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子の連れ去りが子どもの成長にとって有害である理由 [家事]



<外務省のホームページを手掛かりに>

夫婦が別居をする場合、一方が子どもを連れて突然家を出ていくということがあります。私は、これまで中立評価のネーミングということで子連れ別居という言い方をしていました。ところが、国は、突然相手方に告げないで子どもを連れて別居することを「子の連れ去り」という言い方をしています。
外務省のホームページです。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000843.html
これにならって、子の連れ去りという表現を使います。
外務省が、子の連れ去りの定義、子の連れ去りが有害である理由を上記の記事の中で端的に述べています。
先ず、子の連れ去りの定義は、以下の通りです。「結婚生活が破綻した際,一方の親がもう一方の親の同意を得ることなく,子を自分の母国へ連れ出し,もう一方の親に面会させない」ということです。外務省のホームページなので、国際的な問題で表現されていますが、大事なことは、①一方の親がもう一方の親の同意を得ていない。②子どもを連れて別居した。③他方の親に会わせない。この3点です。この3点を満たすケースについて「子の連れ去り」と表現して、これからお話をしていきます。
次に子の連れ去りによって、子どもに与えるマイナスの影響についても外務省は述べています。「国境を越えた子の連れ去りは,子にとって,それまでの生活基盤が突然急変するほか,一方の親や親族・友人との交流が断絶され,また,異なる言語文化環境へも適応しなくてはならなくなる等,有害な影響を与える可能性があります。」とのことです。これは、これから述べる通り、その意味を考えれば、国境を越えようと越えまいと子どもにとってのマイナス影響が起きます。グローバル化社会では、それほど国境が重要視されるわけではありません。子どもの年齢によってはごく近い場所でも自力では移動できませんので、未来永劫の別れのように感じる場合もあり、マイナスの影響を与える理由を満たしてしまうのです。だから、国境を超えるかどうかに本質的な問題があるわけではなく、連れ去り自体に問題が生じると考えて良いと思います。結局、この点も①子どもの生活基盤が急変すること②子どもと一方の親や親族・友人たちとの交流が断絶されること、③子どもが新しい環境への適応をしなくてはならない状態にあるという3点が問題だということになります。
では、子の連れ去りはどのように子どもの成長に悪影響を与えるのでしょうか。上記の外務省の考えを解説していく形でお話ししたいと思います。
「子どもの生活基盤が突然急変し、親や友人との交流が断絶され、異なる環境へも適応しなくてはならない負担が生まれる」というその意味です。

