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無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

なぜ、無差別襲撃事件が起きるのかを検討するにあたっては、
なぜ、通常は無差別襲撃事件を私たちは起こさないのか
ということを考えることが王道だということになるでしょう。

<無差別襲撃をしない理由として考えられるもの>

 なぜ、私たちはかかわりのない人を攻撃しないのか。これは二つに分けて考えられます。ⅰ)そもそも関わりのない人を襲撃しようと思わない。ⅱ)仮に襲撃しようと思っても、思いとどまる事情がある。この二つです。

ⅰ)襲撃しようと思わない理由。
 ① 防衛の必要がない(相手から攻撃されない)
 人間が人間を攻撃するのは、通常は自分を守るためという理由のようです。通常はかかわりのない人から自分が襲われないために、こちらから反撃しようというきっかけがありません。但し、ここでは、「八つ当たり」という怒りに基づく行動形態を考慮しなければなりませんが、あとでお話しします。
② 人間の尊厳を認識している
 無意識にアリや蚊等の小動物を攻撃することはあっても、人間は大事にしなければならないからむやみに攻撃しないものだという認識によって、そもそも攻撃しようと思わないという側面もあるでしょう。攻撃するとかわいそうだからとか、敵対している人間でなければ、できることならむしろ仲良くしたいと無意識に感じているということもあると思います。ベクトルの向きが、自然状態では攻撃とは真逆の位置にあるのだと思います。
ⅱ)襲撃しようとする気持ちを思いとどまる理由
  職場で理不尽な目にあったり、実家で喧嘩をしたりして、家族に八つ当たりをしたくなるということはあるでしょう。「怒り」は、なんらかの危険を感じた場合、その危険を解消するための行動のようです。ただ、「おそれ」とは違って、行動対象が危険の原因と必ずしも対応しないようです。怒りの行動に出る場合は、相手に対して勝てるという意識が必要なようなのです。但し、危険を感じると、感覚的には自分を守る意識が過敏になっていますから、些細な危険を向けられた自分よりも弱い者に対して怒りの行動、すなわち攻撃に出るようです。これが「八つ当たり」です。
  では、八つ当たりをしたくなった場合でも、人間は無差別な攻撃をするわけではなく、甘えてよいと思う対象に対してだけ攻撃をするものです。どうしてあたりかまわず八つ当たりの攻撃をしないのでしょう。考えられる理由は以下のとおりです。
③法律で処罰されるから
④社会的信用を無くすから
⑤人を襲ってはいけないと教わってきたか
⑥反撃されるからら

こんなところでしょうか。
③、④、⑤は、大体同じようなことでしょうか。
法律で処罰されることの最大の困りごとは、
例えば刑務所に入れられることによって、
それまでの自分の人間関係が
無くなってしまうのではないか
というところにありそうです。

③、④、⑤.⑥は、
結局のところ、自分を大切にしているために
自分に危害を加えないために
無関係の人を襲撃しないということになると思います。

<無差別襲撃をする人の特徴、自分を大切にしない>

こう考えていくと、
私たちが、少なくとも現時点まで無差別襲撃をしない理由は、
自分を大切にしているからだといえるのではないでしょうか。

八つ当たりのようなことをしようと思う事情があり
無防備な3歳くらいの子ども公園を一人で走っている姿を見ても、
襲撃しようとは思いません。
その弱い子どもを攻撃することで、
人から非難されることになっては困る、
これまで通りの生活ができなくなるという理由もあるでしょうが、
それ以前に、小さい子どもを無意識に守ろうとしてしまい、
攻撃をしようとすることさえも思いつかないでしょう。
小さい子どもは大切にされるべきだという感情が
元々備わっているように感じられます。

ところが、無差別襲撃をする人は、
そのような心理状態ではありません。

相手をかわいそうだと思わないことがあっても
同時に、自分がこれから行う自分の行為によって
社会的に追放されることを
恐れることはないのです。

今回の登戸事件での襲撃者は
行為から20秒足らずで自殺をしました。
まさに、自分を大切にしようという発想が
全くなかったわけです。

<なぜ自分を大切にできなくなるのか>

「自分を大事にする」という言葉があります。
通常は、身体の健康の維持に努めるということでしょう。
それはわかりやすいです。
もう一つ、自分の人間関係を良好に保ち、
家族、学校、職場の人間関係の中にいることで
苦痛にならないようにする
という意味もあると思います。
対人関係的意味での自分を大事にする
ということになると思います。

対人関係的意味での自分を大事にするということは、
自分という一人の人間を大事にするために
自分の関係する人間を大事にすることが必要だ
あるいは、自分を大事にすることと仲間を大事にすることは
結局は同じことだということになるはずです。

およそ人間は、単体で独立して存在しているものではなく、
自分のつながりのある人との関係で
人格が形成され、発露されているようです。
自分が望む人とのつながりが維持されるのか絶たれるのか、
つながりのあり方、程度などによって
自分の感情や幸せの度合いが変わってくるわけです。

だから無差別襲撃者が
自分を大切にしていないということは、
自分が他者とかかわっていないということを
実感しているのだと思います。

人間と人間との関係は
相互に影響を与えあっている関係です。
自分を攻撃してくる人に対しては
近づこうとしないでしょう。
自分に親切な人に対しては、
こちらも親切にしたくなるものです。

自分を大切にしないということが
対人関係的には、
自分の属する人間関係を大切にしないことだとすれば、
対人関係的な意味で自分を大切にしない理由は、
およそ、自分が大事にされた対人関係を持たないということや
自分にかかわる他者という者は
自分を否定し、攻撃するものだ
という認識を持っているということが考えられます。
つまり、孤立しているということです。

この「孤立」が原因だというのは、
客観的に孤立しているか否かということではなく、
自分が孤立を感じているという主観的なものです。

そしてなぜ孤立しているかという原因も問いません。
主として自分に原因がある場合でも
孤立をしている以上、
自分の関係を大切にしようなどということは思いませんし、
それはとりもなおさず
自分と他者の関係を良好に保とうとは
思わない状態になっているからです。

<孤立と他者への攻撃の関係>

孤立を自覚していると、
自分に対する配慮も、他者に対する配慮もできなくなります。
それでも、将来的に孤立を解消したいという希望があれば、
他者との関係がこれ以上悪化しないように
自分の行動を制御するでしょうし、
つまり、自分を大事にしようとすると思います。

ところが、孤立が確定的になり、
将来にわたって孤立が解消できないだろうと認識した場合、
人は絶望するようです。
人間の脳は、あらゆる方法を使って絶望を回避するのですが、
様々な負の衝撃により絶望が回避できない場合があるようです。

その場合は生きる意欲を失います。
身体生命の危険の絶望は、
余命宣告というような例を除いて
瞬時に死が訪れることを意味しますから、
気絶をすれば足ります。

ところが対人関係的な絶望は
来る日も来る日も絶望に悩まされます。
絶望から逃れるために、
自死という行動を止めることができなくなるようです。

自死という行動を止められなくなった場合、
一人で自死に至ることが大多数ですが、
無差別襲撃者は、他者を攻撃してから自殺するのです。

大きな違いは、
一人で自死する場合は、
家族や友人、仲間というつながりを大切にしていて
つながりからも自分を大切にされているという認識があるからです。

それでも、様々な事情で、良好な関係があるにもかかわらず
特定の対人関係の孤立を原因として
絶望を回避できなくなるのが人間のようです。

(なお、母子心中等、身近の人間を巻き込む自死は、
不思議なことに
巻き込む相手に対しての愛情がある場合です。
もちろん冷静な形での愛情ではありません。
追い詰められた上での歪んだ認知の上の愛情です。)

だから、無差別襲撃をする人の孤立は
絶対的な孤立だということになるはずです。

どこの対人関係でも孤立していて
どこの対人関係でも改善が不可能だ
という絶対的孤立なのでしょう。

そうなってしまうと
人間とは大切にされるべき存在だとは
およそ考えられなくなるはずです。

人間の命などは、
守られるべき価値のあるものだとは
考えられなくなるのです。

絶対的孤立の中で、
全ての人間が自分の味方ではないと思うのだから、
この絶対的孤立の苦悩を自分に味会わせているのは
全ての人間だということになるでしょう。

人間は、味方でなければ敵だと
うっかり判断してしまう動物らしいです。
そうすると、すべての人間が味方でない以上
自分にとって敵になるわけです。

襲撃する相手は誰でもよいということになります。
相手をかわいそうだと思うこともありませんし、
おそらく襲うことができたから襲った
そういう理不尽な事態が起きた
そういうことなのでしょう。
突然のことで無防備だった方
子どもなので抵抗できなかった方々


命を落とされた方、
生存はしているけれど
心に深い傷を負った方にとっては、
全く理不尽でやりきれない話が
目を背けないで本件を見たときの真実だと思います。

<これからやるべきこと>

このような惨劇が我が国においても繰り返し起きています。
予防に力を入れなければ防ぐことはできません。
今回は、一連の襲撃行為は10数秒だったと報道されています。
襲撃が起きてしまってからでは、
防ぐことはなかなかできないのです。

予防のためには、
襲撃者に対する
徹底的な調査、研究が第1です。
私は、主だった無差別襲撃の背景に
私が述べた事情が共通項としてあると思っています。

国家的プロジェクトとして
客観的な調査を行うべきだと思います。

調査するべき事項は
襲撃者の
孤立の現状、孤立の経緯、孤立の原因
想定される対人関係(家族、学校、職場)の状態、
孤立解消の可能性とその点の襲撃者の主観
襲撃者が疎外を受けていたとしたら
誰からどのようにされていたことか。

