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【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(後編)】被害者の心理 [弁護士会 民主主義 人権]



<被害者の心理がどのように失敗に結び付くか>

自分もある方面で渦中にいるので、自分の心理状態と心理反応を分析して、被害者の心理とその弊害を考えてみました。

1)前提として、人間の思考や言動は必ずしも理性的でも合理的でもない

弁護士をしているとつくづく感じるのですが、人は大事なところでもあっても、よく考えて行動しているわけではないということです。一般の方々は、どんな時も、冷静に後々のことを考えて大事な場面で意思決定をしていると勘違いされていますが、どちらかと言えば人間の意思決定はそうではない、何となく直感的に行われていることが多いようです。
例えば対立している人のどちらかに味方をしなければならない場合でも、「双方の言い分を吟味して論理的にこちらが分のあることを言っている」なんて言うことでどちらに味方するかなんて考えていません。大体は、どちらと付き合いが長いか、どちらがその場の人間関係の秩序を維持することに役立つと感じるか、どちらの顔や服装が好ましいか、あるいはどちらが負けているか、どちらが勝っているか、その年齢、かわいそうなのはどちらか、自分が反撃されないためにはどうするかなどという、こういうことでどうするか決めているようです。これは人間一般の傾向で、考える労力を省いて、直感的に意思決定をして省エネする傾向にあると言われています。
自分が被害者ともなれば、自分を守ろうとする意識がどうしても出てきてしまいます。この場合はさらにじっくり考えることは至難の業です。いち早くなるべく簡便に、自分に降りかかった危険を跳ね飛ばそうとしてしまいます。多かれ少なかれ人間はそのような傾向があるわけです。生きるための仕組みということになります。
それでは、どうしようもないかというとそうでもないようです。最近のノーベル賞受賞者や心理学の賞の受賞者は、まさにこういう研究をしている人が多いのです。人間のこのような傾向を分析し、それにどう対処するかというテーマです。つまり、人間がどういう風に間違いをする傾向にあるかを予め知っていれば、間違いの場面に直面していると気が付きやすくなる。そのときに直感的思考ではなく、分析的思考をするように意識づけることによって、その場面で間違いをする確立を低下させようという考え方です。また、他者がどのように思考を省略するかということをつかんでいれば、ではどうやってアッピールすればよいかという戦略も組み立てられるわけです。ノーベル賞を取った心理学者はノーベル経済学賞を受賞しています。
一番大事なことは、被害当事者の方は、自分には間違った行動、利敵行動をする可能性があるのだということを自覚することです。それはあなたの能力や人格の問題ではなく、被害者だから無意識に自ら損を招いているということなのだということなのです。


2)被害者が陥る心理状態

わかりやすく説明するために、ある日ある時突然子どもを連れ去られて、様々な手段を使われて子どもと会えないという連れ去り被害を受けた被害者の心理を中心に考えていきましょう。
以下の心理になることは当然だと思います。
・何が起きたのかわからない。
・事実を受け入れられない。なかったことにしたい。
・相手が出て行った理由がわからない。
・事態を飲み込めないうちは、相手と子どもの安否が心配になる。

ごくごく初期はこのような混乱が多いでしょう。少し落ち着くと次の感情も出てくると思います。
・相手が自分を否定的に考えていることはわかるが、具体的にはどういう考えか、どういう理由なのかわからない。
・相手が自分について、誰にどのようなことを言っているかわからない。
・相手に対してもやもやした怒り、不気味さ、気持ち悪さがわいてくる。
・自分について自信が無くなりやる気が起きなくなる。
・自分の未来がことごとく今回のことで妨害され、障害を受け、何をやってもうまくいかないかもしれない等と考えてしまう。自分のこれまで積み上げてきた実績が、こんなことで終わりを迎えるのかという考えがよぎる。

