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アルコール依存症と向き合うためのメモ [進化心理学、生理学、対人関係学]


9%缶酎ハイの売り場面積の増大など心配があったわけですが、周囲でアルコール依存症の問題が明るみに出てきました。具体的に知りえた例においては、コロナとの関連は不明です。コロナの問題以前からの蓄積の結果という事例が多いです。私の周囲の感触からすると、現状のアルコール依存症はまだ特殊事例が多いのですが、今後は、特殊事例とは言えないほど事例が多くなるような予感があります。
今のうちに、しっかりアルコール依存症と向かい合う必要がありそうです。

今日はとりとめもないメモになります。

<アルコール取得過程>

世の中の経済の基本は物々交換だそうで、
お互いの所有物が必ずしもお互いが必要なものではないと交換が成立しないため、とりあえず万能の価値のあるお金が生まれたそうです。

そうすると、アルコールを買うことは、実際は他の物を買うことをあきらめる結果となるわけです。あるいは貯蓄を放棄するということですね。
ここはちょっと押さえておきましょう。
それでもアルコールを買わずにはいられないわけです。

お金も失いますが、アルコールを飲んで、アルコールの影響下にある時間が生まれるということですから、他にやることができなくなる、あるいは不完全にしかできなくなるということです。
結果としてアルコールにお金と時間を使ってしまっているということになります。
アルコールが無いと不安だから、買わずにはいられないとなると依存症の入り口をくぐっているのかもしれません。

一昔前に、アルコール依存症の人たちが飲む典型的な酒は、
ペットボトルのウイスキー、ペットボトルの工業焼酎
紙パックの日本酒、ストロー付き
等が定番でした。

酒を飲む目的が酔うという一点に集中していますから、安くて大量に飲めればよいのですから、ある意味合理的です。
現代では9%缶酎ハイです。冷やして飲めば、単位時間の摂取量も増やすことができますので、酔うまでの時間をさらに短縮できます。

こういう酒の飲み方は、酒を口に入れたらできるだけすぐにのどの奥に流し込むという飲み方です。そもそも味わうことができにくい飲み方だと言えるでしょう。一つにはアルコール刺激を最小限にする飲み方です。これが危険な飲み方だと思います。アルコール依存症とのん兵衛のぎりぎりのメルクマールもここにあり、そんな一時に飲んだらもったいないだろうというのがのん兵衛です。

だから、アルコール依存症気味だと思う場合は、できるだけおいしいと思える酒を飲むべきです。少々高額でも、その方が安全です。また、冷やしすぎないで飲むことも考慮していただきたいと思います。意地汚く飲むということも有効ですね。私はバーに行くと、珍しいウイスキーをストレートで頼みます。先ず、くんかくんか匂いをかいで楽しみます。そしてちびりちびり時間をかけて楽しみ、口の中いっぱいで酒を感じます。そうしてひとしきり堪能しきったら水を飲んで、リセットして新たな気持ちで楽しみ、これを繰り返します。残念ながらグラスに液体がなくなったら、やはりクンカクンカ匂いを嗅いで楽しむわけです。
私は、酒にこだわる人は依存症になりにくいと思っていました。しかし、高い酒を飲んでも、金払いの良い人はアルコール依存症になる危険性が高くなるような例を見たので、今回考えてみようという気になりました。


<アルコール運搬過程>

外で、居酒屋などで酒を飲む場合は、運搬過程はありませんね。
問題は、コンビニやスーパーで酒を買う場合です。家に帰る前に飲んでしまうというのはアルコール依存症の高度な段階です。これまでにあった事例では、コンビニで紙パックの日本酒を大量に買って、物陰で隠れて飲み、容器をどこかに捨ててきたくするという事案がありました。家族に隠れて酒を飲みたい人ということですから、家族からは酒を飲むことを禁止されているとか、監視の目が厳しいという事情がある場合です。当然近所の人から通報があって、家族の知るところになったわけです。運搬過程が無い人もいると。

<アルコールの摂取・ソフト依存症>

典型的な依存症ではないソフトタイプの依存症というものがあり、おそらく典型タイプに移行しやすい予備群を構成していると思います。
ソフトタイプの依存症とは、イベントに酒を利用する傾向が強い人たちです。例えばお祝い事があると酒を飲んでお祝いするとか、悲しいことがあると酒を飲んで気を紛らわそうとするとか、怒りがあると酒を飲んでやろうという気持ちになるとかそういう人たちです。自分で書いて気が付くのですが、私もそうですね。
うれしければ喜べばよいし、悲しければ悲しめばよいのですが、アルコールの補助を、いつの間にか必要とするようになったのかもしれません。
いや、結婚式とか正月、クリスマスくらいならそれでも良いと思いますが、その補助を要する機会が増えていったり、仕事が疲れたからということで、あるいは、夕飯を食べるためにどうしてもというような場合は文字通りアルコールに依存する傾向が生まれているというべきでしょう。

どうやら感情の解放とは、イライラとかもやもやとか、言葉にならないような心理状態、感情を酒の力で解放するということのようです。
常識人であればあるほど、つまり、周囲との調和に敏感な人であればあるほど、自分の感情を解放するということに抵抗感が生まれるようです。そうして「自分の心を抑圧している」という意識を解放したいということのようです。
どうやら、脳の中に感情を高ぶらせる部分と、感情を制御する部分とが別々に存在し、制御する部分は前頭葉と呼ばれる部分で目の奥のあたりにある脳の部分らしいのです。怖いから怖がる、悲しいから悲しむ、嬉しいから喜ぶというように、感情をそのまま出す方が楽なようです。ところが、それを楽のまま行うと他者との関係で気まずくなることが多くなるわけです。幼児までは感情を解放して楽に生きているわけですが、大人として生きるためには感情を制御する必要があります。さらに、その人その人が置かれている環境でこの事情は増幅するわけです。
部下がいる人であればそれなりに権威を持たなければならないとか、お客さん相手の仕事だとにこにこしていなければならないとか、上司が理不尽なことをするからと言って怒りに任せて行動したのでは解雇されてしまうとか、いろいろと感情を解放できない事情があるようです。
どうやらアルコールの作用として、その前頭葉の制御作用を鈍らせることによって感情を解放することができるのではないかと思うのです。他者との協調性のための制御を抑制することによって、少し羽目を外して喜んだり、悲しんだり、怒ったり、あるいは不安をさらけ出したりできるようになるのだと思います。
現代人の置かれている感情抑制が必要な社会環境は、感情自体がスムーズに表現できなくなる危険があることにもなるでしょう。
そんな中で、アルコールの力を借りて、喜怒哀楽という一時的な感情を表出するのだろうと思います。
逆に言えば、アルコールの力を借りないと、感情を表出できない状態に追い込まれているのかもしれません。

ソフト依存症の人でも、唇からのどに直接入れるタイプの酒の飲み方をするようになったら大変危険な状態だと言えるでしょう。のどが乾いたら水を飲むべきです。のど越しで味わうという飲み方は、依存症になる危険が高いというべきです。

<アルコール摂取過程 ハード依存症>

ハード依存症の人も、アルコールを飲んでいない状態の時間があるようです。しかし、徐々にアルコールを飲んでいない時間は短くなるようです。飲む酒が切れたらとどうしようと不安になるので、必要以上のアルコールが自宅にはあるようです。そして、飲むことを止められない心理状態になるようです。自己抑制が効かないという言い方をします。のん兵衛やソフト依存症の人のように、ビールの栓を抜く爽快感というものはあまりないのではないでしょうか。高度な依存症になると、コップに注ぐ時間も惜しくなるのかもしれません。
前頭葉の動きを止めたいというより、前頭葉をとってしまいたいような勢いで飲んでいるのでしょう。さらに視床下部まで麻痺させようとしているような気がします。恐怖や不安を感じるという人間らしい感覚を持ちたくないようです。アルコールは飲み方によってかえって覚醒してしまいますから(自分比較)、恐怖や不安は、悲観的な傾向と合わさり倍増していくのではないでしょうか。忘れてしまいたいから飲んで忘れるということは感覚的にあっているのだと思います。こうなるとのどの刺激を伴う薬ですね。
肝心なことはちょうどよいほどに忘れたり、感じなくなったりするのではないということです。例えば防犯もしなくなったり、火の始末を忘れたりという大変危険な状態になりますが、酔っ払っていますからあまり気になりません。酔いつぶれたいのか、眠りたいだけなのか、意識がなくなることを目指して飲んでいるようにさえ思われます。外で飲んでいたら、泥棒や詐欺師の餌食になるわけです。
私はブドウ品種がわからなくなったらワインを外で飲むことはやめます。お金がもったいないからです。金持ちの依存症は、もはや味覚がなくなっていますから、二束三文の酒を高い値段で吹っ掛けられても文句を言えないわけです。ここで私たちも学ぶべきことは、苦しみや辛さは、それを感じることによって行動の修正を促している大切な人間の機能だということです。苦しいこと、辛いことはやめてしまえということですね。苦しみや辛さを感じないと、どこまでも危険な行動をやめることができず、取り返しのつかないダメージを受けてしまうわけです。酒を飲んで、嫌なこと辛いことを忘れてしまうと、必要な注意もできなくなり、破滅的な行動をしてしまうことにつながる危険が高くなります。

