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自死をした人に対する差別偏見、あるい誤解、(自死する人は特別な人だ)を無くすことが、自死予防の最大の対策ではないかと思う。みんな、幸せがあり苦しみがあり、当たり前の人生を送っている側面をもっているということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死者に対する誤解はいろいろあります。これまで私が主張していた誤解は、「自死者は精神的に弱いから、逃げるために自死したのだ。」という誤りです。
むしろ精神的に強すぎて、責任感が強すぎ、頑張りすぎるから、逃げ場のないところまで追い込まれたということを繰り返し述べてきました。

それは、私が、何十人という自死事件を、後追い的に調査、分析を行う仕事をして実感した事柄です。ですから、過労死の啓発活動をするときに、過労死しやすい人ということで、責任感が強すぎたり、頑張りすぎることは、仕事にとっては尊いことかもしれないけれど、家族との関係では別の観点も必要かもしれないと問いかけをしているわけです。遺族への慰めの理屈ではなく、実務的に自死を予防するための理論なのです。

最近、自死に対するまた違う誤解があることに気が付きました。

自死者の人生は、全く見るところもなく、苦しみだけのみじめなものだという誤解です。自分では、そういう誤解があることにすら気が付きませんでした。自分の周囲の自死者をみても、後追い的に自死の調査をしても、決してそんなことはないため、誤解をしている人がいるということに気が付かなかったわけです。

確かに、自死リスクが高まる要因があって、人間関係で追い込まれたり、精神疾患などで苦しまれていたり、そのことを知ること自体が第三者でも辛くて仕方がない時期が亡くなった方にあったことは間違いありません。

しかし、もちろん、そうではない時期があるのです。

自死者の多くは、家族を愛し、家族から愛されて生活をしています。友達がいて、何かと力になろうとしている人がいて、心配してくれる人がいて、多くの人間関係が円満に形成されていることが多いです。生きてきた喜びが感じられるエピソードや、充実した時間を送っていることがわかる様子を知ることができます。また、些細なことに悩んだり、克服したりと生き生きとした時間を生きています。

おそらくこれを読んでいる方は、「それはそうだろう。そんなことは当たり前だろう。」と思ってくださっていると思います。言葉にすれば、誰しもわかることです。

しかし、おそらく無意識の誤解、誤解をしていることに気が付かない誤解があるようです。それは、自死をするくらいの人だから、すべてにおいて逃げ道がない状態だったのだろうと考える人たちが実際は多いようです。
例えば、「会社でパワハラがあったということは聞いているけれど、家庭で十分フォローすればこういうことにならなかったはずだ。同僚や友達も庇ってくれなかったから逃げ道がなくなったのだ。誰も会社を辞めればよいと言ってくれなかったのではないか。」
というような思考方法です。

これらは、私の担当した事案に照らすと事実に反する推測ということになります。会社や学校での攻撃も、絶対的孤立が生まれるほど激しい事案も確かにありますが、多くは特定の人間関係に不具合が生じている事案でした。圧倒的多数は、家庭は円満で、家族仲の良い事案です。家族から追い込まれるという事案もありますが、やはり少数です。
以前も言いましたが、家族仲の良いことは、自死予防に必ずつながるというわけではありません。家族仲が良く、家族に心配をかけたくないからこそ、辛い気持ちを家族に隠すし、家族の前では無駄に明るくふるまって、ますますエネルギーを消耗するということが圧倒的多数でした。仲の良い家族は、最終的には危険因子にもなるということが真実です。このことは見過ごされています。

このため、自死者の身内ですら、自死者の家族に対しての不信感を抱くことがあります。実際私が担当した事件でも、自死者の親が、自死者の配偶者に対して、配偶者が自死の原因だという怒りを持ち続けて裁判になったケースもありました。裁判でも、弁護士が付いていながら、よく根拠もなく、こうも人を、子どもが愛した人を攻撃できるものかなあと不思議でした。自死者の親が、自分の子どもに対してというか、子どもの環境に対して誤解ないし偏見があったと考えると理解ができることかもしれません。

自死の調査をしていると、自死リスクが高まり、苦しんでいるときでさえ、ほっとするようなエピソードがあります。
壮絶な苦しみの中、自死するまで追い込まれて命が絶たれてしまったことは間違いないのでしょうけれども、当たり前に、普通に生きていたという側面も確かにあるし、幸せだった時間も確かにあります。