<子どもの生活基盤とは何か>

子どもに限らず人間は、群れの中で生活をしたいという本能的要求を持っていて、これができないと心身に不具合を生じてしまいます。子どもは、特に生まれた直後は、周囲の人間に自分の到らない部分を補ってもらうことによって、安心して生活をしています。出生直後などは、母親との結びつきがかなり強いようです。五感で母親を把握しようとし、母親がそばにいないと心配になるような反応をしたりします。他の哺乳類の動物もそうなのですが、人間以外の動物であれば、あまり母親以外の存在というものは必要とされないようです。猫のようなそもそも群れをつくらない動物は子離れまで母親とだけのきずなで安定して生活するようです。また二ホン猿のように一見群れで生活しているけれど、子育てをするのが母親だけという動物も同様でしょう。ただ、犬猫などの動物のネグレクト疎外の治療にあたる獣医さんの話では、母親に代わる存在(人間でもよい)が母親と同じように養育することによって、ネグレクトの悪影響(他の生物に対する過敏な警戒感等)が緩和されるということを教えてもらったことがあります。
ところが人間の場合は、これらの他の動物と著しい違いがあるようです。人間は、母親だけが子育てをするというのではなく、群れが子育てをしてきたようです。サル等は母親にしかなつきませんが、人間は他の大人にも共感を持ち、母親以外の人間の真似をしながら成長していくという、生まれながらに特殊な性質を持った動物のようです。母親が出掛けて近くにいなくても父親と一緒にいることで安心するのはそういうことなのだと思います。父親であると認識しているというよりも、一緒に生活しているということで安心できる存在だと刷り込まれていくようです。父親側の子に対するアプローチも大切だということになります。父親が子育てに極端なまでにかかわらなければ子どもも安心できる存在として認識できません。通常は、子どもにとっては、母親と父親が一緒にいるということで、安心も倍増するのだと思います。両親が愛し合って子どもができる、両親が愛し合って子どもが大人の人間へと成長していくということですから、何ともうまくできているはずなのです。
徐々に子どもは人間関係を把握していきます。両親と自分という関係を安心の実感で把握していくわけです。また、経済的問題や親の心情、他の子と自分を比較するようになれば、本能的要求に加えて文化的要因からも両親の存在を要求するようになってゆきます。自分と両親、その他の兄弟や祖父母といった家族という群れを強く意識するようになります。この群れは人間の群れの中でもごく少数の構成員の群れですから、群れに対する感じ方も群れの大きさに合わせた特徴があります。一人一人が群れの形を作っており、一人が欠けただけでも群れの性格はがらりと変わります。これまでの群れではなくなったという意識が生まれてしまいます。自分の安心できる基盤が著しく不安定になるという感覚になってしまうということです。特に死別の意味が分かる年齢の場合は、一人の人間がいなくなったという以上にこれまでの自分が所属する群れが無くなったという強い喪失感を受けてしまいます。
子どもが親から引き離されるということは、親という絶対的な存在を失い、自分の安心の基盤を失ったと感じる危険があるということです。子どもがその理由を理解できなければ、別の家族もわけのわからないままに同じように失うのではないかという不安を覚えることがあります。年齢によっても異なりますが、子どもはその理由を考えても考えつかないために、自分が悪いからではないかという自己中心的な考えからの自責の念が起きるわけです。何か理由があるということで、納得して安心しようとするわけです。自分を責めることで納得しようとすることは子どもだけではなく大人にも見られることです。連れ去りに限らず一方の親との別離を経験した子供で必要以上に良い子になろうとすることは、特に小学校低学年から学齢前の子どもに多く見られます。また、良い子になる理由は、もう一人の親が自分から離れていかないために必死につなぎとめようとしている表れでもあるそうです。
それでは、子どもも小学校中学年になれば、連れ去りの影響が軽減されるかというとそういうことではなく、別の問題も生まれてきます。それは、子どもの社会からの断絶が起きることです。子どもも、幼稚園や小学校という社会に属しています。最近では、習い事やスポーツ少年団など親と独立した社会生活を営んでいます。家庭とは別の群れです。この中で友達や先生との交流があります。これらの交流がとても貴重です。大目に見てくれる親とは異なり、友達や先生は、自分を特別扱いしないという厳しいところがあるわけです。どういうことをすれば喧嘩になり、どういうことをすれば自分が非難されることになるのかということを、失敗しながら覚えていきます。体に刷り込むように覚えていくわけです。喧嘩したり許したりする中で、自分たちの社会の中での自分の役割も身に着けていくようになります。これが群れをつくる人間の中でとても重要な学習です。
このようにみていくとお分かりになると思いますが、人間とは、子どもといえども、単体で身一つで生きているわけではありません。自分という存在は、絶対的なものではなく、他者との関係の中で確立されている概念になっていくのです。家族の中で、愛される自分がいたり、家族に貢献している自分がいたり、助けてもらう自分、叱れても受け入れてもらえる自分がいる。学校でも、黙々と義務を果たす役割であったり、人の話を聞いてあげる役割であったり、静かにしていることが好きな自分が受け入れられているという実感の中で「自分」というものを、実は把握しているわけです。人間だけではなく、通学路にいる猫をかわいがったり、自分の部屋に思い出の品を飾ったりと、生活の基盤は、自分という存在がいるべきかけがえのない場所であり、人間にとっては自分そのものなのです。
ここから切り離されることは大変つらいことです。自分の一部が切り離される感覚を持つようになります。特定の誰かとの別れが苦しいということもあるでしょうけれども、「自分」を切り捨てるという感覚が苦しいのです。
つまり、子どもにとっての生活環境というのは、自己を確立するための学びの場でもあり、自己の同一性を確保するものでもあり、同一性を継続させる環境でもあるわけです。

