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自死(自殺)の原因が複合的であるという意味と過労自死の関係 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の原因が複合的であるとよく言われますが、
この意味をよく理解している人はそれほど多くないかもしれません。

心理的圧迫の事情が複数あるというように考えられている方が多いのではないでしょうか。
例えば、上司のパワハラと、取引先とのトラブルと、家庭問題と借金
とかという具合に
ストレッサーの数が複数あると思われがちです。

確かに、一つだけでも死に至るストレスが
同時に複数起きてしまうと
自死の原因にはなるでしょうけれど、

通常は、外在的な要因としてのストレッサーが多いということを
意味しているのではありません。

人間は、日常的に様々なストレスを抱えて生きているわけです。
ところが、通常はストレスがあったとしても自死に至ることはありません。
一つ一つのストレスは、
何らかの形で無害化して
その影響を深刻なものにする前に軽減させたり無くしたりします。
人間には、自然治癒力があり、回復する力があるのです。
環境を変えたり、考え方を変えたり、
馴れたり、忘れたり
色々な方法でストレスを無力化しています。

この無力化は、
自分1人でするとは限らず
仲間の存在によって無力化が促進されることも多いわけです。
アドバイスをもらったり、慰めてもらったり
仲間がいるということだけで安心できたりします。

それから、偶然の出来事や時間感覚が開くということも
ストレスの軽減につながることもよくあることです。

ところが、様々な事情から
このストレスの自然治癒が果たせない場合が出てきます。

本人の体調の問題や、性格の問題で、
小さなことにこだわったり、
本当はストレスに感じる必要がないことなのに
苦しんでしまうこともあるでしょう。

精神病もこの一因になることがあります。

また、本来何事もなければ仲間が助けてくれるはずなのに
タイミングが悪く、助けてもらえなかったり
逆に攻撃されたりなどということもあるでしょう。

また、対人関係の不具合は、他人から攻撃されるから起きるのではなく
自分の行動の失敗からもおきますし、
それはそれで、後悔など自責の念が加わり、
強烈なストレスになるかもしれません。

体調の問題とは精神疾患に限らず
睡眠の問題も重要です。
ストレスの無力化が起きる時というのがありまして、
その時というのが睡眠の時なのです。
ストレスの無力化とはどういうことかということは
少し長くなるので、今日は割愛します。
実際ストレスと精神疾患に関して
それが労働災害であると認定されるときには、
睡眠時間がどの程度になっているかということが重視されています。

ストレスが無力化されない原因として
このように、本人の問題ということは無視できないことです。
また、偶然の要素もありうる話です。

しかし、ストレスが無力化されない原因として
ストレス自体が無力化できないほど強すぎる場合というのがあり、
他の複合的要因があったとしても
強すぎるストレスはそれ自体で、無力化できない事情ですから
それが大きな原因だとされるべきなのです。

この考え方は、労災認定や公務災害認定でも採用されています。
対人関係トラブルでは、例えば
暴力を伴う攻撃を受けた場合、
多数対個で逃げ場のない場合
執拗な嫌がらせのような場合
など、
日常生活で無力化しにくい出来事がある場合に
精神疾患や自死との相当因果関係が認められやすくなっています。



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怒りの行動の対人関係的把握 加害行為としての自傷行為 自死の経路の可能性 [進化心理学、生理学、対人関係学]

どうして人間は、怒るのでしょう。
一説によると、
要求の実現が阻まれることによってフラストレーションがたまると
怒りになるというようです。

この説を批判するというのは、真意ではなく、
別の側面に光を当ててみる試みをするというのが正確でしょう。

対人関係学は、
基礎的事情としては、
欲求が充足されないと言っても
危険を感じて危険な意思不安を解消しようとして
解消できないということが基礎的事情だと考えます。

不安解消や危険は、
基本的には、自己防衛ということになります。

但し、仲間を防衛しようという時も基礎事情になる事がややこしいのですが、
情動的共感をすることによって
怒りの基礎事情になるわけです。

不安解消や危険解消の行動は、
必ずしも怒りにつながるだけではなく、
恐れやフリーズにつながる場合もあるわけです、

そうすると、怒りと恐れとその違いが生じる事情はどこにあるかが問題となります。
この点も対人関係学は、極めて単純です。
勝てるか勝てないかという無意識の判断をしているということです。
つまり、勝てると思ったら怒りになり、負けると思ったら恐れになる
ということです。

もっとも、危険が意識に登る前に、この判断は終わっていると考えています。
怒りと恐れを、自由意志による選択することはできないわけです。

仲間を守るためには、自分が攻撃の矢面に立っていないので
自分が負けると思うリアリティがないので、
怒りを起こして攻撃行動に出やすくなります。

公正さや道徳を見出すものに対しても同様に怒りを起こしやすいわけです。
この場合も、自分や仲間に対して不利益を与える行動だと思われますが、
自分が直接攻撃を受けている訳ではないので
怒りが起きやすくなる訳です。

怒りは攻撃行動をしている場合の感情だと考える訳です。
攻撃をして、危険を除去するという危険回避行動だと把握しています。

逆に自分は勝てないと思うと、
逃亡をする訳ですが、その時の感情が恐れということになります。

怒りも恐れも、危険回避反応ですから
生理的な反応は共通していて、
副腎皮質ホルモンが分泌され、交感神経が活性化します。


怒りの本質は、このように単純なものなのですが、
複雑に見せる原因がいくつかあります。

一つは今述べた、自分の防衛だけでなく、
仲間を防衛する場合も情動的共感によって発動されてしまうことです。
母熊が子熊が危険にさらされていると思うと
怒りによる報復をするような場面が典型的です。

もう一つ怒りがわかりづらくなるのは、
必ずしも危険に対して攻撃が向かわないということです。

そこの危険には二種類あって、
身体生命の危険の場合に、危険回避として怒りが選択された場合は
八つ当たりは起こりにくいのですが、
身体生命の危険はなく、対人関係的な危険だけがある場合は
八つ当たりが起こりやすくなります。

対人関係的危険とは、
人間関係の中で、顔が潰されるとか立場が悪くなるとかという負の評価が起き
究極的には、人間関係から離脱されてしまうという危険をいいます。

例えば会社で上司や取引先から理不尽な叱責を受けていると
職場での人間関係に危険を感じていても
上司や取引先を相手に怒りの行動を起こす訳には行きません。

そうすると、家に帰っても不機嫌になり、
子どもの何気ない言葉に敏感に反応してしまい
怒りを持って攻撃的言動をしてしまう
これが八つ当たりです。

なぜ八つ当たりをするかという理由ですが、
一つは、今見たような過敏な状態になっていること、
もう一つの理由は、
攻撃行動をしている時は、
対人関係的不安が一時的に緩和されるからです。

自分より弱いものを攻撃することによって
自分が感じていた対人関係的危険を
一時的に感じにくくなるようです。

このため、
八つ当たりの対象がない場合
それでも攻撃によって不安を解消できるということを覚えてしまうと
自分を攻撃することによって不安を解消しようとしてしまう
という現象が起きるようです。

自分の体を傷つけないとしても
自分の所有物を破壊するという現象が見られることがあります。
徐々に自分を守る意識がなくなっていくようです。
自分の身体を攻撃することも出てきてしまいます。

不安解消行動は、基本的には防衛行動なのですが、
合理的な解消ができない場合は、
解消要求が強くなってしまい、
自分を攻撃することになっても解消しないではいられなくなるという
矛盾した行動を起こしてしまうのです。
それだけ追い詰められたということなのでしょう。

どうも自傷行為は、自分が傷害を受ける行為という側面と
自分を加害するという側面もありそうです。

加害することによって
不安が解消されるという悲しい矛盾です。
自分の体を犠牲にして
対人関係的不安を解消しようとしているのでしょう。

死ぬことが目的ではないけれど
死んでしまいかねない行為をするタイプの自死が起きる
一つの経路となる可能性があるように考えています。

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「日本の親子」を読む 母の育児不安、夫の子育てが嫌われる理由と、男性が子煩悩になっていく本当の理由、子育てクライシス等家庭問題の根本問題としての職場イデオロギー、 [家事]

1 育児不安と言う概念 母親自身の生き方についての焦りや不安
2 育児をする夫に対する妻の満足と強烈な嫌悪
3 熱心に子育てをする父親が増えた本当の理由
4 家庭に忍び寄り、家庭を崩壊させかねない企業の論理
5 職場の論理の最たる影響、根本的問題


これまでこのブログでは、産後クライシスを取り上げてきました。
主として、妊娠、出産のホルモンバランスの変化と
脳活動の変化から共感の対象が、大人から新生児に移りやすい
大人の特に男性に対して共感する力が弱くなり不信感が生まれやすくなる
という生理的な特徴から産後の夫婦の危機、
女性の生きにくさを勉強してまいりました。

この度
子どもが育つ条件(岩波新書)
大人が育つ条件(岩波新書)
日本の親子(金子書房)平木典子先生との共編
と、柏木恵子先生の著作を拝読する機会に恵まれ、
生理的な変化ではなく、社会環境的な要因に
女性の生きづらさがあることを学びました。

私は離婚事件を担当することが多い弁護士です。
自分の依頼者であったり、相手方であったりする女性の主張を拝見していると
先生のご指摘は正鵠を射ている感を強く持ちました。
感動しながら、共感しながら学ぶことができました。

ただ、
先生は発達心理学者というお立場であり、
私は弁護士という立場であり、
やや異なる側面を見ていることに気がつきましたので
メモ的に書き留めておくこととします。

1 育児不安と言う概念 母親自身の生き方についての焦りや不安

まず、柏木先生の著作によると
子育てをしている日本の母親は、
多くの人たちが育児不安を抱えているそうです。
育児不安とは、育児や子どもについての不安だけでなく、
自分自身の生き方についての不安や焦燥感が大きな比重を占めているそうです。
(日本の親子65ページ)

育児をしながら、(おそらく子どもをどう育てたいのかと思いながら)
それでは自分自身の生き方はどうなのかと考えてしまい、
不安や焦りが生じるのだそうです。

興味深いご指摘として
この焦りや不安は、専業主婦の方が強く
父親の子育て参加が少ない場合も強くなる
とされています。

ただ、ここでいう専業主婦の概念は注意が必要なようです。
ご指摘をされている点を読むと
初めから職業を持たないまま結婚をしたと言う方よりも
どちらかというと元々は職業に就いていて
妊娠を機に退職した女性についての分析が中心のように感じました。

そうであれば、弁護士実務や友人知人のケースともピッタリと符合します。
どちらかというと他者に貢献する意味合いの強い職業に就いていたけれど
妊娠、出産を機に退職した方に、
柏木先生の言うところの育児不安が強く見られるという実感があります。

泣き止まない赤ん坊に翻弄されながら、
自分は何をやっているのだろう
子どもの奴隷となっているのではないか
夫ばかりが外に働きに行けて不公平だ
という意識を持たれる方が多くいらっしゃいます。

