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感謝や謝罪の言葉に心をこめようとするからダメなのよ。先ず幸せを盛る器を作ること、心は後からついてくる [家事]



<家庭の危険度は会話の量ではかることができる>
<感謝や謝罪が口に出ない理由>
<感謝や謝罪をする大人の理由>
<慣習、礼儀、エチケットの目的>
<言葉の二つの源泉>
<幸せは作るもの、その方法・抹消から中枢へ>

<家庭の危険度は会話の量ではかることができる>

離婚事件等の家事事件を担当していると、
家族に不具合が生じている場合、
会話が極端になくなっていることに気が付きます。

一方は、なにかを不満に思っていて会話を拒否しているのです。
でも他方は、
忙しいとか、他のことに気を取られてとか、あるいはあきらめていて、
会話が少ないことにも気が付いていないことが多いようです。

挨拶することは最低限必要です。
「おはよう」、「お休み」、「言ってらっしゃい」、「お帰りなさい」。
それは比較的できることが多いようです。

ところが、
自分のために何かをやってもらった時の感謝の言葉が出なかいとか
あなたの行為で相手が不愉快な気持ちになっているのに
謝罪の言葉が出ないとか
そういうことで不満がたまり
たまった不満の量だけ心が離れていくようです。

せっかくあなたのためにやったのに
当然受けるべきねぎらいがない
という場合は、結構深刻な疎外感を受けるようです。

<感謝や謝罪が口に出ない理由>

なぜ、感謝や謝罪の言葉が出ないのでしょう。

むしろ誠実でまじめな人に多いようですが、
感謝や謝罪は心をこめなければならないと固く考えていて
心が十分感謝や謝罪の気持ちに達していなければ
言葉にしないという誤った生活習慣が
身についているような気がします。

例えばせっかく料理を作ってくれた、日曜大工をしてくれたのに、
自分が思った出来栄えではないので感謝しないとか
相手が不愉快な気持ちになっているのはわかるけれど
それは自分だけが悪いわけではないから謝ることはできないとか

心をともなわない言葉は出したくないと言っているようです。

子どもならばわかります。
子ども親に何でもやってもらう存在ですから。
例えば赤ん坊は、
泣いている原因が親がお腹がすいているからだろうと思い
ミルクを与えていても
本当はおむつが汚れているから泣いていれば
ミルクをもらっても泣き止みません。
自分勝手で許されるのです。

親は言葉も分からない年齢の子どもに
「ごめんごめんおしめだったね。」と話しかけ
要求にこたえるわけです。

これを大人がやってはダメなのです。
家族なのですから。

一つは大人になり切れていないという問題が原因としてあるのでしょう。

もう一つは、子どものころの教育の問題もあるかもしれませんね。
学校で叱られてふてくされてごめんなさいと言っても許されず、
「ちゃんと心をこめて謝りなさい。」とか言われたり、
友達に感謝しなさいよとか言われて、おざなりにありがとうと言って
「ちゃんと心をこめて感謝しなさい」と言われたりしたのでしょう。

これは間違いです。

心をこめないから怒られるのではなく、
言葉は感謝、謝罪をしていても態度が感謝、謝罪をしていないから
相手が感謝されていると思わない、謝罪されているとは思わない
つまり相手に伝わらないからだめなのです。

その証拠に、心は謝っていなくても
それらしく謝って解放されたでしょう。

これはずるいことでも卑怯なことでもありません。
感謝、謝罪の目的を考えればすぐにわかります。

<感謝や謝罪をする大人の理由>

感謝や謝罪をする理由はと尋ねたら
誰でも正解にたどり着くでしょう。
感謝は、相手をねぎらうためです。
謝罪は、相手の気持ちをとりなすためです。
つまり相手の心に対する手当です。

自分の気持ちなんてどうでもよいわけです。

肝心なことは相手にどう伝えるかということ
それ以上のことは、相手には関係ない。
心無い言葉ばかり口にしたことによって
自分の心がすさんで、人間性がゆがんだとしても
自分で自分に損害を与えているだけですから
他人に迷惑をかけるものではありません。

問題は相手の心だとすれば
相手がやってくれたことで、満足できなくても
とりあえず感謝をするということも必要ですし、
自分が悪くなくても相手が不愉快な気持ちになっているなら
ごめんなさいと言って相手の気持ちをとりなしてあげてよいわけです。

これが日本語の「ありがとう」、「ごめんなさい」だったのです。
赤ん坊のように誰かに自分の思い通りのことをしてもらう
自分こそが他人の評価者だ
という態度を大人はしなかったのが、
昔の日本だったはずです。

今の日本の離婚の一番の原因が「性格の不一致」です。
しかし、子細に本音を分析すると
自分の感情に気が付いてくれなかった
自分がしてほしいと思っている(だけの)ことをしてくれなかった。
要するに、「自分の思い通りにしてくれない」という
赤ん坊的な理由のことをそれらしく言っているだけ
ということが多いように感じます。
相手に何かをしてもらおう、しかも
自分が言わなくても気が付くべきだというように感じられます。

赤ん坊が親に従属しているように家族に従属しているように
思えてならないことがあります。
それだから幸せにならないのだと思います。
自分を幸せにしてくれる人を待ち続けるしかないからです。
そんな人は現れません。

幸せというものは作るものだと思うのです。

<慣習、礼儀、エチケットの目的>

慣習や、礼儀、エチケットは守るべきものですよね。
それはどうしてでしょう。
基本的には、人間関係を円滑にさせるものですが、
相手に失礼のないように、相手に不愉快な思いをさせないようにして
人間関係を円滑にする
というのも一つの考えで否定されるべきではないでしょう。

私は、そうではなくて、これらの始まりは
相手を不愉快にさせないためというよりは、
人間関係を楽しいものにしてみんなが幸せになるため、
というようにマイナスをなくすという発想から
プラスを作るというゼロの先のプラスという発想が大切ではないか
と考えています。

感謝の言葉や、謝罪の言葉もそう考えたほうが
人生楽しくなるように思うのです。

何かしてもらったらありがとうという
相手が不愉快ならばごめんなさいという。
そうすると相手も
いいえどういたしましてと言えますし、
こちらこそごめんなさいといえるわけです。

だから、「ありがとう」は、「どういたしまして」とセットですし、
「ごめんなさい」は、たとえば「こちらこそごめんなさい」
とセットのエチケットシステムなのです。

自分がないがしろにされていなくて尊重されているなと
実感することができます。
何か不満があっても、自分が尊重されているというと
安心することができます。
尊重されていると思うし、相手が自分に敵意がない
ということも実感できます。

エチケットや礼儀、慣習は
尊重されていないと不安になる人をなくして
安心して暮らすための人間の知恵だと考えられないでしょうか。

<言葉の二つの源泉>

ありがとうとかごめんなさいという言葉を発することを
おすすめしているわけですが、
これを阻む壁のような考え方があります。
言葉というのは、「大事なことを伝達するためにある」
という考え方です。
大事なことを、正しいことを、合理的に伝えるのが言葉だ
という考え方は、
言葉を発する原因とそれにふさわしい言葉を
吟味してしまうようです。

危険があることを知らせる言葉、
危険の回避の方法を知らせる言葉
このような危険対応のための言葉も
言葉の始まりの一つだと思います。

この言葉の正当な後継者が今に言うところの「指図とダメ出し」です。
これも必要な場合はあるのです。

もう一つの言葉の源泉が
ロビン・ダンバー先生の学説で
サルの毛づくろいに代わるものだというのです。
コミュニケーションの手段だというもので、
もっと言えば、安心しあうためのもの
というものです。

指図とダメ出しこそが言葉だという
現代型労務管理理論では無駄話だとして排斥される会話こそが
本来的な言葉だという主張です。

私はどちらが言葉の成り立ちかということについて議論するよりも
両方が言葉の別々の源泉だと考えています。

「緊張させる言葉」と「安心させる言葉」ですね。

緊張させる言葉ばかり使われる環境では、
人はその環境から離脱したいと思うようになるでしょう。
これが現代の離婚の一番の多い理由です。

つい指図とダメ出しばかりになりがちだからこそ
意識して安心させる言葉を話す必要があるわけです。
感謝、謝罪、そして挨拶です。

意外なことに、心をこめて話そうとする誠実な人は
感謝や謝罪の言葉が足りなくなるようです。
自分の心なんでどうでもよい
相手の心を手当てするんだという要領の良い人が
幸せになりやすいということは致し方のないことです。

人が自分に、自分たちのために
何かしたら、あるいは何かを我慢したら
条件反射的にありがとうというべきなのです。
そこで考えては言葉が出なくなります。
相手の出来栄え点を評価しようとすることが最もいけないことです。

相手に不愉快な思い、悲しい思い、怒りの思いなど
何らかの危険を感じ不安を感じていたら
自分だけが悪くないとしても
ごめんなさいというべきなのです。

これは言葉の二つの源泉のうちの一つの使い方として
全く正しいことなのです。


<幸せは作るもの、その方法・抹消から中枢へ>

おそらくここまでお話しても
心の伴わない言葉は不誠実だとおっしゃる方はいらっしゃるでしょう。
私もつい最近までそう考えていたように思います。

でも、心は後からついて来ればよいのではないでしょうか。

まず、決められたこととして
誰かに何かをやってもらったらありがとうという
ありがとうと言われたほうはどういたしましてという。

誰かが不愉快な気持ちになっていたらごめんなさいという
ごめんなさいといわれたこちらこそごめんなさいという。

誰かが自分のために何かを我慢したら
ありがとうまたはごめんなさいといい、
言われたほうはそんなことないよ言ってくれてありがとうという。

まず、感謝と謝罪という、相手の心をケアしあう言葉を
自分たちの関係の中にあふれさせる。
安心の言葉を発しあう人間関係を作るということです。

これはすでに幸せな人間関係になっている関係の中では
意識しなくてもあふれていることなのかもしれません。

もしあなたが今不幸だとするならば
そして幸せになろうとするならば、
こういう幸せの器を作ることが
実は王道なのではないでしょうか。

極端な話ですが、うそでもよいから
感謝の言葉、ねぎらいの言葉、思いやる言葉あふれる家庭であれば
(もちろん、態度も伴うのですよ)
それはもう、幸せになっているのではないでしょうか。

不幸を感じている場合
うなだれて歩くことが多いと思います。
幸せを感じているとき口の端が上がってにこにこしていることが
やはり多いと思います。
脳が、体に指令を送って態度を作っているようです。
中枢から抹消へと神経がリレーしているわけです。

えらい心理学者の話を直接聞いたのですが、
この逆もまた真で
多少不幸を感じていても
胸を張って歩くと気持ちが明るくなるし、
口角を上げていれば楽しくなる
ということがあるとのことです。

体を幸せの形にしてみると
脳が勝手に幸せを感じるようです。
これが抹消から中枢へということになります。

人は一人では幸せになれないようです。
そもそも幸せというのは、
自分の対人関係の中で自分が尊重されて生活することで、
自分だけが尊重されるということも
赤ん坊ではないのであり得ないことです。

まず、自分が家族の幸せのために努力する
そうすると家族もそれにこたえようとするはずです。

肝心なことは「自分の気持ち」ではなく、
相手がそれを知りうる言葉ですし、態度なのです。
相手に伝えてあげようとする行動なのです。

感謝と思いやりのあふれる家庭が幸せの結果なら
まず、感謝の言葉思いやりの言葉という幸せの器を作る
ということが幸せになろうとする方法だと思います。

その器ができた段階ならば
あるいはみんなで器を作ろうとする気持ちが重なるならば
器には、すでに幸せの心が盛り付けられているはずだと思います。

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連れ去り事案で、わが子の所在を探す行為にストーカー規制法の適用を示唆することは問題があることとその理由について [刑事事件]