自死に対する偏見、誤解は、自死者が、なにかとてつもない四面楚歌のような絶対的孤立状態にあり、ただ一人で話す相手もなく生きてきたような、とても関わりたくないような状態だったとというものです。これでは、自死者がアンタッチャブルの忌み嫌うべき存在のように扱われてしまう要因になっているように感じてしまいます。
自死者も、他の人間も同じように当たり前の人生も送っており、自死をしない人と地続きでつながっている普通の人間だということが私の結論です。「当たり前のことを言うな」とおしかりになられるかもしれませんが、こういうことは何度でも言葉にして言うべきだと思っています。自死者という特別のカテゴリーの人間がいるわけではない。自死遺族という特別のカテゴリーがあるわけではない。類型的な自死の原因とか遺族の考え方の傾向があるわけではないと思います。私たちすべてに自死のリスクがあり、いつ高まるかわからないということが真実であり、私たちすべてに自死予防の知識が必要だと思っています。自死する人や、自死者の家族が、何か特別の人たちという意識で観られること、主張されることは、私たちやその大切な人たちの自死予防を妨げることだと私は強く心配しています。



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私が「寄り添う」という言葉が嫌いな理由 そこに相手への尊敬が感じられないから 支援者(第三者の)の寄り添いが本人をダメにするパターン。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


寄り添いという言葉が大はやりですね。誰かから「それは寄り添っていない。」なんて言われると、反論することができなくなってしまいます。ある意味、呪文のようなものだと感じることが多くなってきました。思考停止の呪文です。

寄り添いという言葉は、
「傷ついた感情を肯定し、理解した上で受容し、いたわる」
という意味合いで使われているようです。抽象的には、それは大切なことなのでしょう。しかし、実際には、具体的にはどうでしょうか。

傷ついた人、葛藤が強い人は、面倒くさいから、
言われたことを
『理解できます。』
『もっともですね。』
『当然のお気持ちです。』
『あなたは悪くありません。』
と答えて、刺激しないようにすることだとでも考えているような発言に感じられる場合が時々あるのは、私がひねくれているからでしょうか。

家族とか友人とか、仲間ならそれでもよいのだと思います。その人が仲間ならば、一番ありがたいことは、一緒にいてほしい時に一緒にいてくれて、1人にしてほしい時に1人にしてくれるということだと思うんです。そういう仲間というのは、自分の寄り添いの結果で本人に何か悪いことが起きても、一緒に何とかするという覚悟がある人間だと思うんです。

ところが、弁護士とか行政とかといった第三者の支援者、つまり、その人とスポット的にしか関わらない人が、その人の感情を無条件に肯定して、やるべきことをしないということになると、その人に回復しがたい損害を与えたり、窮地に追いやることが生じてしまいます。その人はスポット的な関りですから、本人に損害や窮地が生じても、責任をとることがありません。
支援者として第三者がかかわるならば、本人が多少傷つく結果になっても、感情を害することになっても、言うべきことを言わなければなりません。それができないならばかかわりをやめるべきです。
もちろん言い方という問題はあるわけです。

仮に第三者としてかかわらなければならない支援者が、「あなたは悪くありません。」を連発したらどうなるでしょう。「自分は悪くない。悪いのはあの人だ。あの人を罰するべきだ。死んでほしい。」と、いささか極端ですが、こういう方向に流れていくとは想像できないでしょうか。自分の行動を修正する契機を失い、その結果、自分のいたコミュニティーに復帰できなくなってしまいかねません。
孤立が待ち構えているかもしれません。また、本人に何らかの要因がある場合には同じ過ちが繰り返される可能性もあるわけです。

例えば、単純な話では、期限が区切られている行動についても、今それどころではないと寄り添っていつまでも放置していて、本当は本人が得られるはずの利益が得られなくなるということもありうるわけです。これはわかりやすいのでめったに間違いは起こさないでしょう。

しかし、少し複雑な話になると、そういう単純な構造も見えなくなるようです。

私の職業柄のためなのか、よくあるのが、傷ついている人に、怒りの感情をたきつける形の支援です。我慢(自制)することが悪であるかのような行動提起をする支援の形があります。

何か衝撃的な出来事があって、生きる気力を失っているとき、そのまま生きる気力が失われたまま何もできなくなってしまうことがあります。そういう時に怒りという感情を持つことによって、感情がリセットされたように、途端に活動的になられるという場面は何度か見ていました。
怒りということも生きるためには必要な感情だと、私は思っています。

しかし、その人の中で怒りが固定化してしまったり、怒りの歯止めが利かなくなってしまうことがあるようです。そういう場合、もとからあった苦しみ、ダメージ、自分自身に対する不安感などは、むしろ残存してしまうようにも思われます。怒りが自分に向いてしまった場合は自死リスクも高まってしまいます。
怒りは自分も傷つけるようです。また、他者とは共有されない怒りを表出し続けてしまうと、他者は本人から離れていくことになります。第三者からは、それがはっきりわかるのですが、本人はなかなかそれに気が付きません。理不尽なことを受けて怒っていたら、仲間だと思っていた人たちが自分から去っていく。二重の理不尽を感じて、さらに怒りが大きくなり、さらに孤立が深まる。怒りのスパイラルとでもいうような状態になるようです。怒りは、対象を亡き者にしない限り収まりにくいという性質もあります。

