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弁護士は心理的解剖をする職業 情状弁護(有罪を認めた弁護)こそが弁護士のすべての業務の基本となるべきこと [刑事事件]


正式には心理的剖検(ぼうけん)と言いまして、
例えば自死した方が、どうして自死に至ったかという
その原因を分析するために
多方面からその人の行動歴、病歴を調査して分析することがあります。

自死の危険のある出来事を予め明らかにしておけば
自死を予防できるという考えで行う場合もあれば
遺族のニーズで行う場合もあります。

中には、親戚から、例えば妻が原因で自死をした
というような心ない中傷がある場合に
そうではないことを証明してもらうために
心理的剖検を行う場合もありました。

心理的剖検を行うのは
日本の場合は主として精神科医です。

自死というと精神科疾患というイメージが
根強いからかもしれません。
あるいは、医学には「公衆衛生」という学問分野があり、
予防を中心とした仕事があるということも
大きな理由にあるのかもしれません。

但し、これまで公的に行われてきた心理的剖検は
それ程ち密に行われているわけではなく、
遺族からの電話やアンケート調査を集約したものがほとんどです。

むしろ、自死した個人について
様々な角度から分析を行うことを仕事にしているのは
弁護士なのです。
主として過労自死の労災手続きや裁判手続きで
心理的剖検を行っています。

もっとも弁護士だけでは説得力がないと思えば
医師や心理士に助けてもらうようにしています。

ただ、過労自死を多く扱っている弁護士はそれほど多くないのですが、
自死という制限を外せば
刑事弁護の中で心理的剖検が行われています。
というか、
本当は行わなければならないのです。

刑事弁護というと華やかなのは無罪を争う事件の弁護です。

もちろん、これは簡単な弁護ではなく、
あらゆる科学を総動員して行う大変なものです。
大切な活動であることは間違いありません。

司法試験に合格した後に最高裁の研修があるのですが、
その時も無罪弁護を中心として刑事弁護の研修をしています。

それは良いとしても、
刑事事件の9割以上は、
初めから罪を犯したことを争わない事件です。
それでも日本の刑法の刑罰は幅があって、
例えば窃盗の場合は、懲役10年が一番重いのですが、
1年未満の懲役(刑務所での強制労働)の場合も多く
懲役ではなく罰金刑になることもあります。
この刑の幅を争うのが有罪を認めた場合の弁護活動です。

これを「量刑を争う」と言います。

確かに、表面的には量刑を争うのですが、
弁護活動の目的はそれだけではないと思いますが、
今日は割愛します。

その量刑を争う場合には
その事件がどのような事件なのかということを明らかにして
被告人に有利な量刑事情を主張立証していくということが
弁護人の活動で、これを「情状弁護」と言います。

大雑把に言えばどうして罪を犯したかということです。

一般の方は、その人が悪い人だから罪を犯したのだろうと考えがちですが、
それでは、情状弁護はそこで終わってしまいます。

亡くなられた野村克也さんは、
「負けに不思議の負けなし」という言葉を遺しています。
試合に負けるのにはそれなりの理由が必ずある
だからその理由を除去すれば勝てるということになるわけです。

犯罪も同じで、
やってはいけないことだとわかっていながらやってしまうには
(規範を破るという言い方をします)
必ず、ルールに従おうという気持を弱まらせる理由がある
と私は確信しています。

犯罪をするように生まれてくる人間など一人もいない
ということから出発することが情状弁護の基本です。
そういう視点で、被告人とどうしてルールを破っても平気になったのか
一緒に考えていくことから始まるわけです。

生い立ち、両親との葛藤、その後の学校での出来事、
職場での出来事、恋人との関係等の出来事や
病気の影響など
様々なことが規範を破る理由になっていることに気が付きます。
できるだけさかのぼることで、
法律を守らないようになったリアルがようやく見えてくるわけです。

そこで、その事情が、被告人を責められない事情
多くは、国などがきちんと政策を実行していないために起きた事情や
学校や職場が不合理な扱いをして、人間として尊重されていない
そういう事情がある場合。
全ての責任を被告人だけに負わせてよいのか
という問題が出てくるので、それを主張するわけです。

罪を犯した人は、解決の方法が見つからないことが多いようです。
本当はこう言うことを意識すればもっと平穏に暮らすことができた
今度社会復帰したらこういう生活をすれば
今のような殺伐とした人生を過ごさなくて済む
あるいは、自分なりに幸せになれる
という道筋をつけるまでが刑事弁護でいう反省です。

その人が二度と犯罪をしないとなれば
被害者を産まなくて済むわけです。

良い弁護人は、このような心理的剖検をするのですが、
その前提として、根っからの悪人はいないというか
被告人は、もしかしたら自分だったかもしれない
ちょっとしたボタンの掛け違いが
接見室のこちらとあちらになってしまったのかもしれない
という視点を持っています。

そうして、その人が罪を犯した「原因」を一緒に真剣に考えるわけです。
そのツールとして、心理学だったり、行動学だったり、
最近では生物学が役に立つ場合が多いのです。
もちろん社会学や政策学も使わなければなりません。
つまり対人関係学の基本はこの情状弁護にあります。

心理的にも脳活動の面においても
本当はかなりハードな仕事であるし、
刑事弁護をするまでの人間研究にも時間とお金をかけているわけです。
いやいたわけですと過去形に述べた方が正確なのかもしれません。

現在、刑事弁護の圧倒的多数は国選弁護事件になってしまっています。
被告人やその家族は弁護士の費用の負担をしないですみますので、
弁護士を頼みやすいということはあるでしょう。

ところが国選弁護事件の報酬はとても低いものです。
逮捕からかかわって判決まで弁護しても
10万円に足りない場合もあるようです。

それでも弁護士が乱造されたためか仕事がない弁護士が多いため
そのような仕事でも引き受ける人に不足がないようです。
1か月以上かかる刑事弁護で
その人の生い立ちから調査して、
場合によっては遠方の親せきから事情聴取して
10万円にもならないなら赤字になってしまいます。

また、司法研修所では情状弁護を習いません。

情状弁護は弁護士がついて行われている
しかし、それは本当に弁護の名に値するものなのか
国民はユーザーとして知る必要があるように思われます。

なぜこれを書いているかというと
弁護士が、人の心理や行動の原因を分析するということはない
と思っている若手弁護士が多いことに気が付いたからです。
そういう弁護士たちは、一体情状弁護で何をやっているのか
とても不安になったからです。



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思い込みDVにおける「よりそい」が女性を不幸にする構図を乳腺外科医の無罪判決に学ぶ [刑事事件]

平成28年8月、40歳の乳腺外科医師が逮捕された
5月10日に乳腺腫瘍除去手術をした女性が
術後に、6人部屋の病室で、担当医師から胸をなめられるなどの
わいせつ行為をされたと警察に訴えたからだ。

医師は12月まで約100日間警察署に勾留されたままになり
何度かの請求でようやく保釈された。
事件の概要は江川紹子さんの記事で私も学んだ。

乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190119-00111366/

平成31年2月20日、東京地裁は無罪判決を出した。
その内容も江川さんでどうぞ。

乳腺外科医への無罪判決が意味するもの
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190220-00115538/

つまり、判決によれば、女性がわいせつな行為をされたというのは、
手術の後の「せん妄」状態による幻覚であり、
実際は存在しなかったというのである。

「せん妄」とはその時の状態を示すものであり。この場合は病気ではない。
麻酔の影響と痛みの自覚によって起きてしまう一過性のものである。
つまり誰であっても起こりうる。
それはかなりリアルな「体験」であるので、
現実に起きたと思い込むことは全くやむを得ない。

通常はかなり突拍子もない幻覚をみるため、
せん妄状態が薄れれば、
現実ではないと頭で納得して忘れるようである。

今回のものも年老いた私からすれば突拍子もないものだと思うが
被害を訴えた若い女性にとっては、
ありうる出来事だという認識なのかもしれない。

もちろん最大の被害者は、
無実の罪で100日以上も拘束され、
今までの人生とこれからの人生に暗い影を差された
外科医と家族など関係者であることは間違いない。
もう一人の被害者は、
被害を訴えた女性であると思う。

もし判決の通り妄想による幻覚であれば、
警察が、きちんと証拠収集をして、適切な処理をして
被害の実態がないということを示していれば
女性も納得したはずなのだ。
せん妄状態の幻覚から覚めた多くの人たち同じように
幻覚の不思議さ、怖さを感じた記憶に収まったはずだった。

私がこのように言うのは、
女性がまだ、せん妄とは何かということを理解していない
ということがはっきりしたからだ。
それはこの記事に表れている
乳腺外科医のわいせつ裁判で無罪判決、被害女性が涙の反論
https://www.jprime.jp/articles/-/14933

「私をせん妄状態だと決めつけて嘘つき呼ばわりしました。」
「せん妄の頭のおかしい女性として扱われ、」
という発言に注目する。

被害を訴えた女性は、せん妄状態について正しく理解していない。
判決が、せん妄状態だと言っている以上
彼女の「感覚」初期の「記憶」は真実だと言っているのだ。
つまり彼女が嘘をついていないということを言っている。
ただ、それが客観的には存在しなかっただけ。
それがせん妄状態というものだ。

ところが、被害を訴えた女性は、
せん妄は頭がおかしくなったということ
自分はうそをついている、つまり本当はなかったと知っているのに
虚偽の事実をあえて主張した
と言われていると、いまだに思っている。
これがこの女性の最大の不幸だと私は思う。

もちろん、それには無責任なインターネットでの誹謗中傷が
彼女を苦しめたし、
その誹謗中傷に対する反論が、彼女が訴える内容だったからなのだろう。

しかし、ここまで彼女がせん妄を理解していないのは、
彼女を取り巻く人たちが
相手の言い分を正しく彼女に理解させようとしなかったことが
大きな原因ではないかと懸念している。

弁護士の中には
「よりそい」とは、本人の言動を一切疑わないこと、否定しないこと
という、支援者としては、はなはだ勉強不足の神話がある。
これが女性を絶望の中にとどめてしまう不適切な「支援」であることは、
ハーマンの「心的外傷と回復」引用しながら述べてきた。
「あなたは悪くない」という絶望の押し付けからの面会交流を通じての子連れ離婚母の回復とは
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2016-12-21

もしかしたら、今回も
女性の主張を100パーセント信じるか否かが
支援者の態度の試金石だという考えから、
周囲が、「女性の主張は確かに現実に存在したのだ」
という態度に終始してしまっていたのではないか
という心配がある。

これが女性の友人や家族なら致し方ない。
せん妄と妄想を区別できないのはそれほど珍しくはない。
しかし、医師や心理職、弁護士などは、
その知識を正しく持っているし、持っていなければならないのだから
それに賛成するかどうかはともかく
一つの選択肢として説明しなければならない。

もし女性に対して支持的にせん妄だった可能性を示していたならば、
そうして事件の見通しを示すことができたならば、
彼女は、訴える被害が実際にはない可能性があると理解して、
訴えを取り下げるという選択があったかもしれない。

