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相手に合わせて自分の行動を変えられない人は、自分が深刻に傷つく結果になりやすい。「自分が悪くなくても行動を変える」という発想が人生を快適にできるということについて考えてみた。特に夫婦問題における大人の発想とは。♯対人関係的危険。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



何か注意をされても「自分は悪くない。」と思って注意を聞き入れないということは、誰にでも多かれ少なかれあることだと思うのです。でもこれが激しくなると、人間関係がとげとげしいものとなり、無駄に苦しい人生を歩むことになってしまいます。このことをぜひお話ししたいと思いました。

例えば、日常生活で、妻(夫)から、事務連絡的に「あなたが洗った皿に食べ物かすが付いているよ。」と言われただけなのに、何か人格を非難されたかのように感情的になってしまい、むくれてだんまりを決め込んだりとか、負けじと相手方のずいぶん前のことまで掘り起こして大声を出したりする人。まあ、「命令しようとしないで、気が付いたら自分で洗えばよいじゃん。」とか思うのは仕方がないとしても、むくれるとか怒鳴ることはないわけです。

例えば、離婚調停で、相手の主張するある事実については、こっちもやったことは争っていないし、訴訟になってもマイナスにならないから謝っちゃった方が相手も安心するし、それによって子どもとの面会も自由度が増すから謝っちゃいましょう。とアドバイスしても、どうしても相手に「謝る」ということができない人がいます。「自分は悪くない」とか、「こういう行動に出たのは相手方の言動があったせいだ。」なんてことを言うのです。

「そこを謝れば子どもと会える」という場面でも、家族から見てもわかるように大々的に本人は2,3日悩み続け、結局謝れなかったというケースがありました。この時は、私が代わって謝るというか、相手の気持ちをなだめて、無事子どもを取り戻し、家族で再び生活が始まった事案でした。ただ、その後のことを考えると、あそこで本人が謝罪の言葉を口にすることができたら、もっとスムーズに、もっと後腐れなく事が運んだはずでした。

本当の気持ちなんてどうでもよいから、言葉を出してあげれば相手はずいぶん落ち着くのですが、それを説明してもできないのです。これでは相手の気持ちが少し和らぐ方法がみつかりません。特に子どもの面会交流の別居親は、人質を相手に取られているようなものですから、法律だ、裁判所の決定だと言っても同居親が別居親に少しでも安心しなければ、どんなに裁判所が命じても子どもは別居親に会えません。相手が悪いからと言って済むのは親だけで、子どもはそんな理由少しも理解しないでしょう。自分に会えなくなるというのに、頑張ってくれないのかと。

逆に離婚事件でも、心にもない歯の浮くような相手を称賛する言葉を繰り出したり、気持ちの伴わないプレゼントをまめに渡したりする人が、結局子どもとの強い交流を勝ち取ったりしている姿を見ています。あまりにも対照的です。
だから、近くで見ていると、「もったいないなあ」といつも思うんです。

自分の気持ちに反したとしても、やっても別に損をしないならその通り行動さえすれば、もっと楽に生きられるのになあと思うのです。

「自分は悪くないから行動を変えるのは不当だ」という意識の問題点が明確になった極端な例を紹介します。
夫婦で道の路側帯内を歩いていたけれど、夫が気が付かないでいるうちに、路側帯の中を通行しそうに自動車が近づいてきた。妻はそれに気が付いて「危ない。」と言って、夫の腕を引っ張って、夫をよけさせた。それをされた夫は、感謝を言うどころか、ものすごい形相で妻を叩いたというのです。「自分は路側帯内を歩いていて正しい行動をしている。間違っているのは自動車の方だから、自動車がよけるべきで、自分がよけるのはおかしい。」
と言われたという実例を妻側から聞いたことがあります。

笑うに笑えない話です。この極端な例を読めば、それは話が違う、正しいからと言っても、死んでしまってはしょうがないじゃないかと思われるでしょう。でも、ここまでではないのですが、この発想の「形」は先ほどの面会交流の例ととても良く似ていると思うのです。

この発想の形が損だということを説明するために、逆パターンのサンプルを示してみます。
例えば職場で、しつこくて嫌な上司がいるのに、なぜかその同僚だけは嫌味の被害にあわないで、高評価されて、頼りにされている、そんな人がいますよね。
さわやかで堂々としていて、同僚としては正直少し煙たい存在です。自分とこの煙たい人の違いは何なんだろうと考えると、一つには注意を受けたときの態度に違いがあると感じました。

