SSブログ

リストカットは自死の入り口であり、放置したら死ぬと考えるべきである理由 どうして理屈をつけて放置するかの分析付き [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 リストカットは、確かに死のうとしてやっていないことが多い
2 自死する可能性が高まっていく行為である
3 繰り返されることでリストカットによる死亡の危険性も出てくる
4 身近な人間のリストカットを放置する理由は観察者の自己防衛
5 安心して話ができる人間関係

1 リストカットは、確かに死のうとしてやっていないことが多い
  リストカットを今まで見たことも聞いたこともない人が、リストカットをしている人を見て嫌悪感を覚えることは、健全な感覚だと思います。人間をはじめとする動物は、自分を守ろうとします。自分を守らないで傷つけることに恐怖や嫌悪感を抱くのは当然です。そして、少し事情が分かると、その人が死のうとして自分を傷つけているわけではないことがわかるわけです。それで少し安心すると、反発や怒りが生まれてきます。死ぬ気でもないのになぜ、動物の本能に反する行動をするのかという疑問の回答を無意識に探し出します。そして、ふざけた行動だという結論を出し、行為を拒否しようとするわけです。正義に反する行動だということで、怒りを持つわけです。
 しかし、リストカットも、本能的行動なのです。自分を守るために行動するという生物の本能に根差した活動です。主として人間は、動物として身体生命を守ろうとするだけでなく、群れを作る動物として他者との関係を守ろうとします。身体生命の危機を痛みとして感じることによって自覚して自分本体を守ろうとすると同じように、自分が他者との関係に安住できない状態が生じると、苦しさを感じるようにできています(対人関係的不安)。自分を仲間の中に置いておくために苦しさを感じて、危機を自覚するためです。
 自分が原因か否かを問わず、他者、あるいは社会に対して顔向けができなくなるような強烈な体験をした場合、この不安がとてつもなく高まります。強姦、虐待、いじめ、戦争体験等がわかりやすいと思います。そういう体験をして、「自分が仲間として認められない」、「解決する方法がない」、「自分には仲間がいない、独りぼっちだ」という感覚から、苦しさが高まっていくと、人間の心はそれに耐えきれなくなり、なんとか心を維持しようという気持ちが働きます。苦しみから解放される手段を探さざるを得ないのです。不安というものは、どうも一時的にしか我慢できないようにできているようで、それが強く持続してしまうと、何とか不安から解放されたいという気持ちが大きくなりすぎて、不安から解放されれば何でもするという行動傾向になっていくようです。
 リストカットもそうやって行われるようです。
 J.ハーマンというアメリカの精神科医の「心的外傷と回復」という本で、自傷行為を行うと、脳内で生産される麻薬物質エンケファリンなどが生成されて痛みが緩和されるという研究結果が紹介されていました。ランナーズハイと同じ状態です。
 また、人間の脳は、痛みや苦しみを同時多発的に意識のフォーカスを当てられないという理論によれば、自分の体を傷つける痛みを感じているうちは意識のフォーカスが体の痛みにあたることによって、他者との関係で生まれた苦しみも忘れられるという効果が生まれるようです。仲間の中で尊重されていない自分であっても、動物として痛みを感じているときに、生きているという実感が持てるようです。
 このように、リストカットも、死のうとして行われていなくても、決してふざけて行っているわけではありません。それだけ苦しんでいるわけです。何とか苦しみから逃れようとしているのです。苦しみから解放する手段が健全な人から見て不合理だからと言って非難していることになります。まずは苦しんでいる理由を理解してからでもよいように思います。もっとも、当人は何を苦しんでいるのか言葉にすることが難しいことも多いようです。でもその人が人間である以上、何かに非常に苦しんでいるはずだということから考えるべきだと思います。
 リストカットの結果を見せるということは、あなたを非難しているのではなく、あなたなら自分の他者や社会との関係で生まれた苦しみを理解してくれると思っているからかもしれません。無意識に救いを求めているのです。
2 自死する可能性が高まっていく行為である
  リストカットは、リストカットした時点では、死のうとしているというより、自分を守ろうとする行為だといえるかもしれません。しかし、その後の時間的経過によって、死の危険が高まっていきます。
 自死というのは、先ほど述べた、不安からの解放手段を択ばない場合の究極の方法です。不安から解放されたいことが一番の目的となっているのに「不安を解決策する方法がない」と認識してしまうと、このまま不安を感じ続けることが永遠に続くとかんじてしまい、とても耐えられなくなります。「死ねばこの苦しみから解放されるかもしれない」というアイデアは、そのような耐えられない苦しみを感じ続けている人にとっては、ほのかに明るい気持ちにさせてくれるアイデアだといいます。生きるための、自分を守るための苦しみというシステムなのに、逆に命を落とそうとするという本末転倒なことが起きるようです。苦しみが人間の精神構造の想定を超えた状態ということになるのでしょう。
 もちろん人間は、苦しいからと言ってすぐ死ぬわけではありません。一番の理由は、やはり、死ぬことが怖いからです。T.E ジョイナーという人たちは、この点に着目していて、「自殺の対人関係理論」という理論の中で、自死の危険が高まる要素として、死ぬことが怖くなくなっていくことが重要だと考えています。彼らは、これを「身についた自殺の潜在能力」が高まっていくという言い方をしています。この能力を高めるものの一つがリストカットなどの自傷行為です。自分の体を傷つけることで、少しずつ死ぬことが怖くなくなっていく、死ぬことに慣れていくわけです。自傷行為が繰り返されることは時間をかけて少しずつ自死をしていることになりそうです。
 リストカットの時点だけを見れば死ぬための行為ではないとしても、その後の時間の経過を含めて考えると、死ぬ行為を始めているというように評価するべきなのだと思います。
3 繰り返されることでリストカットによる死亡の危険性も出てくる
  リストカットは繰り返される傾向にあります。それは理屈からもよくわかることです。リストカットをして感じなくしたい、仲間や社会との関係の苦しみというリストカットをする理由は少しもなくなっていないからです。そして、一度苦しみを忘れた記憶があると、その中に戻りたいという気持ちが出てくることも想像しやすいでしょう。自分の腕を切ることが赤ん坊が母親に抱かれていることと同じ効果があるということで、これは壮絶な話なのだと思います。
 ところが、体の痛みは馴れるということが起きてしまいます。最初はかすり傷くらいでも十分だったのが、それでは効かなくなるということです。前と同じ程度の痛みでは、自分の苦しみが消えないということです。このため、繰り返されるリストカットのために、傷つける傷が深くなっていくとともに、新たな痛みを求めて傷が体中に広がっていきます。
 最初手首につけた傷がだんだんひじの内側に達してしまうと、かなり危険な状態だといわれています。その時は、再び付けた手首近くの傷はかなり深くなっていることが多いようです。治っても、傷のへこみが残ってしまう状態で、医師は、これは死ぬ危険が高い傷だったと説明してくれました。
 「リストカットで死んだ人はいない」というのは、きわめて無責任な迷信です。リストカットが続いていくと、死ぬつもりがなくても死んでしまう危険が高くなってゆくのです。
 もっとも、この危険が高くなったころには、本人も自分が怖くなるようです。もし、その人が身近に信頼できる人がいる場合には、「自分で自分を抑えることができなくなってしまう気がする。このまま死んでしまうような気がする。」という不安を聞くことができることがあります。そういう時、精神科医の受診を勧めると、自分から病院に行きたいと実際に自ら受診に足を運ぶということがよくあります。私はリストカットの傷の状態を見て、危険だと判断した場合、信頼する精神科医を紹介します。入院することになることも多いのですが、自ら病院に行く場合は、退院後も比較的安定するようです。実際にそうやってよくなった人の例を話しながら、良くしたその医師を紹介するわけです。
 ただ、無事退院とはなるのですが、リストカットを続けていた期間が長期に及ぶ場合は、重症のケガで体の痛みが残るように、心の痛みが残る事例が多いような気がします。突然症状がぶり返したり、サイクルのように調子が良くなったり悪くなったりする患者さんを多く見ています。リストカットはごく初期の段階で、その理由を突き止めやめさせなければならないのだと思います。
4 身近な人間のリストカットを放置する理由は観察者の自己防衛
 リストカットは、1回であっても、大ごとであり、大変なことだと驚き、あわてて、みんなで心配してリストカットをしないでもよい状態に持っていくことが必要です。ところが、本来リストカットを止めるべき人たちの中には、なんだかんだ言って、リストカットを放置する人たちも少なくないようです。リストカットの誤解がこんなにも蔓延しているのかと大変驚いたため、これを書いています。ただ、本当に誤解なのか疑問がある場合も少なくありません。苦しんでいるから体に自ら痛みを与えているという関係にうすうす気が付いている人が多いように感じるのです。
 リストカットを知りながら、十分な対応をしない人たちの論理は以下のようなものです。
・親からもらった体を切り刻むなんて不道徳だ。
・命を粗末に扱うことで許せない。
・ふざけてやっていることで人騒がせだ。
・かまってもらいたいアピールだから相手にする必要はない。
・深刻な様子がないから放っておいてよい。
・理由を聞いて話しかけても、うそを言うし、ごまかそうとするだけだ。
・リストカットで死ぬ人はいないのだし、一過性のものだから放っておく。
・やるなとは言いました。何度もやるなと言っています。
こんな感じでしょうか。
 まず、リストカットをしないという結果だけを言葉にしただけではリストカットはやめられません。苦しさから逃れようとして自分を傷つけるという原因があるのですから、原因を放置して結果だけを求めても意味がないからです。これは、とにかく自分がリストカットという無残な姿を見たくないから、見せないでくれ、見えないところでやってくれと言っていることと結果としてそれほど大差はないでしょう。
 次に、ふざけた態度で道徳に反する、正義に反するという態度も同じです。道徳に反すること、正義に反することをするほうが悪だという決めつけをすることで、もうお前は私の仲間ではないと宣言しているということです。リストカットをする人間もそこまで考えていないのですが、リストカットは、それをすることによってますます孤立を深めていきます。ますます自死に近づいていくのです。正義や道徳に反するということも、結局は自分が見たくないことを見せるなということを言っているだけのことです。正義や道徳というのは、本来攻撃される理由のない人が、相手が自分を守るために攻撃をするときのツールの場合があると私は思うのですが、その典型例だと思います。
 深刻な様子がないというのは、おそらくリストカットはしているものの、常時暗い顔をしてうなだれて、伏し目がちな状態ではないということなのでしょう。そのような重症うつ病患者はそれほど多くありません。軽微な鬱、中くらいのうつの場合は、自分の抑うつ気分を隠そうとします(山下格「精神医療ハンドブック」)。思春期の場合は特に、気分の変調が激しく、安定していないので、矛盾するかのような外見をすることがあります。しかし、リストカットをするということは、それだけの大きな悩み、苦しみがあるということです。明るい、活動的な側面を理由に対応しないのは、観察者がそう思うと楽だからです。リストカットをしている以上、客観的に明らかである以上、重大な問題が生じていると考えることを妨げることはできないと思います。
 結局、観察者は、リストカットをする人の苦しい気持ち、つらい時間、解決不能の問題に悩んでいることから目を背けようとしているのです。それはそのほうが楽だからです。むしろそれは自然なことです。共感とは、その人の苦しみを追体験することですから、リストカットするくらいの悩みに共感することは、確かに危険なことではあります。しかし、リストカットをその人が見える状態にしていたということは、無意識に救いを求めていることがあり、その人に期待をしてしまっているということがあるということです。でも観察者は、こちらは人間として、仲間として考えていないのだから、仕事上の付き合いなのだから、仕事の内容を超えてこちらも精神的負担を受ける理由はないと考えているということなのです。だから、何とか理屈をつけて、その人の苦しさを否定しようとしているということです。
そのように、悩みに対して、門前払いをするような対応を取られると、本人はますます自分が人間として尊重されていないと感じ、孤立感を深めていくわけです。
 しかし、若者の悩みは、大人からすると、なんでそんなことでそこまで悩むのかというようなことで真剣に悩んでいることが多くあります。歳を取れば、確かに嫌なことだけれど、別にそこまで気にしないということが多くあるように感じます。若者は、危険や不安、疎外感を感じる脳が先に発達して、それが大したことがないと総合的に評価する脳の部分の発達が未熟な年齢なので、悩まなくてもよいことを悩む時期なのです。簡単に悩みを否定するのではなく、自分がそのころどうだったかを考えて、考えて共感を探して、先に共感を示したうえで、悩まなくてよいということを告げるべきです。自分の体験談をすることは、とても有効なようです。
 それにしてもふざけてやっているということを本当に思っているのでしょうか。そういう人はふざけてリストカットをご自分がなさるのでしょうか。私はありえないと思います。自分の子どもだったらと考えると、やはり驚き慌てふためくでしょう。仮にふざけてやったとしても、仮に気を引きたいからやったとしても、そんなことのためにリストカットという方法を使わなければならない状態だということを深刻に受け止めるべきです。ふざけてとか気を引くためとか、それは対応をしない言い訳にはならないのです。
 もし観察者が学校で、リストカットを生徒がしたとして、学校が上記のような観察者、つまり傍観者を決め込んで、自分を守ることを優先するというなら、その旨宣言するべきなのです。生徒の心身の安全には興味がない。自分が生活することでいっぱいだ。仕事もたくさんありいっぱいいっぱいなので、もし悩んでいるなら退学して転校してくれとはっきり言うべきです。公立学校でこれを宣言するなら、国が宣言することになるのでしょう。学校とはそういうところではない、教育は人格の向上を目指すところに過ぎないと。
 