表題は長ったらしく書けなかったので改めて書くと
「婚姻中の一方が子どもを連れて家から去り所在が分からないために、他方が我が子の所在を探す行為に対して、ストーカー警告を示唆して警察がやめさせる行為は法律上の問題があると思うこととその理由」
というものです。

注意:これは私の見解を述べるものであって、
法律上一般的にこのように扱われている
ということではありません。

<場面設定>

・子どもがいる夫婦の事案
・離婚はしていない
・一方配偶者から他方配偶者に対する暴力のない事例
・一方配偶者が共同住所地から子どもを連れて家を出ていった
・家を出ることの事前予告がなかった
・現在の所在がはっきりしない
(子どもは学校や幼稚園に行っていない)
まあ、つまり典型的な子連れ別居というわけですね。

こういう場合、残された配偶者は
何が起こったのかさえ分からない状態です(一番目の混乱)。
家族が事件に巻き込まれたのではないかと考えます。
子どもの安否が知りたくて別居親の実家や職場などに
連絡を取るわけですが、
私は、これは人として当たり前の行為だと思います。
我が子が無事で元気にいることを確認したいということも
親として当然の要求だと思います。
違うという人はいるのでしょうか。

<警察の関与例>

最近は一応残された親からも事情を聴くため呼び出すようです。
でも実質は、事情なんてろくに聞かないで、
身体的暴力のないことが確認できた事案であっても
「子どもは無事だ」
「居場所は言えない」
「探してはならない。」
「探したら、ストーカー規制法で警告を出すかもしれない」
と言われるようです。

ストーカー規制法の警告を出すと警察から言われたら
ふつうは自分が逮捕されると思うわけで、
心理的に探すことができなくなります。

(しかし、こういうことを警察が言うということは
「心当たりがありそうな場所に配偶者と子どもがいて、
探そうと思えば探すことができるから
そこを探してはならない」と言っているようなもので、
実際に別居配偶者の実家にいることが多いです。)

残された配偶者(通常警察関与の場合は父親であるので以下父親と言います)
父親は混乱するわけです。
なんで自分側がこの心配をして探そうとするのを
警察から禁じられるのか
どうして自分がストーカー犯人扱いされるのか
どうして妻子はいなくなり、今どこにいるのか
子どもは、学校はどうなるのか
一度に色々なことが頭の中を駆け巡り、
うつ状態になる人が多くいます。
実際に精神科医を紹介しなくてはならないケースも少なくありません。
(2番目の混乱)

さて、そのストーカー警告というのを見ていきましょう。

<ストーカー行為等の規制等に関する法律>

問題になるのは、まず、ストーカーに該当するのかということです。

ハードルは、
1 目的が、「特定の者に対する恋愛感情その他の行為の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的」があったと言えるか。(2条本文)
2 つきまとい行為(①相手の住居等に押し掛け、又は住居などの付近をみだりにうろつく、③面会、交際その他の義務のないことを行うことを要求すること、④著しく粗野又は乱暴な言動をすること、⑤拒まれたにもかかわらず電話やメールをすること)という2条各号の付きまとい等と言えるか

3 この二つに該当して相手方に身体の安全、住居などの平穏、もしくは名誉侵害、行動の自由が著しく害させる不安を抱かせること
という1,2,3が揃えば、法律で禁止された行為ということになります。

4  そして相手方が警告を求める上の申し出をして
①3の行為が実際あり、
②今後も反復して行う恐れがあると認める時は、
③警察署長名等で警告を出すことができる 4条1項
となり、
④相手方の申し出でによって公安委員会が「禁止命令」をすることできるとなり、5条1項

5罰則
ストーカー行為をしたものは1年以下の懲役または100万円以下の罰金 18条
「禁止命令」があるにもかかわらず禁止行為をした場合は、2年以下の懲役または200万円の罰金ということになります。 19条


本来付きまとい行為が実際にあった時(4の①)に
警告が出されるという法律ということが本来なのです。
ここはポイントです。

直感的におかしいと思うのです。
暴力のない事案ですよ。
心配して実のわが子を探して歩くことに対して
どうしてストーカー呼ばわりされなければならないのでしょうか。
それを警察とはいえ、他人から言われなければならないのでしょう。

その疑問は、実はいわゆるDV法との関連で益々膨れ上がるのです。

<配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律 DV法>

DV法でも禁止命令みたいなのがあります。
「保護命令」というのがあり(10条)、その中でも
接近禁止命令というものは、
ストーカー規制法の公安委員会の禁止命令と似ています。

そのハードルは実はDV法の方が高いのです。
つまり、
第1に裁判所が決定を下す。
訴訟法上の証拠に基づいて裁判官が事実認定をするということです。
これに対してストーカー規制法は、警察ないし公安委員会が認定し
訴訟法上の制約は法定されていません。
第2に、
・実際に身体の暴力または生命に対する脅迫があったこと
・将来に向けて生命または身体に重大な恐れが大きいこと
この二つに該当しなければなりません。

先ず、警察や公安委員会ではなく裁判所が行うということで、
客観的な証拠が揃っていなければならないということ、
次にストーカー規制法は暴行や身体生命の危険までは必要ではないけれど、
DV法の保護命令は暴行または重大な脅迫があったこと
そして身体生命の「重大な危険」の恐れが「大きいこと」
というかなり高いハードルになっているという違いがあります。

ちなみに保護命令に違反した場合は
1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科されます。
ストーカー規制法の禁止命令違反の半分です。

さらにDV法では
警察が必要な措置をする場合には
身体的な暴力があった場合でなければならないと明示されています(8条)。

このように厳密なハードルを設定して
本来自由である行為の制限に慎重になっているというのが
DV法です。

特に警察の関与ができる場合について、法律は、
どうして身体的暴力があった場合に限定したのでしょうか。

これは警察庁の生活安全局長、長官官房長、刑事局長が
平成25年12月20日付で通達を出し
https://www.npa.go.jp/pdc/notification/seian/seiki/seianki20131220.pdf

その中で明らかにしています。

「精神的暴力や性的暴力は犯罪に該当しない行為を幅広く含むものであるため、警察がこれに実効ある措置をとることは困難であり、他方、警察による配偶者間の問題に対する過度の関与となり、その職務の範囲を超える恐れがあると考えられるためである。」
きわめてまっとうな常識的な説明です。

そして援助が相当でないときとして
暴力がない時、求める援助が規則で定めたものでないとき、
目的外使用
の3例を通知しているのです。

この通達自体は素直に頭に入るのですが、
夫婦間にストーカー規制法の適用が許されるとすると
違和感があるのです。
そのことについて説明します。

<ストーカー規制法とDV法の関係>

DV法は、夫婦等の場合、
警察が動けるのは身体的暴力があった場合なのです。
だから、身体的暴力がない場合は
夫婦の問題に警察が口を出すのは、
「過度の関与」であり、
「職務の範囲を超える」恐れがある
とまで言っているのです。

それにもかかわらず、
身体的暴力がないにもかかわらず、
子どもの安否確認のための行為をしようとすることに
ストーカー警告をちらつかせて
警察官が私人の私的行為をやめさせる行為が
許されるということは整合しません。

DV法及び通達に反する行為ということになります。
DV法とその通達で許されないとした警察の行為が
ストーカー規制法の適用で許されるならば
DV法とその通達で禁止したことが無意味になってしまいます。

少なくとも身体的暴力がない限り
(犯罪を構成する行為もない場合)
警察は夫婦の問題に介入してはならないはずです。
(その夫の行為が道徳的に許されるかという問題と
 法律の対象となるかについては別問題です。)

設定した場面(実際にあった事例)は
身体的暴力がない事例ですし、
ストーカー警告は、DV法の規定した援助方法でもありません。

そうすると今度は逆の疑問がわいてきます。
たまたま夫婦であることでストーカー被害の保護を受けられないのも
不合理ではないかというものです。

私は、これらの矛盾を解決するためには、
本来ストーカー規制法は
夫婦や内縁者ではない場合を規制した法律だと
割り切る必要があると思います。

即ちDV法は家庭の中の話ですが
ストーカー規制法は家庭の中の話ではないので、
警察権力が介入する余地が大きいということならば
整合するように思えるのです。

夫婦は両性の合意で成立しますから
たまたま夫婦だったということはありません。

このように二つの法律がある場合
矛盾しないように解釈しなければならないのは
法解釈の鉄則です。

だから、原則として
DV法の適用のある場面では
ストーカー規制法の適用の場面はないか
極めて限定されていると解釈しなければならないのです。

DV法があるためその関係で
ストーカー規制法の保護が及ばない領域が生まれるのです。
それは「法は家庭に入らない」という原則からも
導かれるものであろうと思います。

ストーカー規制法21条も
法律の濫用による行動の自由を不当に制限しないようにと
わざわざ一条を設けて規定しているのもうなずけます。

<設定場面の警察の解釈の何が問題だったのか>

設定場面の警察の問題がいくつか見えてきたと思います。

先ず、実際のストーカー行為がないにもかかわらず、
ストーカー警告を示唆したのは
ストーカー規制法の規定を誤解させて
不当に私人の私的行為を警察が制限する行為なので、
ストーカー規制法の運用上も問題があると思います。

このように法律の規定を誤解させるような法の教示は、
行政官たる警察官が行ってはならず、
法の目的外執行をしている可能性があるということです。

次に、いなくなった子どもを探す行為が
付きまとい等に該当する可能性があるとしたのも
なすべきではない法の解釈をしたということになると思います。

父親は親権者です。
親権者が扶養義務のある我が子の安否を確認することは
法律上も義務の内容にあるはずです。

まずもって、「特定の者に対する恋愛感情その他の行為の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的」
という評価をしてはならないのです。

そうすると子どもを言い訳に押し掛けた場合はどうするのだということになりますが、
暴力もその他犯罪行為もない場合は、
それを国家権力によって妨害することはできない
これが法律の原則です・
子どもがいる以上仕方がないということになります。
暴力がある場合は、DV法の保護命令で対処する
これが国家意思です。

次に、この場合は、住居に安否を確認に行くということは合法となりますし、
面会は、義務無き行為を強要したということにならなないはずです。

電話やメールで安否確認をしようとすることは当たり前で
これを権力で妨害することはできないということです。
私はこの解釈が、常識的だと思います。

設定場面での警察官の行動は、
DV法がある以上は、
職務の範囲を超えた法律となる可能性が高いと
考える次第です。

このような実態はいろいろな方法で報告されていると思います。

今必要なことは
人権感覚のある国会議員が
国会質問で
警察の権限の範囲を明らかにすることだと思います。

人権感覚のある国会議員は、

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大切な人間関係でぎくしゃくしている、居心地が悪いと感じる方へ。「どうでもよい領域」を増やす努力をお勧めします。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

離婚事件で、
暴力も、脅迫もないという事案なのに
モラルハラスメントだDVだと主張される場合に、
夫婦の会話が、指図とダメ出しばかりだった
と相手に感じさせていたケースが多いように感じます。

職場や学校でも同じかもしれません。

聞いてみると間違ったことを言っているわけではない。
言わなければならないことを誰も言わないから言っている
そういう感覚を持っているようです。
そうこのブログみたいな人ですね。

しかし周囲は同調してくれません。
注意されるべき人が庇われて
注意した自分に冷たい視線が浴びせられるように感じることでしょう。

「私は孤立を恐れない。生きたいように生きる。」
という方はそのまま頑張ってください。
何とか、自分を変えたい、あるいは、
自分の主張がもう少し受け入れられたいと思う方は
この記事を読み進めてください。

<前提知識、人間は行動の自由が制限されると怖く苦しい>

人間も動物です。
動物の基本は、自分の身を自分で守ろうとするということです。
だから、危険が襲ってこなくても
自分で自分を守ることができない状態だと感じることとは
耐え難い恐怖であり、苦痛です。