生きるということは、このようにつらいこと危険なことから身をそらし、楽しいことを追求することかもしれません。危険なこと、辛いことを無かったことを感じなくなってしまったら、それを回避することができません。そして恐ろしいことに楽しいことを感じることができなくなるのです。
ハードなアルコール依存が起きてしまうと、このように生きることを少しずつ放棄していくことになります。感覚的に、自分が生きることの価値を見出しがたくなるわけです。自殺の潜在能力が高まるという言い方をします(ジョイナー)。

いったいどんな辛いことを忘れたいのでしょうか。
最初に依存症の人の事件をした時は、職場の人間関係でした。本当はそこに原因があるのです。職場での不遇な扱いを忘れようとして飲んでいたのですが、本人も医療機関もそこにはあまり関心が無かったようです。
案外簡単に依存症になったのは、養子に入った男性でした。隠れて飲んでいるうちに危険な飲み方になってアルコール量が増えていきました。
夫から虐待の過去という壮絶な女性もいらっしゃいました。言葉に出すこともはばかられるような壮絶な虐待を受けた方です。精神科の治療を長年にわたり受けていたのですが、医療機関とのコミュニケーションがうまくいっておらず、本当の苦しみを医師に伝えることができませんでした。亡くなってから後追いに調査をしたところ、そのような事実がわかりました。結婚前は明るい性格で、たくさんの友達にいつも囲まれていたような方だったそうです。ご自分の身内との関係もうまく形成できなくなり、孤独を感じながら亡くなられました。最後は酒以外口にできなくなっていました。死に向かって生きていたような形かもしれません。
アルコール依存症といえば「星の王子様」です。アルコールの星で、酔っ払いの住人が酒を飲んでいました。王子がなぜ酒を飲むのかと尋ねたところ、忘れたいからだと答えました。王子な何を忘れたいのかと尋ねたと頃、酒を飲んでいる自分だと答えたのですが、それは真理だと思います。意識のある時に酒を飲むわけですから、苦しい思いをして飲んでいる自分を自覚することが残念ながらできているのです。ご自分ですらなんで飲むか分からないけれど、飲んでいる自分は自覚しているのですから、私は悲劇だと思います。

<アルコール摂取に付随する過程への依存>

アルコール依存症の診断を受けた人の中には、実際はハードな依存症とは別のタイプの依存症があるように感じていました。バーでなければ酒を飲まない人たちです。ハード依存症は、酒場に限らず、自宅で飲みますし、自宅から出られなくなります。隠れて飲んでいるときは路上でも公演でも飲みます。最近の缶の酒は、路上で飲むことの抵抗感を減らすようです。
バーでしか飲まないタイプの依存症は、おそらくアルコールだけに依存しているのではないのではないかと思えてならないのです。接待を伴う飲食店は、当然嘘に満ちた世界です。金を落とすから接待してくれるのですし、客側もそれでよいから行くわけです。このちやほやされる状態に依存しているタイプが一定限度いるようです。必ずしも異性の接待に性的な期待があるというわけではなさそうなのです。性的な接待よりも、優位な人間関係、尊重される体験、尊重されている言動を求めているような感じです。お金を払っている限りで尊重されているということでもよいから、厳しい扱いをされない、ぞんざいな扱いをされないというところに、たまらない魅力を感じてしまう人がいるようです。まさに依存症です。バーの扉をくぐることをやめることが難しい状態になっています。実生活で、人間的な関係が形成できないという人が多いように感じます。
だから、ちやほやする人に簡単に騙されていくようです。騙されていても良いから、金をむしり取られても良いからその関係の中にいたい、ちやほやされていたいというように感じます。
無銭飲食詐欺に多いタイプの依存症です。この場合は損をしないからよいのですが(店は大損です)、お金持ちで孤独な人が破滅するときにもこのタイプが多いのではないでしょうか。こういう人たち(金持ち)もアルコール依存症になり、内臓を壊します。おそらく、詐欺師たちはもう少し酔わせればもっとお金を搾り取られると思うから酒を飲ませるのでしょう。依存症の方は、だまされているという不安をお酒を飲んで紛らわせようとするから悪循環になるのでしょう。
本当の友人たちは、このような飲み方を批判してやめさせようとするのですが、だんだん耳が痛い話から遠ざかってしまい、孤立するためにどんどん無防備になっていくようです。

<メモの終わり>

アルコール依存症はすべてを失う病気とされています。酒を飲んで仕事ができなくなり、再就職もできない。そのころになると家族からも見捨てられ、孤立していきます。働けませんので、収入もなくなっていきます。肝機能が悪くなり、糖尿病も悪化すれば腎機能も低下するでしょう。糖尿病の合併症で自由な行動ができなくなるかもしれません。健康も失われてしまいます。生きる目標も失われるかもしれません。
私はそのような男性の破産申し立ての代理人になったことがあります。依存症から脱却するために、かなりの努力をしていました。彼は、すべてを失いましたが、ポケットにお子さんの写真を大切にしまっていました。そんな状態でも子どものことはあきらめきれない。人間ってそういうものだということを学ばせていただきました。再び家族を取り戻すことはできなくても、子どものために仕送りができるようになりたいという新しい夢を彼は持つことによって、再出発に向かうことができたようです。アルコール依存症の話になると、きまって彼のことを思い出すのです。遠くから子どもを見に行こうという計画があったようですが、どうなったか事後報告を聴けないまま事件が終わってしまいました。
今回、新たにアルコール依存症と診断された知人ができてしまいました。彼に向き合おうと思っています。その前に頭を整理しておこうと、とりとめのない話を書き連ねてしまいました。

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仙台市講師のいじめアンケート書換えは氷山の1角であるという意味。個人攻撃よりも取り上げるべきこと 日本の国家政策の一貫姿勢 [弁護士会 民主主義 人権]



仙台市の小学校で、子どもたちが記入するアンケート調査を
講師が書き換えていたということが全国ニュースになっています。

後追い記事は、この講師の教師がいかに乱暴な人間であったかということにとどまっています。
それがダメだとは言いませんが、もっと他に取り上げることがあるだろうと思います。

この講師は勝手に他人の書いたものを直接書き換えていた点が悪どいところですが
アンケートを操作するということは学校現場において悪びれもなく行われているようです。

アンケートは記名式で行われます。
アンケートを書いた児童を呼び出して、話を聞き、
「それはいじめではないよ」と説得して
本人に書き換えさせることは、学校や地域によっては常態化しているようです。

また、アンケート調査開始にあたって
いじめにあたる例と当たらない例を説明してからアンケート記入をさせる例もあるようです。

友達との喧嘩の場合はいじめではないよ
話をしていて、自分の意見が通らないこともいじめではないよ
うっかりあなたが来ないうちに出発しているだけならいじめじゃないよ。
言い合いになっても、すぐ仲直りをしたらいじめではないよ
とかです。
おそらくこれを読まれた方は、そりゃそうだろう、そんなものはいじめではないはずだから
問題ではない
と思われるでしょう。

しかし、いじめ防止対策推進法のいじめの定義は
児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
ということになっています。

つまり、例えば同級生の行為であれば、本人が心身の苦痛を感じていれば
全ていじめになってしまうわけです。

だから、この定義を限定する事前のレクチャーは
全てアンケート内容の改竄と同じことになってしまいます。

この定義が問題であり、いじめ防止にどこまで役に立つか、
それ以上の弊害は無いのかという考えは健全ですし、
私もそう思います。
おそらく、学校現場でもそう思っていることでしょう。
また、いじめに該当すると、
学校はいじめ行為をした生徒を処分しなければなりません。
ますます、いじめの定義を限定したくなるのはよくわかります。

しかし、法律が定義をしている以上、
これと違う定義を表立って作り直すことはできません。
このため、各地で、あるいは各学校で、
独自の定義を作って、いじめ防止をしているのです。
いじめアンケートなんてこんなものです。

だからいじめアンケート改ざん問題が出たならば
こんな使えない定義をいつまで温存するのだということを
マスコミを含めて考えなければならないのではないでしょうか。

この改ざんをした講師という身分にも着目するべきです。
身分が安定していない非正規労働者の性質を持っているわけです。
そんな不安定な立場の人に教師をやらせていること
なぜ正規の先生を使わないのかということにも
目を向けるべきではないでしょうか。

