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【認定報告】地公災基金審査会で逆転認定。職場内暴行被害後、上司の事件隠ぺいによってうつ病を発症した生存事案(時間外労働40~70時間) [労災事件]

このたび、地方公務員災害補償基金審査会(再審査請求)で
逆転で公務災害認定を受けましたのでご報告します。

1 被災公務員
  当時30代男性 
2 被災内容
 第1事件、暴行事件 
   平成23年、職場内で同僚職員から、
   胸ぐらをつかまれ前後に揺さぶられたことにより頸椎捻挫を発症した。
   (刑事事件となり罰金刑が確定)
 第2事件 上司の隠ぺい工作
   職場管理者は、事件をうやむやにしようと
   加害者を懲戒することも指導することもさえもせず、
   被害者に対して、「あなたにも責任がある。加害者に謝罪するように。」
   という理不尽な対応をし、
   公務災害申請をしようとしていた被害者を、
   公務中にもかかわらず幾度となく呼び出して、
   公務災害申請をするな、加害者に謝れと
   毎回1時間2時間に及ぶ説得を繰り返した。
   累積説得時間と被害者公務員の精神状況の悪化は
   カルテ上見事に対応していた。
   最終的には、加害者は職場にいさせたまま
   被害者に対して転勤を希望するよう迫った。
   この結果、重篤なうつ病となり、現在もその症状に苦しんでいる。
3 公務災害申請
  平成24年公務災害申請申請
  平成27年公務外認定
  平成27年支部審査会に審査請求
  平成28年棄却
  平成28年再審査請求
  平成28年9月 逆転認定

4 支部審査会
  宮城県支部審査会は、上司の上記一連の行為は、
  上司の保身のための行為であることを認定していながら、
  ひどい嫌がらせには該当せず、
  あつれきやからかいのレベルに相当する旨判断して公務災害とは認めなかった。

5 再審査請求の主張のポイント
  平成24年3月16日地基補第62号補償課長名の
 「『精神疾患などの公務災害の認定について』の実施について」
  という通達があります。
  これに照らして、本件上司の行為が「ひどい嫌がらせが執拗に行われた」
  というカテゴリーに該当するということ、相当因果関係が認められること
  を強調して主張しました。

6 審査会の逆転認定論理
  上司の上記行為を認定し(争いはない)、
 「本件暴行の被害者である請求人に対する
  管理職の対応としては不適切なものであり、
  請求人は、職場で執拗な嫌がらせを受けたものと認められる。」 
とドンピシャで認められました。

7 なぜ、2回認められなかったものが3回目で認められたか
  公務員側の請求は一貫していて全くぶれませんでした。
  このため、判断する側の問題であることは明らかです。
  1回目の支部長判断では、
  上司の隠ぺい工作を評価の対象として検討しませんでした。
  2回目の宮城県支部審査会判断では、
  学校や生徒を思いやっての行為ではなく
  上司の保身に基づく行動だと認定していながら、
  それがからかいや軋轢にとどまると判断しました。

  怪我の具合が悪く痛みと戦いながら公務に従事している中、
  公務災害も、相手の損害賠償も十分行われないで、
  このまま働けなくなったらどうしようと思っているのに、
  それも、上司の保身で行っているとしながら、
  「からかい」や「あつれき」ということで済まそうとした
  支部審査会の態度は問題だと思います。

  では、なぜ認められたかというと、
  審査会が、きちんと通達などを熟知していて、
  こういう出来事があったら、こういう感情となる
  という人間の当たり前を認定できたからだと思います。

  また、対人関係学的な説明を補充して
  からかいと軋轢のレベルを超えているということを
  丹念に主張したことも貢献していると思います。

8 感想
  一つには、労働組合の支援が適切に行われたということです。
  被災公務員がなぜうつ病を発したかというその理由の本質は、
  上司の隠ぺい工作によって
  職場の中で、自分が尊重されていない、仲間扱いされていない
  という孤立無援感を抱いたことにあります。

  公務災害認定の闘いはこれと全く逆に
  労働組合の仲間が(OBも活用して)、
  被災公務員を支援し、
  弁護士との打ち合わせにも同行し、
  手厚く丁寧に支援したことによって
  最後まで頑張り抜くことができたのだと思います。

  そして特筆するべきは、被災公務員の妻です。
  徹底して、献身的に、仕事も家庭も公務災害も
  一緒に苦しみ、一緒に頑張った、よく頑張られたと思います。
  お二人が、一つのチームとして強く暖かく歩くことができたことこそ
  何よりの力だったと思います。
  これまでの数年間の泣き笑いは、まさにドラマでした。

  もちろん、代理人も頑張りましたとも。

  時間外労働が多くなくてもうつ病にかかります。
  通達や法律を丹念に調べ上げて、
  そこに人間の血を通わせることができれば
  公務災害は認定される可能性が生まれる
  ということが、今回の公務災害逆転認定の教訓だと思います。

  ただ、認定まで5年が経過してしまいました。
  うつ病が公務災害だと認められてこなかったため、
  被災者は、療養のための休暇を
  自分の有給休暇を消化しなければなりませんでした。

  公務外の決定がなされるたび、
  絶望の淵に叩きつけられてきました。

  公務災害を申請する責任者である当の上司が
  これを妨害し続けたことになります。
  なんらかの手立てが必要になると痛感しています。

黒石市よされ写真コンテスト市長賞内定作品(被写体故葛西りまさん)を絶賛する。web東奥さんより [自死(自殺)・不明死、葛藤]

昨日のテレビニュースで、
黒石よされ写真コンテストで市長賞(大賞)に内定していた作品が
被写体のご遺族の承諾を得たにもかかわらず、
被写体が、その10日後に自死された葛西りまさんだったということで
対象を取り消されたと報道していました。
それを聞いて思わず憤ってしまい、
怒りに任せてフェイスブックに投稿したら、
かつてないたくさんの反応がありました。
コメントを求められたということもあり、
今回は、この件についてお話ししたいと思います。

しかし、大方の期待を裏切る形でのコメントとなります。

WEB東奥に掲載された写真ですが、
ご遺族の貴重なコメントも掲載されていて
東奥の記者、編集者に心より敬意と感謝を申し上げます。

東奥.jpg

<作品についての私の感想>
私は写真は素人ですが、素人目に見ても
お祭りのはじけた華やかさが良く表現されていると思います。

農耕民族にとっての祭りは、
夏の暑い日々の中、水不足等の過酷な自然環境から
必死になって稲を守り続ける日々だったと思います。
収穫を迎え、辛い肉体労働から解放され、
翌年の農耕が始まるまで、活動を停止しなければならない
冬の日々が始まる、その前の一瞬
すべての仲間たちが、一年の苦労を忘れ
未来に向けてはじけ飛ぶ一日だったと思います。
恩讐もわだかまりも今日だけは水に流して、
みんなが笑顔で許しあい、たたえ合う
そんな人間の生きている意味を感じさせた一瞬
それがお祭り、ハレの日の意味だと思います。

どうですか、この写真
おそらく部分ですし、修正があるのですが、
少女の笑顔が、まさにハレの日の良い表情だと
私は思います。
動きのある姿勢と背景の大輪のごとく開いた
傘の朱の色が燃え上がるような命を表している
背景の濃い緑の中に、
ハレの日が浮かび上がって躍動している
黒石よされにふさわしい一枚になっていると思います。

同時に、この笑顔の持つ意味を
見るものは感じ取ると思います。
このような笑顔ができるということは、
この少女が生まれてからこれまで
たくさんのハレの日を経験したことでしょう。

生まれてきたとき、
初めて歩いた時、
初めて親を呼んだ時
幼稚園や小学校に上がったとき、
いくつもの、両親や周囲の
自分に向けられた笑顔が
少女の笑顔を形作ってきたのだと思います。

