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「正義バイアス」 取り返しのつかない残忍な行動の原因 特に弁護士は陥ってはならない思考ミス [進化心理学、生理学、対人関係学]



1 正義バイアス

私は、正義感という言葉を警戒しています。(その意味と内容は過去記事を文末に貼りました。)仕事の中で出てくる正義感も社会病理の背景として登場する正義感も、正義の名のもとに他者を傷つけるということにつながっていることをよく見ているからです。あるいは自分をも苦しめる場合もあるかもしれません。

特に弁護士は、犯罪を行った人を弁護する職業です。犯罪をした人を理解して、その人の利益を図ろうとしなければならないわけです。それにもかかわらず、正義感を全開にして、「犯罪を行ったから悪い」とか「少なくともその犯罪行為は悪いのだから弁護のしようが無い」等と弁護士が考えてしまったら、仕事にならないし、弁護士の存在意味が無くなります。

正義感が起きてしまうとどのような不都合が起きるか、まとめてみました。

1 (心理的加担)正義だと言われると、詳しい事情が分からないにもかかわらず、利害関係にかかわらずその正義の側に心理的に加担してしまう。

2 (二項対立的思考)一度一方の人を正義だとして加担してしまうと、その人と対立している人は悪だと思ってしまい、事情がよくわからないのに憎しみの感情まで起きてしまい、しばしば制裁をしようとする、あるいは制裁をしてしまう。

3 (検証の回避)正義であると主張する方に疑問を持つことが許されないような気がしてくる。本当に正義なのか疑うことができなくなる。

4 (確証バイアス)確証バイアスと結びついて、最初に正義だと思った方の肯定的事情ばかりをかき集めてしまい不利な事情は評価しない又は無視をする。一方、対立する相手の肯定的事情については客観的に評価できないか、無視してしまう。

5 (容赦のない攻撃)正義であると信じる者同士が仲間意識をもって、相手方に対して対抗する意識を持ち、攻撃が容赦なくなる。

「正義」という言葉は前面に出ないことが多いため、これだけを言っても抽象的にピンとこない人もいるかもしれません。
実際に正義バイアスが発動される言葉は、「虐待」、「いじめ」、「DV」、「マイノリティの保護」、「差別」、「ハラスメント」、「侵略」、「戦争」等です。いずれも弁護士が業務としてかかわる可能性のある分野になります。

2 正義バイアスのもたらす不都合

正義で熱狂しているとき、本当は責められるべきではない人が責められたり、それほど強い制裁が科されるべきではないのに強い制裁が科され、その結果二度と立ち上がれないようなダメージを受けたりすることがあります。

その正義バイアスに弁護士が陥った結果、弁護士が冤罪のように回復不能な不利益を作り出すこともあります。

この正義バイアスは人間が本能的に持つものです。常時正義バイアスに支配されていないかという点検をしていないと、取り返しのつかないことを行ってしまう危険があります。

3 人間の本能と正義バイアスについて

よく考えないで、あたかも反射的に「正義」という言葉に飛びつく理由は、言葉のない時代の人間の意思決定を踏襲しているのだと思います。当時(200万年くらい前から1万年くらい前)、人類は厳しい自然条件の中で、瞬時の対応を迫られていました。こちらに近づいてくるのは飢えた肉食獣ではないかと瞬時に判断して逃げるとか、集団で戦う準備をするとかということが典型的だと思います。みんなで討論をして、熟考して多数決で決めようなどという発想はなかったのだと思います。言葉もありませんから話し合いもできません。誰かが瞬時に判断し、仲間はそれに盲目的に従ったはずです。それ以外の日常的なことについては、これまでの慣習通りに行うということでよかったはずです。つまり、考えるということは身の危険があることで、瞬時に結論を出さなければならないことが中心的だったと思われます。

そこにいる者が群れの仲間の人間なのか、危険な肉食獣なのか、味方か敵かという二者択一的な思考ができれば十分で、それ以上の思考はむしろ有害だったのでしょう。

それが敵だと結論付けられれば、逃げるか戦うかということでシンプルに行動をすればそれで事足りていたわけです。肉食獣を叩き殺すことに何ら躊躇をする必要が無かったということです。

現在では、その人に現実の危害を加える存在の多くは、肉食獣ではなく人間です。その人間にも言い分があることが多いと思います。全面的にどちらが正しくて、どちらが間違っているということはめったにありません。しかし、対立している人の一方をつい守ろうとしてしまうと、他方が敵ということで、反射的に仲間と敵を振り分けてしまい、仲間だと判断したものを守ろうとしてしまうということが起きているのでしょう。一瞬で理性的な考察ができなくなり、「一方が仲間であり人間である、他方は敵であるから人間ではない」という太古の感覚が頭の中をめぐってしまうのではないでしょうか。

例えば200万年前の生活なら、その思考方法にデメリットはなかったでしょう。むしろうまく生き延びることができるので、そういう思考をした人間たちが群れを作って生き延びてきたということです。その思考(脳の活動)が現代においても抜けきらないのは、進化の時間軸では200万年は「あっという間」の時間なのでしょう。ところが現代は、群れは無数にあるは関わる人間も膨大にいるわですから、環境は劇的に変化してしまいました。200万年以上前からの人間の思考パターンと、現代の複雑な人間社会のミスマッチが起きているわけです。

正義バイアスに支配された脳の活動は、相手は人間として扱えなくなっていますので、敵の良いところなんて考えることは無意味ですし、味方をどこまでも守ろうと当然にそういう発想になります。人間を狼から守るために手段を択んでいる場合ではなかったのでしょう。非論理的な主張、不合理な主張、ダブルスタンダード、論点ずらし等、相手に配慮する必要がありませんから、仲間を守るという意識がある以上は、何ら気にならないということになってしまいます。

もはや相手に勝つということだけがテーマになってしまっています。

これは実は人間にとって大切な思考パターンでもあります。仲間を疑わないで、仲間のきずなを強くすることが人間の生きる目的だとすれば、仲間が間違っているか正しいかということよりも、仲間が仲間であり続けるほうが価値が高いという考え方もありうると思います。正義は共存するための不完全極まりないツールにすぎないと考えても良いと思います。

対立する相手にも言い分があり、尊重されなければならない人間であると気が付くのは、相手が深刻なダメージを受けて取り返しのつかない状態になったときになってしまうわけです。