それはともかく、
自分がいじめられたと思ったらいじめ
あとは処罰というのは、
実は日本の弱者保護の基本政策として一貫しています。

配偶者保護法も
一定の行政機関に相談したら、即「被害者」という実務です。
そして本当は加害を与えているかどうかわからない夫婦のもう1人が
「加害者」という名称で扱われるのです。
そして家族を断裂させていくしか政策がありません。

児童虐待も、全てではありませんが、
通報によって、児童を隔離して一定期間義務教育も受けさず
親に会わせず、高校を卒業したら勝手に生きていきなさい
ということが実態です。
子どもが親と家族を再生したいと強く訴えない限り
子どもが望んでいないからと言って会わせないのです。
子どもは自己責任を負わせられています。

そういう政策が、どの政党からも問題視されていません。
実態調査が必要だという声もないのが実情でしょう。

単純な正義感による怒りに国民を誘導するマスコミも
結果として一役買っているわけです。

マスコミはいじめがあったかどうかということにだけこだわるわけですが、
法律の定義のように漠然としたいじめに該当すると一度言えば
加害者探しと加害者糾弾という心地の良い正義感の発露に
貢献しようと煽り続けるわけです。
いじめの定義が漠然として広範囲だと知っていながら、
それを知らない国民に対して
いかにも、複数の生徒で1人の生徒を
執拗に繰り返し嫌がらせをした
という誤解を助長させて行きます。
いじめという言葉の感覚を利用しているわけです。

DVという言葉、虐待と言う言葉も
国民は勘違いを利用されています。
そして、正義感を行使する手段として
加害者を糾弾する。
これが基本パターンです。

これでは防止なんてできるわけがありません。

また、たびたび間違いを犯すのが人間ですから
間違いを学習して人間関係を再生することこそ
行われるべきことだと思うのですが、
そのような政策は一つもありません。

マスコミにも全くそのような視点はありません。
特にいじめは学校現場の問題ですが、
いじめの後の教育という視点がおよそありません。

要するに、国の政策は
何かことが起こり不幸になることを予防するということはしないで、
何かことを起こした者に不利益を課すだけの政策なのではないでしょうか。

その代わり、被害者に対して加害した者に
もれなく不利益を与えることが優先で、
そのためなら被害を与えていない者に不利益を与えても
まあ仕方がないかなという制度設計だと言わざるを得ません。
国民にあみをかける政策なのです。

あなたは、その網に
今のところ、かかっていないだけかもしれません。

ただ、どんな網が用意されているかについては
予め知っておくことが必要だと思います



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被害者の心理 3 被害者の心理が起きるのは生きる仕組みであることとなぜ過剰な反応が生まれるか(心と環境のミスマッチ)、「被害」はいつまでも継続しているということ [進化心理学、生理学、対人関係学]

前回と前々回に述べた被害者の心理をまとめると以下の通りになると思います。

・被害を受けると人間は感じ方や行動パターンが変化する。
・些細な刺激で自分が攻撃されていると感じてしまう
・このため一つ一つのことを聞き流すことができず逐一反論してしまう
・理不尽な攻撃に対する反撃ということから、感情の抑制が難しくなる
・完璧に反論しようとして、仲間に対する要求度も高くなり
・要求度に達しない仲間に対しても攻撃的になる
・仲間や相手の心理状態については合理的な考察ができなくなる
・自分が受けている攻撃が客観的な評価以上に大きく強い攻撃だと感じる。
・このためにさらに強い疎外感を感じる。

以上です。これらの反応は本能的に起きるもので、生きる仕組みです。私たちの祖先はこの生きる仕組みで、子孫を遺すことができたわけです。

例えば今から200万年前、サルから人間に代わろうとする時期の危険の代表は、野獣に襲われるときだったでしょう。野獣の存在を知ることで、人間は危険が迫っていることを理解し、危険から逃れようとします。ばかばかしいかもしれませんがここが大事です。危険に逃れるために、脳から指令が出され、筋肉を素早く動かすことができるようにホルモンが分泌されたり、心臓が活発に動いて筋肉に血液をより多く流そうとする生理的な反応が起きることはよく知られています。
同時に、脳の機能も変化を起こします。

先ず、逃げることに集中すること。つまり逃げる以外のことを考えられなくするということです。余計なことを考えるというのは気が散るということですから、全力で逃げることができなくなります。これは逃げるためには邪魔になります。逃げることだけを考える、つまり、自分に危険が迫っていて逃げなければ自分の命が終わる、逃げることによって生き延びようということですね。集中できないサルは野獣に食べられて子孫を遺せずに滅びてしまったことでしょう。
逃げることに集中するため、考えることは二者択一的になります。危険から逃げ延びたか、まだ危険が続いているか。逃げるためにはこれだけで十分です。リアルな回避可能性がなんパーセントあるかなどを正確に考えている暇などないわけです。

次に、二者択一的になったら、できるだけ悲観的な判断をすることが、逃げ延びる確率が高くなります。仲間の元に逃げ込むとか、本当に安全だと確信できるまで、まだ野獣が自分を負っているのではないかと感じる方がより確実に逃げられるわけです。逆に楽観的に考えすぎて、簡単に逃げるのをやめてしまったら、身を潜めて追っている野獣に簡単に捕食されてしまうようになったことでしょう。
些細な事情で、例えば風が吹いて葉ずれの音がしただけで、まだ肉食獣が近くにいるのではないかと過剰に敏感になった方が、逃げ続けることができるわけです。また、自分を襲っている野獣は、もしかしたらものすごい力を持っているから、確実に逃げなければ殺されてしまうと思えば、より確実に逃げ切ろうとするので、役に立つ思考パターンです。

ちなみに、このような二者択一的思考、悲観的思考となっていますから、加害者である野獣が何を考えているか等という複雑なことは考えられなくなっています。あくまでもこちらを食べようとしているのだろうと考えればそれで十分だからです。敵や第三者が人間の場合は、人間の心は複雑ですから、それを知ろうとすることは、かなりの能力が必要になるようです。危険を感じているときは、そのような能力を発揮することは不可能だということになるでしょう。
仲間に対しても、自分を安全にしてほしいという絶対的な援助を望むということも無理のないことですし、仲間はその当時、その要求に応えるべく全力を挙げて野獣と戦ったことでしょう(袋叩き反撃仮説)。

今危険があり、逃げなければならないとするならば、被害者の心理は逃げるために必要な気持ちの変化だということがお分かりになると思います。

但しその危険が身体生命の危険ということであれば、この心理変化はとても有利に働くということです。
しかし、現代社会では、被害者の心理は、被害者をますます孤立させ、被害者自身で自分を追い込む結果となるという副作用が大きく、むしろデメリットが大きくなっているということです。

これが現代社会と人間の本能のミスマッチが起きているという言い方で説明されるべき事柄です。

例えば200万年前なら、体を動かすために高カロリーの当分は貴重でした。しかし、糖分を得ることがなかなか難しい希少な栄養素だったので、糖分があれば確実にそれを摂取しようという仕組みが生まれました。糖の甘さを好むようにして、おいしいから食べたくするという仕組みです。ところが、現代社会では、糖が工場で大量生産されるものですから、簡単に入手して摂取することができます。そのため、糖を摂取しようという生きるための仕組みが糖尿病などの成人病を引き起こすというデメリットを生んでいるのです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ文庫)。

どのような時代変化が起こり、被害者の心理反応にデメリットが多くなってしまったのでしょうか。

被害者の心理変化のデメリットが大きくなったというミスマッチの原因として、どうやら一番大きいのは、人間にとっての危険が、野獣に襲われるなどの身体生命の危険から、対人関係上の危険、つまり自分が仲間の中で尊重されて調和的に生活できなくなるという危険に、起こりうる危険の頻度が変わってきたという事情があるようです。
農耕が始まる前ですから今から1万年前か、どんなに頑張っても2万年は前ではないつい最近のことです。人間は、それまで50人から150人くらいの同じ仲間と一生を過ごしていただろうと言われていました。そのくらいの仲間の場合は、自分と他人の区別がつかず、自分が生き延びようとするのとほぼ同じ感情で、あるいはそれより強く、仲間を助けようとしていたと思います。対人関係上の危険を感じる度合いは現代から比べるとほとんどなかったと思います。だから身体生命の危険の反応を本能的に起こしても、デメリットはあまりなかったはずです。