例えば目隠しをされるとか、騒音で危険の予兆を聞けないという
感覚を遮断された場合、
手足を縛られるなどの行動を制限された場合、
具体的な危険がなくても、恐怖を感じ、苦痛を感じます。

心理的にも同じようです。
典型的なことは
やることが多すぎる場合と
自分の判断でやり方を決められない時です。

例えば、他にやろうとしていることがあるのに
あれもやれこれもやれと言われる場合(心理的感覚遮断)
何をやっても先ず不十分な点を指摘され
どうしてよいかわからなくなっている場合(心理的行動制限)ですね。

<心理的に圧迫を加えた相手は苦しくなる>

例えば妻が離婚を切り出す典型的な場合、
夫は、妻にとって
自分の身を守ることを妨害する攻撃者であり、
自分に恐怖を与える嫌悪の対象になってゆきます。
一緒にいることが嫌で嫌でたまらなくなるようです。
安心して一緒にいることができなくなりますよね。

夫の言っていることが間違っていなくてもです。
間違っていなくとも、自分で自分を守ることができなくなるから
やはり恐怖や嫌悪が襲ってくるからです。

良かれと思って、
あるいはそれが合理的だから、
あるいはそれが正義に反するからと
口を出す理由はもっともなことが多いのですが、

それが蓄積していくと
そんな些細なことで口を出して
相手を不愉快にした上、自分のポイントを下げる
という不合理なことになるようです。

<なぜ口を出すか>

元々相手が、自分にとってどうでもよい人なら
あれこれ口を出すということはなさそうです。
どちらかというと、自分と利害関係が一致し、
自分としても一定の水準を期待している人
そういう相手だからこそ口を出すように見受けられます。

愛情の表現の場合、愛情の裏返しの場合もあれば、
自分勝手な、自分の利益追求の場合もあるようです。
自己保身で相手の落ち度を探すということもないわけではないようです。
ここでは、愛情関連を考えてみます。
利益一致型ですね。

相手に求める一定水準は、かなり頭の中の理想の場合が多く
妄想に近いイメージの場合があるようです。
自分と同じことを考えているはずだという無茶が
「当たり前」になっています。

だから、自分の求めるところと違うところを批判するし、
足りないところ、失敗、落ち度ばかりを探すようです。
言わないと自分が不安になるのかもしれません。
そういうネガティブなところに意識のフォーカスがあたっているために、
感謝の気持ちはなかなか意識には上りません。

知らず知らずのうちに
自分の頭の中と同じ頭の中を求めているし、
自分の理想を実行することを求めてしまっているわけです。

<ではどうするか>

本当は、相手は自分の愛情を注ぐ対象だと
そういうところをしっかり意識して、
自分の外にある存在だということを自覚すればよいのでしょうが、
なかなかそれはできません。

相手のすることについて
「それはどうでもよいことだ」という領域を作り
できるだけ増やしていくということが有効だと思います。

どうでもよい領域で相手がしたことは
批判しない。感謝だけ口にするということです。

例えばその日の夕食を妻に任せたとします。
作り方や出てきたものについても批判しない。
口や態度は感謝だけを表す。
これは、「男子厨房に入らず」のエッセンスだと思います。
もちろん夫が食事を作ったときは
酒の肴ばかりだとかめんつゆ使ったものばかりだとか言わない。

例えば子どもの髪形についても
校則に違反しないなら子どもに任せる。

例えば、部下に任せたリサーチのまとめ方が悪くても
文句を言わずにどうフォローするかだけ考える。

心がこもらなくても感謝の言葉を発する。
これが基本です。
相手が不愉快な思いをしたら、
自分が悪くなくても詫びる、気遣う
これが日本民族の伝統だったはずです。

その代わり、自分の思うようにやってくれた
感謝を忘れても大喜びをする。
こうやって相手を少しずつ誘導していくということを
理想にいたしましょう。

<何がどうでもよい領域か>

どこにどうでもよい領域を作るかですが、
今述べた「相手に任せたこと」
「相手が自分のためにやっていること」
これは基本です。

それから、結果を出さなければメリットはなく
あなたが嫌われるというデメリットばかりあるのですから、
「言っても仕方がないこと」は言わない。
あなたが効果的に相手の行動を機嫌よく修正できるなら口を出しましょう。
「相手を不機嫌にさせる」ならどうでもよい領域なのかもしれません。

それから、自分で自分の身を守りたいという人間の本能がキモですから
「相手が自分で考えてやっている行動」は
できるだけ口を出さないということが基本です。
口を出すならよくよく出し方を考えましょう。

子どもに自分の部屋を与えたら
病気になりそうにならない限り片づけを我慢するとか
嫌がられないように片付けるとかということなのかもしれません。

「相手のプロパーのこと」はどうでもよい領域でしょう。
化粧とかファッションとかですね。
金がかかりすぎるというのはプロパーではないかもしれませんが。

<どうでもよい領域をどう増やしていくか>

模擬試合みたいなことで使えるのは
SNSです。
私たちみたいなつい口を出してしまう事例に不足はないようです。
特に男性は多くいます。

何でもかんでも否定的なコメントをするという人は、
フェイスブックでよく見られます。
他人の立てたスレに、
言わなくてもよいコメントをしてスレ主を不愉快にする人、

自分の問題意識が勝ちすぎて
論点がずれていることをかまわずにコメントしてしまう人などは
第三者から見ると(第三者も見るのです)、
罪のない人に言いがかりをつけてへこまそうとしている
としか見えません。

フェイスブックのあなたの友達が間違ったことを言っても、
日本や社会に影響が出るということはほとんどありません。
例え議論がかみ合っている場合であってさえ、
あなたが正義感を発揮させる理由なんてなにもないと
思えるコメントが見られることがけっこうあります。

もしかしたら、そういうコメントが
リアルな人間関係で
あなたが大切にした人にしていることの客観的な姿かもしれません。

そういうSNSをこのブログに書いたような観点から見て
ああ、これがどうでもよいことに口を出しているのだなと
勉強することもできますし、

思い込みや、間違いだらけの記事に対して
突っ込みを入れたくなるのを抑えるという
実践的な訓練もすることができます。

SNSは、他人のどうでも良いことばかりなので、
一切他人の記事にコメントをする必要はないのです。
そうしてどうでもよいことに対して
賛成できる部分に賛成したり、
近況を気遣ったりするという技を身に着けることができるかもしれません。

そうして、余計な口を出すということは
何かしら、自分自身を守っている場合なんだなということが
うっすら分かるようになれば、
自分の大切な人を大切にする方法が分かってくるし、
それが自分を守る最適な方法なんだということが
見えてくることと思っています。

自戒を込めて。

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特攻隊員の心情を肯定的に理解しなければ平和運動は上滑りした危ういものになるだろうということ [進化心理学、生理学、対人関係学]



<元特攻隊員の会見>

先日、ネットニュースで特攻隊員の生き残りの90歳代の兄弟が
その心情について会見を開いていました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191122-00000037-mai-soci&fbclid=IwAR1VK_0vwCjm648jaSC8-zTZhoeX9CCxMFKZM4Knv-U1dBtZq4LTTkv_T0Y
それというのも、
娘と特攻隊の展示館で、特攻隊員の遺書が展示されていて、
娘さんは、亡くなった方々が、
「教育を受けて勇ましく死のうと思ったのね」
と言ったことがきっかけだったそうです。
その遺書には、家族にあてて心配するな
お国のためだから喜んで死ぬ
というようなことが記載されていたようです。

これは違う、
こういう誤解は生きているうちに訂正しなければならないということで、
元特攻隊員の兄弟は会見を開いたとのことでした。

<元特攻隊員の話を考えてみた>

何が「違う」のか。

第1に、死ぬのは怖かったそうです。
第2に、喜んで死ぬと書いたのは、家族に向けた配慮だそうです。
恐怖の中で嫌々死ぬと思うと家族が悲しむので、
家族の苦しみを軽減させるためにそういう
いわばリップサービスをしたとのことでした。
第3に、何か自分が死ぬことが大義を受けてのことだと思わなければ
やっていられなかった
ということを説明されています。

つまり、戦前の軍国主義教育によって死ぬことが怖くなくなったのではなく、
「家族に心配をかけない」ということで
「大義のために」ということで
死ぬ恐怖を軽減させる工夫をしていたということになります。

余裕をもって死を迎え入れたのではなく、
いずれに死ぬことになる客観的情勢なので、
少しでも死の恐怖を軽減させようと
追い込まれた結果が勇ましい遺書だったわけです。

死の恐怖を軽減する方法としては
仲間のための行動をすることが有効です。
人間はそのようにできているからです。

言葉のない群れを作ることができたのは、
襲われている仲間を
みんなで助けようとする性質があったからだと思うのです。
(袋田叩き反撃仮説)

平時に野獣を見たら逃げるでしょうが、
いざ仲間が襲われていれば
怖いという気持が不思議と消えて
みんなで野獣を袋叩きにしたという仮説です。

これがなければ、人類なんて死に絶えたことでしょう。

つまり仲間のために身を挺するというのは
人間の本能なのです。
ただここでいう「仲間」は、おそらくせいぜい数十人くらいで、
いつも一緒にいる人たちでしょう(ダンバー数と単純接触効果)。
例えば家族です。

国を守る、民族を守るというのは
人数が多すぎるのと抽象的な存在なので
守ろうとする本能はないと思います。
これは「教育」が必要なのでしょう。
それでも無理かもしれません。

おそらく、見知った親しい仲間を守ろうという強い情動が
自分を守ろうという情動を軽減させるのだと思います。

大義とはこの感情、本能から派生したものですが、
実際は、仲間を守ろうという意識に還元できるのかもしれませんが、
(たとえば国を守るという言葉であっても、
実際に念頭に置いているのは親兄弟だったりするというようなこと)
自分を奮い立たす従的な役割は果たすかもしれません。


<教訓>

1 教育によって洗脳しきらなくても特攻隊に志願することはできる。
  
戦前の軍国主義教育によっても
人間の死の恐怖という本能を打ち消すことはできなかった
ということです。

現時点で戦争は現実的ではないという考えがあります。
それは、戦争を遂行するためには
国家的な洗脳がある程度進まなければならない
戦後の民主主義教育や平和教育によって
戦争を起こすような教え込みはできなくなった
だから現実には戦争に賛成する人はいないだろうと
というものです。

戦争を遂行し、特高指令を受諾するには
そこまで高度な文明支配は必要ではなかったのです。
自分や家族の危機感を認識させれば
それでよかった可能性があるということです。
自分や家族の危機感を抱けば
仲間のために我が身をなげうつという人間の本能が発動されるので、
自分の死の抵抗も下がるし、人も殺せるのです。

現代でも例えば貿易上の軋轢で
日本の生命線が断たれた
このままでは大恐慌に陥って死者が出る
ということを宣伝すれば
戦争を少しずつ受け入れていく危険性があるということです。

戦後教育や、民主主義教育、平和教育と言いますが、
実際の学校はそうなっているのでしょうか。
強い者にまかれろ、上に歯向かうなという訓練が
着々と遂行されているということはないと誰が断言できるでしょうか。

2 特攻隊賛美に対する批判が心を打たない理由

特攻隊員が、国や大義のために死んだのではなく
死の恐怖を軽減するためには、あるいは、
家族を守るため、家族に役に立つためには
勇ましく死んだような形を作るしかなかったという
人間の本能にもとづく行為だったわけです。

賛美するかどうかはともかく
大いに共感できることだと私は思います。

否定されるべきは特攻作戦であり、
それを命じた上層部、とめなかった上層部にあるはずです。
その作戦を考えた時点で、手詰まりであることを認識して、
戦争を投了するべきだったのでしょう。
それでも戦争を継続した上層部は素人集団であったわけです。
元々戦争を始めたこと自体も疑いの目で見るべきだということを
特攻作戦が行われたという事実が有力に示している
それ程の愚策だったわけです。