誰がどのようにかかわることのできる可能性があったか
居場所を作るとしたら、どのようなものが想定されるか
予算を惜しまずに研究するべきです。

今回の多くの犠牲者の方々の犠牲を重く受け止めるのならば、
本格的な再発予防を徹底していただきたいと思ってやみません。



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無差別襲撃事件の予防のために1 登戸事件の生存被害者の方、特に生存しているお子さんの被害を考える。「心のケア」は、専門家に丸投げするものではないこと。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

昨日の川崎市登戸の事件の重みを
考えていきたいと思います。
亡くなられたお二方のご冥福を
心よりお祈り申し上げます。

今回は、生存者の被害とは何かについて
特にお子さん方について考えます。

お子さん方の「心のケア」が口に出されていますが、
その実態、内容は語られていないように思います。
専門家に任せればそれで解決するという問題ではないように思えてなりません。

そもそもケアが必要な「心の被害」とは何なのでしょうか。
それは
人間の安心の記憶がリセットされてしまうことだと思います。

キーワードは、
・予測不可能な攻撃
・死の危険の体験
・自己統制不全
というところにあります。

<他人を信じてしまう「こころ」がつくられる仕組み>

先ず、人間は、他人に対しては(自分を攻撃するものでない限り)、
どうしても安心感をもってしまうようです。
山中で道に迷うと恐怖と焦燥感に苦しみますが、
ようやく人里にたどり着いて民家などが見えると
ほっとしてしまうわけです。

これは理由のあることだと思います。
一つは群れを作るヒトという動物の
遺伝子的に組み込まれたものです。

他の人間をやみくもに敵だと思って警戒ばかりしていたら
群れを作れることはできないので
警戒しない、仲間だと思ってしまうことは
人間に必要な性質たということになります。

自分の母親以外の大人の感情にも共鳴するということが
二歳くらいから起き始めるといわれています。
これは、人間だけでサルにはありません。

もう一つは学習です。
人間の乳児期、幼児期は無防備で、無能力ですから、
どうしても大人の全面的な世話が生存のために必要になります。
だから乳幼児期を通り過ぎても生き残っている個体は、
必ず他者(親等)の全面的な世話を受けてきたことになります。
他の人間から、自分の弱点を補ってもらい、
援助を受けた体験があるということになります。

なんとなく他人は自分にとって役に立つ
という記憶を乳幼児期を過ぎた人間がもっているのは、
赤ん坊の時に全面的に世話を受けた体験からもきているのでしょう。

ただ、それとは別に、そして同時に
知らない人を警戒するという、これも本能があるようです。
信頼と警戒の
その折り合いを学習しながら成長するわけです。

学習していく過程の中で、
「自分とかかわりのない人は自分に危害を加えない」
という大切な社会性を学習していきます。
ここでいう「学習」とは、真実を知ることではありません。
そういうものだという記憶を形成することです。

<人間を信じるこころが壊れる仕組み>

人間が信頼できるという記憶は、
家やいにしえの村という閉鎖的な空間においては、
十分に形成されていきますが、
何らかの悪い大人によって
中断されることもあります。

現代社会ではその危険性は高くなっています。

無関係の子どもに怒鳴り散らす大人
性的加害をする大人、
アクシデントにもかかわらず感情的に攻撃する大人等
それから、いじめですね。

それでも、無関係な人間から攻撃されると
そこでへこたれているわけにはいかないので
通常は、それを教訓に行動を改善を試みます。
今度は攻撃されないようにしようという
防衛本能に基づく思考処理が行われるのです。

例えば、夜は一人で歩かないようにしようとか、
関係の無い大人にちょっかい出すことは怖いからやめようとか
そのような客観的に合理的な選択をすることが通常です。

つまり、危険の記憶と危険の直前の記憶を照合し、
危険回避の方法を学習するわけです。
危険回避が可能だと腹に落ちた場合、
危険に対する過剰な警戒は終了します。
逆に言うと頭では分かっても
回避可能だということが腹に落ちないと
警戒心が解除されるということがないのです。

警戒心は心身を疲労させますから
解除できないことは
心の疲労が蓄積されてゆきます[exclamation]

腹に落とす方法は、
眠っているときのレム睡眠のファイリング機能によると
考えられるようになっています。
眠っている時ですから無意識に行われるのですが、
覚醒しているとき以上に脳が活発に活動しているのですから、
無意識ですが、脳の機能ということになります。


このようにうまく、記憶のファイリングができれば、
例えば、自分の感じた恐怖は例外的な場面であり、
その例外的な場面に出くわしたら対処をすれば危険が回避できる。
対処をすることは可能だから、今度は安全だ
ということになります。
日常生活で、無関係な通行人等と
また安心してすれ違うことができるようになります。

ところが、そのような危険と関係のある前触れが思い当たらない場合、
記憶のシステムは混乱してしまいます。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
という結論が出てもおかしくはないのですが、
それは出さないように脳が勝手に動くようです。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
ということは、
将来同じ危険が生じたら、
今度は危険を回避できないということですから、
絶望を感じることになります。

しかしこの絶望については
なにがなんでも受け入れないということが
脳のシステムのようです。

脳は迷走ともいえる「工夫」をしてしまいます。
例えば、本来、何ら客観性のない事象を
危険の予兆だと評価して決めつけ、
その予兆があると危険を想起して過去の感情をぶり返させ
警戒をさせるのです。

例えば、雨の日に性的被害にあった被害者は
雨が降ると被害にあった時の感覚がよみがえることがあるようです。
雨が降ると不安が大きくなってしまい、
外に出ることができなくなることがあるそうです。

例えば、子どものころ窓から外を見ていたら
右隣の家に住む精神不安を抱える人間から
突如窓から顔を出してこちらをにらみつけられて
とてつもない罵声を浴びせられ
驚いて自分の家にいても安心できないという体験をした場合は、
「何か右の方から悪いことが始まる」
という感覚を持ってしまうことがあるようです。

私でさえ、このような人を複数人知っています。
その人たちはみんな統合失調症の診断を受けてしまいました。

そのような客観的には不合理な「予兆」に対する過剰な不安が
本人も医師も記憶のゆがみだということに
なかなか気が付きません。

本人ですら、感情がぶり返すきっかけが何なのか
それすらわからないことが多いようです。
雨ということであればわかりやすいのですが、
臭いであったり、
風の音であったり、
服の色であったり
意識に上らない記憶に反応していることが多いそうです。

危険に対する過剰反応によって、
人間そのものを恐れるようになる
ということは自然の流れです。

予測不可能ないじめや
執拗に繰り返されるいじめ
回復手段がないいじめは、
子どもの社会性を奪うことが少なくありません。
社会に出ることができなくなり、
引きこもりや精神科病棟の住人になるお子さんを
多く見たり聞いたりしています。

何かわからないけれど自分が攻撃されるという恐怖や
絶望を回避するために
「自分が悪いから攻撃されるんだ。
 でも自分の何が悪いかわからない。
 自分の存在が悪いのではないか。」
という徹底した自責の念によって
他者とのかかわりができなくなるようです。

こういうケースでは、
およそ人間(ただし家族だけは例外)は、
自分に対して危害を加えるものだという
学習がなされてしまっているのだと思います。

今回の事件は、
2名の方が死亡し、多数が重傷を負った事件です。

凄惨な場面、音声、匂いとともに
命にかかわる危険だという強烈な記憶が
植え付けられてしまっているでしょう。

命に係わることですから、
人間の心の無意識のシステムは
命の危険に対する警戒感から
早く解放されたいという要求が大きくなっているはずです。

それにもかかわらず、今回のケースは。
全く被害者に落ち度がありません。
自分の行動を修正するポイントがまったく見つかりません。

合理的な警戒をすることによって安全の確保ができる
という安心を腹に落とす作業ができません。

事件が終わっても、
果てしなく警戒感が続く危険があります。

さらには、事件が20秒弱で完結してしまっていることからも
事件が起きてから自分の力で回避する方法がありません。
自分ではどうすることもできないという自己統制不全を
強く感じる可能性があります。

そうすると、
強烈な危険の感覚を受けたにもかかわらず、
記憶のファイリング作用による
安心感を獲得する仕組みは機能しないことになります。
危険から解放されたいという要求ばかりが、
行き場を失って過剰に肥大してしまうわけです。

つまり、
この次は、自分の命がないということにおびえ続けるか
人間を信じられなくなり、人間を見ると恐怖を感じるか、
理不尽なことに自分が悪いという自責の念にさいなまれるか
という苦しみが続きかねないことになります。

<心のケアとは何なのか>

先ほど学習とは真実を知ることではないといいましたが、
実際に、今回の事例でもわかるように、人間は、
必ずしも安心できる対象ではないのです。
それにもかかわらず、危険ではないという経験を積み重ねて
警戒を解いていくということが学習の意味です。

今回の事件の生存者の方々、
報道を受けて大きな衝撃を受けた方の中に
このような学習がリセットされて、
人間に対しての安心感を失う方が出てくるかもしれません。
平気な様子を装っていたとしても
そういうものだと思って何らかの対処をする必要があります。

では、
このようなお子さん方の「心のケア」とはなにをいっているのでしょう。

私は、心のケアを精神科治療や心理療法とは別の角度で考えています。

論理的結論とすれば、
人間に対する信頼の記憶
(関係の無い人間は攻撃してこないという記憶)
がリセットされてしまったのだから、
これから、少しずつ安心の記憶を刷り込んでいく
これが論理的な回復の方法ということになるでしょう。

精神科治療や心理療法という
当事者の心に働きかける方法だけでは
解決できないのではないかと考えています。

多くの大人たちが、
道などですれ違う子どもたちに対して
自分が子どもの記憶を形成に関与しているという自覚をもって
子どもの安心感を阻害しない日常を提供する
ということをする必要があると思います。