支援者がなすべきことは、当事者にすべての選択肢を提示することだと思う。
各選択肢のメリットデメリットを説明することだ。
これができて、初めて当事者は適切な自己決定ができる。
これがなければ、当事者は選択肢が提示されない形で
狭い考えでの行動を余儀なくされてしまう。
こうなってしまうと、
当事者のもしかしたら選択したかもしれない方向を
支援者を自称する人たちが妨害したことと同じになる。

今回は、せん妄を状態像ではなく、
頭がおかしくなったという病気か障害のように考えていることがわかる。
せん妄状態の幻覚は、確かに本人が感じ取って、濃くした内容であり
嘘をついているわけではない。
これを本人が理解していないことが、前述の記事で明らかになっている。

今回の判決は、警察が証拠収集の過程や分析の過程の記録がなく
刑事裁判の記録とは考えられないずさんなものだと厳しく断じた。
プロの仕事ではなかったということだ。
無責任なよりそいが警察にもあった可能性を示唆している。

こうやって、初期の段階から無責任なよりそいが重なり、
被害記憶が肥大化し、固定化していった可能性はなかったのか。
そういう心配がある。
性被害においても、仲間は被害者を救済しようとする思いが強くなりすぎ、
被害者が、周囲に押されて行動せざるを得なくなるケースもある。
途中で引き返す選択肢とその方法を提示することも
支援者の立派な活動である。

今回被害を訴えた女性が
引き返す選択肢を与えられず、
無罪判決の見通しを正しく伝えられず、
被害女性の主張する被害があったのか
それとも嘘をついているかという
二者択一的な選択肢しか与えられなかったとすれば、
その女性は、まったくの被害者だということになる。

このような構造は、私たちの日常にも周到に用意されている。
配偶者暴力相談の相談機関に相談すると
本人が暴力や、夫の危険性を否定しても
「夫は、本当の暴力を振るうようになり、
妻は殺される可能性がある、
直ちに逃げ出さなければならない」
と、個別事情にかかわりなくアドバイスされることがある。

私が、実際の公文書でこのような相談があったことが
記録されていたのが、警察の生活安全課だ。

特に出産後の女性は
産後うつだけでなく、
出産後の脳機能の変化や、内科疾患、婦人科疾患
あるいは、元々あった精神疾患の傾向が
妊娠、出産で増悪してしまうなど
様々な理由で、一時的に漠然とした不安が生まれたり、
自分だけが損をしていると感じたりすることがあるようだ。
なんでもなければ、二年くらいで収まっていく。

ところが、その不安を相談されることを待ち構えて
妻が不安を口にしたら、
夫の暴力があったことに誘導し、決めつけ、逃げることを勧める。
私が見た公文書では、妻が否定して家に帰りたいと言っているにもかかわらず
二時間も説得して、家族再生を断念させたのである。
夫の暴力の証拠は何もなく
後に民事裁判で妻の主張は妄想であるとして否定された。
それでも、マニュアルどおり、警察官は説得したのだ。

言われた女性は、日常的に抱えている不安を解消したい
という要求が肥大化しているために
そのような具体的なアドバイスを受け入れて
不安を解消しようとしてしまう。
ありもしないDVがあったと思い込む構造である。

夫と協力して出産後の不安定な時期を乗り越えるという選択肢は
「支援者」によって妨害されているのである。
子どもが両親そろって育つ環境を大切にしようということも
「支援者」によって切り捨てられるのである。

適切な事実確認をせず、証拠も分析もずさんで、
つまり科学的根拠は何もなく
夫のDVがあるということを断定して「支援」する
そうするといわれた妻は、
最初は抵抗しているが、
徐々にそのように記憶が形成されていく。
断片的な記憶が、暴力被害の記憶に変容する。
しかし、作られた記憶は、客観的事実と齟齬がある。
裁判ではその主張は認められない。

どうだろうか。
私は、乳腺外科無罪判決における女性の被害の構造と
思い込みDVで結局苦しい生活を余儀なくされる女性の構造が
全く同じ構造であると感じる。

弱者になりやすい女性が
「支援者」によって特定の選択肢を奪われて
結局は不幸な被害者になるということが
繰り返されてはならない。

そのためには、科学的な証拠収集と分析が必要だという
本件判決の示した方向も
共通の方向である。

また、もしこういう構造であれば、
行動をした女性を責めてはいけないのだと思う。
再び仲間に迎え入れるという意識が必要だということが
科学的結論になるべきである。








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連れ去り事案で、わが子の所在を探す行為にストーカー規制法の適用を示唆することは問題があることとその理由について [刑事事件]



表題は長ったらしく書けなかったので改めて書くと
「婚姻中の一方が子どもを連れて家から去り所在が分からないために、他方が我が子の所在を探す行為に対して、ストーカー警告を示唆して警察がやめさせる行為は法律上の問題があると思うこととその理由」
というものです。

注意:これは私の見解を述べるものであって、
法律上一般的にこのように扱われている
ということではありません。

<場面設定>

・子どもがいる夫婦の事案
・離婚はしていない
・一方配偶者から他方配偶者に対する暴力のない事例
・一方配偶者が共同住所地から子どもを連れて家を出ていった
・家を出ることの事前予告がなかった
・現在の所在がはっきりしない
(子どもは学校や幼稚園に行っていない)
まあ、つまり典型的な子連れ別居というわけですね。

こういう場合、残された配偶者は
何が起こったのかさえ分からない状態です(一番目の混乱)。
家族が事件に巻き込まれたのではないかと考えます。
子どもの安否が知りたくて別居親の実家や職場などに
連絡を取るわけですが、
私は、これは人として当たり前の行為だと思います。
我が子が無事で元気にいることを確認したいということも
親として当然の要求だと思います。
違うという人はいるのでしょうか。

<警察の関与例>

最近は一応残された親からも事情を聴くため呼び出すようです。
でも実質は、事情なんてろくに聞かないで、
身体的暴力のないことが確認できた事案であっても
「子どもは無事だ」
「居場所は言えない」
「探してはならない。」
「探したら、ストーカー規制法で警告を出すかもしれない」
と言われるようです。

ストーカー規制法の警告を出すと警察から言われたら
ふつうは自分が逮捕されると思うわけで、
心理的に探すことができなくなります。

(しかし、こういうことを警察が言うということは
「心当たりがありそうな場所に配偶者と子どもがいて、
探そうと思えば探すことができるから
そこを探してはならない」と言っているようなもので、
実際に別居配偶者の実家にいることが多いです。)

残された配偶者(通常警察関与の場合は父親であるので以下父親と言います)
父親は混乱するわけです。
なんで自分側がこの心配をして探そうとするのを
警察から禁じられるのか
どうして自分がストーカー犯人扱いされるのか
どうして妻子はいなくなり、今どこにいるのか
子どもは、学校はどうなるのか
一度に色々なことが頭の中を駆け巡り、
うつ状態になる人が多くいます。
実際に精神科医を紹介しなくてはならないケースも少なくありません。
(2番目の混乱)

さて、そのストーカー警告というのを見ていきましょう。

<ストーカー行為等の規制等に関する法律>

問題になるのは、まず、ストーカーに該当するのかということです。

ハードルは、
1 目的が、「特定の者に対する恋愛感情その他の行為の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的」があったと言えるか。(2条本文)
2 つきまとい行為(①相手の住居等に押し掛け、又は住居などの付近をみだりにうろつく、③面会、交際その他の義務のないことを行うことを要求すること、④著しく粗野又は乱暴な言動をすること、⑤拒まれたにもかかわらず電話やメールをすること)という2条各号の付きまとい等と言えるか

3 この二つに該当して相手方に身体の安全、住居などの平穏、もしくは名誉侵害、行動の自由が著しく害させる不安を抱かせること
という1,2,3が揃えば、法律で禁止された行為ということになります。

4  そして相手方が警告を求める上の申し出をして
①3の行為が実際あり、
②今後も反復して行う恐れがあると認める時は、
③警察署長名等で警告を出すことができる 4条1項
となり、
④相手方の申し出でによって公安委員会が「禁止命令」をすることできるとなり、5条1項

5罰則
ストーカー行為をしたものは1年以下の懲役または100万円以下の罰金 18条
「禁止命令」があるにもかかわらず禁止行為をした場合は、2年以下の懲役または200万円の罰金ということになります。 19条


本来付きまとい行為が実際にあった時(4の①)に
警告が出されるという法律ということが本来なのです。
ここはポイントです。

直感的におかしいと思うのです。
暴力のない事案ですよ。
心配して実のわが子を探して歩くことに対して
どうしてストーカー呼ばわりされなければならないのでしょうか。
それを警察とはいえ、他人から言われなければならないのでしょう。

その疑問は、実はいわゆるDV法との関連で益々膨れ上がるのです。

<配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律 DV法>

DV法でも禁止命令みたいなのがあります。
「保護命令」というのがあり(10条)、その中でも
接近禁止命令というものは、
ストーカー規制法の公安委員会の禁止命令と似ています。

そのハードルは実はDV法の方が高いのです。
つまり、
第1に裁判所が決定を下す。
訴訟法上の証拠に基づいて裁判官が事実認定をするということです。
これに対してストーカー規制法は、警察ないし公安委員会が認定し
訴訟法上の制約は法定されていません。
第2に、
・実際に身体の暴力または生命に対する脅迫があったこと
・将来に向けて生命または身体に重大な恐れが大きいこと
この二つに該当しなければなりません。

先ず、警察や公安委員会ではなく裁判所が行うということで、
客観的な証拠が揃っていなければならないということ、
次にストーカー規制法は暴行や身体生命の危険までは必要ではないけれど、
DV法の保護命令は暴行または重大な脅迫があったこと
そして身体生命の「重大な危険」の恐れが「大きいこと」
というかなり高いハードルになっているという違いがあります。

ちなみに保護命令に違反した場合は
1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科されます。
ストーカー規制法の禁止命令違反の半分です。

さらにDV法では
警察が必要な措置をする場合には
身体的な暴力があった場合でなければならないと明示されています(8条)。

このように厳密なハードルを設定して
本来自由である行為の制限に慎重になっているというのが
DV法です。

特に警察の関与ができる場合について、法律は、
どうして身体的暴力があった場合に限定したのでしょうか。

これは警察庁の生活安全局長、長官官房長、刑事局長が
平成25年12月20日付で通達を出し
https://www.npa.go.jp/pdc/notification/seian/seiki/seianki20131220.pdf

その中で明らかにしています。

「精神的暴力や性的暴力は犯罪に該当しない行為を幅広く含むものであるため、警察がこれに実効ある措置をとることは困難であり、他方、警察による配偶者間の問題に対する過度の関与となり、その職務の範囲を超える恐れがあると考えられるためである。」
きわめてまっとうな常識的な説明です。

そして援助が相当でないときとして
暴力がない時、求める援助が規則で定めたものでないとき、
目的外使用
の3例を通知しているのです。

この通達自体は素直に頭に入るのですが、
夫婦間にストーカー規制法の適用が許されるとすると
違和感があるのです。
そのことについて説明します。

<ストーカー規制法とDV法の関係>

DV法は、夫婦等の場合、
警察が動けるのは身体的暴力があった場合なのです。
だから、身体的暴力がない場合は
夫婦の問題に警察が口を出すのは、
「過度の関与」であり、
「職務の範囲を超える」恐れがある
とまで言っているのです。