5 安心して話ができる人間関係
  ただ、リストカットをしている人と向き合うことは確かにつらいことです。絶望の淵から目をそらすことをどうしてもしたくなっているものです。また、原因を聞き出そうとしてもなかなか本当のことを言いません。言葉で言えるならばリストカットなんてしないでしょう。
 まず、自分の悩みや苦しみを話せる大人になることが第一です。国は若者の自殺を防ぐためにSOSの出し方教育をするといっています。子どもの権利を守ろうとする関係者一同あきれています。子どもに関係する大人のSOSの受け止め方教育をするべきですし、SOSを出してもらう大人になる教育を大人にするべきなのです。一番は、悩みや辛さを否定されないことです。つらい思いや悩みはもっともだというところから出発しなければ、悩みを打ち明けても傷つくだけです。打ち明けたら目をつけられて徹底的にいじめられたというのでは絶望を大きくするだけです。子どもも大人を見極めているのです。暗い考え、不道徳な考え、正義に反する考えも一度は受容する態度が必要です。そして攻撃しないということです。共感できる部分を探し出して共感するということができなくてはなりません。その子どもから自分を守ろうとする態度をしないこと、これは気が付かないだけになかなか難しいことです。
 次に子どもに興味を持つことと親しみを持つことです。子どもと一緒にいる時間をできる限り増やすということです。そして、その子が自分の仲間であるという実感を持てるようにして、何に悩んでいるのか興味を持ち、知りたいと思うことが必要です。この要求を奪うのは、忙しすぎること、時間がないこと、やることが多すぎることということになります。仲間であるという実感が持てれば、何とかしてあげようと気持ちになります。これがなければ、悩みから目をそらしたくなるだけです。
 最後に、子どもの悩みでも本当に深刻で、解決不能な問題があることがあります。うかつに絶望の淵を除いてしまうと自分もその中に引きずりこまれることは確かにありうることです。共感というものはとても恐ろしいことです。そうならないために、集団で対応するということです。何があったか話すことのできる大人の仲間があることが有効です。解決できないことをクールに解決できないといってくれる仲間であることが必要です。そうなると、第1希望ではな次善の手段を探すことができるからです。解決しなくても、その子が孤立しない状態を作り出すということが大切なことであり、それ自体が解決だということもよくあることです。例えば学校であれば、そんなことでも人生の支えになることが本当に多くあり、様々な次元で目にして、耳にすることがあるでしょう。
 いろいろなところで、学校においてもそうですが、大人たちが連携していないで分断して対応しているところが多いように思えてなりません。まず大人たちが仲間意識を持つべきだと私は思います。どうも自分も我慢しているのだから子どもも我慢しろという自己中心的な大人が増えているような気がします。

若者や子どもにかかわる大人たちがもっと人間を研究し、人間らしい生き方ができるようになれば、ご自分の人生がとても豊かなものになるはずだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

ある秋晴れの面会交流の記録 代理人どうしの阿吽の呼吸をスタンダードに! [家事]



とある秋晴れの日に、
面会交流が実施されました。
本当は、親子水入らずでやってもらいたいのですが、
事情があって、父親の弁護士、母親の弁護士が立会いました。

事情というのは、
子どもたちは、別居している親に対して
やはり後ろめたさがあって、
会うのが億劫だというところがあったようです。

別居親の方は、やむを得ない側面もないわけではないのですが、
子どもたちに同居を迫ったということがあり、
子どもたちはますますおっくうになり、
両親の代理人が一肌脱いで、
間に入って関係をリセットしようというわけです。