特攻作戦賛美には反対しなければなりません。
しかし、その中で命を無くした若者たちが
死を恐れ、
家族のためにできる死を恐れていないと
自分は平気だという気づかいをすることによって
死の恐怖を軽減したこと
ぎりぎりの本能的行動を否定してしまったら
それは人間に対する否定になるのだと思います。

素朴で敏感な国民から遊離していくだけだと思います。

<謝意>

勇気を出して真実を語った90歳代の元特攻隊員の兄弟の方の
今回の発言は、とても勉強になりました。
目を開かせていただいたという思いです。

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ダイエットに失敗するメカニズムを理解すると人間の心が200万年前から変わらないから生きづらいということが見えてくる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]


<ダイエットが成功しないメカニズム>

現代社会において、ダイエットは必需品のようです。
容姿を気にしたダイエットが多いのですが、
我々の年代では生活習慣病を意識したダイエットもあるし、
糖尿病や腎臓病のような死活問題である場合もあります。

いずれにしてもダイエットは失敗しがちなのですが、
誰でも経験していることは、
甘いものを見ると、つい手を伸ばしてしまうということや
一度食べてしまうと想定以上に食べてしまう
という甘いものの誘惑です。
つまり、人間は、甘いものを見ると食べたくなってしまうわけですが、
それは、人間の体がそのように設計されているからだ
ということのようなのです。

実は、甘いものを欲しがるのは人間だけではなく、
くまのプーさんははちみつをとろうとしますし、
アリも甘いものにむらがります。
ハチも蜜を求めて飛びますし、
ミミズも甘いものがあれば食べます。

甘いものというのは、化学でいえば
単糖類、二糖類である、砂糖、ブドウ糖、果糖などですね。
極めて簡単な分子結合であるところが特徴です。
複雑な消火システムを抜きに消化吸収されるので、
大変効率が良いです。

また速攻で体を動かすエネルギーになりますから、
生きるためには、どんどん摂取する方が得なのです。
ここは人間もミミズもあまり変わらないようです。

さらに糖分は、形を変えて体内に蓄積することができます。
多くとって体の中に保存した方が有利だということにもなるわけです。
この蓄積されたものが皮下脂肪などということです。

つまり、甘いものを食べようとする行動は、
みて、あるいは匂いで
単刀直入に、食べようという
感情を伴った衝動が起きるわけです。
体の仕組みで起きているから強い衝動ですね。

これに対してダイエットは、
これを食べると太る、だから食べないようにしようとか
これを食べると血圧が上がる、だからたべないようにしよう
という、もって回ったあるいは理性的な行動意欲ですから、
単刀直入の感情を伴った衝動に比べると
人間の行動パターンとしてはどうしても劣ってしまう。

このため、食べてしまってから
後で後悔をするという時系列になりやすいのです。

<甘いものを吸収するシステムの理由>

どうしてこのような迷惑なシステムが作られたのでしょうか。

それはこのようなシステムが作られた時代を考えれば
簡単に理解ができます。

先ほどの例でくまのプーさんだけでなく
アリやハチ、ミミズも甘いものを欲しがるといいましたように、
甘いものを欲しがるということはかなり前
おそらく1000万年前どころではない時代から作られていたのでしょう。

一言で言えば甘いものの極端に少ない時代です。

甘いものは、消化吸収が簡単でエネルギーになりやすい
生きるためにはとても有利なものです。
せっかく甘いものに遭遇したならば
確実にそれを体内に吸収しようとする体の仕組みがなければ、
せっかくの甘いものを素通りしてしまいます。
甘いものを食べたいという感覚を持つことができれば
甘いもの摂取するわけで、この仕組みが
甘くておいしいという感覚を持つことだと思います。

逆に言うと
甘いものをおいしく感じた動物の子孫が
生存競争を勝ち残って生き残ったというわけです。

そして、少ないチャンスを確実にものにするために
甘いものはありったけ食べて体内に蓄積するメカニズムをつくることが
とても有利です。
甘いものがなくても、体に蓄積された皮下脂肪を取り出して
エネルギーとして活用ができれば、
次に見つけるまで生き残ることができます。

特に人間は、脳を発達させて生き延びてきましたが、
この脳はかなりのエネルギーを必要としますから
どうしても糖分を体内に蓄積させて
生き延びようとしたわけです。

このように甘いものがうまい、もっと食べたいというのは、
人間をはじめとする動物の生きる仕組みだったわけです。


<なぜダイエットが必要になったのか>

それでは、生きる仕組みであるところの
甘いものを食べよう、もっと食べようという行動が
様々な病気を発症させるとして
問題になるようになったのはなぜでしょうか。

それは、1万年前くらいから人類は農業を行い始め、
体の中で糖に代わる炭水化物を人為的に生産し始め、
20世紀に入って砂糖を工場で作るようになって
大量生産が可能となり、簡単に入手しやすくなったからです。

そのように砂糖が入手しやすい環境に変わったため
本来ならばむきになって食べようとしなくてもよいし、
その都度食べれば済む話ですからもっと食べようなんて思う必要もありません。
しかし、人間の体はそう簡単に環境に適応しません。
相変わらず体は、何万年も前に形成された
砂糖を摂ろう、砂糖をもっととろうという仕組みのままだということです。

こんなに多くの砂糖を日常的に摂取できるということは
人体の想定外だというわけです。
そのため必要以上に甘いものを摂りすぎて
糖尿病、腎臓病、生活習慣病
あるいは虫歯に苦しむようになったということのようです。

体は、まだ、何万年前のバージョンのままということです。

(このセクションは、ダニエル・リーバーマン「人体600万年史」(ハヤカワノンフィクション文庫))

リーバーマンは、「人体と環境のミスマッチ」と表現しています。

砂糖は必要以上に摂るように体の仕組みができてしまっている。
現代社会は、その想定を超えて砂糖が供給されている
だから、人体に合わせた分量に摂取を抑える
これがダイエットということになりそうです。


<心も体と同じ>

このような人体と環境のミスマッチは
糖の問題だけでなく起きていても不思議ではないと思います。

対人関係学は心にも応用できる問題ではないかと考えていて、
「心と環境のミスマッチ」という概念を提唱しています。
対人関係学のページ 対人関係学の概要・用語
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html

心が形成されたのは200万年前だというのが認知心理学のコンセンサスです。
当時ヒトは、群を形成して生きてきました。
群を形成しなければ生存競争に敗れていたと思います。

言葉のない時代に群を形成するために必要な、
都合の良い心をもっていたはずです。

1 群れの中にいたい、孤立することが怖いという心
2 群れの仲間に共感する能力、神経
3 自分と他人が厳密には区別がつかず、群の仲間が困っていたら自分が困っているのと同様に困り、何とかしようと思う。
4 群れの一番弱い者を守ろうとする。
5 それらの結果、群の仲間が襲われていたら、自分を守ろうとする意識をもてずに集団で反撃しようとする

だいたい現段階ではこのように整理しています。

1は、人間の心理で、これが充足されないと心身に不具合が生じるということで前々回のブログで示したバウマイスターの理論の根幹です。
2 共感は、今やミラーニューロンによるという神経学的な解明が進んでいます。
3は、認知心理学でいうところの単純接触効果の局限的な状態です。当時の群れは、原則として生まれてから死ぬまで一つの群れで生活していました。また、平等が貫かれていますから、利害対立がない。このため単純接触効果が極限まで及んだのだと思います。
4は、現代人も、かわいいという心があるので、実感できるでしょう。この気持ちがなければ、赤ん坊は成人になれず、人類は早々と死滅していたでしょう。
5 袋叩き反撃仮説として、上記のページでも提唱しています。
  もともとはこのブログ記事です。
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
  https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2018-06-19

このような人間の心は、大変きれいごとのように
現代社会では感じられるかもしれませんが、
当時で言えば、死活問題で
そのような心を持たなかった人類は
死滅していったと思います。

そう、砂糖を食べよう、もっと食べようとして生き残ったようなものです。

では、現代の心を取り巻く環境の変化とは何でしょう。
それは、人間の能力を超えた人数との接触と
複数の群れに同時に帰属するということだと思います。

200万年前までは、一度にせいぜい150人くらいとしか
接触がなかったはずです(ダンバー数)。
また一つの群れでしか生活しないのが原則です。

ところが、現代の人間は家族があり、
学校に行き、職場に行く、
マンションという狭い空間に何人もの人たちと生活を共有する。
自分のやりたい行動をしようにも
どこのだれかわからない人と競争して勝ち抜かなければならない。
誰かに親切にするとかえって抗議をされてしまう。
世の中は優しくなく、常に攻撃におびえ、
自分を守るために緊張を持続させなければならない。

学校や職場という空間に同時に存在しても
単純接触効果が起こりにくい状態です。
弱い者は庇われないことが当たり前
自分や自分の家族を守ることが最優先。

誰かを攻撃し、怒りの意識をフォーカスすることによって
自分の現状の苦しさを忘れようとする。
みんな自分という単体を守ることに精いっぱいで、
共感なんてものはテレビやスマホに向かってするものだ
という現状になっているのではないでしょうか。

ネット炎上は、袋叩き反撃仮説の性質が裏目に出たと言えば
とても理解しやすいと思います。

いじめ、パワハラ、リストラ、DVが
当たり前になってしまうのも無理がないように思えてきます。
これらは、人間が調和的にいるための性質が働いているのだけど、
環境が変わったために不具合を起こしているとは考えたほうが、
合理的な解決が得られるように感じています。

現代社会の社会病理の視点として
心と環境のミスマッチは
必要不可欠の概念だと私は思います。

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なぜ、現代のフェミニストはグローバル企業の召使と呼ばれたのか。 [弁護士会]


これは、ナンシー・フレイザーの言い回しです。
彼女は、社会主義者のフェミニストだそうです。
もっともアメリカの社会主義者なので、
我々がイメージする東アジアの社会主義者とは少し違うようです。
アメリカの大統領選挙の民主党候補になりかけた
サンダースも社会主義者ということでした。

彼女は、第2次フェミニズム運動の理念から
現在の第3派フェミニストたちを批判しています。

第2次フェミニストの理念とは
女性の解放という理念と同時に
男性の価値観から女性の価値観に転換することによって
公正、平等、平和な社会を実現していくという理念があったというのです。

この考え方は前提として男性と女性の違いを承認したうえで
男性的価値観は、実力主義というか
争いで勝つこととか、利益を追求するとかにもとづくもので
そういう価値観が社会を無駄に生きづらくさせている
そうではなくて
女性的価値観は、協調的というか
人間が精神的に穏やかに生活するところにあり、
この価値観を社会に浸透させていこうと主張していました。

昭和の年代に労働法を研究というか勉強した男性は
この第2次フェミニズムに少なからず共感していて
労働組合幹部の女性の割合をもっと増やすことによって
もっと健全で建設的な労働運動の流れができてくるのではないか
という考えを持っていた人が多かったように思います。
沼田稲次郎先生は、航空関係の労働組合主催の講演で
「バターか大砲かと尋ねられたら女性はバターを選ぶ」
とおっしゃって、女性の労働運動に期待を寄せていました。

さて、ナンシー・フレイザーは、
昨今のフェミニズムは、家庭の中の女性解放は主張するが
この社会的変革の理念が欠落しているため
結果的にグローバル企業の召使になっているというのです。
どういうことでしょうか。

グローバル企業の望む人材はどういうものでしょうか
いくつか要素を上げてみましょう。
・安い人件費
・良質(生産性の高い)な労働力
・企業の都合で契約を終了できる労働者
・企業に従順で争いを好まない労働者

