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その雇止めは無効ですよ。有期雇用の18年問題。念書は書かない、書かせない。 [労務管理・労働環境]

ちょっと、学習会でお話しするため、
例によって、何を話すのか準備のための記事です。

1 有期雇用労働者の始まり

今問題になっている有期雇用労働者は、
正社員と同じ仕事をしているのに、
毎回契約更新を拒否(雇止め)されるのではないかと怯え、
賃金も低く、昇給も賞与もない、あるいはないに等しい
そういう人たちのことです。

こういう形態を意識的に始めたのは
高度経済成長期ですから、
いまから40年以上前のことです。
好景気でイケイケどんどんの量産体制に入り、
企業が労働者をどんどん雇わなければなりませんでした。

ところが、企業の方も、
このままこの景気が続くわけはないという観点から
本当に採用を拡大し続けても良いのだろうか
という不安を抱きました。

それというのも、ちょうどそのころまでに
裁判例で、
労働者を自由に解雇できないという法理が確立し、
ひとたび雇うと定年まで雇い続けなければならない
という覚悟が必要になっていました。

採用して生産を拡大したいけれど、
景気が悪くなったら人余りで労務倒産になる
という危機感から新しい雇用形態が生まれました。

それが、有期雇用労働者と
当時は職業安定法違反の派遣労働でした。

その中の有期雇用労働者とは
もともと3カ月から1年の労働契約と決めて
契約期間が満了したので終了するのであって
解雇ではないという論法が通用したのです。

なぜ、1年以下かというと
当時の労働基準法は、
契約期間を定めるときは
原則として1年までと定められていたからです。

最近原則3年以下となり、
特別な職種は5年までの契約期間と定められています。

念頭におかれているのは、
期間限定のスポット的なプロジェクトに従事する場合です。


2 裁判例の展開

問題意識として、正社員と同じ仕事をしているのに
雇用は不安定だわ、収入は低いわで、
あまりにも不平等ではないかという意識がありました。

また、実際は、何度も更新されて
その更新も形ばかり、あるいは自動更新という
あからさまなものも多かったのです。

これには歯止めをかける必要がある。
普通の人たちはそう思うようになるわけです。

先ずは、東芝柳町事件で、
名ばかり有期で、形式的にも
ほとんど無期契約だという場合
更新拒絶をする場合には解雇と同じように
厳重な要件を満たさなければならないと
最高裁判所は判断しました。

次は、日立メディコ事件です。
東芝柳町事件が昭和49年判決で
こちらは昭和61年判決ですが、
その間に、コンサルが暗躍し、
とにかく形だけでも更新手続きをしなければならない
ということを触れまわしました。

その結果、企業も、ヒアリングをしたり
履歴書を出させたり
契約書を作ったりと
手続的に更新をする形を整えました。

しかし、形だけという場合も多かったようです。

そこで、実質的に無期と言えなくとも
更新を期待するような事情があった場合は、
更新拒絶に解雇法理を類推適用させるという
最高裁判決が出ました。

ほぼ、この二つの判決で、
裁判実務は確立したと言えましょう。

3 行政指導の確立

二つの判決を受けて、厚生労働省は平成15年
「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」20年改訂
という通達を出しました。

いろいろ場合わけがなされているのですが、
要は、
更新される期待が強い場合は、
雇止めが無効になりますよ
ということを徹底したわけです。

4 更新の期待が高くなる事情

従事する仕事の内容、勤務の形態、
利用できる施設なども差異がない
要するに、スポット的な助っ人ではなく
正社員と同じなら更新の期待も高くなるでしょう

更新手続きや、判断が形式的であり、
ここで拒絶される実質的理由がないという場合は
やはり期待が高まるでしょう。

個別事情として
あなたは更新を予定しているから就職活動をしないでねとか
事業計画で、その人が働くことが前提として予定されているとか
そういう場合も当然更新を期待するでしょうね。

同じ職種の有期労働者が更新されていることが普通で
当人にも落ち度がない場合も
更新されるよねと疑わないでしょう。

5 更新を拒絶される労働者側の事情

これまで判例で更新拒絶が認められた事例では
大学の兼任講師の事例がありました。
これは、そもそも大学の兼任講師は
社会通念上更新を繰り返すことが当然ではないと判断された上、
その人は、本職が別にあり、
その講師活動に収入を依存していないという事情が考慮されました。

同種事案としては大学進学塾の塾講師でした。

まとめると、
その人がむしろ高収入を得ていて、
その人の個性に着目した採用形態であり、
労働者性が強いとは言えない場合、

その職種自体が、ひとところに定住せずに
転職をしながらスキルアップをするような
流動可能な職種の場合
ということになりそうです。

6 ではさらにまとめて、何が根幹なのか

有期雇用とした意図・目的が合理的なものか
つまり、期間を定めることが合理的な職種か
つまりつまり、「必然的な理由がある有期雇用」
なのかということだそうです。

これに対して、雇用を打ち切りやすくするだけの名目的有期雇用は、
雇止めが無効になりやすいということになります。

7 念書の問題

労働契約法18条は、
有期雇用契約が更新されて通算5年となった場合は、
労働者が申し込みさえすれば
期限の定めのない労働契約になり、
厳格な解雇制限法理が適用されるとしています。

これには猶予期間があり、
この効力が発行するのは
2018年、平成30年です。

特に、名目有期雇用を導入している企業は、
これでは解雇ができなくなると
焦っているわけです。

そこで、労働契約法18条の適用を受けないように、
現在、
ただそれだけの理由で、雇止め(更新拒絶)を
している例があるそうです。

また、雇止めはしないけれど
今回の更新で最後とし、
次回は更新しませんと
労働者に念書を出させる企業が出ているようです。

先ず、それだけの理由での雇止めは、
多くが、判例や行政の基準に照らして
無効な雇止めとなるでしょう。

有期労働者の権利を向上させるために作った労働契約法で、
かえって労働者の雇用が不安になるということは
国にとっても噴飯物で、許されることではありません。

最近の安倍内閣の同一価値労働同一賃金への流れにも
全く逆行しています。

国を挙げて、制裁がなされることでしょう。

第2に念書ですが、
実は、これは必ずしも有効になりません。
念書があったとしても、
強行法規ということでもありますので、
他の要件が整わなければ更新拒絶は無効となります。

しかし、労働者自身が
念書を書いたということから
心理的に負けてしまい
権利を行使しなくなるということは大いにあるでしょう。

念書を要求されたら、
先ずは、労働契約法を知っている弁護士や
とにかく頑張る事例の多い労働組合に相談するべきです。
会社に労働組合がなくても
一般労組や合同労組という地域労組で
相談に乗ってくれます。