さらに警察や行政や司法が絡んでくるとさらに複雑になると思われます。
・誰が味方で誰が敵なのか見当がつかない。誰が手伝ったのかわからない。
・理不尽なことを誰も是正してくれないのはどうしてなのか。自分は大きなものから否定されているのかもしれない。
・自分を守らなければならないほど危険な状態だとはわかるが、どうやって自分を守ればよいのかわからない。解決の方法が見えてこない。

一言で言えば、連れ去りの被害者は不条理を実感しているのだといえるでしょう。しかし、被害者は、自分が不条理な目にあっているということさえ自覚できないことがあります。何が起きたかわからないままに苦しみ続けることもあります。自分のわからないところで、「自分のこと」が勝手に進められているということ、自分を守らなければならないのに守る方法が無いということは、人間の精神を激しく攻撃します。この激しさを考えれば、心理的に正常でいるということはあり得ないことは当事者ではなくともよくわかると思います。

3)被害者の第三者に対する感情・要求

不条理にさらされた人がどのように考えるか。
・不条理は是正されるべきだし、早急に是正されるはずだ。
・第三者、特に公平な人、人間関係の秩序を維持する役割の人たちは自分の味方になるはずだ。裁判官、弁護士、警察官、公務員等々。
・事情を説明すれば、誰しも自分の味方になってくれるはずだ。
・自分の被害は誰でも共感されるはずだし、親身になってもらって当然だ。
・誰かが自分を助けてくれるはずだ

人間は危険にさらされると、仲間に助けてもらうことをつい期待してしまう生き物のようです。自分を殺そうとする人間に対しても多くの人が命乞いをするのは当然のことです。
文明発祥以前、人間は仲間と助け合って厳しい生存競争を生き抜いてきたわけです。それが現代においても遺伝子に残存してしまっているようです。このシステムは人間の敵が人間以外の例えば猛獣である場合は、とても良く機能します。仲間の人間よりも猛獣を助けようとする行動をとるということはおよそ考えられません。自分の命を顧みずに仲間は猛獣から仲間を助けようとしたでしょう(袋叩き反撃仮説)。しかし、現代社会は、人間の敵の多くは人間です。人間と人間との対立に苦しむわけです。そしてその対立を見ている第三者もいることが特徴です。その人たちは、文明以前のように、どちらが敵でどちらが味方なのかを判断したがるようです。これを本能的に一瞬で決めてしまいます。そして、仲間でない方は敵だとしてしまいます。つまり仲間でない方は猛獣を扱うみたいな扱いをされる危険が生まれてしまいます。その判断こそ、非論理的に思考省略的に決定してしまうのです。自分が期待するほど、第三者は自分を味方してくれないことを経験するわけです。そして、関係のない第三者が自分を攻撃していることを知ることになります。もちろんわけがわかりません。
このような状態に陥った場合の人間の心理として、私は以下のような発想、行動傾向を良く目撃しています。自分でもつい最近体験しています。

・他者、特に秩序を守るべき人物に対する要求度が高くなる。(その人の事情を考慮しなくなる。)
・自分の期待に応えてくれない人に対してじれったい思いが強くなる。(同)
・自分の感情を聞いてくれる人に対して、怒りをぶちまけてしまう。(同)
・何か自分に不利な事態が、他者によって維持固定されるのではないかと疑うようになる。何かをしなくてはいけないという焦りが生まれる。
・他者が話をしていても、自分にとって悪い結論を言おうとしているのではないかと思い、つい話を先取りして、話が終わらないうちから反論を始めてしまう。(実際はその予感は当たることが多いが、話を遮ること自体が相手を怒らせる)
・自分が置かれている理不尽さですべての人は価値判断をするべきだと思う。つまり、期待している人も自分の敵を一緒に攻撃しないことはおかしいと感じてしまう。
・自分の思い通りにならないことは、誰かの自分への攻撃意思の表れなのではないかと悲観的に考える。