普通の私たちは、上司から小言を言われると、それだけで精神的ダメージを受けてしまうので、例えば「そこまで言わなくてもよいじゃないか。」とか、「どうして私に対してだけ否定的評価をする」とか、「わたしのせいではない。」とかという防御的姿勢になっているようです。上司からすれば、そんな私の表情を見て、反抗的だなと思っているのでしょう。

これに対してさわやかだけど煙たい同僚は、神妙な顔をして小言を聞くのですが、自分に対する低評価の部分は聞き流していて、「結局こうすればよいのですね。ではこう頑張ります。」とけろっとした顔で次の仕事を始めるわけです。

上司からすると、煙たい同僚(上司からすれば部下)は、「(多少言いすぎても)前向きに受け止めるやつだ。」という都合の良い部下になりますし、上司からすると「あまり言いすぎると何をされるかわからない。」という不気味さもでてくるようで、嫌味上司でさえも次第に遠慮をするようになるようです。

職場も無駄に暗くなりませんし、煙たい同僚は全く精神的ダメージを受けていないように見えます。おそらく煙たい同僚はいちいち傷つかず、せいぜい不快に思っているか、上司を馬鹿にしているのだと思います。なんて楽な人生なのでしょう。

得な性格だなあとつくづく思います。うらやましく感じるので、煙たいわけです。上司から何か言われて、いちいち傷ついて、身構えて、余計な感情を上司に見られてしまう我々は、つくづく損していると思うのです。


我々のようないちいち身構える人間の特徴をあげてみます。
<表面的には>
・ 怒りっぽい人、逆切れしやすい人
・ 物事を悪く、深刻に受け止めやすい人 受け流せない人
・ 言葉をことさらに被害的に受け止める人
・ 自分の間違いを決して素直に認めない人
・ 自分には優しくて他人には厳しい人
・ 会話のキャッチボールができないめんどうくさい人
・ 責任を他人に転化する人 注意する上司の方が悪いと思っている人
・ 文句ばっかり言っている人
・ 自己中心的な人 自分さえよければよいと思っている人
・ 仲間を信頼していない人

大体こういう風に他人からは見られているわけです。これではだんだん自分の周りから人が離れて行ってしまうということが理解しやすいでしょう。離婚事件になれば、双方が自分を守るという意識が高まり、それにつれて相手に対して激しい敵対心を抱くようになります。ますます一緒にいることや、何かを一緒にやることが嫌になっていくばかりです。

でも、本当は、こういう相手に過剰反応する私たちは、自分と相手との関係を大切に考えているのだと私は思います。
相手との関係がどうでもよければ、自分がどう見られようと気にしないのですから、むきになって自分を守ろうとしません。あの煙たい同僚のように、自分に都合悪い部分は適当に聞き流すことができるわけです。ところが、相手に嫌われることを極端に恐れるために、自分が否定評価されることを何とか阻止したくて必死になるのだと私は思います。それが逆効果を生むわけですね。

もしかしたら、完璧主義者という言い方もできるのかもしれません。適当に否定されて、適当に軽んぜられた方が、肩ひじ張らないで気楽に付き合えるから、相手からは安心できるのです。こっちも気が楽です。でも完璧主義者の人たちは、少しでも自分が否定されたと感じると、相手から愛想をつかされて、相手は自分から離れていくのではないかという不安を強く感じてしまうようです。何とか打ち消したくて不合理な行動に出るようです。

この逆切れについては、近々クローズアップした記事を書きます。ここでは最低限の頭出をしておきます。それが対人関係的危険の意識です。

「人間が自分を守る」というのは、身体生命を守るというだけではないということです。自分を守るということは、「特定の人間関係で(あるいは社会的に)自分の今おかれている立場・関係を維持する」ということも含まれるようです。
自分の周囲からの評価が下がる危険を「対人関係的危険」ということにします。人間は生物的危険を覚知すると防御反応を反射的に起こしますが、対人関係的危険を覚知してもやはり防御反応を起こすということを指摘しておきます。

そうして、危険意識が高まってしまうと、自分を守ることに精一杯になってしまい、冷静な考えができなくなってしまいます。生命身体の危険意識が高まった場合と全く一緒です。例えばハチに襲われてやみくもに逃げてかえってハチを挑発した形になって刺されるみたいな感じです。

対人関係的危険意識が高まってしまうと、紛争がないところにも紛争が起きてしまいますし、対人会的危険の意識が強すぎると一度紛争が起きてしまったら、収束に向かうということはとても期待できない状態になってしまいます。