この衣装を用意し、
少女を送り出した親御さんの
暖かいまなざしも見えてくるような気がします。

<被写体が葛西りまさんであることは作品にどのように影響するか>

もし、市長賞の内定が取り消されなければ、
この子がその10日後に自死したとは
想像すらできなかったでしょう。

親御さん方には市長賞として展示されることの
許可もとっていたというのです。
先ず、ご遺族をはじめとするりまさんの死を悼む人たちを
不快に思わせるということはなかったでしょう。

加害者、あるいは傍観者
に対する配慮は必要でしょうか。
りまさんはいじめもあったことから自死しました。
加害者の関係者の方々が罰せられるか否かはともかく、
いじめをしているときは、被害者の人格、
被害者にも家族がいて、友達がいてということを
意識することができなくなっています。

どうか、この写真を見て、
いじめという意味について考えてもらいたいと思います。
取り返しがつかないということの意味と同時に、
自分たちにしかできないことがあるということを
考えてほしいと思います。

どんなに加害者に支持的に考えたとしても
加害者の存在によって、被害者の在りし日の写真を
公的な力で、日の当たらない場所に
おかなければならない理由にはならないと思います。

では、被害者でも加害者でも、傍観者でもない人たちにとって
この写真を公表しないことの理由があるのでしょうか。

これが、たとえば
被写体が交通事故で死亡した人だったらどうでしょう。
急な病で亡くなった方ならどうでしょうか。
震災で被災して亡くなった方ならどうでしょうか。
戦争で亡くなった女子学生だったらどうでしょうか。

やはり、遺族から承諾を受けてもなお、
大賞は渡せないということになるのでしょうか。
私はそうはならないと思います。

そこには、自死にさわらないという
差別があったと感じてしまいます。

ただ、私もこの写真に気づかされたことがたくさんあります。
web東奥のタイトルが、
「かわいそうなだけの子ではない。」というものでした。
とても良いタイトルだと思います。

そうなんだ。

過酷な状況について調べ上げるのが弁護士の仕事なので、
当たり前のことを忘れてしまいがちになります。
自死者も、生まれたときからずうっと苦しんでいたわけではなく、
りまさんのように、
ハレの日も、温かい心を感じた日も
生きていることに喜びを感じた日も
当然あったわけです。
この写真を見ると、人一倍幸せな日を体験されてきたことでしょう。

ただかわいそうな子ではない。
素晴らしいタイトルです。

みんな、誰かから尊重されて、大事にされて
生まれ育つわけです。
かけがえのない家族や友達、恩師らに囲まれて
成長しているわけです。

それもこれも、ご両親が名前と映像を公表し、
それを東奥日報が適切な取材をもとに記事にしたことで
私も改めて気が付いた気がします。

ご両親と東奥日報に最大限の賛辞を送りたいと思います。



自死予防、自殺対策を政策として行うべき理由  対人関係学の立場から [自死(自殺)・不明死、葛藤]

 何のために国や自治体、社会が自死予防対策をするのかという、その理由、目的が論じられていないと思います。自死予防対策の広がりが見られない要因があるように思われます。なんとなく、「ヒューマニズム」とか、「人権」だとか、あるいは「正義・公正」、「命や人格の尊厳」などという言葉が思い浮かぶかもしれません。しかし、なんにせよ、これらの議論がなされている場面を見たことはありません。だから、その立場立場に応じて自死対策への温度差が異なってしまうようです。極端な話、自分から命を落とすということに他人が関与することはできないという考えが生まれたり、自己責任とかいう言葉が使われる余地もでてくる理由があるのだと思います。個人個人の価値観にゆだねられて行われている政策が、安定して維持されることはないでしょう。

 自死予防対策の社会的目的、意味について考える必要があると思います。

 このことを考えるヒントとして、もし、国家、自治体、あるいは社会が、自死予防を何も行わない場合はどうなるかということを考えてみます。自死が放置される状態です。積極的に自死をすすめるわけではないにしろ消極的に容認されていくことになります。消極的にでも自死を容認することになってしまうことは、その弊害が大きく、社会全体、国全体に負の効果が起きる、これを防ぐために政策として自死予防対策を行う必要があるのだと思います。では、詳しく説明します。

 あなたが誰かが自死をしたという事実を知ったときに、自分がどのように感じたのかを思い出して下さい。今ではもはや何の感情も起こさない人でも、最初は、大きく分けて二つのうちの一つの反応をしたのではないでしょうか。一つは、生理的な嫌悪感でしょう。これを言葉にすることは難しいのですが、善悪を超えて起きてはならないことが起きたとでもいうような衝撃を伴った感情だと思います。私の記憶で一番古い自死は三島由紀夫の割腹自殺ですが、子ども心にではありますが、まさにこのような感情でした。もう一つの感情として、強い攻撃的あるいは逃避的感情をともなう、無惨感、残酷感があると思います。取り返しのつかないことが起きということでは共通するのですが、冷静に考えてみると、後者はどちらかというと自死者に対する共感が少し入ってしまっているようなそんな感覚です。

 それぞれの感覚がどうして起きるのかについて、対人関係学的に考えてみます。対人関係学は、考察する対象の人間の感情は、人間のつながりの中での反応として生まれるということから考察を始めるという考え方をします。

生理的嫌悪
 これは、自死が起きたこと自体を否定したいという感情です。自死に至った原因、環境的原因、自死者の思考過程、思考能力などの、具体的な経緯を考えません。それらから切り離して、自分で自分の命を絶つ行為があったと飲み把握する場合です。ここでは、「自死」という行為を、あくまでも自死者の自分に向けられた侵襲行為として把握していることになります。自分が自分を攻撃するのですから、自分を守るものが何もなくなってしまいます。無防備な形で命が奪われるということに対する恐怖、絶望を感じてしまうことになります。
 ところで、自分が死ぬわけでもないのに、どうして、他人の死にこのような反応をするのでしょうか。これは、人間特有の反応です。人間は、自分以外のヒトの状況を共感、共鳴をもって感じ取る能力に長けています。これは群れを作らなければ種を保存できなかった弱いヒトという種が種を存続させるための仕組みでした。即ち、他のヒトが失敗して苦しんでいる場合は、その失敗を繰り返さないで回避する。他のヒトが食料を見つけた場合はまねをして自分も利益にあずかる。共感、共鳴はこのような利点があります。危険なのか危険では無いかという大ざっぱな問題であれば、なんとなく共感共鳴ができれば良いのですが、弱いヒトという種はそのような大雑把な共有だけでは生きていくためには不十分です。直ちに危険が発生しなくても、将来的に危険が発生するならばそれをできるだけ早い段階、小さい段階で避けなければなりません。逆に何らかの危険があってもそこから利益を得なければなりません。例えば火を使うということですね。そのためには、多くの情報に接する必要があります。親子間だけの情報共有ではなく、群れの他者との共有が行われることが必要だったわけです。もう一つの理由として、ヒトが弱い動物であるがために、群れの頭数を確保する必要があったわけです。群れの構成員が少なくなれば、途端に弱い群れになって絶滅してしまいます。このためには弱い者ほど守らなければなりません。その方法として、群れの構成員の負の感情を敏感に察して援助をして、特に弱い個体を守り、群れの頭数を減らさない努力をすることが客観的に有利だったといえます。特に苦しんでいる者に対する共鳴力、共感力、援助行動が、ヒトを種として永らえてきた仕組みだと考えます。
 だから、他人の死であっても、共鳴力、共感力が発動してしまい、恐怖感や絶望感を抱いてしまうわけです。しかし、その絶望を感じるきってしまうことは回避したいのです。精神的破綻の共倒れになってしまうからです。ところが自死という自らに対する侵襲を防御する手段がイメージできません。このため、絶望の共鳴を回避するために、自死が起きたという事実自体を否定したいという要求が生じてしまうことになります。
 結果として他者の不幸を自分の将来的な不幸と置き換えてとらえてしまうという、ヒト独特の反応だということになります。自死による他人の死が自分にも起きるのではないかという予期不安を感じ、その恐怖を持て余している状態だということになります。