代理人同士の打ち合わせはなし。
ただ、双方とも離婚事件はガチの対決でしたが、
親子の問題は別だということで意見は一致していました。

最初同居親の弁護士と子どもたちが面会場所に到着しました。
同居親の弁護士が、別居親の尊敬できるところを話しながら、
会いにくい心情を言い当てて、共感を伝えはしました。
子どもたちの部活動や趣味を確認したりもしていました。

次に別居親代理人と別居親が登場しました。
先に言った事情があったのか、代理人がいるからか
なかなか会話が始まりません。
元々口数が少ない親子ということもあったようです。

弁護士の一人が、子どもたちの部活動について
例えば野球の話ならば、ある野球選手の逸話を話しだし、
ガンガン話を続けました。
オチを付けながら、楽しい話になったと思います。
別居親の笑顔も久しぶりにみました。

もう一人の弁護士が、話の穂を接ぎながらも
同居を迫ったいきさつをお話しして
あの時は仕方がなかったというフォローをすると
もう一人の弁護士は、今はもう大丈夫だから
同居親の方にい続けることは問題ないけれど
もう少しフランクに別居親の方にも顔を出してほしい
ということを言いだします。

ただ、決して焦らずという意識は双方にありました。

そうして、別居親の家に行く場合として
具体的にどういう場合かを相談を始めました。

その中で、子どもたちも塾や部活動で忙しく
なかなか顔を出す時間がないという事実を
双方が共有していきました。

子ども達、別居親の双方の懸念材料を
一つ一つ外していって
安心して会うことができる工夫を探っていきました。

それ程長い時間の面会ではなかったのですが、
別居親もある程度満足してくれたようでした。
結局、ずうっとニコニコしていました。

先に別居親と弁護士が場所を去りました。
子どもと同居親の弁護士が残りました。
別居親のある発言が
子どもを圧迫したのではないかと思い聞いてみたら、
子どもの方が別居親をフォローしていました。

やはり親子なんです。

同居親からすると少し強引な形で交流が始まり
別居親からするとまだまだ物足りないと思います。
そのくらいが、もしかしたらちょうどよいのかもしれません。

小学校は卒業しているということで
子どもたちの年齢が比較的高いということもあり、
あとは、決め事などせずに
双方の都合で普通に同じ時間を過ごしていただく方が
うまくゆくのではないかと思っています。


途中から、どちらの弁護士が、どちらの代理人かを
あえて書かないで報告しました。

面会交流が終わってみると
どちらでも良いからです。
おそらく、少しトーンは違うかもしれませんが、
口火を切った弁護士が逆の弁護士であっても
同じように事は進んだでしょう。

大事なことは、どちらの代理人かではなくて
離婚は親同士の問題であり、
子どもに迷惑をかけない
ということで一致していたということではないでしょうか。

自分の方を少しでも有利にしようとしてしまうと
駆け引きになってしまい、
こうはいかなかったと思います。

弁護士同士の信頼関係が
相手の考えを尊重しようという態度につながり、
一歩も二歩も引きながら
ただ、子どもたちにとって一番良い方法
無理のない方法を探して言ったのだと思います。

弁護士同士の打ち解けた雰囲気も
とても効果的だったと思います。

親子問題についてはこれがスタンダードになるべきだと思います。

面会交流に立ち会うことは
立ち会う必要がある場合は
弁護士も積極的になるべきです。

全く話が早く、
スムーズに面会を行うことができ
面会の後もスムーズになると思います。

ああ、人間としての仕事をしたなと
魂が現れたようなすがすがしさを感じます。
秋晴れの空を見上げた時のような気持になれる
弁護士の特権だと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

互恵的利他主義、血縁淘汰、フリーライダー論に対する疑問を述べながら、対人関係学の最弱者保護を中心とする共感力が人間が生き延びた理由だということを説明してみる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

私が進化論を学ぶのは、便利だからです。
家庭や学校、職場の人間関係を改善する場合や、
そもそも人間はどのようなもので、
どうすることをやめ、どうすべきなのかというお話をするときに、
人間の心が生まれた背景や、
その時と現代社会の環境の変化から考えると
とてもうまく解決方法が見えてきます。

考古学や進化生物学を学ぶことは
とてもエキサイティングなことで、
時間やお金がもっとあれば
もっと勉強ができるのにと思うことがあります。

さて、
進化論の論争において、
かつて社会進化論や群淘汰説という考えがありました。
「適者生存」の原則から
現在ある社会形態が最も適切な社会形態であるとか、
社会的弱者は適者ではないから保護をする必要がないとか、

進化は種の存続と発展のために行われているとか
誤った説が生まれ、
ナチス等に利用されたという不幸な歴史があったようです。

特に人間や他の動物の
群を助けるために我が身を犠牲にする行動
利他的行動をどう説明するかというところが問題となったようです。

群淘汰説が
素朴な正義感、道徳観に訴えて浸透し
今も形を変えて存続する
不幸があったようです。
(お国のために命を捨てるのは、人間として正しいとか。)

これらの説に反対をしなければ
進化論自体が葬り去られるという危機感を抱いたようです。

それらの説の誤りは以下の通りに整理されると思います。
・ 進化は目的をもって行われるものではない。
環境に適合するように遺伝子的変化が起きることだということ 例えば種のために進化するのではない。
・ 進化は環境に適合した結果であり、進歩という意味あいではない。
・ 進化論は、進化の経過やそれを踏まえた現状を説明するための理論であり、現在の進化の到達点に価値をおくような理論ではない。

以上は進化論のコンセンサスであり、この理由付けで群淘汰説などを批判すればよいということは理解できるところです。

しかし、群淘汰説を否定することによって、
人間や他の動物が見せる無償の愛と言える
犠牲的な行為をどう説明するか
ということが大きなテーマになってしまうようです。

私は、人間の利他行為は、
人間の性質上そういうものであり、
利他行為を行いえた先祖だけが
厳しい環境の中で生き残ってきたので、
人間の特質になっていたと考えています。

およそ200万年前の人間の住んでいた環境を想像すると、
特に弱い者を守ろうとしなければ、
弱いものから順に死んでしまい、
その結果群が小さくなり、
外敵から身を守ることも、育児も、食糧確保もできないため
死滅していったということです。

人間の力、能力ははなはだしく貧弱なため
一人では何もできず、
仲間と共同してのみ
一人一人も生きていけたということです。


人間は、
共感力(ミラーニューロン)が発達し、
仲間が困っていれば、それを認識し、
自分のこととして、仲間の窮地を助けてきたのだと思います。

その中でも、特に弱い者を助けようとする心の仕組み(行動傾向)
があるものだけが群れを作ることができ
生き延びることができたという考えを私はしています。

これに対して進化論の有力説は、
互恵的利他主義と言って、
見返りを期待して利益を与える
それが利他主義だという説があります。

それは現代社会のように希薄な人間関係では
見返りもないのに自分の利益を他者に与えないでしょうが、
当時は、原則的に一生同じ仲間と生活していたのですから、
ひもじい思いをしているならば助けたいと思うのが
自然な感覚だったという説明でよいように思われます。
仲間と自分を、情動において区別をつけられなかった
ということになると思います。

例えばあなたが、お年寄りが辛そうにして席を譲るとき、
後でまた席を譲り返してもらおうという気持があるでしょうか。
あるいは、自分が歳を取ったときに備えて
席を譲るという風習を作ろうとしてやっているのでしょうか。
私は、お年寄りの状態をおもんばかって
親切にしているという方が実感に合います。

もっとも進化論ですから
一つ一つの行為の理由を説明しようとする必要もなく、
人間が他者に気遣うときはどうしてするのかということなので、
私のような批判は邪道なのかもしれませんが、
私は見返りを期待するというのは
現代的な環境を踏まえすぎていると感じています。

あるいは、進化論は、個体の主観を問題とせずに
そのような仕組みがあるから生き残ったのであり、
客観的には互恵の仕組みがあったということを
言えなくもないかもしれません。

しかし、私は、それで群が維持できたのか疑問があります。
見返りをしないずるい個体を制裁するということが
それ程きちんと行われたとは思えないのです。
あくまでも最弱保護を基本とした共感的行動が
群を形成することができた仕組みだと思うのです。