<典型的な無責任な反論とそれに対する再反論>

こういうことを言うと、引っ越しや転校は、連れ去り事案に限らず普通に起こることだから、それほど子どもに対する影響が悪いとは言えないと強弁する人たちがいます。おそらく連れ去り親という大人の利益を守るために必死のあまりに子どもの不利益を考えようとしないのだろうと思います。世の中には多少子どもに不利益があっても連れ去り別居をしなければならないときはあります。その場合でも、できるだけ子どもの負担を考えて対応しなければならないはずです。それには子どもの不利益から目をそらしてはダメなのです。子どもに不利益が生じることを否定してしまったのでは、子どもは誰も守ってもらえないということになってしまいます。こういうことをいう人たちは、今はできないけど後でやろうと思っているということもよく言います。しかし、いつになっても子どもへの対応をしないことがほとんどです。
確かに親の都合で転校をしたり、死別したりするということはありうることです。しかし、圧倒的多くの場合、突然の転校ということはありません。しばらく前から転校が決まっていて、十分お別れをすることができるし、別れを悲しむことも大っぴらにすることができます。それによって、物理的には群れから離れても、心理的には群れの一員であり続けることができます。また、群れを離れる理由も納得できる理由です。さらには新しい学校でも、群れを移った理由を説明できるし新しい学校でも自然に受け止めてもらえます。死別の場合でも病気を患って年寄りが無くなる場合はある程度は納得することができますし、悲しみを隠す必要はありません。ところが、突然の事故死が家族に起きた場合は、感情を処理することが難しくなり、なかなか回復ができないということはむしろ自然なことです。
ところが子の連れ去りの場合は、子どもからすれば、気が付いたら自分の家から別の家に映されていたということが通常であり、あらかじめ何月何日に転校するということを前もって教えられていることはありません。別れを告げて、親や友達と惜しむことは許されません。また、連れ去った親の葛藤が強ければ、もう一人の親との別れや友達との別れを悲しむことは、子ども心に憚られるようです。これが心理的にも重大な悪影響を及ぼすようです。悲しいときに悲しむことができない。自分の感情を自分で否定するということが続くことは、悲しむ体験があったこと以上に不自然なことであり苦痛です。自分の感情を否定することは自己否定にもつながります。また納得いかない群れからの離脱の体験は、残っている人間関係に過度にしがみつく傾向があることも指摘されているところです。新しい人間関係に飛び込むにあたって、支えとなる親の一方がいないのです。不安の軽減も思うようにいかないこともあるでしょう。徐々に自分を大切にする感覚が弱くなり、何事も仕方がないというあきらめが出てしまいやすくなるということを当事者の方たちは教えてくれます。それにもかかわらず、「子どもは悲しいそぶりを見せていない」、「新しい学校に対応している」という主張が多くなされます。この主張は、子どもは独りぼっちになる危険を冒して悲しいと主張しなければならないという主張です。子ども自身に自己責任を押し付けているように思えて憤りを禁じえません。
統計的な問題ですが、アメイトという有名な研究者の大規模調査など、あらゆる統計的な調査によって、子どもは、一方の親と分離されることによって、自己肯定感が低くなっていく、自己評価が厳しくなっていくということが明らかになりました。最近の調査においては、分離そのものよりも、別居や離婚をしてもなお両親の葛藤が鎮まらないことがより大きな問題だと指摘されているようです。これに反する調査結果は特にありません。
これらの研究結果を踏まえて、日本も子どもたちの健全な成長を害されることができる限り少なくなるように民法766条の改正がなされ、面会交流の実施を裁判所や法務省が促すようになりました。これらの統計的結果の外、様々な手法の科学的調査をもとに科学の成果として法律が変わったのです。
面会交流に関する法務省の見解
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji07_00017.html
法務省のパンフレット
http://www.moj.go.jp/content/001286705.pdf
最高裁判所の動画 
https://www.bing.com/videos/search?q=%e6%9c%80%e9%ab%98%e8%a3%81%e5%88%a4%e6%89%80%e3%80%80%e5%8b%95%e7%94%bb&docid=608001037674941344&mid=A42EDE37DB78C8BA6637A42EDE37DB78C8BA6637&view=detail&FORM=VIRE
 最高裁判所の動画、「子どもにとって望ましい話し合いとなるために」
https://www.courts.go.jp/links/video/hanashiai_video/index_woc.html


