。
時々、我慢できなくなって文句を言おうとすることも、その段階では軽く甘えているような感覚で言い始めると思います。しかし、何か言おうとしたところで、妻がそれを言わせないで、逆にこちらに文句を言う。マシンガンのように言ってはならないはずの言葉が繰り出されれば、当初笑い話のような話だったのに、瞬間的に夫の眉間のしわが深くなるのも無理のない話です。
妻は、まじめすぎるから、自分が「できない」ということができないようです。自分ができないのではなく、夫が原因でできないと言わんばかりです。
夫も夫で、自分が妻から愛されていると自信たっぷりの人はそれほど多くないようです。むしろ、妻の些細な行動で、自分を嫌っているのではないだろうかという疑心暗鬼になる人が実に多くいらっしゃいます。出来合いの総菜が出されることで自分が尊重されていないと思う人、ごみ箱からあふれたごみがある部屋の状態で自分が無視されていると思う人、言ってはならない言葉だと言葉に厳格な人、様々ですが、詳しくその人の「怒り」を分析すると、「自分が尊重されていない」という危機感から始まっているように感じられます。
仮に、本当は愛人がいて、離婚をして愛人と結ばれたいと思っていたら、ご飯の用意がなされていなかったり、ゴミだらけの部屋のありさまは大歓迎で、離婚訴訟の証拠にしようと、すかさず写メを撮りだすでしょう。怒るということは、やはり、妻と仲良くしていたい、自分を尊重してほしいという気持ちがあるからだと私は思うのです。

夫が悪いとはなかなか言えないように思います。悪いとする部分あるいは修正する部分はあるのでしょうか。しかし、妻が病気のために自分の精神状態に気が付かないならば、夫が何か行動を起こさないと、夫婦は離婚に向かうことを止められないでしょう。子どもはなすすべなく、両親が仲たがいすることを経験してしまいます。また、双方に恨みや憎しみが残ってしまうと、子どもは一方の自分の親に会えなくなってしまいます。
どうしても、妻に病気や体調不良があれば夫がキーマンにならなくてはなりませんし、逆なら妻がキーマンにならなければなりません。それは可能なのでしょうか。病気に対する知識を勉強し始めなければならないのでしょうか。それは非現実的な対応です。

4 第3者は害こそあれ、役に立つことがない理由

ここでは、家族解体思想をもっていて、妻を離婚によって家族から解放することこそが女性の幸せだというような特殊の考えを持った方々や、その思想に基づいていることも知らないでせっせと夫婦を結果として離婚させようとする行政の話は割愛しておきます。

良心的な第三者でもあまり役に立ちません。まずは、夫婦のどちらから相談を受けたか、あるいは夫と妻とどちらの付き合いが長いか、などによって意見が変わるからです。自分の付き合いの長い方に注意するという第三者はあまりいません。あくまでも知り合いを助けようと善意を働かせるわけですから、その間の罪のない「子どもの利益」という視点で物申すという第三者もあまりいないわけです。家庭裁判所も似たようなものです。
また、妻や夫が、どうしてその瞬間の行動に出たのかということをあまり吟味する人もいないでしょう。妻が大声を出したという事象から、夫の支援者は妻は常識がなく精神的に不安定な人だということになり、せいぜい病院に行くべきだということになるのだろうと思います。妻の支援者からは、そこには夫のDVがあるという決めつけが行われることが通常です。支援者というのは、客観的にものごとを見聞きできる人は、どちらが悪いのかを判断して、悪い方が行動を改めるべきだということを述べるでしょう。客観的でない人は、自分の近くにいる人をいかに支援するかという発想しか持てません。いまだに日本人は、戦争遂行のために明治政府がコツコツ教育に取り入れていった勧善懲悪という子どもじみた割り切りから脱却できていないようです。
行政を含めた第三者が入ると、話がややこしくなることが圧倒的に多いのではないでしょうか。
もし、夫と妻が離婚をしないで幸せに暮らしたいと思うならば、自分たちで活動を修正しなければなりません。