子どもに対する殺意を感じるということを語られた方も
少なくありません。
もっともそれを実行しようとする人は稀ですが。

2 育児をする夫に対する妻の満足と強烈な嫌悪

育児をしない夫よりも、夫が育児をする場合
妻の満足度が高いという統計を報告されています。
おそらく一般的にはその通りなのだと思います。

しかし、ご夫婦の間に弁護士が介入するということは
夫婦間に紛争が生じているときなので
おそらく例外的な場面ということになると思うのですが、
夫婦間紛争の実務においては、
夫を嫌悪し、恐怖感を抱いて
子どもを連れて一方的に別居する事例の多くは、
夫が子どもに対して愛情を注ぎ
父子関係が良好なケースが圧倒的に多いのです。

こういうケースは、
別居後、あるいは離婚後
父親と子どもを会わせることを
母親は頑なに拒否することが多いです。

実務的経験から感じる問題として
子どもに愛情を注ぎながら
妻に子どもを連れ去りをされた男性の多くは
ある程度年齢が高くなってから子どもが生まれたというケースが多いという印象があります。
おそらく若い父親よりも年齢が高い父親の方が
仕事などにも慣れて、余裕があり、
子育てに対する憧れのようなものもあり
熱心に子育てをするのではないかと感じられます。
また、実のない規則や決まり事に対する批判的な視点を持てる人が多いようにも感じます。

それではどうして、そのような育児をする夫が
妻から嫌悪され、恐怖感を抱かれてしまうのでしょう。

一つは、子育ての本質は大らかさなのですが(子育てが終わるころに気付くのですが)
そのような父親たちは、知識も経験もあるため
細部にわたり、正しい子育てに邁進しようとしてしまうところだと睨んでいます。
(そこでいう知識や経験は、人生経験というより職業を通したスキルだと思います。)
子どもに愛情を注ぐあまりに、
自分が不適切だと思う子育てを、母親がそれをしようとするならば
容赦のない修正要求をつきつけてしまうところにあるということと
母親ができなくて自分ができる正しい子育てを見せつけてしまうということが
母親の自尊心を傷つけているようなのです。

受け取り方の問題も大きいのですが、
子どもと妻と同時に愛情を注ぐということは
なかなか難しいことのようです。

ここで考えなければならないのは、
「自分はそういうつもりではなかった」
ということは言っても仕方がないことだということです。
相手が、自分は否定されたと思ってしまえば
関係性は悪くなるものです。

子育ては両親が共同でやるということはよいのですが、
余裕がある夫は、
母親がメインで子育てを行い、自分は補助に回り
母親の言うことはその通り実践するという
母親を立てる子育てが実際は良い結果を残すと思います。

そして自分の妻が
夫は子育てに参加するなんて言うのだから意識が低い
なんて不満を持っていることに鼓腹撃壌していればちょうどよいのだと思います。

3 熱心に子育てをする父親が増えた本当の理由

高度成長期までは、離婚が一方の親と子の永劫の別れになることが
多くありました。
それを仕方がないことだと受け止められた
お父さん、お母さんが多かったと思われます。

最近は、父親も子どもに対する愛情表現を積極的に表明することが多くなり、
別居後、離婚後の子育てに関わる要求も大きくなり、また多くなりました。
たまに、この理由についてマスコミなどに尋ねられることがありましたが、
自分でも納得ができる回答ができないでいました。

日本の家族という本には、
その理由を示唆する記述がありました。

まず、子育ては母親が行うことだという分業の意識は
元々は、日本にはなかったということを指摘しています。
幕末や明治直後に日本を訪れた外国人の記録からは、
日本人男性が子どもを可愛がる姿が描かれており
日本特有の風習だという指摘がなされているということは
これまでもこのブログでも述べてきた通りです。

「日本の親子」の中に、神谷哲司という先生が書かれている部分です。119ページ
小嶋秀夫先生の「母親と父親についての文化的役割観の歴史」という論文を引用し
明治以降の国力増強策として、政治的なキャンペーンによって作られ
戦後高度経済成長の時代の男は仕事、女は家庭という性的分業が定着した
というのです。
これは今度入手して勉強したいと思います。

つまり、この性的分業は、最近起きたものであり、
国策によって植え付けられたものかもしれない
というわけです。

そうだとすれば、近年になって日本の父親が子どもに愛着を抱き始めたのではなく、
明治から戦後までの一時期(戦争遂行に明け暮れていた時期)、
男はそういう行動を取るべきではないという風潮があり、
それが今般、高度経済成長の崩壊とともに崩れ出して
元々の日本男性の本音を表明できるようになった
ということなのだろうと思います。

4 家庭に忍び寄り、家庭を崩壊させかねない企業の論理

これまでみてきたマイナスの現象の共通点は、
企業のやり方、職場の道徳、仕事イデオロギーとでもいうような
価値観の問題だと思うのです。
長年の職務経験から自然と身についてしまったのでしょう。

マイナスに現れる仕事イデオロギーとは、
まず、男性が子育てから脱落することです。
その理由が、
長時間労働や、労働強化によって、
家庭人としての行動をする時間と気力、体力がないということです。

この点を柏木先生は鋭く指摘されています。

次に私は、さらに価値観の問題があるように思えるのです。
働く時に必要な価値観として、
合理的行動、正確な行動、迅速な行動、無駄を省くなど
結果に直結するやり方が求められる行動だと思うのです。

しかし、家庭では、安心できる人間関係の構築こそ
最も求められる行動だと思います。

職場の道徳と家庭の道徳は別物なのですが、
どうしても長年職場で仕事をしているうちに
職場の道徳が普遍的な道徳、行動パターンだと
思い込んでいくようになるのではないでしょうか。
家庭の中に職場イデオロギーを持ち込む男性が多いように感じます。
偉そうに言っていますが、我が身を振り返ってもそう思います。
例えば結論の出ない堂々巡りの発言は
家庭ならば何の問題もなく聞いておかなければならないものなのでしょう。
職場の論理からすると、最もダメなコミュニケーションになってしまいます。

職場イデオロギーというか職場の論理自体が家庭に持ち込まれてしまった現象が、
どちらかが仕事を辞めなければならない場合に女性が仕事を辞めるということと
家庭を疎かにしても過労死するほど働くことを余儀なくされていることを受け入れる
ということなのでしょう。

あまりにも家庭が職場の論理で壊されてしまい
過労死をしないまでも家庭が崩壊してしまうということが起きているように感じます。

5 職場の論理の最たる影響、根本的問題

家庭よりも職場を優先するという価値観は、
家庭の生活についての価値を認めず、
収入を得ることに価値を偏重することだと思います。
これは女性にもその強い影響があるように感じています。

男女参画理念は、女性が社会に平等に参画することなのでしょうが
そこでいう「社会」が職場に限定されているような印象を受けるのです。
職場で働くことではなくて、
例えば、収入にはならないボランティア活動だったり
趣味の活動だったり
研究活動だったりということに
どうして価値を認めないのか私には不思議でなりませんし、
家庭を安心できる形にする人間関係形成ということや
子どもを健全に成長させるという子育てという
家事に価値を認めないのか不思議でなりません。

もちろんだから、女性が家庭に入れということではなく、
女性が働いて、男性が家庭に入るということに
もっと当たり前の価値観を社会的に認めるべきではないかということなのです。

人間が輝くのは収入を得ることだということだとすれば
大きな疑問があります。

冒頭述べました育児不安の中の
子育て中の母親の不安や焦りというものも
どちらかということ
職場イデオロギーに支配されているように思えるのです。

外に出て対価として賃金を受け取って働かなければ
人間として価値を実感できないと感じさせられているのではないでしょうか。

男性が一家の大黒柱として家計を支えなければならない
というジェンダーバイアスの裏返しが
女性はできるならば家庭に残って、仕事も男性の補助的な役割にする
ということなのだと思います。
そしてこれが育児不安の根本だと思いました。

しかし、これは、富国強兵、戦争国家のための
銃後の守りに代表される作られたイデオロギーであり、
その効果も時代とともに薄れ
男女共に働かなければ生活を維持できないという社会情勢の変化によって
化けの皮がはがされるところになっていると思います。

女性の解放は男性の解放と同時に進めなければ実現しない
私が一番学んだことかもしれません。

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連れ去り被害者は、被害者であることに徹底するべきであると強く感じることが多いという件 [家事]

平成の初期から始まり、平成22頃から飛躍的に増えてきた事件類型があります。
妻が子を連れて、夫と共同生活していた家から一方的に別居する事件
そしてどこにいるかもわからなくする
それに行政や警察が1枚かむ。
こういう事件をよくを担当しています。

その多くはDVなどなく
社会通念上「普通」の夫婦の範囲内の生活を送っているのですが、
出ていくときには
妻は精神的虐待の被害者で
夫は加害者になっています。

妻の精神的負担を察することがなく
夫婦間の問題を夫が何とかしなかったから
精神的虐待だという論調が多いようです。
夫婦の安定は夫の仕事というジェンダーバイアスが強い主張が多いわけです。

夫は、そういう乱暴な形で妻から
夫として、父親として、男性として、あるいは人間として
強烈なダメ出しを受けるわけです。

誰だって平気でいられるわけはなく
うつ病で通院を始める人、仕事ができなくなる人
その結果自死する人など
深刻な被害を受けています。

そこまでは被害者なのです。

しかし、被害を受ければ反撃して身を守ろうとするのが人間ですし、
反撃しないでうつ病が進行することは大変危険なのですが、

ある局面だけを分解してみると
その反撃行為のために加害者になっていることがあるのです。

決められた生活費を入れないとか
必要な手続きに協力しないとか
大声を出して面会を求めるとか
押しかけるとか

これらのことは、気持ちはわかりますし
自分が同じ立場なら果たして冷静に損得を考えられるか
ということについて、それほど自信はありません。

しかし、それについてのメリットはなく
デメリットだけはてんこ盛りになります。

先ず、日本の法体系や警察実務から
現場に警察官がとんでもない人数駆けつけます。
何かあったのかと思っているうちに警察官に取り囲まれていた
という体験談は毎月のように聞きます。

ストーカー規制法や保護命令など
そういう事態に対処する法律は事欠きません。

ただ、それが自分に対して執行されるとは思わないだけです。

そういう問題もありますが
一番影響が出ることを実感していることは
裁判です。

離婚裁判では、先ほど言ったように
針小棒大な主張がなされるわけです。
ちょっと、口をはさんだだけで
椅子に座らされて大声で怒鳴り続けられた。
理不尽な要求をして、要求が実現するまで
監禁されたなどということも主張されたことがあります。

夫は思うわけです。
そんなことがあるはずないのだから
裁判所はそれを認定しないよなと。

被害者が被害者のままならばそうなる可能性も高いでしょう。
ところが、被害者が反撃するものだから
証拠で出したりすればそれを裁判官も知るわけです。
ああ、やっぱり常識に反した行動をする人か
力で相手を屈服させようとする人か
裁判所で決めた養育費を払わないなら
同居中二人で約束した生活費なんて払わないよな

どんどん状況は確実に不利になってゆきます。

この人は、自分の感情を抑制できない人なんだなと思われれば
実際はDV認定まっしぐらということになりかねません。

代理人としては思うわけです。
もったいないなあと。
せっかく被害者なんだから
裁判を有利に進めようと思っていたのに、
ご自分で自分の足を引っ張っているようにしか見えません。