<子どもの健全な成長を阻害するとはどういうことか>

それでは、自己評価が低下するとはどういうことかということに説明を移さなければなりません。現在は家庭裁判所や裁判所の中に、家事手続きがきちんと浸透しないため、子の福祉の観点からの判断がないがしろにされています。「子の福祉」とは、子どもが心身ともに成長する存在であることに着目して、子どもの将来を見据えた健全な成長のためという観点です。今がよければそれでよいという考え方を法律や国はとっていません。裁判所の中でも、このことを知らない裁判官はとても多いです。とても恥ずかしいことです。子どもからしてみれば、無責任な判断で自分の一生涯に影響を与える判断をされてしまうという取り返しのつかないことをされていることになります。
深刻な影響は自我が確立する年齢である中学校から高等学校にかけての時期に集中します。小学校のときに別離を経験した場合、そのマイナスの影響が出てくるのは少し後の時期だということになります。紛争当時に視点をおくと、少し先の子どもへの影響を考えなければならないということです。
この時期に自己評価が低くなると、どうせ自分が何を言っても、何をやってもどうにもならないことばかりだという投げやりな気持ちになります。何かを頑張って成し遂げようということが弱くなります。その結果、安易な方向に向かおうとすることが多くなるようです。現在の苦痛や寂しさを解消できればそれでよいという行動原理が出てくる危険があるわけです。現代日本は子どもにとっても厳しい社会ですから、子どもが自分の目標を達成するためには相当の努力が必要となるようです。その努力ができないということは極めて深刻な影響が生じてしまいます。特に人間関係は、パワハラやセクハラ、いじめなど、何とかそこから自分を守ろうという努力や精神的緊張の中での冷静な判断が求められますが、そういうこともどうでも良くなってしまうようになるようです。
そればかりではなく、同居親の葛藤が高い場合は、別居親を見返そうと同居親が子どもに無理をさせることが多くみられます。両親がいれば、一方の親が無理をさせても、他方の親がそれはやりすぎだと批判することで無理の継続を回避することができるわけです。しかし、もう一人の親の影響が期待できないとすれば、子どもは反発するという選択肢も与えられません。勉強にしろ、スポーツにしろ、その他の習い事にしろ、小学校低学年までは無理がききます。子どもが努力すれば、ある程度の成績を獲得することができます。ところが小学校高学年くらいになると向き不向きがはっきりしてきて努力だけではどうしようもなくなってゆくようです。既に親の期待と自分の希望と区別できなくなっているために、それでも無理をして、それでもうまくいかないために挫折を味わうことになってしまいます。勉強にしろ、習い事にしろ、無理だとはっきり見せつけられるのは子ども自身なのです。ますます自己評価が低くなってしまいます。ますます努力をしないで早々とあきらめるというパターンが身について行きます。
一方の親の過度な期待や押し付けを感じるたびに、もう一人の親がそばにいないことを恨んだり悲しんだりするようです。