自分が支援者だというならば、過剰な怒りの表出で孤立する当事者に対して、怒りの程度をアドバイスする必要があると私は思います。本人のためです。そのためには、本人の怒りの原因を本当に理解して、理解を示し、本人が理解されているなと感じられなければ反発されるだけかもしれません。

ところが、支援者は、「あなたが悪くない。怒りは当然だ。」と寄り添うわけです。
あたかも
「苦しんでいる人たち、傷ついているという人たちの心情は
必ず極端な怒り、制裁感情を覚えるものであって、肯定しなければならない」
という不文律があるようなグループを目にするときに強く感じます。

傷ついている人が傷ついているからこそ、冷静な判断ができず、単純な思考で行動を起こしたり、発言したりするわけです。第三者ならば、その言動の派生的効果を考えて、その人がさらに傷つく事態にならないために、「自分はそうは思わない。」とか、「そうではなく、こう考える考え方もあるはずだ。」ということを提起する必要があり、義務があると私は思います。

弁護士として実務的に言えば、駄々洩れのように寄り添っていたら裁判負けるんですよ。

そういう形で寄り添う人たちは、自分の果たすべき役割を意識しないで、なぜ「寄り添い」を優先するのでしょうか。

私は端的に言って、寄り添いが支援者の自己満足の場合があるのではないかと思っています。支援者にとって当事者は、利害関係のない他人なわけです。自分の「駄々洩れ寄り添い」によって、当事者が不利益を受ける可能性があるということに、あまり関心がないのだろうと思います。特に、自分とはかかわりのない場面での、当事者の生活において不利益が生じることはあまり想定していないのではないでしょうか。
例えば、当事者が支援者と別れて自宅に帰ったときにどういう風に近所から扱われるかとか、当面は良いけれど数年後、10年後に例えば今の子どもが成長する段階になったらどういう問題が起きるかとか、そういう自分とは関わらない相手の人生についての想定をしていないのではないかという心配があります。
そういう目に見えないところでの想定をしないから、今の目の前の寄り添いがすべてで、当事者が満足すれば、自分も満足できるわけです。

支援するつもりもないのに、支援をする者のように近づき、無責任に当事者の怒りをあおる典型はマスコミだと思います。

自己満足というと言葉が悪いとすれば、自分が苦しむことの回避でしょうね。当事者の感情を波立たせる話題や意見を避けることは、当事者の絶望を覗き見なくて済むことになります。第三者が本人の苦しみをどの程度理解できるようになるかについては、確かに難しいことがあるかもしれません。しかし、「あなたは悪くない。」と一言で片づけてしまえば、本当に楽な話なのです。これでは法律相談をしていてもストレスを感じることはあり得ないでしょうね。その人が、真摯に自分と仲間の人生の利益のために、本当はどうすればよかったのか、これからどうすればよいのか、そこに望みがあるかということを一緒に考えることをしないで済むという利点があるわけです。当事者の絶望に共鳴しないで済むという利点です。

逆に当事者に共鳴しすぎてしまって、後先考えるべき立場である支援者が怒りの当事者になってしまい、本人が不利益になるかどうかなんて考えないで感情のおもむくままに、例えば訴訟を継続するなんてことになるのは論外です。一部の支援者は、どうやら「共鳴する怒りは強ければ強いほど寄り添うことになるのだ。」とでも考えているような支援をする人たちもいます。これでは、明らかに自分の理屈上の怒りを、本人に押し付けて本人の怒りを先導ないし扇動していることになってしまいます。

本人は、怒りによって、悲しみや落ち込みが感じにくくなったという体験をしていますから、どうしても怒りの方向に同調しやすくなっています。時として、怒りや支援は、麻薬のように作用することがあるのは理由があることです。

何が本人のためになるのかという問題は難しい問題です。本人が決めることなのですが、本人の葛藤が強く、冷静に考えることができないからこそ支援が入るわけです。それでは、第三者の支援者は、どうすればよいのでしょうか。

第三者の支援者が行うことは、当事者に対して選択肢を提示するということだと思います。
裁判の場合で言いますと、当事者が判決とは関係のない立証活動をすることを希望している場合(自分のこだわりを裁判官に聞いてもらいたいという場合)、それによる想定される不利益をきちんと提示して、それでも望まない判決になっても良いという意思が真意として確認されれば、その活動を行うということはあり得ることです。しかし、「それをやることによって、あなたが合理的考えをして行動をしない人だと裁判官に印象付けてしまいますよ」と言わないで寄り添ってはダメだということなのです。