チャンスがあれば
安心してよいのだよ、あなたをみんなで守るからね
という扱いをされた記憶を刷り込むことです。

特別扱いするのではなく、
日常の仲間として当然のことだという扱いをすることで、
それは被害にあったお子さん方だけに対して行うのではなく、
およそ子どもに対しての大人の対応として行われなければ
逆効果になる危険があることです。

腫れ物に触るような特別扱いをされることは
仲間の外に置かれる感覚になることがあり、
安心感を奪うことがあるようです。

心のケアは、専門家に丸投げをするのではなく、
私たち大人のやるべきことなのだと思います。
子どもは社会で守るものだということを
意識する必要があると思います。

私たちが何をするべきか
それを今後も考えていこうと思います。
そのために、まず、被害を受けた方々のうち、
生存者に対しても深刻な影響があるということから
考えを初めて見ました。

次回は加害者の行為について
予防の観点からどのように検討するか
という問題を考えてみたいと思います。

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なぜ弁護士は殺人者を弁護するのか、弁護するとはどういうことか。ある妻殺しの事件に寄せて [刑事事件]

なぜ弁護士は、
罪を犯した人を弁護するのでしょう。
例えば人を殺した人を弁護するということは
どういうことなのでしょう。

人を殺した場合、
ルールに従って、
制裁を受けなければなりません。

ルールに従って制裁するということは、
あくまでの社会の仲間として扱うということです。
人間として扱うということです。
人間として扱うからこそ
人を殺した場合制裁を受けるのです。

これが人権です。

この「ルール」の大きな柱が、
言い分を聞くという手続きです。
どんな人にも言い分があります。

その言い分で罪が軽くなろうと
逆に重くなろうと
言い分を言わせることが
仲間として扱うということです。
人間として扱うということです。

だけど人を殺した人は
その言い分をうまく言うことができないことが多いのです。
人の命を奪ったということで
激しい精神的動揺があることが普通です。

また逆に、人を殺す場合は
精神的葛藤が続いたり、
極端に強い葛藤が生じたりして
自分でもわけのわからない状態の中で、
取りつかれたように人を殺す
ということが起きているので、
自分で自分の行為をうまく説明できないことも
多いのです。

そうだとすると
言い分をいうことも
実際は難しいことなのです。

ましてや、
世界中が自分を非難しているという
絶対的なアウエイ状態ですから
言えることも言えなくなるのが
人間です。

ですから、
罪を犯した人には
弁護士という人間が
その人に代わって言い分を述べることが
どうしても必要になります。

だから弁護士は、
どのような人の弁護をするときでも
その人の立場に立って、
その人の言い分を一緒に考えて
その人の分まで主張をしなければなりません。

人間の弱さにはいろいろな形があります。
その弱さを十分に理解しないと
罪を犯した人の言い分を思いつくことができないでしょう。

夫が妻を殺した事件がありました。
夫婦には2歳の子供がいます。
かわいい男の子です。
夫は我が子をかわいがりました。
息子も、父親に対して
何のわだかまりもなく安心しきって笑っている
そんな写真もありました。

しかし、夏、
突然妻は子どもを連れて行方をくらましました。
夫の話によると
妻は、子どもを産んだ後あたりから
精神的なトラブルを抱えだしたようです。

真実はわかりません。
しかし、これは理にかなったことです。
いくつかの研究結果から
女性は子どもを産んだ直後、
大人の男性(夫)に対して共感を抱きにくくなり、
その結果不安になりやくすなり、
鬱的状態になると報告されています。

程度の違いは大きくあるけれど
誰にでも何らかのそういう変化が
起きるということだそうです。

私が関わった実際の事件でも
一人目の子どもを産んだ時から
わけもなく不安に陥りやすくなり
すべてがうまくいかなくなるのではないかと考えだし、
2人目の子どもが生まれたあたりから
かなりその傾向が強くなり、
突発的な事情から
子どもを連れて出ていくということが
とても多く起きています。

これは、
脳の機能変化とホルモンバランスの変化であって
環境が変わらないのに
勝手に起きてしまうことが多いのですが、
そのことはまだ、
多くの人が知るところになっていません。

理由がなく不安になる女性に対しては、
「あなたは悪くない」
「夫の精神的虐待が原因だ」
「夫のDVは治らない」
「命を守るために逃げなければならない」
とだけ、マニュアル通りのアドバイスをする人たちがいます。

そいうことを言われるたびに
妻の精神状態は刻々と悪化していきます。
そうして、全力で
夫に知られないように行方をくらますように促され
実行するしかなくなります。

本当は、子どもを産んだ女性に対しては
これまでと違ってことさら親切にしなければならないのですが、
知識も時間も精神的余裕もない男性は、
生む前と同じ対応をしてしまいます。

自分が何も変わらない、これまでといっしょなのに、
妻が子どもを連れて出て行った。
いったい何が起きているのか
とただ呆然とするしかありません。

「彼」は妻が子どもを連れて出て行って
1週間してようやく、
子どもと妻がいなくなってしまった
という言葉を発することができるようになりました。

さらに1週間して
ようやく、ただひたすら歩き続けるという
行動に移すことができるようになったようです。
でも彼ができたのはそれだけでした。

しかし、その後は
仕事はしていたようですが
何もする気が起きず、ふさぎがちになったようです。
かなりアルコールに依存するようにもなっていったようです。

無理もないでしょう。
あんなに可愛がっていた子どもと
突然全く会えなくなったのです。
辛い仕事でも
子どもの寝顔を見ることで
生きてきた喜びを実感していたのに。
すべてが奪われた気持ちになっても
不思議ではありません。

本当は、妻に対して
「そういう不安は誰にでもあるよ。私もあったもの。
 気の持ち方で何とでもなるよ。
 子どもがいるのだから、夫婦で乗り越えなければね。」
と言ってくれたり
「そんなに心配ならば私が意見するから、
 旦那を連れておいで。」
と言ってくれる人がいれば
妻も子どもも家族のままでいられたはずです。

夫に対しても
「子どもが生まれる前と同じじゃだめだよ。
 とても敏感になっているのだから、
 ことさら優しくしてあげて
 多少のヒステリーは大目に見てあげなさいね。
 あと私に愚痴言いにくればいいから。」
と教えてあげる人がいればよかったのです。

そんな人が街中にあふれていたのは
もう50年も前のことなのでしょうか。

仮に別居が仕方がなかったとしても、
子どもの様子を知らせたりする人がいたり、
電話だけでもできる状態だったら
どんなにか救われたことでしょう。

ところが二人は孤立していたようです。
夫はますます孤立を深めてしまいました。

夫は普通のサラリーマンです。
仕事仲間からも信頼されていて
呆然としてただ歩くことしかできない夫に
付き合ってあげた友人もいたようです。
決して、子どもや妻から引き離さなければならない
元々は危険な人物ではなかったはずです。

夫が、家族に会えない時間が経過するにつれて
だんだん精神的に追い込まれていったことは
簡単に想像することができます。

あんなに愛を誓い合った妻が自分を見捨てて
それだけでなく、子どもも自分から奪ったわけです。
自分が、夫としても、父親としても
否定されてしまったと感じることは当然です。
まるで生きていてはいけないと
言われたような気になるそうです

一番深刻な問題は、
なぜそうなったのか本当にわからないことです。
もう一つ、
どうすればこの状態が解消されるのかについても
全くわからないことなのです。

解決をしたいという気持ちがありながら
解決する方法が全く見つかりません。
そうすると、だんだんと
解決したいという欲求だけが強くなり、
毎日、毎秒が、
イライラと焦りだけの時間になって行きます。

自分を取り戻すことだけがテーマになって行きます。
こんな状態にしたのが妻だということだけが
考えないようにしても、頭から離れられなくなります。
本当はまた元の状態に戻りたいのに、
その手段が全く分からない。

とにかく今の状態を何とかしたい。
こんな精神状態がどんどん悪化していきます。

そこから妻を殺すまでの心理状態は
本人でなければ語れないことだと思います。

ただ言えるのは、
彼が元々危険な人物ではなかったということです。
彼を危険な人物に追い込まれた理由があるということです。

これを国家や自治体の関与で行っているとしたら、
本当に彼だけに全責任を負わして良いのでしょうか。

国家や自治体の政策が稚拙で非科学的で、
偏っていたために彼を追い込んでいたとしたならば、
追い込まれた末の行為の責任の一端は
国家が負わなければならないのではないでしょうか。

彼を追い込んだ張本人の国家が
裁判の名のもとに全責任を彼に負わせることは
本当にフェアーなのでしょうか。

彼と彼女には遺された子どもがいます。
とても愛らしい顔で笑うお子さんです。

ただ、人を殺したから悪いというだけでなく、
複雑な事情を子どものために明らかにして
いただきたいのです。

お子さんが
自分は本当は
幸せの家庭の中で生まれてきたことを
教えなければなりません。

事情があって父親は人間の弱さが生じてしまったに過ぎず
自分は根っからの悪人の子どもではない
ということを納得して
自信をもって生きていくためにも
裁判では真実が明かにしなければなりません。
それは、父親であり、間違いをした
あなたしかできないことなのです。

弁護人の先生、よろしくお願いいたします。



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脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期 [刑事事件]


全体が長くなるので、
最初に抜粋した部分だけ載せます。
全文はその後に載せておきます。



4 少年法適用年齢と脳科学
 
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、
 人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、
 扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、
 前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。
 その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど
 「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。
 扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、
 闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、
 何らかの形で自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。
 お金がなくて盗みに入ったり、
 攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、
 実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、
 危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、
 複雑な装いをみせます。

 いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。
 思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、
 関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、
 自分を制御します。

 この制御をする脳の部分が前頭葉です。
 協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、
 良いことをしようと思っているのではないということになります。

 扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、
 前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、
 自分の中で対立が起きているわけです。
 
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、
 20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。
 前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。
 アクセルの性能は完成したけれど、
 ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。
 これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。

 だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、
 19歳までは子どもとして扱おうということは、
 脳科学的には理にかなっていることになります。

 本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、
 一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。
 賛成反対という必要はないのですが、
 このような観点も科学的に証明されているのだから、
 法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。

 もともとこういう学問をするべきだと、
 研究対象を義務付けることには私も反対です。
 科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。
 但し、その研究成果については、
 社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。

 それを促すためにも、日弁連は、
 法律以外の学問分野についても意識的に
 アンテナを張り巡らせる必要があると思います。

 相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、
 連携はできないものだと思います。

 日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、
 脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、
 残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。



脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期

賛成、反対という単純な話ではなく

1 少年法の適用年齢引き下げの動き
民法や公職選挙法の成人年齢が18歳に引き下げられました。これに伴って少年法の適用年齢も20歳差から18歳に引き下げられる動きがあるようです。日本弁護士連合会は、この動きに反対しています。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/child_rights/child_rights.html#hantai
少しわかりにくいと思うので、少年法と刑法の関係を説明します。大人は犯罪をすると、刑事裁判にかけられて懲役刑や罰金刑という刑が科せられる手続きに入ります。ここでいう大人は、現在では20歳以上を言います。19歳以下の場合はどうなるかというと、原則として、大人の刑事手続きの対象とはしないで、少年法の適用を受けるという扱いになっています。
 少年法の適用があれば、刑事事件ではなく少年保護事件となり、大人の刑事事件が地方裁判所や簡易裁判所で行われるのと異なり、家庭裁判所で手続きが行われ、処罰という観点ではなく保護、更生の観点からの処遇になり、死刑は無期懲役としなくてはならず、無期懲役の刑が相当な場合は10年から15年の刑にできるなどと定められています。
 これが現在は19歳と18歳もこのような扱いであるけれど、少年法の適用年齢を18歳未満とすると、19歳と18歳は大人として刑事事件として手続が進められることになります。
 少年事件の特に重大事件は、徐々に減少しているということが実態なのですが、一つ一つの事件が大きく印象的に取り上げられるために、少年に対する処罰感情が強くなっていることも改正の背景にはありそうです。

2 なぜ刑法とは別に少年法があるのか
 少年に対する処罰を厳格化する人たちがいることは確かです。被害者やその家族からすれば、犯人が成人でも少年でも被害感情はそれほど変わらないでしょう。被害は一つなのに、少年だからといって厳格な刑事手続きから外されるということは感情的には納得できないでしょう。
 しかし、国家政策は被害者の感情も考慮に入れながら、別の要素も重視していかなければなりません。
 では、なぜ、少年は大人の手続きではなく、少年法の手続きにしたのでしょうか。
 極端な話からすると、例えば、4歳の子どもが、スーパーでお菓子を食べてしまったとします。大人であれば万引きということで窃盗罪となります。警察に連れていかれて留置所に留置され、起訴されて裁判が始まり、実刑判決となれば刑務所に行きます。これが大人の手続きです。これを4歳の子どもに適用できないし、適用しても世の中に良いことはないでしょう。(このため、14歳未満の刑法犯は処罰の対象ともなりません。14歳以上は、少年法の適用はあるものの、交流上に留置されて取り調べられる可能性があります。)
 大人と子どもについて、区別することは理由があると思います。その線をどこでひくかという問題です。問題提起を研ぎ澄ませると、「少年法の適用がある19歳と適用がない20歳は、何が違うのか」という問題になります。
 この法律は、戦後直後に制定されているのですが、あまり科学的な議論があったわけではありません。人間には個性があり、若いのに立派な人もいれば、年を取っているのにだらしのない人がいることは事実です。本来年齢で決めることは非科学的な感じもします。しかし、法律はどこかで線をひかなければなりません。その場その場で法律の適用が異なると、混乱してしまい、無秩序な状態になってしまいます。結局、年齢で線を引くことがはっきりするうえ、比較的公平だということで落ち着いたのでしょう。
 もう少し食いついていくと、大雑把なのは仕方がないとして、何らかの理屈はあっただろうということです。
 一番大きな理由は、大人は待ったなしで自分のやったことの責任を問われなければならないのですが、少年はまだ成長の途中であるから、更生する可能性がある。大人と同じ前科をつけることで、社会の中での足かせをはめてしまうと、少年の立ち直る機会が失われてしまうので妥当ではないという考えです。少年のころの失敗をすべて残して立ち直れなくなってしまうより、立ち直らせて社会に無害になってもらった方が世の中のためにも有益だという考えもあります。

3 人が処罰される理由と法学と脳科学
脳科学や心理学を勉強していると、刑法の理論というものが、実はとても科学的であったことに驚いてしまうことがあります
日本の刑法が制定されたのは1907年ですが、これはプロイセン刑法などの影響を受けているので、実際の刑法理論は19世紀のものです。しかし、その後に明らかになった脳科学的知見とこの19世紀の法学が矛盾なく整合するのです。
 一番わかりやすいのは、人を処罰する根拠です。

 刑法理論は、自分がこれからやろうとすることが犯罪に該当することならば、「やっぱりやめた」と思いとどまらなくてはならない。それなのに思いとどまることをしないで、実行したことが非難に値する。つまり処罰できる。というものです。
 だから、思いとどまることを期待できない、子ども、生理的反射、病気の症状などについては、自由意思に基づく行為ではないので、「やっぱりやめた」と思うチャンスがなく、非難できないので、刑罰の対象としないのです。
 面白いことは、非難の対象が「思いとどまる」ということをしない点にあるということです。これは脳科学の知見から実に正しいことだったのです。
 1960年代、ベンジャミン・リベットという人が実験を行いました。指をあげる時の脳波の変化を測定しました。そうしたところ、指をあげようと思ってから指をあげるまでに4分の1秒かかったということがわかりましたが、実は指をあげようという意識が生まれる1秒以上も前に、脳は指をあげるための活動を始めていたというのです。
 私たちは、自分が、何かをしようとして何かをしていると思っています。実際は違うということになります。先ず、無意識に脳が、その何かをしようと検討を始めていたのです。その後に意識がそれをしようと思い、それをする。あるいは、それを止めようと思い、思いとどまる。こういう流れでありました。
 だから無意識の検討から、意識的な意欲までの1秒間で、人はその無意識の検討を思いとどまるかそのまま実行するかという選択をしていのです。最初の無意識の脳活動は、その人の人格にかかわらずに勝手に思考を始めています。殺そうか、万引きしようか、侮辱しようかと。刑法理論はこの無意識を処罰の根拠としません。それは認めた上で、「やっぱりやめた」と思いとどまらなかったことを処罰の対象とするのですから、人間の意思決定の仕組みを前提にしたかのような理論だったわけです。
刑法理論の人間観は、経験的、直観的に作り上げられたものでしょう。しかし、犯罪だけでなく、人間の行動や意思決定を実に正確にとらえていて、リベットがあとからこれを裏付けたことになります。

4 少年法適用年齢と脳科学
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。お金がなくて盗みに入ったり、攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、複雑な装いをみせます。いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、自分を制御します。この制御をする脳の部分が前頭葉です。協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、良いことをしようと思っているのではないということになります。扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、自分の中で対立が起きているわけです。
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。アクセルの性能は完成したけれど、ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、19歳までは子どもとして扱おうということは、脳科学的には理にかなっていることになります。本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。賛成反対という必要はないのですが、このような観点も科学的に証明されているのだから、法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。
 もともとこういう学問をするべきだと、研究対象を義務付けることには私も反対です。科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。但し、その研究成果については、社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。それを促すためにも、日弁連は、法律以外の学問分野についても意識的にアンテナを張り巡らせる必要があると思います。相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、連携はできないものだと思います。日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。

6 ネタバラシと雑感
 今回の種本は、「あなたの知らない脳 意識は傍観者である。」David Eagleman(ハヤカワノンフィクション文庫)です。脳神経学者が、刑事政策について立派に意見を述べられています。
 イーグルマンは、この本でもう一歩進めて、人間には自由意思なんて存在しないということをかなり説得的に説明しています。だから犯罪者について非難できるところ探すことはナンセンスであり、非難可能性を処罰の根拠としてしまうと処罰をする理由は無くなってしまうということを言っています。もっとも、だから処罰しなくて良いのだということを言っているのではなく、社会防衛から処罰は必要だと言っています。非難可能性ではなく、修正可能性をもって処罰の根拠とするべきだということを言っています。
 大変魅力的な考えです。実際、私も多くの刑事被告人の方とお話してきましたが、自由意思や平等なんて言うのはフィクションだと常々感じています。もともと追い込まれている人たちが犯罪に出るということが実感です。この人が処罰されることは不平等で理不尽なことだと何度感じたことでしょう。
 しかし処罰をしないわけにはいかない。平等や公正というフィクションは維持されなければならないと一方で感じてもいます。ただ、社会防衛的な考えを徹底してしまうと、その人の危険性(イーグルマンでいうところの修正可能性)によって、その人の刑期の長さが決まってしまうという不都合が生じるということはよく言われていることです。私は、あくまでも非難であり、罪に対する応報(むくい)として刑罰というものを考える必要性があるとは思っています。
 考えさせられる典型例は、飲酒や薬の影響のために、「やっぱりやめた」ということが考えにくいような場合です。理論を貫いて、期待できないから無罪にするという割り切りは難しいです。
 どこかでフィクションをフィクションだと自覚しながらも、使わなければならないという法律学の宿命があるように感じました。

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品質偽装等の企業犯罪が起きる理由 コンプライアンスという言葉が意味をなさない理由 [刑事事件]