民主主義の根幹は、多数決ではなく、全体の利益がかなうための結論に向けた話し合いをするところにあります。ところが、対立する意見に正義などのバイアスが持ち込まれれば、瞬時に敵と味方と別れあってしまいます。双方の良いところを持ち寄ってさらに良い提案をするという発想にはなかなかなりません。これを野放しにしてしまえば、民主主義は全体主義の方法論に堕落してしまいます。

弁護士に限らず、夫婦でも、職場でも、学校でも、インターネットでもなんでも、相手に対して完全否定したいという欲望や、一瞬でも我を忘れる怒りや、いら立ちを感じた場合、そしてそれが正義や正義類似の概念に支えられている場合は、意識して立ち止まって考える必要があるのはこういう理由からです。

親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-11
正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-02-18
「心を込めて」なんてことは子どもがする独りよがり 「正直」の弊害について考える(常識を疑う) 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-03-16
【木村花選手の急逝に寄せて】人を追い詰める誹謗中傷は「正義感」からなされていることを意識しなければ、悲劇は繰り返される。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-05-25
夫婦仲を壊し、再生を妨げるのは「正義感」かもしれない つい家族を攻撃してしまう人の心理 家庭の中に敵が生まれるとき2
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-08-18
【正義よりも命。特に子どもたちの命】「憲法9条を守る」ことよりも大事なこと 戦わずして勝つことが何よりも追及しなければならないことだということ
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2022-05-06


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理想のリーダーの要素、理想の人間関係の要素 THE ANGERME竹内朱莉論 彼女は何故上司にしたいと言われるのかについての考察 [労務管理・労働環境]


カテゴリーは労務管理にしましたが、家事のカテゴリーでもよいような内容です。

アンジェルムという10人編成の実力派アイドルグループがあります。モーニング娘。の所属するハーロープロジェクトのグループです。グループとしてはテレビにはあまり出てこないのですが、ライブ活動はなかなかチケットが取れないほど人気で、タレントや歌手、モデル等としてそれぞれ単体でも活動しているようです。

このブログでどうしてこのアイドルグループを取り上げるのか、その理由から説明する必要がありそうです。このグループは、もうすぐ卒業する竹内朱莉(あかり)さんが現在リーダーを務めています。この人が同業者のタレントや一般のファンから「理想の上司」として支持されているようなのです。私が寝る間だけ惜しんで調べてみたところ、かなりの収穫があったので、ご報告をする次第です。

このグループは、歌唱もダンスも定評があるのですが、そのスキルの方向性がバラバラなのです。あえて寄せようとしていないのかもしれませんが、一人一人のパフォーマンスをみると、どうして一つのグループとしてまとまるのか不思議なくらいです。

それなのに、ライブ会場では奇妙な統一感というか、一つの有機体という一体感を感じるパフォーマンスになっています。何よりも、若いメンバーがライブ会場で、十分に実力を発揮しているところに業界やファンからの賞賛がなされているようです。

一言で言うと、全員が「堂々としている」ということがこのグループの魅力だと私は感じました。

組織としての力が発揮されているということです。会社などでは逆に、一人一人の能力は高いのに、集団行動になると微妙な人間関係から全体の力が期待値よりも下がってしまうということに気が付いて悩んでいる方もいらっしゃると思います。人を育てるときには、一人一人の能力を高めた上で、集団で行動することによって、総和の力がそれ以上の効果を発揮することが理想です。しかし、なかなかうまくゆきません。そうだとすれば、リーダー論という視点で、若い女性グループからその秘訣を学ぼうというのが今回の企画なのです。

もちろんリーダーだけでなく運営スタッフのご努力や確かな方向性に負うところが大きいと思うのですが、リーダーの分野に着目してわかりやすく見て行こうと思います。

私が竹内さんから見出した集団の力を発揮するリーダーの要素は以下のことです。

1 圧倒的なスキルの高さ

竹内さんは、20代半ばですが、芸歴は15年くらいあるようです。その中で歌やダンス、あとはマイクパフォーマンスも磨いてきたようです。スキルが一定のレベルでとどまらず、常に向上していったわけです。リーダーに限らずこのグループの人たちは不断の努力の跡が見られます。天性のものに満足しない努力、研鑽がなされていることがわかります。竹内さんは、その中でも長期にわたって努力を続けてきて、他者からも評価されるスキルを身に着けているということが一番の武器だと思います。実績というのが単に過去の栄光ではなく、成長し続けた実績だということが仲間内からも評価されているのでしょう。同じグループの特に若手メンバーは、竹内さんと同じグループである以上そのレベルまで自分を持って行かなければならないと考えることで、全体の底上げも行われるようです。

2 スキルに裏付けされた絶対的な自信

自分のスキルの高さが良い意味で自信になっています。この人は後輩たちからいじられるキャラです。どんなにいじられても自分の立場が不安になることは無いようです。自分のスキルの高さの自信があるので、後輩たちに好きにやらせていてもびくともしないメンタルの体幹の強さがあるみたいです。

実際の職場では、仕事の内容は次々変わります。上司と部下が同じ仕事をする必要が無い場合もあります。それだけ楽なのかもしれませんが、どうしても同じ評価基準で競うようなことが出てくると、絶対的自信が無い上司は辛いかもしれません。パワハラの背景には、上司の部下に対する嫉妬が色濃くある場合があります。

3 部下の成長を自分のことのように喜ぶ。「私たち」の視点

コンサートなどが行われると、感想や評価がされるのが常です。最近の評価として、若手メンバーの台頭への賞賛が寄せられることが多いようです。これを竹内さんは、自分のことのように喜ぶようです。同業者からは、この点が支持されているようです。芸能界に限らず、仕事には不安がつきものです。自分はうまくやれただろうかということを気にすることができる人が伸びていくのかもしれません。良いところを良いといって、自分のことのように喜ぶと、メンバーは自分の努力の方向性がこれでよいのだという安心感を抱くということかもしれません。

自分の良いところを他の人間が喜んでくれるという体験は、自分はグループの一員だという意識を強く持つようになるのでしょう。メンバーは自分の個性や実力をのびのびと伸ばそうとするようになります。また、自分の成功を他のメンバーに堂々と報告することができるようになります。自分の成功をメンバーの誰かが嫉妬すれば、報告を遠慮してしまいます。難癖をつけられるとどうすればよいかわからなくなってしまいます。