<子どもの健全な成長を阻害する片親疎外>

 「片親疎外」という現象があります。連れ去られた子が、別居親に対する拒否反応を示し、面会なども拒否するという現象です。
 これは、自分が生まれてきたルーツである片方の親を心理的に否定することです。自分は否定するべき別居親と、肯定するべき同居親の両方の血を分けられた人間なのだという意識が生まれてしまいます。そうすると、15歳くらいと言われている自我が確立する時期に、自分の同一性というものが分からなくなってしまうという深刻な問題が生じてしまうそうです。また、自分の親を否定するほど同居親の価値観に依存しているということを示します。自分がどうしたいという自分の感情で行動することが少なくなり、同居親だったらこう言うことをしてほしいのではないか、こういう感情を持ってもらいたいのではないかという行動原理になってしまっていますから、なかなか周囲からは理解できない行動原理をとってしまっていることになります。周囲から浮いた存在になりやすい状態になっているということです。
 先ほど、子どもが小学校中学年くらいまでは頑張ればそこそこの成績を収めると言いましたが、並大抵の頑張りではないことがここから説明できます。つまり、練習がつらいからサボろうとか、手を抜こう、遊びたいので早めに切り上げようということが子どもらしい自分の感情を行動原理にするということであれば、片親疎外の子どもたちは、自分の感情を行動原理にしないで、同居親の希望をかなえようと自分の苦しさを叱咤激励しながら頑張りすぎてしまうのです。努力と言っても極端な努力ということなのです。
 自我が芽生える時期に、ふと「自分とは何だろう。」ということを考えるのは、こういうお子さんに多いことは簡単に理解できます。自分というものを捨てて、感情を持つことによって、同居親の期待に応えられない自分を否定し続けてきたからです。自分は、実体のない空虚な存在だと感じてしまいます。この時期同居親に反発ができればまだよいのですが、反発をしてもなおも同居親の期待に応えようという矛盾した感情と行動が残存してしまうことも見られるようです。

<片親疎外に対する無知に基づく典型的な反論>

 このような子の福祉を害する片親疎外ですが、家庭裁判所では普通に承認された概念であり、口に出して通じる言葉です。ただ、片親疎外について、誤解をしている家庭裁判所関係者も目に付くのでお話をしておきます。
 端的にいうと片親疎外(PA)と片親疎外症候群(PAS)との区別がついていないということです。
 片親疎外症候群は、同居親が別居親の悪口を子どもに吹き込んだり、同居親が子どもに別居親から受けた苦しみをあからさまに訴える場合に子どもに起きる精神障害です。これを主張する人はいません。それを疑うことは大いにあるのですが。この概念の混乱がどのように実務に影響を与えるかということをお話しします。 
片親疎外(PA)は、子どもが別居親と連絡が取れないこと自体で起きる心理的影響です。もちろん、それに同居親の態度とか、子の連れ去り前の別居親の子ども対する接し方とか、学齢や周囲の環境がそれぞれ影響を与えるものですが、同居をしていれば拒否感がなかったのに、別居したために拒否感が生じてしまうということが根幹にあります。これを防ぐためには、別居親と子どもとの接触、交流を必要に応じて行うことということにあります。
それにも関わらず、片親疎外症候群(PAS)の概念が紛れ込んでいるために、同居親は子どもに対して、別居親の悪口を吹き込んだり、苦しみをあからさまに訴えるなんてことはしていないので、心配無用です。という主張がなされることです。それをしなくても片親疎外(PA)は起きてしまい、それは子どもの健全な成長を阻害してしまうのです。これが分かっていない。面会交流を拒否するという、同居親の別居親に対する危険視、拒否感、嫌悪感が子どもに伝われば、子どもは深刻な片親疎外を起こしてしまうものなのです。
外務省の「子の連れ去り」の定義の中に、面会をさせないという項目がありましたね。これはこういう意味があったのでした。