対人関係的危険に過敏に反応してしまう人たちが、一番に損をするのは、自分の精神状態を悪化させていくということです。

まず解決がどんどん遠ざかっていくことは実感しています。ここで、当然に「どうしてうまくいかないのだろう。」と悩むわけですが、その疑問には隠れた言葉、自覚していない言葉が隠れているようです。つまり「『自分が悪いことをしていないのに、』どうしてうまくいかないのだろう。」という疑問になっているのです。但し、これは原因を考えているのではなく、ただ相手を呪っているようなものです。少なくとも自分も行動を改めるべきことがあったのではないかという意味で、原因を考えるわけではありません。相手の行動が不当であるということだけが頭の中を駆け巡っているような状態です。

この「自分は悪くないのに、不利益を受けている。」という考えが、本人の精神的状態を著しく悪化させる危険のある思考なのです。

この考え方は「絶望」につながりやすく、生きていくという望みが絶たれてしまう考え方になじんでしまうのです。こういう考え方の傾向が生まれてしまうことはとても危険です。

絶望に陥らないように、人間には絶望回避のシステムがあるようです。絶望回避のシステムがあるということは、人間は本当に絶望してしまうと生きていけなくなるということのようです。ところが、対人関係的危険の意識が強すぎて、かつ自分が悪くないのにどうして自分ばかり不利益を受けるのだという考え方はこの絶望回避のシステムが働かなくなってしまうということが危険の本質です。

例えば自責の念や罪悪感は、絶望を回避するための防衛機制という心理的に備わった仕組みだという指摘もあります。「今ある悪いことは自分にも責任がある。」という考えは、「自分が行動を改めたら、事態は改善するかもしれない。」という希望を持たせることによって、絶望という人間にとって極めて有害な考えを抱くことを回避させるように機能するようです。

父親が過労死した子ども、5歳くらいでしょうか。父親が死亡したということを理解しきれていないようで、自分が良い子にしていたらお父さんは帰ってくると信じてその子なりに精一杯良い子にしようと頑張っていたというエピソードを本で読んだことがあります(東海林智「15歳からの労働組合入門」毎日新聞社)。「自分が良い子ではなかったから会えないのだ」という自責の念はとても痛ましいことですが、絶望を感じないで済む救いとして機能して、その子を守っていたのかもしれません。

これに対して、「自分には何も原因がないのに不利益を受けている」という意識は、解決の方向が全く見えてきません。これまで述べてきたように客観的には事態がますます悪くなっていっています。解決の展望が見えなくなっていきますが、当面の問題、例えば夫婦問題だけでなく、自分の人生すべてにおいて生きる展望が失われていくところまで、案外簡単に行き着いてしまうようです。自分が大切にしている人間関係で不具合が起きたときは、負のスパイラルが加速していくようです。

自死が起きたという話も多く耳に入ります。また離婚後10年を経た姿を見ることができたときに、私の依頼者ではないのですが、かつてのエリート社員がどうして自分は離婚されたのだろうということが頭から離れられず、仕事もダメになったし、生活もままならない状態になっているのを目撃したこともありました。

傷ついた方のみんながみんな「自分が悪くない。」と考えたとは思いませんが、私の目撃した例のいくつかは、「自分が悪くないのにどうして。」ということを繰り返されていました。

この考えは本当は夫婦の問題に限定した問題のはずなのですが、次第に、
・ 自分は、悪くもないのに迫害を受ける運命にある
・ 自分は人と交わることができない人間なのだという
・ 自分は誰からも理解されない運命なのだ
等の考えに変化していくようです。自分から八方ふさがりになってしまうということが起きていくようです。

一時的には「他人が悪い」ということで無理やり納得できたとしても、自分が孤独であることは厳然とした変わらない事実です。日々回復不可能感、絶望感が深まっていくのです。

もちろん弁護士をやっていると、まれに、ほぼ純粋にその人以外の人が悪いという場合を目にすることがあります。夫婦問題で言えば、例えば妻に精神疾患があり被害妄想のために自分が夫から危険な目にあっていると思い込み、妻にアドバイスをした人間が妻の言っていることを疑わず、緊急避難的に子連れ別居をアドバイスして、周到に夫を陥れ、夫の弁護士も仕事をしないで利敵行為ばかりされてしまい、裁判所も勢いに飲み込まれて冷静な判断をしないなど、不利益に叩き込まれたというしかない人も何人か見ています。

もちろん明らかに他人が悪い事例なのですが、こういう場合であっても「自分が何か別の行動をとっていたら最悪の事態は回避できたかもしれない。」という発想をもつことで、結局は自分を助けることになるのではないかと、私にとってもぎりぎりところで考えることがあります。でも、それを本人に伝えることはとても難しいことです。