8 自分の雇用をどう守るか

最後にいろいろな知識も大事ですが、
心構えというかスピリットというか
もしかしたそちらの方が大事かもしれません。

それは、自分の主張こそが正当だと
確信を持つことです。

労働者の権利なんて
最初は何も認められていませんでした。

でも自分の主張が認められなければ
自分「たち」労働者の生活は成り立たない
という正当性の確信が

自分たちの主張が法的にも正しいという
規範意識に高まり
労働者の権利は承認されてきたのです。

そのためには、
苦しい、つらい、不安だという
そういうことを安心して言える仲間を見つけることです。
仲間が増えれば知恵も勇気もわきます。
冷静に志向をすることができるようになりますし、
何とかなるんじゃないかという余裕も生まれます。

その中で語り合ってください
漠然とした不安や苦しさを言葉にすることによって
初めて何が正しいか
どうあるべきか
そしてそれはわがままではなく、
正当性を確信する
私「たち」や社会全体の利益なのだ
ということに気が付くでしょう。

9 国、自治体へのお願い

こういうことで、国家法が
一部の企業によって捻じ曲げられ、
雇用不安が増大し
せっかく減少した自死が増加する危険が現実的になってきています。

先ず、自分たちが雇用している有期雇用労働者について
18年問題に絡めて雇止めにすることをやめてください。

国の政策、無期への転換を
公的団体として積極的に受け入れてください。

そうして、
関連団体の企業にも
不当な雇止めがないように目を光らせてください。

議会はくれぐれも監視してください。

10 労働組合にお願い

即刻、18年問題のプロジェクトを組んでください。
これは国の政策を労働組合が後押しするのですから、
労働運動の別にかかわらず、
何らかの緩い共闘を組んでください。

この問題で啓発活動をしないのならば
ナショナルセンターを名乗る価値がないと思います。

必ず、すべての有期雇用労働者に
情報を届けてください。

心よりお願い申し上げます。




【妻にアドバイスをする前に読んでください】夫がこんなに良かれと尽くしているのにモラハラだと言われてとてつもなく妻に嫌われる理由 [家事]


こういう事件類型が立て続けに
(毎日のように)相談が舞い込み、
夫側、妻側から話を聞いているうちに
ああ、そうだったよねと改めて思い
まとめてみたくなりました。

典型例は、
夫が妻より10歳くらい年上の事例、
あるいは、
妻に弱点があったり、
失敗(破産、不貞、犯罪等)
があったりするケースです。

妻側の不満は
「夫が、自分のやることなすことに口を出す
 自分の考えは常に否定される
 自分はいつも監視されている」
というものです。

妻から話を聞くと、
夫の行動は、
母親が赤ん坊に対して世話を焼くというより、
母親の真似をしたい盛りの姉が
弟にあれこれ世話を焼く
というような感じなのです。

夫は、とても心配症であることが多いです。
(こういう人は、酒癖が悪く
 酒を飲むと被害意識《不安》が強くなり、
 攻撃的になってしまいます。
 無意識の鎧装着ですね。)

心配のあまり、つい
あれこれ口を出してしまいます。
自分の言う通りやっていれば
万事うまくいくという自信もありますし、
言っていることが間違っているとは言えないことも多いです。

夫は、妻とのかかわりの中で、
妻にとって一番良い結論に到達することに
貢献することが自分の役割だと
無意識にそう思っているようです。

ここが、男と女の違いです。

男は、一番良い結論に到達することが正義ですが、
女は、自分でものごとを解決したい
という切実な本能的要求が強くあります。

自分のコミュニティ上の問題は、
難解な問題だとしても自分で解決したい
という傾向がある人が女性には多いようです。
自分のコミュニティとは、
自分の子ども、自分の職場、自分のママ友
自分の両親、自分の友人
等との関係です。

どうしても、男は女性から相談を持ち掛けられると
良い結論をに至る方法まずアドバイスしようとしてしまいます。
水島広子先生がおっしゃるように、
それでは、女性は
「私の話をちっとも聞いてくれない。」
と不満が生まれるのです。

女性は、解決に導いてもらいたいのではなく、
苦境に共感を示してもらいたのです。
大変だねとまず一言言ってもらいたい様です。
自分が悩んでいることが
悩むべきことだということを
肯定してもらいたいのかもしれません。

「俺がついているから大丈夫」
くらいのことを言うのは良いかもしれませんし、
「こういうケースがあった」ということも良いかもしれませんが、
まず共感を示すことから始めなければいけません。

動物は自分のことを自分で決めたいという本能があり
(自分の身は自分で守りたい。守れるようにしていたい。)
人間は、仲間から尊重されて共存したいという本能があります。

あまり、あれこれ口出しをすることは、
自分のことを自分で守れなくなるかもしれない
という危機意識を発生させます。
また、悩んでいることに共感を寄せないで、
解決方法を得意気にはなすことは
悩んでいることを笑っているようなことなので、
自分は仲間として値しない劣等な人間として
扱われているという意識が生まれる危険があります。

こういうことなのです。

ましてや、妻が、過去に何らかの失敗をしたり、
夫に遠慮をするような性格や事情があると、
(夫に夫の両親より妻を選ばせたとか)
夫の話、指図を真に受けなければならないという
律儀な反応を示すことになります。

そうして、だんだんと
夫の顔色をうかがいながら生活をするようになります。
いわれなくても夫の意見を想像しながら行動をする傾向が強くなります。
そうすると、もう
自分の行動を自分で決められない
=将来何かあったとき自分で自分の身を守ることができないだろう
という不安感がむくむくと顔をもたげてくるわけです。
(もちろん無意識にです)

夫が良かれと思って妻の意見を否定するたびに
妻は、自分が仲間として尊重されない
劣等な人間として扱われている
という不安感も日増しに強くなるわけです。

時々夫が自分の行動を修正して
「全て奥様の言う通り」という態度をとれば
まあいいかとなるのですが、
子どもの前でも妻に説教をするようになると
二つの不安がピークに達します。

こういう時です。
妻が、出産と授乳で産後クライシスに陥る
妻が、甲状腺機能に異常をきたす
等の生理的変化があったり、

あなたはモラハラを受けている
夫はあなたを支配しようとしている
あなたは何も悪くない
等と言われると、

もう妻は恐怖に叩き落とされます。
夫が怖くて怖くて仕方がなくなります。
だって、夫の真意は別だけれど
(夫なりに良かれと思っていやっている)
妻にとってみれば
自分の行動が縛られている
自分には自由がない
という気持ちになっているわけです。