無惨感
 これに対して、自死に至るには理由があるのだということを理解できるようになると、自死に至るまでに何らかの回避の方法があったのではないかという思考をするようになります。自死と自死に至る過程を結びつけて把握する場合です。自死は最終的には自分の行為だが、それに至る原因の存在を漠然とでもイメージできれば反応が変わります。ひたすら生理的嫌悪を感じるというよりも、予期不安を少しでも解消するために、「自死に至る原因があったはずだ。その原因を取り除けば自死は防ぐことができたはずだ。」ということを無意識に思考しているようです。
 自死者の親戚などが、家族を亡くして悲しんでいる遺族に対して、「どうしてここまで放っておいたんだ。」と罵声を浴びせる理由がここにあります。また、ワイドショーなどで、芸能人の自死の理由を詮索したくなる理由もここにあります。無意識の中でのことですが、自分も同じように死に至るのではないかという可能性を排除したいために、自分は違うと安心したいという要求や自死の回避の方法を知りたいという要求が生まれます。安心したいのです。
 ただ、これらの行動は、自分の本能的に生じる予期不安からの行動であるとはいえ、遺族を苦しめますし、死者を冒涜することにつながりがちです。また、このようなことをしても、何ら合理的な解決を見つけることはありません。せいぜい誰かを攻撃することによって一時的に安心しているにすぎません。自分の感情を抑えた行動が必要となるところです。

 生理的嫌悪にしても無惨感にしても、無自覚な自己防衛的な反応が起きてしまうということになります。

 このような自死に対する人の防衛反応は、出発点として自分の命を守ろうとする本能、生きようとする本能が健全に存在していることを示しています。ここから出発して、ヒトが種を存続させる仕組みであるところの、他者に対する共鳴力、共感力という能力によって、他人の命も大切に思ってしまうという性質が存在していることを物語っています。他人に起きた命の危険がやがて自分にも起こるかもしれないという予期不安を抱かせることによって、他人の命も大事であることと感じさせるわけです。こうして、結果的に、他人の命も尊重されなければならない、およそ人間の命を大切にしようとか、命はそれ自体に価値があるという考えが共有されていくことになります。
 人間の場合、他者の苦しみに苦しむこと、他人を苦しませることに抵抗感を抱くことが人間の生きる仕組みであるということになります。

 このような、自己防衛、予期不安を衝撃をもって感じさせる自死が繰り返して起きてしまうことによる効果はどんなことでしょう。他人の絶望の淵を除くことによる衝撃が繰り返されることは、精神的ダメージが蓄積されて、心の平衡を保つための処理能力を超えてしまいます。生きる意欲を失ってしまうこともあります。ところで、このダメージの繰り返しが、精神的なものではなく肉体的なものであればどうでしょう。例えば筋肉は繰り返される負荷に対応して発達することができます。ところが、神経や感情は発達する仕組みはありません。但し、徐々に耐えることができるようになっていきます。この現象は馴化(じゅんか)と呼ばれます。心を鍛えているのではなく、反応を鈍くしていくだけの話なのです。他人の自死によって受ける衝撃を避けるために、衝撃を感じにくくするわけです。そのメカニズムは、他人の命が失われたからといって、自分には何も悪いことは起きないということを学習していくことになります。そして、それを学習することによって、他人の自死が起きても自分の死の予期不安を感じにくくするわけです。
 他人の自死によって予期不安を生じさせることをしないことは一見合理的にも思われます。しかし残念なことに、他人の命は軽く見るけれど自分の命を重く見続けるという器用なことは、実際はできることではありません。他人の命が失われることを見て、自分の命や群れの仲間の命を守る行動を起こさせるというヒトの仕組みが機能しなくなるということなのです。だから結局は、自分の命を守る仕組みも弱くなるのです。総じて、ヒトの命を大切にできなくなり、命のあるかけがえのない存在だという意識を持てなくなってしまうことになります。
 その結果は、自分や他人、社会に対する態度に変化を生じさせます。

 自分に向けては、人間一般の死への不安や絶望が薄れていくことによって、自死の条件である死ぬことへの恐怖を低下させ、自死を可能とする能力が向上していってしまいます。(自傷行為等によるものとして“Acquired ability to overcome one’s natural fear of death”  By Thomas Joiner)
 また各種の社会病理があります。ギャンブル依存症、アルコールをはじめとする薬物依存症、無謀な買い物などがあります。その結果の失職や離婚、退学等の特定の群れからの追放があるでしょう。健康を顧みない過重労働等もそのバリエーションかもしれません。
 他者へ向けては、他人の苦しみを気にしない行動です。パワーハラスメントや家庭内のモラルハラスメント等も、他人が苦しんでいることをそれほど気にしない状態で起こしてしまう行動です。相手が苦しんでいることが、自分の行動を修正する、あるいはやめる動機にならないのです。他人の苦しみに共鳴することができない状態とも言えるでしょう。
 他者への攻撃は、実は、他者の中で存在する自分の立場を危うくすることでもあります。やはり、自分の立場を大事にしようという志向が弱くなります。他者の中の自分という関係も同時に感じにくくなってしまうのでしょう。その典型が犯罪です。弁護士として多くの犯罪を実行した方と話しているのですが、多くの犯罪者は本人が大事にされない経験をもっています。他人ばかりでなく自分を守ることも放棄して、表面的な利益を得ることを目的として犯罪が行われると感じるケースがほとんどです。

 身体的な病気と比較しましょう。身体的な病気によって苦しんでいる人を放置することについては、まだ抵抗がある人が多いと思います。ところが、自死という精神的な苦しみについては、身体的な病気の人にするように当事者以外の人が手を尽くすというようにはいかないようです。ところが、自死が起きるたびに、身体的な疾患で苦しんでいる人が放置されて死に至ったような、罪悪感だったり、生理的嫌悪だったり、無惨感が起きてしまいます。これを感じ続けることをヒトは負担し続けることができないために、感じることを放棄するようになり、その結果自分や他人、社会に向けて、人間の価値を承認しない行動ができるようになってしまうわけです。

 自死予防対策を行わず、自死を放置し続けることは、社会の構成員たるヒトの感受性を下げ、第2の自死や犯罪、人が人を苦しめることの温床となってゆくのです。このために、損害を被る社会が、社会とその構成員を守るために、自死予防対策をする必要があります。自死予防対策の目的がここにあるわけです。
 その方法としては、他者の精神的な健康に気遣い、気遣いあい、人間として尊重し、緩やかでもつながりを維持し続け、誰も孤立させないという政策を具体化することです。漠とした話でしょうか。壮大な話に過ぎるでしょうか。あまりにも、理想的すぎて、およそ実現は困難と思われるでしょうか。私はそうは思いません。このような社会は、つい最近まで日本に存在していたからです。
 一つその裏付けを紹介します。明治時代初期大森貝塚を発見したモースは、記録をつけており、「日本その日その日」(講談社学術文庫)の中で当時の日本人の生活の様子なども書き留めています。その中でモースは、日本は子どもの天国であると書いています。子どもが母親だけでなく父親からも愛情を受けて可愛がられて育っている。子どもたちは一日中ニコニコしていて、幸せに生きていることが良くわかると記載しています。この時期までに著明に見られた日本社会の良き特性は、弱くなっているかもしれませんが、今なお受け継がれていると思います。一番弱い子どもを大切にする日本人の様子については、モースだけでなく当時の日本を訪れた外国人たちが驚嘆しています。子どもを大事にする社会、子どもが幸せそうにしている社会は、子どもに見せたくない、他人を陥れたり、攻撃したり、他人の苦しみを放置したりすることをしない社会だったと思われます。自死を予防する社会は、どこにも存在しないユートピアを実現するのではなく、他ならぬ日本にかつて存在した社会を再現するだけのことだと思います。
 社会的な自死予防対策は、今生きているこの社会をどのようにデザインするかという問題なのです。そして、それは、自然環境や経済状況のどんな逆境の中でも、私たちが豊かに、力強く生きていくための絶対的な手段になることと思います。