代理人としては、付き合いも長くなることが多いので
なんとなくわかるんです。
この人、連れ去り別居が無ければこんなことする人ではないのだろうなと

しかし、現実には連れ去り別居は起きている。
精神状態は煮えくり返るようになるわけです。人間だから。

だから、強くは言えないのですが、(いうことも少なくありませんが)
妻は裁判所の入り口だと思って
被害者然としていることが肝要で
報復的な行動をしても自分が損をするだけだからやめろと。

そういうと
皆さん口をそろえておっしゃいます。
だって不合理じゃないか。

そうなんです。
でも不合理なんです。不公平なんです。
力が及ばない代理人がそんなことを言っては申し訳ないのですが、
そんなことは100も承知の方々のはずなんですけれど

ただでさえ不合理なのに
益々不合理な方向に自分で進まれていますよと
うまく伝える方法を募集することにしましょう。

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新型コロナの自死に及ぼす影響の試論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 今年の日本の自死者の動向

我が国の自殺者数は、小泉政権の頃をピークとして、それ以来減少を続けていた。第一次緊急事態宣言が出されていた6月までは、毎月の自殺者数は近年もっとも低かった前年比でも減少を続けていた。ところが7月に前年比増加となり、8月は女子中学生、女子高生での顕著な増加がみられるなどさらなる増加が見られた。それ以降の前年比は、明らかに増加している。それでも9月までは、平成27年とほぼ同様の自殺者数であったが、10月は極めて高い数字になり、11月には、平成27年と同様の自殺者数に戻ったが、近年では高い値を示している。特に女子高生の自殺者数は、例年一ヶ月あたり数件程度であったが、今年は8月以降は二桁の月が多い。女性の自殺者が増加しているという特徴があるが、前年代で見ると、男性の自殺者の方が多いことは例年通りである。

2 1月から6月までの自死者の減少

1月から6月までは、近年の最も自殺者数の低かった前年を下回る自殺者数であった。すでにコロナの問題は大きくなっており、緊急事態宣言も出された。マスクなどの予防グッズは品薄になり、入手困難となった。志村けん氏や岡村久美子氏の死亡も報道され、コロナの恐怖も現実的になったはずだが、自殺者数は減少した。
この理由については、ある程度、国も把握しており、大規模災害の際は、連帯感や帰属感により、自殺者数が減少するという現象が指摘されていると報告している。東日本災害の前からこの見解は実証的に証明されていた。東日本大震災の際も同様であった。
この事実は、自死の原因として孤立感が大きな要素であることを示している。
この時期には、多くの人達が、同じ思いでいるということを実感していたと思う。人々は理屈抜きに、繁華街から足を遠ざけたし、マスク不足を嘆いていた。政府に対して批判をしていたし、定額給付金も受給できていた。自分だけが苦しいわけではないということは、孤立感を解消し、自分が社会の一員であるという意識を醸成するという効果があったと思われる。
これに対して、政府のコロナ対策の政策が自死者現象の要因ではないかという指摘が主として政府筋からなされているようである。これも否定する必要はなく、社会の一体感を醸成することに一役買っていると評価して良いと思われる。大事なことは、そうであれば、今後も定額給付金の支給など6月までになされて有効だった政策を今後も行うべきだということになる。

3 7月と10月の自死者の急増とウエルテル効果

7月8月と10月に自死者が急増した理由は何であろうか。指摘されているのは、7月に俳優の三浦春馬氏の自死の報道があり、9月末に女優の竹内結子氏の自死の報道があったことである。有名人の自死が起きると、連鎖的に自死が増えるという理屈である。いわゆるウエルテル効果があった可能性を否定できない。
しかし、ウエルテル効果という言葉だけで説明を終えることには疑問がある。ウエルテル効果で終わってしまえば、自死の予防方法は報道のあり方の対策だけになってしまうし、結論としてあまり有効な対策がないということになってしまいかねない。
有名人の自死が引き金となる自死は、有名人が死亡したことで希望を失って自死が起きるという単線的な話ではない。例えば、有名人が病死をした場合は、連鎖自殺はおきにくい。元々自死の要因があり、最終的に、有名人の自死が最後の一押しとなり自死が起きたという分析がなされることが通常であろう。
問題はどうして最後の背中の一押しとなるかにある。
考えられることの一つは、有名人はテレビなどに露出する機会があり、日常的によく目にする存在である。心理的に、自分の仲間とか、身近な存在だと錯覚してしまう効果が生まれてしまう。その身近な存在が自ら命を断つということで、死の恐怖が軽減されてしまうという効果が生まれてしまう。人は、苦しみ悩むことがあっても、死ぬことは恐怖である。このため自死ができないという構造がある。しかし、その恐怖を打ち破って自死をしたものが身近な者である場合は、あるいは同じ苦しみを抱いていたと感じている者の場合は、死の恐怖を軽減させる効果があるようだ。考えられる理由の二つ目は、自分の抱いている不安を解消する方法が見つからない場合、自死という方法で不安から解消されるというメッセージを受けてしまうことだ。これは自死の方法が具体的に示されれば具体的なほど、メッセージは強いものになる。不安の解消方法が見つからずに精神的恐慌に陥っている場合、具体的な不安解消方法が示されてしまうと、それを行わないで自分を押しとどめる力が弱くなってしまうようだ。若年の自死者の多くが、自殺の方法が掲載されているインターネットのサイトを閲覧しているようだ。精神的に追い込まれているものにとって、具体的な自死の方法をテレビや新聞で知らされることは、苦しみから解放されるためには、こうすれば良いのだよという悪魔の誘惑となっているということなのだろう。
ただし、自死の原因はさまざまであり、連鎖自殺、群発自殺があったからと言っても、本来であれば、追い込まれた原因はそれぞれのはずである。しかし、今回、コロナという大きな出来事があり、この問題と自死の問題を関連づけないわけにはいかない。

4 前提としての個別事例の調査の必要性

現在のコロナと自死の原因の検討に対して、マクロ的な視点はあるものの、ミクロ的な視点が検討されているということがあまり聞かれない。つまり、実際の自死者がどのような背景の中で自死したのかという事情の調査が行われたという話を聞かない。
統計的にコロナが自死の原因になっているだろうという推測は可能であるが、では、どのように自死と関係があったかという具体的な事情は不明のままである。
このため、それぞれの立場に都合の良いように、コロナと自死を関連づけている見解が目につく。コロナ禍に便乗して自分の主張を展開しているかのような者も残念ながら目につく。

とはいえ、私の以下の試論も同じようなものである。どうかそう言う目で私の考えも読んで欲しい。

5 対人関係学と自死のメカニズム 不安解消要求の肥大化

自死のメカニズムについては、先日のべた
どうして死の恐怖によって自死行為をやめようとしないのか。自死のメカニズムのまとめ 焦燥感の由来 何に気を付けるべきか

ごく大雑把に要約すると
対人関係問題、健康問題など解決不能の問題に直面すると、人間は合理的に思考する力が低下していく。思考力の低下は、複雑な思考の低下、二者択一的思考の傾向、悲観的傾向、因果関係や他者の感情把握の困難性などの具体的な現象となる。不安が解決しなければ不安解消要求も大きくなり、解決不能感がさらに持続していくと不安解消要求も肥大化してゆき、更なる思考力の低下と相まって、不安解消要求が最優先課題となってしまい、表面的には生存要求をも凌駕してしまう。通常時の死の危険からの解放を求める衝動的要求と同程度の強い自死への衝動により自己抑制が効かなくなり、自死に至ってしまう。
と言うものである。

6 コロナ不安と自死のメカニズムの親和性

コロナ禍の現状は、このような絶望を抱きやすい不安が存在する。
人類が体験してこなかった事態である。これが当初は、良い方に作用した。気温の上昇とともに、収束に向かったかのように思えたと言うこと、おそらくこんな感染力のあるウイルスはこれまでなかったのだから、今回も一時的なものであり、時期が来れば収束するであろうと言う期待を持つことができた。それまでの辛抱だという希望があった。しかしそれは根拠のないものであった。
収束するかと思われたにも関わらず、収束しなかったと言うことは大きなダメージである。ふわりと浮いてから地面に叩きつけられたようなものである。落差効果も生まれてしまった。その後、気温低下とともに、これまでにない蔓延が起き、絶望が起き始めた。その時々の芸能人の自死は、元々あったコロナの精神的ダメージによる効果に、自死による衝撃を上乗せさせた形になった格好なのではないかと推測している。
コロナの問題は、目に見えない感染ということで、不安を抱かせる。しかし、その解消方法は見つからず、収束に向けた動きも見えない。思考力の低下、悲観的思考傾向への誘導が起きやすい事情である。症状や後遺症の内容も曖昧なところがあり、治療法も確立されていない。漠然とした不安を抱きやすく、不安の解消が困難であるという極めて危険な不安形態である。つまり、自死の背景になりやすい不安なのである。

7 不安と個性 そして女性

人の反応は一様ではない。コロナ問題が解決しなければ、不安が増加する人もいれば、馴化してしまう人もいる。つまり慣れてしまうと言うことだ。心配をしても、自分にとって悪いことが起きないと言うことが続くと、不安を解除してしまう性質は自然のものである。防犯グッズを集めて防備を固めた人もいれば、第一波の時は外出しなかったのに感染者が増大しているのに忘年会などに出席することに抵抗がなくなってしまった人もいる通りである。
生まれつきの性格ということもあるだろうが、どうやら人間は他者との関係で心理的な変化をするようだ。それにも個性があり、仲間が怖がっているときに無条件で自分も怖がる人、仲間が怖がっている姿を見て逆に冷静になり合理的な行動をしだす人もいる。どうやらこういう群れの中のランダム化、結果としてのバランス化が人類の強みだったようだ。
このため不安の性差は分かりづらくなっているが、どちらかというと身体の一体性や安全性に神経質になりやすいのは女性の方ではないかと感じている。男性の方が多少怪我をしてもやるべきことがあればやってしまう人が多いような気がする。男性の方が向こうみずの者が多く、馴化しやすい者が多いのではないだろうか。
もしそうだとすればということになるが、コロナ不安の影響を受けやすい人間は、女性の方が多くなるのではないかという推論が可能となる。

8 自死の予防に向けたコロナ対策

感染が目に見えない。感染すると命の危険があり、後遺症もあり、他者にも感染させてしまう危険がある。自分だけが気をつけても、知らない間に感染している可能性がある。感染の危険が減少するどころか、現在は増加傾向にある。底が見えてこない。
これらの事情は、コロナ不安を起こしやすい事情である。しかし、どこまでその不安が合理的なものかについては、争いがあるようだ。
ただ、自死予防の観点で必要なことは、客観的事実のありかではない。不安は主観的なものであり、合理的な思考によって不安が解消される人もいれば解消されない人もいる。自死予防で想定されるべきモデルは後者である。
もっとも大切なことは、他者の不安を否定しないことである。不安をコントロールするべきだという議論は、一見合理的に見えるが、心理的な実情からすれば極めて乱暴な議論なのである。自分が落ち着いているのは、そばにいる人が不安になっていることの逆説的効果なのかもしれないということを意識するべきである。