こうなってしまうと、
夫は、妻にとって
動物として、人間として生きる活動の
妨害者に過ぎなくなるわけです。
脳が勝手に危険だと判断して、
逃げろと指令を出してしまいます。
そうです、勉強も考察もしない
支援者の言葉と全く同じなので
「あなたは悪くない、モラハラ夫から逃げろ」
という言葉は
妻の心に響いてしまいます。

夫としては、良かれと思ってやっていることが
全て妻から毛嫌いされているし、
自分とは同じ空気もすいたくないと言われて
わけがわからなくなるわけです。

わからないでしょうね。
誰かが教えないとわかりません。
しかし、こういう夫婦のコツみたいなものを
誰も問題提起しません。
失われた時間を帰せと
誰かに向かって言いたくなります。
失敗例をたくさん扱っているから
だから、このブログを続けるわけですが。

とにかく今不具合があるなら
相手に行動の修正を求める前に
自分の行動を修正することを考えなければだめです。
正義がどこにあるかなんてことを言っていたら
一生涯、妻とは仲良くやっていけないでしょう。

相手の顔色をうかがったらどうでしょうか。
そして、相手の気持ちがわからない時は、
教えてもらう方が良いと思います。
また、1日1回は
妻の行動を肯定しましょう。
「ああ、それいいね。」の一言でも言いましょう。
(自戒の意味を込めて)
料理でも、家具でも、買い物でも
そうやって、肯定された記憶を積み重ねてもらうことです。

それにしても腹が立つのは自称支援者です。
家庭を修復するなんてことは
一ミリも考えていないのです。
夫が心配して口を出すのは
支配の意思なんだそうです。
もうお手上げです。

精神科医でも心理学者でもないくせに
妻から事情を聴いただけで
夫を精神障碍者扱いです。
自分が神様だと思っているのだろうか?

さあ、私が腹を立てているのは、
夫の立場に立ってというよりは
子どもの立場ということですし、
妻にとっても有害だからです。

ある事例では、それ以来、
奥さんは恐怖のどん底に叩き落とされました。
夫が怖くて怖くてたまらなくなりました。
夫とは普通の会話も成立しなくなり、
何か言われると、ビクンと傷口に触られたように
過敏に反応してしまい、反撃もするようになり、
ますます夫との仲が悪くなりました。
最終的にはうつ状態が激しくなり、
どうすることもできなくなり、
今にして思えば思考も正常ではなくなり、
子どもを置いて追い出されてしまいました。

怖いから逃げたのではなく
逃げ始めたから怖くなった典型例です。

「支援」のほとんどが人を不幸にしているのではないでしょうか。
何の考察も経験もなく、
また、何の権限もないくせに
他人の人生をマニュアルに当てはめて
うまくいかなければ当事者が悪い、
アドバイス通りに行動して不幸になったら、
「自分の責任ではない。」
こういう目に遭った被害をもう聞きたくないのです。

不自由や不安を抱えているときに
逃げなさいと言われると
飛びつきたくなるわけです。
自分が悪いわけではなく、相手が悪い、
そんな単純な人間関係なんて
一つもないと思いませんか。

このようなケースの夫は
やり方を知らなかっただけです。
また自分に自信がないから
妻が自分の知らない行動をすることが
自分を見限る行動だと
勝手に思えてしまうわけです。

何を言いたいのかと言えば
夫は妻と一緒にいたいというところから始まっているのです。
それがうまくいかないと感じているから
ねじくれてしまうというだけの話です。

妻の方も、
夫に感謝したり、すまないという思いがあるし、
一緒にいたいという思いがあるから
夫の顔色をうかがってしまうわけです。

要は、夫も妻も一緒にいたいという気持ちから
その方法がわからないから
変な結論に至ってしまうわけです。

一緒にいましょうよ。
一緒にいるということは
一緒にいて楽しい状態にあることです。
幸せを感じることです。

それができないのはなぜか
ということを考えましょう。
これが人間らしい考察ではないでしょうか。

どちらが正しい、間違っている
ということをあげつらい、
モラルハラスメントの類型を提示することは
みんなを不幸にするだけです。

幸せになる方法こそ
みんなで広めていきましょう。
そのための翼がほしいと強く思います。

面会交流の場面で別居親の方にお願いすること [家事]

面会交流の実施や充実は、
すべてお子さんの健全な成長のためです。

その時によっては、お子さんがつまらなそうにしていたり、
退屈そうにしていたりするでしょう。それでも
お子さんのそういう態度もこちらが受容していることを示すこと、
お子さんが無条件に、自分が親の子どもという存在自体によって大切にされる
という経験を記憶することは
お子さんの健全な成長に有益であることは間違いありません。


それでは、どうやって、お子さんが、
自分が大切にされている、
しかも無条件に存在自体によって
ということになるか、
実務上の経験を踏まえてお話しします。


先ず、お子さんの置かれている状況を把握することが必要です。
現代の子どもたちは、
自分が尊重されるためには
条件を満たさなければならないかのような
そういう扱いを受けています。

テストで満点をとらなければ叱責されたり、
学校で一番になっても都道府県の
順位や偏差値を気にされたり
スポーツもただ楽しむことが許されず、
大会入賞やスポーツ推薦をしなければならない
というように、
大切にされるハードルが高く、
きりがない状態になっていることがあります。

これは現代的な風潮である場合も多いです。
同居親が不安になりやすい人だということもあるし、
同居親が別居親に認めてもらいたくて
子どもに頑張らせるという場合もあります。

どうか、別居している親御さんだけは、
お子さんを無条件に大切にしていただきたいし、
それを何らかの形で伝えてほしいのです。

これは、昔は祖父母の役割でしたが、
一緒に生活することが少ない現代社会では
自分が孫であるだけで尊重されるという日常を
体験することができなくなります。

また、祖父母が連れ去りに関与していると
当事者化してしまうということもあります。

子どもを守る別居親としての
役割があるわけです。


それでは大切にするということは
具体的にどういうことでしょう。

それは、子どもが自分の
不十分、欠点、弱点、後ろめたさを感じていることを
責めない、むしろ許しているということが
伝わることです。

子どもの面会交流にあたっての
一番の心配事はなんでしょう。
いろいろあると思いますが、
意識しているか否かにかかわらず、
別居している親御さんと一緒に暮らしていないことが
後ろめたいということがあります。

これは、幼稚園児くらいから見られる心理です。

先ず、面会交流でやっていただきたいことは
一緒に住んでいないことを許している
ということを子どもに伝えることです。

具体的には、
(ここは抵抗が大きいことと思いますが
 我慢して読み進めてください)
子どもが別居親と一緒にいることを
褒めてあげることが一つの方法です。
感謝をするとか、
同居している親の言うことを守るんだよとか