自殺対策講座を開講しませんか?シラバスサンプルをご提案 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

講座の概要

自死の原因の類型を、具体的な事例に即して考察し、
また、それぞれの当事者を随時ゲストスピーカーとして招き、
自死のメカニズム、予防対策の方法を研究する。

26回(1回100分)の講義サンプル
青文字はゲストスピーカーの予定者

1 オリエンテーション
  日本の自死の推移と現状とこれまでの自死対策(WHO、他国、日本)

2 いじめと自死
  中学生の置かれている状況といじめの構造

3 過重労働と自死
  過重労働の実態と自死の事例

4 パワーハラスメントと自死
  情動を支配されることと自分を見失うこと
  過重労働やパワハラでうつ病になった労働者

5 DVとPTSD
  DVの実態と被害実態、精神的な圧迫のメカニズム
  DV被害者女性

6 家族の崩壊と自死
  孤立させられた者の心理
  子どもから引き離された親

7 離婚の子どもに与える影響
  離婚後の子どもの心理と現代社会の引きこもり

8 犯罪加害者の自死と留置施設の自死対策
  自死の絶望の落差理論と孤立、具体的なハード面の対策

9 貧困、生活保護と自死
  生活保護受給者の自殺率、貧困と自死の関係

10 セクシャルハラスメント性暴力とPTSD
   性犯罪の実情と被害者の心理、PTSDの具体例と克服例

11 借金問題、企業倒産と自死
   借金問題の心理的な意味と解決方法

12 自死に対する偏見、スティグマと遺族
   自死という言葉、偏見の由来

13 The Interpersonal Theory of Suicide
   自死リスクアセスメントからみた自死のメカニズム

14 ストレスと交感神経持続
   危険に対する動物の反応
   もう一つのストレス効果としての脳機能
   (前頭前野腹内側部の機能停止)
   
15 PTSDとソマテッィクマーカー理論
   PTSDのメカニズムと治療の理論
   複雑性PTSDの理論と脳科学
   気に食わない人の原因

16 記憶と睡眠
   レム睡眠の構造と役割
   悪夢とはなにか

17 リストカット
   リストカットの役割、絶望回避のメカニズム
   絶望の意味と孤立無援感の意味

18 ギャンブル依存、アルコール依存
   依存症の実態と背景
   逃亡のメカニズム

19 希死念慮
   死にたいという語感が不適切であること
   希死念慮のバラエティーといきさつ
   死を回避した具体例

20 オープンダイアローグ
   相手を価値否定しない対話の手法

21 東日本大震災と人間を尊重するという意味
   心を開く条件

22 東日本大震災と「誰かのために戦うものは強い」ということ
   東日本大震災の犠牲者たちと復興過労死

23 傾聴と寄り添いのメリットと看過しがたいデメリット
   実例に即して、人間の心のメカニズムから見たデメリット

24 The Need to Belong
   群れを作る動物である人間にとっての
   根源的要求と人権概念

25 コミュニティー機能と民間自死予防ボランティア
   みやぎの萩ネットワーク 

26 自治体の役割と自死予防対策
   本講座の最終目的です。

   最後の講義以外は、おそらく、このブログをご覧になれば
   大体の内容は予想しえると思われます。

講師紹介
現職 弁護士、人権擁護委員
   県いじめ問題検証委員会委員
   県精神医療審査会委員
   県人権指導者養成推進企画委員
   市自殺対策連絡協議会委員
   市自殺ハイリスク者対策委員
   全国過労死弁護団幹事
   全国過労死防止センター幹事
   自死遺族支援弁護団
   みやぎの萩ネットワーク幹事
元職 東北学院大学法科大学院講師
   (労働法特論、労働法Ⅱ)
   市精神医療審査会委員

時間外労働100時間という形式的観点で規制すると合理性と必要性 [労災事件]

【事前お断り】
本当は、厚生労働省のガイドラインでは
時間外労働一月当たり45時間を超えると、
脳や心臓の血管疾患と業務は関係を持ち始めるとされています。
間違っても100時間まで働いても良いということではありません。


それでも、100時間以上働かせることについては
何が何でもだめだという主張は合理性と必要性があります。


時間外労働100時間と死の危険性
「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。」
と授業料を払って過労死に誘導されないために、
武蔵野大学の学生は人間らしい関係の構築を学ぼう。 
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-10-09

でも言いましたが、
厚生労働省の過労死認定基準のもとになった統計調査によれば、
月当たり100時間の時間外労働となると、
1日当たり平均して4時間の睡眠時間を確保することが難しくなるとしています。

このような睡眠時間になってしまうと、
有意的にくも膜下出血や心筋梗塞など脳血管疾患、
心臓血管疾患のリスクを高めます。

また、精神疾患についても、
月当たり100時間の時間外労働に従事すると精神疾患のリスクが高まるというのも
厚生労働省の精神疾患労災認定の専門家検討会で話し合われていることです。

これらのことは、自律神経系統の作用によるものです。
根性で耐えるとか、意識的に改善するということはできません。

そういう意味で、健康を守るために、
100時間の時間外労働は認めないようにしようということは、
主張として必要だということになります。

これは、確かに万人が
100時間時間外労働をするとくも膜下出血になったり、
心筋梗塞になるわけではありません。
しかし、明らかにそういう病気になって
死ぬ危険性が高まるということなのですから、
規制する必要があるという考えなのです。

100時間の時間外労働にストレス要因はつきもの

上記の精神疾患の労災認定のための専門家検討会で確認されたことなのですが、
月当たり100時間の残業が起きる場合、
通常、何らかのトラブルやノルマの不達成等
心理的圧迫を加えられる出来事が付随することが多いそうです。
何もなくて、月当たり100時間の時間外労働が起こるということは
むしろ少数ということになります。

100時間の時間外自体が人間性無視

考えてみれば、月当たり100時間の時間外労働とは、
9時から6時の定時から月曜日から金曜日まで
毎日4時間の残業をして、週20時間の残業、
これが月は4週だから80時間。
その他に土曜日か日曜日毎週5時間の出勤をするこれで100時間です。

平日は10時退社とはいっても、すぐに帰宅できるかどうかわかりません。
11時に帰宅したとしても、掃除洗濯入浴、大抵は帰宅後夕食ですから、
なんだかんだ言って確かに1時過ぎないとベッドに入れませんし、
就寝は2時ころということが普通でしょう。

9時に出勤するため、7時過ぎには家を出る人が多いのではないでしょうか。
土曜日は、私の見てきた事例では、お昼前後に出発して、
夕飯に間に合うように帰ってくる。
日曜日は昼過ぎまで寝ている。ぼーっとしているうちに夕食の時間になる。

これが人間らしい生活と言えるのでしょうか。
あなたの夫なり妻なりが、このような会社人間だったら、
それでも愛は冷めませんか?
あなたの親がこうだったらどうでしょう。

やりがいのある仕事だったら、100時間働いても平気でしょうか。
1か月続けることだって、青色吐息で、
やりがいのある仕事も苦痛になっていくとは想像できないでしょうか。

100時間の時間外労働はそれ自体が、
人間性を尊重しない働かせ方だと言えると思います。
これはやめさせる指標にしなければなりません。

予防の観点から時間規制の明確性

もう一つ予防の観点からも、
時間規制ということが合理的だと思います。
仮にやりがいがあれば残業も苦にならないといっても、
やりがいがあるかどうかを場合分けすることなどできません。
あなたはやりがいを感じるから大丈夫、あなたは感じていないから・・
とすることは不可能です。