それから1万年くらいしかたっていないのが現代です。脳の構造が深化するにはあまりに時間が足りないので、心の反応はその時のままなのでしょう。ところが、現代社会は、朝起きてから会社に行くまででも150人以上の人たちと出会います。会社や自宅マンションだけでも150人以上の人がいるでしょう。とてもすべてを個体識別できる人はいないでしょう。また、会社でいい顔をすれば家族に無理を通さなくてはならなくなる等、複数の仲間がいて、それぞれが利害が反する関係にあることも多くあります。家庭、学校、職場、趣味のサークル、地域、その他緩いつながりの社会、国家等という複数の群れに同時に帰属しているということは、農耕が始まる前には想定されていない事態なのです。

だから、例えば、足を怪我したとしても、1万年以上前なら傷が癒えれば傷によるダメージは無くなっていたでしょう。自分の知り合いの全員が傷ついたことを気遣い、できなくなってしまったことを代わりにやってくれたと思います。体は傷ついたけれど、仲間のありがたさに癒されたというわけです。

ところが、現代では足を怪我した場合も、相手がわざと自分を怪我をさせたのではないか、自分に恨みなどがあるのではないかと考えるわけです。また、相手ではない他人に対しても、自分が足が痛いのにどうしてもっと助けてくれないのかというように考えることが起こり始めてきたのではないでしょうか。あまり人間の付き合いの幅が広いものですから、家族であっても、それほど親身に何もかも手伝ってあげるということをしなくなったのかもしれません。相手への気遣いが、1万年前と比較しても雑になっているのかもしれません。いざとなれば、夫婦でも親子でも家族を解消できるということもなにがしか影響をしているのかもしれません。また被害者からしてみても家族だからこそ要求度が高くなり、攻撃をしてしまうという傾向がうまれたのでしょう。いっそのことお金を落としてなくしてしまうならば、あきらめがついて再出発ができるのかもしれません。同じ金額でも、信じていた人に騙されたということになれば、対人関係的危険を感じ続けて苦しみ、被害者の心理が止まらないのかもしれません。
また、いろいろな不利益の中で、学校、職場、家族など、別離、悪く言えば追放の目にあった場合は、対人関係的危険がなかなか解消されないという事情もあるかもしれません。

このように、人間の能力を超えた人数の人間、多数の群れに同時に帰属しているということから、人間同士の仲間意識が薄弱となり、自分以外の他人が、絶対的な仲間と感じられなくなるでしょう。このため、その仲間から攻撃される危険を強く感じなければならない事情が生まれたようです。
無条件に人を信じることができなくなってしまい、そして極めて残念なことに、その警戒感は、多くの場合現代人が自分を守るために必要であるようです。
私から言わせれば、人間はもともと他者を攻撃するという性質があるわけではなく、人間はもともと自分の仲間以外と対立する可能性を秘めているということだと思います。そして現代社会は、仲間であって仲間でない人間ばかりが、人間の周囲にいるということ、これが現代的ストレスなのだと思います。

さて、そのような背景はあるとしても、私のお話しした生理的変化(交感神経の活性化など)及び、思考上の変化(二者択一的傾向、悲観的傾向、複雑な思考力が低下する)は、危険が現実に存在して、危険から回避する場面では有効です。しかし、危険が現実化した後ではあまり意味がありません。身体生命の危険の場合で考えると、例えばけがをしたけれど野獣が仲間に追い払われるなどして危険が去った後でいくら筋肉に血液が流れても、もはや走って逃げるということはありません。襲われた直後は、動悸もするでしょうし血圧も上がっているでしょうが、しばらくすると落ち着くわけです。
ところが、対人関係上の被害の場合は、例えば裏切りがあって何年たっても、そのことを思い出すと血圧が上がったり、恨みつらみの感情が沸き起きたりします。一方の親に子どもを連れ去られてた他方の親は、何年経っても葛藤が去ることはないでしょう。性的暴行を受けた人も、警戒感や不信感そして恐怖感が何年も続くことがあります。対人関係上の被害は、それが起きたときから少なくても心理的には長期間被害者であり続けるわけです。つまり、被害は過去のものにならない、現在でも継続しているということです。
人間は、その性質上、人間の中で生活する必要があります。しかし、一度人間の中に信頼することができない、自分に加害行為をする人間が現れると、およそ人間というものが信頼できないという心理になるということが一つの理由でしょう。特に前触れなく起きた被害、性的暴行や連れ去りなどが典型ですが、そういう被害の場合、どうやって防げばよかったかについて考察することが難しいです。記憶の仕組みからすると、そのような形の被害はなかなか記憶のファイリングに収納しきれないため心理的に昇華することができず、いつまでも現在する危険として忘れられない存在になるようです。悪夢につながりやすくなるようです。

また、対人関係的には、危険が続いているということなのかもしれません。

例えば性的暴行を受けた人は、自分が性的暴行を受けたという事実を抱えてしまって、それが自分の身近な人間に知られてしまったら自分が身近な人間たちから否定的な存在と思われるのではないか、あるいは、過度に気を使われる必要のある人間だとして扱われてしまい、これまでの仲間とは扱われず特別扱いされてしまうのではないかという不安があるようです。防衛手段を尽くさないという非難を受けることもあるのではないかと考えてしまうのかもしれません。実際はそのような対応を周囲がしない場合でも、大きな不安があることは間違いないでしょう。

例えば妻に子どもを連れ去られた男性は、家族から追放されたという行為自体は過去のものだとしても、孤立している自分が継続しているわけです。その後の家事手続きにおいて、当たり前の主張がことごとく排斥されて、自分の孤立が裁判所などで追認されてしまうのですから、少なくとも家事手続きが進行しているうちは被害が継続しているというか新たな被害が生じていることになると思います。被害者の心理の負の側面が多く出ることは自然なことなのだと思います。例えば、いったん引いて、別居を認め、自分ができることで家族に貢献して、少しずつ立場を回復していくという手段が早い段階で選択して、実行できればある程度の再生が図られるケースがあるのですが、それは自然と受け入れられる作戦ではないのも当然です。
家事手続きは終わりがあります。一応の区切りはつけられることになります。しかし、理由がわからず連れ去られた挙句、子どもには一切会えない。生活を圧迫する養育費は長年にわたって負担し続けなければならない。そういう状態になれば、被害が過去のものになるはずがありません。毎日新たな被害に苦しめられるわけです。

しかし、被害感情というのは、前回、前々回にお話しした通り、被害者自身を必要以上に傷つけて追い込んでいくものです。より正確な情報分析ができないために方針を誤る危険も高いですし、改善する行動に向かわないでより事態を悪化させる行動を引き起こすこともあります。仲間や第三者を攻撃してしまうこともあり、つい攻撃的な振る舞いや緊張感の高いあるいはテンションの高い言動が多くなり、自分を孤立させる要因になることも多く見られます。せっかくの才能をもった人たちが孤立していく姿を多く見ています。

なかなか自分が被害感情を抱いていて、自分を追い込んだり損をさせたりしているということに、被害者自身が気付くことが難しいということは、これまで述べてきた被害者の心理から承認しなければなりません。
周囲が、実際は「あなたが思うほどは悪い状態ではない。」、「自分で自分を追い込むことをやめて、正確に情勢を分析して、これ以上事態を悪化させることを防止しましょう。」とアドバイスして拡大被害を防止することが必要不可欠ということになるでしょう。
しかし、どうしても支援者は、目の前の被害者に対してできるだけ共感しようとするし、被害者以外の人たちに責任を求めて一緒になって攻撃をしてしまいます。これも、善意や正義感で行われていることなので、自分の行動を制限しようというきっかけがありません。支援感情の駄々洩れが起きているように思われます。それが結果として被害者をさらに苦しめてしまう。被害の回復から遠ざけてしまうという逆効果を生んでしまうという悲劇があるように感じます。

このことについて、さらに考え続けてみたいと思います。



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被害者の心理2 被害者は自分で自分を追い込んでいく 過剰な被害意識に寄り添う危険性 [進化心理学、生理学、対人関係学]



<性犯罪の被害者の場合>

例えば、性的暴行を受けた被害者は、本当はゆきずりの暴行であったにもかかわらず
加害者が自分の自宅や勤め先の住所、自分の行動パターンも全て調べ上げていると思い込むことが多い。
しかし、実際は、女性の少ない深夜に肌を露出させた服を着て公共交通機関を利用していたところを見つけて
降りて歩き出すまで後をつけてきたという事案だったりする。
そちらも気持ちが悪い話だと思うが、被害者の心理としては、
また同じ加害者から暴行を受けるのではないかという怖さがあったという。

女性が少ない深夜帯に肌を露出させた服装で歩かなければ、
少なくともこの加害者からは襲われないだろうということが真実である。
加害者は、顔とか身長などの被害者の個別性はあまり意識していなかった。