それにもかかわらず、
身体的暴力がないにもかかわらず、
子どもの安否確認のための行為をしようとすることに
ストーカー警告をちらつかせて
警察官が私人の私的行為をやめさせる行為が
許されるということは整合しません。

DV法及び通達に反する行為ということになります。
DV法とその通達で許されないとした警察の行為が
ストーカー規制法の適用で許されるならば
DV法とその通達で禁止したことが無意味になってしまいます。

少なくとも身体的暴力がない限り
(犯罪を構成する行為もない場合)
警察は夫婦の問題に介入してはならないはずです。
(その夫の行為が道徳的に許されるかという問題と
 法律の対象となるかについては別問題です。)

設定した場面(実際にあった事例)は
身体的暴力がない事例ですし、
ストーカー警告は、DV法の規定した援助方法でもありません。

そうすると今度は逆の疑問がわいてきます。
たまたま夫婦であることでストーカー被害の保護を受けられないのも
不合理ではないかというものです。

私は、これらの矛盾を解決するためには、
本来ストーカー規制法は
夫婦や内縁者ではない場合を規制した法律だと
割り切る必要があると思います。

即ちDV法は家庭の中の話ですが
ストーカー規制法は家庭の中の話ではないので、
警察権力が介入する余地が大きいということならば
整合するように思えるのです。

夫婦は両性の合意で成立しますから
たまたま夫婦だったということはありません。

このように二つの法律がある場合
矛盾しないように解釈しなければならないのは
法解釈の鉄則です。

だから、原則として
DV法の適用のある場面では
ストーカー規制法の適用の場面はないか
極めて限定されていると解釈しなければならないのです。

DV法があるためその関係で
ストーカー規制法の保護が及ばない領域が生まれるのです。
それは「法は家庭に入らない」という原則からも
導かれるものであろうと思います。

ストーカー規制法21条も
法律の濫用による行動の自由を不当に制限しないようにと
わざわざ一条を設けて規定しているのもうなずけます。

<設定場面の警察の解釈の何が問題だったのか>

設定場面の警察の問題がいくつか見えてきたと思います。

先ず、実際のストーカー行為がないにもかかわらず、
ストーカー警告を示唆したのは
ストーカー規制法の規定を誤解させて
不当に私人の私的行為を警察が制限する行為なので、
ストーカー規制法の運用上も問題があると思います。

このように法律の規定を誤解させるような法の教示は、
行政官たる警察官が行ってはならず、
法の目的外執行をしている可能性があるということです。

次に、いなくなった子どもを探す行為が
付きまとい等に該当する可能性があるとしたのも
なすべきではない法の解釈をしたということになると思います。

父親は親権者です。
親権者が扶養義務のある我が子の安否を確認することは
法律上も義務の内容にあるはずです。

まずもって、「特定の者に対する恋愛感情その他の行為の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的」
という評価をしてはならないのです。

そうすると子どもを言い訳に押し掛けた場合はどうするのだということになりますが、
暴力もその他犯罪行為もない場合は、
それを国家権力によって妨害することはできない
これが法律の原則です・
子どもがいる以上仕方がないということになります。
暴力がある場合は、DV法の保護命令で対処する
これが国家意思です。

次に、この場合は、住居に安否を確認に行くということは合法となりますし、
面会は、義務無き行為を強要したということにならなないはずです。

電話やメールで安否確認をしようとすることは当たり前で
これを権力で妨害することはできないということです。
私はこの解釈が、常識的だと思います。

設定場面での警察官の行動は、
DV法がある以上は、
職務の範囲を超えた法律となる可能性が高いと
考える次第です。

このような実態はいろいろな方法で報告されていると思います。

今必要なことは
人権感覚のある国会議員が
国会質問で
警察の権限の範囲を明らかにすることだと思います。

人権感覚のある国会議員は、

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目黒事件 母親の裁判員裁判について性懲りもなく疑問を述べ、母性神話に反対する。 弁護士が有罪を前提とした弁護をすることができる理由を考えながら [刑事事件]

目黒事件 母親の裁判員裁判について性懲りもなく疑問を述べてみる 弁護士が有罪を前提とした弁護をすることができる理由を考えながら

有罪を前提とした刑事弁護をすることって
なかなか理解されないことで、
どういう理由で、その人を弁護するのか
という質問を何度かいただいたことがあります。

弁護士によって違うのは重々承知です。
「わたしは、」としか言い出せないのはそのためなのですが、
「わたしは、その人に共感する部分があるから
一緒に考えて、
その人のために弁解する」
と言うことが大雑把に言った感想です。

弁護士の中には、
「それが仕事だから弁護する」
という人がいることは当然なことだと思います。
むしろわたしのやり方は少数でしょう。
でも、私は、共感ができないと
つまりあなたの味方だと思えないと
納得のゆく弁護は難しいように感じています。
不器用なのでしょう。

そういうことを言うと
「どういう理由で、あんな悪いことをやった人に
 共感することができるのだ」
という疑問が当然出てくるとは思います。

一つの答えとしては、
全面的にやったことに賛成するわけではなく、
どうしてそういうことになったのかを理解しようとする
ということでしょうか。

より本格的な話をすれば
逆に
どうして自分が被害者でもないのに
そんなに他人に怒りを覚えることができるのか
と言うことにヒントがありそうです。

これは理由があって、
例えば子どもが食べさせられなかったとか
無理な勉強を押し付けられたとか、
虐待によって死んでしまったということについては、
私もそうですが、
かわいそうなことというのはとても分かりやすい。
理屈で考えなくても自然に湧き上がる感情です。

このブログのこの事件の最初の記事は、
そういうトーンです。
むしろ児相や警察に頼るよりも
実父に子育て参加をさせるべきだという主張をしています。
(2018年6月7日付)

そうなると、
被害者の子どもが自分たちの仲間になり、
助けたかった相手と言うことになります。
その反射的な脳の作用から、
加害者が敵になり、みんなで攻撃する相手
ということになってしまいます。

加害者である義父と実母は
攻撃の対象、憎しみの対象、怒りの対象になる
というのが人間の生理です。

刑事弁護で、クライアントである被疑者被告人と初めて会うとき
事件の概要だけを見て行きますから、
会うまでは、仲間ではありません。
どんなに悪い奴が扉の向こうから面会室に入ってくるのかと
そういう気持でいます。

しかし、扉の向こうから入ってきたその人の顔を見ると、
もちろん普通の人なのです。
100%憎しみの対象になるような
凶悪な顔をした人なんて世の中にいないのです。

みんなどこかで会ったことがあるような普通の顔をしています。
多くの被疑者被告人は、弁護士を仲間だと理解しているので、
唯一の仲間が会いに来た
という表情をされることが多いです。
そういうクライアントの感情の動きを理解できると、
100%敵だという無意識の思い込みが薄れ、
かえってカウンターを浴びるようなものですから、
どうして普通そうに見えるこの人が
こういう犯罪を実行してしまったのだろうと
考え始めてしまうのかもしれません。

要するに、その人の情報が増えれば増えるほど
その人を理解してしまい、もっと理解しよう
という気持になるようです。

そしてだんだんと調査をしていくうちに
やったことは悪いことだけど、
なるほど、そういう時間の流れの中で
そういう怒りの感情になったり、
そういう無気力、無抵抗の状態になったりして、
こういう引き金があれば
こういう行為に出てしまうのか
というような心の動きが「理解」ができるようになるわけです。

そうしてこういうことを何年もやっていると
犯罪をするかしないかに関しては
それ程人間の行動は大差がないなと
実感していってしまうわけです。

犯罪は防止しなければならないことなので、
秩序維持の観点からは
被告人に共感する国民が増えてしまうことは
あまり良いことではありません。
それはわかります。

しかし、あまりにも敵視してしまい
自分とは住む世界の違う人だ
ということで終わってしまったのでは、
再発防止が本当にできるのかという疑問が出てきます。

もしかしたら今裁かれているのは
自分だったかもしれない
あるいは未来の自分かもしれないと思いながら
みんなで再発防止を考えた方が、
犠牲者は少なくなると思います。

だから、私のような被告人のことをもっと知ろうとか
普通の人が犯罪に至った経緯を共有しようとか
そういう人がいてもよいのではないか
(本当は)いなくてはいけないのではないかと
思ってしまったりしています。

その観点から目黒事件について
不可思議な点として事件報道の1週間後に
記事を書いています。
【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

今回の裁判員裁判のニュースを観て
その思いが強くなりました。
重複しないように簡単にまとめます。

基本的なトーンは
警察やマスコミが、
母親に対して、国民が
ことさら敵視するように誘導しているのではないか
という疑問です。

1 当初の報道時の写真の意図的な選別

被害者は、5歳ですが、死亡翌月には小学校に入学するのですから、
6歳の誕生日直前だったはずです。
ところが、去年の母親逮捕時の報道の被害児童の写真は
2,3歳の時のものでした。

それとどういうシチュエーションで書いたか疑問のある
「もうゆるして」という自筆の文字が公開されていますから、
人間の心理として、
あどけない写真の2,3歳の幼児が
あの文を書かされている姿をイメージしていたはずなのです。
それはそう仕向けられたというべきでしょう。

あの帽子をかぶって両手をあげたり
黒目勝ちで片手をあげて笑っている幼児が
机に向かわされて文字を書かされている
あるいは「もう許して」と必死に書いている
というイメージになれば、
母親を敵視することは自然な流れです。

今回の裁判員裁判の報道では
もう少し死亡時に近い5歳ころの写真も使われていました。

被害者死亡から3か月を経てからの報道ですから、
その5歳児の写真も警察は入手していたはずです。
ところが、
あえてその写真は使わず、あるいはマスコミに使用させず、
もっとあどけない時期の写真を使った、使わせた
ということになるのではないでしょうか。

2としては母親の写真です。

逮捕のころの化粧をしていない
眉毛もそられたままの無表情の素顔ばかりが
報道では使われています。
法廷スケッチでは髪も切っているのに
逮捕時の動画が繰り返されています。

これほど大きな事件ですから
普通の写真がないということはあり得ません。
この無表情の素顔は
無表情というところがポイントです。

国民は感情移入できないのです。
到底仲間だと理解できない。
即ち敵であり、怒りの対象としてふさわしいのです。

埼玉東京連続殺人事件の時と同じの
印象操作が今回も行われていたわけです。
似ても似つかない写真が当初公開されていました。

3 御用コメンテーターの怒りのコメント

母親側は裁判員裁判で、夫のDVが原因で
夫の虐待に抵抗できなかったという弁解の柱を立てています。

真実性についてはわかりませんが
成り立ちうる弁護です。

しかし、それについても
「母親なのだから命に代えても子どもを守れ」
というコメントがぶつけられました。

DVというけれど暴力はなかったじゃないか
という反論もあったようです。

一つは、原因がDVかどうかということは
実はそれ程重要なことではありません。

問題は、結果として
母親が夫から精神的な支配が完成されたというところにあります。
「目黒保護責任者遺棄致死罪事件で、母親の話が本当である可能性 服従を超えた迎合の心理」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-09-06
で書いたばかりですから省略します。