第二波の女性の自死者の中で、同居家族が多い人の割合が多いと言われている。即時に家庭内暴力に結びつける論調がある。これがコロナ便乗の主張の典型である。母数を考慮する必要がある。一人暮らしをしている女性と同居者のいる女性ではそもそも圧倒的な差異があるはずだ。もし、同居者のいる女性の方が、一人暮らしの女性よりもそもそも人数が多かったならば、同居者のいる女性の自死者が多くなることは当然のことである。また、このような乱暴な推論は、自死の理由を同居者にあると主張するものであり、遺族を鞭打つ主張となる。

但し、もし私の推論が正しければ、つまり、女性は男性よりもコロナ不安に敏感であるにもかかわらず、男性は女性のように不安を感じていないという構造があるのであれば、それが自分が家族から攻撃を受けていると感じることの要因になっている可能性がある。そしてその不安格差を是正する方法もあるということになる。

何よりも、他者の不安を尊重するという態度である。それは他者の不安を否定しないということである。不安をバカにしたり、不安になっていることを責めたりする場合もある。こういうことをしないことを意識することである。
不安の否定、嘲笑や叱責があると、不安を抱いている者は、ことさら自分を否定されたと思いやすくなり、自分の理解者がいないということで、孤立感や疎外感を感じやすい。自分を理解してくれる仲間を外に求めることができればそちらに向かってしまう。また、表面的な共感を渇望してしまう傾向になる。それらの外部での不安の緩和方法がなかったり、外部の相談機関がクライアントに共感することに夢中で、家族を否定する回答することにためらうことがないならば、家族の些細な言動が、自分に対する精神的虐待だと感じやすくなってしまう。
家族は、自分以外の家族の不安をきちんと受け止めることが肝要だということになる。過敏な不安に追従する必要はない。意見が違う場合でも、相手を否定しないでじっくり聞くことはできるはずだ。否定の結論だけが示されてしまうと、不安は減少せずに焦燥に変わりやすくなる。思考力の低下が進み、悲観的傾向が強くなる。否定されないで、むしろ共感を示されることによって、悪循環が絶たれて、思考力が回復し、漠然とした不安から合理的な対応へ変化する道も切り開かれる。「心配する必要ない。」と言うよりも、「あなたは心配しているんだね。心配の種は尽きないね。」という方が、不安は減少するということを覚えるべきだ。
コロナが原因で家族が崩壊するということを避けるという発想から、コロナを機会に家族力を育むという発想が明るい気持ちになれるのではないだろうか。不安に対応することが意識的に行われれば、それは対人関係を強化する。

社会的には、コロナの科学的な解明とそれを分かりやすく伝えるということが必要だと思う。コロナの問題だけは、政治的な立場や自分の主義主張による便乗をできるだけ排除しなければならないと考えている。また、科学的なことをわかりやすく伝える努力があまりにも欠けているように私は感じているが、どうだろう。わかりやすく説明するためには、メリットデメリットや、各対策の限界についてもごまかさず伝えていかなければならないだろう。
例えば、第三波とも言える令和2年11月からの感染者の爆発的増大であるが、政治的な失敗が多く指摘されている。そういう側面もあるかもしれないが、私は、ウイルスの性質もあるのではないかと考えている。つまり、第1波の収束は、気温と湿度の上昇およびマスクの効果により、飛沫感染が起こりにくくなったことによるもので、11月からの増大は、気温の低下と湿度の低下により、飛沫感染が起きやすくなったということは考えられないだろうかということである。もしそうだとすると、必要なことは3密とマスクだけでなく、湿度管理、水分補給ということを意識することという視点も強調されるべきだ。もちろん、冬は飛沫感染が起こりやすくなっているのであるから、マスクをしても密集、密室、密接は感染リスクを高める。夏に感染を起こさなかった行為も、冬は感染を起こしやすいのである。後ろ向きな政治的な失敗を指摘し続けることは、本当に今しなければならないことの行動提起が疎かになる危険があるように思われる。現政権を批判するよりも、国民が望んでいるリーダーシップを取ることの方が、政権の帰趨により現実的な変化を与えるだろう。

また、コロナの対策の科学的検討を国をあげて推進するべきであろう。特に重症化を防止するための方策と重症化からの回復の方法の検討を行うことが不安の増大化を防ぐために効果的ではないかと思われる。そしてこれらの研究、検討は、途中経過をどんどん報道するべきだと思う。大規模に検討しているということを知ることが、希望につながる場合も少なくないと考える。

そうやって、国民の対立をできるだけ縮小する方向に国は誘導するべきだと思う。国にいる全員が利害共同体なのだから、みんなでコロナに向かっていくという一体感を作り出す方法を積極的に取り入れて行くべきであろうと思う。

今やってはいけないことは、個人を分断させることだと思う。コロナ警察という社会現象も、コロナ不安によって感情的な意味合いを増強させている。不安は、社会に対しての公正さを強く求めるようにさせるのである。政策に、不平等を感じなくさせるように努力することが必要になるだろう。そして、不安を解消させる方法、他人を責める方法に変わるエレガントなやり方を具体的に提示するべきである。そのためには和やかな議論は必須だと思われる。相手を否定しない議論のサンプルを示すことはとても有効だと思う。また、自分の意見を社会が受け止めるという仕組みづくりも有効だと思われる。

今回色々と私見をごちゃごちゃと述べさせていただいた。今後、自死の分析が進む中で、さらに様々なことがわかってくると思われる。そのためにも、できる限り個別事情にあたることが必要となるはずである。その基盤がないことと、社会の未成熟、民主主義の未成熟がコロナ不安を増強させているような気がしてならない。
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リアル ツルの恩返し  人情噺筋書き [現代御伽草子]



6月の雨の夜、雅紀は街から漁村にある自宅に帰ろうとしていた。駐車場で車に乗り込もうとしたときに、助手席側の後ろで犬のようなものが動いたような気配がした。危ないなあと思いながら雅紀は助手席側に回った。そこにいたのは、犬ではなく、若い女性だった。下着のような服を着て、靴も履かずに雨に濡れてみじめな姿をしていた。
「危ないからどけてくれる?」
なるべく不機嫌な様子を見せないように女に声をかけた。
女はおびえるような目でこちらを見上げて、駐車場の壁の方へ後ずさりをするようなしぐさを見せた。かなり憔悴したような様子だった。車から離れる様子が無かった。ここは怒らせては逆効果だと思い、努めてのんびり話しかけた。
「何か訳ありなんだね。でもね、そこにいられると車を出しずらいよ。これから家に帰るところなんだ。年取った両親が待っているので、早く帰りたいんだ。ごめんね。」
すると女は、私も乗せていってくださいと小さな声でつぶやいた。
雅紀は、自分の家がここから1時間以上離れた海辺の集落であることを告げた。女は、自分もそっちの方に行こうと思っていると、少し投げやりな様子で話した。
関りになることは面倒だと思ったが、このままここに置いておくと、何か悪いことが起きて女にとって深刻な事態が起きるような気がしてきた。見捨てて立ち去ることで、何か自分が悪いことをするような奇妙な感覚になった。
「勝手に乗り込まれたなら、仕方がないかな。」と雅紀が独り言のように言って運転席に乗り込むと、女は急いで後部座席に乗り込んできた。
「すいません。私お金を持っていません。」
「最初に言ってくれれば御の字だよ。自分ちに帰るのだから、お金をもらおうと思ってはいないよ。」
そんな会話をしながら、雅紀は自宅に向かった。

女は、車が動き出してしばらくすると、寝息を立てて熟睡したようだった。風邪などひかなければ良いけれどと思いながら、こちらには関係ないと思おうともした。

自宅についても女は起きなかった。
仕方がなく、雅紀は両親に事情を説明した。案の定、二人とも眉をひそめて、ため息をついた。とりあえず朝まで寝せておくことにして、タオルケットだけは掛けてやった。
朝になっても起きなかったので、さすがに気持ち悪くなり、両親と雅紀は女を起こすことにした。少し意識が戻ったような気がしたが、すぐには起きなかった。母親が、警察に連絡した方が良いのじゃないか。と父親に尋ねたとき、女は飛び起きた。
「すいません。すっかりお世話になってしまいました。このお礼は必ずしますが、今持ち合わせがないので、しばらく待っていただきたいのですが。」と言って、立ち去ろうとした。
「お金が無ければどこにも行けないだろう。いいから朝ご飯を食べていきなさい。」
そう呼び止めたのは父親だった。女は一瞬ためらったが、深く頭を下げて家の中についてきた。

女は案の定風邪を引いていた。朝ご飯を食べた直後に倒れて三日間眠り続けた。その後、お礼だと言って掃除、洗濯、調理などの家事をするようになった。こうして女は雅紀の家にいつの間にか同居するようになった。女は家の外に出て買い物をするということもなく、家の仕事をしていた。雅紀の母が体を悪くしていたので、雅紀の家でも家事をやってもらうのは都合がよく、そのままずるずる居続ける格好になった。家政婦としての賃金を払おうという話をするが、女はかたくなに断るのだった。
しばらくして、夕食のとき、父親と母親が女に言った。
「どうだろうね。このままうちの嫁にならないか。この辺の若い女たちは、みんな都会に出てしまって、誰も残っていないんだよ。こんな田舎に街から嫁には来ないし。」
女は一瞬顔をほころばせたが、すぐに表情を引き締めて考え込んだ。
「雅紀はいやかい。」
女は顔を横に振ったが、何も話さなかった。

月満ちて、雅紀と女の間にかわいらしい女の子が生まれた。
絵にかいたような円満な家庭で、このまま幸せが永遠に続くのだと思われた。

ある時、母親の容体が悪くなり、検査の結果、健康保険の聞かない手術が必要だということになった。だいぶお金がかかるという。雅紀も両親も、一度に用意することができず、借金をしなくてはならないと話し合った。母親は、そんな手術なんて受けなくっても良いよと言い出す始末だった。しかし、借金をしてしまうと、本当に返済を続けられるのかについては誰も自信が無かった。
小さい娘だけがすやすやと寝入っていた。女はそんな娘を見て、ほほ笑んだ。そして真顔になって両親と雅紀に言った。
「私は今とても幸せです。あの時こちらに迎え入れていただかなかったらと思うと涙が出ます。そのお金は私が用立てます。」
みんなその言葉に驚いた。また、本当だと信じることができずにどう反応してよいのかわからず、顔を見合わせた。」
「皆さんが心配されるのはもっともです。私はお金を友達に預けています。ちょうど返してもらう約束の時期になりましたので、そのくらいならば、用立てられると思います。こういうことが無ければ返してもらうことはなかったと思いますから、気にしなくてよいのです。」
そして、話をつづけた。
「但し、お願いがあります。お金を持って戻るまでに1か月くらいかかると思います。私一人で行きますから、誰もついてこないでください。心配になっても捜索願なども出さないでください。これは絶対にお願いします。また、帰ってきても私がどこに行ったか、絶対に尋ねないでください。約束をまもってもらわなければ、私は二度とこの家に戻れなくなります。私の留守の間どうか娘をよろしくお願いします。」
ただならぬ気配に、雅紀も両親も、女を止めた。何か大変なことのようだから、そこまでしてお金を作らなくても良いからと旅立つことを止めた。
女は微笑んでうなずいた。
しかしあくる朝、誰も起きないうちに女は一人で家からいなくなっていた。