5 行動修正のヒント、「私」から「私たち」という発想の切り替え

このヒントはウォーラースタインが「THE GOOD MARRIAGE」という著作で述べています。最後にお話しするのは、これを理論化したものです。今回のテーマでもあります。
私という主語でものを考えるのが普通です。私は疲れて家事ができない。私は夫から攻められたくない。私は、快適な家の中で暮らしたい。私は理不尽に妻から責められている。私は理不尽に相手から否定評価を受けている。
「だから私は自分を守らなくてはならない。」誰から?相手からということになるわけです。夫婦という人間関係の中で、自分を守ろうとすることは、相手を攻撃することにつながりやすくなるのではないでしょうか。自分を守ろうとする行動は、条件反射的に行われ、無自覚に行われていることがほとんどです。ということは、「これから自分が自分を守る行動のために相手を攻撃しようとしている」という自覚がないのですから、自分の行動を制御することが難しいということになります。夫婦のいさかいの大部分はこの仕組みでおきているようです。
これを「私たち」という主語に置き換えて考えてみましょう。
「私たちのうち、家庭の問題を担当している人間が、気力がわかず、きびきびと動くことができない、育児はなんとかこなしているが他の家事に支障が生まれている。このままでは、不衛生な家の中になってしまう。栄養状態にも偏りが出る。これを私たちは解決しなくてはならない。私たちのうちのあなた、もう少し頑張れないのか。無理。なるほど、しかし私も無理だ。これまで、あなたがやっていたことのうちのこの部分はこう省略しよう、こちらについては週一で何とかしよう。わかった。では私も調子が良いときはなるべくこうしてみる。ありがとうでも無理しないでね。」
となると美しいわけです。最初からこれができなくて途中から私たちになっても挽回できるでしょう。
「私たちは、今、普通の会話ができない状態ではないだろうか。私たちのうちの私は、何か話そうとすると話をさえぎられる気がするけれどどうだろう。私たちのうちのあなたが、そういう気持ちになることはわかる。それでも私はそうせざるをえないこころもちなのだ。それはどうしてだろう。私も苦しいけれど、あなたも苦しいのかもしれないということがなんとなくつかめてきた。私が嫌いになったとか、一緒に住むことができなくなったというわけではないのだね。少しそういう気持ちになりかけたけれど、原因は私たちのうちの一方のあなたにあるというよりも、私がいろいろできなくなったことに原因があるかもしれない。私は私たちの現状が改善されればそれほど文句はないので、あなたを責める気持ちもないし、あなただけに原因があるとも考えていない。一緒に私たちの状態を改善していこうではないか。」
と、机上の事案なので、うまくいくわけですが、うまくいく方向には無理がないような気がするのですがどうでしょう。
「あなたの態度を改めよ。」という提案から、「わたしたちの状態を改善しよう」という提案に変えることはとても有意義だと思います。
そしてそれぞれの要素を出し合うわけです。体調が悪い、こういう症状があるというのも私たちの状態を改善するためには情報開示を積極的に行う必要があるわけですし、職場でこういう目に合っていてとてもストレスを感じているということも情報開示をすることは有益です。大事なことは情報開示によって、相手を責めない、批判しない、笑わないということです。励ますつもりだとしても、相手は過敏になっていますから、悪くとらえる危険がいつもの10倍以上あると思います。慎重に、誠実に、対応をする必要があるし、その事情による相手の心情を追体験してみるという姿勢も有効だと思います。相手の不足分があれば、私たちの別の人が変わってやるという姿勢が大切です。
ただ、この発想の切り替えで一番の障害になることが、「自分を守ろうとする意識」です。どうしてもここに戻ってきてしまうわけです。
「夫婦の相手との関係では、自分を守ろうとしない。つまり自分を捨てる。」ということになるのだと思います。ジェンダーの問題があるのであまり言いたくないのですが、私は男性がそれをより多く行うべきだと思っています。この話は伊達政宗が梵天丸と名乗っていた時にさかのぼるので、今日は割愛します。まあ、男性にとって結婚するということは、妻に命を預けるということなのだという話です。
そして、多かれ少なかれ、夫婦にはそのような潔さが多少ならずともあるようです。しかし、何らかのきっかけで、自分を守るという意識が過剰になり、その結果相手を攻撃してしまうという現象が、起きてしまうようです。現代日本では、これまで以上にそのような傾向が多いのではないでしょうか。

そしてこれは離婚防止というよりも、楽しい夫婦関係を形成するための方法という方がふさわしいということを言わせていただきたいのです。離婚をされないためにという後ろ向きの方法論ではないということです。楽しい、対等平等の夫婦を作る過程の中で、離婚が起こりにくくなるということです。おそらく予防というのは、すべてそのようにマイナスを作らないようにするものではなく、プラスを目指す過程の中で達成していくものだとそんなことを考えています。


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【+宣伝】「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)の熟読が必要なコールセンターの電話担当者の労働実態 [労務管理・労働環境]

本当はこの本は、弁護士とその依頼者の事例を踏まえて書かれたものです。法律分野なのか心理分野なのかイソップのコウモリみたいな本にもかかわらず遠見書房様のご英断で昨年7月下旬に初版が出ました。10月に重版となったとのことで、それほど遠見書房様へのご迷惑が甚大というほどではなくすんだのかなと胸をなでおろしているところです。それでも、やはり、自分でも宣伝をしないと義理が果たせないと思って、宣伝をしようとそういう記事です。