もう一つの問題は、
母親を敵視する必要上から意図的にだと思うのですが、
なりふり構わず母性神話を掲げて
公の電波で母親を攻撃する論調です。
母親なんだから命を懸けて子どもを守れ
というもっともな、一見正当な議論です。

もし、母親が本当に夫に対して精神的支配に服従していたなら
こういう本能的な対応こそ不可能になるということなので
論理的にも間違っています。

これが精神的支配の完成された段階なのです。
オウム真理教でもそうですし、
戦中の日本ではありふれた光景でした。
人間の意思なんて、このような危ういものなのです。

ここでさらに疑問なのは、
日頃DVだ、男女参画だ、ジェンダーだという人たちが
このような露骨な母性神話に対して
何か反論しないのか、
いつもの卓越した発信力を使っていないのではないか
というところに疑問を感じるのです。

精神的支配に服従するのは男女は関係ないのですが、
批判の仕方が「母親ならば」命を懸けるはずだ
というところにあるのですから、
批判があって当然だと思うのですが違うのでしょうか。

わたしは、両親が頑張るべき場面であり、
母親だけが命を懸けなければならないということは、
心の中で思うのは自由ですが
テレビなどで言うはおかしいのではないかと思うのです。

4 遺棄行為の特定は

最後は、純粋に知らないから知りたいということなのですが、
本件は保護責任者遺棄致死罪という犯罪です。
「遺棄」という行為が無ければ犯罪は成立しません。
遺棄とは、するべきことをしなかったことです。
そしてこの「遺棄」があった(するべきことをしなかった)から
被害者は亡くなったという因果関係も必要です。

先ず、遺棄の内容は何か
虐待を続けたことなのか、
それなら遺棄ではなく傷害致死にならないのでしょうか
それとも死亡前日など病状が悪くなったのに病院に連れて行かなかったと言う点が遺棄なのでしょうか。

もうしそうだとすれば疑問も出てきます。
被害児童は、敗血症で亡くなっています。
感染に対して抵抗力が無くなったということになります。

一方で胸腺萎縮が甚だしかったと言われています。
胸腺萎縮が起これば免疫力が低下します。
そうだとすれば、胸腺萎縮が先行して起きて
細菌感染が広がってしまい、敗血症になって死亡した
という流れが想定できます。
もしこれが正しければ
果たして症状が悪化した段階で病院に行ったところで
命が伸びたのかということが検証されなければなりません。
なぜならそれが裁判だからです。

また、胸腺萎縮があったけれど
細菌が体内で有意な活動しなかった
栄養状態不良が重なり、あるいは風邪をひいて
細菌感染と拡大が急激に起こり
敗血症を発症して死亡したという流れも
可能性としてはあるはずなのです。

この点どうなったか、
おそらく整合するような形で裁判は進んでいると思いますが、
興味はあるところです。

胸腺萎縮もストレスによるものなのか
その他に原因があるのか解明は進んだのでしょうか。

5 何が心配なのか

結局、私は一つには弁護士病という
へそ曲がり疾患にかかっていて
ついつい少数者、特に多数から敵視されている少数者を観ると
つい、本当はどうなのだろうという
そういう発想が出てきてしまうというところがベースにあるのだろう
と書いていて自覚しました。

しかし、もう一つには
こうやって、母親を敵視して、
例外的な人類の敵がいたからこういうことが起きたのだ
ということで終わってしまうと、

第2第3の犠牲者の子どもが出てきてしまうということです。
実際出ています。
救える子どもの命を救う方法について議論せず、
思考停止になってしまい
救える子供の命が救えないということが一番の心配事です。

現在の議論を要約すれば
虐待死を防ぐためには
母親が命を懸けて子どもを守り、
そのような母性のない母親からは国や自治体が
容赦なく子どもを引き離すということなのではないでしょうか。

しかし、
児童相談所の職員を増やしても
同じ事をしていれば同じことですし、
対応には必ずデメリットがあるのですが、
そのデメリットをどのように軽減して
目的を果たすかという理性的な議論ができなくなります。

(だから、いい加減な、自分勝手な署名活動に
あまりよく考えもしないで賛同する人たちがいたわけです。)

こういう怒りの議論は
虐待死だけを防ごうとするだけで
虐待死につながる虐待を減らしていこうという発想にはなりません。

力技の結果の押し付けになることは目に見えています。
これでは虐待死自体も減らないでしょう。

だから、
私くらいは
母性神話に抵抗を示し、
明日は我が身と考え、
人間を敵視しない議論を呼びかけてもよいのではないかと
おそらく山のような批判が来ることを覚悟して
これを書いているところです。

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目黒保護責任者遺棄致死罪事件で、母親の話が本当である可能性 服従を超えた迎合の心理 [刑事事件]

 

目黒事件の裁判員裁判で、
母親の本人質問が行われています。

母親は興味深いことを言っています。

夫に逆らえないために子どもをかばうことができなかった
ということがその趣旨です。

一方で、
記憶が抜け落ちている
自分もたたいた(殴ったのではないらしい)
九九を書いた紙等を書いて張っていた
子どもの字を添削していた
子どもが悪いから児相に目を付けられるだろう
というラインを送った。
等、自発的に虐待に手を貸したとも思われる
話や証拠も出てきています。

特にラインの文言などは
これは怖くて抵抗できなかったというわけではない
決定的な証拠だ
という主張も見られます。

母親の話は本当なのか疑問に感じる方も
いらっしゃることだと思います。

事実関係は分からないので断定はできませんが、
これらは矛盾がないどころか
かなりリアルな話である可能性が強くあります。

結論として、
支配された人間の行動パターンとはこういうものです。

人は完全に支配されると
服従を通り越して迎合をするようになるのです。
つまり言われたことだけをやるのではなく、
支配者がこうしてほしいだろう、こういってほしいだろう
と言うことを先取りして率先して行うようになるのです。

夫だったら、こういう時こう言ってほしいと思う
こういう行動をとってほしいと思う
と言うことをしようと思うわけです。

もう少しリアルに言うと
こういうことをしないと自分が否定されるだろう
こういうことを言わないと叱責されるだろう
だから否定される前に、叱責される前に
率先してやらなければならない
という気持で行動するようになるのです。

自分の感情は失われていきます。
感情とは、自分を守り、仲間と協調するためのツールです。
ところが、自分の頭で考えないで
支配者の頭で考えようとするわけですから
感情など不要になるどころか
邪魔なものになってきてしまうからです。
だんだんと感情を持たないように
無意識に訓練をしているようなものです。

この母親も、娘をハグするように言われたけれど
ハグすることができなかったというエピソードがあるようです。

感情が無くなるほど支配され
相手に迎合するようになっていた可能性が
とても高いように感じます。

このような迎合の心理は、
この人の特殊なものでなく人間全般にみられるようです。
どういう心理なのか、どうしてそのような心理が生まれるかについては
既に述べているし、長くなるので繰り返しません。
興味とお時間がある方は
ブログ記事をお読みください。
「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある 」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05

問題は、本件では、そのように
支配者に権威があったのか、
夫に権威を感じる事情があったのか
ということでしょう。

可能性があるとすれば
母親の育った環境に原因がある可能性があります。

社会からか友達からか、誰からかはわかりませんが、
自分が否定され続けてきた場合です。
自分に自信がなく、誰からも尊重されない
と言うことを経験し、
うまくいかないことが多いし
特にほかの人は簡単にできることを
自分はできないで恥ずかしい思いをしてきた
というような場合、

そしてそれがために自分が孤立していると
感じ続けてきた場合、

自信をもって発言したり、行動したりする夫は
まぶしくて、頼りになる人間に思えてしまうでしょう。

自分ができないことができる人
それでも自分を否定しないで群れの仲間だと扱ってくれる人
そういう人の言うことは正しいと思うようになるようです。

しかし、人間は迎合と反発という矛盾した気持ちがあり、
そのバランスを取って生きていることが通常です。
あまりにも反発する事情があれば
群れから離脱しようとします。

本件でも母親は何度も離婚を口に出したようです。

しかし、反発を抑えて迎合を促す事情があったようです。
一つは精神科を受診したとき
自分が下剤を飲まなくてはならない状態だと
不安を訴えたにもかかわらず、
医師が何錠飲んでいるか尋ねて二錠だと答えて
「大したことないね」
と回答され、
「ああ、夫の言ったことは正しいのだ」
と考えるようになってしまったというのです。

また、娘に対する暴行容疑があったにもかかわらず
夫の言うとおりにしたら不起訴になった
というエピソードもあって
夫は正しいという気持が強くなっていったようです。

医師と司法が夫にお墨付きを与えた
という感覚になることはありうることでしょう。

反発は残りながらも
迎合の行動が優位になっていったようです。

そうなっていくと
自分は、この人から見離されてしまうと
天涯孤独な人間になり
なんとなく生きていけないようになるのではないかと
そういう不安が大きくなっていくようです。
どんどん迎合傾向が強くなります

「自分は間違っている」という自分に対する
自分自身による刷り込みによって、
反発の原因になる自然な感情は、
どんどん弱くなっていきます。

どんどん感情が無くなっていき
どんどん迎合をするようになっていきます。

そうすると、夫のやっていることはすべて正しい
という固定的な先入観が表れてしまいます。

正しいことばかりを見るようになり、
間違ったことがあっても
無意識に理屈をつけ正しいと思いこんだり、
見間違いだという無意識の情報排除を行い
見なかったことにしていくわけです。
「そんなことがあるはずない。
そう思うのは私が間違っている」
ということですね。

だから、自分が支配されているということに
気がつかなくなるわけです。

もちろん法や道徳に照らした善悪の判断もできなくなります。

全ては夫に叱られないためにどうするか
という価値観だけに支配されるのです。

色々な虐待も
子どもの利益のためにやっていると
思い込もうとしてしまうわけです。

国が人を裁くと言うときに、
洗脳を受けていたことをどう評価するかというのは、
なかなか難しい問題で理論的に導かれるというより、
国家政策の問題になると思っています。

もし自分で自分を制御できない事情がある場合は無罪だ
と言うことになってしまうと
多くの犯罪が無罪になるだろうと思うからです。

わたしには、報道された範囲でしか事情が分かりません。
何が事実として認定されるべきかについては
意見を言うわけにはいきません。

しかし、本件の母親に対する報道については、
大きな疑問がいくつもあります。
「【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

先入観にとらわれず
現在の科学の到達に従って
真実を真実と見つめたうえで
結論を出していただきたいと注目しています。

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一人暮らしの高齢者の万引き事件から考える高齢者問題とキハン意識の本質と孤独との関係 [刑事事件]

一人暮らしの高齢者の万引き事件から考える高齢者問題とキハン意識の本質と孤独との関係

<万引きができる仕組み>
<思考実験A>
<思考実験B>
<何が言いたいのか>
<高齢者問題とどんな関係があるのか>

<万引きができる仕組み>

何年か前から、郡部の警察署の方とお話しすると
高齢者の一人暮らしの方が万引きをする事件が多い
という話題が出されることがありました。

高齢者の心理については前回の記事でお話ししましたので
是非ご参照ください。
一人暮らしの高齢者のかんぽ生命被害の実例から考える高齢者問題 身近な将来の自分たちの問題
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-07-17