このパターンでよくあるのは、妻が子を連れて別居してしまったといういわゆる連れ去り事件で、「妻を怒らせてしまうと、子どもに会えなくなる。」ということをはっきり言わない弁護士でしょうね。本当のことを言っているのに、それで妻が怒ったら子どもに会えなくなることは理不尽です。しかし、「今の裁判手続きは、理不尽であり、自ら子どもに会えなくしていることになる」ということをはっきり伝える必要があるということです。
決定するのはあくまでも本人です。支援者は選択肢を与えるという役割と、自分ならこう思うというサンプルの提示をするしかないけれど、それをしないで済ませるということはできないはずです。
それをしないで、当事者の感情を駄々洩れのように肯定して追認して、その結果当事者が不利益を被ることは当事者の自己責任だというのでは、人を支援しているわけではないということになるように思われます。

当事者がいかに葛藤が高くても、一人の人格を持った人間ですから、自己決定をする権利があるわけです。しかし、知識が無かったり感情的に高ぶっていたりすると、他の選択肢が思い浮かばないし、どれを選択するかの意思決定が十分な思考をもって行えないという状態なわけです。
きちんと当事者の感情に沿わない選択肢であっても選択肢を提起して、どれを選択するとどのような効果になるかということについて説明を行うということをまずやるべきだということなんです。

そのためには、第三者の支援者の人間観として、
「感情が高ぶった相手も、十分話せばわかってくれるはずだ、十分理解して、後悔しない選択をしてくれるはずだ」
という相手に対する信頼を持たなければならないと思うのです。相手は感情に反することも冷静に考えて結論を出したという尊敬の念を持つのが当たり前だと思うのです。

駄々洩れの寄り添いには、信頼も尊敬も感じられません。どうせ言っても分からないだろうとか、感情が高ぶっている以上は仕方がないというと勝手に考えて支援者が本人抜きに自己完結しているような気がして、とても心配なのです。

私たちは、「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)という本を今年出版しました。
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この本は、葛藤の高い人に「寄り添う」ための本ではありません。葛藤の高い人も、あるいは病気の人も、自分達と同じ地平にいる同じ人間なのだ、しかし、理由があって特定の行動や思考パターンになっているに過ぎないという考えを基盤として、相手に対する誤解をさけ、支援者側の障壁をなくし、肩を並べて共同作業をするための本です。法律現場でも、大先輩から直々にご感想のお便りをいただきました。しかし、学校現場でも多く読まれているようです。面倒くさい人をどう処理するかということでなく、一緒に歩んでいくことこそが、一番のコミュニケーション術だとご理解されて広まっているのだと勝手に考えているところです。

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現在の男女参画のDV政策の問題点が働くシングルマザーにしわ寄せされていること。1年近く母子が引き離された事件があぶり出した男女参画政策の二つの問題構造【考え方の一つとしてでも良いから理解してほしい】 [弁護士会 民主主義 人権]

今朝、嬉しい写真がメールに添付されて届けられました。
女児が、撮影している母親に向けて、満面の笑顔を見せている写真です。
この写真が撮影できるようになるまで、1年近くの時間が必要でした。
女児は、親権者母親の監護の下で生活していたのに、監護権のない身内に連れ去られて、約1年も母親から隔離されていました。しかし、1年近くの空白の期間があっても、母子はすぐに1年前の仲良し親子に戻っています。このようなことが繰り返されないために、ここに記録します。

仲の良い親子が、1年近くも引き離され、司法からも行政からも放置され続けるというおぞましい事態を招いたことには男女参画のDV政策に原因があると考えています。「本当のDV被害者」の保護は必要ですが、現在の政策の方法論には重大な弊害があるということです。大事なことは、「支援者の支援の考え方」が、本当のDVの場面だけ限定で徹底されるということはなく、他の案件でも同じ発想で処理してしまうという、人間の脳の問題を看過しているところにあります。今回の事件は、「母親は父親から子どもを連れ去っても良い」という限定された発想は貫かれず、「親から子どもを連れ去っても良い」という発想に拡大されていて、子どもが親から引き離されて教育を受けられなくても、仕方がないという発想に繋がりました。男女参画の方法論が、今回の事件の地ならしをしていたということです。どうしてそうなったかということをお話しします。

根本には、親子を引き離すことを容認する日本の風潮にあります。フランス人のビンセントさんが日本人妻によって子どもを連れ去られて、会うことも拒否されている問題で、パリの裁判所は連れ去った妻に逮捕状を出したと報道されています。日本において報道はされていませんが、同種事案では、アメリカの裁判所が多くの日本人妻に逮捕状を出しています。日本は拉致容認国家であるというのが、欧米の日本に対する一般的な見方なのです。日本では封建的な考え方が支配的で、日本では「子どもが母親の所有物だと扱われ、子どもには独立した人格が認められていない」と思われているのです。ECからの抗議もほとんど報道されません。日本国内での同種問題は無数にあり、なぜか国もマスコミも問題にしていません。日本の人権感覚は世界的には孤立しています。一部の虐待事件などに対する報道の効果もあって、日本では親権がないがしろにされています。これは法律的に言えば親権ですが、人間的に言えばわが国が親子の関係を大事なものとしていないということです。