長年にわたり品質検査を改ざんしたり、
検査そのものに瑕疵があり続けていることが
次々と発覚しています。

コンプライアンスという言葉があるくらいですから
今般問題になっている企業も
それなりのコンプライアンスの整備を
お金をかけてやっていたことと思います。

おそらく、法律や道徳という規範(きはん
平たく言えばルール)を守る仕組みを作っていたことだと思います。

長年刑事弁護をしている者としては
なるほどそれではダメだろうなと思っているので、
どうしてダメなのか、どうすればよいのか
ということをお話しします。

刑事弁護で、例えば万引き犯の弁護をすると
万引きが窃盗罪に当たるかどうかはともかく、
それが法に触れることだということを知らない人はいません。

もちろん、法律は守らなければならないことで
自分のしたことは悪いことだということはわかるのです。

多くの刑事裁判で万引き犯は、裁判所で、
悪いことは重々分かっている
今後気を引き締めて二度とやらないことを誓う
という言っていることでしょう。
これでは万引きを繰り返すだけです。

色々なノウハウがあるのですが、
今回は企業犯罪との関係に絞ります。

要するに、「法律があるから、道徳があるから
人は犯罪をしない」
ということではないということが重要です。

こういう考えは、
人間の自然体は犯罪を厭わない弱肉強食だ
だから法律があって悪辣な人間を縛るのだ
という考えです。
中国でいえば、荀子の思想になじむものです。

しかし、どうですか、
あなたは、法律で裁かれなかったら
弱い者から金銭を巻き上げて平気でいられますか。

あなたが殺人を犯さないのは
法律があるからですか。

小学生を拉致してぼこぼこに殴らないのは
道徳に反するからですか。

実際は、それをしたいと思わないからしない
という方が実態に近いように思います。

しかし、種々の事情
広い意味で自分を守るため等の理由から
犯罪を起こします。
その時、法律や道徳があることは
あまり実行を妨げないようです。

先ほども言いましたが、犯罪を実行した人は
自分のしたことが法律や道徳に反することを
知っています。

では、どうして、多くの人たちは
自分を守ると言っても犯罪を実行しないのでしょう。
思いとどまる理由は何なのでしょうか。

私は、それは、被害者に対する共鳴、共感があるからだと思います。
命を落とすことの恐怖、
お金を巻き上げられ事の経済的損害や屈辱、恐怖
叩かれることの痛さ、怖さ、孤立感
そういう負の感情を共感、共鳴によって感じ取り
ギリギリのところで自分の行為を思いとどまる
こう言うことが多いのではないでしょうか。

それを裏から証明することができます。

弁護士が弁護する被疑者被告人の方々は、
自分がした行為によって誰にどのような迷惑、被害を与えたか
直ぐに口に出すことができません。
その人の苦しんでいる顔を想像することが
色々な事情によってできないようです。

大型店舗の万引き犯の場合に苦労するのも
そういう具体的な人間の感情を伴った被害を
想像してもらうことなのです。

結局犯罪はなぜ起きるのかというと、
実行時に、被害者の心情に共鳴、共感できないからだ
ということになろうかと思います。

だから刑事弁護では、
まず初めに、具体的な人間が被害を受けて
悲しんでいたり、苦しんでいたり、という当たり前の感情を
想像して、言葉に出してもらうことから始めています。

形式的な法違反ではなく
実質的な法益侵害を理解してもらうという言い方もできるかもしれません。

今回の企業の一連の不祥事は、
世界的信用性を無くすということが指摘されています。
世界的なビジネス常識として、
コンプライアンス違反は
企業の経営状態の悪化を意味しているからです。
余裕のある企業はコンプライアンス違反をしない
という建前があるのは当然です。

さあ、ここから企業はどのような反省をするのでしょうか。
気が緩んでいた、法律や企業道徳の理解が不足していた
今後は気を引き締めて緊張感をもって頑張る
というまるっきり無意味な反省をして
日本という国を巻き込んで沈没していくのでしょうか。
刑事裁判なら限りなく0点に近い反省です。

もう、言わずもがなだと思うのですが、
やるべきことは、
自分が行った不正によって、誰がどのように迷惑、損害を被ったか
どのような被害があり、そのことによって
誰がどのような感情を抱いたか
途方もない被害者になりますが
それを一つ一つ考えていくことです。

それが反省の出発です。
どんなに法律を勉強して
ストッパーを構築しても、
自分の経済活動が人とつながっているという当たり前のことが
企業人すべての共通認識になっていなければ
再発は必至でしょう。

今度はばれないようにやる
という技術だけが向上するでしょう。

大事なことは、自分たちの企業活動が
人の幸せにつながっているという
社会の中の役割感、仕事をするほこりを育てる
ということなのですが、
理解されるか、とても自信がありません。

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弁護士は、なぜ強姦事件を弁護するのか、弁護できるのか、何を弁護するのか [刑事事件]

特定の事件のことをコメントしているわけではありません。
また、性犯罪加害者の刑を軽くしようと思って書いているわけでもありません。

特定の事件を弁護士がコメントしないことには理由があります。
先ず、情報を持っていないということです。
情報を持っていないのに、
あの判決は不当だとか
あの弁護方針はおかしいとか
そういうことは言えないのです。

法的関与の方針決定をする場合、
事件や被害者、被告人の更生の方法
そのための弁護方針、
細かいことを言えば、当該裁判の裁判官の傾向
もろもろを考慮して決めますので、
実際に事件に関与しないとわかりません。

報道された情報があるのですが、
警察発表は一方的になりがちで、
悔しい思いを弁護士は何度も経験しています。

児童虐待で逮捕された男性は、
性的虐待の可能性もあると広く報道されてしまい
繰り返し全国ニュースで勤務先まで写されてしまいました。

後に民事系の裁判で、
性的虐待は母親の妄想の産物だという判決が出て、
刑事事件も偶発的なかすり傷であり虐待ではないとして
起訴さえされませんでした。

警察からも報道機関からも一言も謝罪もなく、
家庭のことで冤罪なのに、男性は職場から処分されました。

そういうことで、弁護士として事件を見る場合
報道が正確だとは初めから思っていません。

但し、もちろん家庭の中のオヤジとしては、
「こいつ許せねえ」等と息巻いているのですが、
弁護士としては「私は事情が分かりませんので」
というわけなのです。

さて、タイトルの、なぜ強姦事件を弁護するか

その前に、ネットで性犯罪の弁護士と検索すると
なぜか私の名前が出てくるらしいのですが、
性犯罪の被害の重大被害を語っているうちに
いつしか弁護側になっているのかもしれません。

一言、性犯罪は予後が悪いです。
例えば、幸い未遂であったとしても
雨の日に被害に遭われた方は、
雨が降るだけで、恐怖を感じ、
被害の時の感情がよみがえってしまう
それほど辛いことで、
その後の人生が台無しになるくらい
被害が甚大なのです。

よく、被害者にも落ち度があるなんていう人がいますが、
こういう人のこういう話が
被害者を孤立させ、罪悪感を植え付け、
益々被害を甚大にするのです。

確かに、被害にあわないように
夜遅く一人で歩かないようにしましょう
と言われ、これは真実だと思います。

しかし、これは、
夜遅く歩くと、「悪い奴が来て」被害にあってしまうから
歩かないようにしようという
予防のための論理です。

実際悪い奴に遭遇してしまったといっても
悪い奴は悪い奴であって、
被害者が悪くなるという論理はないのです。
訳知り顔で人を否定するなと強く言っておきます。

さて、そのような重大な犯罪ですが、
弁護士はなぜ弁護するのか。

一言でいってしまえば
それが弁護士の仕事だからです。

こういうと金のためにやるのかと思われがちですが、
ちょっと意味合いが違います。

法制度上、そのような役割のために
弁護士による弁護という制度が設けられている
ということが近いと思います。

このような法制度がない時に
コミュニティーから排除しなければコミュニティーが成り立たない場合、
どうやって排除をしたのかよくわかりませんが、
寄ってたかって、排除したのだと思います。
孤立させられて、石をぶつけられて
追い出されたか、殺されたか。
凄惨な排除だったのではないかと思います。

しかし、国家が成立し、文明が起こると
そのような野放図なリンチは行われなくなっていきます。
いろいろな建前を作りながら、
排除者の側の心理的負担を軽減していくのです。
納得の契機みたいなものもあるのでしょう。

犯罪者であっても、
人権を認め、防御権を認め、
できるだけ理性的な装いをつくるわけです。

社会秩序のために人を罰するわけですから
罰し方によって社会が殺伐になって行ったら
元も子もないからです。

犯罪者の言い分もよく聞いて、
決して無罪の人を罰せず、
仲間として尊重しよう
こういうのが文明の発達とされています。

だから犯罪者を孤立させない。
一人ぐらいは専門家を味方にしよう。
そうやって言い分をきちんと言わせよう。
国民も犯罪者も納得して罰することが
秩序維持にも有効だ
ということになります。

その役割を担うのが弁護士ということです。
ちなみに刑事裁判の弁護は弁護士しかできません。

研修所では、無罪弁護を中心に研修しますが、
私は、これは懐疑的です。
無罪弁護はもっとも大事な刑事弁護ですが、
弁護士の基本は、
犯罪者に寄り添う、悪い人の味方になること
だと思うからです。

犯罪者は、究極のマイノリティーです。
あからさまに悪い事件は、
社会の非難も大きく、
勢い、裁判所でも過酷な刑罰が科される傾向にあります。
完全に孤立しているわけです。

弁護士は、その普通のというか自然の
人間の感情の前に立ちふさがり、
人類の近代、文明を守ろうとする仕事
ということになります。

それは弁護士しかできません。

なぜ弁護できるのか。

じゃあ、無理して弁護をしているのか
と言われると、そうでもないというのが本音です。

確かに、被疑者、被告人の方と会うまでは、
どんな犯罪が行われ、どんな被害を受けた人がいる
という基本情報しかありませんので、
初対面の前は、どんな悪い人を弁護するのかと
緊張をしています。
しかし、実際に顔をあわせると
拍子抜けするほど普通の人ということが殆どです。