この要望に応えるように昭和の年代に法制化されたのは、
労働者派遣を合法化した法律です。
それまで職業安定法で禁止されていたことが合法化されたのです。
抱き合わせのように男女雇用機会均等法が作られ
労働基準法の女性保護規定のいくつかが撤廃されました。

着々とグローバル企業の要請が実現していっていたわけでした。

女性労働力はパート労働という形で
企業のニーズにぴったり当てはまりました。
終身雇用制は崩壊しつつあり
セットの年功賃金は成果主義賃金と姿を変えました。
企業が、その労働では成果が上がっていないと強弁すれば
賃金を上げなくて済む制度として使われることが目につきます。
さらに成績が上がらないことを理由として
解雇がしやすくなる制度になってしまっています。

これまでの正社員の中で割合の多かった男性労働者は
改革のたびにだるま落としのように下に落ちているようです。

さらにそのリストラした高賃金の男性労働者の座を
良質で低賃金の女性労働に置き換えることが
企業にとって利益であることは誰でも考え付くでしょう。

高学歴で、就労経験のある主婦を労働力としてイメージすることは
自然な流れだったと思います。

ところが専業主婦は、働くモチベーションがないため
働こうとしなかったわけです。
夫の収入で生活ができたし、
意識が高いため、家事、育児に時間をかけて吟味していて
働きに出るなんて時間はなかったでしょう。
家事に価値と達成感を感じていたということになります。

この専業主婦を働かせる方法は簡単です。
まず、夫の収入を低く抑える
さらに買いたいものを増やして収入を獲得する必要性を意識づける。
老後のために資金を蓄えることが必要だという意識も役に立つでしょう。
そうやって働かなければならないという意識を与えることです。

次に、家事の時間を短縮させる電化製品や
コンビニやスーパーでの安くて手の込んだ調理済み食品の提供
安価な家事代行サービスの提供も力になったでしょう。
そしてそのようなものを利用するとかつては「手抜き」といわれたのですが、
時短で合理的だという風潮があるとさらに後押しするでしょう。

何よりも、大切なことは自分のために働くという意識づけです。
そのためには家事労働は価値が低い仕事で
気が利いた人間は他人に頼むような仕事だという
意識づけです。

具体的には
3歳児神話は科学的根拠がないから子育ては施設に預けてもよいとか
母親は子どもの奴隷ではないとか
女性も企業で働いてこそ輝くとか
そういう社会的風潮はとても役に立っていると思います。

特にボランティアでも、PTAでも、近所の相互扶助でもなく
企業に働いてこそ輝きだという思考が
いつの間にか脳の中に侵入しているようで、
特に産前には資格を持って働いていた出産後の母親は
働かなくてはならないという焦りのようなものを感じるようです。
自分が子育てをすること自体に疑問を持たせ、
外で働いている夫はずるいという感覚を持つようです。
「自分だけが損をしている」
という気持ちを抱いてしまっている女性をたくさん見ます。

この意識の原因は誰かが植え付けているという単純な話ではなく、
素朴な感覚を持っているところに限定した言葉が与えられることによって
感覚がずらされて誘導されているように感じます。
だからその考えに逆らうことができなくなるみたいなのです。

その結果企業が求める労働力が続々と提供されています。
安価で、生産性が高い良質な労働力が、
必然的に途中採用という不利な採用のされ方をして
企業に不都合になったら安価に契約を打ち切れても
争わない従順な労働力です。
仕事を辞めたくないので、
理不尽な上司の命令も従おうとし、
できないのは自分が悪いと思ってくれるのです。
なんて理想的な労働力でしょう。

本来家事は、人間の再生産に重要な仕事です。
家庭の中で家事を専門に行う人間がいないと無理が出てきます。
誰かが収入を獲得するために家を出なければなりませんが、
誰かが家事に専念しなければどこかに無理が出る現代の家事です。

煩瑣な公共手続きだけでもうんざりします。
塩素や抗生物質から腸などの体内環境を守るためには
時間をかけてデトックスをする必要がありますが、
そもそも安全性の高い食材や衣類を探すのも時間がかかることでしょう。
これをしなければ、大人は長生きをしないだけですが、
子どもは、健全な成長がゆがめられてしまう可能性もあるようです。
教育の問題にしても、学校任せでは生活のこと学習のことも
本当は心もとないのではないでしょうか。
学校と保護者が協力してよい学習生活環境を作るということを
怠っているところにいじめや指導死の問題の背景があるように思われます。
地域の環境改善というかコミュニケーションを作ることも
意識的に時間をかけて作らないから
自分の頭の上に住んでいる人が誰なのかわからない
という事態も起きているはずです。
人間は自分だけで幸せになれないようにできていると思います。

もし働くために、子育てに時間をかけられないから
抗生物質や添加物の入った食べ物を与えているならば、
18世紀のイギリスの労働者階級で
子どもが泣き止まないので手間暇をかけられず
手っ取り早くジンを飲ませて泣き止ませたという逸話と
大差のない話に聞こえてきてしまいます。

本来、家族のうちの一人が働けば
充実した不測のない生活が送れることができればよいのです。
それができないのは、賃金が充実していないからです。
労働者に対する賃金が充実する労働市場になれば
不幸な人間が確実に減ると思います。

ところが、そのような社会的視点が欠落し、
女性の解放をもっぱら家庭の中に力点を置いてしまうと
本来共同して社会を前進させていくパートナーガ協力できず、
力になりません。

それどころか、
家庭から企業で働くことが女性の輝きだという
政府の主張を先取りするかのような主張をしているのは誰なのでしょう。
様々な女性枠というものを安易に享受しているわけですが、
これでは対等をはじめから放棄しているように感じられます。
結局上部に依存して、特別扱いしてもらっているからです。

DV問題がフェミニストの主戦場のようにも感じられますが、
解決方法は警察や行政という公権力に依存していています。
公権力が私人に介入する余地を拡大することを
問題の所在として懸念しているようには感じられません。
権力に依存する方法をとるから、権力の増大を問題視できないようです。

DVの問題にしても
程度の問題を考えずに
すべて夫から逃げるという方策が金太郎あめのように出されます。
結局夫に気が付いてほしい、
気が付かなければ逃げるというのでは、
人間が環境に働きかけて生きる動物である意味がなくなるでしょう。
ゲームのように夫から女性を隠し、
保護命令や調停申し立てをして離婚させれば援助は終わりです。
そのあとでこんなはずではなかったということを言えば
「離婚はあなたが決めたことです」で終わりです。
判で押した流れに従ったルーティン作業であり
根本的な幸せを獲得するという視点はありません。
定められたゴールを目指し余計なことは考えない。
なんて男性的な行動でしょう。

結局は協力し合うべき男女が
分断されて期待されています。
これを最も基盤的な社会である過程でやられてしまえば
建設的な社会変革は他人ごとになってしまいます。
変革されては困るほうにとって大変都合の良い話です。

決して「一人が働けば充実した生活ができる賃金を」
というスローガンは聞かれません。
せいぜい男女賃金格差の是正です。
これは着々と実現しつつあります。
男性賃金が低下すれば実現するからです。

なんてグローバル企業にとって都合がよいのでしょう。
自分たちが直接意見表明をしたり
国の機関に提言させなくても
勝手に自分たちに都合の良い社会構造を
ターゲット自身が作ってくれているわけです。
社会に対して向けられるべき不満を
家庭の中などの男性に対して向けているわけですから
しばらくは安泰でしょう。

昭和の終わりころ、女性の深夜労働の解禁を訴えた女性たちを見ながら、
女性にも平等に過労死を要求するのかという暗澹たる思いをしたことを覚えています。

労働法学者沼田稲次郎先生が
先ほどの女性の労働組合活動のテーマの集会で
面白いお話をされていました。

男性は職場で嫌な事不正なことをされても
寄り集まったところで酒飲んでくだ巻いて終わりだ。
女性は、みんなで話し合って不合理を是正させるために頑張る
そういう傾向にあるということでした。

私は素直にそういうものかもしれないなと勉強させていただいていました。
今もそうなのでしょうか。
女性がどんどんかつての男性並みに酒を飲んであきらめだした
ということはないのでしょうか。

男がもはやついていくことをやめた男性的な価値観を
延命させているのは女性の社会進出ということはないのでしょうか。
ジェンダーの主張は、私には、
男性の弊害がある価値観を是認し、大前提とした主張
そう思えてなりません。

これからは男性が女性の価値観を
歴史学として学ばなければならないのでしょう。
かつての女性の価値観をしっかりと身に着けて
人間らしい生活を求めていかなければならないようです。



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若者以外の自殺者数はなぜ減少したのか。自死の落差理論と耐性ないし馴化 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


日本における自死者の数は、
平成9年に2万4千人だったのが
平成10年に3万2千人を超えて
平成15年にピークの3万4千人台となり
平成21年までの11年間3万人台でした。
それがその自死者数が減少していき、
平成30年度は2万840人まで減少しました。

なぜ増えて、なぜ減少し続けているか
その理由がわかれば、自死対策は進むのですが、
誰も自信をもって言うことができません。わからないのです。

一つの仮説として国の政策が功を奏したというものがあります。
自殺防止対策推進法、自殺総合対策大綱
地域自殺対策緊急強化基金、利息制限法の改正
様々な政策を実施してことは間違いありません。

また、これまでは、自殺というと
自死者に対する非難の文脈が伴っていましたが、
国が自殺対策を行うということで
追い詰められた上の死だという理解が広がり、
マスコミを通じて自死が報じられる場合でも
救助、支援の文脈で話題になっていることが良い効果を上げている
という事実は否定できないと思います。

自死を考えている人にとって、
自死を考えていることを非難されていると感じるよりも
周囲が自死から救おうとしていると感じるほうが
余計な孤立感を感じないで済むと思います。
自死を非難することはWHOでもデメリットが大きいとしています。

ただ、それだけで本当にこのような動き方になるのでしょうか。
また、全体に自死者数が減少しているのに
若者の自死者数が減らないのです。
若者の人口が減少していないにもかかわらず
若者の自死者数が微増しているのです。
国が対策を立てていることが自死者数の減少の理由であれば
若者だけ減らないのは不思議です。
これが手掛かりになって
自死者数の減少の理由が見えてくると私は思いました。

まず、若者の自死の原因と中高年の自死の原因は
ともに将来に対する絶望なのですが、絶望の仕方に
大きな違いがあるということを理解していただきたいと思います。

中高年の自死の理由は、
これまで自分が積み上げてきた実績、人間関係を失う事情があり、
過去の蓄積された現在を失うことにより、
やり直しがきかないことから未来に対する絶望を感じるわけです。

典型的なケースは、刑事事件を起こした場合です。
警察に逮捕されただけで、会社にはいられなくなります。
自分の立場を失って、絶望が起こるということはわかりやすいと思います。
弁護士のアンケートでも、刑事被疑者、被告人の自死が多い
という結果が多いのです。
弁護士が関与した一番多い自死者のケースは債務問題でした。
借金支払えないから自死するという単純なケースはあまりないようです。
借金が払えないことによって、住宅ローンが支払えない
その結果引っ越しが必要になる。そうなると
近所の人たちや会社に借金が払えないということを知られてしまう。
こういうことで、自分の人間関係が破綻するということが
大変恐ろしく感じるようです。
家族に内緒で借金を返していて、ついに支払われずばれてしまい、
家族からも追放されるのではないかというように
やはり人間関係で、それまでの立場がなくなるというところに
自死の原因があるような気がするのです。

これをわかりやすく言うと
それまでの立場を維持できないで落ちて行ってしまうという
落差を感じることが自死のリスクを高めるといえそうな気がするのです。

自死者数が急激に高まった平成10年という時期は
バブルが崩壊して数年が経った時期です。
バブルが崩壊しても、バブルの頃の生活をなかなか修正することができなかったことでしょう。
また、生活状態は変化させても、
住宅ローンの月々の返済額は高めに設定していたために、
バブル崩壊後の賃金低下やリストラで
支払いができなくなったということもあったかもしれません。