今回の引き離された母子のケースから、裁判所、警察、地方自治体の男女参画関連部署の、DV支援的発想による処理の具体的な問題点2点を指摘したいと思います。

第1 最初にキーワード(DV,虐待)を言った者の勝ちという政策構造

今回の事件で、行政などが連れ去った身内に寛容だった理由は、その身内が、母親の子どもに対する「虐待」があったと主張して連れ去ったことにあります。
これは、現在の男女参画のDV保護政策と見事なまでに重なります。現在のDV政策は、最初に妻がDV相談をするところから始まります。そうすると総務省の用語では、このDV相談をした人は行政によって「被害者」と呼ばれるようになります。行政文書などで、「被害者」と呼ばれるわけです。そして、被害者の夫等は、「加害者」と行政文書に記載することになっています。総務省は平成25年10月18日の事務連絡で、ここでいう「加害者」とは、被害者に危害を加えた人を言うのではないとわざわざ断っています。それならば用語を改めるべきです。日本の国家が、日本語の意味と違う意味を持たせて言葉を用いることは、理解ができません。そしてこれは確実に自治体に印象操作をしています。
具体的内容がわからないのに、「虐待」、「DV」という言葉で、行政や司法が態度決定をしてしまうということが問題なのです。この結果、妻に不具合があれば、それがことごとくDVの証拠ということになってしまいます。金属アレルギーの皮膚反応、自分で転倒したときの臀部の痣、全般性不安障害や婦人科、ないしは内分泌異常による精神不安、これらはなんら関連がないのに、バイアスで関連付けられ、DVがあったことの証拠とされてしまいました。妻の統合失調症も夫のDVが原因だとされたことがありました。これが現在のDV保護政策の結果なのです。
虐待問題も全く同一の構造があります。虫歯さえも虐待の証拠だと真面目に議論されたのは裁判所においてです。
しかも、不可思議なことに、本件のケースで裁判所が虐待はないと判断した後も、警察、裁判所、区役所、一部医師、児童相談所、子ども園などは、母親の虐待を疑い続けたのです。どの機関も、「毅然として法律を執行する」という態度がありませんでした。それにしても不思議です。身内によって、子どもが母親から引き離されているのですから、明らかな児童虐待が起きているわけです。その虐待には目をつぶり、ありもしない(行政的にはあるかどうかも分からない)親の虐待に備えようとしているのです。この理由として特に行政はマニュアルが整備されていないと行動できないようです。子どもの親からの引き離しが虐待だということは当たり前すぎてマニュアルから落ちているのでしょう。虐待は親がするものだという固定観念があるようで、親以外の大人の子どもに対する虐待は行政任務の外にあるという冷酷な態度に感じました。(最終的には、警察署が極めて常識的な対応をしたので子どもは母親の元に戻ることができたことと、児童相談所が裁判所に対して極めて客観的な態度を示したことが母子再生に役に立ったことだけは、プラスの側面として報告しておきます。心から感謝しています。)

 余計な話ですが、このようなマニュアル行政は、日本型労務管理の弊害を如実に表しています。ほうれんそう(報告、連絡、相談)という、労働者が自分で考えて判断するということを極力避けるためにマニュアルを整備して、マニュアルの範囲外のことをやらせないという労務管理の手法が、行政改革以来公務員に浸透してしまっているわけです。新日本型労務管理の思想(問題を起こさないという守りの管理思想)は、労働力の質の低下を招き生産力を低下するだけでなく、このような弊害ももたらしています。利潤原理で行動する企業と、行政サービス、福祉の原理で行動する自治体と同じ原理で行動するということの愚かしさを指摘する人をあまり知りません。

虐待、DVという「言葉を言った者勝ち」という、いかにも低レベルな発想が国家や自治体という私たちの税金で報酬を賄っている役人の発想となっていることを私たちは心配するべきです。戦争時の、「鬼畜米英」という言葉で、アメリカ人やイギリス人が鬼のような人間たちだと思わされたことと容易に重なってくるわけです。その思考節約の割り切った考え方で、人生を台無しにされた人たちが日本に無数にいるということを強く言いたく思います。