4)第三者の心理
  当然のことながら、第三者は、被害者の心理なんてわかりません。このことに被害者は気が付きませんし、だから自分の行動をどのように修正するべきかという発想はなかなか持てないのです。
 ⅰ)敵対する第三者
   先に述べたように、敵対する第三者は、あなたが悪だから、あなたに反対だから敵対するわけではありません。実際に対立する二人うちの、どちらの言い分が正しいか吟味しているわけではないのです。ただ、あなたと対立する人物を擁護しようとしているだけなのです。あなたと対立する人を擁護しようとして、反射的にあなたを攻撃する結果になっているだけです。つまり、こういう人は、「1人が落ち込んでいるのだから誰か落ち込ませた犯人がいる」という二項対立的な観点に立っていつのです。思考省略型の発想の典型ですね。そうして目の前のかわいそうな人を助けるということで、その人が仲間だと思うわけです。そうすると、その人にかわいそうな思いをさせている人があなただと思い、あなたは敵だという発想になってしまうわけです。敵には容赦しないわけですから、その人の相手であるあなたを攻撃してしまっているだけです。そこでいうかわいそうという判断も、性別が自分と一緒とか、年齢が低いとか、救いを求めている顔をしているとか類型的に弱い立場の人を助けようという反射的に決めているだけです。その人が本当に助けられるべき人なのかを吟味しているわけではありません。そうして、敵と味方を自分の頭の中で分けてしまうと、あとは思考停止です。多くの人間の思考省略型の意思決定はこういう風に行われています。対立者が猛獣であり、倒すべき存在ということに自動的に思考が成立してしまいます。
  こういう場合、猛獣扱いをされた方は、事実を証明していくことが有効ではあります。しかし、一度敵味方が区別されてしまうと、味方の言い分を疑うことを差し控える気持ちが生まれてしまいますし、何とか敵の反論の落ち度を探そうという意識になってしまいます。通常では有効性のある証明もなかなかそれを受け入れようとしなくなるということが起きます。話が通じなくなるのはこういうメカニズムです。これは頭に入れておいていただきたいと思います。また、元々、自分がどこで、どのように攻撃されているのかわからないので、反論しようがないということも重大な問題です。
 ⅱ)仲間だと思える第三者
  仲間のように見える第三者でも、被害者の要求するほど支援してくれるということはありません。被害者は他者に対して過大な要求を持ってしまうから、そのフィルターで仲間に見える第三者を評価してしまいます。
  しかし、通常第三者は完全な仲間にはなりません。利害関係が一致する第三者はこの世にいないからです。利害が一致している部分では仲間ですが、利害が異なる点では仲間であることを要求できません。全部同じ境遇の仲間は一人もいないと考えるべきでしょう。
  それでもこの第三者なりに被害者を支援しようとしているわけですが、あまり要求が過大になってしまうと、第三者は正論を突き付けられている、正義感情を刺激させられているという受動的な意識が強くなり、被害者を持て余すようになります。特にその第三者が、被害者をかばって、その人としては大変危険を冒して行動しているのに、被害者が「どうしてもっと自分を助けようとしてくれないのだ」というような態度、言動を第三に向けると途端に不愉快な気持ちになるでしょう。通常被害者は、その第三者が自分のためにどのようなことをしてくれているのかわかりません。さらなる援助をリクエストしてしまいます。第三者は、被害者が何を知っていて何を知らないかということをあまり認識していませんから、必要な情報を提供しようという意識は薄いかもしれません。これは、その第三者に問題があるというよりも、第三者とはそういうものだと頭に入れることが実践的には役に立つことだと思われます。
  第三者は、紛争に巻き込まれることを嫌がります。そのように考えることは誠実な人柄だと本来は評価するべきです。何が起きたのか、第三者はわからないですから被害者に一方的に加担しようとしないならば、むしろ本来信用するべき第三者なのです。
  また、第三者は、被害者が自分で解決することを望む傾向があります。なるべく自分の労力を省エネしたいわけです。これは人間の思考パターンとして普遍的なものです。たとえ、被害者が一方的に被害を受けていたとしても、できれば加害者と話合って解決しろということを言うこともありますし、自分以外の仲間を増やして加害者と対決するように提案することもあります。第三者は、被害者の心細い気持ち、そもそも自分が孤立している理由がわからないといおう理不尽な気持ちまでなかなか配慮することはできません。第三者は、自分だけが対立する二人の間に入って、やらなくても良い仕事をさせられているのに、ただ感情的になって解決に向かって何もしていないように見える被害者に、イライラしているのかもしれません。