そうやって、プラスチックの板越しに話をしていると
益々、どこにでもいる人だなあという感覚が強くなります。
私は20年以上もこんな感じです。

だんだんと、生まれながらの犯罪者という人はいない
犯罪を行うことには、必ず何か理由がある
という感覚になっていきました。

その理由を理解するためには
それこそ専門的な能力が必要ですし、
それでも的外れのこともありますし、
なかなか心のブロックが固い人もいます。

だけど、そこがわからなければ
自分がどうして犯罪をしたのかということがわからず、
どうやったら今後犯罪をしないですむのか
ということがなかなか見えてこない
そのために必死になって
共同作業をするわけです。

そのためにも、被害者の苦しみを
理解しなければ文字通り始まらないのです。

被害者の被害の大きさを実感し、
是非とも二度とこういうことはやらないようにしたいと思い、
親権に自分の人生を考えてもらう
これが弁護なのです。

警察の人とこういう話をした時、
「弁護士は被害者の反省を助ける仕事」
という言葉をいただきました。
何気なく言った言葉を拾ってもらい
ハッと新鮮な緊張が走った記憶があります。

だから、あまり、刑を軽くするという目的での弁護はしません。
もちろん被告人の方の最大の関心事が刑の重さなのですが、
そのこと以上に、自分の今後の生き方を見つめることが大事で、
それがうまくいったときは、
良い結果もついてくるのです。

さて、タイトルの強姦事件です。
強姦事件もそうですが、性犯罪事件一般に共通の事情があるようです。
全部が全部というわけではありませんが、
弁護した実感としてということになります。

それは、
その人の日常生活において、
自分で自分のことを決めることができない
誰かに自分の行動をコントロールされている
という息苦しい、支配されている感覚を持っている
そういう場合が多いようです。

自分であれこれしたいことがあるのに
誰かが、それをさせられないで別のことをさせる
それが日常的に繰り返されている
自分で決めることができない

しかし、その息苦しさに気が付いていないこともあります。

いわゆるエリートと呼ばれる人の性犯罪はこの傾向が強く
マルチの仕事を同時にこなさなければならない
複数の関係者から同時に叱責される
自分の自由が無い
そういう場合に性犯罪に走るようです。

性犯罪の被疑者被告人は、言葉では言いませんが、
自分が支配されているように
誰かを征服したい
という潜在的要求があるようです。

それで自分よりも弱い者
一人でいる女性を襲うという図式があるように思われます。

被害に遭われた方は、
犯人が自分をつけ狙っていて
その結果被害に遭ったと思われる方が多いのですが、

ストーカー型の犯行でない場合は、
犯人が、自分より弱そうだと思うなら
誰でもよい場合が多いです。

被害者の方にこう説明すると
安心していただくことが多いので
一言付け加えておきます。

事件を憎んで犯人も憎んでいたら
犯罪の原因が見えません。
その人が悪いということで終わります。

しかし、もし、共通の原因があるのであれば、
その原因を除去して
新たな被害を作らない
そういうことが必要なのではないでしょうか。




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菊間千乃氏の、弁護により罪を軽くすることが再犯につながる、が妄言である事。じゃあ弁護って何ってはなし。 [刑事事件]

菊間千乃弁護士が、女性自身の記事で、
「弁護により罪を軽くすることが、再犯につながっているのかもしれない
とも感じていました。」と発言しています。

https://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/crime/30969

「万引きの再犯率は約50%と、非常に高いのです。国選弁護などで窃盗犯の担当となれば、本人に反省を促すいっぽうで、なんとか罪が軽くなるように活動をします。しかし、弁護により罪を軽くすることが、再犯につながっているのかもしれないとも感じていました。万防機構は『万引きそのものをなくす』ことを目指していますので、犯罪そのものを減らしたい、という私の弁護士としての信念と同じだと思いました」(菊間さん・以下同)

もっとも、彼女の話の主眼は、
NPO法人全国万引犯罪防止機構の宣伝にあり、
万引き事案の撲滅のためには、
司法の力だけでは足りないということなのだろうと思います。

それはそうですけれど、
それなら余計なことを言わずにそう言えば良いわけです。

彼女の話は、
自分の経験に基づいて、実感として語るのではなく、
機構の用意した資料で語っているようです。

要するに、弁護士でなくても言えることです。
目くじら立てずに放っておけばよいのかもしれませんが、
彼女は発信力が強いために、
一般の方が刑事弁護について誤解をされると困る
という意識はありました。

要するに、弁護士は、適正な刑を手練手管で軽くして
お金を儲ける仕事だという誤解です。

しかし、一般の方がする誤解だけでなく、
結構まじめな若手弁護士も、同じような議論をしている人たちがいて、
慌てているところです。

研修所の刑事弁護の講義は、
無罪弁護が重視されるということもあり、
通常の無罪を争わない、
情状弁護の技術が軽視されているような危惧がありました。

それでも、弁護士や検察官、裁判官、同僚と意見をぶつけ合って、
色々と自分なりに情状弁護の在り方について実務に入るまでも悩み、
実務に入ってからも理想の刑事弁護を追い求めているのが
弁護士だと思っていたのですが、どうも様子が違うようです。

妙な割り切りがあり、
「弁護士の仕事なんて」というあきらめのようなものを感じたので、
慌てて、書いています。
先に弁護士業務を始めている者の責任もあるでしょうから。

菊間氏の話の中での一番の問題は、「刑を軽くする」ということです。
一般の人が読めば、先ほど言ったように、
適正な刑より軽くするという印象を受けるでしょう。
そこにはダーティーな匂いがします。

しかし、不正な手段を使って
適正な刑よりも軽くするとしたら大問題です。
刑事弁護とは言えないでしょう。

また、そのような手段を使って刑が軽くなるということはありません。
そんな甘いものではありません。
そんなことは若手弁護士も重々承知していると思います。

通常の刑事事件では、
弁護士が弁護しなければ裁判が成立しないようになっているので、
実際の比較は難しいのですが、
弁護したほうが弁護しないよりも、
刑が軽くなると思いますし、
そうならないと弁護する意味が無いということも真実だと思います。

それはこういうことなのです。
現行の刑事裁判は、
検察が犯人を裁判にかけ、
有罪無罪と、有罪の場合の刑の大きさを
裁判官が判断します。

検察官は、一般予防の観点から
つまり、悪いことをすれば、刑を受けることになる
ということを示して
同種の行為が悪いこと、やってはいけないこと
ということをアッピールして、犯罪の防止に努める
ということが仕事ということになります。

社会防衛の観点から、
罪に厳しく対応することが使命です。

弁護士はというと(無罪を争わない場合)、
第1に、犯人の利益を擁護します。
社会的に孤独な立場にある犯人の唯一の味方
ということもあり得る仕事です。

罪を犯したことのやむを得ない点だったり、
犯人だけの責任ではない点だったりを主張し、
検察官が言うほど重い罪ではないということを
事実をもって主張します。

検察官が類型的な主張するのに対して、
弁護人は個別的な事情を主張していくという
大雑把な傾向の違いはあるかもしれません。

いずれにしても、適正な刑の大きさから刑を軽くするのではなく、
弁護人として考える適正な刑を主張するわけです。
その結果、検察官の求刑よりも軽くなるということは、
検察官もある程度は織り込み済みということにもなります。

だから、私は刑事弁護をしているときも、
不適正な主張をしたことが無いことはもちろんですが、
言葉はともかく、刑を軽くしてくださいという
お願いトーンで弁護したことはありません。

弁護士が、手練手管で刑を軽くするというのではなく、
適正な刑にするよう努力するということは
お分かりいただいたと思います。

第2に、弁護で刑を軽くしたから再犯が起きる
ということも、とんでもないことです。
何弁護してきたのだというか、
本当に刑事弁護したことあるのという気持ちになります。

何が問題って、ここが問題です。
弁護士が、「本人に反省を促すいっぽうで、なんとか罪が軽くなるように活動をします。」というところです。
「反省を促すこと」と「罪が軽くなるようにする活動」が
見事に分かれています。
ちょっと言葉のアヤのような気もするので酷ですが、
わかりやすい部分なのであえて揚げ足をとることにします。

私の結論を先に言うと、
「本人の反省を深めることこそ」、
結果として量刑が低くなることで、
弁護人としての関わる場合の最も大切なところだ
ということになります。

適正な刑にするための弁護活動で、
例えば、実際に盗んだ金額以上に過大に評価されていることを訂正するとか
示談をするとか、
動機とか、手段とか、盗んだ商品の行方とか
そういうことを主張しますが、
それは、弁護人が主張しなくても
ある程度明らかになっていることが多いです。

やったことは、変えようがありません。

すると、実際に結果として量刑が軽くなることにつながる活動とは、
被告人に反省をしてもらうことなのです。

ここでいう反省は特殊です。
「悪いことをした」、「気持ちが弱かった」、「流されやすかった」
「もう二度としない」、「命を懸けて更生をする」
というのが、反省になっていないダメな表現です。

では、どういうことが反省なのかという前に、
どのような場合が量刑が重く、
どのような場合が量刑が軽くなるのかを考えましょう。

基本は罪の大きさ、やったことですね
これで量刑の枠が決まります。

それなのに反省をすれば量刑が軽くなるというのであれば、
反省することと量刑の軽重はどう結びつくのでしょう。
ここがポイントです。

一言でいえば、
再犯可能性ということになります。
考えてみれば当たり前の話ですが、

ああこの人裁判所出たらまた盗むだろうな
という場合は、
刑務所に入れた方が世のため人のためだし、
できる限り長く入れようということになるでしょう。

それとは反対に
なるほど、色々な事情から、
今度はやらない可能性も高いな
と言えば、一回様子を見て執行猶予にするかとか
刑を軽めにして、今の気持ちを忘れないようにしてもらおう
とかで刑が軽くなる
大雑把に言えばこういう話です。