この評価の過程で無駄に全員を同じ枠にはめるのではなく、各人の個性が尊重されての高評価ということになれば、上司が想定する以上の成長が起こることがありそうです。

1+1が2よりも大きくなるのはこういう組織です。現代の労務管理において、見習うべき要素の一つがここにあります。

4 弱い者をかばう

年頃のメンバー間の対抗心を背景として、悪意はないにしても、例えば年上の者が年下の者をからかうことがあります。年下だけど世間からは評価されている仲間に対する対抗心はどうしても出てくるところだと思います。努力だけで評価されるわけではないので、持って生まれたものの違いで有利不利ということがあります。芸能界は特にそれが強いと思いますが、一般の社会でも多かれ少なかれあると思います。

年下のメンバーに隙があって、つい年上のメンバーがいわゆる突っ込みを入れてしまい、弱い立場の者が困惑するということがありました。こういう時、リーダーはえこひいきになることを恐れずにかばう必要があります。竹内さんが間髪入れずにかばった姿にとても感心しました。

さらに感心したポイントは、突っ込んだ方に対しても十分な配慮ができるということです。つまり、突っ込んだ方も「しまった」と思うのですが、勢い余って引っ込められないわけです。そのことを飲み込んでいるように、突込みに対して新たな突込み(突っ込み返し)の形にしてやめるように促し、最初に突っ込んだ先輩が「ごめんごめん」と言いやすくしているのです。これは彼女がリーダーになる前、10代の時から自然に反射的にできていたようです。白黒はつけるしかし制裁はしない。これだけでもかばわれた方はとてもありがたいことです。からかった方も気づまりにならずに、その一瞬で完結することができます。これはすごいなあとただただ感心しました。

誰かをかばうことが誰かを攻撃することだという公的支援の関与者は見習ってぜひ考えを改めてほしいと思います。

職場が原因のうつが発生する場面では、必ずしも大きく衝撃的な出来事があるわけではありません。労働災害認定にはなりにくいのですが、このような小さな微妙な嫌がらせが蓄積していって、最終的に心理的圧迫を受けるということがむしろ多いのではないでしょうか。現実の会社の中には、些細なことだという言い訳をしてこのようなマイクロアグレッションを放置する管理職が多くいます。おそらく注意したことによる自分への反発が怖いのでしょう。

竹内さんは、反発を恐れないことと、言っても反発をされないだろうというメンバーに対する信頼と、相手に対する配慮ができる方法をもっているという能力があったので、反射的に注意をすることができたということになります。これはすぐに使えるスキルです。大いに見習いましょう。

学校でも教師と生徒の関係でもいえることです。小さな攻撃はこまめに排除するということ、やめるべき行為はやめるべきだという評価を権威者がきちんと行う、こうやって人間関係の秩序は生まれて生徒は安心して学校に来ることができるわけです。自分に自信のない教師が増えているのであれば何らかの対策を立てることが急務だと思います。

5 きちんとダメ出しをする、失敗を長びかせないで止める、具体的な改善ポイントを示す

また、感心したのは、彼女は後輩にきちんとダメ出しをすることです。だらだらと発言を続けていた後輩に対して、仕事でやる時はだらだらしてはだめだときちんと否定評価を明確に示していました。さらに、何がだめなのかということを具体的に述べて、どうすればよかったのか、ここではこれだけにとどめていて、次のターンでこういうことを話すならばメリハリがきくだろうということを言っているのです。

つまり、1)どこが悪いのか、2)どうして悪いのか、3)どうすればよいのかということを極めて具体的に指摘できるのです。後輩の方は一杯いっぱいになっていますので、うまくいっていないことがわかっているものの、どうすればよいのかということにたどり着けません。こういう時は、このようにストップをかけた上で具体的に言って聞かせて覚えれば済むことなのです。

竹内さんからその時言われた後輩は実際のところどのように感じたのかわからないところはありますが、具体的な指摘と改善ポイントなので、素直に従うことができるということになります。

言い方も配慮されています。表情が穏やかなのだと思います。文字起こしだけを見ると、厳しいダメ出しなのですが、独特の甘い声を有利に活かして、あまりきつい印象が生まれません。これは天性のものだと思います。第三者が聞いても、言われている後輩に「頑張れよ」と言いたくなるような、暖かい気持ちで聞くことができます。

現実の労働現場とはずいぶん違うようです。むしろこのようなきちんとしたダメ出しを目撃したから、ファンの方たちは理想の上司だと強く感じるのではないでしょうか。

現実の労働現場では、ダメ出しはするけれど具体的な指導ができない上司が実に多いです。パワハラの大半は、具体的な指導ができないために、的外れの精神論とか、過去の出来事をほじくり返した嫌味を延々と繰り返すという形態が多いようです。これではメリットはありません。部下は成長するどころか、うつになっていくだけです。

上司はきちんと注意できない自分に対するいら立ちと、背景としての嫉妬心が加わり、無意味な注意をすればするほど攻撃的感情が強くなっていくようです。きちんと指導できていないという自覚もあって、無駄に時間ばかりが長くなるようです。また、言われている部下から馬鹿にされていないかという不安も出てくるようで、相手により大きなダメージを与えることばかりが目標になってしまうようです。

6 平等取り扱い

後輩を平等に取り扱うということができるのもすごいかもしれません。単に等距離を置いて付き合うということではないことがわかります。スキルのあるメンバーに対しては、スキルに対して敬意を払うということを当たり前のようにできるということだと思います。但し、付き合いの長いメンバーやエースを特別扱いしないということも、人間ですから実際は意識しないとできないと思います。メンバー一人一人からは、自分は決して独りぼっちにさせられないという安心感を抱く高いポイントだと思います。

7 ポジティブ感情を率先表出

案外リーダーに大事なことはここかもしれません。いつも口を開けば嫌なことしか言わないリーダーだとやっぱり息苦しくなると思います。心配が勝ってしまって、ついそういう発言をしてしまう人もいるわけです。

もしかしたらこれこそ天性のものかもしれませんが、竹内さんは楽屋などでもとにかく明るくてにぎやかだそうです。もっとも、常にそのような精神状態でいたわけではないようで、苦しいときもあったようです。心無い人たちの言動から、パワハラの被害を受けた労働者が陥る状態と同じ症状にもなった時期もあったそうです。でも近しい人たちもそれを知らなかったというのです。

意識してポジティブな感情を表現しているという側面もあるのだろうと思います。もっとも、メンバーが自分をリーダーとして尊重してくれていると実感すると、その中にいること自体がとても楽しい充実感を感じるという相互作用もあるかもしれません。