次に血縁淘汰説ですが、
利他行為の説明として、
自分の遺伝子を残すために
各個体の遺伝子の近い血縁にあるものに利他行為をする
という説明をしています。

いくつかの理由で、人間の利他主義を考える限り、
これは積極的に間違っていると思います。

一つは、進化は目的を持たない
という原則に反しているのではないかということです。
(そもそも血縁を多く残すことが進化上有利であるとも思えない
 有性生殖自体が遺伝子を薄める最大のエピソードであり矛盾する。)
一つは、血縁が決定的なのか一緒に生活をしていることが決定的かと言えば
一緒に生活しているから、あるいは生活していてなじみがあるから
という説明の方が妥当だと思います。
利他行為の動機づけの実情にも合うでしょう。
一番の否定する根拠は、人間は嗅覚が大変衰えていることです。
嗅覚に問題がある場合、血縁か否かなどわかりません。
血縁を感じ取ることは不可能です。
血縁淘汰説はあり得ないと思います。
(日本の民法は、子どもの父親なんてしょせん分からないのだから
 証拠がない限り、母親の結婚相手を父親としてしまえ、
 早く子どもの家族関係を確定した方が子どもの利益だ
 という考え方で作られています。)

現代では、血族に対する利他行為は血縁淘汰説
血族ではない相手に対する利他行為は互恵的利他行為で
組み合わせて説明しているようですが、
双方の考え方の弱点は解消されていないように感じます。

群淘汰説を否定しようと
余計な説明をしているように思えてなりません。


私のように考えると不都合があると指摘されています。
(もちろん私に対して指摘されているわけではありません。)

もし、各個体が最弱者のために無償の奉仕をするならば、
突然変異で、利己的な行動に終始する個体が生まれたならば、
利己的な個体は、利益を独り占めしてしまい、
生存において優位になるから
利己的な個体の子孫ばかりが増えてしまうのではないか
そうなると群がつぶれているはずだろう
という不都合です。

対人関係学の進化の説明に都合がよいので、
反論をしておきます。

先ず、最弱保護を中心として共感をする仕組みですが、
遺伝されるのは、
共感をする能力をつかさどる脳
(前頭前野をはじめとする大脳新皮質)と
ミラーニューロンの仕組みです。

偶然、この部分が発達した個体が生まれ(突然変異)、
当初は細々と集団を形成していたのですが、
これが強い集団で、厳しい自然の中で生き残り、
他の集団よりも環境に適合し、
繁殖によって増えていったのでしょう。

群を形成して生きていく中で
ますます、大脳新皮質や神経が発達して行ったのだと思います。

ただ、これだけでは、
相手の気持ちはわかるけれど、
それがどうしたという傍観者のままでしょう。

特に、相手が困っても自分も困っているのだから
自分を守ることの方が大事だという態度も
生き物である以上当然あると思います。

人間の子どももそのような傾向がある場合があります。
そこで教育がなされてきたのだと思います。
もちろん学校があったわけではありません。

母親を中心とした大人たちに育てられ、
自分が保護されることが当たり前だということを
我が身を持って体験してきたわけです。

そして大人になるということが
誰かのために行動するということだということを
少しずつ学んでいったのだと思います。

それから、仲間は自分が多少の失敗をしても
許してくれることを学び、
しかし自分よりも弱いものに攻撃することを止められ
共感力が仲間への奉仕に向けられていったのだと思います。
弱い者を守り、共感によって行動するという傾向は
赤ん坊が育っていく際には、教育という効果もあったのです。

この中で不幸にして、
共感力が器質的に欠如した個体も生まれたことでしょう。
子どもの時期を過ぎても利他的行動ができない個体です。

それでも子どもの時期に仲間に害を与える行動をすれば、
大人たちから攻撃され、自分が尊重されなくなる
群にいられなくなるという因果関係は把握できたと思います。
正確に言えば、そのような群れから外されるのではないか
という不安、対人関係的危機感を持つことはできたと思います。
心はついて行かなかったかもしれませんが、
行動を律することは、ある程度可能になったと思います。

それでも、子どもの時期の教育も失敗して
利己的行動に出る個体はどうされたのでしょうか。

私は排除されたと思います。

最弱保護を中心とする共感行動ができる多数の個体は、
できない個体から、自分が仲間として尊重されていない
と感じるわけです。

こちらが空腹なのに、余るほど食料を持っているのに
分けるということをしないとか
自分が転んでけがをして動けないのに
さっさと先に行ってしまうとか
順番を待っているのに、横入りされるとか
仲間であれば当然してもらうことがしてもらえない
仲間であれば当然されない仕打ちをされる

これが、多数から尊重されていないと感じると
うつ的な傾向になりますが、
特定の個体から尊重されていないと感じる方が多数となると
怒りが生まれてきます。
尊重されていない仲間を見たら
多数は、かわいそうだと思うわけですから
怒りは共有されていきます。

勝てるという判断と
最弱者のために勝たなければならないという判断が
直感的になされ、
闘いのモードになり、怒りが随伴するのです。

共感力を持てない個体も
対人関係的危機感は持っていると思われますので、
怒りの前に行動を修正すればよいのですが、
なぜ自分は嫌われているのかわからないという個体は
攻撃の対象となったでしょう。

群から排除され、
外敵に襲われたり、食料を見つけられず
死んでいったと思います。
淘汰されていったということになるでしょう。

これは今思いついた思い付きですが、
群のための奉仕することをしない個体は
群から大人だと認められず、
繁殖を許されなかった可能性もあるのではないでしょうか。
いずれにしても性淘汰された可能性は高いと思います。

しかし何らかのアクシデントで
利己的な個体が生き延びてしまったどうなるか
おそらくその所属する群れは
先細りになり死滅したことでしょう。

だから、利己的な個体が生まれたからといて
それは環境に適応していないのだから
増殖するということはあり得ないと
考えられるのです。


私は、人間を進化の視点で考える場合、
特に心のありようを考える場合は、
時的要素に注意しなければならないと考えています。

認知心理学のコンセンサスは
人間の心は約200万年前の狩猟採集時代に形成された
というものです。

人間の心がどのように適応したのかについては、
その時代の環境、食糧や居住環境
外敵や自然環境を理解しなければならないと思います。

特に、人間の心、意思や理性、分析的思考は
対人関係の状態を理解しなければ理解できないと考えています。

心はそのときに形成された。
私もそれを承認するところから出発しています。

そしてさらに注意しなければならないのは、
200万年を経過しても、
人間の心はあまり変化をしていないということです。

それでは、どうして、現代社会は
利己的な振る舞いがこれほど蔓延しているのでしょうか、
そのために人々は苦しみ、
社会病理的行動を行うのでしょうか。

それは、環境の変化が原因だと思っています。
詳しくは、対人関係学のホームページの
心と環境のミスマッチとして検討しています。

他の動物と比べても
人間の心を取り巻く環境は
形成期と比べ物にならない変化をしている
これを念頭に置かないと
太陽系の惑星の活動には法則がないという誤解と同様の
観たままの状態が真実だという誤りをするでしょう。

先ずどのような心が形成されたのか
それが環境の変化によってどのように不具合を生じさせているか
そういう視点こそ科学的ではないかと考えています。


nice!(0)  コメント(0) 

いじめ防止対策推進法の不十分点 自死予防は一つの命を救うために99パーセント以上の無駄を行うことに特徴があるのかもしれない [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ防止対策推進法の不十分点 自死予防は一つの命を救うために99パーセント以上の無駄を行うことに特徴があるのかもしれない

そんなの法律の目的ではないよと言われてしまえば
そうなんですか、それでは新たな法律が必要ですね
というしかないのですが、

いじめ防止対策推進法を読んでいると
二つの不十分点があることを痛感します。

一つは、児童生徒が、生き生きとした充実した学校生活を送ることが目的とされていないこと
もう一つは、いじめを受けた子どもたちへの対応が構築されていないことです。

いじめ防止対策推進法の目的は、いじめ防止なのでしょうが、
何のためにいじめを防止するかと言えば、
確かに一つには法律の言うとおり子どもの尊厳を守るため
だということができると思います。

しかし、この法律が作られた背景を考えると
いじめによって児童生徒の自死を防ぐ
という目的があるのが当然だと思うのですが、
法律を見ても通達やガイドラインを見ても
具体的な方法が提示されていないようなのです。

たまたまそういう仕事をしているのでわかっているのですが、
いじめを受けて重大な被害を受けた子どもたちは
いじめが終わったり、加害者が処分を受ければ
それで終わりというわけにはいきません。