第2 加害者とされた人に事情を聴かない。アンタッチャブルな人間にされてしまう政策構造

DV政策において、行政が妻に向かってアドバイスをすることは、「夫に知られないように子どもを連れて身を隠すこと」です。この時点で、夫は加害者だと誰も認定していないことに注意してください。
本当はDVなんてない事案でも、真実がどうなのかということを問題にされません。夫は対策を立てる方法もなく、突然妻と子どもが忽然と姿を消した家に帰ってきて、ことが起きたことを知るわけです。本当にDVがある事案で、妻の身体、生命、精神が破綻するという場合で夫に改善の余地がない場合には、このような方法が必要な場合もあるかもしれません。ただ、考えてみてください。単に妻がDVだというだけで、夫はなすすべなく、妻と子どもから引き離されるわけですよ。実際はDVが無かった事案も、多数含まれる可能性があることは、お分かりになると思います。つまり、妻が不貞相手と再婚しようと企ててDV保護を申し出ても、それが通ってしまうということは制度上に理由があることなのです。読まれている方は、保護を訴えた以上、妻の全員が全員とも本当に夫からDVを受けていると言い切れる根拠が何かあるでしょうか。
女性保護のためには仕方がないという方もおられるでしょうが、最大の被害者は子どもたちなのです。

DV政策では、事前にも事後にも、加害者とされる夫から事情を聴いて、支援を見直すという手続きがないことが特徴です。妻の身体生命の安全のために緊急措置であるから、多少の見切り発車は必要だということを百歩譲って認めたとしても、DVがあったことが証明されない場合は、夫の利益は回復されるべきだと思うのですが、それはありません。DVが無かったことが証明されても夫の子どもとの関係は容易に回復されません。私は、明らかに憲法31条、13条に反する行政行為だと考えています。

今回の母子引き離し事案でも全く同じ構造が踏襲されました。

区役所の保健担当の公務員は、身内が言った「母親が統合失調症であり、近々強制入院の手続きをとる」という架空の話を真に受けて、わざわざ母親の主治医に電話で情報提供を行いました。母親と面談して確認することもなく、もちろん情報提供の同意をとることもなく、虚偽の情報の提供を独断で行ったのです。これを真に受けて主治医の治療方針が変わってしまったらどうするつもりだったのでしょうか。この情報提供は病院のカルテにも記載されていますが、私は情報提供をした区役所職員本人と電話をして確認しました。個人情報保護の観点からも大問題ですが、区役所の保健
担当の職員でありながら、精神病者には同意が不要だという差別意識が背景にあるように感じてなりません。統合失調症ではないことは完全に立証されていますし、母親は普通に営業職としてノルマをこなしている有能な労働者です。このあたりの常識というか、基本的な医学知識も行政や司法では欠落しているということを痛感しました。行政窓口には「DV相談があった」という情報しかないのに、その夫が相談に来ると、血相を変えて「あなたと話すことは何もない」と「毅然」とした対応をするようです。DVをするような人間は、クレーマーみたいな人間で、話を聞いたら最後、いつまでも居座られれて怒鳴り続けられると思っているようです。自分の身体の安全も脅かされていると思うようです。勝手に、過酷なDVをする人間だという印象操作がされているのです。夫の弁解を心理的にも聞こうとしない構造が生まれているわけです。

要するに、虐待、統合失調症という言葉に過敏に反応してしまい、本人に会って確認することが「怖かった」ということなのです。自分を守ることを最優先して、罪もない人に不利益を与えるという構造もDV保護政策と共通する構造です。

警察も同様だったので、私は本人を連れて二つの警察署を訪問しました。実際の目的は、こちらの味方になるということではなく、中立になってもらうということでした。この方針は正しかったと思います。但し、母子再生に協力していただいた警察はこの二つの警察署以外の警察署の方々でした。

某行政から「児童相談所を交えて議論しないか」ということを提案されましたが、お断りしました。子どもが親から引き離されているという虐待があるにもかかわらず、なんら現在継続中の虐待に対応しない児童相談所には不信感しかありません。これは正しかったようで、児童相談所の関与を拒否した情報は身内に流れていたようです。

情けないのは、裁判所です。詳細は控えますが、連れ去った身内の意見(母親に対する悪口)をなんら裏付けもなく真実だとして扱っていました。真実として報告した原因は、「身内はこう言っているけれど実際はどうなの」という問いかけを母親にする機会をもうけなかったということです。不利益を受けるのは子どもと母親なのに、母親の弁解する権利ということに不案内なようです。
子どもが通っていた子ども園からも事情聴取をしていましたが、子ども園が直接体験したことと身内から聞いた話が裁判所の中で未整理な状態になっていました。もちろん、母親に対する確認の事情聴取はありませんでした。しかし、この報告書を子細に読んでみて、母親に対する子ども園が持っていた敵対意識が身内から植え付けられたものだということがはっきりしました。

この点、児童相談所は、身内から一方的に話された内容として、裁判所に報告書をあげて、直接体験したことと区別して報告していました。この報告には感心しましたが、眼前で継続している児童虐待に児童相談所として何ら対応していないことには批判をし続けなければならないと考えます。