対人関係的危険の意識は、本能的に感じるものなので抑制することは難しいことですし、あの煙たい同僚のように鈍感になることもどうかと思うのです。

私がぜひ修正するべきだと思うのは、「自分が悪くなければ、自分は快適に生きるべきだ。」という考えです。そうあるべきだということについては大いに共感しますが、人間関係の形成を考えると、この考えは明白かつ単純な間違いです。

大体において、夫婦喧嘩なんて言うものは、どちらが悪いから起きるものではありません。双方が悪くなくても、一人または二人とも嫌な思いをすることがほとんどだと思います。

「自分は悪くないのだから、自分に不利益を与えないでほしい。」と思っているかもしれませんが、では、だからと言って相手の方は悪くなくても我慢しなければならないという理屈は出てくるのでしょうか。なぜ、自分だけが我慢しなくてもよいのでしょうか。突き詰めて考えるとこういう問題なのです。

子どもが親に要求するならばまだわかるような気がするのです。子どもが「僕が悪いことをしていないのに、僕にはお菓子くれなかったんだよ。」と言われれば「よしよし、それじゃあパパがお菓子を買ってあげるからね。」と言って子どもの感情を解決するということはあるかもしれません。

立場を逆にして、親が職場で人事考課を不当に行われて、ボーナスが減額されたからと言って、親が自分の子どもに考課の不当性を訴えてボーナスの不足分をもらうなんて言う話は荒唐無稽な話ですよね。

夫婦の関係は、これと同じです。どちらも悪くなくて、でもどちらかが不利益を受ける場合、その不利益を当然に相手に与えるという理屈は出てきません。「自分が悪くないから不利益を受けるのは不当だ」という考えは、自分は悪くないから、あなたが悪くないかどうかわかりませんが「自分が損するのが嫌だから、代わってあなたが損をしてください。」ということを要求していることになります。つまり、子どもが親にするように相手に甘えているにすぎません。

こう説明すればみんなお分かりになるわけですが、対人関係的危険意識が強く発動してしまっていると、「自分が悪くない」というところばかりがクローズアップされてしまい、「相手も悪くない」という冷静な考え方ができなくなってしまいます。自分が不利益を受けているのは相手方が悪いという発想になってしまうわけです。二者択一的思考というわけです。

現実の夫婦の間では、妻の精神問題からの思い込みも多いですし、ただ単なる自分の思い込みとか思い違いで、自分が不利益を受けるように感じられる事例は無数にあります。誰が悪いわけでもないのに、誰かが不利益を受けるようなことが日常に無数にあります。自分が悪くないからということで自分が不利益を受けてはならないという考え方はどうしても現実的ではありません。

このような不利益のスパイラルから自分を守るためにはどうしたらよいのでしょうか。

私は、根本は、家族の中に善悪を持ち込まないということが一番だと思っています。家庭の中でも、どちらが悪いから不利益を受けるべきだという考えは大変恐ろしいと思います。それでは家庭は癒しという本来家族にあるべき機能を果たせなくなります。

次に、自分の利益と不利益ではなく、家族全体の状態を良くするか悪くするかということで評価をするということが有効でしょう。「私」の利益ではなく、「私たち」の利益を考えるということです。
この2点が不可欠だと思います。

これが「大人の発想」というものなのでしょう。

但し、大人の発想に立つことはなかなか難しいことです。夫婦の関係を大切に思うからこそ、相手の言葉が自分を否定しているのではないかという恐れを生み、過剰に反応してしまうということがあるからです。相手を信頼している余り甘えてしまうということも全く許されないわけではないとも思います。

また、正直言えば、長年一緒に暮らしているのですから、何か注意されるとそれまでのことを思い出して「お前が言うか」と心の中で突っ込みも入れたくなってしまうわけです。注意の仕方の問題もあるのはその通りです。

ただ、そのような自然な感情のままに反応してしまうことは、子どもしか許されないことです。大人がこれをやれば自分自身が孤立していき、解決の糸口が無くなり、精神的に追い込まれていくことであることは間違いないと思います。

大人の発想に立ちきれなくても、自分の幸せのためにも、何か小さな不具合が発生したら、すかさず「家族の希望を叶える」、そのために「自分の行動を修正して解決する」という選択肢を持つようにすることを忘れないことが家族を守ることであり、それはすなわち自分を守ることになるのだと思います。

「自分の思うまま生きようとすると衝突が生まれてしまう。衝突を回避したり、解消したりしようとすると自分を殺さなければならない。」人間は群れを作ったころから、悩みが始まったのでしょう。失敗して悩む人間の方が人間らしいということはこういうことだと思います。悩まないことは大変恐ろしいことなのでしょう。

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