万引きをするときに多いのは、
理性のエアポケットが生じていることです。
何か激しい感情に支配されて
大切なことを考える理性が機能しない場合もありますし、
何も考えることができないアイドリングのような状態のときもあるようです。

共通することは、まさにその時
自分がすることは悪いことだ、だからしてはいけない
という気持が働かないということです。
これを「キハン(規範)意識が働かない状態」と言います。

犯罪を繰り返すとキハン意識はすり減って無くなっていくと扱われていますが、
そうでなくてもキハン意識が働かないことがありそうです。

これからちょっとだけ思考実験をしましょう。

<思考実験A>
あなたが、どうしても欲しがっていた小さな商品が目の前にあって、
将来にわたって絶対あなたが犯人だということはわからないという状況があった場合、
(これを具体的に想定できれば、何かの賞がもらえるかもしれません)
あなたは盗みをするでしょうか。

もちろんあなたが盗めば誰かが損をすることになります。

実験を抜きに推測でものを語るのが悔しいのですが、
もし自分が盗むことが誰にも知られなくても
多くの人は盗みをしないでしょう。
仮に盗んだとしても、なにがしかの後ろめたい気持ちになると思うのです。

そうであれば、あなたにキハン意識があるということになります。

<思考実験B>

逆に現実のあなたではなくて
あなたの周囲の人たち全体が混乱している特殊な事情がある場合、
例えば、あなたが数十人の仲間と共同生活している
かなりのサバイバル生活で
そのメンバー全員が
仲間のものは盗まないけれど
仲間以外の者は平気で盗み(カバンの置き引きとかでしょうかね)
その社会も盗まれた方が悪いという風潮がある場合はどうでしょうか。

もちろん、それが現行犯で見つかれば
警察に捕まり刑務所に行くこともあるのですが、
共同生活している仲間は、そんなことはしょっちゅうあるので、
警察や刑務所から出てくると再び仲間の中に戻れるという場合。

そういう生活の中にあなたがいるという
シチュエーションがしっかりつかめることができるかどうかに
この実験が関わっているのですが、
おそらく実験Aよりも、実験Bの方が
盗むという回答が多いのではないかと考えているのです。

<何が言いたいのか>

結局キハン意識というのは、
例えばキハン意識をもつことができないで盗みをしてしまうと
自分の仲間の中での立場が悪くなることが嫌だというように
自分が仲間から受け入れられ続けたいという意識が
それを守らせる一番の実現保障なのではないかということです。

仲間の中から転がり落ちたくないという気持が
共同生活のルールを守らせる原動力だということです。

但し、その仲間とは、現実の仲間というよりも、
自分の心の中で、仲間でいるための資格みたいなものがあって
それを失うことが怖いからルールを守る
という構造なのだと思います。

だから、周りも盗みをやっていて、盗んでも仲間は非難しないというなら
実験Bのように盗みをすることに抵抗がなくなるはずです。

この原理で起きているのが、
ルーズな会社の中での業務上横領事件です。
会社のお金で高額な使い込みをすれば事件になりますが、
みんながやっている程度のことは
悪いという気持が薄れていってしまって
不正に会社のお金を流用していることが多いのです。

誰かの業務上横領が発覚したら
その人の個人責任にしないで
会社全体のお金の使い方を点検する必要があることが実際です。

<高齢者問題とどんな関係があるのか>

高齢者が孤独だということを言おうとしているのですが、
客観的には違うだろうという反論もあるでしょう。
高齢者の多くに子どもがいて、孫がいて
必ずしも一人で生きているわけではないし、
万引きをして新聞報道でもされてしまえば
あるいは刑務所に収監されてしまえば、
子どもや孫の肩身も狭くなるわけです。

それはそうなんです。

だけど、実際には、なかなか子どもと会うこともできず、
電話もたまにしか来ない。
勇気を出してこちらから電話をかけると
「用事がないなら切るよ」と言われる。
たまに電話が来たかと思うと
「あれをやれこれをやれ、あれやるなこれやるな」
という指図とダメ出しばかり。
自分が認知症かどうかのチェックばかりされる
といういことではむしろ電話なんて来なくてよい
と思ってしまうかもしれません。

確かに親子関係や祖父母と孫の関係はあるのですが、
それだけで、
自分は「親子関係の中に帰属している」と感じるでしょうか
「子どもという仲間がいる」と感じるでしょうか

感じ方には個性の違いによってだいぶ違うと思いますし、
離れて暮らすという形態もいろいろ違うと思うのです。
一概に言えませんけれど、
でも一人暮らしの身になってしまうと
もう少し、所属感、仲間意識を満足させる方法が
実行可能な方法があるように思うのです。

万引きする高齢者の方も
自分の子どもの事情は分かっているので、
恨みに思ったり不満に思ったりということで
腹いせや当てつけで万引きするわけではありません。

「自分がだれかとつながっている」とか
「家族がいる」という
実感が持てなくなっているということからくるのだと思います。
仲間からの評価が下がるということに恐れを抱かなくなり、
盗むことにためらいが無くなる瞬間が生まれてしまうのでしょう。

一緒に暮らすことは
様々な制約があるということは
仕事がら嫌と言うほど見ています。
現実社会の中で
直ちにそれをするべきだということを言うわけにはゆかないでしょう。

しかし、一緒に暮らせなくても
何らかの方法で
自分が相手を自分の家族として気にかけているということを
相手にわかってもらうことはできると思うのです。

キーワードは明日は我が身です。

できるなら、顔を出すだけでも出すということを
家族で協力して、あるいは分担して行うことで
その行動を自分の子どもに見せるだけで、
自分が高齢者になったときの選択肢を子どもに与えることになります。

それは自分の老後の利益のためだけでなく、
自分の子どもが高齢者になったときに
孤独を感じない方法を提起することでもある
そう考えるべきなのでしょう。

家族で、そりゃあそうだなと
協力し合って
兄弟でも協力し合うことができれば
高齢者にもっと気遣う風潮が
社会の中にできてくるのだと思います。

孤独を感じている人は
案外身近にいるのかもしれません。

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無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

なぜ、無差別襲撃事件が起きるのかを検討するにあたっては、
なぜ、通常は無差別襲撃事件を私たちは起こさないのか
ということを考えることが王道だということになるでしょう。

<無差別襲撃をしない理由として考えられるもの>

 なぜ、私たちはかかわりのない人を攻撃しないのか。これは二つに分けて考えられます。ⅰ)そもそも関わりのない人を襲撃しようと思わない。ⅱ)仮に襲撃しようと思っても、思いとどまる事情がある。この二つです。

ⅰ)襲撃しようと思わない理由。
 ① 防衛の必要がない(相手から攻撃されない)
 人間が人間を攻撃するのは、通常は自分を守るためという理由のようです。通常はかかわりのない人から自分が襲われないために、こちらから反撃しようというきっかけがありません。但し、ここでは、「八つ当たり」という怒りに基づく行動形態を考慮しなければなりませんが、あとでお話しします。
② 人間の尊厳を認識している
 無意識にアリや蚊等の小動物を攻撃することはあっても、人間は大事にしなければならないからむやみに攻撃しないものだという認識によって、そもそも攻撃しようと思わないという側面もあるでしょう。攻撃するとかわいそうだからとか、敵対している人間でなければ、できることならむしろ仲良くしたいと無意識に感じているということもあると思います。ベクトルの向きが、自然状態では攻撃とは真逆の位置にあるのだと思います。
ⅱ)襲撃しようとする気持ちを思いとどまる理由
  職場で理不尽な目にあったり、実家で喧嘩をしたりして、家族に八つ当たりをしたくなるということはあるでしょう。「怒り」は、なんらかの危険を感じた場合、その危険を解消するための行動のようです。ただ、「おそれ」とは違って、行動対象が危険の原因と必ずしも対応しないようです。怒りの行動に出る場合は、相手に対して勝てるという意識が必要なようなのです。但し、危険を感じると、感覚的には自分を守る意識が過敏になっていますから、些細な危険を向けられた自分よりも弱い者に対して怒りの行動、すなわち攻撃に出るようです。これが「八つ当たり」です。
  では、八つ当たりをしたくなった場合でも、人間は無差別な攻撃をするわけではなく、甘えてよいと思う対象に対してだけ攻撃をするものです。どうしてあたりかまわず八つ当たりの攻撃をしないのでしょう。考えられる理由は以下のとおりです。
③法律で処罰されるから
④社会的信用を無くすから
⑤人を襲ってはいけないと教わってきたか
⑥反撃されるからら

こんなところでしょうか。
③、④、⑤は、大体同じようなことでしょうか。
法律で処罰されることの最大の困りごとは、
例えば刑務所に入れられることによって、
それまでの自分の人間関係が
無くなってしまうのではないか
というところにありそうです。

③、④、⑤.⑥は、
結局のところ、自分を大切にしているために
自分に危害を加えないために
無関係の人を襲撃しないということになると思います。

<無差別襲撃をする人の特徴、自分を大切にしない>

こう考えていくと、
私たちが、少なくとも現時点まで無差別襲撃をしない理由は、
自分を大切にしているからだといえるのではないでしょうか。

八つ当たりのようなことをしようと思う事情があり
無防備な3歳くらいの子ども公園を一人で走っている姿を見ても、
襲撃しようとは思いません。
その弱い子どもを攻撃することで、
人から非難されることになっては困る、
これまで通りの生活ができなくなるという理由もあるでしょうが、
それ以前に、小さい子どもを無意識に守ろうとしてしまい、
攻撃をしようとすることさえも思いつかないでしょう。
小さい子どもは大切にされるべきだという感情が
元々備わっているように感じられます。

ところが、無差別襲撃をする人は、
そのような心理状態ではありません。

相手をかわいそうだと思わないことがあっても
同時に、自分がこれから行う自分の行為によって
社会的に追放されることを
恐れることはないのです。

今回の登戸事件での襲撃者は
行為から20秒足らずで自殺をしました。
まさに、自分を大切にしようという発想が
全くなかったわけです。

<なぜ自分を大切にできなくなるのか>

「自分を大事にする」という言葉があります。
通常は、身体の健康の維持に努めるということでしょう。
それはわかりやすいです。
もう一つ、自分の人間関係を良好に保ち、
家族、学校、職場の人間関係の中にいることで
苦痛にならないようにする
という意味もあると思います。
対人関係的意味での自分を大事にする
ということになると思います。

対人関係的意味での自分を大事にするということは、
自分という一人の人間を大事にするために
自分の関係する人間を大事にすることが必要だ
あるいは、自分を大事にすることと仲間を大事にすることは
結局は同じことだということになるはずです。

およそ人間は、単体で独立して存在しているものではなく、
自分のつながりのある人との関係で
人格が形成され、発露されているようです。
自分が望む人とのつながりが維持されるのか絶たれるのか、
つながりのあり方、程度などによって
自分の感情や幸せの度合いが変わってくるわけです。

だから無差別襲撃者が
自分を大切にしていないということは、
自分が他者とかかわっていないということを
実感しているのだと思います。

人間と人間との関係は
相互に影響を与えあっている関係です。
自分を攻撃してくる人に対しては
近づこうとしないでしょう。
自分に親切な人に対しては、
こちらも親切にしたくなるものです。