問題が大きいなと思う職業は医師です。医師という難しい職業は、おそらく、医師になるには言われたことを素直に吸収して勉強していかなければならないのだろうと思うのですが、事件の中で出てきた医師は、母親に対して確認するという作業を一切しないで母親を攻撃する意見書を書いています。例えば、「行政の働きかけを母親が拒否した。」という一文があり、それは行政からの情報だと記載していました。行政と外部委員の情報共有に関しては私は知識がありましたので、その情報の取得経緯には無理がある、つまり嘘だとすぐにわかりました。そして情報源とされた行政に確認したところ、やっぱりそのような事実は確認できませんでした。医師が過剰に母親を攻撃していたのです。

これは常々感じることです。医師は目の前の患者さんを治療することが仕事だということに原因があるのだろうと思うのですが、目の前の患者さんを守ろうとした自分の行動が、「罪もない人を不利にする」ということに無頓着すぎるということをたびたび経験しています。そして、医学的なことは専門家以外は知らないだろうと思うのか、かなり無茶苦茶な診断や意見書を作成することがあります。目の前の人を救おうとする素朴な正義感からなのでしょうが、真実に反すること、医学的知見に反することは、絶対にしてはなりません。特に診断書に関しては、虚偽内容の診断書を作成すると、医師に限っては公務員でなくとも刑法犯になることを改めて考えていただきたいと思います。それだけ医師は国家から信頼され、公正中立な態度をすることを期待されているということなのです。

この医師の素朴すぎる、つまり大ざっぱな割に強い感情を伴う正義感は、私たち国民の感情の象徴だと思います。

私たちは、なぜか、「他人が悪いことをした」ということを必要以上に信じる傾向にあり、悪い人に制裁を与えたいという感情になるようです。そして、良い悪いの判断が極めて大ざっぱです。つまり、誰かがその人は悪いと言えば、それを疑うことなく、その人は悪いので制裁したいと思うようです。妻が夫のDVがあったと言えば、裏付けがないにもかかわらず、夫は「過酷な」DVをしたと思い込み、夫から子どもを奪うことは正当だと考えるようです。夫の言い分は聞こうともしないで、私たちのこころは事実を確定してしまいます。近所の人や児童相談所が虐待があったと言えば、子どもを何年も親元から引き蓮ことは当然だと考えるようですが、別の事件では実際親が何をしたか言える人は、当の児童相談所にもいませんでした。一度虐待の認定をすれば、親からの事情聴取によって見直すということはしませんでした。親が虐待を認めなければ保護を継続すると言っている本人がどのような虐待が実際あったかを言えないわけです。社会から孤立している親(外国人、シングルマザー、うつ病者、被災者)の子が保護をされやすいと感じています。

そして不思議なことはまだまだあります。悪いことをした場合に、解決策として「制裁」しか出てこないということです。あるいは、家族を解体するという方法論しかないということです。予防や家族再生という発想はこのブログ以外であまり見かけることがありません。社会が家族を守り育てることをしないで、不具合があったら家族を解体するという論調に、奇妙なまでに統一されていると感じます。私は、国を守り発展させる礎に、家族を据えなければならないと考えています。これに反して我が国のリーダーたちは、家族よりも、何らかの機関で子どもを育てるべきだと考えているように思えてなりません。とても自由と民主主義の国家とは思えない政策が横行していると思えてならないのです。

現状の政策が、最も弱く苦しい立場であるシングルマザーが子どもを奪われるという事態として現れた、その政策の問題点がどこにあるかということについてお話しさせていただきました。


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【批判】自死はコップに水がたまるようにリスクが高まっていくという例えはやめた方が良い たとえ話を修正してはみる。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死の説明をする場合、誰が考えたのかわかりませんが
けっこう多くの人がするたとえ話があります。

それは、コップのようなものがあって、
何が嫌なことがあると一滴一滴、水みたいに溜まっていき
ある時あふれると自死に至る

という説明方法です。

多くは、
相手に対して普通に話していたとしても
本当は悪意も何も無いとしても
コップの水がこぼれる寸前の場合は
相手はひどく傷つき、それだけで自死をしてしまう危険がある
だから、乱暴な言葉は使わない方が良い
という指導の際の話なのだと思います。

こういう誤解を生むたとえ話はやめた方が良いと思います。

もちろん現実にはそのようなコップや水はなく
例えばそういうことだということもわかります。

しかし、第1に
日常のストレスというものは
コップに注がれる水のように
コップにたまって減ることがない
ということはありません。

実際は、色々な出来事が人間にとっては刺激になり
ストレスになっているのですが
ストレスがあったこと自体を自覚すらしないうちに
睡眠や他人のアドバイス等の働きかけ、
過去の経験との照合(睡眠)などで解消していきます。