平成15年くらいまでは、
落差を感じる対象の過去が生々しく記憶にあったのかもしれません。

平成15年以降はバブル期の記憶のない人や
バブル崩壊後の生活に対応できてきた人たちが増えていった
とは考えられないでしょうか。

リストラ、派遣切り、有期雇用期間満了による失業
上がらない賃金、長時間労働
そんなことがだんだん当たり前の世の中になってきたのではないでしょうか。
つまり落差がなくなってしまったのです。
周囲も失業者だったり、ホームレスだったり、
自分よりひどい状態にあるのです。
人間はこうやってだんだんと馴れが生じてゆくのです。
生活の苦しさに耐える力がついてきてしまった
という説明も成立するのではないかと考えています。

ある程度社会的立場や、良い生活をしていれば
それを失うとなれば、その落差が絶望につながるわけですが、
初めから立場がなく、良い生活をしていないのならば
落差もなく、絶望もせず、耐え続けることができるわけです。

馴化(じゅんか)によって、対人関係的危険を感じなくなる
という言い方をします。
苦しみを感じていても、危険を感じにくくなるわけです。
「精神的に強くなる」ということは感じにくくなるだけだと思います。

中高年の自死が減少したのはこういう理由
つまり、もともと生活が苦しいならば
自死は起こりにくいということです。

それでは、どうして若者の自死者が減らないのでしょうか。
若者の絶望の仕方は中高年とどのように違うのでしょうか。

若者は、それなりに家族との関係や友人関係といった
社会的立場があるわけですが、
過去が積み重なった立場の崩壊という側面は弱いと思います。
若者の場合は、将来につながる現在の崩壊だと思うのです。
今、このようにいじめられ続けている自分に
当たり前の幸せの将来はないのではないかという絶望の形です。

若者は、自分の未来に希望が持てないことに
馴れることはできないのでしょう。
自死対策に関与している人たちは
そろそろ考えるべきなのだと思います。

自者数を減らすことだけを考えていると
思わぬ落とし穴にはまってしまうのではないかということです。

自者数を減らすためには、私の理論では、
苦しい生活を続けさせることと
社会全体で苦しい状況が蔓延すればよいということになります。
現在でもそうなっているように
これはそんなに難しいことではないようです。
そんなことを求めることにプラスの意味はないでしょう。


若者が将来に希望を持てる社会を作る
それこそが目的にされるべきではないかと思うのです。
人間が幸せになるとはどういうことか
多くの人間が幸せになるにはどうすればよいか。
それが対人関係学の究極の目的です。



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加害者にPTSDが発症するメカニズム 共感の遮断と接続、対人関係的危険の概念と対人関係上の自己消滅 [進化心理学、生理学、対人関係学]

加害者にPTSDが発症するメカニズム 共感の遮断と接続、対人関係的危険の概念と対人関係上の自己消滅

PTSDとは、ひらったく言うと
危険によって精神的に強い衝撃を受けて
既にその危険が去ったにもかかわらず、
① あらゆることが危険であり、危険の兆候だと感じるようになる(過覚醒)
② 理由なく、危険を受けていた時と同じ感覚が、突然よみがえる(侵入)
③ 危険には解決方法がない、危険が現実することから逃れる手段がないと感じる(解決不能感)
という症状が中核的なもので
このほかに、抑うつ状態、不眠、悪夢、イライラなどが起きます。

ベトナム戦争の帰還米兵の研究によって概念づけられた歴史から
医学的ではなく政治的な概念であり、
独立した診断名は不要で既存の病名で足りる。
という主張が根強くされているようです。
ちなみに、この批判をする方々は
必ずしも政治的立場が共通しているわけではないようです。
また、フロイト学派の一部からの批判もあるようです。
PTSDを否定する立場からは、
うつ、解離、パーソナリティー障害等に別の疾患に当てはまる
という診断をされることがあります。

その中でも大きな論点としては、
「加害者にPTSDが発症することはありうるのか・」
というところにあるようです。

先ず、しっかり加害者という場面設定をすることが大切です。

戦争は、やるかやられるかという状態であり、
ある局面では加害者であっても、その直後の局面で被害者になる
ということがむしろ通常です。
敵に機関銃を浴びせているそのときに
隣で同僚が無残な死に方をすることも当たり前にあるでしょう。
その時同僚ではなく自分が死んでいてもおかしくないのですから
強烈な危険を感じることが通常だと思います。

おそらく、加害者にPTSDが発症することはあり得ない
と主張する論者も、
自分が属する国が加害国だからと言って
個人が被害者の局面があったこと
つまり、自分の死の危険を現実のものとして感じたことまでを
否定することはないと思われます。

問題設定を整理すると、
自分自身がそのような危険を体験せずに
「もっぱら加害者であった場合にPTSDが発症するか」
ということになるでしょう。

もう一つこの問題と関連して
被害者としてPTSDを発症するのは、
危険が存在した時点から精神的外傷が発症して
その後も継続してPTSDになるのに対して、
先の限定でいう加害者がPTSDを発症する場合
直ちに精神的外傷が起こらず
危険が去ってしばらく後であることが多い
という点も問題になっています。

この理由を説明しなければならないという批判は
実にもっともだと思います。

私はPTSDを医学的に論ずる立場にはないのですが、
この点の説明を試みようと思います。
私の立場からは、危険とPTSDの発症のタイムラグがあることが
むしろ加害者のPTSDをうまく説明できるのです。

便宜上次のAとB二つの論理に分けて説明していきます。
分けて説明しますが、同時に起きていることです。
A構成は、どちらかというと、PTSD肯定論者の説明に近いと思います。
B構成は、対人関係学独自の構成になるはずです。

<A構成 共感の遮断と接続>

加害者が、被害者を虐殺する場合に、
どうして虐殺できるのかということを考えます。
通常、人は他人を殺すことができません。
痛み、絶望、絶対的不安、無念さ
様々な被害者の心情に共感してしまい、
他人の命を奪うという残酷なことはできないということになります。

人を殺す人間は、二つの事情等によって
被害者への共感を遮断しているところに共通点があります。

一つ目は、相手を殺さなければ「自分」が死ぬという正当防衛、
あるいは自分ではなく「自分の仲間」、あるいは「自分たち」
を守るという意識を強く持つことによって
相手を攻撃しても良い存在だと無意識の評価を行い
相手への共感が遮断されます。

二つ目は「正義」です。
相手は人類の敵であり悪であると考えれば
相手に対する共感を遮断することができます。
正義は、相手を攻撃するための思考ツールなのです。

これらの概念、感覚、言い訳で武装して
人は人を殺します。
自国に敵が攻め込んでくる場合は、
直感的に敵だと認識し、共感が遮断されやすくなるでしょう。

これに対して、相手国に攻め込んで行って戦争を仕掛ける場合は
当然には正当防衛も正義も感じられませんので、
国民を守る、国を守る、民主主義を守るという
大義が必要であるという理由がここにあります。

ひとたび共感が遮断されてしまうと
相手は人間ではなく、せいぜい何らかの動物としてしか感じません。
人間でないものを人間のように扱うのが擬人化ならば
戦争はその反対の思考パターンが起こされているのでしょう。
敵国国民は、擬人化されたネズミやアヒル以下の存在になるわけです。
共感が遮断されるということはそういうことです。

戦争が終わって帰国しても
国や国民が敵を殺した英雄として扱えば
殺した相手への共感の遮断は維持されることでしょう。

ただ、加害者は被害者が死んでいく様子を見ているわけです。
音でも聞いているし、においも嗅いでいる
五感で残虐な様子を見ています。
意識に上らないとしても記憶が維持されています。

ベトナム戦争のように
戦争自体に大義名分がなかったのではないかと
敵からではなく自国民から言いだされてしまうと
もしかしたら単に平和に暮らしていた外国人を
わざわざ虐殺しに行っただけなのではないか
という考えが侵入することを防ぐことができなくなることも多いでしょう。

この時、
被害者への共感から自分を守っていた壁が崩壊するわけです。

すると被害者の死にざまの記憶が生々しくよみがえってきます。
共感が接続されてしまい
人間が死んでいく記憶に置き換えられていきます。
なすすべなく死んでいく様子であるとか、
恐怖の表情、叫び声、
被害者が自分で自分の運命をどうすることもできない様子
完全に自己消滅しつつある人間の姿を
繰り返し思い出すようになるのかもしれません。

「共感」とは、
他者が感情をあらわにしたその原因となる環境にいる状態を
自分が他者として追体験することです。
程度の差はあると思うのです。
他者が命乞いをしているときのニューロンの動きを
自分の頭の中で再現してしまっているのです。

そうすると、
被害者の精神的外傷が生じる状況を追体験してしまい、
自分の同僚が隣で殺されたときと同じように
絶望を追体験してしまうということになってしまいます。

個人差はあるでしょうが
共感のメカニズムが動き出してしまったら
それを自分の意識(理性)によって抑えることは
不可能に近いと思います。

かくして強烈な恐怖、孤立無援感、自己統制力の喪失、
完全な自己消滅の脅威を追体験して
PTSDが発症するわけです。

被害者が虐殺された時から
PTSD発症までにタイムラグがあるのは、
幸運にも共感が遮断されていた時間ということになります。
タイムラグがあるのは私からすれば不合理ではなくなります。

<B構成 対人関係的危険の概念と対人関係的自己消滅>


対人関係的危険とは、身体生命の危険に対応する概念です。
人間は、けがをするとか病気になるとか身体生命の危険を認知すると
交感神経を活性化させ、心臓の活動を活発化し、
血液を筋肉に通常よりも多く流すなど、
生理的変化を起こします。
口角が上がったり、瞳孔が開くなど体の状態が変化するわけです。
これは、危険から走って逃げるための仕組みです。
(あるいは攻撃して危険をつぶすため)
この生理的反応を「ストレス」と言います。

ところが走って逃げることが何の役にも立たないのに、
自分が所属する人間関係から分離されそうになると
同じようなストレス反応が起きてしまいます。
これが対人関係的危険を感じているということです。

バウマイスターらの論文には、
人間は、誰かとの人間関係に帰属したいという
根源的要求を持っている
これがかなわないと心身に不具合を起こすと主張しています。
「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological Bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)

対人関係学は、この学説に影響を受けていて、
この心身の不具合は、特に
所属している人間関係からの分離を想起させるときに起きる
と主張します。
これが対人関係的危険です。

これは、人間が言葉もない時代に
群を作るために必要な人間の性質でした。
つまり人間の群れを作るためのツールである
・人間はだれかとつながっていたいと思い、分離されそうになると危険を感じ避けようとする。
・分離されそうになるかどうかは、他者に共感する能力によって感じることができる
・群れの一番弱い者を守ろうとする
・仲間と自分の区別がつきにくく、仲間の窮地については、怒りをもって我が身をなげうってでも戦う
というメカニズムが遺伝的に備わっていると主張するのですが、
分離不安はその第1のツールということになります。

もっともここでいう仲間とは数十名から200名くらいの人数(ダンバー数)であり、常時一緒にいる仲間である場合が強く妥当するということです。ヒトという「種」のためとか「国」のためとか「民族」は、ここでいう仲間には含まれません。
 
人間関係からの分離不安が起きてしまうと
それがとても強い不安になり、
その不安が持続すると思考力が低下するなどの弊害が起きてしまいます。

本来、対人関係的危険を強く感じる人間関係とは
自分のアイデンティティーの一部となっている人間関係です。
家族だったり、資格が必要な職業集団だったり
「その人間関係があっての自分だ」という人間関係ですね。
このような人間関係から離脱させられると感じる事情があると
自分自身が消滅するような恐怖すら感じてしまうようです。