ポジティブなリーダーの元では、メンバーもつられてポジティブになっていくのが人間の心理です。「明るくなれ、積極的になれ」という結果を押し付けることより、リーダーが全体の雰囲気を良くして、部下が積極的に仕事に取り組む効果を誘導するということが一番現実的なのかもしれません。

8 仕事以外の充実

仕事以外の充実も魅力を形作っているようです。悩みを打ち明けられる一般の友達が多いようです。職場の外に味方を作ることは大切です。また、書道は正師範の資格があるとのことです。小学校のころから芸能の修業を始めていますから、芸能活動の傍らコツコツと書道も継続していったということになります。この継続する力はすごい。

この仕事以外の充実ということはとても大切なことです。何かに打ち込むことは自分の状態を感じ取ることができるようになります。一本調子で選択肢が無くなることを防ぐことができるので、致命的な選択ミスを避けることができます。また、仕事しかない人生の場合は、仕事や職場の人間に対して過度な期待をしてしまったり、仕事以外の日常を捨ててしまって人生の目標が失われてしまうという危険も生まれます。同僚にも圧迫感を与えてしまいがちです。

つまり仕事以外のことにも打ち込むことで、心の余裕が生まれるということですね。これは一緒にいて安心を感じることでしょう。

<良いリーダーがいる人間関係>
 
良いリーダーの人間関係に対する影響は、一人一人のメンバーに安心感が生まれるということです。自分のパフォーマンスを何の躊躇もなく発揮しきれることにつながるようです。特に若手メンバーは、一人で歌うよりも全体の中で歌う時の方が圧倒的に優れたパフォーマンスを見せています。チームにいることに安心を感じ、チームの一員だということに安心感をもっているからだと思うのです。それが冒頭に述べた、「堂々とした」姿とそれに伴う圧倒的なパフォーマンスとなって結実しているのだと思います。

若者たちにとっても嫌みのない堂々ぶりと映っているのではないでしょうか。それが見ていて楽しいという印象になり、ファンの人たちが言うところの元気になるということなのではないかと思うのです。

アンジュルムの比較的新しい楽曲に『Piece of Peace~しあわせのパズル~』という楽曲があります。YouTubeで公式のミュージックビデオを見ることができるのですが、この記事で述べたメンバーたちの安心感が見事に映し出されています。日本の芸能界でこのようなMVが制作できるのは、奇跡のようなものを感じます。歌詞も対人関係学そのままのような素晴らしい価値観が示されています。派手な楽曲ではありませんが、名作だと思います。

若者たちが堂々としていること、若者たちが頑張っていることを見聞きし、尊敬できる若者たちから教えを受けることは実に楽しいことです。こう考えると年を取るということは捨てたものでもないように感じてきます。

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【面会交流調停では何を行うのか】面会交流調停手続きで、同居親の感情的な理由で面会が実施できないならば家庭裁判所の存在意義が問われるということ。 [家事]


両親が別居するということは、子どもにとってみれば、両親のうちの一方と暮らし他方とは別居状態になることです。親子が会えない場合に、子どもと定期的な面会を行うために家庭裁判所に申し立てるのが面会交流調停です。

この面会交流がなかなかうまく話し合いが進まず、結局子どもが別居親に会えないことも少なくないのです。別居親との面会は子どもの権利です。離婚等による自尊心低下を防止する等子どもの健全な成長に役に立つことなので制度化されています。

それにもかかわらず、家庭裁判所における面会交流が進まないのはどうしてでしょう。率直に言って、同居している親が、元夫、あるいは元妻に子どもを会わせたくないという感情が強いことが原因です。

離婚を申し立てる方も離婚を申し立てられた方も、相手に対して強い攻撃的感情を抱くことはある程度やむを得ないのですが、面会は別居親のために行うのではなく子どものために行うのですから、そこは感情をセーブしなければならないということが理屈です。

しかし、実際は感情的になってしまっている。さてどうするかということが面会交流調停と言っても過言ではないと思います。

<病的な拒否感情>

頑なに面会交流を拒否する場合は、同居親が別居親に対して強烈な「被害意識」を持っている場合です。
「どうしてあんな奴に子どもを会わせてやらなければならないのだ」という言葉が、男性の同居親からも女性の同居親からも聞かれることが多いです。

頭では子どものために面会が必要だとわかっていても、感情が付いていかないということが多くの実態ではないでしょうか。

被害感情がどこから来るのかについては、実はなかなか難しいことが多いです。
夫から暴力を受けていて、面会交流などを通じて夫が近づくことが怖くてたまらなくて拒否するというケースがありますが、このケースでは、被害感情が攻撃的には表れないことが多いようです。妻が不貞をしたという場合には男性の被害感情が大きくなり頑固に会わせないと主張し続けることもあります。

しかし、攻撃的になる被害感情の出どこが、実はよくわからないということが圧倒的多数だというのが実感です。例えば、多くの事例で、つい半年までは妻から夫に相談事を持ち掛けていたり、家族で旅行や外食をして楽しそうに写真に納まっていたりするのです。それなのに例えばその半年後とかに妻の被害的感情や攻撃的感情が収まらなくなり子どもを連れて別居するという事案が、むしろ多く、これが面会交流の実現しにくい事案になっています。

この不可解さを検討していくと、多くの事案で、妻側から精神疾患の診断書が出たり、精神書状に影響を与える疾病の治療をしていたり、副作用のある薬を服用する疾病の治療歴が出されたり、それから子どもを産んで2年以内だという事情があったりするのです。また、子どもを連れて出て行く直前に配偶者暴力センターや警察に相談していたということを妻側から述べられることも多くあります。実際にはDVが無いのに、DVがあったと思い込む要因のある事案です。この思い込みDVの事案が、最も頑固な被害感情があり、かつ攻撃的な対応をしてくる事案でもあります。

<悪手のサンプル>
ここで慣れない人は、「子ども健全な成長のために面会交流は実施しなければならないことになっている。実施しないことは不正義だ。」と正論を声高に主張するようです。しかしその正論が相手に伝われば、ますます同居親が感情的になるだけです。

感情的になっているのが同居親で、それを何とか調停委員が説得しているにもかかわらず、説得内容があまり開示されませんから調停委員がきちんと説得していないと思って調停委員に食って掛かってしまうと、まさに結果を出さないことへの非難になってしまい、調停委員さえも「なんでこちらが責められるのだ」ということで、やる気を失うということにもなりかねません。