こちら側は、同居親に対して
敵意がないということを示すことです。

そうして、会いに来てくれることを
歓迎していることを示すことです。
それでよいんです。

学校の成績については
子どもが言うまで
無理に聞き出さない方が良いでしょう。
成績表を見せられたら
先ず良いところをほめてあげてください。

根掘り葉掘り聞くことは
子どもにとって苦痛なことがあります。
何を聞いているかあまり理解できない時は
特にそうですね。

話しやすそうなことを相手の表情を見ながら選ぶわけですが、
自然と話すことが理想ですね。
給食の話からはじめて、
友達の話が出てくるようならば
必死に名前とキャラクターを覚えましょう。


同居親はどうしても、
子どもをああしたい、こうしたい
ということが先に立って指図しますが、
面会交流の時は
子どもがしたいことにつきあうということが
うまくゆくと思います。

一対一で話し合うことは
子どもにとってはとても疲れるので、
一緒に何かをやるという方が良いと思います。
だから、できれば面会場所も
スーパーのゲームセンターよりは、
科学館や天文台等の学習施設の方が
過ごしやすいということになります。


別居親にとっては、
面会交流は試験を受けているようなものです。
太らせている、やせさせている
身なりが汚い、
所作が下品だ
すべてが、自分が否定的に評価されるのではないか
という不安の種になります。

そういうことを言わないこと、
むしろ無条件に子育てを尊重していることを
示すことが安心につながります。

案外子どももそうかもしれません。

「そんなことをやっていると
 お父さんに笑われるよ」
なんてことを言っているのかもしれません。

子どもを安心させると
同居親も安心するということになるでしょう。


子どもにとって居心地が悪いということは
これまでの経験上
子どもが別居親の元に逃げた例を見ると、

別居親の悪口を言う
兄弟間で差別する
という共通点があります。

同居親に感謝していることを言うこと
同居親の良いところを言うことは
子どもは居心地が良いわけです。
子どもは、本当は離婚等しないで
そういう家庭で暮らしたいと
願っているからです。

別居はしたけれど
少しだけですが子どもの願いをかなえる方法が
あるわけです。

大事なことは心ではなく
形、言葉でよいんです。
お子さんのために我慢してくださいね。

同居親は、別居親に対して
安心できないといういわば病気を持っている
と理解したほうがわかりやすいです。

それを解決するためには、
何か接触があっても
悪いことは起きないということを
繰り返し体験して、
安心の記憶を定着させることです。

面会交流のたびに
安心の記憶を与えてあげてください。

そうして、
直接話すことが無くても
面会交流が長く、自由になれば、
お子さんの健全な成長に
ますます役に立つと思います。

心の折れない方法は過労死させる方法かも。逃げても良いんだという選択肢こそ有効 [労災事件]

「心が折れない方法」が大流行です。

しかし、この考えは、大変危険で、
むしろ、過労死を出す危険があります。

言葉のまやかしの典型例です。

「心」という実態はありません。
心というのは、その人の環境に対応した
脳を中心とした体の反応です。

「心が折れる」というのも
何か心という実態が傷つくのではなく
環境が過酷である為、
これ以上頑張れないという状態で
反応すらできないという状態です。

これ以上頑張れないのですから
休むしかないし、休めばいいわけです。

あるいは
過酷な環境から離脱すればよいわけです。

レジリエンス等と言う言葉は、
少なくない割合で、
会社の業績が悪くなっても
心を折らないで頑張りきる
という文脈で使われる危険があります。

過酷な労働状況を放置して
なおも頑張れという文脈なわけです。

もっと創意工夫をして頑張れと
今までやったことのない試みをしろと
頑張りの最後の一滴まで会社に奉仕しろという
文脈で使われていることを
冷静に見極めるべきです。

過労死をする人たちは
この要請にこたえてしまう人たちです。
まじめで、責任感が強いのですが、
強すぎるわけです。

環境が過酷だけれど、
自分がここで逃げてしまっては
会社全体がうまくゆかなくなる。
途中で投げ出してしまうと
自分もだめになりそうだ
そういう考えが身についている人たちです。

自分や自分の家族のために
途中で投げ出すという選択肢こそ
そういう人たちには必要です。

心が折れるような環境を改善することが
全うな人間のやるべきことです。

また、自分の限界が来たなら、
それ以上前に進まないということこそ、
動物として自然であるわけです。

それにもかかわらず進むことに、
何か理由があるのでしょうか。
例えば自分の家族を助けるためであれば、
自分が倒れても、傷ついても私は応援するでしょう。

しかし、そこで、仕事をやめないで過労死するより、
仕事をやめて、
生活条件が低下しても
生き続けることの方が
家族を不幸にしないことです。

何百人という過労死遺族を見ていて
強く実感します。

今吉少し不自由かけることの方が
家族を亡くして苦しむことよりも
家族にとってはプラスのお釣りにあふれています。

強い心というのは、
過酷な環境でも頑張るという無茶な心ではなく、
一度逃げても、したたかに這い上がる心です。
負けることを受け入れる心です。

自分と家族の将来的展望を冷静に持つことができて、
合理的な交代を選択できる勇気を持つこと
そういうことだと思います。

逃げる選択肢を提起しないレジリエンスなんていうのは
大変危険な洗脳だと思います。

【講演のご報告】わが子に会えない理由と夫婦問題支援の在り方 動画あり [家事]

平成29年1月19日、自死予防ネットワーク
みやぎの萩ネットワークの月例会で
「わが子に会えない理由と夫婦問題支援の在り方」 と題してお話をしてまいりました。


https://www.youtube.com/watch?v=BVtkjtMeNDQ&list=PLAVsmJscGwdDfaCI_uzZQa581RVc08nFP&index=1&t=1s

東京や神奈川からもご参加いただき感激いたしました。
お話の概要をご報告します。

枕 面会交流は増えて離婚は減っている
  面会交流調停は、平成12年は
  全国で2,406件が申し立てられた。
  平成27年は、122264件。
  20年で10倍に右肩上がりに増加。

  離婚は平成14年に289,836組
  平成26年は222,104組
  千人当たりの離婚者数は
  平成14年2.3人
  平成26年は1.77人
  右肩下がりに減っている。