だから、
本当に、「二度とやらない可能性がある」
と裁判官に思わせなければ
量刑の観点からは、
その反省に意味がないことになります。

少しでも短い刑にしたい
そう思うのは人情ですし、
刑務所に長くいることに、本人にメリットはないでしょう。
そこまで刑務所サイドに余裕はありません。

しかし、刑務所にいる年月を短くしたい
できれば執行猶予をとりたい
と思うならば、
「反省」をする必要があるのです。

ここは、実務ではなかなか難しいところです。

しかし、多くの人が
刑期を短くしたいというエネルギーを
更生の意欲に変えて
自分なりに見事に反省をします。

そのためには刑事弁護でいう所の反省とは何か
どのように反省に導くか
というテーマを
弁護士は持ち続けて弁護し、
後輩に具体的に提案する
という作業を意識的にする必要があると思います。

このブログは記事が多すぎになっていますが、
あちこち反省について述べています。

長文が超長文になりましたから、
その話はいずれということで。

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万引きについての講演会をします。 ~再度の執行猶予、再度の起訴猶予はどうやって実現したか~ [刑事事件]


平成29年7月20日6時から仙台アエル29階研修室で、
「万引きをしてしまった人にどのように働きかけるか」
ということをお話しします。

万引きは、軽い犯罪のように思われがちですが、
刑法上は窃盗に該当します。
10年以下の懲役(刑務所における強制労働)か
50万円以下の罰金と定められています。

最初は逮捕もされないかもしれませんが、
万引きを繰り返しているうちにやがて逮捕勾留され、
刑務所に収監され、強制労働となります。

警察沙汰になるたびに
「もう二度としません」と誓うのですが、
二度目、三度目になると
当然のことですが信用してもらえなくなり、
資本主義経済秩序を乱す危険人物
ということになり、許されなくなるわけです。

誰だって、冷静な状態ならば万引きはしません。
逮捕された後にはみんな冷静になって後悔します。
問題は、万引きをする前に、冷静に
「やっぱりやめた」という気持ちを持つことができないことです。


大人が万引きをする場合は、必ず原因があります。
だって、小学生前の子どもだって、
教えなくたって、スーパーの商品を
勝手にとって食べることはしないでしょう。

スーパーの床に寝っ転がって
顔を真っ赤にして「買って買って」と
泣き叫んだところで、勝手に持ち帰ったりしません。

子どもの時にしなかった万引きを
大人になってすることには
必ず理由があるのです。

これを明らかにして
理由を無くさないと、
「気が付いたらまた万引きをしていた」
ということになってしまいます。

万引きは理性が働いている状態で行われるのではなく、
無意識に、「お金を払わないで持ち出さなければならない」
という強烈な思い込みの中で行われるようです。

最近増えているある類型の万引きはそのような傾向が強く
我に返ったときに、
どうして自分がそんなことをしてしまったのか
という強い後悔の念と自分を責める感情が襲ってくるようです。

その時は本人も万引きを二度としたくもないと思うものです。
「今度はもっとうまくやろう」と思っている人は
なかなかお目にかかったことはありません。

ところが、無意識のレベルの原因に対応していないから
何らかの事情で冷静さを失うことによって
人格が変わるように万引きをしてしまうわけです。
(この「何らかの事情」は大人特有のものです。)


無意識のレベルでの対応とはなにか、
何に気が付いて、どうすればよいのかを
当日お話しする予定です。

また、なぜ本人がやめるように考えを深められないか
その理由もあります。

先ず、万引きが犯罪であるという
当たり前のことが原因です。
やってはだめなことは冷静になればわかりますから
「悪いことをしました、もう二度としません」
と言えるから、考えが進まないのです。

また、周囲も
「だらしないやつ、万引きをするような奴」
ということで済ませてしまうわけですから
本人の孤立が深まっていってしまいます。

私は、万引きは偶然的要素のある犯罪ではなく、
本人や家族の不具合が万引きという形で現れたもの
というように考えています。

本当に改善するべきポイントは別にあることが多いのです。

自分や家族が万引きをしたという場合は、
関わる専門家、弁護士、カウンセラー、あるいは医師を
厳選しましょう。
よく話を聞いて、
将来の万引きを予防することに
真剣に取り組んでいる人にかかわってもらうことが必要です。

逮捕された場合は時間が足りません。
貴重な時間を無駄にすることはお勧めできません。
貴方の家族が万引きをしたのには理由があります。
そしてそれは除去できる理由であることが多くあります。

将来の万引きを予防する対策をしっかり立てることが
再度の執行猶予や再度の起訴猶予に向かう手がかりなのです。

私は、刑事裁判になった万引きだけでなく、
刑事裁判になりそうな万引き事例の相談、弁護、
警察には知られていないけど万引きをしてしまった
という相談も多数受けています。

万引きをした人や被害を受けたお店の人と関わる中で
けっこう人間の温かみを感じたりしています。
肝心なことは被害店舗に自分で謝りに行くということ
そうして、それには若干のコツもあります。

そういうことを1時間半くらいかけて
ゆっくりお話ししたいと考えております。

「今でも人を殺したいと思う。」という言葉が反省を表している可能性がある事。対人関係学的な弁護人の役割 [刑事事件]

タリウム事件を連続して題材にしてしまいます。
前の記事で紹介したコラムでは、
以下のように紹介されています。

他方で元名大生が発する一言一言は、胸をえぐられるほど衝撃的だった。
 「生物学的なヒトなら誰でも良かった」
 「人を殺したい気持ちは今も週1、2回生じる」
 「個々がかけがえのない人だという感覚がない」
 殺意の矛先は家族や親友にとどまらず、法廷の裁判官や弁護人、傍聴者にも向けられた。

これを読むと、通常は、
「未だに反省していない」と感じることでしょう。

そうなのかもしれないけれど、
そうでないかもしれないということにつて
弁護士の立場からご説明します。

犯罪はそれ自体不道徳ですが、
なかなか自分のしたことが不道徳なことだということを
実感をもって理解できない人がいます。
だからこそ犯罪を事前に止められなかったわけですが。

自分のしたことがどういう風に悪いのか
誰にどのような迷惑をかけるのか
ということを、
私は弁護人として最初に考えてもらうようにしています。

最初は漠然とした考えしかありませんが、
話し合ううちに、徐々に
カメラのピントが合うように
はっきり理解される被告人の方も出てきます。

(最後までピンボケの場合もないわけではありません)

すると、飛躍的に反省や後悔がの感情がでてきて、
「自分が取り返しのつかないことをした
 そういうことを二度とやらないためにはどうしたらよいだろう」
と敬虔な気持ちになる方も少なくないのです。

このような方々は、
犯罪実行時は、自分の味方がいない
という意識がある方が多いように感じられます。

常に、自分を守っていなければ
誰かから攻撃をされてしまうという意識です。

攻撃といっても、ピストルで撃たれるわけではなく、
馬鹿にされるとか笑いものにされるとか
自分だけ損をさせられるとか、
自分だけ危険な目にあうとか
裏切られるとかそういうことです。

だから、他人に弱みを見せるということが
できない状態が持続しているということになります。

これは、タイミングと会わせると強くなります。

自分が誰かから被害を受けたのに、
誰も同情したり、いたわったりしてくれないという場合
逆に
自分がみんなのために貢献したのに
誰もねぎらってくれないばかりか
笑い者にされてしまう
ということもあるでしょう。

およそ、心情的に仲間という人が
身近にいないということになります。

犯罪によって警察署に留置されているというような場合は、
自分が悪いことをしたために責められるということは理解できます。

こういう時にニュートラルな立場の弁護士が
犯罪を責めることをしないで、
どうして犯罪に至ってしまったか
どうして事前にやめることができなかったか
ということを被疑者と一緒に考える姿勢を示したら、
被疑者被告人は、自分の弱い部分を見せても
そこを責められない
という体験をすることが出てきます。

これが、新鮮な体験だという人も少なくありません。
安心すると話し出します。
弱い部分を見せても良いのだと思うと
安らぐことができるようです。

裁判が終わるまでの限定的ではありますが
片面的なコミュニティーができるわけです。

弁護士だけでなく、
警察官の方にも同様な態度で接してもらうと、
自分の悪かったことを言うことが
自分が更生する等良い方向に向かう条件だと
素直に認識するようになります。

こういう時、弁護士が質問する場合は
答えが大体わかりますから
ドラマチックに盛り上げて完結することができるのですが、

検察官の反対質問や
裁判官の補充質問でも
同じように素直になってしまうと
その時の悪い感情やその後の感情
(裁判時には克服しているのですが)
包み隠すことをしないで
積極的に話していくことがあります。
(そこまで言わんでよいと言いたくなるくらい)

それが強烈すぎて、
現在は克服されているにもかかわらず、
検察官なんかは、いまだに反省をしていないと責め、
頓珍漢な裁判官もそのような認定をしてしまう場合も
弁護人としては心配しなければならなくなり、
あれだけ美しく完結した弁護人質問を
つぎはぎを繕うことも出てきます。
大体裁判官は理解してもらえることが多いですが。