不登校が解消されず、実力に応じた進学ができないだけでなく、
家から出られなくなり、
親等には暴力的対応をして収拾がつかなくなり、
精神科病棟への意に反する入院をさせられたり、
(統合失調症や行動障害の診断名があっても、
 いじめがあったこと自体は確認できる)
社会に復帰することができなくなる子どもたちが
確実にいるのです。

子どもどうしの何気ない人間関係によって
一生を他者と交わることなく過ごすという
極めて重大な事態になっていることが
少なくなくあります。

そんな子どもたちにとって
加害者がどんな指導を受けたなんてことは
あまり意味のないことかもしれません。

いじめがなくなっても
法律の目的とする尊厳の回復にはなっていないのです。
いじめが終わればそれでよいというものではないのです。

本当の被害者である子ども目線の法律になっていない
と感じる理由です。

子どもの救済については、何も定められていません。

また、自傷行為や自死企図等が起きた場合は
調査を行うということですが、
調査には時間がかかりますし、
重大事態等のハードルが高く、
(実際は、国の通達が守られればそれほど高くはないのですが、
 仙台市の事例のように国の通達に真っ向から反する解釈に
 固執する教育委員会もあるようです。)

特に被害児童の救済が放置されたまま
時間ばかりが過ぎてしまうことにもなりかねません。

子どもの尊厳を守る目的であれば
いじめをやめさせて終わりではなく、
最後まで、子どもの尊厳を取り戻すところまで
対策を構築しなければならないはずです。

加害者処罰が大声で求められているようですが、
もっと肝心の被害児童の救済の対策こそ立てるべきです。

どうやら、現代の日本の学校現場では、
自死リスクが高まった児童生徒に対するノウハウの構築と普及が
放置されたままになっているようです。

激しいリストカットをしている子どもがいても
リストカットでは死なないと思っているのか、
放置されているようです。

自傷行為は、その時死ななくても
その後確実に死に接近していく行為です。

これらの子どもたちに対しては、
正式な指導は、「専門家につなぐ」
ということしかないようです。

その学校がつなぐべき専門家は、
どのような職業で、具体的には誰なのか
どこにまず電話をするのか。
家庭との連携をどうするか
メリットデメリットをどう説明して判断してもらうか
専門家につなぐ前に応急措置をする必要があるのかないのか
現場では全くわからないようです。

現実に自死の危険のある生徒に対して
何もできないし、しないということに結果としてなってしまっています。

これらの自死リスクの高い子どもに対して
学校が何らかの手当てをする必要がなく、
家庭の問題だ
という考え方もあるかもしれません。

病院への対応などが必要ですから
家庭の意向を無視して行うことも難しいでしょう。
結論としては、それも間違っていないのかもしれません。

また、学校の先生方はいろいろやることがあって忙しく、
子どもの異変に気が付かなければならないというのは
精神的な負担でありストレスが大きいとてもできない
ということも実際にはあるのかもしれません。

ただ、それでよいのでしょうか。

子どもを育てる時に各ご家庭で自死リスクを勉強する
学校は無関係だと割り切ることが
教育現場としてあってもよいのでしょうか。

教育とは人格の向上を目的としたものであって、
知識を習得させる学習塾とは異なります。
命の危険がある子どもを放置して
心配にもならない人たちが
子どもたちの人格の向上に寄与できるのでしょうか。
それこそ絵空事のような気がします。

ただ現状を放置して
やれという結果を命じるだけであれば
それは確かに教師に負担をかけるだけです。
効果も上がらないことでしょう。

そもそも自死対策は、
本来しなくてもよい、無駄 をちゅうちょなく行うものかもしれません。
本当は死ぬ気がないリストカットでも
徐々に死に近づいていると考えれば
今のうちに解決しなければならないでしょう。

心配しているというメッセージだけでも
その子どもの生活に潤いが生まれるかもしれません。
みんなが自分を心配しているということですね。

そうやって心配して声掛けしている中で
誰にも言えなかったけれど、切実に悩んでいた
という事例があるかもしれません。

99%以上は、緊急性が無いことでも
それが一人だけでも命を救ったというのであれば、
やっててよかったと思うし、
やり続けなければならないことのように思うのです。

このようなことを学校現場に言うと
おそらく相手にされないでしょう。
実情と会わないと言われるでしょう。

子どもの命を守るという観点からすると
学校は機能不全に陥っているのではないでしょうか。
まず、できるように環境を変えることが急務かもしれません。

どうやら自死対策は
合理性や効率ということを考えては
出来ないことなのかもしれません。


毎日顔を会わせる大人として、
子どもたちを心配する態度を表すことができないというならば
それをできるようにしなくてはならないということのはずです。

学校で自死リスクについてのノウハウを蓄積し、
家庭と連携を取って自死を予防する
子どもたちの自死予防にはとても効果的であるはずなのです。

日本だけが若者の死亡原因の第1位が自死という事態になっています。
子どもの数が減っているのに自死は増えています。
何とかしなければならないはずです。

子どもたちは日本の将来を背負うのであり、
国にとっては宝として扱うべきでしょう。

いじめか否か、重大事案か否かにかかわらず
みんなで予防をしていく環境を作るべきだと
思うのです。

そして、根本的には、
教育という人格向上の一環として、
子どもたちが活き活きと学校生活を送ることを目標にするべきであり
それによって効果が上がることだと思います。
ゼロの先のプラスを目指すべきであり、
いじめゼロとか自死ゼロばかり目指し
ゼロになればよいという発想では
なかなか解決することが難しいのだと思います。


私たちは、国民として
学校を非難するより先に
学校に何を求めるのか
意思表示をするべきなのでしょう。

私は、学校は、若者の自死予防のベース基地になるべきだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

人間の文明は、人間関係の板挟みが作ったのかもしれない。自我意識あるいは理性の由来 危険に接近し、群れを形成する人間 [進化心理学、生理学、対人関係学]

自我意識あるいは理性の由来 危険に接近し、群れを形成する人間

目次
1 自ら危険に近づく人間
2 群れを作る人間
3 危険接近と群れ形成の関係
4 自我意識あるいは理性とは何か

1 自ら危険に近づく人間
1) 他の動物の情動と人間の違い
人間以外の動物のほとんどは、危険を認識した場合、危険を吟味することなく、逃げる。あるいは、危険を与える相手を攻撃する。このため、そこに複雑な思考は不要である。危険の程度を考えることも不要である。判断は危険か、危険ではないかの二者択一的なもので足りる。あとは、危険から遠ざかるだけである。
そして通常の動物は、そのような大雑把な行動パターンであっても、逃走能力が十分あり、また、餌をとる能力もあるので生きていける。
ただ、他の動物もそれぞれ独自の進化をしており、一定の危険に接近しているように見えることがある。しかし、その接近パターンは類型化されているため、その都度の思考をすることは不要であり、本能的にパターンに応じた行動をしている。

2) 人間の危険に接近する必要性

人間は、危険に近づき、危険を回避しながら利益を獲得する動物である。火の使用がその典型例であろう。他の動物は、火という危険物があれば近づかない。それで事足りる。あるいは、武器という道具を使うのは主として人間である。武器は、それを使用する者も危険にさらす。
人間がこのように、自ら接近する理由は、そのような危険物の中にある利益を獲得しなければ生き残れなかったからであると思う。栄養価が高く、獲得しやすい食糧は力が強いものが獲得した。しかし、力の強い動物も危険には接近しないため、危険に近づかなければ獲得できないものは残り物として残されていた。
人間はもともと樹上生活を送っており、地球の寒冷化によりジャングルが減少し、地上に降りてきたとされている(人体600万年の歴史 ダニエル・リーバーマン ハヤカワ)。主として肥大化した脳を維持するための必要なカロリー減としてたんぱく質をとる必要に迫られた。しかし、狩りの能力を持たない人間は、屈強な肉食獣が狩りをし、食べ残した、小動物の死肉を食べていたとされている(同上)。文字通り、残り物を食べていたのである。また、肉食獣が立ち去った後で、ようやくありつけた死肉は、腐敗が進んでいたはずだ。その腐敗している肉の食べられる部分だけを食べるということもまた、危険と隣り合わせの食事だったことになる。
人間がもっと自力で餌をとり、肉食獣からの攻撃を容易に回避する体の構造があったら、好き好んで火を使うことはなかっただろう。少しでも安心して生きるために、仕方なく火を使い、道具を使いだしたのだとは考えられないだろうか。