1か月半くらいが過ぎて、女が突然帰ってきた。厳しい形相だった。手術代と入院費用には十分すぎる現金をもってきた。女は、子どもの顔も見ないで、これから寝室にこもるから決して起こさないでくださいと言って、それから2日間眠り続けた。

この後も女は同じように現金を作ってきた2回ほどあった。

最後に女が旅立ったのは、雅紀が友達の保証人になって、友達が夜逃げをした時だった。娘は、5歳になろうとしていた。
「私がお金を作れるのはこれで最後です。もう、友達に預けているお金は無くなります。また、くれぐれも私が帰ってこなくとも警察に捜索願など出さないでください。私はこの子と二度と会うことができなくなります。それでは留守の間娘をよろしくお願いします。」

借金取りの催促は女が留守の間も続いた。思いついて役場に相談したところ、たまたま巡回法律相談に来ていた弁護士に相談するように促された。おさらぎ法律事務所の岩見恭子という名刺をもらった。
「ああ、それなら保証人としての責任は負いませんよ。あなたは債権者との間で保証契約を締結していませんね。後の手続きは、有料になりますけれど、こちらの方でやれますよ。」
保証債務を払わなくてよいと聞いて安心した。そのとたん、女を追いかけなければならないと焦りだした。女はいつも、旅から帰ると、何日間か寝込んでいた。顔色も悪く、何よりも表情がすさまじかった。やはりとても苦しい思いをしてお金を作ってきたのだろう。一刻も早く、女を連れ返さなければと気ばかり焦った。女を気遣うあまり、やってはならないことをやってしまった。警察に捜索願を出してしまったのである。

女はあっけなく見つかった、ある街の病院に入院していた。症状は悪いものではなく、間もなく退院するから迎えに来るなということであった。しかし退院予定日になっても女は帰らなかった。そのかわり警察から電話が来た。女を逮捕して留置したというのだ。それだけでも驚いたが、女が家族との面会を拒否しているので、誰もこちらに来ないようにと言っているというのだ。どうやら、6年前に雅紀が女と出会ったとき、女は何らかの罪を犯した直後で、そのことでの逮捕のようだった。

キツネにつままれたような気持ちだった。しかし、女のことは、みんな何も分からなかった。そういうことがあっても不思議ではないほど、女の過去は雅紀たちにとっては空白だった。
「捜索願を出さないでと言っていたのはこういうことだったんだね。」
「どんなにか、娘のことを心配しているだろうかね。」
雅紀たちは、おさらぎ法律事務所の岩見恭子弁護士の名刺を出して電話をした。

岩見弁護士と、おさらぎ所長が弁護人となった。
雅紀の家で弁護人を依頼することにも女は激しく抵抗した。事情を呑み込んだおさらぎ弁護士がとぼけた味を出してうまく説得した。但し、女は二人の弁護人を弁護人に選任することに条件を付けた。雅紀の家族は一切女に面会に来ないこと、弁護士から家族に一切女について説明しないことというものだった。雅紀も両親も、それでも良いからと二人の弁護士に弁護人になってもらった。
二人の弁護士の活躍は見事だった。逮捕されたときは殺人罪の容疑だったが、起訴された時は傷害致死罪の容疑だった。そんなことよりも、女を住所不定で押し切ったのだ。新聞でもテレビでもインターネットでも、雅紀の住所である津留村の名前は一切出てこなかった。この事件と幼い娘を関連付ける情報は何も出てこなかった。
逮捕されてから裁判が終わるまで、半年以上がかかった。ここでも二人の弁護士は大活躍した。正当防衛が認められて女は無罪となった。

裁判官から無罪といわれた時も、女は浮かない顔をしたままだった。法廷を出るときにいつものように手錠をされるために刑務官に手を差し出したが、刑務官は微笑んで首を振った。その時初めて女は我に返って二人の弁護士に弱弱しく笑顔を見せて頭を下げた。傍聴席を振り返って、雅紀たちがいないことを確認して、安堵のため息をついた。
岩見弁護士は声をかけた。
「これから荷物を取りに、一度拘置所に戻ることになります。すぐに拘置所から釈放されるので、迎えに行きます。拘置所の門のところにいますから。」女はそれを聞いてうなずいた。おさらぎは、「主語が抜けているから嘘にはならないか。」と頼もしい後輩弁護士に話しかけたが、もうその声は聞こえなかった。

女が荷物をまとめて玄関を出ようと、岩見弁護士を探したところ、そこにいたのは岩見弁護士ではなく、雅紀の母だった。女は立ち尽くしてしまった。母が駆け寄って話しかけた。
「お疲れだったね。よく頑張ったって先生方から教えてもらったよ。教えてもらったのはそれだけさ。大丈夫、みんなもおさらぎ先生の事務所で待っているから。だって、娘をここに連れてくるわけにはいかないだろう。ずいぶん大きくなったよ。似てほしくないとこだけ雅紀に似てくるんだから困ったもんだ。でもあんだに似てべっぴんになるようだな。」
女はようやく絞り出すように言った。
「わたし・・・本当は、岩見先生に、離婚の手続きをお願いしたんです。そうしたら、岩見先生は、私は雅紀さんの代理人だからあなたの依頼は受けられないんですって言われて。それで今日まで何もできないでいたんです。」
母親は、泣きながら微笑んで首を振った。
「わだしらは、なんにも聞いていないよ。本当さ。もちろん、あんだが半端ないほど苦労したということはわだしらもわかるさ。あんだは、自分の身を削ってお金を作ってくれたんだろう。言わなくてもいい。そんなことやらせてはダメだったんだ、ほんとは。私はそんなあんだのおかげで元気になって、今こうして迎えに来ることだできたんだ。」
「でも、本当のことを言わなくてはならないのはわかっています。」女は唇をかみしめた。
「何言ってんだ。わだしら、一番あんだの本当のことを知っているんじゃないか。働き者で、家族思いで、気立ての良い娘のような嫁だ。それが一番大事な本当のことだ。それを知っているから、本当でないあんだのことなんて知りたいやつなんてうちの中には誰もいねえ。雅紀がそう言い出したんだけど、あのバカもたまには気の利いたことを言う。」
母は続けた。
「今は言うな。その代わり、本当に自分からどうしても言いたくなったら。私にだけ言え。なんぼでも聞いてやる。私以外には誰にも言わなくてよいんだぞ。」
本当の母親が小さいわが子にするように女と手をつないだ。
「さあ、一緒に帰ろう。雅紀もよい仕事が見つかったんだよ。もうあんだに苦労させることは二度としない。私もあんだのおかげでここまで元気になることができた。あんだに恩返しさせておくれ。私も津留村の女だ、義理堅いんだ。これが本当のツルの恩返しだな。」


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リアルかちかち山 [現代御伽草子]

リアルかちかち山

ある小山に警戒心の弱いタヌキが住んでいました。
その年の秋は、夏から続く冷害と長雨のために
山には食べる物がとても少なかったのです。
タヌキは、家族や友達に食べ物を分け与えてしまうものですから
自分はいつも腹ペコでした。

あまりにも腹ペコだったので、本当は行ってはいけないと言われていた
山のふもとの人間の住む近くまで食べ物を探しに来てしまいました。
四角い地面に柔らかな土が盛られているところに
良いにおいがしたので掘り起こしてみると
野菜や種が埋まっていました。
タヌキは、これで弟たちに食べ物を持っていくことができると
大喜びで野菜や種をもって山に戻りました。

行ってはダメだと言われていましたが
次の日も一人で四角いフワフワの土地に行きました。
弟たちの喜ぶ顔が浮かんできて、心が急いてしまいます。
さあ、ついたと思ったとたん
タヌキは足に鋭い痛みを感じました。

人間の罠にはまってしまい、歩くことができなくなりました。
タヌキは困ってしまいました。
弟たちはタヌキの持ってくるえさを楽しみしていると思うと
とても悲しくなりました。

すぐに人間がやってきて、タヌキは前足と後ろ足を縛られました。
もう一人の人間は、ぐらぐら沸いたお湯の前にいました。
タヌキは、悲しい気持ちで体が動かなくなっていましたから
人間は観念したのだろうと勘違いしたのだと思います。
最初にやってきた人間はどこかに行ってしまい、
もう少しやせた小さな人間がタヌキをお湯に入れるときに
罠の縄を緩めてタヌキだけお湯に入れようとしたその時でした。
タヌキは、弟たちの顔を思い出し、
自分でも信じられなくなるような力が湧いて出て、
小さい方の人間を蹴飛ばして一目散に逃げだしました。

沸き立ったお湯が小さい方の人間にかぶったようです。
大きな悲鳴を後ろに聞えたような気がしますが
タヌキは自分が逃げることに精一杯で
あまり気にしませんでした。

タヌキは人間の近くに行こうという気持ちには二度となれず
深い山の中から出ようとしなくなりました。

それからしばらくして
タヌキの家に一羽のうさぎが訪ねてきました。
良い山があり、良い柴が取れる
柴を刈って里にもっていくと
里の柿と取り換えてくれるらしい。
里には自分が持っていくから柴刈りを手伝ってくれ
そうしたら柿を分けてあげるというのです。

里に行かないなら怖くはないし
離れたところで暮らす母親に柿をもっていったら
どんなにか喜ぶでしょう。
そう思って、警戒心の弱いタヌキは
うさぎの柴刈を手伝うことにしました。

柴を背負って歩いているとカチカチと音が聞こえました。
聞いたことが無い音なのでタヌキは不思議に思いました。
うさぎは
さすがカチカチ山だね。カチカチと本当に音がするんだ。
とわざとらしく言いましたが、タヌキはそんなものかと思いました。
ぼうぼうという音が聞こえてきたときにうさぎは叫びました。
「危ない!ぼうぼうどりだ。柴を盗もうとしている柴を離すな!」
言われた通りタヌキは柴を自分の背中にぴったりとくっつけて
盗まれないように頑張りました。

このためタヌキは大やけどをして、
その上ようやくよくなりかけたころに
うさぎに騙されてトウガラシを練りこまれ
地獄の苦しみを味あわされました。
でも、タヌキは、この薬のおかげで
結局は良くなったのだと信じていました。

まさかうさぎが自分を傷つけようとしたとは思いませんから
タヌキはされるがままにされていたのです。
ただ、母親に柿を持っていけないことをとても悲しみました。

タヌキの傷が癒えたとき、再びうさぎが現れました。
食糧不足は続いていて、
タヌキは食糧を探しに出かけることができなかったものですから
家族に大変心苦しく思っていました。
それなので、うさぎの罠にまたもやすやすと乗ってしまったのです。