離脱させられると感じる事情とは
一言で言えば自分がその人間関係の中で
「仲間として尊重されていないと感じる出来事」です。
差別されたり、発言を封じられたり
仲間の役に立つ努力をしてもねぎらわれないという他者の行為や
あるいは自分が仲間に顔を向けられない失敗をした場合等です。

さて、ベトナム戦争の帰還兵は、
戦地では、命を守り合う自分が所属する軍隊が
一番大切な人間関係です。

その軍隊では敵を虐殺するということで
お互いを守り合っているのですから
虐殺したことに多少の後ろめたさはあっても
同じ仲間の中にいる限りは非難されることもないでしょう。
だから戦地で軍隊に属している場合は
自分の虐殺行為に対して対人関係的な不安を感じることはありません。

ところが人と人が殺し合わない平和な国に帰還して、
やがて結婚して、子どもが生まれて
幸せな家庭をもつようになるわけです。
自分が戦地でどのようなことをしたかについて
妻や子ども達、あるいは孫に
正直に言うことができないという感覚に襲われるのです。

自分が行った残虐な行為を家族に知られることが怖くなります。
本当のことを知られてしまったら
家族が自分を冷たい目で見るかもしれない
あるいは軽蔑されるかもしれない
あるいは恐怖の対象としてみられるかもしれない。
これまでの平和で穏やかで笑顔が絶えない家庭が
自分の過去の真実で凍り付くかもしれない。
これまでの幸せな家族が消滅してしまうかもしれない。
それは家族の中にいる人間関係をも含めた自分
それ自体の崩壊ないし消滅と感じるかもしれません。
これこそが強烈な分離不安であり、対人関係的危険を感じている状態です。


帰還兵は、
家庭の中では孤立無援ですし
自分が他者を虐殺したという過去は
自分では修正できない事実として存在し続けます。
もし事実を知られたら
自分は、最も大切な仲間を失う
その仲間なしで自分は動物として生きているけれども
人間としては消滅してしまう。
こういう恐怖感を持つのだと思います。

こう考えると
加害者や加害国の軍隊であることは
PTSDの発症とはあまり関係がないように思われます。
肝心なことは、戦争時の行為の残虐性の程度の問題だと思います。
個人に病的な精神症状が出現することを
リアルにとらえるべきではないでしょうか。


A構成は共感による追体験としてのPTSDですが、
B構成は、「対人関係的な意味での自己消滅」としてのPTSDです。
二つの構成は光を当てる部分が異なるだけで
一人の人間の中では同時に起きているうえ、
相乗効果が生じている可能性が高いと思います。

B構成の場合、タイムラグがあることは
むしろ自然だということになります。

対人関係的危険と生命身体の危険の違いは、
生命身体の危険が一瞬で結果が出現するのに対して
対人関係的危険は、結果が出現するということがあまりなく、
結果の出現の恐れだけが持続していくことにあります。

この時間の経過は危険意識を増大していくことでしょう。
時間が経過するだけで何も解決することがないならば
それだけ絶望、自己統制不全が確定的になっていき
孤立感も深まっていくからです。

危険意識が増大すれば
危険から解放されたいという欲求も増大し
かつ持続してゆきます。

かくしてあらゆる出来事が
自分が対人関係を失う兆候のように思えてきて
自分は攻撃されているという意識が生まれ、
合理的に物事を考える力が限りなく低下し
不意に恐怖が意識にとって代わる事態となり
何事も破滅に向かっていると感じるようになるのです。
自分がそれに抵抗することができない
羽交い絞めにされて殴り続けられるようなものでしょう。
そして誰も助けてはくれないということを
絶えず自覚し続けるのです。

いじめやパワハラ、支配の意図を持ったDVなど
身体生命の侵害が少ないときには
その損害は軽く扱われることがあります。

しかし、PTSDを対人関係学の観点から理解すると
身体生命の危険を感じさせる暴行や脅迫が
必要不可欠なものではない、
むしろ本質は対人関係的な危険にあるということなので
暴行や身体に対する脅迫がなくても
重大な精神症状が生じる極めて危険なことになります。

医学的問題には言及しないと申し上げましたが
もう一言どうして言いたいことがあります。
それは、このようなもっぱらいじめの被害者の文脈で
精神病院に入院を余儀なくされた子どもたちの事例を
多すぎるほど見てきました。

病名は、統合失調症、解離、境界性パーソナリティー障害、うつ
と様々です。
そして、長く隔離室に入れられ病名と症状に応じた投薬を処方されています。

もちろん孤立や自己統制力の喪失を
さらに与えられているわけです。

現在の操作的診断基準だからこそ、
PTSDという概念を確立していただき、
適切な治療方法を確立していただきたいのです。

精神病院に入院したことによって原因が増大し
表面的な症状に対症療法をされたところで、
本人の人間の精神状態として何ら改善されない
そういう印象をどうしても持ってしまうのです。

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プロは他人の悩みを笑わない プロの支援とは何か 探すのをやめたとき見つかる理由 [進化心理学、生理学、対人関係学]


悩みは、他人からみると、
意外な原因で悩んでいることが多くあります。
典型的なことは子どもの悩みです。
大人の尺度でものを見ると
そんなことで悩んでいること自体が信じられなくなることがあるでしょう。
しかし、子どもは思い詰めています。
子どもの視線で、
どうしてそれを悩むのかということが理解できなければ
効果的なアドバイスはできないと思います。

相談会などに行くと
本人やインテークをする人が
その悩みはくだらない悩みだとか、小さいことだとか
本気か謙遜かわかりませんが、
そんなことを聞かされることがあります。

プロは、人の悩みにくだらないものとか小さいもの
ということは感じません。
その方が真剣に悩んでいて
それに自分が役に立たせてもらえるなら
それが人間としての私の喜びだ
とそう考えています。

悩んでいる方は、解決方法を知識として持っていることが多いです。
もっとも法的知識のように
それを知らなければ解決方法がないということも多いのですが、
人間関係の解決方法は「知って」いることが多いです。

ところが、それが意識に上らなかったり
その解決方法を選択して実行できないという
理由があるから解決しない
ということが実感です。

一言で言って、
人間の脳は、現代社会に適応していない
ということが言えるようです。

人間の脳の活動である意識は
一つのことにしかフォーカスをあてられない
という特徴があると考えると
その理由がうまく説明がつくようです。

悩んでいるときは、
困った、苦しいという感情にだけ
意識のフォーカスがあたっていて、
意識というか、脳は思考をしていないのです。

困難から逃れよう、逃れなくてはという焦燥感が意識に上り
それが意識のフォーカスを独占してしまっている
このため考えることができないということです。

悩んでいるとき、困っているとき、
人間は思考をすることができないのです。

悩む、困るという意識活動は
人間を危険から遠ざけて安全な場所に移動するためのシステムです。
ただ逃げるということに専念することが
逃げ切るためには有効なので、
特に危機感を抱いた時は、他のことに意識が回らないように
脳が組み立てられているようです。

これに対して、自分はいろいろなことを同時並行でやることができる
例えば、テレビを観ながら本を読んで、ご飯も食べることができる
なんてことをいう人がいますが、
実際は、それぞれ細かく分断して順番にやっているだけです。
一言で言って気が散りやすいからできるわけです。
集中が苦手ということですね。

しかし、メリットもあります。
気が散りやすいということは、
一つのことに意識のフォーカスを絞らないで
他のことにも気が付きやすくなるので、
考えるべきことが考えられるかもしれないということです。

ただし、そういう場合にも、
「逃げる」という場面の場合は、
なかなか気が散らず、悩むことに集中してしまうことが多いようです。

解決方法に移行するためには、
先ず、悩むことをやめることが必要です。

「逃げる場面で悩むのをやめる」ということは、
自分をあえて危険にさらすということです。

これは、生命身体の危険
怪我をするとか、病気になるとか
そういう場合に逃げるのをやめることができませんが、
他人との人間関係上の危険
顔がつぶれるとか、立場がなくなるとか
そういう場合の危険は、
命には別条がないので、
一瞬悩むのをやめることが本来できるはずなのです。

しかし、人間は、そのような対人関係の危険と
生命身体の危険の反応を
区別して設計していないので、
とにかく基本逃げるということを目指してしまいます。
だから、悩むだけで考えることができないわけです。

探しているように見えても
実際は目的物が見つからないので困っているだけ
ということが多くあります。
これがないと学校で恥をかくとか先生から叱られるとか
そういう逃げる意識にフォーカスがあったっていると
考えることができませんので、
見えないところにしまってあるものは見つかりません。

探すのをやめるというのは
実際には、脳にしてみれば
見つからないから困るということをやめる
ということなのです。
そうすると、ようやく思考の出番になりますので、
最後にそのものを見た場所を思い出そうとすることに
意識のフォーカスを充てることができるわけです。
そうすると、ああそうだったと照れ笑いとともに
物が見つかる確率が高くなると
こういうことになります。

岡目八目という言葉は囲碁の言葉で
囲碁を打っている当事者よりも
観戦している人の方が冷静に考えられて
その先の状況を推測することができる
ということだと思います。

負けたくない、勝ちたくないという感情にとらわれると
思考が鈍ってしまうとすれば理解ができる言葉だと思います。

困りごとの支援者とはこういうものです。
つまり、当事者は困っているから、そこの意識のフォーカスがあたってしまい、
解決方法を選んだり、それを選択したり、実行したりする
ということにフォーカスがあたりません。

支援者は、第三者として
解決に意識を集中することができる
それだけの話なのです。

もちろん弁護士などの専門家は
当事者の不足している知識を補うことも必要です。

だから、プロの支援者というのは
過度の共感をしてはならないということになります。
共感を示すべき部分は
現実に困って悩んでいるというところにするべきです。
相談者と一緒になって悩むのは
プロの支援者とは言えないのはそういうわけです。

ただ、支援者の中には
解決方法が簡単である場合は、
「そんなことで悩むことはないですよ」と
言ってしまうことがあります。

解決策があり、解決できるよと
励ましのために善意で言うのでしょうけれど、
自分の悩みを軽く扱われたという印象を持たれることがあり、
相手を傷つけることがあるので、
お互いに注意をしましょう。


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思春期前のいじめによって人生を棒に振る極めて深刻な被害が生まれる理由、PTSDという言葉にたよらないで説明してみる [自死(自殺)・不明死、葛藤]

小学校での事件だそうです。
粗暴な子どもに対して、
どうしても注意する子どもがいて
粗暴な子どもから反撃されるわけです。

先生は、粗暴な子どもを刺激しないということを第一にするという方針だったので、
事実上粗暴行為を放置していたようです。
だから、粗暴を先生にいいつけても
逆に先生からなんで言いつけるのだと注意されるという
理不尽な扱いをされたそうです。

それを見ていたほかの子どもたちも
粗暴な子どもを刺激しないことが一番だということで、
粗暴な子どもが、注意した子どもにしばしば乱暴しても
取り囲んでみていただけの状態だったようです。

こんなことがしばらく続いたようです。
子どもは、PTSDと同じ症状となり
登校できなくなり、家に引きこもり
学校にいけないままで高校生の年齢となり
両親が裁判での損害賠償を請求したそうです。

1審は、粗暴な子どもの乱暴を数回認め損害賠償を命じたそうですが、
教師、学校の責任を認めなかったそうです。
そのうえ、PTSD自体を認めないため
賠償額はとても低いものになったようです。

症状があるのに、それを認めないということはどういうことでしょうか。

一つの可能性として
PTSDという診断名に理由がある可能性があります。

PTSDは、
症状の原因となる危険が過ぎ去った後においても
① あらゆることが危険であり、危険の兆候だと感じるようになる
② 理由なく、危険を受けていた時と同じ感覚が、突然よみがえってしまう
③ 危険には解決方法がなく、危険が現実する恐怖から逃れる手段がないと感じる
という症状が中核的なもので
このほかに、抑うつ状態、不眠、悪夢、イライラなどが起きます。