そのときはストレスだったものが
視点を変えるとストレスではなくなるということもあり
それは成長・発達によってよりよく見られることでしょう。

英語の勉強をすることがストレスだったけれど
勉強の方法を覚えて楽しみになったとか
暗記に苦労していたけれど、実を結んだために
今では苦労したことが楽しい思い出になったとか

いつも嫌なことばかり言う人で
叱責ばかりされていると思っていたけれど
本当は悪気はなく、色々教えたいから言っていたことを知って
叱責とは感じなくなり、こちらから意見を求めて
むしろ頼れる人間として安心の材料になる
今まで言われていたことがありがたく感じる
とかですね。

本来は、たいていのことは、
地面に水がしみわたるようにしみこんでいくわけです。

狭い容器の中に一方的にたまっていくというのは誤解です。
ろうそくの炎が消えたら命が消えるみたいな現象はありません。

そして色々な方の色々な条件が影響するわけです。

敢えて器の例えを使うとすると
初めから器が無くて地面にしみこむだけの人
水をため込まないではじき返す人
そうかと思うと、器のようなものがあり
どんどん溜め込む人
あるいは器の小さい人
どんどん溜め込むけれど、器は大きい人

またどちらかと言うと
器は生まれたときから同じ大きさというよりは、

理由のあるなしにかかわらず
器が突然できてしまったり、
これまであった器が極端に小さくなってしまったり
ということが起きているようです。

この器のたとえ話の弊害は
以下のように起きています。

弊害1
「すべてのストレスが、自死の原因の一つである
だからストレスを掛けた人間は全て自死の原因である。」

人間が生きていくにあたってストレスは必ずしも有害ではないのに
例えば成長を促すきっかけになったりするのに
すべてをネガティブに評価しなくてはならなくなります。

その人の人生を否定評価の出来事だけが存在した
というようなまとめ方をしなければならなくなります。
しかし、そうでしょうか。
自死した人の人生は、すべてみじめな人生だったのでしょうか。
実際の自死事件を後追い的に見ているとどうもそうは思えないのです。

楽しいこともあったし、生きる喜びを感じていたこともあった
それもまた、真実だと誰も言わないことは
たいそう恐ろしいことだと私は感じます。

弊害2
「器の水がこぼれんばかりにあふれそうになっているときに
通常なら気にしない一言で人が死ぬことがある
言った自分はある人の自死の直接の原因を作った人物だ」

人を非難したり、貶めたり、嘲笑したりしない
ということは尊いことです。そうありたいと思います。

しかし、自死事件を後追い的に見ると
善意のストレッサーという存在が目につきます。

仕事上のミスを指摘して修正をお願いしたり、
攻撃されたと感じた人が反撃をしたり
ちょっとしたからかいがあったり、
なお、単なる事務連絡が引き金になったようなこともありました。

これらの行為が、自死の引き金になったと
評価してよいのでしょうか
私は良いとは思えません。

先ほども言いましたけれど
ある時、突然に容器ができてしまう
そして、多くは既に容器にはあふれんばかりに水が溜まっている。

私は、自死の原因はあくまでも
容器ができたこと、既にあふれんばかりの状態になったこと
に求めるべきだと考えています。

もっともこれは遺族ではない第三者としての意見で
自死予防に重点を置いた考えです。

既にリスクが高まった後で
言葉に気を付けましょうと言ったところで自死は防げません。
リスクを作らないことが一番だと思うからです。

道徳的にはあるいは正しいことを言っているように見えても
自死予防の観点からはむしろ弊害があると思うのです。

それから、語られない恐ろしい前提があります。

今自分が話している人たちは
この先の人生において身の回りに自死者を出さないだろうという
そういう前提です。

もし、自分の同級生や身の回りの者が自死して
その直前に自分が何か言ったり、言わなかったり
あるいは視線を動かしたりというくらいのことで
コップの水があふれれば、自死は自分の責任だという
罪悪感を持ち続けなければならないことになる
ということに全く考慮されていないと
私は思います。

弊害3
これが最も深刻な弊害かもしれませんが
自死は、誰か他人の行為だけが主たる原因である
だから自死をした場合には、自死をさせた犯人を探し出さなければならない
という誤解を招くということです。

コップに水が溜まっていくという几帳面な自死リスクの高まりというものは
私にはイメージが付きません。

ある日突然、容器ができていて
その容器には水が溜まっている
容器ができた原因は
確かに誰かが意図的にストレスを掛けたということもありますが、
病気など、だれの責任でもない場合も多くあります。

また、一度できた容器が極端に狭く小さくなり
その結果水が満杯になるという場合もあります。

絶望を抱いてしまう、通常あり得ないことが重なって起きてしまう
というようなタイミングの悪さということもありました。

それを誰かの責任にしてその人だけを責めると
新たな自死リスクが生まれることになります。

必ず誰か犯人がいるはずだ
という誤解をまぬくということが
最大の弊害かもしれません。






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