山の上の沼に魚が大発生しているようだ
まだ知っている者が少ないので
今なら大量に魚が釣れるから行こう
この間ひどい目に合ったのは、誘った自分の責任だから
何とか埋め合わせをしたくてやってきたんだ。
こうやってうさぎはわなを仕掛けたのです。

うさぎは自分用に小さい木の船を作り
タヌキ用に大きな泥の船を作って用意していました。
さあ、どっちの船を選ぶとうさぎは尋ねました。
それは悪いから僕は小さい方の船でよいよとタヌキが言うと
いやいやこの間の埋め合わせだから君が大きい方を使っていいよ
とうさぎは笑って答えました。

タヌキは大きな船を使えば
弟たちだけでなく、親戚たちにも魚を分けることができると思い。
ありがたく大きい方の泥船に乗ることにしました。

沼の真ん中あたりに来たときに、
それほど魚がたくさんいないことにタヌキも気が付きました。
泥船が壊れて水が入ってきたときには
さすがにタヌキもうさぎに騙されていたことに気が付きました。

タヌキはもはやこれまでと覚悟を決めました。
うさぎに騙されて、船の底に足を縛り付けていたからです。
不思議とうさぎに対しての怒りはなく、むしろ不思議な気持ちでした。

静かな口調でうさぎに尋ねました。

君は、柴刈りの時も今回も
僕を苦しめようとしたし、僕の家族も苦しんだ。
どうして君が僕を苦しめようとするかわからないんだ。
僕はもうすぐ死ぬだろう。せめてそれだけを教えてくれないか。

うさぎは笑いながら言いました。
ようやく気が付いたようだな。
君が殺したおばあさんは
僕の命の恩人なんだ。
おじいさんも苦しんでいる。
その恩人を鍋の中で煮たのは許せないのだ。
当たり前だろう。

この時うさぎは、タヌキの足を固定して泳げなくさせたとは言っても
泥船が溶けるからタヌキは浮かび上がるだろうと思っていました。

しかし、泥船は底が割れて水が入ってきましたが
溶けだすほど壊れはしませんでした。
ただ、タヌキと一緒に沈んで行ったのです。
沈みゆく船の上で下半身が水に浸りながらタヌキは言いました。

僕は捕まって逃げるのに必死だった。
君だってそうするのではないか。
僕はおばあさんを突き飛ばしたのかもしれない。
それはなんとなく覚えている。
逃げるのに必死だったから後ろは見なかった。
そうか死んでしまったのか。それは悪いことをした。

でも、そのまま逃げたので
おばあさんを煮るなんてことはしていない。
できるわけないよね。
もう一人がおじいさんなんだね。
おじいさんが帰ってきたら今度こそ殺されると思ったから
一目散に逃げたんだよ。
そもそもおばあさんを鍋の中に入れるほど
僕は力はないし、そんな大きな鍋なんてなかったと思うよ。

もうタヌキは、首まで水につかっていました。

君にとって
僕はあの時死ななければならなかったのかなあ。
僕があの時、怖いけれど死ななかったから
僕だけでなく、僕の家族も苦しまなければならないのかなあ

お母さんに柿を食べさせたかったなあ。
柿を食べて喜ぶお母さんの顔が見たかったなあ。

タヌキが本当に行ったのか
うさぎがそういう風に感じただけなのか
もううさぎにもわかりませんでした。

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リアル親指姫 [現代御伽草子]


小高い丘のふもとに野ネズミのおばあさんの家がありました。おばあさんといっても、まだ自分の稼ぎで生活していましたから、おばあさんというほどの年齢ではなかったのでしょう。親指姫はこの野ネズミのおばあさんの同居人でした。

親指姫はとても夢見がちの女の子でした。たまに訪ねてくる野ネズミのおばあさんの親戚の子どもたちに、自分の生い立ちを話すことが好きでした。

自分は、チューリップの花のようなきれいなお家で生まれたの。幸せに暮らしていたのだけれど、ガマガエルが私のことをかわいいと言って、自分の息子のお嫁さんにしようとお家から沼へ連れてってしまったの。とても怖かったわ。連れていかれた沼の家はじめじめしてとても住むことなんてできないもの。私がおびえて泣いていたときに、親切な魚さんたちが、私が閉じ込められていた蓮の葉の茎を切って、沼の岸まで流してくれたのよ。そうしたら今度はコガネムシにさらわれてしまったの。私がかわいいからお嫁さんにしようとしたのね。コガネムシの家に行って、彼は友達や親せきに私のことを自慢したの。私は幸せな気持ちになったわ。でも、意地悪なコガネムシが、私の足が二本しかないとか、羽がないとか悪口を言ったの。彼は、私をさらったくせに、馬鹿にされたら、私にどんどん冷たくなっていったのよ。ひどいと思わない。私は追い出されて、あてどもなくさまよったわ。そうしたら、この家にたどり着いたの。おばあさんが病気で寝込んでいたので、介抱してあげたらおばあさんにとても感謝されて、そのままお願いされてこの家にいるのよ。

親戚の子どもたちが親指姫の冒険談を目をキラキラ輝かせて聞くものですから、親指姫は得意になって話をしました。野ネズミのおばあさんは、そんな時、いつも少し離れたところに座って、口を挟まずに静かにその様子を眺めていました。

そんな親指姫も結婚適齢期となりました。親指姫は、街に出ていきたがらないので、結婚相手に巡り合うこともありませんでした。野ネズミのおばあさんも大変心配しました。生活一通りのことはできるようになったけれど、男の人と暮らすことはできるだろうか。親指姫は愛想をつかされないだろうか等と考えるときりがありませんでした。
結婚話はすぐ身近から飛び込んできました。野ネズミのおばあさんの仕事先のモグラが親指姫の話を聞きつけたようです。仲介人を通じて結婚を申し込んできたのです。野ネズミのおばあさんは、仕事先が相手ということなので親指姫が何かトラブルを起こして生活に影響を及ぼさないか心配にはなりました。でも、モグラならば、堅実な働き者だということは知っていましたし、貯えもある裕福な家です。争いごとが嫌いで、小さなことにはこだわらないという性格だということもありました。何よりも、仕事の関係でモグラが野ネズミのおばあさんの家の近くにもよく来るので、何かあったら私も手伝いに行けるということから、縁談を進めようと思う大きな理由でした。

親指姫は、モグラが地味で華やかなところが無いことから、当初は縁談には乗り気ではありませんでした。しかし、このまま野ネズミのおばあさんの家で一生を終えることは気が利かないことだし、野ネズミのおばあさんが死んでしまったらどうやって生きていけばよいかわからないということで、縁談に応じた方が良いかもしれないと考え始めました。そこに、モグラからのプレゼント攻勢が始まりました。これまで見たこともないドレスにうっとりしましたし、きらきら光る指輪も気に入りました。自分が本当のお姫様になったような気持ちになりました。それならばということで縁談がまとまりました。

結婚当初は親指姫は幸せに暮らしていました。自分の欲しい服を手に入れ、自分の理想の家具に囲まれて、何不自由なく暮らしていました。モグラは、親指姫のおねだりにこたえようとして、これまで以上に仕事に精を出すようになりました。だんだん親指姫は一人ぼっちでいることが多くなり、不安になってきました。親指姫は自分の生い立ちについて誰かに話したくて仕方がなかったのです。でも、町に行くことは嫌いだし、野ネズミのおばあさんの家に行っても話す相手もいないので、つまらないなと感じて始めていました。

そんなときです。
家の近くに空から何かが落ちてきた音がしました。羽の折れた一羽のツバメがモグラの掘った外穴の中に落ちていました。親指姫は、ツバメを雨風の当たらない場所に移動させ、手当をしました。ツバメは、南の国からやってきたけれど、途中で怪我をして落ちてしまったというのです。親指姫はモグラと相談してツバメの世話をすることになりました。
親指姫は、良い相手を見つけたということで、ツバメに、得意の生い立ち話を何度も聞かせました。だんだんツバメも飽きてきたのがわかったので、今の境遇を話し始めました。

私は、野ネズミのおばあさんの世話をしておばあさんを助けてきたのだけど、おばあさんの体の具合がよくなったら、厄介払いをされるように縁談を持ち掛けたのよ。おばあさんの仕事が有利になるように仕事先のモグラに売られたようなものだわ。モグラったら、仕事に夢中で私のことなんかほったらかしなのよ。ツバメさんもご存じのとおりいつも家にいないのよ。モグラって、にぎやかなところが苦手だから、私が誘っても街に連れて行ってくれるなんてこともなく、こんな暗い穴倉に閉じ込められているんだわ。本当は街に行きたくないのは親指姫だったのですが、そういうことにしました。
この話は、生い立ち話よりもツバメは興味を持ったようです。親指姫は、自分の話を無条件に信じてくれて、自分が同情されていることがとても気持ちが良かったのです。

ツバメは尋ねました。
モグラは親指姫に乱暴なことはしないの?
親指姫は答えました。
ひどい暴力はないけれど、言葉が怖いの。低くてよく響く声はそれだけで怖いわ。言葉遣いは乱暴だし、あれをやれ、これはやるな。このやり方はだめだなんて言うだけだから楽しくないのよ。
ツバメは尋ねました。
お金はちゃんと渡されているの?
お金をもらっても親指姫は、街に行くこともないので買い物もしないし、必要なものはモグラが揃えますので、お金をもらう必要はありませんでした。
でも親指姫はツバメに答えました。
いいえ。お金なんてもらったことはないわ。だから、私は一生この暗い穴の中に閉じ込められて生きていくんだわ。
ツバメは満足そうな顔をして聞いていました。
その顔を親指姫が見て、親指姫も満たされた気持ちになりました。

またある時ツバメは尋ねました。
モグラは、本当に親指姫に乱暴なことはしないの?
親指姫は、どういう風に答えればツバメが満足するか分かってきていました。
実は、これはだめだとかあれをやれと言うとき、私が悪いんだけど、納得ゆかなくて素直にはいって言わないときに、ちょっとだけ肩を押されたりすることはあるわよ。たまたま近くにいた時だけど、感情的になって背中を押されたこともあったけど、暴力なんて思っていないわ。私が悪いのだもの。
それを聞いたツバメは、それはひどいと言いました。親指姫はかわいそうだね。辛い思いをしているねと言いました。
親指姫は、これまで他人から、自分のことを心配されたことがあまりなかったので、とても満たされた気持ちになりました。しかし、一方で、少しモグラに悪く言い過ぎたなあという気持ちも出てきました。そこで、慌てて付け加えました。
でもね、モグラも優しいところがあるのよ。私を叩いた後は、ごめんねって優しくいってくれるの。私を怒鳴った後は色々なものを買ってくれることもあるし。
それを聞いたツバメは悲しそうな顔をして言いました。
それは乱暴者みんながすることだよ。乱暴なときと優しいときと順番にでてくるんだよ。優しくする方が危ないよ。そういうものなんだよ。おそらくモグラは大変危険な乱暴者だ。親指姫、安心できないよ。命の危険があるよ。逃げた方が良いよ。

親指姫はびっくりしてしまいました。モグラは気が利かないところはありますが、真面目な働き者です。結婚前に比べれば信じられないくらい裕福な生活です。自分が殺されるなんてあるはずがない。ずいぶん上手に話しすぎたのだろうなと思いました。ちょっぴり反省しました。