こういうと、「襲われた方が悪いのか」という批判が想定されるが
悪いのは当然加害者であり、処罰を受ける。ある程度の損害賠償も支払う。
しかしそれだけである。
一方被害者は、心の傷が重く、PTSD様の後遺症が残っている。
良い悪いで評価しても、被害を防止することはできない。
被害を防止するための実利的な議論を妨害することは有害であると思う。

被害者側の求めに応じて、加害情報を提供することも、被害回復には有効であることを学んだ。
被害を受けたことには変わりがないし、それだけで恐怖が軽減するわけではない。
しかし、実際の被害態様は被害者が想定しているよりも、
軽度なものであることを知識として頭に入れてもらうということが有効な場合もありそうだ。

<連れ去り被害を受けた夫>

連れ去り被害を受けた男性は強制的に圧倒的な孤立感を抱かせられる。
家族や子どもを奪われて、行政や警察からも敵対的な対応を取られるが
その原因が理解できないため強烈な被害者意識を持たせられる。

自分がいわれのない苦痛を受けている自覚が強烈にあるため、
加害者である妻は、自分を排除して
「子供や妻の両親たち」と、楽しく自由に過ごしているのだろう
と具体的な絵を想像してしまうようだ。

そういう加害者の楽しさを想像することによって
自分が強烈に排除されているという思いが増強していって
ますます孤立感を強めていき、ますます苦しくなるようだ。

しかし、実際は、連れ去り妻は、元々精神的に不安定で
理由もなく不安を感じる状態であることが多い
その不安の原因を夫に求めて連れ去りをしているわけだ。
しかし、その原因が本当は夫にあるわけではない
だから、別居をしても不安が解消されることにはならないことが多い
ありもしない夫の怒鳴り込みをいつも想定してビクビクしている
ということが多い状態である。

少なくとも、夫さえいなければみんな幸せという状況にはなっていない。

連れ去られた子どもたちの多くは、
1人にした別居親に対して、多かれ少なかれ罪悪感を抱いている。

しかし、被害者は、自分だけが苦しんでいるという想定をしてしまう。
相手が苦しんでいるということはなかなか想像することもできない。
あまりこの感情を追認してしまうと、方針を誤る。
相手と駆け引きをして、少しでも望む状態に改善してくという発想が
どうしても生まれないまま
100か0かという発想を持ち続けてしまう。
その結果、有利な事情を見落としてしまい、必要な手段を行使できない。
結局、いっても仕方がないことばかり言って、関係を悪化させていくことになる。

<DVを受けた妻たち>

DV被害を受けた妻たちは、
夫に対する抵抗力が著しく失われているため
夫が無敵の存在であり、どのように抵抗しても自分には勝ち目がないと感じている。
自分は夫の支配から逃れられることはできないのだと訴える妻が多い。
しかし、実際に夫と対峙すると、弱さを持った普通の人間であることがほとんどだ。

被害者は、自分の被害を実際よりも大きなものと感じる傾向がある
些細な刺激も、自分の存在を脅かすものであると受け止めやすい。
解決に向けた対策を立てようとせず、
どうせダメだろうと言うあきらめが先行してしまう。



全ての動物がそうであるはずだが、
自分の危険を感じた場合は、
危険を大きく把握した方が有利である。
危険を小さく把握してしまい、油断してしまうと
危険が現実化してしまう可能性が高くなる。
危険を実際よりも大きく想定して
想定した危険に見合った逃避行動を取る方が
危険が現実化する可能性が低くなる。
危険を過大視するのは、生き物の基本姿勢なのだと思われる。

本人がそのように危険を過大視することはやむをえない。
問題は、第三者が、本人の本能的なものの見方を追認してしまうことである。
もしその人が被害を感じているというのであれば、
本能的な危険の過大視を追認することは大変危険なことである。

冒頭の性的暴行に被害者の被害意識を追認して
「あなたは何も悪くない。犯人があなたの素性を調べ上げてあなたを研究して
あなたと言う個人を狙って犯行に及んだのだから
あなたは将来何も悪いところがないにもかかわらず、再び襲われる可能性がある。
だから犯人をできるだけ長く刑務所に入れるようにしましょう。」
と感情ダダ漏れの支援をした結果どうなるだろう。
当然それほど長い期間刑務所に入ることはない。近い将来釈放される。
被害者は自分を防ぐ方法がなく、恐怖は消えることがない。
家族を伴った遠方への引っ越しを考えることも実際はありうる。

これに対して、犯人はあなたがどこの誰だから分からなくて
その日、その時間があなたが目立った格好をしているだけで目をつけたのだそうだ。
襲った相手が悪いといっても仕方がないから
遅い事件一人でであることはやめるし、外を歩くときは肌を露出した格好をしない
どうしても遅い時間の帰宅の場合は、誰かに迎えにきて貰えば大丈夫
というアドバイスとどちらが精神的に救われるか
実務的には議論の余地がない。

それにもかかわらず、正義や支援の名の下に
客観的状況を超えた被害を追認して被害者が苦しめられていることが横行している。
支援者は自分の行動を振り返ることができない。
このように抉り出して説明すれば分かりやすいが
実際は、自分のやっていることがこういうことだという自覚を持つことができにくい。
正義感情が強すぎる稚拙さが目立ちすぎる。

連れ去り事案においても
妻の漠然とした不安を夫の行動を安易に結びつけてはならない。
確かに、妻の漠然とした不安を助長するような夫の行動がある場合もあるが
知識を授けることで、行動を改善することは通常大いに期待できる。

どちらが悪いというれベルから、家族が穏やかに幸せに生活するというレベルで考え、
相互に関係性を高めていくアドバイスこそするべきなのである。

逆に連れ去り妻に対して夫の怒りを代弁して攻撃し、
関係が修復するどころか、悪化していったら
真の被害者である子どもにとって取り返しのつかなくなる事態が訪れるだけである。

相手に対する攻撃を優先させるか
子どもの幸せのための行動をすることを優先するか
ということは常に問われなければならない。

支援というものは自己満足であってはならないし
誰かを支援することが誰かを傷つけることを正当化するものでもない。

支援の名の下に、あるいは正義の名の下に、
被害者の被害感情を拡大させることが目につきすぎる。

無邪気な正義感で人間の紛争に関わる仕組みは終わりにしなければならない..




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被害者の心理 1 被害者は自ら損を選択し、拡大被害が生まれる [進化心理学、生理学、対人関係学]

被害者の心理 1 被害者は自ら損を選択し、拡大被害が生まれる

信じていた人に裏切られた場合。あるいは、公平や正義を期待した存在に自分が理由もなく不利益を与えられる場合のその被害者の心理についてのお話です。
詐欺を受けた被害者、気が付かないうちにパワハラを受けていた被害者、あるいはいじめにあっている被害者、そして妻に子どもを連れ去られて、行政や警察が連れ去り行為に加担していることを知った夫等、弁護士はよく被害者と一緒に行動をすることになります。

最近強く気になっているのは、被害者が、例えば裁判や調停で、感情に任せて行動をして単純に損をする選択をする傾向にあるということです。

第1に、感情的になりすぎて、些細なことで怒りをあらわにするということ。逆に他人の感情を顧みずに、論理的に間違っていることをいたずらにただ主張することです。

なぜこれが損になるかというかお話しします。本当は被害を受けなければこんな正確でなかったと思うのです。被害を受けたから、感じ方や行動パターンが変わるのが人間です(1)。それなのに、例えば離婚関係の調停の中で、相手の上げ足をとり、相手の弱さを無視して、すべて理屈通りに行動しなければならないと強硬に主張してしまう、調停委員のわずかな言葉も無視できず徹底的に抗議してしまう。時に大声をあげてしまう。長時間演説をしてしまう。こういうことをやってしまうのですが、それも被害を受けたから行うことなのです(2)。それを調停委員や、あるいはその人の代理人が理解できませんから、
「ああ、同居しているときからこういうことをやっていたのだろうな。こういう人と同居していたら毎日が苦しいだろうな。奥さんが離婚したくなっても仕方がないだろうな。」と自然に感じてしまうのです。ただでさえ、男性はジェンダーバイアスと戦わなければならないのに、その偏見を自分の行動で後押ししている形になってしまいます。その結果、なかなか親身になって調停を進めてもらえません。
ここまで読んで、それでは調停はだめだろうと感じた方は、重篤な被害者心理を抱いていらっしゃいます。現実を踏まえて活動することができなくなっています。