  しかし、なすすべなく一方的な被害を受けている被害者に解決能力はないということが多くの場合当てはまるように感じます。
  このような第三者の心理は、人類普遍的なもので、よほど何らかの事情で肩入れをしていない以上は、そういうように感じるものだということを頭に入れておくことが大切です。そうでなければ、知らないうちに孤立していく危険があります。
 ⅲ)純然たる傍観者
  何も理解しようとしない傍観者という人たちが圧倒的多数なわけです。こういう人たちは、とにかく紛争に巻き込まれることを嫌います。それはそうだと思います。紛争が好きだからといって首を突っ込みたがる人はそれほどいないでしょう。
  純然たる傍観者は、怒りの感情を本能的に拒否する傾向にあります。人が怒っていることをみることを嫌がるわけです。怒りの感情を目撃すると、どうして怒っているのだろうかと懇切丁寧に理由を紐解く人もそれほどいないことはお分かりだと思います。
  怒りのとばっちりを食うとか、八つ当たりを受けるとか、自分も激しい感情を持たされるのではないかということが億劫に感じるのだと思います。また、現在の自分の置かれている状況から、他人の話で心を動かす余裕はないと考えやすいのかもしれません。案外人間は消極的な意味での平和主義者なのかもしれません。自分にはモチベーションがないのに、何かをしなくてはいけないということも、近づくことを拒否する理由になると思います。
 ⅳ)人間はキャッチ―な言葉に弱い
  わかりやすい言葉に弱いということも、人間の特徴かもしれません。これは特に対立する第三者、純然たる傍観者に強くなるように思われます。
  例えば「DV」という言葉出れば、自分が想定しうる最悪のDVが起きていたのだというイメージを作ってしまいます。本当は、嫌みが多いとか、ダメ出しが多いだけという話というか、そう感じてモラハラだ、DVだと言っているのかもしれません。しかし、第三者はDVという言葉を聞くだけで、土下座させて1時間説教するとか、何かあるとすぐに平手打ちするとか、人格を否定しつくすような脅迫が続くとかそういうことが起きている、あるいは主張しているなどというように勝手にイメージが作られていきます。 
これと似たような言葉が、「いじめ」、「虐待」、「パワハラ」、「モラハラ」等です。具体的には何もわからないのに、悪い方向でのイメージが勝手に膨らんでいくわけです。DVがあったと主張するだけで、本当にあったとして話が始まってしまいます。しかも激烈なDVがあったというイメージになります。実際、それを聞いた第三者は、その人が大変恐ろしい人間だというイメージが育っていきます。その人から自分を守らなければならないという防衛意識が強くなります。つまり怖いのです。怖いときに最近の人間は、マニュアルに頼ろうとします。その時点では、第三者から見ると、被害者は名前を持った一人の人格主体ではなく、1人の「DV加害者」になります。誰彼構わず文句を言って、気に食わないとクレーマーのように執拗に第三者自身が攻撃を受けると、つい想定をしているものです。なんとあなたは警戒されているのです。あなたから自分を守るという意識が、第三者のイメージの中であなたをさらにモンスターに育ててしまいます。
5)結果としての被害者の孤立
  見てきたように、被害者は、理不尽な状態から脱却したい、支援者は自分を十分に支援しつくすべきだ、第三者も自分に共感するべきだと思ってしまいます。これに対して通常の第三者は、そこまでは付き合いきれないという気持ちにあり、その間にギャップがあります。
  これは被害者と被害者の支援者に常にあることのような気がしてきました。精神的に衝撃的なダメージが残る被害を受けた場合は特にそういうギャップがあるようです。もちろん、人によって程度はだいぶ違うのですが、そういう火種は常にあると思います。そもそも支援者は、被害者を支援するだけでなく、他の仕事もありますし、他の人間関係でも時間を使わなくてはなりません。すべての時間と労力を被害者に捧げることは不可能です。
  被害者はそういう温度差を感じ取り、ますます苛立ちや自分が尊重されていないという思いが強くなります。