大丈夫よと言ってその場は立ち去りました。

それからというものツバメは、顔を見るたび逃げろというようになり、自分と一緒に南の国に逃げようと繰り返し言うようになりました。最初は親指姫も不思議でした。どうしてツバメはモグラと話したこともないのに、モグラが危険な乱暴者だというのだろう。私がツバメの世話をしているのもモグラが良いと言ったからなのになあと思っていました。

でも命の危険があるから逃げろということを繰り返し言われたものですから、親指姫は何となく怖くなってきたのです。そういう気持ちでモグラを見るようになったからでしょうか。モグラに対する不満が生まれてきました。モグラは、親指姫がやった家事について、ありがとうという言葉がありませんでした。いつも夜遅く帰ってきて、親指姫の話を興味を持って聞いてくれるということはありませんし、帰るとすぐに眠ってしまいます。親指姫が失敗したこと、気に入らないことだけは仕事に行く前に言い残していくという具合でした。ツバメの言う通り、私を認めていないのかなと心配になってきていました。
そういえば確かに、叩こうとして叩いたわけではないけれど、背中に当たった手は強かった気もしてきました。今日も疲れたような顔しか見せないで、私を見ても前のように笑顔になることは無くなったな。心なしか声も大きくなったかな。と親指姫はますます心配になってきました。

モグラはモグラで、親指姫の希望を叶えるために収入をあげようと必死でした。少し無茶をやるせいで、あちらこちらと衝突することも増えてきました。それでも妻のために精一杯頑張ることで、生きがいを感じていましたから、少し仕事を減らそうなんてことは考えたこともありませんでした。また、一度引き受けた仕事に対する責任感が強かったので、最後までやりぬくことはたり前だと思っていました。家に帰るころにはくたくたで、話をする気力もなくなっていました。それでも、親指姫の無理なおねだりを聞いて、それは頑張ればかなえてあげることができると思うことが、無上の喜びでした。そんな自分の親指姫への愛を親指姫は理解しているものだと信じて疑いませんでした。

9月になりました。小高い丘にも秋の気配が漂い始めました。親指姫は、何となく体調が悪く、息苦しいかなと感じていました。ふいに昔のことを思い出してしまうといたたまれない気持ちになって、外に飛び出していきたいという衝動が抑えられなくなるようになりました。それと同時に自分はモグラから優しくされていないという気持ちが生まれ始めました。自分だけが損をしているのではないか、不公平だという気持ちが抑えられなくなってしまいました。ある日曜日、親指姫が些細な失敗をしたことがありました。モグラは何の気なしに、ここはこうするとうまくいくよと親指姫にアドバイスをしたとたん、親指姫は外に飛び出したいという衝動が抑えられなくなりました。何か叫んだかもしれませんが、親指姫はそのあたりから何も覚えていません。ただならぬ気配を感じてモグラは親指姫の名前を呼びました。親指姫は出口に向かって取りつかれたように走り出しました。危険を感じたモグラは、親指姫の腰に抱き着き、必死になって親指姫を止めました。親指姫は勢い余って、頭から床に転んでしまいました。モグラも一緒に倒れて親指姫の上に乗っかってしまった格好になりました。親指姫のおでこにたんこぶができてしまいました。そのあたりから親指姫は我に返り記憶を取り戻しました。

次の月曜日、親指姫がツバメの元に行ってみると、ツバメは、羽の具合もすっかり良くなり、南の国に帰る準備をしていました。
ツバメは尋ねました。
おでこのたんこぶはどうしたの?
ちょっと覚えていないのだけど、気が付いたらモグラに倒されていたみたい。
どうして倒されたの?何かあなたが悪いことをしたの?
私は何も悪いことはしないわ。ただ、家事で失敗してモグラに責められたことは覚えているわ。
では、あなたが家事で失敗したので、モグラは怒ってあなたを突き飛ばして怪我させたのね。
ああ、そういうことになるのかしら。
やっぱり私の言う通り、モグラは危険な乱暴者だよ。この次はたんこぶでは済まないと思うよ。私は仲間と一緒に南に行くよ。もう秋になったからね。あなたもつれていくことができる。一緒に南に行こう。
でも私は、南には知り合いがいないし。
南には、あなたみたいな人がたくさん住んでいるところがあるよ。そこまで連れてってあげるよ。
でも私を乗せたら重いでしょう。
大丈夫、仲間にも親指姫のことは話したから協力してくれるってさ。みんなモグラはひどい奴だって言っているよ。
モグラは追ってこないかしら。
大丈夫。仲間と一緒に南に行けば、モグラは追っては来られないよ。何より命が大事だよ。

こうして親指姫は木曜日に南に向けて旅立つことになりました。お気に入りのドレスと指輪だけを持っていくことにしました。全部モグラに買ってもらったものです。

木曜日に出発することはモグラに言ってはだめだよ。気が付かれてもだめだよとツバメは親指姫に念を押しました。

木曜日、モグラが仕事に行っている間に親指姫はツバメの背に乗って南の国に旅立ちました。



さて、親指姫は南の国で幸せに暮らしたのでしょうか。

よそ者で、言葉も通じないだろう親指姫は現地のコミュニティーに受け入れられたのでしょうか。それとも、収入もなくなり、こんなはずではなかったと言って、ツバメに元に戻すようにお願いしたでしょうか。そうしたら、ツバメはまた親指姫を野ネズミのおばあさんが住んでいる丘のふもとまで運んでくれるでしょうか、それとも「南の国に行くことはあなたが決めたことですよ」と突き放すでしょうか。親指姫はツバメが送って行ってくれるという場合に、散々不義理をしたモグラや野ネズミのおばあさんの元に平気で戻れたでしょうか。

この親指姫の話は、複数の実話をもとにして作成しました。実話と違うところは、親指姫とモグラの間に、概ね2歳以下の子どもがいなかったことです。

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特に定年退職後に男性が家庭内で孤立していることがあからさまになる理由。言葉には二つの起源があるということとコミュニケーション方法の性差。家庭内ラポール。柏木恵子先生「大人が育つ条件」岩波新書に触発されて。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

特に定年退職後に男性が家庭内で孤立していることがあからさまになる理由。言葉には二つの起源があるということとコミュニケーション方法の性差。家庭内ラポール。柏木恵子先生「大人が育つ条件」岩波新書に触発されて。

多くの家庭において
男性の家族に対する会話と女性の会話では
質や目的が異なっているとのことです。

最近の男性はこのことに気が付いて
コミュニケーションの女性化を意識しているそうです。

このコミュニケーション方法の違いは
特に定年後にあからさまになり、
男性は家庭の中で孤立するし、
熟年離婚の原因になるとも指摘されています。

弁護士として離婚事件を担当していると
このような現象は確かにありまして、
男性側のより男性的な会話と
女性側のより女性的なコミュニケーションがそろってしまうと
熟年前の離婚の原因の一つになっているようです。

このことについて私なりに説明します。
是非柏木先生の名著もご一読ください。

みんながみんなそうではないとしても
男性と女性とでは家庭内の会話の目的自体が違うようです。

男性の会話の主目的は、必要な情報を提供することにあります。
そして、その情報に基づいて行動してもらうことによって
相手に良い結果をもたらそうとするわけです。
このためここでいう「情報」は、その次に出る行動に有益な情報です。

女性の会話の主目的は、相手に快適でいてもらうことにあるようです。
会話をすることで、安心してもらう、楽しんでもらうということです。
提供された情報に、差し迫った意味が無く、
むしろ、声の音色、声の大きさ、抑揚、言葉の表現などに
神経が向かうようです。

そして、柏木先生は、女性に多いコミュニケーションスタイルを
「ラポール的コミュニケーションとおっしゃいます。」
ラポールという言葉は、臨床心理でよく使う言葉です。
クライアントと心理士がラポールの関係を形成する
等という言い方をします。

要は、相手に自分を安全な仲間だと思ってもらうことだと思います。
自分の弱みをさらけ出しても、自分の悪いところを教えても
それによって、当たり前の非難をされず否定をされず、
心理士に対して警戒感を持たなくて済むようにして
必要な情報引き出して
アドバイスを素直に受け入れてもらうようにする
という効果があるのでしょう。

心理士や精神科医を警戒するあまり
自分に不利な事情を話さないという人をたくさん見てきました。
そのため、善意の第三者が傷つけられることもありました。
ラポールを形成するということは大切なのですが
なかなか難しいようです。

このコミュニケーションの違いは歴史的な理由があるようです。
それは言葉(会話)がどのように始まったか
ということと関連します。

認知心理学や進化生物学では、この言葉の起源については争いがあり
現在でも決着はついていないようです。

一説によると、
毛づくろいの代わりに言葉ができたという説があります。
サルの毛づくろいは、
お互いを安心させて落ち着かせるために行われるそうです。
ところが人間は体毛が薄くなり毛づくろいができなくなりましたし、
また、サルよりも大勢の人とコミュニケーションをとらなければならないので
一人ひとり毛づくろいをしているよりも
大勢で会話をした方が手っ取り早い
そのために会話をするようになったとしています。

発声学的にも
二足歩行をして声を出しやすい条件が整ったところ、
安堵の域を出すことで声になってしまうということは
冬のお風呂場で経験していると思います。
湯船につかってあまりにも気持ちよいので
「ああー」
とか言ってしまった経験はないでしょうか。

緊張や不快から、急速に安心に変わるとき、
つい声が出てしまうようです。
そうすると、かなりエキサイトしている仲間の元に行って
「ああー」と脱力の音声をすると
仲間も共感力を使って
思わず脱力して緊張を解いてしまう
ということになるようです。

自分が脱力している様子を見せれば
警戒感も消えてしまうでしょう。
これが会話の始まりだという説です。
ラポールの会話の始まりです。

言葉というよりも、脱力し合うということで
安心し合うということが会話の原点だという説です。
裸の人間の群れが、一斉に「ああー」と言い合っていたら
観ている方もユーモラスな気持ちになると思いませんか。

これに対する説は、むしろよくわかりやすいのですが
警戒をさせる音声が会話の始まりだという説です。
これはほかの動物でもそうですが
天敵が近づいてきたことをいち早く気が付いた仲間が
緊張のあまり、短い悲鳴のようなものを上げる
そうするとその緊張感が伝わり仲間も緊張をする。

この伝え方は空に天敵がいるのか、木にいるのか
はたまた地上にいるかで悲鳴の上げ方が変わることが
他の動物で報告されているので、
その悲鳴の上げ方によって
逃げ方が決定されるということになるようです。

つまり、その場合は、相手の気持ちなんて考えている余裕はなく
とにかく無事に逃げましょうという行動提起しかありませんから
俺は大丈夫だと思うなどという議論は必要ないのです。
行動指示の言語あるいは会話ということになるでしょう。
受け取り方によっては、命令だと思いやすくなります。

そして、ラポールの会話を大事にしているのが女性で
行動指示の会話を当然だと思うのが男性
だということになるようです。

今から200万年前は、人類は狩猟採集の時代で
男が集団で小動物を追い詰めて狩りをしていたそうです。
男は小動物に逃げられないように、肉食獣に襲われないように
短い言葉を、断定的にかわしていたのでしょう。