これがいじめから数年を経てもなお持続しているのだから
後遺障害が発症しているとして損害額が高額になるとも考えられるわけです。

裁判所は何を否定したのか。
まず、PTSDを否定した可能性があります。
それというのも、PTSDは、
「命の安全が脅かされるような出来事
(戦争、天災、事故、犯罪等)のようなものがある場合に
に限定されて認められるという立場が有力「だった」からです。

新しい基準(ICD-11)では命の差し迫った危険がなくても
反復性のある危険にさらされた場合も認められるようになった
という情報がありますが、まだ私は確認できていません。

この裁判のいじめの場合は
そういう物理的な意味での生命の危険が発生していたわけではないので、
少なくとも基準には適合していないのでPTSDはありえない
したがって、症状もあり得ない
という理屈になってしまう危険があるのです。

私はPTSDというのは、
生命、身体の危険でも起こりうるが、
その本質は、
絶対的な孤立、自己統制の不能感と回復不能の絶望から起き、
どちらからというと、自分が属している精神的生活の基盤の人間関係から
自分が将来にわたり追放されて復帰できないという
対人関係的危険を強く感じている場合に起きると主張しているのですが、
私の説は影響力がないから裁判で言っても仕方がないと思います。

このため、裁判では、
子どもたちに取り囲まれた状態で粗暴な子から暴行を受けていることが
死の危険も感じることだと主張された可能性があるようです。

対人関係的危険を基にする理論であれば
物理的な死の危険を持ち出さなくても説明がつくわけですが
伝統的なPTSD概念を前提とした場合には
無理がある主張だという結論になってしまうでしょう。

では、いじめでPTSDと同じ症状が出ることはないのでしょうか。

現実にはこういう症状はよく起きています。
14,5歳の子どもたちが、家の中で暴れて手が付けられなくなり、
親ともコミュニケーションが取れず
本人も家族も危険な状態だということで、
精神科の閉鎖病棟に入院することが良く起きています。

症状によって、あるいは診断者によって
それぞれ様々な診断名が付きますが、
背景にいじめがあることがほとんどです。

小学校や中学校時代にいじめにあった被害者は、
このように深刻な症状となり、
入退院を繰り返し、社会に出られないまま
子どもとは呼べない年齢に達しているのです。

そこまで極端ないじめでなかったとしても、
理不尽な扱いを受けた子どもは
何かの兆候を見つけて
またあの時と同じようにいじめられるのではないかと
些細なことにびくびくしたり、
悪夢を見たり、理由もわからないけれど学校に行けなくなったり、
自分に自信がなくなったりする
という残遺症状が残る場合が多いように感じます。

しかし、現時点においてはPTSDを持ち出すと分が悪そうです。

無理をしない理論があるように思います。
私の一人説でもない理論です。

それは子どもという時期に着目する方法です。

人間とは何か、人間が集団で生きるとはどういうことか
ということを考えなくてはなりません。

自然災害を除けば寿命前に人間が死ぬのは
人間によって殺されるときでしょう。
他人という生物は安全な生き物ではないわけです。
人間も動物として他人を警戒するのが自然かもしれません。

そうならないのはまず、両親に育てられる中で
自分以外の人間も自分を攻撃しないということを学んでいきます。

逆に両親から引き離されたり、両親に虐待されていたりすれば
理由なく他人を警戒するようになります。
愛着障害という病気で、
他人を信用しなくなり、人間的なつながりが持てなくなる場合と
逆になれなれしくまとわりつくようになる場合という
両極端な症状が現れます。

ボクシングをイメージすればわかりやすいのですが、
殴られないために逃げ回るか
逆にクリンチすることで防戦しようとしているようです。
おそらく、両方とも人間を信頼しないことからくる行動が
身についてしまったことなのでしょう。

その乳幼児期を無事に過ごすことができれば
両親から広がって少しずつ人間関係を構築していくことにより
だんだん「馴れ」が生まれてきて
人間は警戒しすぎなくてもよいのだなということが
身についてくることになるわけです。

その後、15歳くらいといわれていますが、
自我が確立していくわけです。

この時、自分と他人が違うということを
きちんと腹に落としていくことで、
他人ではない自分という観念が確立していきます。

自我が確立していくことは
自分を尊重し、他人も尊重することができるようになることで、
こうやって、他者の中で、協調して生きていけるようになるわけです。

このあたりより前の時期は、
まだ、他人と自分の区別がはっきりとはつかないで、
自分と他人が違う考えや感じ方をすることに戸惑いが残っています。

ところでただ歳を取れば自然と自我が確立して協調性が身につくのではありません。
家庭の中で身に着けた共同生活のルールを、
幼稚園や学校という友達との関係で修正したり、
共通の核のようなもの(社会的な行動様式)を見つけ出して、
どういうときにどう行動すると穏やかに過ごせるか
逆にどう行動してしまうと、けんかになったり嫌われたりするか
ということを一つ一つ学習して身に着けてゆきます。

例えば正義や道徳に反する行動をすることは
みんなから受け入れられなくなるということを
自分の体験者や友達の体験を通じで身に着けていくわけです。

正義や道徳が行動規範になっていくという言い方をします。

事件のお子さんは、
そうやって、行動規範に従って
級友とも接してきたのでしょう。

ところが、自分が当たり前だ、やるべきだという行動をしたことによって
逆に、反撃され、暴力を受けたのです。
これだけでも混乱することです。

しかし、この粗暴な子が例外的な存在で
社会の中にはこのようなイレギュラーな存在もいるので、
そういう子を避けて過ごせば安全だ
という柔軟な考えを身に着けられれば
正確な人間観をえられるのです。

そのためには、周囲から粗暴の子のほうが間違っている
という強烈なメッセージが必要なのです。
ところが、教室の最終権威である担任も
自分が暴行を受けていることを放置し、
ほかの子どもたちも自分を助けようとしなかったらどうなるでしょう。

その子の価値観は混乱したままになってしまいます。

他人の存在に安心するためには、
自分が何か困ったことがあったら助けてもらったり、
具合が悪ければ心配されたり
痛かったり苦しかったりするといたわれたりすることが必要です。

このお子さんは全く逆に
暴力を受けていました。
そしてその暴力をだれも止めないという状態が起きていました。

小学生くらいだと
自分はどうしたらよいかわからなくなります。
また、自分は、世間全体から嫌われている
という気持ちになるわけです。
これから先の将来も嫌われ続けるという気持ちになってしまいます。
だんだんと何か自分が悪いのではないかという気持ちにもなるでしょう。

「もっとうまくやれ」ということは大人に対するアドバイスです。
子どもはかばわなくてはならないと私は思います。

傍観者の子どもたちはそれを是認していたわけではないでしょうが、
いじめられている子どもからすれば
誰も助けてくれないのですから意味がありません。
対人関係的危険感からすれば
自分の社会的存在を「否定」されたということに等しいということになります。

助けてくれないでただ見ている旧友(級友)は、
のっぺらぼうの恐ろしい存在に見えたでしょう。
こちらを心配そうに見ている人間は偽善者に見えたでしょう。

被害者のお子さんが感じていたことは
絶対的孤立感であり、自分が仲間として認められていないという疎外感ですし、
誰も味方してくれない、どうすることもできないという回復不能感です。

きわめて恐ろしい感覚を受けていたはずです。

私も似たようなことがあったのですが、
自分は絶対に間違っていない
間違っているのは自分以外だという独善性があったために
最悪の事態にならないで済みました。
体が大きく、体力的にも強かったということも救いでした。
こういう常識が外れた人間でなければ
耐えられるわけはないのです。

子どもですから、こういうことが例外的な出来事だという認識は持てません。
人間社会というものは、自分の味方になってくれない
ということを学習してしまうのです。
しかも、いつどうして自分が攻撃されるかわかっていませんから
ある日突然自分が攻撃されるという予測不能なことが起きる
ということを学習してしまっています。

これからの長く続く未来も同じように
いつどこか油断をしてしまうと悪いことが起きてしまう
という学習をしてしまいます。

人間が安心できなくなり人間が信用できなくなり、
人間が怖くなるのは当たり前だと私は思います。
安心できるのは家族だけになります。

ちなみに、粗暴な子のほうですが、
通常だと暴力をふるうとみんなから否定されてきたのに
その子に対しての暴力は誰からも否定されません。
その子に暴力をふるってもよいのだということを
学習してしまうのです。

放置ということは被害を大きくするだけでなく、
加害も大きく、より激しくするのです。
大人がする放置は大変悪質です。

家の中に引きこもる子どもも
元気に学校に行っている子どものことを想像することもあるでしょう
みんな普通に学校に行き、進学している
自分だけが取り残されているという
どうしようもない焦りが生まれてきて
さらに苦しくなるということも簡単にイメージできると思います。

先ほど家族には安心するといいましたが、
家族も人間ですから
自分の子どもが学校に行けず家から出れないというと
焦りが生まれてしまいます。

子どもはそんな家族の表情を読み取って
重い負担を感じるようになります。
子どもの願いは
学校行けなくても家から出られなくても
家族には何事もなかったように接してほしいということです。
それはなかなか難しいことです。

子どもはどうしてこうなったかもわからず、
また、自分がどうしたいのかもわからず
不満、苦しさだけが膨れ上がっていきます。
言葉にできない苦しさ、焦りが積み重なっていくのだから
爆発することのほうが当たり前だと私は思います。
徐々に家族も自分を助けてくれないという意識になっていくわけです。

成長発展段階におけるいじめは、
人間の成長に照らして
このような深刻な影響を与えるのです。

それは、加害児童の責任というよりも
放置した学校の責任こそ重大だというのが私の理論的帰結です。

暴力がお子さんの精神に悪影響を与えたことよりも
それが制裁など修正されなかったことこそ
精神的に悪影響を与えたのだと私は思います。

このようなお子さんは、投薬の適応があまりありません。
感情的になったときに鎮静剤を与えたり
抑うつ的になったときに抗うつ薬を処方して
症状は緩和させることができるかもしれませんが、
原因が放置されていれば症状は継続してしまいます。

もうこうなってしまうと
最初の両親の段階から育ちなおすしかありません。
つまり、
繰り返し、繰り返し人間は安心できる、信頼できる存在だということを
刷り込んでいくしかないのです。
遠回りかもしれませんが
自分の安心できる居場所を作り
安心できる人間関係を作っていくしかないと私は思います。

できるだけ多くの人たちから
それぞれのいたわりと助けを得ていきながら
人間と付き合う自信を作っていくということです。

そうしない限り、
投薬だけをしていただけでは、
なかなか回復は難しいようです。

それだけ、小学生や中学生の時期のいじめというのは深刻で、
そのお子さんの一生を台無しにするということです。
そういうお子さんをたくさん見てきました。

もし私が述べる通りの被害があるなら
今度は裁判所が被害を放置してはならないはずです。
その子だけでなく、その子の家族だけでなく、
加害をした元児童、傍観していた元児童にも
そして何よりも放置をした学校にも
あの時の行動が間違っていたという価値判断を示さなくてはならないはずです。

技術的なことで決してはならないと思います。
そして学校関係者に対しては
いじめの重大さを理解してもらいたいと
心から願う次第です。

また、精神医療関係者の方にも読んでいただきたいと思います。
いじめを受けた子どもの奇行は自然な行動であると私が思うのですが、
統合失調症やパーソナリティ障害などの診断名がつけられて、
精神科病棟の中でますます重症化していくことがあるようです。

どうか、事例を集積し、
回復に向けた治療方法を確立していただきたいと
願ってやみません。


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