  納得できない子別れが増えている。

1 連れ去り別居の理由
  本来は女性は家庭に帰属することを志向
  連れ去り別居には理由がある。
  誰が悪いという視点では見えない。

  ①生理的変化、②心理的変化、③公的支援、④実家
  これらの組み合わせが原因
  
  ①生理的変化
  妊娠出産授乳の目まぐるしいホルモン変化
  プロラクチンと子連れ熊の適者生存
  
  甲状腺機能障害のケースが実務上多い、
  甲状腺機能亢進の場合にも不安を感じやすくなる

  うつ病その他の精神疾患が
  それまで社会生活を営めたのに
  震災を契機に増悪したケース

  ②心理的変化
  夫のDVや家庭不在
  DVはなくとも同じように夫の顔色を
  うかがう日々が続くとき、
  (厳格な夫、後ろめたい事情がある妻)
  経済的困窮
  職場などの対人関係の慢性的問題
  お子さんに障害があるケース

  ③公的支援の問題
  広範過ぎるDV概念 アメリカの支配目的暴力との比較
  しかし、対応は人格異常者に対する対応
  解決引き出しが離婚しかない
    修復の知恵も力も経験もない
    夫婦が多少のいがみ合いがあることを知らない
    いがみ合いを突き詰めると一緒にいたいということ
  
  ④ 実家
  どんなにルーズでも親であることをやめない安心感
  (夫婦の中で安心感が大切だということの裏)

  4つの組み合わせで子連れ別居が行われる
  だから、夫として、父として男として、人間として
  否定されたわけではない。
  妻は追い込まれていた。

2 子どもを会わせない理由
  実務経験からは、嫌がらせで会わせない
  ということはほとんどない。
  夫が怖いだけ

  怖い理由
    夫から批判されてばかりの妻は、
    夫の顔色ばかり見て過ごし
    自分のことを自分で決められないという
    極端な不自由感と
    いつか追放されるという疎外感から
    脳が勝手に
    夫は自分が生きるための活動を妨害する存在だと
    恐怖を抱くようにプログラムされてしまう。

    「あなたは悪くない」という支援は
    自分は何も悪くないのに攻撃される存在だと
    夫はそういう存在だという意識を植え付ける

    夫は治らない、逃げなければ危険だ。居場所を隠せ
    という支援は、
逃げなければならない。見つかってはならない。
という恐怖感を与える。
これは10年たっても恐怖が消えない。
もはや、怖いから逃げるのではなく、
逃げるから、恐怖が持続するということ

3 どうして子どもは会いたいと言わないのか
  父親と離れていっぱいいっぱい
  目の前の自分の親が取り乱しているのだから
  自分の親をかばうのは当たり前。

  子どもは父親を嫌いになったのではなく
  そこまで頭が回らないということが多い。

4 大切なこと
  連れ去り別居は自分に対する攻撃だと考えるのは
  あまりにも自己中心的な考え、
  特に生理的変化は、誰も責めることができない。
  子どもを産んでくれた感謝こそ。

  チーム状態の不具合があり
  妻が追い込まれて苦しんでいる
  という把握をしてみる。

  どうやってに妻に安心感を抱かせるか
  が修復のために考えること。
  困難な事情は多いが
  方法は見えてきている。

  非科学的な支援をやめさせること
    子どもに会いたいという主張から
    子どもを父親にあわせろという主張へ
    そして、
    それが母親の恐怖を減らす方法だと
    みんなが幸せになる方策だという正当性の確信

    私のことから、私たちのことへ
    それが権利が生まれる時。

  

【それは無能、無責任な第三者の言い訳です】「夫婦がいがみ合っているなら子どものためにも離婚した方が良い」という理論は、自殺者の意思決定過程と同一 [家事]

良心的な人の中にも
夫婦がいがみ合っているくらいなら、
離婚をした方が、
子どものためにも良いという人がいます。

これは、自死に踏み切るときの
人の考え方と同じです。

とてもわかりやすい例なので紹介してみることにしました。

特徴的なことは、
選択肢が極端に限られていることです。

選択肢A:子どもの前でいがみ合いながら夫婦生活を続ける
選択肢B:離婚する

さあどちらを選ぶということですから
これはまともな大人の思考ではありません。
選択肢Aには、バリエーションがあるはずです。

選択肢A-1
いがみ合いの原因を探究して、
あるいは原因はともかく
いがみ合いをやめる。
ということがまともな人間の選択肢です。

また、選択肢A-2
いがみ合いを続けながらも
子どもの前では、仲良くふるまう。

あるいは,選択肢A-3
いがみ合いを弱くしつつ
楽しい共同行動も増やす。

まあ、
選択肢Aー3が実際的でしょう。

そもそも、多少の軋轢があるということが
普通だと思うし、それが健全な姿だと思いますよ。

全く、喧嘩もない夫婦、
ニコニコと意見の違いを昇華させていく夫婦
そういうのは現実的なのでしょうか。

意見の違いがあって、
言いたいことを言うために。
少し相手に遠慮があるからこそ、
多少の怒りという勢いが必要なのだと思います。

全くいさかいのない夫婦は、
どちらかが我慢したり、あきらめたり
無理をしているんじゃないかなと
そう思うのは、少しひねくれていますか?

問題は、悪口言われたり、
多少ひどい扱いを受けても
修復する力があるかどうか
ということになると思います。

これは、子どもにとって、一番有益です。
けんかないし、意見対立が不可避でも、
それで終わりにならないということを
目の前の身内を見て学習するということです。

大事なことは、
嫌なことはなかったことにするということと、
水に流す力ですね。
絶対一緒にいるということです。
それができれば、
いさかい、大いに結構だと思います。

自死の思考パターンも
全く同じです。

例えば、
このまま会社で苦しみ続けるか
死ぬことによって苦しみから解放されるか
という選択肢しかなくなってしまうのです。

当事者から聞くと、
会社を退職する
という選択肢も出てこないのだそうです。

もちろん、会社の人間関係を修復しよう
等と言う前向きな考えにはなりません。

自死の場合は、
いろいろな嫌なことがあり、
自力で回復することができないという不可能感と
自分には有効な味方がいないという極端な孤立感のため、
だんだん焦りが高まっていきます。

落ち着いてものを考えることができなくなり、
第三の選択肢が思い浮かばなくなり、
自死をすることで死亡した後のこと等も
漠然としか考えられなくなるようです。
何をやってもうまくいかないだろうという
悲観主義的な思考も現れます。

ある意味、それは、
自分がそういう立場に追い込まれているということになります。

ところが、離婚の場合は、
第三者が、当事者に対して
「親が喧嘩ばかりしていたら子どもも不幸でしょうと」
無責任なアドバイスをしているのです。
悪魔のささやきです。