逆に、これはやりがいがある仕事だからということで、
時間外労働を正当化する企業も出てくるかもしれません。
また、パワハラとか、居心地の悪さというのも、
その人の立場によって違います。
ある人はつらく当たられてばかりの仕事を担当していたり、
ある人は台風の目みたいな奇跡的な晴れ間のポジションに
たまたまいたりするわけです。

また、どんな仕事でも、万人がやりがいがある部署を担当する
ということはありえないでしょう。
働かせ方によって、ストレスが軽減して危険性が低くなるということは、
100時間の時間外労働の場合は現実的ではありません。

このような働かせ方をする企業は、労働者に甘えているわけです。
その人の生活を考えないで働かせてしまっているわけです。

少なくとも時間の規制をしなければならない
ということになると私は思います。

まずは、時間外労働を規制していく
これは、わかりやすいことです。

その上で、労働の質も検討していく
その他のストレス要因の軽減も検討していく
そういう順番になることは事の性質上必要だと思います。

月当たり100時間の時間外労働に対して
社会的に否定的評価を加えていくということは、
軽視されたり、否定されたりしてはならないことだと
私は思います。

【付録】
自己防衛を可能にする観点からの100時間の時間外労働

100時間働くということは
平日10時間+数時間会社に拘束されているわけです。
慢性的な睡眠不足と併せて、
脳が疲労していきます。

あまり複雑なことを考えることができなくなります。
将来的な見通しや、人間の感情を考える能力が
極端に低下していきます。

そうするとどうなるでしょうか。
目の前の課題を言われたままに
無感情でこなしていくことが精いっぱいになります。

上司の言うことに疑問を持つ思考が働かないし、
仮に変だなと思っても逆らおうという気力が失われてしまいます。

その延長上で、自分の体調や考えが
自分の行動原理にならず、
「会社は、自分にどう行動してもらいたいか」
ということだけを考えるようになります。

目の前の課題をこなすことがルーティンになるわけです。

それができなければ「自分に能力がない」
「自分が悪い」という考えに逃げ込んでいきます。
その方が楽だからです。

もともと血管疾患や精神疾患は
自分の病気の程度やそもそも発症の有無についても
致命的な状態になるまで自覚症状はありません。

そして、そういう会社に情動を支配されているような状態になれば
自分の異変も、自分に能力がない、自分が悪い
ということに逃げ込んでしまうわけです。

だから過労死、過労自死をするわけです。
その前に、今の状態を自分本位で考えられなくなっているからです。

何が何でも時間外労働100時間は悪だと
もう一度言わせていただきます。

【実務的過労死防止啓発】気を付けよう!これが過労死に誘導するキーワード。 [労災事件]

某武蔵野大学教授や富士通何とかの社長のツイッターのおかげで
過労死に誘導するキーワードがあるということがはっきりしてきました。
面白いから、少し整理してみました。
過労死を無くそうといっても過労死はなくなりません。
こういう作業と世論形成が過労死防止の実務的方法だと思います。

<上司無能型>のワード
「社会人は結果がすべてだ。頑張ったなんていいわけだ。」
「信頼に応えないでどうする。」
「仕事を教えてもらっているのだから必死になれ。一度で覚えられないなら自分で調べろ。」
「人に聞こうとしないで、やってみて工夫しろ。」
「なぜ結果を出せない。甘えるのもいい加減にしろ。」
「ちゃんとやれ。きちんとやれ。しっかりやれ。」
「何をやっても中途半端。」

【解説】
労働者は、採用試験を受けて採用されているわけです。
それほどポテンシャルに差がない人たちの集合が会社です。
そうだとすると、上司にできて新人にできないというのは、
経験の差か、それ以上に指導上司の力量だと思いませんか。
結果を出すのは当たり前ですが、
経験がなかったり、上司の指導がまずかったりすれば
どうやって結果を出すのかなかなかつかめません。

力量のある上司であれば
部下の弱点がどこにあり、
どのように改善すれば結果にたどり着くか
コーチングをすることができます。

そのようなコーチングもできないくせに、
結果が出ないと怒っているのは
無能な上司の癇癪ということになります。

自分で見つけないとわからない
というのは、全くの迷信です。
実際剣術も、北辰一刀流の千葉周作が
刀の握り方(利き手のどの指に力を入れる)等の具体的指導を言葉にしたので、
だいぶ発展したということを教えてあげましょう。

覚えるまで無駄な思考錯誤をさせるというのであれば、
上司なんていらないわけです。
組織であるメリットも否定されることになります。

指導できないものだから
結果が出ないわけで、
自分が悪いのに部下に八つ当たりをしているわけです。
部下は、試行錯誤で無駄な時間を費やすわけですから
どうしたって長時間労働にもなりますし、
困惑しながら時間を費やすのですから
精神的にもダメージを受けます。
無力感、自己否定感、絶望感、孤立無援感です。

ちゃんとしろ、きちんとしろ、しっかしろって
誰でもいえることですわ。
じゃあ具体的にどうしろっていうの?
言えないから抽象的な言葉に逃げ込んでいるんです。

甘えているのは部下ではなく、上司の方だ
ということが良くお分かりになると思います。

<恫喝・洗脳型>のワード
「給料泥棒!お前の残業時間は会社に価値がない。」
「転職を考えるか。」
「今の仕事は向いていないんじゃないか。」
「フリーターになりたいか。」
「非正規の人たちは安い給料でもっと頑張っている。」
「途中で投げ出す奴は大成しない。」

【解説】
現代の労働力流動化優先不安定雇用創設型労働市場では
せっかく正社員になったら退職したくない
という強い要求が労働者に出てしまいます。
普通に働いているのに、解雇になるというならば
どうしたって、残業してでも頑張らなければなりません。
長時間労働になりがちだし、
常に不安を抱かせられているわけですから
精神的にも強い圧迫になります。

賃金は労働時間に対する対価です。
残業をさせた以上、賃金は払わなければなりません。
会社にとって有益か否かは、
法律的には関係がありません。
無駄な残業をさせるならば、
残業をさせるような仕事をさせなければ良いのです。

何しろ労働者は、使用者の指揮命令に従って労働するのです。

ここを勘違いさせようとして、
滅私奉公をさせようとしている死の商人が
最近あぶりだされてきているようです。

なお、このような精神論は上司だけでなく
身内、親から言われることがあります。

<掟依存・群優先・個人否定型>のワード
「みんなが頑張っているのに、自分だけ楽をしたいというのか。」
「仲間の信頼を裏切るのか」
「弱音を吐くやつは情けない。」
「結果と結びつかない議論はしないというのが社会人の常識だ。」
「プロ意識ないやつの言うことだ。」
「無駄話している暇があれば、仕事の準備をしろ。」

【解説】
もともと人間は、群れを作る動物ですから
仲間のために頑張ろうとする本能があります。
これを悪用するタイプの洗脳です。
そろそろ、社会も気が付くべきです。
ものすごく迷信です。
大成する前に体を壊すでしょう。

また、これでは、仲間はいるだけで
プレーっシャーを与える存在になってしまいます。
もちろん、会社に行きたくないという気持ちにさせます。
近くにいる動物で仲間ではないならば、
それは自分を攻撃してくる動物だ
という認識になるようです。

結果がすべてという思考とも共通するのですが、
仲間との無駄な時間の共有(楽天球団が勝ったとか)
が安心感を作り、モチベーションを高めるのですが、
そういうことは理解できないようです。
休憩時間にまで口出しするなよと
自由業の私は思います。

<会社本位制度・情動の乗っ取り>のワード
「勝手な自己判断するな。自分がどうしたいかではなくて、会社が何を求めているかを考えろ。」
「ホウ(報告)・レン(連絡)ソウ(相談)」
「この会社が大変な時に、プライベートが優先か?」
「与えられた仕事は自分のこととしてやり抜け」
「起業家は寝ないで頑張っている。」