3) 危険に近づくための条件
ⅰ)情動の抑制ないし中断
人間も、火などの危険物を認識した場合、逃げようとする感覚をもっただろう。このような危険に対する本能的対応を情動ということとする。他の動物は詳しい判断をせずにこの情動に突き動かされて逃げるわけだ。人間は、この情動が起こりながらも情動に従わず、危険に近づく。情動を抑制できなければ危険に近づくことはできない。情動の抑制が危険に近づくための第1の条件になることは理解がしやすいと思う。
後に述べるが、情動の抑制という表現が適切であるか疑問がある。私は、情動を抑制しているのではなく、情動が中断されているということが適切ではないかと考えている。

ⅱ) 危険の程度、範囲の認識、危険メカニズムの理解
危険に近づく場合に、すべての危険に近づくわけではない。燃えている火に身を投じることはしない。例えば枝が燃えている場合、燃えていない部分の枝を持ては致命的なやけどを負わないことを知っている。そして、その枝に火が映らないうちに放り投げてしまえばやけどをしないことも知っている。また、枝ではなく大木が燃えている場合は、燃えていない部分をさわっても火力でやけどをすることも知っている。
 つまり、火力の大きさによって危険の程度が変わるように、危険には程度があることを知っている。そして、どのように扱えば危険が回避できるかについて、危険のメカニズムを理解している。
 このような複雑な思考をすることができることが第2の条件である。多くの野生動物は複雑な思考ができず、危険か危険ではないかの二者択一的思考を基本としている。危険に近づかなければならない人間の知恵とはこういうものである。

ⅲ)細かい点についての記憶
まずは、一個の個体が危険のメカニズムを理解したのだろう。しかし、それをその場で理解しただけでは危険に接近することはできない。危険の程度、範囲、時期などという詳細な流れを記憶しなければならない。それがあって初めて危険を利用するために近づくことができる。

ⅳ)危険の伝達と理解のための共感力

例えば火が危険であることは、近づいた際の皮膚感覚で何となく理解することができる。しかし、本当の危険を理解するには、実際に火によって大けがをしたり、命を落としたりする者を観察することによって理解するはずだ。
やけどで苦しんでいる人間の苦しさ、その苦しさから逃げようとして逃げられない絶望などをみて、それが同じことをすれば自分も同じようになるということを理解しなければならない。また、それは、危険か危険でないかだけでなく、どの程度のやけどならば予後が良く、その程度ならば予後が不良となるのかを含めると、他者への共感力はかなり正確なものを要求されるはずである。
そして、共感力を利用して、火の利用方法を仲間に伝えていくことも、人間として火を使うための条件になるだろう。もしかすると、武道の免許皆伝のように、当初は許された特定の個人だけが火を利用していた可能性もあるのではないかと想像をたくましくしてみる。言葉のない時代であるから、火の使用法を伝達するためには相当の犠牲者が生まれたのではないか。

4) 危険に接近する人間の思考の特徴

危険に接近するようになり、人間の思考は他の動物と異なる特徴を備えるようになったはずだ。これまでの考察をまとめてみる。
第1に二者択一的な思考ではない複雑な思考ができるようになった。
第2に現実化していない近い未来について推測ができるようになった。やけどをしないような火の使い方を考えるということである。
第3に条件付けの思考や場合分けの思考ができるようになった。
第4に他者の感情など複雑かつ抽象的な思考をするようになった。

2 群れを作る人間

1) 癒しと緊張
人間とそれ以前の祖先とを区別する基準の一つが、先ほど述べた地上生活を送るようになったこと、もう一つは群れを作って共同作業をするようになったことである。これには群れのなかにいる切実な必要性があるため大きなメリットがあったはずだが、群れを形成することによる新たな緊張があったはずだ。
ⅰ) 癒し
   弱く運動能力が劣る人間も、やがて死肉をあさるだけではなく、新鮮な肉を求めて狩りを行うようになったとされている(前掲)。しかし、運動能力の劣る人間が動物を狩るのは、ほとんど偶然によるものしかなかった。そのため、人間は集団で狩りをするようになった。集団で一匹の小動物を追い詰め、小動物が疲れて、熱中症になり、弱り果てるまで囲んで追い詰めて仕留めるという方法をとっていたらしい。狩りをするにも集団でなければできなかった。防御についても、一人で肉食獣に立ち向かうことはできない。誰かが多少の犠牲を被っても、集団で立ち向かったと思う。そうでなければすぐに群れは小さくなり消滅することになる。仲間を守るためには命知らずの反撃を手段で行ったはずである。徐々に、肉食獣においても、人間が集団でいるときは危険な動物だということを学習していっただろう。
 このように人間は集団の中にいることによって、食料を調達し、わが身を守ってきた。食料調達チームが群れに復帰すれば、チームも一安心しただろうし、留守番チームも安心したに違いない。日没前の時期に、群れに復帰し、癒しの時間を迎える時刻は、ちょうど交感神経優位から副交感神経優位に切り替わるころである。緊張によってすり減った神経、血管などを効果的に修復し、睡眠をとることも可能にしたのであろう。仲間は、生理学的意味においても癒しであった。

ⅱ)緊張

ただ、群れの中にいる必要がある人間は、群れから追放されると生きていけない。自分では情動に従って行動しているだけであっても、群れの仲間との関係では、敵対するような行動になってしまうことがある。そのような場合は、自分が危険な状態にあるということを認識し、行動を修正しなければならない。
この危険な状態にあるという認識方法は、発生後ずいぶんの時間を経過したのちに、進化によって群れの行動を始めた人間には用意されていなかった。だから、生命身体の危険を感じる生理的変化がそのまま使われた。これが緊張である。生理学的に言えば、血圧の上昇、脈拍の増加、体温の上昇などの変化や、筋肉の緊張などであろう。これは、現在ではストレスと呼ばれている。群れからの追放の危険について、私は対人関係的危険と名付けてみた。
対人関係的危険の感覚も、遺伝子に組み込まれたものもあるが、学習によって形成される部分も大きいと思われる。
 癒しと緊張の関係が問題となる。群れに戻ったとたん、癒しが始まり、同時に緊張も始まるというのでは、少し無理があるように思われる。おそらく緊張は常時起きていたのではないのだろう。また、人間は、緊張を回避しようと試行していたというよりも、その逆の思考が元々各個体に組み込まれていたと考えることのほうが自然である。つまり、仲間に貢献することが喜びであり、究極の癒しだったのではないだろうか。言葉もない時代に、そのような洗脳をすることは難しい。しかし、そのように仲間に貢献しようという志向や、弱い仲間を守ろうという志向がなければ、群れとしては機能しなかったはずだ。良好な仲間関係が形成されているときに、癒しの機能がよりよく発揮させられたのだろう。そうして、本来仲間として尊重されるべき行為をしている自分が、仲間として尊重されていない、積極的な扱いを受けていないと感じるときに対人関係的危険を感じたのだろうと思う。それだけ、人間は繊細な弱い動物だということなのだろうと思われる。
<長い注意書き> われわれ人間は、その後200万年を経過した段階で、第2次世界大戦、ファシズムを経験した。ユダヤ民族をはじめとする1000万人ともいわれる人たちがホロコーストの犠牲になった。このため、ナチスにつながるあらゆる論理を排除しようとする動きが生じることは当然である。問題は、少しでもファシズムに利用された概念について、まともな論証をしないで排斥しようとする非科学的態度が副作用として生まれたことである。進化論において、群淘汰説というフィルターが存在している。群淘汰説は、生物は種を繁栄させる方向で進化をし、利他行為は種を強化するための手段であるという理論を中心とした学説一般をさす。特に明確な定義があるわけではない。ナチスに役に立ちそうな理論を排斥するためのレッテルとして使われる。しかし、利他行為の存在を否定できないために、その理屈付けとして相互互恵説とか血縁保護説とか、進化の観点からは無理があり、実感として受け入れられない議論がまかり通っているのである。
 私は、もちろん群淘汰説に立つものではない。個体の生存を確保するために群れを作るしかなかったという理論を述べている。その群れの範囲は、あくまでも個体識別ができ、単純接触効果が期待できる範囲が基本である。ロビン・ダンバーによれば、せいぜい200人くらいの人数に過ぎない。
 また、科学の態度としても、ナチスに近いからと言って排斥することは誤りで、デメリットが大きすぎると思われる。ナチスが影響力を持ったのは、人間が受け入れる素地があったからである。むしろ人間の素地を利用して影響力を拡大したのである。その利用されてしまう人間の素地がどこにあるのか、その真理を突き止めることなしに、形を変えたファシズムを排斥することはできないだろうと思うからである。
 人間は、もともと群れに貢献することを喜びと感じる動物であった。自然は厳密なコントロールを用意しなかったため、わが身を犠牲にしても仲間を助けようという行動をしばしばしてしまうものである。
 日本における特攻隊志願者の論理は、まさにこの性質を利用されたものである。自分の家族を守るためにという本音を抱いて、「お国のために」という言葉に置き換えて、わが身を犠牲に供したということが一般的であったと確信する。