女性は、植物を採取して子育てをしていたので、
チームの和が生存のためには一番重要でした。
ラポールの会話が合理的でした。

こういう遺伝子上の性差があるように私は思います。

これを助長したのが軍隊と企業社会だと思います。
軍隊や生き馬の目を抜く企業活動では
何か議論をするよりもトップダウンで行動することが
効率が良いという思い込みがあります。

軍隊やそれをまねた企業スタイルの中では
会話は行動指示であり、命令そのものです。
男性はそのような社会を前提として教育を受けますし、
時代が変わっても社会価値の残存がありますから
行動指示的な会話をする訓練と教育をされるわけです。
遺伝的な発想と教育によって
行動指示的会話が当然だと思い込んでゆきます。

そしてこれが家庭の中でも行われてしまうのです。

妻の愚痴を聞いていても
頭の中で買ってに翻訳してしまい
何が彼女にとって必要なことなのかを考え
そのためにはどういう手段、行動に出るかを考え
過不足なく伝達することに努め
そしてそれを実行するため伝達する。

相手の気持ちに共感することを示しません。
共感していることが前提であり
相手を助けようという気持ちがあることが前提で話しているのですが、
それを伝える必要性を感じていないのです。

必要な言葉情報を伝達することに神経を集中していますから
声が大きくなろうが、表現が少々乱暴になろうが
気にしません。
そういう配慮をするという発想がそもそもないのです。

例えば妻が職場のトラブルについて相談すると
妻の同僚に対する憎悪が先走り
つい言葉が乱暴になり、声が大きくなり、
必要な情報提供をすぐに理解しない妻にイライラします。
考え出した自分を称賛する言葉でないこともイライラするわけです。

妻からすれば会話の主目的はラポールですから
先ずは自分を安心させてもらいたいわけです。
職場では嫌なことがたくさんあっても
家庭では安心してよいのだということを
会話によって実感したいわけです。

この主目的部分がまったく欠落していますから
夫がどんなに良い情報を提供しても
頭に入らないで不満が募るだけです。

しかも、とても残念なことは
夫が妻に命令をしているように聞こえていることです。
そして、夫が妻より自分が偉いという態度をしていると
どうしても思ってしまうようです。

知っている情報を知らない人に伝達しているだけなので
夫は自分の方が偉いとは思っていないのですが
ラポールが欠落している会話のために
偉そうに聞こえてしまうようです。

もっともベストな行動はこれしかないと思って話していますから
断定的に行動提起をしてしまいます。
妻からすれば命令だと受け止めてしまうのでしょう。

夫は妻の困りごとを
自分の困りごととして妻の話を聞いているのですが
伝わりません。
妻が自分が夫から責められていると感じられるのはこういう事情です。


夫の大きな声、乱暴な表現、
妻が自分のアドバイスを歓迎していないことを感じてのイライラの表明
それらが重なって蓄積されてしまうと
精神的DVと言われ出し、離婚の危機が生まれるわけです。

夫が色々家庭内のことに口を出す場合も
相談するという女性的スタイルの会話の技術が無いというだけで
結果的に一方的指示をしてしまい
命令とダメだしとしか受け取られないわけです。

逆に夫は妻の発言には必要な情報の伝達が鈍く
余計なことばかりを延々と聞かせられると感じるわけです。
夫は行動指示の情報提供が会話だと思っていますから
それが始まるのを待ち続けているわけです。
会話のスタイルの違いによって
相手の言葉が頭に入らないことは夫も妻も一緒なわけです。


家庭の中ではどちらのコミュニケーションが大切かというと
私は、女性のラポールコミュニケーションが
本来行われるべきコミュニケーションの形態だと思います。

それぞれメリットデメリットがあるわけです。
この使い分けを意識するということなのだと思います。
公私の区別というのはこういうことだと思っています。

長くなるので割愛しますが
様々な現代的な社会病理の中において
いじめ、パワハラ、セクハラなど家族の被害を救出すためには
ラポール的な人間関係を形成し
十分な情報を引き出し、家族で対応する必要があるということもあります。

また、統計的に生命的に寿命が長いのも
活動を長くできるのも女性です。
活動的な女性と老いが早く来る男性ということを考えると
男性は家族に受け入れられているほうが
よほどよいわけです。

絶対その方が楽しいし穏やかだと思います。

私は、本当は職場でも
もっとラポール的なコミュニケーションを作ることが
企業戦略上有意義だと思っています。
どうしても男性的な価値観を無批判に正しいものとして
時代遅れの企業活動が行われているのではないかという
不安が払しょくできません。
行動指示万能論と目先の利益第一主義はとても親和します。

これからの時代男性が行うべきことは

第1に、職場と家庭と会話の方法を切り替えるということ
第2に、会話は、先ずラポールを形成するところから始めるということ
必要な情報伝達を優先するのは例外的な事情のときだけで、
その際にも、声の大きさ、言葉遣い、話す速さなど
穏やかな会話になるよう意識する必要があると思います。
第3に、情報伝達が必要ではなくても、意識して会話をする。
相手を安心させることを話す。毛づくろいを行うという意識を持つこと。
楽しかったこと、嬉しかったことを声に出して話すということです。
特に家族の感謝、自分の謝罪は必須であるということです。

口調は、語尾を上げていくのではなく、意識的に語尾を下げていくことです。
安心させるということは警戒感を解くことですから
責めない、批判しない、嘲笑しない
感謝と謝罪を伝える。相手の良いところを探し出してでも見つけて言葉にするということです。

これができなければ夫とは、父親とは
気が向いたときにダメ出しをして否定ばかりして
何を怒っているのか分からないけれど予測不可能なときに
声を荒げて、乱暴な言葉を使い
聞いている自分たちにイライラをぶつける厄介な相手
ということになります。

また、家族には体調に波があり
精神状態が一定ではないことが人間です。

嫌がられない会話をするよりも
相手を楽しませて、安心させる会話をすることを心掛けた方が
よほど簡単です。

わかってはいるのですが
なかなかやってみると難しいことも確かです。

私は頑張ってみます。
あなたはどうしますか。
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雇用の安定化こそ、資本主義国家が行う最低限度の仕事  自立自助は国民に丸投げという意味で政府が使ってはならない。 [労務管理・労働環境]



国家政策という観点からのお話です。

雇用は安定した方が良い。
従前の、コンセンサスでした。

様々な政策に合致していたからです。

一番イメージしやすいのは人道的効果、人権的効果ですね。
働いても食べられない、あるいは食べられる仕事が無い
ということになれば収入が無くなり、
生物的貧困を招き、健康や生命が侵害される。
社会的貧困の場合は、劣等感や疎外感に苦しめられる
ということになります。
社会も殺伐としてくるわけです。

経済効果としては、
労働力が消耗して働けなくなれば
生産活動に支障が出ますし、
収入が無くなれば、
消費活動が低下していくわけです。

治安も悪くなります。

もっとも影響を受けるのは福祉の関係です。
昔の日本には社会政策学というものがありました。
雇用政策と社会保障を軸とした
国民の福祉を向上させるという政策です。

国民が仕事に就けるようにしよう
安定して就労し続けるようにしよう
働いた分だけ、それなりの賃金を得られるようにしよう
という労働政策を基盤としています。

そしてその賃金の中から社会保険の保険料を払わせるわけです。
雇用保険(失業保険)
健康保険
労災保険
老齢年金
不可避的に起きる失業、傷病による就労不能
労災、老齢による収入の喪失に備えて
保険料を支払うということです。

自分の賃金の中からあるいは使用者の負担で
お金を出し合っていざというときに備える。
こういう制度ですから自立自助的な制度といえるでしょう。

公的に自立自助の仕組みを作っていたとも言えるでしょう。
それが資本主義国家なわけです。

だから、雇用の安定化は資本主義国家における屋台骨ですし、
政府は雇用の安定化をすることが基本任務だ
ということが言えるわけです。

しかし、それぞれの使用者は、
できるだけ人件費を抑えたいと思うでしょうし、
不要になったら人員整理をしたいと思う傾向にあります。

そこで、「総資本」という概念が提案されました。
社会政策学者として名高い大河内一男先生で勉強しました。
東大総長をされて、
「太った豚になるよりやせたソクラテスになれ」といった発言や
学生運動の頃に学生に取り囲まれた等の話の方が有名ですが
日本の社会政策学の屋台骨を形成していたおひとりです。

一つ一つの使用者が個別資本だとすると
個別資本に任せていたのでは雇用が不安定になり
社会保険制度が成り立たず、
公的扶助で税金が流出してしまう
その税収も減少してしまい
資本主義国家が成り立たなくなる
このため、すべての資本の共通利害を体現する
というフィクションとして「総資本」という概念を提唱された
のでしょう多分。

総資本の観点から行う国家政策が社会政策であるというわけです。

行動成長あたりまでは、こういう考え方が主流で
疑われることもなかったようです。
ところが、特にバブル崩壊あたりから
このような考え方は急激に姿を消します。

社会保障の基盤である「労働政策」
という観点からの政策や研究がどんどんなくなり
代わりに、
労働力流動化政策を中心に据える
労働経済政策にとってかわられるようになりました。

労働力流動化とは
必要な企業に労働力が足りず、
別のところに労働力がだぶついている
このミスマッチをいかに解消するかという問題です。

この観点からすると雇用は不安定の方が良いのかもしれません。
一つところの企業に労働力(労働者)が滞留しないで、
解雇されたり雇止めされたりすることによって
労働力が必要な企業へ流れやすくする
その企業で労働力が不要になったら別の企業へ流す

しかも、雇用が不安定で「どんな職場でも良いから就職したい」
というニーズが生まれると
安い人件費で労働力を確保できるという
特定の人たちにとってのメリットも生まれます。

そこでは、既に、「労働力」という資材の話になっているわけです。
漁船が、情報を入手して
なるべく高い買値を突ける港に魚を水揚げする
というような感覚で労働力という人間を売り買いしているわけです。

一時的に利益の膨大に出る企業はあるでしょうが
総資本の観点からはじり貧になっていくだけです。

収入が不安定であると政策的観点だけでなく
メンタルの問題も生じやすくなります。
家庭不和が起きやすくなり、その影響で学校も殺伐となるでしょう
そもそも労働現場では人間扱いされていないところの歪みが出てくるわけです。

つまり、雇用の不安定を放置するというのは
何も考えないで目先の利益を追求するということです。

政府が特定の企業と結びついて便宜を図る
ということは、
道義的に非難されることだけでなく
資本主義国家を崩壊させる危険な行為なのです。

現在は夢見がちな国家政策は何も力にならないでしょう
健全な資本主義国家を取り戻す
その第一が雇用の安定化、収入で生活も保険料も賄える
そういう政策こそ必要なのだと思います。

それが資本主義社会における自立自助ということだと思います。
政府が国民の自立自助を求めるときは
責任を国民に丸投げするときではなく
自立自助の可能な社会を作ったときの話だと私は思います。


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