  その結果、以下のような現象が起きがちになります。
・本来、ニュートラルの立場にある人や、どちらかというと自分の味方である人の、些細な落ち度が目につく、自分に対する共感度が足りないと感じやすくなる。
・相手の気持ちを考えにくい状態なので、もっとあれをやれ、これをやれと指図をしてしまいます。自分の不安に任せたかなり細かい指示をしてしまいます。
・事態が進展しなかったり悪化したりすると、支援者を責めたりすることも怒ったりします。
・支援者は、これだけいろいろ手を尽くしているのに、あまり本質的ではないことで労力を使わされたリ、顔をつぶされたり、時間をとられたりすると、だんだん被害者が怖くなったり、不愉快になったりします。もちろんパフォーマンスは下がります。瞬間的なものであっても、支援の気持ちが失われることがあります。
 ・これが続いていくと、どうして自分が攻撃されながらこの人のために行動しなければならないかわからなくなっていきます。
 ・結局支援を打ち切ることになるわけです。
 被害者が支援者を攻撃しているわけではないのに、支援者は攻撃されているという意識を持ち、自分を守るためにその場から離脱しようとするわけです。

 
 ここまで極端な例ではないけれど、被害者の感情がさらに亢進してしまうと、以下のような印象を他者に与えています。
・単に相手に便宜を与えているだけの人(自分を攻撃しているわけではない)に対して、限りの無い恨みを抱く。自分の味方ではない人は自分の敵だと感じてしまう。
・自分の利益を図るために、周到に計画を立てて計画に従った行動ができないし、計画も立てられない。感情的な、反射的な言動が増える。
・自分だけが苦しんでおり、敗者となっている。他者、特に相手は、勝者であり自分と反対の立場であるから、楽しく勝ち誇って過ごしていると感じるようになる。
・相手は自分に対して、現時点でも、さらに攻撃しようと思っているし、貶めようと思っているはずだと確信している
 ・些細な出来事に対しても、自分が不利益を与えられるのではないかと思い、攻撃をすることをためらわない。第三者から見るとけんかっ早く、誰彼構わず攻撃するとみられていきます。

もしかすると被害者が感じているように、加害者が高笑いしていることもないわけではないでしょうが、実際は加害者も苦しんでおびえていることの方が多いように感じます。
いつも被害者の自己防衛的発想と言動、他者に対する攻撃的言動を見せられると、心が苦しくなっていきます。勢い、なるべく関わらないようにしようと思うわけです。
無駄な鉄砲を多く撃つようになります。例えば共同親権に反対する人に対して意見を言えば良いのに、あたかもDV支援者がDVがあったと決めつけるときのように、この人たちは共同親権に反対するに決まっていると決めつけて攻撃してしまう。あるいは、仲間として協働することをこちらから拒否する。