まさにイソップ童話の「北風と太陽」の話の北風の強引さが功を奏さなかったみたいなことをしてしまっているわけです。

面会交流調停でやるべきことは、「同居親に面会をしても良いかな」と思わせる作戦です。自分からコートを脱ぐように仕向けるという作戦をとるしかないということが現段階での結論です。

<やっかいな思い込みDVの事案の特徴>

思い込みDVの場合の、妻側の言い分には特徴があります。
・ 夫の加害について、具体的な内容が主張されない。
・ 具体性があっても断片的であり、前後の脈絡が無い。(そこだけ切り離せば、理由のない虐待があったように聞こえてしまう。都合の悪いことを言わないというのではなく、実際に記憶が欠落しているという印象があるケースが多い。)
・ 具体的な事実が述べられていても、あからさまな針小棒大な脚色がある。(客観的事実に適合しない。二つのエピソードがつながってしまっている等)。
・ 誰かから(相談担当、医師、教育関係者等)からそれはDVだと言われた。
こんなところが主なものです。

身に覚えのないことや脚色が激しいことを主張されますので、夫側は怒りを抑えることができなくなってしまいます。つい、「それは違う」ということに力点を置いて、別居親側も相手を攻撃するような主張になる危険があるわけです。

放っておけば、自然に悪手として挙げた主張をしてしまいかねません。これは理由があることなのです。だからこそ、弁護士や調停委員会は、子どもの利益を最優先して仕事をしなければなりません。

<調停で何を一番に心がけるか むしろDV事案の場合>

基本的に面会交流調停の場合は、同居親を安心させることに努めることになります。同居親の被害感情を駄々洩れのように肯定して寄り添ってしまうと、子どもを会わせなくても良いのだという気持ちが強くなっていきますから、これはだめです。また、離婚調停が合わせて行われることも多いので、妻の主張が事実ではないところは認めてはなりません。ずいぶん後から子どもにとって悪い事態を生むこともありました。否定するところは否定しながらも同居親を刺激しないということですから、面会交流調停はかなり高度の思考を巡らせて言動に配慮して進めなければなりません。かなり難しい活動になります。

先ず安心を勝ち取って充実した定期的かつ発展的な面会交流を実現した事例を紹介します。実際にDVみたいな、精神的ダメージを夫が妻に与えた事例です。

保護命令が出された直後に、面会交流調停を申し立てた事案です。実際は暴力は無かったのですが、暴力を受けたと同じような精神的ダメージを妻が負ったケースでした(もちろん保護命令が出されたこと自体が間違っていた事案です)。別居親である夫は言い訳をしないでひたすら謝り続けました。妻が子どもを連れて立ち去ったことについても、妻を決して責めませんでした。妻からの離婚請求でさえも受け入れました。この徹底した無抵抗作戦は、そう簡単にできるものではありませんが、父親は頑張りぬきました。結果として、離婚が成立して数か月で宿泊付き面会が実現し、そのあとは子どもたちが父親の元に訪問する形での面会も実現し、現在では共同養育のような形になっているとのことです。

この事例では、起きた事実関係に争いが少なく、夫も十分に反省していたので、何とか安心させることに徹することができたのかもしれません。それでも、一緒に暮らしていたわが子とある日ある時突然に会えなくなるのですから、落ち着いて戦略を練って理性的に活動をするなんてことは簡単ではありません。代理人と本人の高度の信頼関係の中で、ぎりぎりの状態で打ち合わせをしていたということが実際です。

<やっかいな思い込みDVの事案>

やっかいなのは、むしろ本当はDVが無かった事案かもしれません。夫の側も理由もわからず一方的に子どもと引き離されて、自分が子どもに近づくといちいち警察が呼ばれるわけですから、理性的に行動することはなかなか難しいのはよく理解できます。また、具体的な出来事がありませんから、そのことについて謝罪をして、類似のことをやらないようにしてということがなかなかできません。

妻の側も何か理由があって、夫に対して被害意識が強くなったのではなく、自然と被害意識が生まれてきて、そのあとでいろいろな出来事を被害的に記憶の改変が起きるという事情がありますから、安心させるということは極めて難航します。

<面会交流調停でやるべきこと>

とにかく悪手を打たないことです。「会わせるべきだから会わせなさい。」ということで強硬に押していっても話にはなりません。中には裁判所で極めてヒステリックに逆上するとか、泣き出して手が付けられないようなこともあるわけです。

ここで最悪なのは、同居親が感情的になっているので調停が進められないとして取り下げを迫る調停委員の存在です。面会交流調停の多くの困難事案では、同居親は精神症状が先行している病的な状態です。強烈な感情的状態というのは、面会交流調停にはつきものだと言ってよいと思います。元々感情的になる事件類型なのに、「感情的で収拾がつかないから調停が成り立たない」では、面会交流調停という制度を設けた意味がありません。

感情を鎮める手立てを講じることを徹底しなくてはなりません。

<どこに寄り添って、どこに寄り添わないか>

まさかこんなことは無いと信じたいとは思いますが、最悪の聞き取りは以下のとおりです。

「なるほど、お子さんを会わせたくないのですね。それ相応のことを申立人が下のだから罰を受けるべきだというのですね。わかります。そういう事実を経験されたら会わせたくないですよね。そもそも離婚するくらいですから、会わせたくないのは当たり前ですよね。わかりますわかります。」

「でも、面会交流は子どもの利益なのだから頑張りましょう。」

これではだめです。どうダメかというと、妻からすると、自分の話を感情も事実関係も話して、共感を示していたはずなのに、どうして会わせないという結論だけが否定されるのかわからない。結局自分の話を聞いたふりをして聞いていなかった、適当に相槌を打っていたのだという意識になってしまうからです。

また、駄々洩れのように共感を示してしまうことをきちんと自覚していると、「会わせてみたらいかがですか」という問題提起ができかねるということもあるのではないかと思っています。

共感を示す部分と示してはいけない部分をきちっと分ける必要が先ずあります。その上で、示す共感は、感情的(情動的)共感ではなく認知的共感です。あるいは共感ではなく、承認ということかもしれません。

共感を示すないし承認する部分はどこでしょうか。少しややこしくなるのですが、子どもと同居する妻の「感情の存在」です。子どもを元夫に「会わせたくない」という感情は、実際に存在するのですから、これを否定していては何も始まりません。「いいやあなたは会わせたくないと思っていない。」と字で書くとバカげていることがわかりますが、結構こういうやり取りは気が付かないだけで実際にはあります。