【解説】
先ほどの続き、会社本位制度みたいなものですね。
これをそうかと真に受けているうちに
自分の体調や家族の状態を度外視して、
会社に貢献することこそが人の道だと
頭の深いところでしみついてしまいます。

過重労働であれば疲れるのは当然で
休みたくなるのは人間の生理です。
ところが、そういう当たり前の感情を
否定してかかるキーワードですから
乱暴極まりない洗脳です。

過労死は、このように、
自分のことを本位とする行動原理ができなくなり
会社のために「どう動くべきか」という行動原理にすり替えられて
無理だからやめよう、辛いから休もうと思えなくなり起きてしまいます。

だから、過労死や過労自死する前に
仕事をやめようとできないことは自然のことなのです。

過労死を防ぐためには
会社本位の思考から脱却することが
特効薬です。

まだ、労働者が任せられることが少なく
何をやっても上司に報告というのでは、
ストレスが高くなります。

また、こんなことをやっていたら
チームとして活動をしているメリットはありません。
いちいち上司の判断を通さなければならなくなり
長時間労働になることは当たり前です。
巨大な企業が傾いていく原因の一つです。
上司という限られた個人の能力しか発揮できない
というところですから株主さん方は気を付けるべきです。

ちなみに労働者は起業家ではありません。
繰り返しますが、
使用者の具体的な指揮命令に従って労務を提供する
という契約の当事者です。
契約外の労働時間外に何しようと本人の自由です。
当然プライベート優先です。

残業手当も払わないで仕事をさせるなんてことは
会社が労働者に甘えている証拠です。
自分が甘えておいて、甘えるなというのは
実に滑稽で見苦しいことです。

<本当はあからさまな残業命令型>のワード
「まだ終わらないのか。いつまでやってんだ。」
「あれ終わらないと次がつっかえるんだよ。」

【解説】
群れ優先型ともリンクしているのですが、
こういうこと言っておきながら残業は命じていない
なんていう会社が山ほどあります。

大体は仕事過多で終わらないのです。
そうだとすると、
長時間労働、徹夜労働になるのは必然です。

まあ、その他にも胃を切って一人前とか
いろいろありますが、
こんなところで。

人を殺しても必ずしも死刑にならない理由、「目には目を」の本当の意味、死刑制度廃止の日弁連決議と反対派の「寄り添う」ということに対する疑問 [刑事事件]

人が殺されるということはすさまじい衝撃です。
その人の夢や希望や人間関係が絶たれるということもあります。
家族としても、いつもどおりり「行ってまいります」と行って出かけたのだから、
いつもどおり「ただいま」と帰ってくるものだと思っています。
そんな当たり前のことすらかなわなくなるわけです。

それだけではありません。
社会の中でも報道されることによって、
被害者の絶望に共鳴共感してしまい、
絶望の追体験をしてしまったり、

絶望の追体験を回避するために、
人が死ぬことに対する感じ方が磨滅していくという
人間性が喪失していくという被害もあります。
これが二次被害、三次被害の被害の連鎖を招くこともあります。
社会秩序の観点から、犯人を厳しく処罰するという必要性もあるかもしれません。

そうだとすると、犯人は死刑にしてもおかしくない
という感覚もあり得ることでしょう。

意外なことと思われるかもしれませんが、
日本弁護士連合会は、
これまで死刑制度の廃止を意見表明してきたことはありませんでした。
しかし、平成28年10月の人権大会において
初めて死刑制度廃止の意見を採択しました。

なぜ、人が死ぬという重大な結果がありながら、
死刑制度に反対するのでしょうか。

一つは、世界の国々において死刑がどんどん廃止されていること、
裁判は完璧ではなく、本当は罪を犯していないのに、
間違って犯人とされて、そのまま死刑を宣告されるという
冤罪がありえないとは言えないこと
実際に日本の刑事裁判で、何人か一度死刑が確定してから
再審で無罪となり釈放された人たちが存在します。

それから、殺人犯が、犯人だけの責任で凶悪犯罪を行ったわけではない
ということが、
実は多いという以上にほとんどだという事情があります。

本人の生い立ちや、その後の境遇などから、
普通に育つことができず、
自分は価値のない存在だと思いこまされていくうちに
人間の命に対しての価値を理解できない大人になっていく
ということが一般的に見られます。

その人自身やその人の家族、周囲の人間も原因を作っているのですが、
特に、社会とか国家とか大きなものの仕組みの中で
そのような人格が形成されてしまうということは
とても多いことです。

犯人に死刑を宣告する国家に責任がある場合
自分に責任があるくせに、犯人だけを非難するということは、
ムシが良すぎるということになるわけです。

ここは難しいところで、
それでも、被害者や遺族には何らの責任もないことが多くあります。

ただ、遺族の感情を優先して裁判が行われてしまうと
かなり過酷な判決が出る傾向となってしまいます。
殺人に対して必ず死刑ということになると、
かえって殺伐とした社会になり、秩序が乱れる
ということにもなります。

今から4000年近く前のハムラビ法典で、
よく、「目には目を歯には歯を」という条文が引用され、
「悪いことをしたら、同じような悪い罰を与えられる。」
という文脈で引用されています。

ところがこれは、本当は、
報復感情が強くなり、刑がどこまでも過酷になることを防ぐために、
被害の限度で罰を与えるべきだという制度なのです。

もっともハムラビ法典も、子が父親を打ったときは
この手を切り落とすとあるように
特定の国家秩序を促す条文もあります。

4000年以上前から、国家やそれに準じる組織ができた場合、
私的報復感情に任せるのではなく、
もっとひろい社会秩序の観点から、
一つには、被害者の報復感情を、国家というフィルターを通すことによって、
ソフティケートするという意味合いがあります。
また別の側面では国家の思惑によって刑の在り方が影響を受けていた
という意味合いもあるわけです。

こういう点、特に、冤罪が起こりうることだという
弁護士の実感から多くの弁護士は死刑廃止を主張していました。

しかし、弁護士の中でも
死刑の威嚇によって犯罪から遠ざける効果が期待できるとか
秩序形成に不可欠だというかという理由で
死刑制度の維持を主張していた人も少なくありませんでした。

このため、日弁連は直ちに死刑制度の廃止を主張せずに、
国民的議論が尽くされるまで死刑の執行を停止しよう
という主張にとどめてきました。

確かに今回の反対派の主張のように、
その状況に、特段の変更がないにもかかわらず、
今死刑制度の廃止を主張するということには
やや唐突であるという感じは否定できません。

上げること、上げる内容について、間違っているとは思いませんが、
死刑廃止の運動を日弁連が一丸となって行うという
運動論的観点からは、少しわからないこともあります。

但し、今回、死刑制度廃止に反対した論者の「論理」
にはもっと驚きました。

死刑制度廃止は犯罪被害者遺族感情に反するからというのです。
遺族に寄り添っていないというのです。

反対するなら反対するとしても、
それでは、真犯人ではないにもかかわらず有罪とされ
死刑を執行される人が出てくる可能性があることについて
どのように考えるのかを明らかにしなければ議論になりません。

ここが十分説明されなければ、
遺族が怒りの対象としている人物が真犯人ではない可能性があったとしても、
遺族の怒りを配慮して死刑を執行するべきだということにはならないのでしょうか。
 
 一番の疑問は、そもそもなぜ
「犯罪被害者遺族に寄り添うから死刑廃止を主張してはならない」
となるのかという点です。
そこでいう「寄り添う」とは一体何なんでしょう。

そもそもすべての犯罪被害者遺族が、
むき出しの報復感情を持っているわけではありません。
死刑など刑の制度と報復感情は別意にとらえている方々も多く、
そういう方々が実感としてはむしろ一般的でだと思います。
殺したいくらい憎いという気持ちは当然だと思いますが、
どうしても死刑にしないと気が済まないという方々は本当に多数派なのでしょうか。