第三者は、すべての善悪、価値観、正義を、親子の断絶と交流という一つの物差しだけで二つに分けようとはしていません。

そこまでこの問題に肩入れはしません。それでも、意見を聞かれたら共同親権に賛成だというかもしれない人も多くいるわけです。実際に世の中は、完璧な支援者もいないと言いましたが、完ぺきな敵対者も多くはないのです。それにもかかわらず、共同親権反対者が、例えばAさんの主張に賛成しているという一事をもって、こちらの仲間ではなく、敵の仲間だと決めつけてしまう傾向があるようです。働きかければ味方になってくれるはずの人を自分から遠ざけてしまうということがよく見られます。味方でなければ敵だと考えやすいのは被害者の方かもしれません。そればかりではなく、反対者が別の論点で持ち上げたというだけで、そのAさんを攻撃することもあるのです。味方に鉄砲を撃っているわけです。これでは、比較的全面的に支援する人だけが仲間であり、そうでない人はみんな的だという扱いになってしまいます。そうして、自分の賛成者の中だけで共同親権推進の意見を交流させるだけになってしまう結果となるわけです。これでは、世論形成は永遠にできないでしょう。
さらに、一般の人たちに対して、極めて致命的な印象を与えてしまいます。つまり、このようにむやみに人を攻撃する人とは一緒に住めるはずがない。という印象操作です。多くの被害者は、被害前は円満な性格をしている人が多いようなので、被害が影響をしていると感じているのですが、一般の方はそこまで考えることはありません。今見ている事実に基づいて判断するしかありません。
結局、第三者から見ると反対論者の言う通り、子どもを連れ去られた被害者と自称している人たちは、元々攻撃的で、家族についてもいちいち細かい揚げ足をとっていて、相手の気持ちを考えずに自分の主張ばかりをしている人だという印象を与えてしまう危険があるわけです。その結果、連れ去れたということはDVがあったということだよねという確信を持ってしまいかねません。これでは、反対論者の言う通り、離婚の多くがDVが原因だという誤った認識を裏書きしてしまうことになります。
これが痛恨の利敵行為です。
こういうことを繰り返していたのでは、共同親権の世論形成ができないどころではありません。共同親権は危険な制度だということを宣伝しているようなものです。共同親権制度を阻害する一番の問題は、むしろ少数の反対論者ではなく、反対論者の挑発に生真面目にのってしまう「被害者の心理」なのかもしれません。

だから、やるべきことは、前編の結論と同じです。共同親権、共同養育が子どもの利益であるということを淡々と語っていくことです。これを分かりやすく表現する。あなたを支援しない人も、子どもの心細い姿はイメージしやすいのです。まさに我々がやりたいことは、このような子どもに自信をもって人生を渡って行ってもらうことです。子ども視線で、子どもの利益のために行っているということをアッピールすることが鉄則です。
運動の中で「子どもはお父さんともお母さんとも暮らしたい。」というアピールを見ることがありますが、とても素晴らしいと思います。
共同親権がいかに子どもにとって利益なのかということを淡々と説得していくことが極めて有効です。子ども目線の主張こそが最優先でなされるべきだと思います。
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【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(前編)】 反対者の「論理」を踏まえた、私の考える「何を主張するべきか」。 [弁護士会 民主主義 人権]


<共同親権制度は、ほぼ外圧頼みという現状なので、選択的共同親権制度という骨抜きに着地させられる危険性が高いこと 当事者の奮闘が求められているという客観的な状態であること>