会わせたくないという感情はある、しかし、子どもにとっては別居親と会った方が良い、それではどうするかという流れになるほかありません。

一番肯定や共感してはならない部分は、妻側が主張するこういう事実が存在したという客観的事実についてです。実際には主張通りの事実があったということは少ないです。特に夫の行動について、ニュアンスや順番、あるいは時期を含めて妻側が主張する通りの事実ではないことが多くあります。また、第三者はそれが事実であるかどうかはわからないことです。

ここで軽々と妻がった事実が存在したということを前提に、その後の話に共感を示していたら、その事実がいつの間にか妻の言うとおりに存在してしまうことになってしまいます。そうすると、実際ではない作られた夫像が独り歩きを始めてしまいます。

こういう妻の話が真実であることを前提とした調停委員のアプローチがなされることはしょっちゅう感じるところです。そのことが事実であるとして話を進める場合は、必ず夫から見た事実を確認することが鉄則です。そしてどちらが真実かが曖昧であるならば、その事実を真実だという前提を自分の心から排除する必要があります。

典型的なダメな事情聴取は、専業主婦の妻からの話で、夫が毎月の小遣いを2万円しかくれない、経済的DVだと訴えられて、「それはひどいね。」と言ってしまう場合です。実際の話は、妻に家計を預けていたら月の半ばで使い切ってしまい、残り半月の暮らしが成り立たないことが続いたので、夫が家計を管理していた事案です。夫の賃金が手取りで20万円弱で、電気高熱水道費や子どもの教育費などはすべて夫の口座から引き落としになっているし、食材については毎週家族で出かけて購入し、夫が支払うということでした。それでも夫は子どものために月2万円強の積み立てをしながら生活していました。4万円というのはまさに専業主婦の妻の小遣いで、少し多いかなというくらいを渡していたということが実態でした。この事例は実際にあって、夫の小遣いは昼食代込みで5千円でした。

「それはひどいね。」という調停委員の発言は、夫の低賃金を第三者の立場であざ笑ったことになってしまいました。

また妻から子細に話を聞かなければ、妻が本気でそのような事実があったと確信しているかどうかもわかりません。

例を挙げてみましょう。
①1年半前に家のリビングで夫婦喧嘩があった。
②リビングには灯油のストーブがあった。
③夫が口論の上で激高してストーブを蹴っ飛ばした。
④高熱のストーブが転がった先に赤ん坊がいた。
と妻が主張して、乱暴者の夫とは危ないし怖いから一緒に住めない、子どもを会わせることは危険だからできないという結論の理由としたとします。

しかし、
A)それから1年以上一緒に住んでいたとしたら、今は怖いと言っているけれど、別居するまではどうだったのかを聞く必要があります。
B)そもそも、どういう前後関係で口論となり、ストーブを蹴っ飛ばすことになったのかの流れを聞く必要があります。
C)ストーブと赤ん坊の位置関係を聞く必要があります。

そうすると、口論してストーブを蹴っ飛ばしたのが1月のことで、その時はストーブに八つ当たりをする程度で実際は転がしてはいなかったけれど、6月にストーブをしまっていない時にストーブにつまずいて火のついていないストーブを倒してしまったこと、ストーブが転がった方向に子どもはいたけれど危険なほど距離が無かったわけではなく、子どもも面白がって笑っていた。等の事情が出てくるかもしれません。

こういう記憶の混乱は、思い込みDVを抱くような精神状態の場合度々見られることです。

もう一つ例を挙げてみます。
①ある日ある時自分は布団を敷いていない寝室の畳の上に夫から倒された
②夫は自分にのしかかり押さえつけていた
③その後どうなったか覚えていない

こういう主張が実際に調停でなされたことがありました。類似の出来事を主張する妻も複数います。妻は畳に転がるまでのいきさつを覚えていないようでした。実際は、本人が何か叫びながらはだしで部屋から庭に飛び出そうとしていました。
薬の副作用のように突発的な行動をしてしまったわけです。
怖くなった夫が妻が外に飛び出すのを制止し、身体を抱えて逆方向に力を入れたため、勢い余って妻と夫は転倒した。夫はまた飛び出すのではないかと思って寝ころんだ妻を上から押さえつけたということが複数の事案で実在します。その後、妻が落ち着いたので手を離したということでした。

「本当にそういうことがあったの?」と疑ってかかる必要はありません。しかし、普段から乱暴なことをしない人がある日ある時乱暴なことをしたというのであれば、何があったのかということを突っ込んで尋ねることは普通の会話だと思います。

また、よく理解できなかったことについて聞き返すことは悪いことではありません。「大事なところだと思うのだけれど、よく呑み込めなかったので、もう一度お話ししてもらっていいですか。私の呑み込めない理由は、どういう順番でそういうことが起きたかということかもしれません。」と尋ねれば、言っている方も興味を持って聴いてくれているなと感じることが通常です。

感情の存在を肯定した上で、感情が生まれる原因を一つ一つ丁寧に、リアルな実態把握をお互いに行う過程の中で、「もし実行するならば、どのような条件を付ければ、少しでも安心した面会交流になるでしょうか。」という問題提起は行わなければなりません。

面会交流調停は、妻のカウンセリングが目的ではないからです。あくまでも子どもを自分の親に会わせることが子どもの利益になるから行われるわけです。

そこで少しずつ、歪んだ認識を伸ばしていく必要があります。
例えば冒頭に掲げた「どうしてあんな奴に子どもを会わせて喜ばせなければならないのだ。」ということについても、「喜ぶ結果になることは悔しいでしょうね。子どもが父親に会うということは父親も子どもに会うことになるので、そこはどうしようもないですね。」ということを繰り返し告げていく必要があると思います。

別居親による子どもの連れ去りを筆頭に、子どもを通じて自分の現状を聞き出すのではないか、子どもに自分の悪口を吹き込まれるのではないか等不安はいくらでも出てくるのが面会交流調停です。つきものなので仕方がないのです。

ここについては、そういうことをしないこと、そういうことをしない可能性が高くなることがあるならばそれをすること、例えば第三者を立ち会わせるとか、入り口が一つしかない施設で面会させるとか、誓約させるとか調停条項に入れるとか、きちんと教育すること、つまり裁判所から親の悪口を子どもに吹き込むことは子どもにとって精神的な混乱となることやもう面会したくなくなることをきっちりと教えることで、不安を軽減していく工夫をしていく必要があります。単純にそんなことはしませんよと言っても効果は無いようです。