自分を大切にしないということが
対人関係的には、
自分の属する人間関係を大切にしないことだとすれば、
対人関係的な意味で自分を大切にしない理由は、
およそ、自分が大事にされた対人関係を持たないということや
自分にかかわる他者という者は
自分を否定し、攻撃するものだ
という認識を持っているということが考えられます。
つまり、孤立しているということです。

この「孤立」が原因だというのは、
客観的に孤立しているか否かということではなく、
自分が孤立を感じているという主観的なものです。

そしてなぜ孤立しているかという原因も問いません。
主として自分に原因がある場合でも
孤立をしている以上、
自分の関係を大切にしようなどということは思いませんし、
それはとりもなおさず
自分と他者の関係を良好に保とうとは
思わない状態になっているからです。

<孤立と他者への攻撃の関係>

孤立を自覚していると、
自分に対する配慮も、他者に対する配慮もできなくなります。
それでも、将来的に孤立を解消したいという希望があれば、
他者との関係がこれ以上悪化しないように
自分の行動を制御するでしょうし、
つまり、自分を大事にしようとすると思います。

ところが、孤立が確定的になり、
将来にわたって孤立が解消できないだろうと認識した場合、
人は絶望するようです。
人間の脳は、あらゆる方法を使って絶望を回避するのですが、
様々な負の衝撃により絶望が回避できない場合があるようです。

その場合は生きる意欲を失います。
身体生命の危険の絶望は、
余命宣告というような例を除いて
瞬時に死が訪れることを意味しますから、
気絶をすれば足ります。

ところが対人関係的な絶望は
来る日も来る日も絶望に悩まされます。
絶望から逃れるために、
自死という行動を止めることができなくなるようです。

自死という行動を止められなくなった場合、
一人で自死に至ることが大多数ですが、
無差別襲撃者は、他者を攻撃してから自殺するのです。

大きな違いは、
一人で自死する場合は、
家族や友人、仲間というつながりを大切にしていて
つながりからも自分を大切にされているという認識があるからです。

それでも、様々な事情で、良好な関係があるにもかかわらず
特定の対人関係の孤立を原因として
絶望を回避できなくなるのが人間のようです。

(なお、母子心中等、身近の人間を巻き込む自死は、
不思議なことに
巻き込む相手に対しての愛情がある場合です。
もちろん冷静な形での愛情ではありません。
追い詰められた上での歪んだ認知の上の愛情です。)

だから、無差別襲撃をする人の孤立は
絶対的な孤立だということになるはずです。

どこの対人関係でも孤立していて
どこの対人関係でも改善が不可能だ
という絶対的孤立なのでしょう。

そうなってしまうと
人間とは大切にされるべき存在だとは
およそ考えられなくなるはずです。

人間の命などは、
守られるべき価値のあるものだとは
考えられなくなるのです。

絶対的孤立の中で、
全ての人間が自分の味方ではないと思うのだから、
この絶対的孤立の苦悩を自分に味会わせているのは
全ての人間だということになるでしょう。

人間は、味方でなければ敵だと
うっかり判断してしまう動物らしいです。
そうすると、すべての人間が味方でない以上
自分にとって敵になるわけです。

襲撃する相手は誰でもよいということになります。
相手をかわいそうだと思うこともありませんし、
おそらく襲うことができたから襲った
そういう理不尽な事態が起きた
そういうことなのでしょう。
突然のことで無防備だった方
子どもなので抵抗できなかった方々


命を落とされた方、
生存はしているけれど
心に深い傷を負った方にとっては、
全く理不尽でやりきれない話が
目を背けないで本件を見たときの真実だと思います。

<これからやるべきこと>

このような惨劇が我が国においても繰り返し起きています。
予防に力を入れなければ防ぐことはできません。
今回は、一連の襲撃行為は10数秒だったと報道されています。
襲撃が起きてしまってからでは、
防ぐことはなかなかできないのです。

予防のためには、
襲撃者に対する
徹底的な調査、研究が第1です。
私は、主だった無差別襲撃の背景に
私が述べた事情が共通項としてあると思っています。

国家的プロジェクトとして
客観的な調査を行うべきだと思います。

調査するべき事項は
襲撃者の
孤立の現状、孤立の経緯、孤立の原因
想定される対人関係(家族、学校、職場)の状態、
孤立解消の可能性とその点の襲撃者の主観
襲撃者が疎外を受けていたとしたら
誰からどのようにされていたことか。

誰がどのようにかかわることのできる可能性があったか
居場所を作るとしたら、どのようなものが想定されるか
予算を惜しまずに研究するべきです。

今回の多くの犠牲者の方々の犠牲を重く受け止めるのならば、
本格的な再発予防を徹底していただきたいと思ってやみません。



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無差別襲撃事件の予防のために1 登戸事件の生存被害者の方、特に生存しているお子さんの被害を考える。「心のケア」は、専門家に丸投げするものではないこと。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

昨日の川崎市登戸の事件の重みを
考えていきたいと思います。
亡くなられたお二方のご冥福を
心よりお祈り申し上げます。

今回は、生存者の被害とは何かについて
特にお子さん方について考えます。

お子さん方の「心のケア」が口に出されていますが、
その実態、内容は語られていないように思います。
専門家に任せればそれで解決するという問題ではないように思えてなりません。

そもそもケアが必要な「心の被害」とは何なのでしょうか。
それは
人間の安心の記憶がリセットされてしまうことだと思います。

キーワードは、
・予測不可能な攻撃
・死の危険の体験
・自己統制不全
というところにあります。

<他人を信じてしまう「こころ」がつくられる仕組み>

先ず、人間は、他人に対しては(自分を攻撃するものでない限り)、
どうしても安心感をもってしまうようです。
山中で道に迷うと恐怖と焦燥感に苦しみますが、
ようやく人里にたどり着いて民家などが見えると
ほっとしてしまうわけです。

これは理由のあることだと思います。
一つは群れを作るヒトという動物の
遺伝子的に組み込まれたものです。

他の人間をやみくもに敵だと思って警戒ばかりしていたら
群れを作れることはできないので
警戒しない、仲間だと思ってしまうことは
人間に必要な性質たということになります。

自分の母親以外の大人の感情にも共鳴するということが
二歳くらいから起き始めるといわれています。
これは、人間だけでサルにはありません。

もう一つは学習です。
人間の乳児期、幼児期は無防備で、無能力ですから、
どうしても大人の全面的な世話が生存のために必要になります。
だから乳幼児期を通り過ぎても生き残っている個体は、
必ず他者(親等)の全面的な世話を受けてきたことになります。
他の人間から、自分の弱点を補ってもらい、
援助を受けた体験があるということになります。

なんとなく他人は自分にとって役に立つ
という記憶を乳幼児期を過ぎた人間がもっているのは、
赤ん坊の時に全面的に世話を受けた体験からもきているのでしょう。

ただ、それとは別に、そして同時に
知らない人を警戒するという、これも本能があるようです。
信頼と警戒の
その折り合いを学習しながら成長するわけです。

学習していく過程の中で、
「自分とかかわりのない人は自分に危害を加えない」
という大切な社会性を学習していきます。
ここでいう「学習」とは、真実を知ることではありません。
そういうものだという記憶を形成することです。

<人間を信じるこころが壊れる仕組み>

人間が信頼できるという記憶は、
家やいにしえの村という閉鎖的な空間においては、
十分に形成されていきますが、
何らかの悪い大人によって
中断されることもあります。

現代社会ではその危険性は高くなっています。

無関係の子どもに怒鳴り散らす大人
性的加害をする大人、
アクシデントにもかかわらず感情的に攻撃する大人等
それから、いじめですね。

それでも、無関係な人間から攻撃されると
そこでへこたれているわけにはいかないので
通常は、それを教訓に行動を改善を試みます。
今度は攻撃されないようにしようという
防衛本能に基づく思考処理が行われるのです。

例えば、夜は一人で歩かないようにしようとか、
関係の無い大人にちょっかい出すことは怖いからやめようとか
そのような客観的に合理的な選択をすることが通常です。

つまり、危険の記憶と危険の直前の記憶を照合し、
危険回避の方法を学習するわけです。
危険回避が可能だと腹に落ちた場合、
危険に対する過剰な警戒は終了します。
逆に言うと頭では分かっても
回避可能だということが腹に落ちないと
警戒心が解除されるということがないのです。

警戒心は心身を疲労させますから
解除できないことは
心の疲労が蓄積されてゆきます[exclamation]

腹に落とす方法は、
眠っているときのレム睡眠のファイリング機能によると
考えられるようになっています。
眠っている時ですから無意識に行われるのですが、
覚醒しているとき以上に脳が活発に活動しているのですから、
無意識ですが、脳の機能ということになります。


このようにうまく、記憶のファイリングができれば、
例えば、自分の感じた恐怖は例外的な場面であり、
その例外的な場面に出くわしたら対処をすれば危険が回避できる。
対処をすることは可能だから、今度は安全だ
ということになります。
日常生活で、無関係な通行人等と
また安心してすれ違うことができるようになります。

ところが、そのような危険と関係のある前触れが思い当たらない場合、
記憶のシステムは混乱してしまいます。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
という結論が出てもおかしくはないのですが、
それは出さないように脳が勝手に動くようです。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
ということは、
将来同じ危険が生じたら、
今度は危険を回避できないということですから、
絶望を感じることになります。

しかしこの絶望については
なにがなんでも受け入れないということが
脳のシステムのようです。

脳は迷走ともいえる「工夫」をしてしまいます。
例えば、本来、何ら客観性のない事象を
危険の予兆だと評価して決めつけ、
その予兆があると危険を想起して過去の感情をぶり返させ
警戒をさせるのです。

例えば、雨の日に性的被害にあった被害者は
雨が降ると被害にあった時の感覚がよみがえることがあるようです。
雨が降ると不安が大きくなってしまい、
外に出ることができなくなることがあるそうです。

例えば、子どものころ窓から外を見ていたら
右隣の家に住む精神不安を抱える人間から
突如窓から顔を出してこちらをにらみつけられて
とてつもない罵声を浴びせられ
驚いて自分の家にいても安心できないという体験をした場合は、
「何か右の方から悪いことが始まる」
という感覚を持ってしまうことがあるようです。

私でさえ、このような人を複数人知っています。
その人たちはみんな統合失調症の診断を受けてしまいました。

そのような客観的には不合理な「予兆」に対する過剰な不安が
本人も医師も記憶のゆがみだということに
なかなか気が付きません。

本人ですら、感情がぶり返すきっかけが何なのか
それすらわからないことが多いようです。
雨ということであればわかりやすいのですが、
臭いであったり、
風の音であったり、
服の色であったり
意識に上らない記憶に反応していることが多いそうです。

危険に対する過剰反応によって、
人間そのものを恐れるようになる
ということは自然の流れです。

予測不可能ないじめや
執拗に繰り返されるいじめ
回復手段がないいじめは、
子どもの社会性を奪うことが少なくありません。
社会に出ることができなくなり、
引きこもりや精神科病棟の住人になるお子さんを
多く見たり聞いたりしています。