第2に、実利をとることに目が向かず、相手方を攻撃すること、相手方の主張の矛盾を指摘することに神経が向いてしまう。

例えば財産分与で、子ども名義の銀行口座を共有財産として価値を分配するのか、妻の特有財産だとして妻に与えてこちらは取り分を放棄するかという議論があったとします。妻側はあきらめて共有財産だから、例えば80万円の口座残高だから、40万円を引き渡すと主張しているとしましょう。ところが、調停が始まる前では、この口座は、妻が「自分の元々あったたんす貯金を子ども名義でためていたのだから私のものだ。」とか言っていたような事情があったそうです。夫は既に逆上していますから、「あの時自分のものだって言って威張っていたくせに、今度は違うことを言っている。言っていることが矛盾だ。妻の特有財産だと主張する。」なんて言ってしまって、自分が40万円損をすることに気が付かないのです。割と単純化してお話ししていますし、ご自分のことでないので、読んでいる皆さんは、「なんでそんな馬鹿なことを言うのだろう。」と理解できないかもしれませんが、実際の離婚事件ではよくあることです。本当は、「妻が結婚前からためていたお金だから特有財産でよいよ。」という気持ちならば代理人もそうですかというのですが、そうではないようです。また、説明してもよくわかられません。
典型的に、自分で自分の損に向かってしまっているのです。

第3は、他人に対して高度な支援を期待してしまう・要求度が高くなる(3)

こういう現象も目につきます。被害者は自分が誰からも支援を受けられていない孤立した状況だと感じやすくなっています(4)。例えばいじめ事件やパワハラ事件でも、勇気を出して助けの手を差し伸べている人が必ずいて、その事実について被害者もきちんと認識しているのです。しかし、自分が支援されているとか、その人が自分を助けようとしているという評価ができない。このために孤立感が深まっていきます。支援をしようとしている人は、支援が正当に評価されず、自分が逆にいじめなどの対象にされてしまう危険を冒して手を差し伸べているにもかかわらず、反応がなされないために、はしごを外されたような気持ちになってしまいます。どんどん本当に孤立していってしまいます。

第4は、他人を信じられなくなり、自分の仲間を攻撃するようになる

例えば家族、例えば代理人弁護士など、「自分を助ける仲間」というカテゴリーの人は仲間だという認識はあるのです。しかし、要求度が高いということと関連するのでしょうが、些細なミスを重大なことのようにあげつらって攻撃してしまいます。これは攻撃的になるというよりも、些細なミスも命取りになるのではないかという不安が強くなっているのだと思います(5)。そうして、あれこれと自分が仲間に対して命令をするようになってしまいます。
客観的にみていると、そのさ指図やその抗議で、事件解決や自分の要求を通すことの大事なポイントが見失われてしまったり、逆効果になっていることが多いのですが、他人に任せるということができない。ついつい自分がやってしまって、失敗することがあります。

また、仲間さえも心理的に離れて行ってしまいます。大きく観た場合に利益に反する行動につながります。

第5 他人の気持ちを考えられないため、仲間を攻撃してしまう。

信じられないという心の問題もありますが、相手の心という複雑なことに対して配慮をすることができなくなります(6)。相手から見れば、「被害者だからといって、何をやっても許されるわけではないぞ。」という気持ちになってしまいます。客観的には相手に失礼なことをやっていても、本人は相手に迷惑をかけているということに気が付いていないのです。「自分と同じ気持ちでいるはず、いなくてはならないから、自分の言っていることは相手も当然なこととして受け止めるはずだ。」というくらいの気持ちでいるようです。

相手の活動を妨害している結果になることもあります。こういう場合、悪意が無いからといって、聞き流すことができないことがあるのはやむを得ません。

第6 正義に敏感になり、日常的に攻撃モードになっていることに気が付かない。

これは少し上級者ということになります。自分の被害が、自分と加害者の関係の中で完結しているものではなく、社会的背景があることに気が付くようになります。そうすると、社会的活動をするようになっていくものです。それは良いのですが、社会の色々な不正に対しても、うやむやにすることができなくなり、例えば行政に、例えば警察に攻撃を仕掛けていくということが出てきてしまいます。ところが、攻撃をする相手は社会そのものではなく具体的な個人ですから、攻撃している本人以外の人から見ると、かなりケンがあるというのでしょうか、うっかり話しかけると攻撃されるのではないかというような漠然とした印象を持ってしまいます。これは大変損です。話しかければ賛同してくれますが、徐々に近づかれなくなってしまうということが起きます。本人悪い人ではないし、間違ったことは言っていないので、大変損です。
社会的な働きかけは大勢で行わなければなりませんので、結果を出すためには、こういう状態になっているということを意識して、アプローチを工夫する必要がどうしても出てきます。
正しいことを言っているから、相手をとことん攻撃する、手を緩めないということがウリの政党の支持が拡大していかない理由がここにあると思います。一般の人、被害者以外の人は、人と人が争うのを見ることも嫌がるし、正しいことで追いつめられる人を見ることも嫌がるものなのです。大切なことはアプローチの方法だということです。

第7 仲間に依存してしまう結果、仲間以外を攻撃してしまっている

被害者は、自分の被害を説明することが辛いです。被害を受けたときに気持ちになるでしょうし、それを説明しなければ分かってもらえないということも辛いところです。だから、同じ被害を受けた仲間や支援者の中にいることがとても心地よいわけです。言葉に出さなくても分かってくれるということだから当たり前ですよね。だから同じ被害を受けた仲間は助けたくなるし、守りたくなるのも当然のことですし、人間らしい感情だと思います。
仲間が誰かと対立していたり、あるいは仲間が誰かにケンカを売っていたりしても、仲間を守りたくなり、支援する行動をしてしまいます。どうしても、「それはやめた方が良いよ」とか「もう少し穏便に意見表明した方が良いよ」というような相手の行動を部分的にでも否定することをしにくくなります。
その結果、仲間は自分の行動が支持されていると思って行動をエスカレートする等の弊害が生じ、支援者も相手からその仲間と一緒に攻撃を受けている加害者集団の一員だという扱いを受けてしまいます。
また、同じ被害者というくくりはあまり正確ではありません。実は被害の内容は人それぞれ全く違うからです。自分よりましな相手のましな部分にどうしても目が行ってしまうものです。元々被害に敏感になっているため、仲間の善意の言動も自分を攻撃しているように過敏に反応してしまうこともあるようです(7)。
「誰かを支持することが誰かを攻撃することになってしまう。」実はこれが人間がなかなか争いがやめられず、不合理な被害にあう人が生まれる根本原因だと私は考えています(8)。そうやって被害者になったのに、今度は別の誰かに対する加害者になってしまっている。そして被害が拡大していく。これは悲劇だと思います。
そして、そのような被害者を利用しようとする人たちもいます。迫害されていればされているほど、自分たちに救いの手を差し伸べてくれる人はありがたいです。はっきりと恩着せがましいくらいに支援しているという人に対して依存してしまいますので、第三者から見ると、なんでこんな見え透いた人に従うのだと理解できない人に対してもです。明らかな嘘を言って、被害者を利用して、第三者から見れば被害者を危険な目にあわせて、自分の利益を得ている人たちもいます。また、善意の人も、善意ではなくても被害者の利益になる人もいるにはいるのです。ここの見極めは大変難しいところです。




文中のカッコ内の数字は、後に利用するためのもので、今回については意味がありません。すいません。

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連れ去られた子どもは、なぜありもしない別居親の虐待「体験」を語るのか [進化心理学、生理学、対人関係学]



面会交流調停事件で、面会交流実施を拒否する理由として挙げられるのは、
「同居していたとき、今別居している親から虐待を受けたので
子どもが会いたくないと言っている。」
というものである。

確かに、虐待とまでは言えないとしても
別居親から厳しくしつけられていた場合、
子どもは、別居親に対して拒否反応を示すケースは実際あった。

しかし、大半のケースでは、そのような主張があった場合でも
試行面会をすると
子どもは、別居親と久しぶりに顔を合わせると
満面の笑みで別居親と遊んでいる情景を見ることになる。

調査官調査でも、子どもが父親の虐待をほのめかすケースであっても
同様である。
実際には虐待はなかったのである。
では、どうして実際にはなかった虐待を
子どもは調査官に訴えるのだろう。

答えは簡単かつ単純で、
虐待があったという暗示をかけられたため
実際にはない虐待があったという記憶が作られるからである。
子どもは暗示にかかりやすい。

ただ、同居親が意図的に子どもに虚偽の事実を思い込ませようと
一生懸命暗示をかけたとしても
それはなかなか成功せずに
調査官によって見破られることが多いようだ。

能力が高く意欲がある調査官は
子どものリアルな反応を抉り出して報告する。

そのような調査官でもうっかり子どもの申告を信じてしまうのは、
ある意味偶然暗示がかかった場合が多いように感じる。

ある事例を内容を改変して例に挙げる。

別居2年たった調査官調査の事例である。
調査当時小学校2年生であった。8歳になっていた。
昆虫が嫌いな女の子だった。

その子は調査官に対して父親と面会することに抵抗があると言い、
その理由として夜に父親が自分を物置に閉じ込めたからというのである。
その物置に閉じ込められたという時期は
なんとその子が2歳半の時、
5年以上も前のころのことだった。
もちろん別居前までの父と娘の関係は良好である。