調停委員会は、同居親の感情以外の面会阻害事由が無ければ、あくまでも面会を実現するという立場から同居親の不安を解消していく働きかけを意識的に行わなければ子どもの利益ははかれないということを自覚する必要があります。

<別居親側の代理人の仕事>

実は、同居親を安心させるという目的意識を持てるのは、調停委員ではなく別居親の代理人だと思います。別居親の葛藤を解消することはできませんが、できるだけ調停委員の前では葛藤を見せない。もちろん妻の悪口を言わせないということが第一です。つまり、調停委員とチームを組んで、同居親の面会交流を促していくという構図を作ることが理想です。

ただ、そういう法の趣旨を理解せずに、表面的な同居親の感情に寄り添ってしまう調停委員は高確率で現れますから、そういう場合は毅然とした態度を示す必要があると思います。あまりにも理不尽な調停委員の態度が改まらない場合は、調停委員会のトップである裁判官と話をするべきだと思います。子どもを別居親に会わせるのだという不退転の決意を言葉に出すことも必要なことがあります。「子どもの健全な成長をあきらめるわけにはいかないのだ。」ということですね。

さて、同居親である妻の情報を一番持っているのは、ほかならぬ夫であることは間違いありません。妻がどういう性格で、どうしたら安心するかを夫と打ち合わせをする必要があります。何が引っかかっていて、何をどうすれば気持ちが揺れるのかということです。

また、必要以上に敵対しているわけではないということを、事実として作り、妻に伝える作業は必要になると思います。尊敬している部分、感謝している出来事については積極的に伝える努力をしています。

「この別居親が面会交流をしても悪いことは起きないだろうな。」と調停委員に感じさせることこそ一番の情報提供かもしれません。

そのような情報提供を含めて、別居親側は調停委員に必要な情報を提供しながら、一緒に説得の方法を考えていくということです。ここで正論をそのままいうことにメリットはあまりありません。あくまでも面会実現という結果に誘導していくためにはどうしたらよいかという視点が必要です。

時間厳守とか、乱暴にしないとか、悪口を言わないなどということは、別居親は初めからそういうつもりですから改めて条項にする必要を感じないものですが、言葉あることによって同居親が安心しますので、思いつく限り誓約していくべきです。それでも、自分の手を縛ることにはならないので、どんどん誓約するべきです。

具体的な面会交流の場所とか、方法とかのプランがあれば具体的なイメージを提案していくことも相手の不安を緩和することに役立つようです。

また、最初から十分な面会交流が確立するわけではありません。最初はリモートでの面会ということは結構あります。それで調停を終わりにするわけにはいかないです。でもそういう同居親が受け入れやすい方法で試していきながら、面会に対する強大な抵抗感を少しずつ緩和させていくということは有効な方法だということが最近の教訓です。

「できる範囲でよいから試しにやってみよう」ということから始めることを、調停委員が提案しなければ子どもは健全な成長の機会を失うことになってしまいます。

同居親の代理人が立ち会えば面会させてみるというならば、大変お時間を取らせてしまいますが、できるだけ面会に立ち会っていただきたいと私からもお願いします。仙台弁護士会は、妻側の代理人として毎月日曜日に面会に立ち会ったり、妻のいる場所から子どもを預かって面会場所まで運んであげる心優しい弁護士がたくさんいます。頭が下がります。中には同居親の代理人の事案を複数持っていて、日曜日の過程の時間を犠牲にしている猛者もいらっしゃいます。この弁護士たちと同じ弁護士会というだけで、私は誇らしく感じるわけです。

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【面会交流事例報告】 10年ぶりの父子の再会と4年ぶりの祖母との再会 祖父母と孫の面会交流の有効性 [家事]



弁護士が立ち会って長期間会うことができなかった親子が面会するということがあります。弁護士としては余計なことを考えずに、淡々に段取りをすませて、後は親子の邪魔をしないということがコツです。

ただ、長期間会えなかったけれど、せっかく会えることになったのだから、これからも継続して交流を続けてほしいので、いくつか事前にアドバイスをすることが必要にはなります。
試行面会マニュアル 別居親がやるべきこととやってはいけないこと
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2021-08-11
この記事の第4章に書いています。第1から3は飛ばして構いません。

むしろ、弁護士が苦労するのは、面会を実現するまでの活動です。

<10年ぶりの親子の面会の事例>

これは、別居から1年くらいしてから代理人になり面会交流の調停をはじめました。全く進展が無かったこと、今後も進展が見込まれないこと、間に入ってくれる共通の知人が現れたことから、さっさと調停を取り下げました。その知人さんの計らいで夫の代理人である私は奥さんと知り合いになりました。もちろん夫の代理人であることは伝えてありますし、知っています。奥さん側の相談に乗るような形で、接触する機会を増やしていきました。やがてお子さんとイベントで一緒になる機会を知人さんと私で作り、信頼関係を作り、毎年のクリスマスプレゼントの仲介から始まり、誕生日プレゼントの仲介などをするようになりました。

色々あった事案ですが、同居していた母親は子どもに対して父親の悪口などは言わなかったようですし、父親は全部自分が悪いというように考えが変わっていきましたので、後は母親の負の記憶だけが問題だったのかもしれません。10年たった今でも二人が顔を合わせることは困難なのですが、子どもは父親に会うことができました。生まれたばかりの時に別離していたので、初めて会う人みたいなものですが、子どもは興味津々で、前日に質問事項をメモしてそれに沿って質問をしていました。父親は紛れもなく父親としてお子さんに対応していました。

お子さんにとっては、自分にも父親がいるという実感を持てたみたいで、その表情からは充実感を見て取れました。

淡々と報告することにとどめようと思いましたがひとこと言わせていただければと思います。子どもと会えなくなった親御さんに言いたいことです。

決してあきらめてはならないということです。

できるだけ早い段階から、子どもの利益を中心に考える協力者についてもらい、相手を責めることなく粘り強く機会を作るようにするということです。相手は責められなければ、つまり子どもを連れて離れたことを責めなければ、自分を攻撃する必要性が一つなくなるのです。そうして粘り強く会う機会を働きかけていくということが大切です。