何かわからないけれど自分が攻撃されるという恐怖や
絶望を回避するために
「自分が悪いから攻撃されるんだ。
 でも自分の何が悪いかわからない。
 自分の存在が悪いのではないか。」
という徹底した自責の念によって
他者とのかかわりができなくなるようです。

こういうケースでは、
およそ人間(ただし家族だけは例外)は、
自分に対して危害を加えるものだという
学習がなされてしまっているのだと思います。

今回の事件は、
2名の方が死亡し、多数が重傷を負った事件です。

凄惨な場面、音声、匂いとともに
命にかかわる危険だという強烈な記憶が
植え付けられてしまっているでしょう。

命に係わることですから、
人間の心の無意識のシステムは
命の危険に対する警戒感から
早く解放されたいという要求が大きくなっているはずです。

それにもかかわらず、今回のケースは。
全く被害者に落ち度がありません。
自分の行動を修正するポイントがまったく見つかりません。

合理的な警戒をすることによって安全の確保ができる
という安心を腹に落とす作業ができません。

事件が終わっても、
果てしなく警戒感が続く危険があります。

さらには、事件が20秒弱で完結してしまっていることからも
事件が起きてから自分の力で回避する方法がありません。
自分ではどうすることもできないという自己統制不全を
強く感じる可能性があります。

そうすると、
強烈な危険の感覚を受けたにもかかわらず、
記憶のファイリング作用による
安心感を獲得する仕組みは機能しないことになります。
危険から解放されたいという要求ばかりが、
行き場を失って過剰に肥大してしまうわけです。

つまり、
この次は、自分の命がないということにおびえ続けるか
人間を信じられなくなり、人間を見ると恐怖を感じるか、
理不尽なことに自分が悪いという自責の念にさいなまれるか
という苦しみが続きかねないことになります。

<心のケアとは何なのか>

先ほど学習とは真実を知ることではないといいましたが、
実際に、今回の事例でもわかるように、人間は、
必ずしも安心できる対象ではないのです。
それにもかかわらず、危険ではないという経験を積み重ねて
警戒を解いていくということが学習の意味です。

今回の事件の生存者の方々、
報道を受けて大きな衝撃を受けた方の中に
このような学習がリセットされて、
人間に対しての安心感を失う方が出てくるかもしれません。
平気な様子を装っていたとしても
そういうものだと思って何らかの対処をする必要があります。

では、
このようなお子さん方の「心のケア」とはなにをいっているのでしょう。

私は、心のケアを精神科治療や心理療法とは別の角度で考えています。

論理的結論とすれば、
人間に対する信頼の記憶
(関係の無い人間は攻撃してこないという記憶)
がリセットされてしまったのだから、
これから、少しずつ安心の記憶を刷り込んでいく
これが論理的な回復の方法ということになるでしょう。

精神科治療や心理療法という
当事者の心に働きかける方法だけでは
解決できないのではないかと考えています。

多くの大人たちが、
道などですれ違う子どもたちに対して
自分が子どもの記憶を形成に関与しているという自覚をもって
子どもの安心感を阻害しない日常を提供する
ということをする必要があると思います。

チャンスがあれば
安心してよいのだよ、あなたをみんなで守るからね
という扱いをされた記憶を刷り込むことです。

特別扱いするのではなく、
日常の仲間として当然のことだという扱いをすることで、
それは被害にあったお子さん方だけに対して行うのではなく、
およそ子どもに対しての大人の対応として行われなければ
逆効果になる危険があることです。

腫れ物に触るような特別扱いをされることは
仲間の外に置かれる感覚になることがあり、
安心感を奪うことがあるようです。

心のケアは、専門家に丸投げをするのではなく、
私たち大人のやるべきことなのだと思います。
子どもは社会で守るものだということを
意識する必要があると思います。

私たちが何をするべきか
それを今後も考えていこうと思います。
そのために、まず、被害を受けた方々のうち、
生存者に対しても深刻な影響があるということから
考えを初めて見ました。

次回は加害者の行為について
予防の観点からどのように検討するか
という問題を考えてみたいと思います。

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なぜ弁護士は殺人者を弁護するのか、弁護するとはどういうことか。ある妻殺しの事件に寄せて [刑事事件]

なぜ弁護士は、
罪を犯した人を弁護するのでしょう。
例えば人を殺した人を弁護するということは
どういうことなのでしょう。

人を殺した場合、
ルールに従って、
制裁を受けなければなりません。

ルールに従って制裁するということは、
あくまでの社会の仲間として扱うということです。
人間として扱うということです。
人間として扱うからこそ
人を殺した場合制裁を受けるのです。

これが人権です。

この「ルール」の大きな柱が、
言い分を聞くという手続きです。
どんな人にも言い分があります。

その言い分で罪が軽くなろうと
逆に重くなろうと
言い分を言わせることが
仲間として扱うということです。
人間として扱うということです。

だけど人を殺した人は
その言い分をうまく言うことができないことが多いのです。
人の命を奪ったということで
激しい精神的動揺があることが普通です。

また逆に、人を殺す場合は
精神的葛藤が続いたり、
極端に強い葛藤が生じたりして
自分でもわけのわからない状態の中で、
取りつかれたように人を殺す
ということが起きているので、
自分で自分の行為をうまく説明できないことも
多いのです。

そうだとすると
言い分をいうことも
実際は難しいことなのです。

ましてや、
世界中が自分を非難しているという
絶対的なアウエイ状態ですから
言えることも言えなくなるのが
人間です。

ですから、
罪を犯した人には
弁護士という人間が
その人に代わって言い分を述べることが
どうしても必要になります。

だから弁護士は、
どのような人の弁護をするときでも
その人の立場に立って、
その人の言い分を一緒に考えて
その人の分まで主張をしなければなりません。

人間の弱さにはいろいろな形があります。
その弱さを十分に理解しないと
罪を犯した人の言い分を思いつくことができないでしょう。

夫が妻を殺した事件がありました。
夫婦には2歳の子供がいます。
かわいい男の子です。
夫は我が子をかわいがりました。
息子も、父親に対して
何のわだかまりもなく安心しきって笑っている
そんな写真もありました。

しかし、夏、
突然妻は子どもを連れて行方をくらましました。
夫の話によると
妻は、子どもを産んだ後あたりから
精神的なトラブルを抱えだしたようです。

真実はわかりません。
しかし、これは理にかなったことです。
いくつかの研究結果から
女性は子どもを産んだ直後、
大人の男性(夫)に対して共感を抱きにくくなり、
その結果不安になりやくすなり、
鬱的状態になると報告されています。

程度の違いは大きくあるけれど
誰にでも何らかのそういう変化が
起きるということだそうです。

私が関わった実際の事件でも
一人目の子どもを産んだ時から
わけもなく不安に陥りやすくなり
すべてがうまくいかなくなるのではないかと考えだし、
2人目の子どもが生まれたあたりから
かなりその傾向が強くなり、
突発的な事情から
子どもを連れて出ていくということが
とても多く起きています。

これは、
脳の機能変化とホルモンバランスの変化であって
環境が変わらないのに
勝手に起きてしまうことが多いのですが、
そのことはまだ、
多くの人が知るところになっていません。

理由がなく不安になる女性に対しては、
「あなたは悪くない」
「夫の精神的虐待が原因だ」
「夫のDVは治らない」
「命を守るために逃げなければならない」
とだけ、マニュアル通りのアドバイスをする人たちがいます。

そいうことを言われるたびに
妻の精神状態は刻々と悪化していきます。
そうして、全力で
夫に知られないように行方をくらますように促され
実行するしかなくなります。

本当は、子どもを産んだ女性に対しては
これまでと違ってことさら親切にしなければならないのですが、
知識も時間も精神的余裕もない男性は、
生む前と同じ対応をしてしまいます。

自分が何も変わらない、これまでといっしょなのに、
妻が子どもを連れて出て行った。
いったい何が起きているのか
とただ呆然とするしかありません。

「彼」は妻が子どもを連れて出て行って
1週間してようやく、
子どもと妻がいなくなってしまった
という言葉を発することができるようになりました。

さらに1週間して
ようやく、ただひたすら歩き続けるという
行動に移すことができるようになったようです。
でも彼ができたのはそれだけでした。

しかし、その後は
仕事はしていたようですが
何もする気が起きず、ふさぎがちになったようです。
かなりアルコールに依存するようにもなっていったようです。

無理もないでしょう。
あんなに可愛がっていた子どもと
突然全く会えなくなったのです。
辛い仕事でも
子どもの寝顔を見ることで
生きてきた喜びを実感していたのに。
すべてが奪われた気持ちになっても
不思議ではありません。

本当は、妻に対して
「そういう不安は誰にでもあるよ。私もあったもの。
 気の持ち方で何とでもなるよ。
 子どもがいるのだから、夫婦で乗り越えなければね。」
と言ってくれたり
「そんなに心配ならば私が意見するから、
 旦那を連れておいで。」
と言ってくれる人がいれば
妻も子どもも家族のままでいられたはずです。

夫に対しても
「子どもが生まれる前と同じじゃだめだよ。
 とても敏感になっているのだから、
 ことさら優しくしてあげて
 多少のヒステリーは大目に見てあげなさいね。
 あと私に愚痴言いにくればいいから。」
と教えてあげる人がいればよかったのです。

そんな人が街中にあふれていたのは
もう50年も前のことなのでしょうか。

仮に別居が仕方がなかったとしても、
子どもの様子を知らせたりする人がいたり、
電話だけでもできる状態だったら
どんなにか救われたことでしょう。

ところが二人は孤立していたようです。
夫はますます孤立を深めてしまいました。

夫は普通のサラリーマンです。
仕事仲間からも信頼されていて
呆然としてただ歩くことしかできない夫に
付き合ってあげた友人もいたようです。
決して、子どもや妻から引き離さなければならない
元々は危険な人物ではなかったはずです。

夫が、家族に会えない時間が経過するにつれて
だんだん精神的に追い込まれていったことは
簡単に想像することができます。

あんなに愛を誓い合った妻が自分を見捨てて
それだけでなく、子どもも自分から奪ったわけです。
自分が、夫としても、父親としても
否定されてしまったと感じることは当然です。
まるで生きていてはいけないと
言われたような気になるそうです

一番深刻な問題は、
なぜそうなったのか本当にわからないことです。
もう一つ、
どうすればこの状態が解消されるのかについても
全くわからないことなのです。

解決をしたいという気持ちがありながら
解決する方法が全く見つかりません。
そうすると、だんだんと
解決したいという欲求だけが強くなり、
毎日、毎秒が、
イライラと焦りだけの時間になって行きます。

自分を取り戻すことだけがテーマになって行きます。
こんな状態にしたのが妻だということだけが
考えないようにしても、頭から離れられなくなります。
本当はまた元の状態に戻りたいのに、
その手段が全く分からない。

とにかく今の状態を何とかしたい。
こんな精神状態がどんどん悪化していきます。

そこから妻を殺すまでの心理状態は
本人でなければ語れないことだと思います。

ただ言えるのは、
彼が元々危険な人物ではなかったということです。
彼を危険な人物に追い込まれた理由があるということです。

これを国家や自治体の関与で行っているとしたら、
本当に彼だけに全責任を負わして良いのでしょうか。

国家や自治体の政策が稚拙で非科学的で、
偏っていたために彼を追い込んでいたとしたならば、
追い込まれた末の行為の責任の一端は
国家が負わなければならないのではないでしょうか。