調査官はそれを真に受け、
その子どもに対して父親は対処しなければ
面会は実現しないだろうと言った。

しかし、実際は物置に閉じ込められた事実はなかった。
真相はこうである。
その夜
母親が用事があり実家にお泊りに行き
家では父親と2歳半の娘がお留守番をしていた。

娘がぐずって言うことを聞かなかったので、
父親は、そんなにいうことを聞かないならば
物置に連れて行くよと説教をした。
ここまでは正しい。

その物置は家の外にあり、
簡易な造りのため、バッタやセミなどが入ってくることがあった。
それまで物置に特に強を抱いてはいなかったが
2歳前くらいに一人で物置を開けたときに
大きなバッタが飛び出してきて体にぶつかってから
その子はその物置にとてつもない恐怖を抱くようになった
というのである。

父親は子どもの腕をつかんで玄関を出て物置に向かうふりをしたところ、
腕が異様に暑いことに気が付いて
子どもが風邪をひいていたことを理解した。
ぐずっていたのは体調が悪かったからだということを理解し
父親は子どもに謝罪して救急外来に連れて行った。
これが真相であり、裏付けもあった。

子どもは物置が怖かったため
父親がいないときに母親に告げ口をしたようだ。
物置がいかに怖いかを切々と訴えたのかもしれない。

しかし母親は大したことではないと思い
いいかげんに聞いていたようだ。

子どもは父親と別居後、
年相応のわがままを言って母親を困らせることがあったようだ。
そのたびに母親から「物置に入れられても仕方がないわがままだ」
と叱責を受けたようだ。
そのたびに、子どもは、
自分は「わがままを言って父親に物置に入れられたことがある」
という記憶が植え付けられていった。

「自分はどうして物置に入れられたのだろうか」
という質問を母親にした時に
「それはあなたがわがままを言ったからでしょう」
と返されていたということである。

物置に入れられるという恐怖が
記憶の中で入れられて怖い思いをしたという風に改変され、
それが母親の物置に入れられたことを肯定する返事があったために
自分は父親に物置に閉じ込められたという記憶が定着したようだ。

このケースは、本来、
2歳半の記憶以外は、父親に抵抗のある理由が語られなかった
ということをむしろ重視するべきである。
実際はなんとなく会うことが怖いというに過ぎない。
その後の数年間は、何の問題もなく父親と同居していたのである。

子どもの、特に幼少期の記憶を真に受けてはならない。
通常記憶通りの出来事は存在しないと考えるべきである。

このケースのような知的能力や記憶力の高い子どものケースでなくとも
子どもなりに、恐怖や嫌悪、不安の体験は存在する。
その理由がわからないまま疑問として抱えている記憶がある。
そのような場合、同居親が
その不安を別居親に結び付けて暗示をかけると
子どもはたやすく別居親と負の感情を結び付け
子どもなりに合理的に虐待の記憶を「作り出す」可能性があると考えている。


子どもの証言は吟味する必要があるということもそうだけれど
子どもに恐怖を与える方法でしつけをすること自体を
親は控えるべきなのだろうと思う。



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【読書案内】「抑圧された記憶の神話」E・F・ロフタス外 ラディカルフェミニスト J・Lハーマンを裏から学ぶ。治療者と弁護士のアプローチの違いと弊害について [進化心理学、生理学、対人関係学]



弁護士の仕事をしていると、真実と異なる証言を目にすることがあります。
偶然に証言が違うという客観的な裏付けが得られることがあるのです。
もちろん、あえて嘘を証言する場合もあるのですが、
どうやらその人の記憶では、それが正しいと思い込んでいる
としか考えられないことも多いのです。

夫婦間の家事事件で多く真実に反する証言を目にします。
真実と異なる証言をするのは妻とは限らず、夫、そして子どもたちも含まれます。

このため記憶に関する勉強はずいぶん前から勉強をしてきていました。
ロフタスという名前は、むしろ記憶に関する勉強というよりは
認知心理学、実験心理学の本の中で
「ショッピングモールの迷子」という実験で紹介されていたのですが、
著作が出版されていることに気が付かず、読む機会に恵まれませんでした。

今回もロフタスに興味を持ったのは
アマゾンの書評で、わが師であるJ・Lハーマン先生の批判がなされている
ということから興味を持ちました。

ハーマン先生は、「心的外傷と回復」という名著の著者で
複雑性PTSDという病名の提唱者です。
私の対人関係学は、この本に記述されている
人間の心の仕組みが基盤になっていますので
大恩人でもあります。

ただ、気になることが本に書かれていて
ご自分がラディカルフェミニストだということを自己紹介されているのです。
「心的外傷と回復」では、医学的、心理学的に
つまり科学的な記述がなされていたので、
どの部分がラディカルフェミニズムなのかわかりませんでしたので、
それも知っておきたいという気持ちも強くありました。

出張先の町で時間調整のために
ロフタス博士の「目撃者」という本を途中まで読んで
あまりにも私が求めていた本だということで
「目撃者の証言」と「抑圧された記憶の神話」の2冊を
アマゾンで発注し、さっそく読み終えたところです。
ハーマン先生の本は難しく
既に4,5回読み直して繰り返し勉強しているのですが、
ロフタス博士の本は、翻訳の問題もあるかもしれませんが
すんなり頭に入ってきてあっという間に読めました。
中身が面白いというところもあるでしょう。

特に「抑圧された記憶の神話」は、衝撃的でした。
副題が「偽りの性的虐待の記憶をめぐって」というものが端的に表しているのですが、
1970年代80年代に、アメリカで、
カウンセリングによって突如20年前に虐待された記憶がよみがえり、
それをもとに、父親や母親、親せきを告訴し、
陪審員の刑事裁判で有罪を宣告され
多くの人たちが刑務所に服役しているということが起きました。

この記憶をよみがえらせるカウンセラーが
ラディカルフェミニストのカウンセラーで、
これを記憶の科学の観点から批判したのがロフタス博士で、
そのロフタス博士を批判したのが
われらのハーマン先生たちという
こういう人間関係になっているようです。

日本の刑事訴訟法では考えられない
被害者の不確かな記憶で、処罰されるということが
アメリカでは横行していたようです。

この本を読むと、なんて不合理なことが起きているのか
1歳半の時の記憶で、無実の善人が服役することになるし
日本ではそんなことは起こりえないだろうと
普通の方はそういう感想をお持ちになるでしょう。

私は違います。
このような不合理が形をそのままに日本でも横行しているからです。

この本の冒頭、日本語版の序文の最初にはこう書かれています
「問題を抱え、うつ、不安、または神経過敏を訴える人が、カウンセラーに助けを求めます。するとしばしば最初の面接で、カウンセラーがこう尋ねます。「ありとあらゆる兆候が出ていますね。あなたは子どもの頃、虐待されたのではないですか?」たとえ彼女が否定しても、問題の背後には虐待があると、強く信じ続けるカウンセラーがいます。そして度を越えた「記憶作業」が行われることもあります。」
「子ども時代や思春期は比較的幸せだったと考えていたとしても、同様のことは起こります。そして患者のなかには訴訟を起こす人も現れ、法律家が参入してきます。新しい記憶が『奇跡のように』現れることすらありました。」

冒頭の1頁を読み終える前に、衝撃の連続を体験しました。
これは現代日本においても行われている!
単に幼児期の性的虐待から
DVに代わっただけの話です。
「あなたはDVを受けています」とご宣託をするのが
カウンセラーではなくて行政やNPO法人という違いもありますね。

過剰なDV保護がラディカルフェミニストによってなされることは
アメリカの幼児の性的虐待の焼き直しだったということです。

科学的な道理をもって批判したロフタスに対して
ラディカルフェミニストたちの感情的な批判が行われ
ロフタスの話が影響を持ってしまうと
「これまで女性たちが築いてきた歴史が台無しになってしまう」
という批判までありました。
共同親権に対する日本のラディカルフェミニストたちの発言と瓜二つです
これを21世紀になってそっくりまねているわけです。


さて、私はハーマン先生が未だにもちろんわが大恩師だと思っています。
それでもハーマン先生はロフタス博士をラディカルフェミニズムの立場から批判しています。
これはどういうことだろう。私はどう考えるべきか。
ということを真剣に考えてしまうわけです。