現在、法務省において離婚後の共同親権制度が議論されています。国の制度ですから世論の支持が必要になります。過労死等防止法の制定の際は、過労死防止に表立って反対する人はいませんでした。県議会や市議会でも全会派一致で制定を促進する決議があげられました。遺族の方々を中心として、少数派にならないように、多数派になることを意識して運動をされていました。政権与党(安倍総裁の自民党)の分厚い支持、法案推進の方針を勝ち取り、法律は制定されました。
ところが、共同親権制度創設には、少数者ですが表立った根強い反対派がいます。また、「単独親権をやめて共同親権にする」ということには、「過労死防止」という誰でも賛同されやすいものと違って、多くの国民にとってわかりにくいスローガンです。
共同親権制定には外圧がありますから、言葉の上では「共同親権」という言葉が入る制度ができるとは思います。実践的な問題は、言葉では「共同親権」とはつくけれども、例えば「選択的共同親権」制度ということで骨抜きの制度が作られてしまう危険をどう克服するかというところにあると思います。
選択的共同親権制度とは、夫婦の双方が合意すれば共同親権になるけれど、一方が拒否すればこれまで通りの単独親権制度とするという方法です。これでは、現状とそれほど変わりはないでしょう。様々な政治家のこれまでの発言からすると、「落としどころ」として、選択的共同親権制度が、数年前から検討されていたのではないかと感じる事情がたくさん見られます。これでは、一方的な連れ去り別居をして、子どもの監護を排他的に継続し、離婚をして親権を取得し、そのまま子どもを他方の親と遮断するという行動が、親権制度が変わっても維持されてしまうことでしょう。制度創設は、なかなか難しいことですから、今のタイミングで選択的共同親権制度となってしまったらその後に修正することは当面難しいと覚悟をする必要があると思います。
今、親権制度について知識があり、子どものための制度であるということを知っている人はどれだけいるでしょうか。かなり絶望的だと思います。共同親権制度を主張するべきである常日頃子どもの権利を主張している人たちの推進の主張も知りません。私が不案内なだけかもしれませんが、子どもの権利を一番無視する連れ去りや単独親権について何も言わないことが不思議でなりません。当たり前の、世界レベルの共同親権制度とするためには、結局当事者の方々の頑張りがとても重要だということになります。
私ごときが、運動論をお話しすることはいささか出しゃばりすぎかもしれません。しかし、当事者の方々のそばで運動を見ている者として、また自分も別の分野で同じような立場に苦しんでいるということから、色々見えることがありました。また自分の図々しい性格からも、これは私でなければ言えないことだなあと思いました。変な使命感からこの記事を書くことにしました。