本当の本の目的は、依頼者は弁護士に頼むような紛争を抱えているわけだから、冷静ではいられないわけで、冷静でいられなければコミュニケーションに難が出てくるのは当然のことです。それにもかかわらず、もともと冷静ではない人ではないかと弁護士に思われて、コミュニケーションが取れなければ、弁護士に頼む意味がなくなるわけで、そのために弁護士があらかじめ冷静ではいられないという事情を熟知して、それを差っ引いてコミュニケーションをとりましょうというそのための技術書だったのです。

ところが実際の反響としては、「話す相手との苦労は、自分だけのことでなく、みんな感じていたことか。安心した。」という弁護士(初心者から大ベテランまで)の声が寄せられ、弁護士の精神安定にも役に立っているようです。

あと、サービス業の会社がまとめ買いをしていただいたり、学校現場で結構読まれていたりするようです。これは、結構発売当初から情報をお寄せいただいておりました。

今回、新たな情報をいただいたので、宣伝を兼ねてご報告します。

それはコールセンターの電話担当の方にも読まれているということでした。
コールセンターは、私、ちょっと前に、スーパーバイザーとしてセンターにどでんと座って仕事をしていたことがあるのです。電話担当の方を指導する人が何人かいて、その人を指導する人という役割でした。モニターで実際の応対を聴いたりもしていたのですが、そういう経験が何かの役になったのかも知れません。

このコールセンターの仕事って、かなり精神的ダメージがあるようで、精神的に悪化する人の話を最近よく聞くようになりました。精神疾患を発症させて休職する人、精神的不安定になって夫に対して敵対心をもって連れ去り別居をする人。男女関わらず様々です。

コールセンター職場の精神的ダメージは二種類あって、一つは職場の人間関係からくる精神的ダメージ、もう一つは電話の相手から受けるダメージです。今日は後者について少し考えます。

一口にコールセンターと言っても、どういう人から連絡が来るかということはそれぞれ違うようです。しかし、メーカーのコールセンターであれば製品のトラブルがあって電話をかけてくるだろうし、損保のコールセンターというか事故処理担当であれば、事故があって精神的に動揺している人から電話がかかってくるわけです。最近は、相談事の相談先の紹介というコールセンターもあるようで、やはり冷静でない人の相談を受け付けなくてはならないようです。

結局、電話の向こうの人は、精神的に追い込まれている事情があるということになります。私は、事務所の電話が不具合を起こして、コールセンターに電話をして直したことがつい最近ありましたが、やはり精神的に動揺していたと思います。うまく言葉による説明ができなかったかもしれません。例えば、パソコンが不具合を起こした人、給湯器が故障した人、照明がつかない人、それぞれ日常生活が通常通り営めなくなることでパニックになることはありうることです。交通事故の被害者、加害者はなおさらでしょう。

多くのコールセンターでは、電話対応はマニュアルで行われます。しかし、複雑な内容になればなるほど、その解決方法についてはマニュアルがあるのですが、電話の相手の状態別の対応方法はありません。少なくないマニュアルでは、マニュアル通り返答することで、相手を余計に怒らせてしまう回答が掲載されているようです。でもマニュアルからはみ出した回答をするわけにはゆきません。間違った回答をしないという目的では、マニュアル通りに回答をしてほしいという要請があるわけです。電話担当者の考えで臨機応変に回答方法を変えることも禁止されていることが多いようです。
そういうマニュアルががちがちになっていると、電話担当者は、ある程度経験を積めば、こういう言い方をしたら、相手を逆上させるとわかるわけです。しかし、
マニュアルからはみ出たことを言うわけにはいかない。そうすると、この回答で相手を怒らせることが分かっても、自分から相手を怒らせる行動をとらなくてはならない、自分を危険な目に合わせることを自分から行うということになってしまいます。「自分で自分の身を守ることができない。」という、人間に限らず動物全般にとっての極めて大きなストレスが生じてしまいます。

この現象は理解ができない人が多いと思います。「だって、電話で文句を言われても、あるいは怒鳴られても、命が奪われるわけではない。身の危険があるわけではない。電話担当者はどこの誰だからわからない。そもそも相手が逆上しているのは、相手の事情であって、電話担当者には責任がないのだから、おどおどする必要はないではないか」と思う人がいると思います。これはどうやら違うようです。