2) 群れを作る条件

群れを作る条件は、奇妙なまでに危険に接近する条件と近似している。
ⅰ) 情動を抑制し又は中断する能力があること
個人の情動、空腹、怒り、恐怖の赴くままに行動することは群れを成り立たせない。群れを作るためには、個人の動物としての情動が抑制されることが群れを作る第1の条件となる。
ⅱ) 共感する能力があること
  対人関係的危険を認識し、危険を解消する行動を行うためには、群れの他者への感情を理解できていないとならない。
ⅲ) 仲間に貢献しようとする志向、最弱のものを守ろうとする志向
   自分だけが利益を得ようとする者がいては群れは成立しない。特に弱い種の群れの場合、仲間の力を奪うような個体がいたのでは、弱い仲間から死滅してしまう。そもそもの分けるべきパイが小さいためである。弱いものが死ねば、その分群れが小さくなる。その分群れの機能が低くなる。また、現代社会を見ればわかるように、自分だけが利益を得ようとする志向は途中で抑制することができない。その分群れが小さくなっていくだけである。やがては群れるうまみがなくなる。
 自分だけが利益を得ようとすることを抑制することは現実的ではない。むしろ、その逆に、仲間に貢献しよう、特に仲間の中で一番弱いものを守ろうとする志向が人間にはもともと備わっており、教育でそれを強化していたと考えるほうが自然だと思われる。

3) 群れを作る人間の方法

動物が群れを作る方法はさまざまである。イワシは群れの内側で泳ぎたいという性質があるので、群泳をする場合、巨大な蛇が泳いでいるような外観を呈し、結果的に襲われにくくなる。渡り鳥が隊列を組むのは、風圧の関係で合理的な位置取りをするために大きな鳥の形に見え、捕食者から襲われにくくなる。結果としてそうなっている。イワシも鳥も、目的をもって行動をしているわけでなく、本能的な行動をした結果利益を得ているのである。進化が目的に基づいて行われるのではなく、結果が有利なものが適応するだけだということはこういうことである。
人間も同様だと思う。群れを強化しようとか、群れを存続させようとして理性的な分析がなされ行動しているのではなく、人間の本能的行動が結果として群れの存続や強化につながり、結果として弱い個体が生存できたということである。
人間の群れを作るモジュールは以下のようなものであることになる。つまり、他者に共感する、共感してしまうモジュール。仲間のために貢献しようとするモジュール。群れの最も弱い者を守ろうとするモジュールである。

3 危険接近と群れ形成の関係

以上のように考えると、人間の群れの作る能力は、危険に接近する中で形成されていったように感じられる。完全に分離して考察することは現実的ではなく、長い年月をかけて相互に影響しあって形成されていったということが表現としてはずれのない説明かもしれない。
 しかし、私は、どちらかといえば仲間の形成が先行したのではないかと考えている。
 人間の他の動物との違いの最大のものは、情動のままに行動をしないで、情動に反する行動をすることだと考える。情動に反する行動のメカニズムを考えると、そのように考えるべきだと思った。
情動を中断させることは、理性ではない。情動は自分を守るためのメカニズムであるから、ひとたび生じた恐怖、逃げようとする志向は、安全が確保されるまで中断されることがない。例えば、熊から逃げようと東の丘に向かおうとする行動が中断される場合の典型は、東の丘に新たな捕食者、例えば狼が存在することがわかりまた別の方向に移動するときである。つまり、情動を抑えるのではなく、別の情動が最初の情動を中断させるのである。
仲間を作ることによって、動物としての危険を回避する情動を中断させるもう一つの情動を獲得したのである。それが対人関係的危険を回避しようとする情動、もっと根幹的な表現を使おうとすれば、群れを形成しようとする志向が獲得される必要があったのだ。
 先ほどの熊と狼の矛盾のように、生物的情動の対立は、瞬時にその後の行動を選択して実行しなければならない。命の危険があるのだから、分析的に考えている場合ではない。社会的情動と生物的情動の対立の場合も、おそらく誰かの命の危険があり、瞬時に実行に移すべき時が多いであろう。典型的な情動の中断は、むしろ社会的情動の対立の場面であろう。簡単に言うと板挟みである。それほど時間が迫っているわけではない。しかし、選択を誤ると群れからの追放や群れからの評価の低下が待っている。他者への共感力の高さや、どれかを選択したことにより生じる結果の推論など、情動を抑制する条件、仲間を作る条件が鍛えられる場面であると思われる。仕方なく分析的思考を行わざるを得ないのである。
 もちろん、歴史的事実ではなく比ゆ的な表現なのだが、親の夫婦喧嘩や嫁姑の板挟みで、人類は高度の思考ができる脳が発達したようなものなのである。
 また、仲間を守るための自分の命を顧みない行動ということも、仲間を作ったことから余儀なくされたもので、自分という個体を守る生物本来の本能が抑制される体験を通じて情動を離れた分析的思考の基礎を作ることに貢献したのであろう。
 人間の思考も多くの部分で感覚的即決であり、分析的な思考が行われない理由は、分析的思考がここ200万年くらいの中でようやく高められてきた新しい思考法だからであろうと思われる。
  
4 自我意識あるいは理性とは何か

ここまで話をしてきたのは、人間の自分に対する意識、理性、あるいは分析的思考とはどのように生まれてきたのかということを考えたかったからである。
 人間の自分に対する意識は、理屈の上で他者と自分を区別する際に生まれるものであるというところから考えを始めていた。
 私なりに考えを進めてきたが、どうやら群れを作るということが、人間に意識を授けるにあたって不可欠の環境だったのではないかと結論になりそうである。生物的情動の対立ではなく、社会的情動の対立の中で自分の行動を決めることが脳を発展させていったという結論である。社会的な情動の対立を解決する場合は、時間的に余裕があり、様々なこと、考慮するべき人物の感情、利害状況、利害の共通性、将来的な派生効果、自分の立場、あるいは自分が守ろうとする仲間の立場、様々な状況の整理、程度の分析をおこなう。通常は情動に従って、自分の行動を感覚的に即決で足りた。しかし、社会的情動の対立に直面して、自分がどのような行動をするのかということは、自ずと仲間と区別された自分という概念が必要になったのだろう。たとえばAという人がBとCという人間の板挟みになったとき、AはBとCとの距離を考え、BとCと自分が違う人間であるということを強烈に意識せざるを得ないのであり、自分とは何かということを意識せざるを得なかったのだろう。BとCは個人とは限らない。Bが血族の一人であり、Cが群れ全体だったかもしれない。
 ひとたび生まれた情動の中断と分析的思考は、人間の大脳皮質を発展させていった。ひとたび考える器が形成されれば、情動の対立が顕著ではない場合であっても、自ら進んで問題提起を行い、分析的思考を屈指していったのであろう。複雑な思考は、細かい記憶を糧に、文明を築いていくことを可能とした。情動から離れた思考が行われることを可能としてしまった。


 私が当初想定していた結論とそれに至る流れは、すでに踏破した。想定以上のことを考えることができた。しかし、ここまで考えると、それでは満足できないという自分の新たな心情を強く自覚している。
 一つは、分析的思考がよりよく機能するためには、平板な感情の中で考えを巡らせるよりも、何らかの高揚感や自己保全、プライドをかけて考えるなどの心理状態でいるべきことの理由が理解できたことである。もともと対立した情動に直面した場合に、情動が相殺されて消え、分析的思考が余儀なくされての思考パターンだったので、その環境を再現するほうが能力を発揮するということである。
 もう一つは、分析的思考が、まじめな思考となり、社会に役に立つ思考、弱者を害さない、人類に害悪にならないための思考となるためには、自己の情動を尊重して思考を始めることが有効ではないかということである。自分を含めた人間が生きるための思考、人類を生かすための思考は、自分の中の内なる情動の声に耳を傾けることが一番の方法であるということが結論付けられそうである。
 これらのことを今後考えてみようと思った。


nice!(0)  コメント(0) 

家族など仲間に怒りをぶつける前に抑える方法 人間の意識からの考察 かわいそうだからやめる実務的方法 [進化心理学、生理学、対人関係学]