<世論形成のためにという視点が必須 反対派の弱点>

先ず、情勢分析をすることが大切です。先に述べました通り、法案成立の推進力は今は外圧が中心です。これは強力な推進力です。ところが国内の反対派の力が大きくなれば、こちらに配慮して国は何とか外圧をかわそうとすると思います。その場合は、翻訳しにくい日本語を屈指して選択的共同親権とするという方法をとるでしょう。だから、今は反対派との切り結びが重要にはなると思います。ただ、ここでいう「切り結び」というのは、どちらが世論の多数を獲得するかということです。この観点からの一番の誤った行動は反対派を直接攻撃すること、例えば論破しつくそうとすることです。(論破しようとするほど、多数が離れていく仕組みについては後編で。)
先に、反対派とどう切り結ぶか、直接対決するような場面ではどのようなことを心掛けることが戦略上有効かということについての私の考えをお話しします。
共同親権制度の目的は、子どもの利益の推進です。ご案内の通り諸外国では離婚は自由ではなく、裁判所などの関与を経て、子どもの養育方針を確立させて初めて離婚が認められるという法制度をとっています。子どもの利益を度外視して離婚は認められないのです。日本だけが、世界の常識とは異なり、大人が自分たちで勝手に離婚ができるという制度となっています。他国と比べて日本ではまだ子どもの権利、子どもの利益ということの検討が圧倒的に遅れているということが言えます。だから、外国は、日本に共同親権制度を作ることは人権問題だから、圧力をかけても内政干渉ではないという考えをとっています。
では、共同親権反対派は、どのような理由で反対するのでしょうか。子どもの利益になることならば、反対する理由はないはずです。実は反対派は、私から言わせてもらうと、争点となっている離婚後の子どもの利益という観点では何も考えていない、少なくとも争点については主張が無いといってよいでしょう。あくまでも、母親という大人の利益を理由に反対していると私には感じられます。「DV夫」から女性を解放するためには、離婚後も子どもについてDV夫と話をしなくてはならなくなる共同親権制度は創設してはならないという意見が主たる理由ではないでしょうか。
つまり、反対派の最大の弱点は、子どもの利益を促進するための制度を作ろうという時に、それは大人の利益にならないから反対だというところにあります。正面切った議論を回避しているわけです。
こちらとしては、大人の利益も考えましょうというおおらかな態度で良いわけです。共同親権としたうえで、例外的なDVの問題は例外的な対応をして女性を苦しめないようにしましょうということで良いわけです。但し、子どものためには、それでも一緒に暮らしていない親との交流が有益であるとされているので、その例外措置をどのようなものにするかについては細やかな制度設計が必要だということになります。
ところが、反対派は子どもの利益をどうはかるかということについて、定見はないようです。制度には必ずメリットデメリットが両方ありますから、デメリットを述べることはよいのですが、それではメリットがないことをどう手当てするかということを述べるべきですが述べません。極めて無責任な態度だと批判されなければなりません。まさに争点そらしで、かみ合わない議論を敢えてしているということになります。意見表明できない子どもの利益を無視しているわけです。「子どもの利益をどう図るか」という問いに対して答えないのですから、「ご飯食べた」という質問に対して「ご飯は食べていない」(パンを食べたから)というご飯論法と本質的には変わらないと思います。
さらに反対派はDV夫からの解放を言うのですが、離婚の原因の多くは、実際はDVと言えるようなことではありません。圧倒的多数の子どもたちは、親がDVをしているわけではないのに一人の親とは会わせてもらえないのです。親が家から追放されていることも日本には多く残っています。通常家から追い出されて子どもが会えなくなるのは母親です。単独親権を残存させることは、子どもと一方の親を断絶させることにつながっています。それにもかかわらず、圧倒的少数の事例であるDV離婚のために、それ以外の大多数の子どもが親に会えない、親を慕うことができないという親子の断絶の中で成長することを余儀なくされているわけです。反対派、この悲劇を継続させる結果になるということが、私からすれば大きな弱点だと思うのです。離婚するほど嫌だとしても、子どものために我慢してもらうしかないと思います。もっとも野放しにするわけではなく、主として行政が、話し合いの場の設定など安心して協議ができる人的物的支援をする必要があると思います。このシステムは、本来離婚前から活用できるようにして、離婚自体を減らすことが本当の子どもの支援だと思っています。支援がとてもできないような、面会が重度の損害をもたらすような、そんな激しいDVがあった離婚というのは、極めて少数であるということが私の実務家としての実感です。
大事なことは、大人の利益をいうことはよい。けれど、制度の目的である子どもの利益をどのように考えるかにこたえるべきだということなのです。ここを言えない反対派の論拠が貧弱であるということが反対派の最大の弱点です。どこの国でも共同親権制度を創設するにあたって、子どもの利益とDV被害をどのように調整するかということが十分議論をされています。その論議の結果、どこの国も共同親権制度を創設しているのです。DV被害はどこの国でも共同親権制度の問題の所在とはなっていますが、制度を創設しない理由にはなっていないのです。
さて、ではどうするか。反対派を批判すれば、共同親権制度が推進されるかというと、これは必ずしもそうではありません。ここが大事なところです。批判はそれがどんなに正当なものであっても、第三者は正当な批判を支持するとは限りません。むしろ批判すればするほど、第三者は引いていきます。ここが大事です。
誰かが誰かを批判することは、第三者からすれば、それを見聞きすることは抵抗があるものです。むしろすんなり共感できにくくなります。感情を交えないで純粋に議論を進めようとしても、第三者は意見の対立自体に不穏な空気を感じて引いてしまいます。ましてや、被害者ともなれば、感情を交えないで議論をすることは、自分ではできているつもりでいても、客観的にはできていません。感情が勝るのは当然ですし、感情が勝ると反射的に相手の弱点をこれでもかと突きたくなるのも自然なことです。
相手の批判に重点を置かないことが大切です。あくまでも共同親権制度は、子どもの利益のために必要なことだということを、一般の人に向けて静かに語っていくことです。そして世論を少しでも共同親権は必要かなという方向に誘導して、外圧に結び付ける。これしかないと思います。
そのためには、ひとまず感情は棚上げして、共同親権と子どもの利益について勉強しなくてはなりません。

以下、後編に続きます。




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