こういう冷静な人の感覚は、冷静に考えた場合の理屈にすぎません。感情は合理的に生まれるのではなく、反射的、予防的に生まれるようです。
反射的にという意味は、その言葉を聞いたときに即時に感情が生まれてしまうということです。冷静に考え直してから、さあおびえましょうという仕組みではないということです。予防的にということは、どの程度の危険があればどの程度おびえるかということではなく、おおざっぱに危険があれば程度を大きなものと想定して怖がったり、逃げたりするということです。おもちゃのピストルを向けられても、突然であれば恐怖を感じます。実際より大きな危険が起きてしまうという無意識な想定のもと、飛び上がったり目を大きく開いたりするわけです。その方が生き残る可能性が高くなるからです。「おや、このピストルはおもちゃかな。本物ならば何発弾が込められているのだろう。」とか考えていたら、本物のピストルだから命の危険があるという思考にたどり着いたころには撃たれているからです。そうすると、誰か人間が自分に対して怒りをぶつけてきただけで、まず感情は恐怖を感じてしまうわけです。電話の向こうで相手は確実に怒っています。そしてその怒りが自分に向けられているわけです。そうなると、人間の本能として、そしてその恐怖の原因となった危険認識は、暴行などが行われるような、あるいはもっと大きな危険認識を抱く可能性があるということになります。これが電話担当者の感じているストレスなのでしょう。

そしてその危険を自ら招く回答をすることが命じられているということで、ストレスはますます強くなるわけです。

こういうストレス職場なのですが、マニュアルには、電話の相手の感情に対する対処方法はあまり書かれていません。特に講習もないようです。これが、私が少し担当したコールセンターのように、大勢の人数で電話担当をして、何人かに一人のアドバイザーがいて、さらに総括的なスーパーバイザーがいれば、それだけで安心感がありますが、自宅に転送されてくる電話で電話応対をしている人はそれもないことになります。

それでも担当者の報告や相談などで、上司が親身に対応して恐怖や不快の感情を手当てしてくれれば少しはましなのでしょうけれど、上司もマニュアル通りの仕事にせいぜい自分の経験しかプラスすることができませんので、有効なクールダウンをすることができないようです。かえって、マニュアルに従って、感情的になっている相手の対応に困って時間が取られているにもかかわらず、「対応時間が長すぎる」とか「対応アンケートで『不満がある』との回答だった」というマイナスの事情を持ち出して、電話対応者を注意してしまうという流れになることも少なくないようです。会社は、そのことに言い訳をきちんと用意しています。「そういうイレギュラーな電話対応の結果で、査定を下げるということはありません。」というのです。あたかも査定さえきちんとやれば、使用者としての安全配慮義務は尽くしたというかのようです。これは落とし穴を見逃すことになります。

電話担当者ではなくとも、人間は日常、危険を感じることがたくさんあります。例えば、交通事故の可能性がなくても、鉄の塊である自動車が近くを通行していれば、初めて見たときは危険に感じるわけです。しかし、自動車というものは交通ルールに従って走行し、歩行者と接触することがないので危険なものだということを学習していく中で怖さがなくなっていくわけです。このように、日常の生命身体の危険や対人関係的危険は、学習によって危険意識が軽減されていきます。良くも悪くもこうなります。但しそれは、「実は危険ではなかった。」という学習ができた場合です。

電話担当者は、この実は「実は危険ではなかった」という学習ができません。感情的になって怒鳴り散らされ、何も危険性の解決がなされないまま電話が切られ、また次の電話がなるわけです。上司が危険意識を解消する手立てをとらない。そうすると、毎日毎日解決しない危険意識、ストレスが蓄積されていきます。不安感が蓄積されてしまうと、些細な刺激も怖くなります。例えば、あなたが務めている会社の近くで、発砲事件があり人が死んだという事件があり、犯人は逃亡中だという解決しない危険意識があるとします。たまたま夜遅く、人通りがなくなったときに会社を出たとたん、タイヤのパンク音、あるいは花火の音がしたとしたら、また発砲があった、自分が撃たれるかもしれない。と思うことは想像しやすいのではないでしょうか。

危険意識が蓄積されてしまうことによって、「危険を感じ、安全を感じる」という脳の正常な機能が乱されていくということは想像しやすいことのように思われます。

コールセンターは、誰からかかってくる電話かにもよりますが、このような危険をはらんだ仕事の内容だということになります。使用者は、このような感情や脳のシステムを考慮して、電話担当者の危機意識が解消される手立てを講じる必要がありますし、最低でも、相手を選べない以上、相手が感情的になったことで起きる一切の不利益、それが電話担当者の責任であるかのようなアクションを一切やめるべきです。

そして、電話の相手がなぜ感情的になっているのかについて、また、感情的になっている相手に対してどのような対応をするべきなのかについて、宣伝ですが「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」遠見書房を一人一冊買い与えて、
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みんなで学習会をするなりして心の準備をしてもらわなくてはならないと思います。このような本は、実際にはあまりないということを電話担当者の方はおっしゃっていました。ほかにないかどうかは、私にはわかりませんけれど。

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