もっとも、遺族の怒りを否定する必要はありません。
当然遺族の怒りに共感を示すことこそ必要だと思います。
ただ、第三者の弁護士として、
積極的に死刑にしたいと感情に基づいて動くことは話は別だと思います。
法律家である弁護士が、死刑執行をただ漫然と追随していることは、
本当に寄り添いになるとは思えないのです。

これは寄り添っているのではなく、複雑な人間の感情の
一側面だけをゆがんだ形で助長することにはなると思います。
寄り添いとは、果たして、
相手の表明された感情に無条件に追随することなのでしょうか。
どうして、「あなたが怒りを持つことは当然だ。」
ということにとどめてはだめなのでしょう。

むしろ、被害者としての感情を法律家である弁護士が
無条件に肯定していくことによって、
被害者が社会的に孤立していくことをも助長する危険もあると思います。
そうだとすれば、被害者はますます立ち直れなくなっていきます。
弁護士の寄り添いは遺族にとってもむしろ有害だということになる。

私の周囲にも、あらゆる死亡被害者遺族がいます。
きちんと遺族感情に共鳴共感を示すことによって、
法制度の限界を説明すればそれなりに理解を示してもらえています。
むしろ、事件の社会的背景を一緒に話し合うことによって、
より社会的な視点を持つことができ、
私の被害は私たちの被害であり、
私たちは私たちでなければできない社会的貢献がある
ということを自覚していただくことで、
生きる力を取り戻して怒られる姿を何人も目の当たりにしています。

そしてそれは、私が教えることではなく、
遺族が自ら考え、私が教わることが常のことなのです。
多くの被害者遺族の方々に接しているからこそ
私は、人間の回復力、生命力に感動することができているのです。

寄り添うということは、
できる限りその悲しみや絶望さえも共感し、
被害者の生に意味がある事、被害者の名誉を守るとともに、
遺族を正常なコミュニティーに復帰させる方向での力を
後押しすることだと思います。

そのためには、加害者を全面的に否定することではなく、
加害者を理解し、加害者を弁護する能力が
被害者のために必要だと考えています。 

メンタルを鍛えるなんてやめたほうが良いと思う 対人関係学の主張 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



心理学と対人関係学
 よく出てくる話として、コップに半分水が入っていることをイメージさせて、まだ半分水が入っていると考えるか、もう半分しか入っていないと感じるかによって、ポジティブ思考とかネガティブ思考とかそういう解説がされていることがありますね。
 その例えで言えば、対人関係学的思考は、のどが渇いていればもう半分しか入っていないと感じるし、薬を飲むため用意した水が余っていればまだ半分も残っていると感じることが一般的だろうと答えます。心とか感情は、与えられた環境に対する反応だと考えるのです。
 ところでこの時、もし脱水症状の危険のある人が、まだコップに半分も水が入っているとして新たな水を調達しなかったら、大変危険なことになります。一見望ましいポジティブ思考や誘導された思考が当人に危険を招くということをよく表すことができると思います。

 なぜ、環境に対して感情や心が動くのでしょうか。それは、新たな行動でるということや今の行動を修正するためのきっかけになるからなのです。水が足りないと感じるからこそ、もっと水を準備しようと思うわけです。水が足りないという不安が行動を促すわけです。このように感情や心を自由にしておくことで、危険を避けたり、良いことに近づいたりできると考えます。

 ところで、人間は群れを作る動物です。様々な個性を持つ構成員を群れは内包しています。心理学でいうところのポジティブな人、ネガティブの人がいて、それぞれの意見が尊重されている群れが強い群れです。強いというのは、永く存続し続けるという意味です。これは簡単に理解できるはずです。みんなポジティブな思考ばかりする群れは、イケイケどんどんということになり、良いときは爆発的に良いでしょう。しかし、警戒や対策を考えることをしないため、あるとき一気に群れ自体が滅亡する危険がはらまれています。逆にネガティブな構成員だけとなると、群にとどまることが嫌になり、不安に押しつぶされて自滅するでしょう。
 それぞれの考え方を自由に交流させて、自分の感情に固執せずに、理性的になすべきことを話し合える環境が最も合理的な選択をするということになるでしょう。民主主義とは、このように本来は、正しい結論を出すための技術だということになります。
 
 そうだとすると、自分の個性は、ネガティブであろうとポジティブであろうと、なんであろうと、群にとっては貴重な財産なのです。貴方が、引っ込み思案だったり、人前に出ることが極端に苦手だったりするならば、あなたでなければ感じられないこと、あなたでなければ提案できない案を作ることができるはずです。臆病であればそれを大事にするべきなのです。それはあなたのセールスポイントなのです。

 だから、本当は、群にとっても、あなたが個性、考え方を変えることは不利益となります。しかしながら、あなただったりあなたへの影響力の強い人だったりがあなたは変わらなければならないという考えをあなたに植え付けるわけです。そして、表面的に、一見、その変化は会社だったり国家だったり、そういう団体から望まれているわけです。自分を変えようとするときは、自覚することは難しいのですが、そういう誰かの都合を、自分の希望と勘違いして、自分を変化させようとしていることが多くあります。自分の考え方を変化させなくても、本来群れは、あなたの個性を受け入れるべきなのです。それを受け入れられないダメな群れは、あなたが居心地の悪い群れは、人間の集団ではなく無個性の道具を並べようとする集団ということが本質なのです。
 あなたが自分を変えようとすることはあなた自身にとって危険でもあります。これまでのあなたの人生の時の流れによって形成された自分というものを否定しなければならないかもしれないからです。自分という者の存在があやふやになる可能性もあると思います。本来あなたの性質からすれば、慎重になることで危険を回避してきたことが、回避できなくなる危険もあると思います。
 本当に、あなたが自分自身を変える必要があるのか否か、自分の個性を殺すのは誰のためか、慎重に考える必要があると思います。

 メンタルを鍛えるということはそういう危険のあることです。人間は器用に自分の正確を場合に分けて使い分けることはできません。その影響は会社内にとどまらず、家族との付き合い方に対しても微妙に影響を与えることでしょう。

 メンタルを鍛える方法として、十分な睡眠を確保しようといわれることがあります。これは比較的まともな話なのですが、落とし穴もあります。睡眠を確保するために犠牲にするものは労働時間ならばよいでしょう。残業時間を極力抑えて睡眠時間を確保するというなら、極めて健全です。ところが、長時間労働をそのままにして、長時間労働に耐えるために早く睡眠をしましょうということならば、全く本末転倒の議論となります。自分の趣味や家族との団らんや家族の誰かの問題を一緒に解決するための時間を放り投げて、会社のために使うということになるからです。これでは、自分のプライベートまで会社に提供するということになるでしょう。やはり自分が何のために生きているかわかりません。

 中には、確かに、少し成長したほうが良いかしらと、協調性の問題において考える人もいるかもしれません。
 しかし、協調性が無いといっても、右向け右に反発することは組織の中に必ず確保している必要があるというのが強い組織論です。誰か、他人からの批判を極端に嫌う上司の存在は極端に組織を劣化させます。現代の日本では障害者といわれかねない、あまり人前に立つことに躊躇を感じず、恥ずかしさを感じないのではないかという人は、極めて重要な役割があります。物言わぬ多数派を代弁することも多くあります。ただ、こういう人だらけになると収拾がつかなくなりますので、イエスマン的な人も一定程度必要なのかもしれません。人の後について行くことができるというのも一つの才能だと思います。

