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在日ロシア人をはじめとする旧ソ連圏の人たちの人権を守ろう。人権侵害は、正義感から始まることの典型例。人権擁護のための法律家の役割。少数者の人権保護という意味。 [弁護士会 民主主義 人権]

新聞報道によれば、世界中の国、特にゲルマン民族が多数派を占める国で、ロシア国民に対する差別や迫害が起きているそうです。ロシア国籍の人だけではなく、ロシア語を話す人たちや、東スラブ系の旧ソ連圏の人たちや店舗などが誹謗中傷を受けるなど攻撃をされているとのことです。

この今回の出来事は、人権の意味や人権侵害、弊害を伴う正義感情という人間の社会心理をわかりやすく説明できる出来事だと気が付きました。合わせて、人権に対する法律家の使命についても考えていることを書きましたので、是非お読みください。

「人権」の意味はわかりにくいかもしれません。しかし、その歴史を考えるとイメージしやすくなると思います。だいぶ昔の絶対王政の封建時代には、極端に言えば、国の財産や、国民の命などについて、すべてを国王が自由にできるという考えがあったとします。これに対して、どんなに国王の命令だとしても、人間としてそれを侵害されたら本人も人間として生まれてきた意味がないと感じるような行為や、周囲もそれはあまりにも酷いと感じる行為について、それを阻止しようとしたわけです。「それは人権を侵害する行為だから、いくら王様でもやってはいけないことだ。」という文脈で人権という言葉が使われるようになりました。

現代社会では王様はいません。民主主義の世の中になりました。最終的には多数決で国の行動の意思決定をするシステムができました。しかし、人間の社会は複雑ですから、ある行動が多数の国民を幸せにするとしても、同じ行動によって不利益を受ける国民が出てくることは常にあることです。多数派は少数者が不利益になることを決定することができることになります。

現代の民主主義社会では、多数派の意思決定によって、少数者が人間として生まれてきた意味が無いと感じることや、周囲がそれはあまりにも酷いと感じるようなことが起きる可能性があるわけです。これを防止するために、やはり「人権」という言葉が大きな意味を持っているわけです。

さて、ロシア人が迫害されているとのことです。一人一人のロシア人は、ロシアのウクライナ侵攻にかかわっていません。むしろ、ご自分たちが今いる国の人たちと協調して生活したいと考えているはずです。迫害する人たちは、自分が攻撃しているロシア人にウクライナ侵攻の責任があるとは思っていないでしょう。それでも迫害するわけです。なぜでしょう。

私は、迫害する人間の正義感だと言ってよいのだと思います。独立国家であるウクライナへの侵攻は不正義だということ、報道によればウクライナの罪もない国民が傷つけられて殺されている、財産を失くし、家族とも会えないで苦しい生活を強いられている。傷ついて虐げられている人を見れば、条件反射的に何とかしなくてはならないと考えるのが人間の自然な気持ちです。

・被害のひどさと、
・なんともできないもどかしさ、あせりと、
・自分は安全な場所にいるという環境的立場、
・自分の周囲のほかの人間も自分と同じ考えだという確信
という条件がそろえば、それは「正義感という怒り」が生まれやすくなります。

正義感という怒りは、思考力を鈍らせます。
・善と悪の二者択一的思考になじむようになります。
・悲観的考える傾向が出てきます。
・他者の気持ちを理解するという複雑な思考ができなくなります。
・自分の行為によってどのような効果が生まれるかという将来のことなど考えられなくなります。
・二者択一的な思考は、自分の行動を止める人間を悪だ、敵に味方をしているという考え方になってしまいます。
・怒りをぶつける相手が、死ぬか、反撃不能の状態になるまで怒りは持続します。
・相手が弱ってくると、かえって怒りが強くなっていくという特徴もあります。

その結果、自分の正義感を持て余して、正義感情を表現しようとしてたまらなくなり、ロシアに関連するものに対して攻撃をしようとするわけです。相手がウクライナ侵攻に責任があるかどうかなどという複雑なことは考えません。ロシア、あるいは、ロシアっぽいということだけで、「悪」と決めつける単純思考になるわけです。自分が攻撃している相手にダメージが加わっても、ウクライナの国民に対する共感の1万分の1も共感しようとしなくなるわけです。そして、周囲もその人に同調するならば、正義感の暴走は止められなくなってしまいます。

もし、ロシアの侵攻が、ウクライナを犠牲にしても、例えば経済的に、例えば軍事的に自分に利益が生まれるということでロシアにやらせた人がいれば、このような心理はとても都合よいものになるはずです。

他方で怒りは永続しないという特徴もあります。
怒りが覚めたときに、自分が行ったロシア人に対する人権侵害の意味を知ることになるでしょう。ある人はとても恥じ入り悔いるでしょうし、ある人は自己の行為を正当化するために、「ロシア人」は悪だという考えにいつまでも固執せざるを得なくなるでしょう。

ただ、自分がいくら正当化しようとしても、自分の周囲の人間たちは迫害をした人の迫害行為は覚えています。もしかしたら、自分の子どもからの軽蔑が近い将来に待っているかもしれません。

また、迫害を受けたロシア人の知り合い、友人を中心に、「これは酷いことだ。」というやりきれない思いが精神的ダメージとなりいつまでも残るかもしれません。

いずれにしても迫害があった周囲は荒むことでしょう。他者の人権が侵害されることは、自分たちの人間性も荒廃していくことなのです。他者の人権を守るということは、自分や自分の家族、自分の友人たちの人間性を守るということでもあると思います。人間とはそういう性質を持っていると思います。

ロシア人でも旧ソ連圏の人たちでも、人権として、およそ人間である以上守られなければならない一線があるということです。人権侵害防止は、文明国、近代国家としての必須のことです。

人権擁護がなかなか難しいのは、日本では少数者が極端に少数で、少数者自身に不利益の原因を求められやすいということが一つの原因だと思います。その心理の形成過程の中には、自分を安心させたいという気持ちや権威者に迎合したいという気持ちが間違いなくあると思います。そして、正義感情を共有しやすいため、怒りが表現されやすくなり、ひとたび怒りが共有されてしまうと、少数者に対する迫害が止められなくなるという危険が、怒りの性質から起きてしまいます。

特に日本においては、自然な感情からくる少数者への人権侵害が自覚されにくいことに注意するべきだと思います。誰が、人権侵害が行われていると気が付くべき人間かというと、それは人権を学んだ法律家を筆頭に挙げなければなりません。法律家までが、正義感情に任せて人権侵害に加担していたのでは、日本は人権侵害国家という野蛮な国になるでしょう。特に弁護士は、犯罪を行った人を弁護する唯一の資格者です。多数から非難される少数者を守ることが本来的な仕事です。弁護とはまさに人権擁護活動なのです。

現在の日本の人権課題として、正義感情からくる在日ロシア人に対する迫害、人権侵害を防止を大きく取り上げなければならないことは間違いないと思います。
日本の法律家や法律家団体は、ロシアに対する制裁決議などをあげている場合ではなく、迫害や差別を想定して、在日ロシア人や、旧ソ連の人たちの人権を擁護するために活動を開始することが使命だということが、私の考えなのです。

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