しかし、幼児期虐待の話では、どうもハーマン先生に分が無いようです。

<治療者のアプローチの限界と弊害>
一つにはハーマン先生は、
精神的不安定な女性たちを治療するという立場を貫いているということが言えるでしょう。
「治療という観点からは、その女性たちが言っていることが訴訟法的に立証されようとされまいと寄り添ってケアしなければならない。」
こういう考え方のようです。
治療の過程の中では、いちいち発言者の発言を疑わないで支持的にアプローチすることが必須なことはあるでしょう。

しかし、その女性の発言が正しいということを前提に女性の行動を援助してしまうと
例えばやってもいない幼児虐待を娘から告発される父親のように、精神的大打撃を与えられ、自死に至るという例も当然あるわけです。
許されない部分もあるはずだと思います。

でも実はここは、ハーマン先生や、ラディカルフェミニズムという思想の問題ではなく、どうやら「治療者の限界」という一般的問題のようなのです。
高名な心理カウンセラーの先生が(これまだ大恩師)、知人のカウンセリングを施術されていたことを知る機会がありました。そのクライアントは、なぜそのような精神状態になったかについて大事なことをカウンセラーに秘匿したまま、周辺事情ばかりを伝えていたようです。そのため、カウンセラーは判断を誤ってしまい、クライアントの身近な人に精神的不具合の原因を求めてしまったということを見ています。身近な人も知っている人なので、その混乱や苦悩を目の当たりにしたという体験があります。
その他、事件を通じて医師の態度も同様なことをたびたび感じています。
つまり、熱心な治療者は、患者の回復にしか興味がなくなるようです。
患者の回復にとって必要があれば、患者の周囲に対する医原性の侵襲を顧みることが薄れるようです。

弁護士というか、対人関係紛争の調停の場合は、
一方のクライアントの利益ばかりを強調すると結局みんな損をしますから
対人関係の相互作用ということを強く意識しなければなりません。
また、まともな弁護士は(法律を知っている弁護士は)
落ち度がない者が不利益を受けることは許されないという考えになっていますから
自分の依頼者の利益のためだからといって
他者に不合理な不利益を与えることを良しとしてはならないのです。
但し現実がどうなっているかを考えると暗澹たる気持ちになるところです。

<身近な人からの虚偽虐待こそクライアントを壊滅させる>

ロフタス博士の本では、
治療のために虚偽記憶を掘り起こした結果
クライアントの症状が悪化して取り返しのつかないことになる例が紹介されています。

これが当然なことだということが今回はっきり認識できました。
ハーマニストの私なら簡単に説明することができます。

ハーマン先生の名著の中でも最も感銘を受けた部分です。
孤立の害悪を論じられたところです。
75頁
外傷事件は「自分以外の人々との関係において形成され維持されている自己」を粉砕すると言っています。
「人間は、単一で生きているわけではない
自我といっても、自分を取り巻く他者との中で自我が確立される。
自分大切な他者とのかかわりを断ち切られることは
その人にとって極めて深刻な影響が生じる。」
という意味だと思います。
これは対人関係学の名称にも影響を与えた
私にとってとても大切な部分です。

幼児期の性的虐待というありもしないことが「ある」
ということになってしまうと
特にそれが両親や兄弟だとすると
「自分」というものの存在そのものが虚構だったということになるわけです。
本来、最も自分をフォーローする人間がいて
人間というものは信じて良いもので、頼って良いものだ
という人間らしい記憶が
自分の存在を否定する危険な存在だという記憶に代わるわけです。

精神的によって立つ基盤が失われるわけですから
自我が崩壊していくことになるのはよくわかります。

幼児期の虐待が、少なくとも真実でない場合、
これを真実だとしたうえで支援をすることは
犯罪的行動だと思います。
冤罪的に不利益を受ける家族もそうですが、
何よりもクライアント自己同一性を崩壊させるという
取り返しのつかないことが起きるからです。

支援の文脈で考えなければならないのは
医師やカウンセラー、行政やボランティア、そして弁護士は
その人のコミュニティーの一員ではない
ということです。

本来その人が生きていくコミュニティーを強化することこそ
クライアントのためになることだと私は思います。

それがなく、その人の自我を形成した人たちを攻撃することは
単なる自己満足の行動だと考えるほかはありません。

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【実務家向け面会交流調停期日メモ】拒否の度合いが比較的小さい連れ去り妻が2回目の調停で裁判所外の直接面会に応じた事件の分析 [家事]

この記事は面会交流の実現を仕事として行っている方に向けて書かれています。
事案は、本質を変容させない範囲で変えています。

夫婦は20歳代後半
子どもは二人(小学校低学年と幼稚園年中)
結婚8年目で妻が子どもを連れて、他県の実家に別居

別居に至る原因
妻の主張は夫の説教と子どもへの暴力というDV
夫の主張は妻の浪費を追及したら別居

別居から比較的早い段階で双方弁護士が受任
3か月に1度くらいで弁護士を通じて子どもの写真などが送られてきた。
現在別居して1年。子どもからの夫への返事は一度あったが
あとは双方向性のないやりとり。
婚姻費用は早期から送金。金額に不満あり。

調停は、面会交流調停、離婚調停、婚費調停
裁判所は県庁所在地を管轄する裁判所

1回目の期日と2回目の期日の間に
子どものための親に対するレクチャーと
子どもの調査官調査実施

調査官は中堅からベテランの調査官
やる気も能力も高い
報告書を読むと
子どもの様子は、わずかな葛藤も見落とさず
極めてリアルに再現されている。

夫からするとやや女性保護のバイアスがかかった質問がなされたとのこと

2回目の調停では
夫側の主張
子どもとの関係が安定したならば離婚も考える
妻側の主張
離婚が決まれば面会させる。

夫の側の主張
面会交流は子どものために実施するもの
親の紛争に子どもを巻き込むことはいかがなものか。

妻側の主張
直接交流は嫌だからテレビ電話など
調査官の意見
夫の反省を引き出せないために
妻を安心させられない
もう少し反省の弁はないか

夫側の主張
妻が嫌かどうかではなく、子ども本位に考えるべき
二人の事実認識には食い違いがある
それは大人の問題である。
面会交流は子どもの権利なので
妻側の主著はともかく、母親として頑張ってほしい。

交代中に、なおも妻側が抵抗を示した場合に備えて用意したこちらの論法
「調査官調書には、子どもが父親に会いたいということが明確に記載されていた。
これでも子どもが会えないのならば
子どもはどんなことを言えば自分の親に会わせてもらえるのか教えてほしい」

しかし、おそらく調査官の奮闘により
直接面会交流の実施方法について妻側が検討に入る。

その結果、短時間であるが
ファミリーレストランにおいて食事をしながらの面会が実施されることになり実施された。

<検討1 妻の複雑な心理>
妻側代理人が比較的鷹揚に間接面会の仲介の労をとってくれた。
頻度は少ないが、夫側としては一定の精神的安定が図られた。
写真や手紙の送付すら拒否する事例が多い中(連れ去り事例の場合)評価するべきだ。
但し、居住地などの情報秘匿は徹底していた。

もしかしたら、妻側で離婚はしたいけれど夫には嫌われたくない
という複雑な心理過程がありうるのではないかということは検討するべき。
嫌われたくないけれど、子どもは手放したくない。

このような場合、安心感を得られる形の面会方法であれば
実施される可能性が高くなるようだ。
調停の話し合いを見ていて絶対無理だという葛藤の強い事案でも
映画やサーカスの干渉という形で面会交流が実施できていることも多い。
妻は、子どもに時間を過ぎてももっと父親と交流しろと促すこともまれではない。

直接面会交流を大胆に提案するべきだと思う。

<検討2 調査官の役割>

今回間接交流にこだわった主張はしたものの
調査官の強い働きかけて直接面会が可能となった。
コロナでこれまで実施されていた面会さえ中止になることが多いにもかかわらず
画期的なことである。

調査官の女性保護バイアスは確かにあったが
思想的なものとして反論するより
弱者保護の観点からの正義感だととらえることが肝要である。
但し、それは調査官の役割ではない
調査官や家庭裁判所の役割は最弱者であるこどもの利益である。

このことを気づかせるのが代理人の役割であり
喧嘩してしまうことはデメリットしかないだろう。

正義は人の視野を決定的に狭めてしまう。

このために、できるだけ早い段階で
子どものためのプログラム、ないし、面会交流プログラム
を実施するべきではないかと考えている。

実際よくできていて、子どもの利益を第一にという
共通言語が生まれる効果がある
無い場合も大きいが、
この考えに照らして主張を強めることができる。

そして、調査官にもこのプログラムを主宰することで
親の紛争を子どもに及ぼさないということを
調査官自身が再確認するきっかけになる。
代理人は、現実の調停の中で、
そのことが問われる場面を特定し、気付きを促す
という役割を果たすことが求められる。
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