<それでも行われる典型的な無責任反論>

 これまで子の連れ去りの子どもに対する悪影響についてみてきました。それでも、すべての子どもが悪影響をうけるわけではない。可能性に過ぎないという反論は、まともに考えれば、語るに落ちる低俗なものです。
 確かに、子どもにも個性があり、親以外の子どもを保護する環境が整っているか否かということもとても大事な問題です。必ずしもこうなるというわけではないことは間違いありません。
 でもそれで良いのでしょうか。
 親であれば、なるべく安全なところ、幸せを妨げることのなるべくないように子育てをしているわけです。その可能性があるが100パーセントではないから考えなくてよいというのは、子どもを育てるという観点から大きくかけ離れた主張だというべきではないでしょうか。端的に言えば、子どもを育てるのに不適当な人間だということになると思います。取り返しのつかなくなる危険があれば前もって除去することが親の務めだと私は思います。

<それではどうやって子の連れ去りをなくすのか>

子の連れ去りはなくなるべきです。
それにはいろいろな課題があります。

裁判所の親権や監護権をめぐる対応にも問題がありますが長くなるので割愛します。
悩んでいる方の親を正義であり、その反射的結果として、もう一方の親が「加害者」であるという「支援」がなされており、子どもの利益を著しく損ねているということはこれまでに書いていますのでこれも省略します。
今回お話ししたいことは、夫婦の話し合いを支援する環境が足りないということです。周囲が話し合いは初めから考えないで、命の危険を回避し、子どもを奪われないように逃げろということだけを言う環境は必要以上に整っています。しかし、子どもにとって必要なことは、親がきちんと自分の将来を話し合える環境を作ることです。
 仮に子どもを連れて別居したとしても、子どもが転校を余儀なくされることの無い場所に仮住まいができるように整備するということも一つの案です。
また、後の離婚を予定する家庭裁判所の調停に代わる、話し合いの支援機関があると良いと思います。(ここで、どちらかが健康を害している場合、心身のメンテナンスを受けることも可能にするべきです。)夫婦二人の葛藤を下げる工夫をしながら、子どもの将来について親に責任をもって話し合いをさせることです。ここでの話し合いが終了しない場合は、離婚の申し出や転校を余儀なくする子の連れ去りをさせず、希望すれば同居親に子どもを引き渡すということが行われるべきです。以前家事紛争調整センターという構想を発表したことがあります。
http://doihouritu.com/family.html
 離婚や家族解体の思想やノウハウばかりが蓄積されていますが、家族再生のノウハウの蓄積も家事紛争調整センターで行っていただきたいと考えています。是非皆さんと共有したいことは、「夫婦喧嘩はどちらが勝っても子どもの負け」という現実です。子育てを軸に、家族の在り方が議論され、ほんのわずかな知識と、ちょっとした発想の転換と、些細な思いやりの行動で人間がどんどん幸せになっていけばよいなあと、傷ついた子どもたちと接するにつけて、どうしても考えてしまいます。


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ピーマンパパ

家庭の問題を相談する場所が裁判所しかないとは嘆かわしいです。
東京都や他の自治体にも「家庭支援センター」があります。
https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/kodomo/kosodate/ouen_navi/center.html
子供や家庭の問題全般について相談に乗ります、という事でした。
ただ、私も何度か行きましたが良くて話を聞いてくれるだけのようです。片親阻害などは虐待とも思ってないようです。
職員自身があまりミッションを理解してないようでした。
2~3回訪ねると「そういうことはここではなく弁護士さんへ相談してください。」と言われます。
電話しただけで「夫婦の問題は扱っていません」と言われたこともありました。
児相のように解決しない案件をしょい込んで、責任をとらされては大変だ、役所なので仕事は省くほど効率が良い、というのも判りますが、営利の理屈で行政をやられては市民はかないません。
折角良い位置にある組織なのですから活用できないものでしょうか。
by ピーマンパパ (2020-06-07 12:41) 

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