外にも選択肢があるのに、
第三者がそれを切り捨てたり、目隠しをしたりしているわけです。
犯罪的だと思います。

離婚が子どもに対して、
長期にわたり負の影響を与えること自体は
確立した結論です。

離婚という他人の人生、
特に子どもの健全な成長にかかわる
弁護士、裁判所関係者は、
病的な視野狭窄型の選択を迫るのではなく、
一次的には、
夫婦が子どもを育てていくという選択肢を
追及するべきではないでしょうか。

お互いを好きあって結婚した夫婦です。
不和が生まれるのには、それなりの理由が必ずあります。
離婚して子どもとはなれるくらいならば、
これまで生き方を我慢して修正するべきです。

そういう問題提起を
専門家は行うべきです。

他人の人生なんてどうでも良い、
子どもの成長も、子どもの自己責任だという
大人があまりにも多く、
それを自覚しない専門家が多すぎると思います。

また、人間同士の関係を修復する力が極端に弱く、
夫婦というのは、
憐れみの対象である被害者になりやすい依存傾向のある人間と
攻撃すべき対象である自己愛型パーソナリティ障害者の組み合わせだと
信じているかのような
無能な専門家にはなりたくないと
強く思っております。

【ボヤキ】子ども連れ去り別居によって、二度人格を否定される。面会交流調停覚書 [家事]

先日の面会交流調停が腹立たしく、
というか悔しくて
夜中なかなか眠れずに、
じゃアブログに書いてやろうと思った次第です。

某家庭裁判所のことなのです。

前に、公務員の方が暴行にあってうつ病になった事案で、
暴行自体はうつ病の原因にはならないけれど
暴行後の管理職の対応がひどくて
つまり被害者として扱わなかったことで
うつ病になったと認定された
労働災害の報告をしました。

認定報告】地公災基金審査会で逆転認定。職場内暴行被害後、上司の事件隠ぺいによってうつ病を発症した生存事案(時間外労働40~70時間) [労災事件] [ http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-10-20

この公務員の方は二度人格を否定されたわけです。
一度目は、暴行によって
二度目は、暴行後の管理職の対応によってです。

そして精神的には、
暴行それ自体よりも
その後の方がきつかったということになります。

こういうことは裁判所でも起こります。

ある日、会社から帰宅したら
妻子がいなくなっていた
行方知れずになることもあるのですが、

夫からすれば、
前日まで普通に会話をして、
普通に心の交流をしていたのに、

ただいまと帰ったら、
そこは、家庭ではなくなっていたのです。
ただの木の箱になっているのです。
自分一人が取り残されてしまった。

これは、男女の別は本来関係ないのですが、
男が取り残された場合は、
家族から自分が
夫として、男性として、人間として
家族の一員として否定されたという衝撃を受けます。

存在自体が許されないと感じられるわけです。

これは、男性が妻や子供に暴力をふるった場合でも
暴力などふるわかない場合でも
極度の疎外感を感じることには変わりはありません。

たとえ、家族に対してよからぬことをやっている人でも、
家族のために仕事をしているという意識が強くあります。
その人なりに家族を大事にしています。

それにもかかわらず、
離婚調停や面会交流調停で、
家庭裁判所が、
連れ去られた親に対して、
この疎外感について共感を示すことは滅多にありません。
まあ、、滅多にというより、ありません。

前に、面会交流調停を申し立てたら、
調停委員から
「なんで子供に会いたいの?」
という質問をされたことがあり、
比較的感情を抑えずに小さくない声で
1時間ほどご説明をしたことがありました。

この事件は、調停委員の外に
毎回裁判官が入るようになりました。

今回の調停も
調停委員の一人が、
目を座らして、当事者をじっと睨みつけているのです。

面会交流は、子どもの利益のために行うものです。

通常は別居親は会いたいし
同居親は会わせないのです。

何とか、子どもの利益のために
子どもを別居親に会わせようとする
その方法を話し合う
というのが、面会交流調停のはずです。

初めから、
会うことを我慢しろということばかり言われるのです。
何のために面会交流調停を申し立てたか
わかりません。
考えてみれば、金返せって話です。

コーヒーの注文を請けて、お金を払わせておいて
コーヒーは胃に悪いから飲むのをやめなさいと
言うようなもんでしょう。
(コーヒーが胃に悪いと言っているのではありません。。
 この様に難癖をつけて理不尽なことをしているという
 卓越した比喩ですので、ネッスルさん。)

せめて、お寂しかったでしょうとか
つらい気持ちだということはわかりますとか
子どもに会えない心情をいたわることはできるだろうに、
裁判所は、人格を否定されたと感じている人に対して、
当たり前の態度を示さないばかりか、
私から見れば、挑発し続けている
というように感じられてなりません。

そしてお決まりの、
「奥さんは面会交流に理解を示しています。
 子どもを会わせようとしているんですよ。
 でも子どもが会いたくないと言っているんです。」

誰から聞いたのと
その奥さんでしょと
つこっみを入れる気もだんだん弱っていきます。

別件では、
なんだかんだ言っても
結局、同居親妻の葛藤が高すぎて
面会交流に至らなかったことがはっきりしました。
本人が認めたのです。

別居妻の「言葉をストレートに」指示する。
これ大事なタームなので覚えてください。

そもそも、何も話し合いもせず、
不満も要求も表明せずに子どもを連れて立ち去った人です。
別居親は言葉をストレートに受け入れることはできません。

それにもかかわらず、
言葉をストレートに受け止めろという結論を押し付けてくるわけです。
こちらの言葉は何らストレートに受け入れないくせにです。
無力感が募っていくわけです。

子どもは、同居親が身近にいますから
全うな人間として、近くにいる身内を助けようとします。
そして、子どもですから
それが別居親を傷つけるということまでは
頭が回らないことが多いです。
子どもはそれでよいと思います。

問題は、会いたいと言えない子どもの代わりに
大人たちが何とかしてあげるということです。

家庭裁判所には、子どもの心理等の専門職である
調査官という職業があり、
実際に子どもと面会をして
環境や意向を調査します。

最近の面会交流調停には、
調査官が立ち会うようになっているようです。

それは期待します。
家裁月報の調査官の研究論文は優れたものが多く、
子どもの発達心理の勉強になります。
同居親に気を使っている子どもの心理を
鋭くえぐり取って、
子どもの言葉をストレートに受け止めず、
真意を探り、
子どもの健全な成長の観点から
合理的な意見を述べてくれるだろう、

子ども健全な成長の観点から
面会交流を推し進めてくれるだろうと
そう思いたくなるじゃないですか。

実際、この事件についても
鋭い調査がなされました。

母親が嘘をついて子どもを父親から遠ざける手法についても
鋭く報告していました。
母親の面会していいんだよというストレートな言葉を
子どもが額面通り受け止めずに、
会いたいと言えない様子もリアルに報告していました。