彼を追い込んだ張本人の国家が
裁判の名のもとに全責任を彼に負わせることは
本当にフェアーなのでしょうか。

彼と彼女には遺された子どもがいます。
とても愛らしい顔で笑うお子さんです。

ただ、人を殺したから悪いというだけでなく、
複雑な事情を子どものために明らかにして
いただきたいのです。

お子さんが
自分は本当は
幸せの家庭の中で生まれてきたことを
教えなければなりません。

事情があって父親は人間の弱さが生じてしまったに過ぎず
自分は根っからの悪人の子どもではない
ということを納得して
自信をもって生きていくためにも
裁判では真実が明かにしなければなりません。
それは、父親であり、間違いをした
あなたしかできないことなのです。

弁護人の先生、よろしくお願いいたします。



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脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期 [刑事事件]


全体が長くなるので、
最初に抜粋した部分だけ載せます。
全文はその後に載せておきます。



4 少年法適用年齢と脳科学
 
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、
 人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、
 扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、
 前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。
 その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど
 「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。
 扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、
 闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、
 何らかの形で自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。
 お金がなくて盗みに入ったり、
 攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、
 実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、
 危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、
 複雑な装いをみせます。

 いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。
 思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、
 関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、
 自分を制御します。

 この制御をする脳の部分が前頭葉です。
 協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、
 良いことをしようと思っているのではないということになります。

 扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、
 前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、
 自分の中で対立が起きているわけです。
 
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、
 20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。
 前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。
 アクセルの性能は完成したけれど、
 ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。
 これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。

 だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、
 19歳までは子どもとして扱おうということは、
 脳科学的には理にかなっていることになります。

 本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、
 一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。
 賛成反対という必要はないのですが、
 このような観点も科学的に証明されているのだから、
 法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。

 もともとこういう学問をするべきだと、
 研究対象を義務付けることには私も反対です。
 科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。
 但し、その研究成果については、
 社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。

 それを促すためにも、日弁連は、
 法律以外の学問分野についても意識的に
 アンテナを張り巡らせる必要があると思います。

 相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、
 連携はできないものだと思います。

 日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、
 脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、
 残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。



脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期

賛成、反対という単純な話ではなく

1 少年法の適用年齢引き下げの動き
民法や公職選挙法の成人年齢が18歳に引き下げられました。これに伴って少年法の適用年齢も20歳差から18歳に引き下げられる動きがあるようです。日本弁護士連合会は、この動きに反対しています。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/child_rights/child_rights.html#hantai
少しわかりにくいと思うので、少年法と刑法の関係を説明します。大人は犯罪をすると、刑事裁判にかけられて懲役刑や罰金刑という刑が科せられる手続きに入ります。ここでいう大人は、現在では20歳以上を言います。19歳以下の場合はどうなるかというと、原則として、大人の刑事手続きの対象とはしないで、少年法の適用を受けるという扱いになっています。
 少年法の適用があれば、刑事事件ではなく少年保護事件となり、大人の刑事事件が地方裁判所や簡易裁判所で行われるのと異なり、家庭裁判所で手続きが行われ、処罰という観点ではなく保護、更生の観点からの処遇になり、死刑は無期懲役としなくてはならず、無期懲役の刑が相当な場合は10年から15年の刑にできるなどと定められています。
 これが現在は19歳と18歳もこのような扱いであるけれど、少年法の適用年齢を18歳未満とすると、19歳と18歳は大人として刑事事件として手続が進められることになります。
 少年事件の特に重大事件は、徐々に減少しているということが実態なのですが、一つ一つの事件が大きく印象的に取り上げられるために、少年に対する処罰感情が強くなっていることも改正の背景にはありそうです。

2 なぜ刑法とは別に少年法があるのか
 少年に対する処罰を厳格化する人たちがいることは確かです。被害者やその家族からすれば、犯人が成人でも少年でも被害感情はそれほど変わらないでしょう。被害は一つなのに、少年だからといって厳格な刑事手続きから外されるということは感情的には納得できないでしょう。
 しかし、国家政策は被害者の感情も考慮に入れながら、別の要素も重視していかなければなりません。
 では、なぜ、少年は大人の手続きではなく、少年法の手続きにしたのでしょうか。
 極端な話からすると、例えば、4歳の子どもが、スーパーでお菓子を食べてしまったとします。大人であれば万引きということで窃盗罪となります。警察に連れていかれて留置所に留置され、起訴されて裁判が始まり、実刑判決となれば刑務所に行きます。これが大人の手続きです。これを4歳の子どもに適用できないし、適用しても世の中に良いことはないでしょう。(このため、14歳未満の刑法犯は処罰の対象ともなりません。14歳以上は、少年法の適用はあるものの、交流上に留置されて取り調べられる可能性があります。)
 大人と子どもについて、区別することは理由があると思います。その線をどこでひくかという問題です。問題提起を研ぎ澄ませると、「少年法の適用がある19歳と適用がない20歳は、何が違うのか」という問題になります。
 この法律は、戦後直後に制定されているのですが、あまり科学的な議論があったわけではありません。人間には個性があり、若いのに立派な人もいれば、年を取っているのにだらしのない人がいることは事実です。本来年齢で決めることは非科学的な感じもします。しかし、法律はどこかで線をひかなければなりません。その場その場で法律の適用が異なると、混乱してしまい、無秩序な状態になってしまいます。結局、年齢で線を引くことがはっきりするうえ、比較的公平だということで落ち着いたのでしょう。
 もう少し食いついていくと、大雑把なのは仕方がないとして、何らかの理屈はあっただろうということです。
 一番大きな理由は、大人は待ったなしで自分のやったことの責任を問われなければならないのですが、少年はまだ成長の途中であるから、更生する可能性がある。大人と同じ前科をつけることで、社会の中での足かせをはめてしまうと、少年の立ち直る機会が失われてしまうので妥当ではないという考えです。少年のころの失敗をすべて残して立ち直れなくなってしまうより、立ち直らせて社会に無害になってもらった方が世の中のためにも有益だという考えもあります。

3 人が処罰される理由と法学と脳科学
脳科学や心理学を勉強していると、刑法の理論というものが、実はとても科学的であったことに驚いてしまうことがあります
日本の刑法が制定されたのは1907年ですが、これはプロイセン刑法などの影響を受けているので、実際の刑法理論は19世紀のものです。しかし、その後に明らかになった脳科学的知見とこの19世紀の法学が矛盾なく整合するのです。
 一番わかりやすいのは、人を処罰する根拠です。

 刑法理論は、自分がこれからやろうとすることが犯罪に該当することならば、「やっぱりやめた」と思いとどまらなくてはならない。それなのに思いとどまることをしないで、実行したことが非難に値する。つまり処罰できる。というものです。
 だから、思いとどまることを期待できない、子ども、生理的反射、病気の症状などについては、自由意思に基づく行為ではないので、「やっぱりやめた」と思うチャンスがなく、非難できないので、刑罰の対象としないのです。
 面白いことは、非難の対象が「思いとどまる」ということをしない点にあるということです。これは脳科学の知見から実に正しいことだったのです。
 1960年代、ベンジャミン・リベットという人が実験を行いました。指をあげる時の脳波の変化を測定しました。そうしたところ、指をあげようと思ってから指をあげるまでに4分の1秒かかったということがわかりましたが、実は指をあげようという意識が生まれる1秒以上も前に、脳は指をあげるための活動を始めていたというのです。
 私たちは、自分が、何かをしようとして何かをしていると思っています。実際は違うということになります。先ず、無意識に脳が、その何かをしようと検討を始めていたのです。その後に意識がそれをしようと思い、それをする。あるいは、それを止めようと思い、思いとどまる。こういう流れでありました。
 だから無意識の検討から、意識的な意欲までの1秒間で、人はその無意識の検討を思いとどまるかそのまま実行するかという選択をしていのです。最初の無意識の脳活動は、その人の人格にかかわらずに勝手に思考を始めています。殺そうか、万引きしようか、侮辱しようかと。刑法理論はこの無意識を処罰の根拠としません。それは認めた上で、「やっぱりやめた」と思いとどまらなかったことを処罰の対象とするのですから、人間の意思決定の仕組みを前提にしたかのような理論だったわけです。
刑法理論の人間観は、経験的、直観的に作り上げられたものでしょう。しかし、犯罪だけでなく、人間の行動や意思決定を実に正確にとらえていて、リベットがあとからこれを裏付けたことになります。

4 少年法適用年齢と脳科学
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。お金がなくて盗みに入ったり、攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、複雑な装いをみせます。いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、自分を制御します。この制御をする脳の部分が前頭葉です。協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、良いことをしようと思っているのではないということになります。扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、自分の中で対立が起きているわけです。
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。アクセルの性能は完成したけれど、ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、19歳までは子どもとして扱おうということは、脳科学的には理にかなっていることになります。本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。賛成反対という必要はないのですが、このような観点も科学的に証明されているのだから、法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。
 もともとこういう学問をするべきだと、研究対象を義務付けることには私も反対です。科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。但し、その研究成果については、社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。それを促すためにも、日弁連は、法律以外の学問分野についても意識的にアンテナを張り巡らせる必要があると思います。相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、連携はできないものだと思います。日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。

6 ネタバラシと雑感
 今回の種本は、「あなたの知らない脳 意識は傍観者である。」David Eagleman(ハヤカワノンフィクション文庫)です。脳神経学者が、刑事政策について立派に意見を述べられています。
 イーグルマンは、この本でもう一歩進めて、人間には自由意思なんて存在しないということをかなり説得的に説明しています。だから犯罪者について非難できるところ探すことはナンセンスであり、非難可能性を処罰の根拠としてしまうと処罰をする理由は無くなってしまうということを言っています。もっとも、だから処罰しなくて良いのだということを言っているのではなく、社会防衛から処罰は必要だと言っています。非難可能性ではなく、修正可能性をもって処罰の根拠とするべきだということを言っています。
 大変魅力的な考えです。実際、私も多くの刑事被告人の方とお話してきましたが、自由意思や平等なんて言うのはフィクションだと常々感じています。もともと追い込まれている人たちが犯罪に出るということが実感です。この人が処罰されることは不平等で理不尽なことだと何度感じたことでしょう。
 しかし処罰をしないわけにはいかない。平等や公正というフィクションは維持されなければならないと一方で感じてもいます。ただ、社会防衛的な考えを徹底してしまうと、その人の危険性(イーグルマンでいうところの修正可能性)によって、その人の刑期の長さが決まってしまうという不都合が生じるということはよく言われていることです。私は、あくまでも非難であり、罪に対する応報(むくい)として刑罰というものを考える必要性があるとは思っています。
 考えさせられる典型例は、飲酒や薬の影響のために、「やっぱりやめた」ということが考えにくいような場合です。理論を貫いて、期待できないから無罪にするという割り切りは難しいです。
 どこかでフィクションをフィクションだと自覚しながらも、使わなければならないという法律学の宿命があるように感じました。

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