前回引用したコラムからも、
被告人が、素直に供述している様子がうかがわれます。
少なくとも露悪的に殺意を見せびらかしているわけではなさそうです。

質問されたから誠実に答えている可能性があります。
それを応えるのが自分の役割だということですね。
うそをつかないことでメリットがあると感じているということです。

誰にも言えなかった殺意を言うことができたという
弁護団との交流による貴重な経験があったのだと思います。

弁護活動が対人関係学的には成功された可能性があります。

もう一つ付け加えます。

彼女にとって人を殺すということは
おそらく心理的抵抗が少ない状態であり、
それは、器質的問題か生育環境なのか
通常人の感覚を超えた問題がありそうです。

要するに、普通の人が人を殺すという場合、
罪悪感だったり、生物的な嫌悪、恐怖だったり
抵抗が強くあるわけです。

これを打ち破るためには、
怒りだったり、恨みだったり
強烈なエネルギーを伴う負の感情が必要になります。

だから、「今でも人を殺したい」
という言葉を聞くと、
強烈な負の感情があるものだと
無意識に受け止めて、険しい感情になるわけです。

ところが、彼女は、
そのような怒りとか恨みとかの負の感情を抜きに
人を殺したいという気持ちになるようです。

今回の裁判体は、
常識の枠の中で被告人を把握し、
無期懲役の刑を宣告しました。

そういう考えも成り立つとは思いますが、
他の適切な選択肢を持ったうえで
専門的に判断することが必要だった事案だと
思いました。







タリウム事件のコラムに寄せて、人が興味本位で人を殺すことができるとした場合の可能性と刑事罰の意味 [刑事事件]

今朝の地元紙に、タリウム事件を取材した記者のコラムが掲載された

<タリウム事件>衝撃の真相 消えぬ「なぜ」 http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170403_13015.html

丁寧な、率直な内容になっており、
真実に迫ろうとする矜持も見えて素晴らしいと思った。

刑罰と医療とどちらが適切かということは難しく、
結局は、その時々の政策に委ねられるものであり、
刑罰の運用として一義的に回答が用意されているものではない。

それはどういうことか。

殺人事件にしても
人が人を殺すということには理由がある。
殺そうと思うことにも理由があるが、
殺すことができたことにこそ理由がある。

人間は、どんなに陥れられたとしても
なかなか相手を殺すことはできない。

そういう動物である。
というか、むしろ動物一般がそうなのかもしれない。

基本的には、自分を守るために殺すということになる。

殺さなければ、自分が殺されるということ。
戦争が典型的である。
相手から殺されるだけではなく、
規律違反で殺されるというものも大きい。

猛獣が草食動物を殺すのも、
肉を食べて生き延びるという目的がある。

では、目的があれば簡単に殺せるかというと
そうでもないようだ。

人を殺すことの抵抗感があり、
なかなか殺すことは難しい。
この抵抗感を奪う仕組みが怒りの感情である。

興奮状態となり、
相手に対する共鳴力、共感力が著しく低下し、
この人を殺した場合、将来どうなるか
自分が探し出されて裁判になるとか
広く家族を含めて報道されるとか
そういう将来のことを推測する力もなくなる。

相手を殺すか自分が死ぬかという
極端な二者択一的な選択肢が残されるだけで、
いわゆる無我夢中で殺害行為を実行する
というのが典型的な例のようだ。
こういう場合、記憶も鮮明ではない。

極限的な事例で他人を殺すことの抵抗力が無くなり、
必要最低限の行為にとどまる場合は、
刑が軽くなることはある。
変な話、殺してはだめだけれど殺したくなるよねと
そういう殺人者に部分的に共感してしまうからである。
これは、裁判官が共鳴するというよりも、
おそらく世論からもある程度の同情が寄せられるだろう
という場合という方が正確だろう。

タリウム事件は、その典型的場面とは
はるかにかけ離れていたようだ。

感情的な高まり、自己防衛意識
それらがなくて、冷静に他人を殺害したいという
初めから他人を殺す抵抗感がないような
行動だったとのことである。

こういうケースでは厳罰化になりやすい。

こういうことが起きるケースは
本当は生まれた後の理由は、考えにくい。

あるとしても、
これまでの例からは、
物心ついた時から不遇で、
誰からも大事にされたことが無く、
馬鹿にされ続け、迫害され続け、
社会からも尊重されなかった。
他人とのかかわりに何のメリットも感じないで
育ってしまったケースである。

こういう場合、
自分が尊重されるべき人間だという感覚を持てず、
他人を尊重するという意識も育たない。
相手の気持ちを理解する目的は
思いやることではなく、
相手に対して付け入るスキを探すということである。

だから、後天的に、人を殺すことの抵抗を持てない場合は、
全く無防備な幼少期の育った環境に問題あったケースなのであるから、
本人がそのような人格を形成した責任は本人にはない。

考えようによっては、その殺人犯こそ一番の被害者であり、
その後の教育や治療によって、
少しでも人間の輪の中で安らぎを受けられるように
してあげることが、
原因に対する結果として、あるべきことだという考えもあり得るだろう。

ところが、こういうケースの裁判
つまり金銭や自分の保身のために、
相手の命を亡き者にすることを冷静に考え、
計画を立てて実行するというケースであるが、
通常、身勝手で冷酷な犯罪だとして
厳罰を科される。死刑や無期懲役の判決が出やすい。

法律は原則として、
どのような生い立ちであろうと、
不遇で何の喜びも、他者との関係の暖かさも知らない者も
等しく法律が適用される。

医療措置となるためには、明確な精神医療の診断がなされ
それを裁判員や裁判官が理解しなければならない。
先に述べた通り、それは裁判官個人ではなく、
世論がそれに共感できるかということを
裁判官が判断するかどうかということにかかる。

本件は、結局そのようなケースではないとして
無期懲役の判決となった。

しかし、私は、このケースは、
今の後天的な事情が理由になっていない可能性があるのではないかと
感じている。

生い立ちなど後天的ケースで、
他人を殺すことに抵抗感がないというケースはあるにせよ
なかなか他人を殺す抵抗感が一切残っていない
ということまで極端にはなりにくい。

なぜならば、100パーセント他人に依存する
乳児期には、誰かに手をかけて
生存を援助してもらっているからである。
そうでなければ大人になっていない。

虐待を受けても、
虐待を受けっぱなしという事例よりは
わずかながらでも過保護にされている時期が存在し
その記憶があるからだ。

だから、冷酷非情な犯罪の場合も、
自己保身という身勝手だとしても、冷酷だとしても
人を殺すためにはそれなりの理由があることが原則だ。
社会の不満を弱者に向けるということでも、
自己完結している殺害行為者の頭の中では
自己防衛の意識があるものである。

本件にはそれがない。
これが本件の最大の特徴だろうと思う。

あまりにも極端なケースであり、
育った環境では説明がつかない事情がありそうだ。

対人関係学的な発想からすると
脳の器質的な問題があるのではないかということである。

具体的に言えば、脳の
前頭前野腹内側部の機能に障害がある場合である。
この辺りは、アントニオ・ダマシオの
「デカルトの誤り」に詳しい。
岩波文庫にもなっている。

先ず前提として、脳は、
その部分部分によって役割がちがっていて、
例えば目から移った光を脳で画像として処理する脳の部分が
損傷すると目は見えなくなるが、
呼吸はできる。
音を処理する部分は別の部分であるし、
言葉の意味を把握する部分も別である。
部分的な損傷は、その機能をなくすが他の機能はなくさない。

もっとも呼吸機能をなくせば死ぬことにはなる。

そういうことで、鉄道事故で
前頭前野腹内側部の損傷を受けた人間の事例や
腫瘍があって圧迫されて機能障害になった事例では、

自分が他人の中でどのように思われるかというような感覚が欠落し、
(他者に対する共鳴力、共感力が欠落する。)
将来的な予測ということが苦手になり、
今浮かんだアイデアにとらわれてしまう
等という共通の異常行動が見られたというのである。

事故によって脳機能が低下した場合は人格的変貌が起きる。
しかし、日常生活を営むことができなくなるわけではない。
知能が低下するわけではない。

この脳の機能が人間のモチベーションの原理となっており、
ダマシオは「二次の情動」と名付けた。
対人関係学は、ダマシオに断りもいれず、
それは対人関係的危険を感じて行動を修正する仕組みだと
説明しているところである。
(一次の情動が身体的危険を感じて行動を修正する仕組み)

私が興味を持っているのは、
裁判での鑑定が、脳の機能検査がなされたかということである。

責任能力は、心理学的な能力である以前に
本来は生物学的な能力が存在することが求められている。
脳は、部分的に機能低下があり得るものだとすると、
部分的な脳の機能検査も可能である。

fMRI等によって血流の動きも把握できる。

ただ、もし、前頭前野腹内側部の機能低下がみられたとして、
即ち、脳の器質的問題から殺害を実行したとして、
刑罰にどのように影響を与えるかということについては、
直ちに結論が出ることではないだろう。
量刑も変わらないかもしれない。

要するに、現在の刑事罰は、
その人に責任があると言えるのかわからない事案でも、
治安維持の観点だったり、
被害者や世論の処罰感情によって
処罰されているからである。

逆に言うと、
もし、犯人以外の責任が重いとした場合に
処罰をしないならば、
犯罪行為をした原因を突き止められないケースを除いて、
処罰をしにくくなってしまう。

そういう環境で育ったならば仕方ないねとか
脳の器質的問題があるならば仕方ないね
ということも、現状においてなかなか言いにくい。

せいぜい、情状として「その1割でも裁判官に届け」
ということが関の山かもしれない。
届けば音の字であって、届かないことが一般的だ。

刑務所が、強制労働の場ではなく、
対人関係の改善のために、
自分が尊重されるという体験と
他者を尊重するという体験の場にすることも
なかなか実現することは難しいだろう。

現状は、職員の方の努力はありながらも
制度としては逆方向になっていることもあるようだ。

ただ、これが理想だとすることを忘れないでほしい。

法諺(ほうげん)という専門家の中のことわざの一つとして、
「社会政策こそ最良の刑事政策だ」
というものがある。

貧困や殺伐とした環境を改善することが、
刑務所に収監することよりも
犯罪を減らすことにつながるということである。

今回禁を犯して
自分が担当していない事件について
言及をしてしまった。

河北新報の記事に大いに触発されてしまったということになる。