で、

調査官の意見は、


子どもが会いたくないので、
手紙や写真を別居父に渡すことが良いと
いっているのです。

調停の中でも
面会を断念するように説得する態度に終始しているのです。

何のための調査官立ち合いなのだろう。

しかも、報告書では
子どもが父親に
会いたくないと言ったとは一言も言っていないのに、
調停期日では、
明確に会いたくないと言ったと何度も言いました。

なんで報告書に記載していないことを言うんだかわかりません。

また、子どもが父親の良いところを述べていても
言葉をストレートに受け止めてはだめだというのです。

それにもかかわらず
言ってもいない「会いたくない」という言葉を
ストレートに受け止めろというのです。

だいたい、同居親が手紙や写真を送ることが
なんで、子どもの健全な成長につながるのか、
面会交流の意義を理解しているとは思えません。

子どもの意見を尊重することに反対することは
11月に述べた通りです。
面会交流にあたって、「子どもの意見を尊重する」ことに反対します。(あいたいと言えない子ども達のために大人がするべきこと)

連れ去られて一人ぼっちになってしまった夫は、
自分が心を持った人間であるということを
裁判所で否定され続けるわけです。

二度人格を否定されますが、
二度目は、強権力を持った国家機関から否定されます。

裁判所は人権最後の砦であり、
税金で優秀な人材を集めているという
信頼感があります。

その人たちに公平にされるべき自分が
目を座らせて終始説得されるわけです。
一度目よりも深く傷つけられる
ということは簡単に理解できることでしょう。

紛争を解決しようとせず、
マニュアルに従った対応で
紛争を長期化、感情化させていることに
裁判所が気が付かなければ
悲劇は繰り返されていくことと思います。

残念でなりません。










【それは誤解です】弁護士が法律の条文で物事を解決する職業だと思っている人が結構いるという件 [事務所生活]

「弁護士は法律の条文で物事を処理するんでしょ。」

先日、ボランティアの集まりで、そういうことを言う隣接業種の方がいらっしゃったということで、これはこのブログのネタに最適だと思ってしまった次第です。

裁判所を通さない示談交渉はもちろん、
調停やADRや裁判上の和解
そもそも裁判の事実認定においても、
法律の条文は、あまり関係がないことが
実は多いのです。

それも法律だと言われてしまっては困りますが、
人権だったり、公平だったり
あるいは親子の情愛等が
解決手段として使われる方が多いと思います。

あるいは社会常識だったり、
医学的知識だったり。

過労死をはじめとする労働災害や交通事故は
医学的な論争になることもあります。

離婚や面会交流は
心理学や精神医学的知見が重視されなければなりません。
子どもの健全な成長のためということが
解決の基準とされるべきです。

ある相続の争いの事件で、
双方の誤解を解くために
心理学や医学の文献だけを証拠提出したこともあります。

法律の条文で決着をつけるような
簡単な事案ばかりではないのです。

それもそのはず。
法律がいかに多くても
現実の人間関係を規律するには
あまりにも少ないですし
あまりにも抽象的です。
これが法律の宿命です。

それだけ、人間関係や紛争は、
類型化しにくい事情が多くあるわけです。

それを知っているのが法律家のはずなのですが、
弁護士以外の法律家にも
弁護士の仕事について誤解があるようです。

それには理由があります。
司法書士や社会保険労務士の仕事は、
主として手続き的な仕事です。
それらの手続きは定型的なので
どうしても、法律の条文や
通達に従って仕事を進める比重が
多くなっていくという特徴があるわけです。

もっとも、その手続きを選択するまでには
やはり条文以外の要素も出てくるとは思います。


しかし、そういう誤解があったのかということで
納得できることもあります。

テレビ番組や、インターネットの法律相談で
法律的にはどうなのか
自分の要求は法律的に認められるのか
という質問が多くあり、
弁護士としては違和感がありながら
回答をしていました。
(テレビには出ていませんが、念のため)

実際の法律相談でもないことはないのですが、
あまり多い相談形式ではありません。

実際の相談は、
「今困りごとがある
これをどうやって解決するか」
という相談なのです。

「法律ではこうだよ
法律では認められるよ」
と言ったって、
それで解決することなんてないのです。

例えばパワハラ一つ取ったってそうです。
そもそもパワハラの定義自体曖昧だし、
ワンマン社長のパワハラが違法だとしても
法律違反だと宣告して解決する
ということにはなりません。

従業員が、あんたパワハラだといって
無くなればよいのですが、
先ずそれを簡単に言うことも難しいですし、
報復されれば、
裁判闘争になるでしょう。
弁護士を頼めばお金もかかります。

その人の個別事情を考えると
法律的には間違っていないにもかかわらず、
退職することがベストだということも
実際にはあるのです。

私は、対人関係上の争いは、
特に家族や仲間に関する争い事は、
法律や裁判で解決するべきではない
と考えています。

このブログを読んでいただいている方には
ご理解いただいていることだと思います。

結局
人間とは何か
紛争や心の葛藤が
どちらも悪くない状況でも起き得る
ということを直視することが
紛争解決の王道だと思っています。
特に大切な仲間同士の紛争については
そのように考えています。

ではどうやって解決するか、
それが対人関係学の
一つの使命だと思っています。

私の研究テーマということになります。

How to feel the danger of interpersonal relations 対人関係上の危険の感じ方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


Imagine the lives of human beings since time immemorial. Was not an effective weapon to human. In the cave man lived in hunger and beasts of prey.

In the cave, had dozens of fellow. That abomination from fellow man was meant to that person goes outside the cave.

It was meant to die. It would be easy prey for wolves and bears, to starve because it cannot find the food to be cold and that cannot withstand the heat, meant to them.

Whether or not disliked by other members of the Group good luck, that once reigned as King. What happens if you want to eat only what is eaten. That allowed the others to suffer what happens.

I wasn't at that time is enough food supplies in the crowd. Equality is not defended in the flock died from weak individual. The weak die, smaller herds. It is to undermine the group. Flock from wild beasts by. Strong individuals in the herd also lose to wolves and bears.

We should protect the weak person for groups. In size the herd to increase. Cute baby other than the mother, the baby care with human characteristics. Means that inherited genes that protect the flock.

To protect yourself and to protect their herds since time immemorial human beings are "my is is so removed from the herds of other members. "It had the ability to sense danger.

Imagine the human relations of this period.

1). Evaluation of the practices of their own.