家族など仲間に怒りをぶつける前に抑える方法 人間の意識からの考察 かわいそうだからやめる実務的方法

目次
序 大事な仲間を自分の怒りで失わないために
1 怒りを抑えることが難しい理由 怒りのメカニズムから
2 怒りを中断し、理性を働かせる方法 エラーパターンの認識

序 大事な仲間を自分の怒りで失わないために

私は、怒りは必要だと思うので、
怒り一般を抑えることは副作用も大きいと思うので賛成できない。

ただ、仲間に対しては、怒りをぶつけてはならないと思う。
これは未熟な私自身の反省を踏まえて、
怒ることで仲間を傷つけて後悔している人たちと
一緒に考えるページである。

仲間に対して怒りをぶちまけて
反撃されて返り討ちにあうなら
結果としてはそれでよいように思う。

逆に首尾よく自分の怒りで相手を制圧してしまうと、
相手が回復しがたいダメージを受けていることを
目の当たりに見ることになってしまう。
傷つけたのは自分だと思うと取り返しがつかない気持ちになる。

あるいは、その時その時のダメージは大きくないとしても、
怒りをぶつけられた相手が
あなたに対するどす黒い泥のような負の感情を
相手の心に深く沈殿させ、それは堆積されて
ついには相手があなたから去ってしまうこともある。
そうなると本当に取り返しがつかない。

ところが自分が怒りをぶつけたことによって
相手が傷ついたということに
気が付くなら解決の糸口がある。

しかし、けっこう多い事案では、
あなたが相手にダメージを与えていることに
気が付いてさえいない。

気が付かない理由は、
自分は理性的に相手を正したのであって、
相手が傷つく必要はないと
無意識に感じているからであることが多い。
正しくないことをして正されたなら
感謝こそされるべきだなんて思っているかもしれない。

そうすると、突然の別離や
相手方の再起不能を受け入れるという事態が起こりかねない。
そしてその理由に気が付ないならば、
不幸の感じ方が加速度的に強まってしまう。

覚えのある人にだけ理解してもらえばよいし、
一緒に考えてもらえばよい。

では、

1 怒りを抑えることが難しい理由 怒りのメカニズムから

怒りを抑えることは難しい。
魔法の呪文のようなものはない。
そのことをまず説明する。

怒りを抑えることが難しい理由は、
人間の能力が貧弱なことにある。
人間は、一度に複数の事柄に意識をフォーカスできない
ということだ。

かゆい時は暑いことを忘れ、
熱いと悲鳴を上げているときは痛いことを忘れる

転んで尻が痛いときは今まで考えていたことを忘れ、
怒っているときは、冷静な思考ができなくなる。
冗談に笑っているときは不幸も忘れる。

この貧弱さは、必ずしも悪いことばかりではない。
ただ
「かわいそうだからやめよう」という思考は
怒りが継続しているときは出てくる余地がないのである。

意識のフォーカスは一瞬にして切り替わる。
このため、感覚としては
二つが同時にフォーカスされているように思ってしまう。
しかし厳密に分析すると前後関係が必ずある。

しかも怒りは一瞬で終わることは難しい。

なぜならば、怒りは
相手を叩きのめすための
自然が用意したツールだからである。

怒りは、自分に降りかかった危険を排除する手段である。
先ず危険を意識的にか無意識にか、感じていることが前提だ。
その上で
相手に勝てるという判断、あるいは
仲間のために勝たなければならないという判断が
怒りを導く。
勝てないと思えば恐れに導き逃げる。これが生き物の原則だ。

怒りを覚えて危険を除去するためには、
相手を最後まで叩き潰さなければならない。

情けが入り手加減してしまうと
相手を逃がして、後日報復されたり、
その場で逆襲されてこちらが致命的になる。

そのため、相手を叩きのめして危険を除去するため
怒りという感情が相手を叩きのめしやすくさせてくれるわけだ。
情けや、共感や、後先という思考を排除するのが役割だ。
怒りは、「かわいそうだからやめよう」ということを
刺せない仕組みと言ってもよいだろう。

だから仲間に対して怒るときは、
怒りによって
仲間ではなく、相手は敵になってしまい、人間ではなくなってしまう。
容赦なく攻撃をしてしまう。

怒っているときも
ふと怒っている自分を自覚して
怒りをやめるということはある。

しかし、やはり厳密に考えると
怒りが中断して、その後で
理性的にものを考えることができるようになっただけである。

「いや怒っていながらやめようとした」と主張する人はいるだろう。
その感覚にも理由がある。

怒りのフォーカスが外れても、
怒りで起きる生理的変化である
心拍数の増加や血圧の上昇を
体性感覚で感じているから
怒りが持続していると意識してしまうのだ。

しかし、その体性感覚を残しつつ、
怒りのフォーカスがぼやけたから立ち止まることができる。

怒っているときは理性が働かない。
理性を働かせるためには、
順番としてまず怒りを鎮めなければならない。
理性で怒りを止めようとしても無理であるのは
そういう理由による。

ところが、市販の怒りを鎮める方法は、
理性で怒りを鎮めようとする方法であるか、
怒りを予防する方法である。
だから、ひとたび怒りだしてしまうと
止めることがなかなか難しいことは当然なのである。


2 怒りを中断し、理性を働かせる方法 エラーパターンの認識

魔法のような呪文がないのだとすれば、
事前にエラーパターンを学習するということが
怒りを中断させる方法として
有効な方法になるかもしれない。

近年ノーベル経済学賞の受賞者を多数輩出している
行動経済学の応用である。

エラーパターンは教科書を探してもみつからない。
一番の教材は、つい最近自分がやったことである。

怒ってしまったことを、きちんと反省するということである。
反省と言っても、悔やんでいただけでは何の役にも立たない。

反省というのは次の3つのことを考えることである。

第1に、自分の行為で相手がどのような気持ちになったのか
ここでかわいそうだということを考えることができなければ
相手にとってあなたが仲間であるメリットが見えなくなり、
デメリットばかりを感じるようになるだろう。

基本は相手の立場に立ってみて
相手の心細い気持ち、情けない気持ち、逃げ場のない思いを
追体験することである。
かわいそうなことをしたなと思うまで考えるべきだ。

第2は、どうして自分はそこまで怒ったのかを考える。
かけがえのない仲間の気持ち以上に大切なものが
本当に存在したのか。
怒りによって回避したいと無意識に感じたのは
危険を感じたからである。
自分はどんな危険を感じていたのかを思い出す。
(通常は、馬鹿にされる、損させられる等のつまらないこと)

実は、自分が感じていた危険の多くの部分は、
本当は職場や社会など他の人間関係のうっ憤であり、
八つ当たりしていたのではないかということを
本気で考えよう。

第3は、怒るタイミングで、この反省を思い出す工夫を考えることだ
自分の心拍が上がってきたり、
血圧が上がってきたリ
体温が上がってきた場合に、
すかさず相手がかわいそうだと思う訓練をするということだ。

怒ったら相手をかわいそうと思う
そういう条件反射をする訓練だ。

だいたい人間は、
まず怒り(心臓を中心とした生理的な反応が起き)、
その次に怒りの感情を言葉にする。
感情にまかせた行動をする。

このタイムラグが貴重である。
言葉が出る前にかわいそうだと思うようにする。
一瞬怖い顔になっても、
言葉など態度に出なければ
相手を不快にしない可能性が高くなる。

また、怒りの言葉を聞かれ、表情を見られても
その言葉に反応をして、怒りが中断できれば、
うまくいけば相手はあなたを評価してくれるだろう。

つまり、特定の仲間である例えば家族、恋人に対してだけ、
怒りを覚えたら、怒りを鎮めるという
条件反射の仕組みを作るということだ。
パブロフの犬になろうということで、

これなら、「理性で怒りを鎮める」という非科学的な方法論よりも
情動を中断させる方法論として
科学的であり、有効であると思われる。

これは同時に、相手の気持ちを考える訓練にもなる。
相手の気持ちを害することをやめ、
自分を抑える姿を見せることは
相手に対する愛情をアピールすることにもつながるかもしれない。

相手があなたの努力に気が付かなくても
徐々に、あなたに対する安心感を強めていくことだろう。

つまり、自分と仲間と協調する訓練であり、
幸せになる訓練であると考えている。


仲間に対する怒りのもととなる危険は
対人関係的危険であることが圧倒的多数である。
対人関係的危険については
対人関係学のホームページを参照していただきたい。
このページの左上にボタンもあります。

nice!(0)  コメント(0)