親はあきらめればそれでよいかもしれませんが、子どもあきらめるわけにはゆきません。確かに、子どもが成長する姿に立ち会えなくなることは取り返しのつかない損害です。しかし、子どもの方は、「自分にはもうひとり親がいる。その親に自分は愛されているはずだ。親と会ってみたい。」という気持ちでいるようです。親があきらめてしまうと、子どもも自分についてあきらめてしまうようになることがあります。自分に自信が持てず、自分なんて価値のない存在だと思うようになることもあります。但し、それからでも面会を実行することによって、自信を取り戻し、継続的に交流することによって大きな世界に羽ばたいた実例もあります。子どもにとっては、同居していない親も、間違いなくかけがえのない存在だと実感します。

<4年ぶりに祖母と面会した事例>

結局夫婦は離婚することになりました。この問題が生じる前からお子さんと私は面識があった珍しいケースです。それだけに不可解な離婚事件でありました。離婚を突き付けられた当事者の方々が、理解不能状態になって激しく混乱することが多いのですが、私の何倍も理解不能であり、答えを求めているということになるのでしょう。その不可解さの一端を垣間見ることができた事例です。

どうしても母親は父親に子どもを面会させることに抵抗があり、父親との面会交流はいまだ実現していません。それほど元夫に対する妻の負の感情は継続しているのです。しかし、祖母と孫は、父母が同居中から一緒に生活していた時期もあり、良好な関係でした。母親と夫の母との関係は私は知りませんでした。

面会場所には子どもと母親がいて、そこに祖母が訪れるというパターンでした。ここで感心するのは女性というのは、人間関係を潤滑にすることを生まれながらにして会得しているのだなあということです。これが、夫が子どもを連れ去って、妻の父親が面会に来たとしましょう。表立ってバチバチになるか、無言でバチバチになるかはともかく、不穏な空気になるのは間違いないと思うのです。私がどちらかならばきっとそうなるでしょう。なんせ自分の子どもと離婚した上に孫を取り上げた人間ですからね。

しかし、祖母は孫の母親に声をかけ、無沙汰をわび、面会に関する感謝を自然と口にしていました。男の方だと、口を酸っぱくして行っても感謝なんて口にしないと言う人が多いように感じます。理屈はどうであれ、原因を作ったのは自分ではないとしても、はるばる面会地まで来ていただいたということに感謝してもおかしくないのですが、なかなか口にすることができないのが男性のようです。

母親の方も無沙汰をわび、様々なことに感謝を述べ子どもを祖母のそばに行かせようとします。二人とも如才ないふるまいが素晴らしいと感じました。当たり前のように気が利いたプレゼント交換なども行われ、女性ってとても素晴らしいです。口を酸っぱくしても・・いややめておきましょう。

最初緊張していた子どもも、すぐに打ち解けたようです。私は黒子に徹して、勝手に驚いたり、感動したり、涙ぐんだりしていました。気配を消すことに専念していました。何も関与しなくても極めて良好に面会が進んでいきました。

<祖父母と孫の交流の有効性と手段の創設の必要性>

実は、最初の事例でも、祖母との面会交流が父親との面会交流に先駆けて行われていました。

子どもの母親にとっても、元夫と子どもとの面会交流や元夫との接触というのは精神的にしんどいようです。父親との面会交流にこだわることは、まさに同居元妻に面会交流をするかしないか二者択一を迫り、高いハードルを与え続けることなのかもしれません。しかし、夫の母であれば、離婚や別居の原因に深く関与していない限り、数段も抵抗感は小さくなるようです。全く無いというわけではありません。

子どもが父親側と接触するという具合に大きく考えれば、比較的実現しやすいという利点が一つあります。父親ではなくても父親側の人間と接触することは子どもにとって安心感が生まれるようです。

一つには自分には母親(同居親)以外にも多くの人間から大事にされているということを実感できるという効果です。

一つには父親(別居親)側が自分たちが父親と同居していないことに絶対的な怒りを抱いておらず、父親側の人間を会うことを許してくれた、また母親側も許してくれたという安心感を抱くことです。子どもにとっては、自分に何ら責任が無いにもかかわらず、一方の親と同居していないことに罪悪感を抱いていることが多いです。

もちろん別居親と会うことがより効果的ですが、別居親側の人間と会うことも大きな効果がありそうです。

そして、同居親側からも元配偶者との距離の近い人と接触することによって、元配偶者に対して抱くストレスに馴れが生まれるという効果もあるようです。次は元配偶者と子ども合わせてみようかという気持ちの突破口にもなりうる様です。突破口が大げさだとすると、風穴をあけるというか。

別居親にとっても、自分がそこまで嫌われていないという少しの安心感と、自分も子どもと会えるようになるかもしれないという希望が生まれるわけです。

裁判所では、祖父母の孫に対する面会交流を認めようとしない傾向があります。そのような話し合い自体が消極的です。審判によって裁判所が面会を命じる手続き無いということも大きな原因のようです。祖父母は面会を請求する権利が無いなどと言われることもあります。

実は両親に事情があり、実質的に祖父母に育てられたようなものだという子どもたちはたくさんいます。人間としての最初の信頼関係が祖父母との間に作られたと言っても過言ではない場合もあるのです。それにもかかわらず、両親離婚や片親との死別を契機に、子どもがそれまで当たり前のように自分のそばにいた一方の祖父母とも会えなくなってしまうと、子どもの精神的安定のよりどころが奪われてしまうことにならないでしょうか。

実際に祖父母と面会することは、実例を見る限り、子どもにとって良い効果があるようです。監護権の問題にしないで、扶養の問題とすればもう少し方法が切り開かれるかもしれません。しかし、祖父母と子どもの面会についての効果についての知見が裁判所にはないので、一筋縄にはいかないでしょう。ぜひ祖父母に接触する子どもの心理的効果について調査をしてほしいと思っています。

無条件に愛されるという経験は、どうしても祖父母の方が親よりも子どもに与えられることではないかと私は思います。無責任なかわいがりということも時には必要なことなのだと思うのです。どちらが良いかということではなく両方経験することが有効だということです。

ぜひ子どもの健全な成長のために、孫が祖父母に面会できる手段を創設していただきたいと思います。

あるいは法律や家庭裁判所に期待してはならないのかもしれません。祖父母と孫との交流も強硬手段ではなく、相手を誘導していく形で粘り強く働き替える必要があるのでしょうか。しかし、私たち中高年には時間があまり残されていません。


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