① Will recognize and Act removed from the herd, they flock to disturb.
My flock to hurt someone. My bring trouble to anyone of the herd. Failure of their actions harming swarm. Feel the danger on the interpersonal relationships of ridiculous reaction by the other members of the flock of these acts is also.


Feel the risk of anticipatory anxiety of these acts are removed from the herd. Do not fail from this Act. This theory can be explained from this tension.


Also, if you had imposed against themselves, their role feel the danger. "I like this man should be. "That belief often. In addition, more frequent in males.


Can break the rules in the Act that people feel interpersonal related risk

2)The behavior of the others
= Feel yourself is not treated as a companion and attitude


The other members are not protected by their health and safety. From the other members is made to do dangerous work. Other members is made to do hazardous work to attack yourself. They confirm that flock there to attack their members.


Denied the collaboration from other negative value as a member of the group members. Be prohibited said. Forbidden's free behavior.


here are not a fair evaluation. Group gave a profit but not compliments. It had painful time inconsolable. Even though there is no cause, criticized.


Distribution will not be equal. Food,information,
Technology, tools and so on.


Thanks for Microsoft Translator

想像してほしい、太古の人間の生活の様子を。人間には、有効な武器はなかった。洞窟の中で、人間は、猛獣と飢餓に脅えながら生活していた。

洞窟の中には、何十人かの仲間がいた。一人の人間が仲間から憎まれることは、その人間が洞窟の外に出ることを意味した。

それは、命を落とすことを意味した。それは、オオカミや熊の餌食になること、食物を見つけられないために餓死すること、寒さや熱さに対応できないこと、それらを意味した。

運よく、群れの他のメンバーから嫌われず、その者が王様として君臨したらどうなるか。どの者が自分だけ食べたいものを食べられたらどうなるか。その者が他人に苦しい思いをさせることが許されたどうなるか。

当時は、群れの中に食糧の蓄えは十分ではなかった。群れの中で平等が守られなければ、弱い個体から死んでいった。弱い者が死ねば、群れの人数が減る。それは群れを弱体化させる。群れが、猛獣から襲われやすくなる。群れの中の強い個体も、オオカミや熊には負ける。

群れにとっては、弱い者を守ることが大切である。人数を確保して、群れを大きくするのである。母親以外が、赤ん坊を可愛いと思い、赤ん坊の面倒を見るのは、人間の特徴である。群れを守るという遺伝子が継承されていることを意味する。

自分を守るためと、自分の群れを守るために、太古の人間は、「自分が他の群れの構成員から、外されそうになっている。」という危険を感じる能力をもっていた。

この時代の人間関係を想像してください。

1)。自分の行為についての自分自身の評価。

①。
先ず、自分が群れに迷惑をかける行為が、群れから外される行為であると認識するだろう。
自分が、群れの誰かを傷つける。
自分が、群れの誰かに迷惑をかける。
自分の行為の失敗が、群れに損害を与える。
これらの行為は、群れの他の構成員のそのことによる反応をみないでも、対人関係上の危険を感じる。

②。
これらの行為の予期不安も、群れから外される危険を感じる。
これからの行為を失敗してはいけない。
このような気持ちからの緊張を、この理論は説明できる。

③。
また、自分が自分自身に対して課した、自分の役割を果たせない場合にその危険を感じる。「私はこういう人間でなければならない。」という思い込みの場合が多い。また、男性に多い。

④.
群れで決めたルールを破る行為をすることも、その人に対人関係上の危険を感じさせる。

2) 他のメンバーの自分に対する態度。
  = 自分が仲間として扱われていないと感じる態度
①.
他の構成員が、自分の健康、安全を守ってくれない。
他の構成員から、危険な作業をやらされる。有害な作業をやらされる
他の構成員が自分を攻撃する。群れが、構成員が自分に攻撃することを追認する。

②.
群れの構成員としての価値の否定
他の構成員から、共同作業を拒否される。発言を禁止される。自分の自由な行動を禁止される。

③.
正当な評価がなされない。
群れに利益を与えたのに、褒められない。
苦しい思いをしたのに慰められない。
原因がないにもかかわらず、批判される。

④.
平等に分配がなされない。
食料
情報
技術
道具

How to respect others 人を尊重するとは 日本語は、後ろ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

Meaning of "respect for people"

"Respect for the human" is that the human person's imperfections and weaknesses, inadequacies, then is that failure, blame, don't laughed, not criticize.

Negative with the human element is the human feel danger of interpersonal relations on (premonition of exile from the herd). People. With the requests of the genes on the human groups belong to want to exist in a coordinated manner. The shortcomings and weaknesses, inadequacies and feel inferior. Painful feeling of inferiority is to feel the fear that "their not being admitted as a fellow is not?". During that time, yanked from a fellow that has alarmed. When humans fail, feel similarly.

Increase the sense of crisis will be a negative review from a fellow that human beings have their negative elements. To increase the sense of crisis, or to keep cause defects of the human mind and body. As a result, there is danger that leads to suicide. Man has this nature born as herd animals.

So, is that even to negative elements to "respect the human, greedy man. That forsake its human.

To prohibit acts feel the sense of crisis on the interpersonal relationship to humans, it is the concept of human rights.

Peers that do not feel a sense of crisis over, to feel myself respected acts, acts that inspire confidence that this is a kindness.

「人間を尊重する」ということの意味

「人間を尊重する」とは、その人の欠点、弱点、不十分な点、それから失敗を、責めない、嘲笑しない、批判しないということである。

 その人間の持つ負の要素は、その人間に対人関係上の危険(群れからの追放の予感)を感じさせる。人間は、所属する群れに協調的に存在したいという遺伝子上の要求を持つ。自分に、欠点、弱点、不十分な点があると、劣等感を感じる。劣等感が苦しいのは、そのために「自分が仲間として認められないのではないか」という不安を感じるからである。その時人間は、無意識に、仲間から外されるのではないかという危機感を感じている。人間が失敗をした時も、同様に感じる。

その人間が、自分の持つ負の要素を仲間から否定的な評価をされることは、その危機感を増大させる。危機感が増大すること、あるいは持続することは、その人間の心身の不具合を引き起こす。その結果、その人間が自殺に至る危険もある。人間は、群れを作る動物として、生まれながらにこのような性質を持っている。

だから、「人間を尊重する」ということは、その人間に負の要素があっても、その人間を決して見捨てないということである。その人間を見捨てないということである。

人間に対して対人関係上の危機感を感じさせる行為を禁止すること、これが人権概念である。

危機感を感じさせない以上に、仲間であることに確信を抱かせる行為、自分が尊重されていると感じさせる行為を相手にすること、これが優しさである。