それでも、もう少し、ドキドキしないで生活をしたいということであれば、対人関係学的には、いくつか方法があります。

それは、群れの中の誰かと特別に仲良くなることです。みんなと仲良くしようと思わないことがコツでしょう。べたべたすることでも、その人の価値観に追随していることでもありません。ただ、自分の本音を聞いてくれて、相手のネガティブな部分も聞いてあげることのできる関係です。自分と似ている必要もなく、本当のことを言うと誰でもよいのです。ただ、これまでの人生において、いろいろな雑念が他人に対する見方に入ってきています。(これを純化したものが易学です。)それは人間が生きてきた以上、仕方がないものです。いろいろな個人的な体験が原因となっています。そうだとすれば、一番話しかけることに抵抗がない人、一緒にいて安心できる見た目の人を選ぶべきです。その人があなたの本音を否定したり、無条件に追随しているばかりであれば別の人を選びなおす必要があるのですが、まあ、それでも拒まれなければ上出来でしょう。こういう人を作ることによって、対人関係の環境が変わりますので、環境の反応である心や感情自体、それによって新たに始まる行動や修正する行動も変わってきます。

また、「誰かのために」という意識を持つことも有効です。これも本来人間が持っている力です。ただ、これほど都合よく利用される意識もないです。家族のためにとか自分より弱い立場の人のためという意識が健全だと思います。いつしか、これを外部から利用されていることがあるかもしれないという意識も必要だと思います。自分が自分の近くの誰を大切にするかということこそが人間としての各人のテーマだと思います。

ドキドキや不安を止める方法としてもう一つ。自分の体を感じるという方法があります。そうすると体が勝手に、「今は危険ではない」ということを認識します。深呼吸をするのは、肺でガス交換をするためではなく、のどや肺に空気が入り、鼻や口から息が出ていくことを感じるためです。ですから、余裕をもって体を動かすということも精神を安定させる有効な方法だということになります。

メンタルを鍛えなければ、とてもこの企業、この学校ではやっていけない。それが究極の真実ならば、対人関係学は、あなたを変えるよりも、あなたの職場、学校を変えるべきだと結論付けるでしょう。それが、あなたにとって不利益に見えたとしても、そのような環境であなたの心が悪い方に変化していくことは極めてあなたの人生にとってマイナスになるからです。自死は、このようなことからレールが敷かれ始めるわけです。

あなたは、ただあなただから、代えがたい価値がある。

「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。」と授業料を払って過労死に誘導されないために、武蔵野大学の学生は人間らしい関係の構築を学ぼう。 [労災事件]

「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。」と授業料を払って過労死に誘導されないために、武蔵野大学の学生は人間らしい関係の構築を学ぼう。

今、厚生労働省を筆頭に、ワークルールの確立、過労死防止対策の啓発、ワークライフバランスなど、人間らしい働き方を実現するために、安倍内閣は国を挙げて取り組んでいる。国が作った初めての過労死白書も発表された。そんな時に、再び電通の若い労働者の自死が過労死であると労災認定された。過労死も、当人が亡くなるばかりではない。ご遺族、友人、同僚といった多くの関係者の悲しみは拭うことはできない。

 まさにこの時、武蔵野大学グローバルビジネス学科教授の肩書でなされたTwitterが炎上している。
 このツイートは、単なる無知の領域を超えている。彼の職業、経歴などからすると、「犠牲者が出たからといってひるむのではなく、過労職場への労働力の供給を絶やすな」という、戦場へ兵士を送り込むような確信を持った言動であると考えなければならない。まさに死の商人である。武蔵野大学は、このような人物をあえて教授に採用し、授業料をいただいている生徒たちを過労死という死に向かわせていると批判されなければならない。企業などにとって都合の良い、死ぬことを考えないで言いなりになる労働力を育成しているのである。
 具体的にその発言を見てみよう。

「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。」

1 先ず、人の死に対する冒涜である。
  悲しみにある電通の労働者の遺族等関係者だけでなく、これまで過労死で亡くなった故人、その遺族、関係者すべての人たちに対する冒涜である。これだけで、この武蔵野大学教授のインテリジェンスの程度が見て取れる。このような人を教授とする武蔵野大学の経営方針の程度がみてとれる。
  この武蔵野大学教授は、不特定多数に対して発言する際に、人倫とか遺族感情とかそういうことに配慮する気遣い、能力、わずかな努力を持ち合わせていないということになる。しかし、そういう風に「善意」に解釈してはならないのだろう。武蔵野大学という大学の教授がそのような心がなくても、自分が社会の多くの人たちのひんしゅくを買う情報を発信しているという自覚がないということは考えられない。武蔵野大学教授を馬鹿にしてはならない。そうだとすると、そのようなひんしゅくを買う発言を、何らかの目的があってあえて行ったということがリアルな理解の仕方である。それは、過労死を作らないワークルールや、過労死予防の風潮が、この電通の過労死認定報道によって高まっては困るという人たちの立場を代弁していると考えるほかないということになると思う。日本では、生活を圧迫するような労働の在り方を改めようと国を挙げて取り組んでいる。日本では否定的評価がなされているが、彼が専門とするグローバルビジネスでは、それが常識的なスタイルなのかもしれない。世界に輸出しようとしているのかもしれない。新たなグローバルスタンダードを確立しようとしているのかもしれない。これは日本語でいうところの新自由主義である。

2 過労死の生理的メカニズムに関する無知
  先ず、情けないというが、これと全く同様の話をすれば、「腹を刺されたくらいで死ぬなんて情けない。」という意味と、生理的には同義であることをこの武蔵野大学教授は知らないのだろう。腹を刺されて出血死したり、敗血症や多臓器不全で亡くなるということは、情けないことだと誰も思わないだろう。刺されたという出来事と死という結果が単純に理解できるからだ。過労死は疲労が蓄積していき、動物としてのホメオスタシスが徐々に機能しなくなってゆき、遂に致命的な破綻に至る現象をいう。根性などの精神論で解決する問題ではない。だから、環境を改善しないまま「もっと頑張れ」という叱咤激励は、どんどん人を死に追いやるキーワードなのである。腹筋や脚力ではないので、鍛えて鍛えられる話ではない。
  付け加えると、精神力の強い人でなければ過労死しない。責任感が強く精神力が強いからこそ、人間の生理に反して働くことをしてしまうのである。他の人が手を抜いても、あるいは他人が手を抜くからこそ自分が頑張って最後まで、自分の健康や家族をなげうっても与えられたことをやり抜いていしまうからこそ過労死するのである。武蔵野大学教授があざ笑っている対象はそういう労働者である。
  また、過重労働を100時間ということだけに単純化している。
  100時間働くとは、定時が9時から6時、昼食休憩が1時間だとすると、例えば平日4時間の残業だとすると毎日深夜10時まで残業することになる。それだけでは、4週で80時間にしかならない。毎週土曜日5時間の休日出勤をして初めて月当たり100時間の時間外労働ということになる。厚生労働省の労災認定のもとになった統計からすると、月当たり100時間の時間外労働があれば、毎日平均4時間の睡眠時間が確保できないという結果が出ている。これが1カ月続くのである。私は、国の言う通り、このような働き方は人間らしい生き方ができないのだからやめるべきだと思う。間違っても受容する観念を世間に向けて発信してはならないと思う。

3 個別性具体性を観念できない想像力
  それにしても、100時間という数字で人の生き死にを語ることは許されないと思う。あたかも、腹を刺された場合でも、真皮まで到達したか、筋肉を切断したか、内臓などが傷ついたかによって重症度はまるで違う。また、刺された後放置されたのか、止血の手当てをした人はいたのか、救急車で運ばれて適切な処置をされたのかによっても、その後の経過は全く違う。
  100時間働いたとしても、上司や同僚が支援的に見守ったり、指導したり、励ましあったりしたり、弱点や未熟さを受容されながらの100時間なのだか、あるいは不可能を強いられ、絶望感を受けながら、孤立無援感や疎外感を感じたり、自責の念を植え付けられたりし続けた100時間と所定時間177時間の合計277時間なのか。後者であれば、4時間の睡眠時間だって眠れるわけがない。何のために生きているのかという労働者の叫びはもっともである。
  通常100時間の時間外労働を強いる職場で、個人の尊厳を尊重するような同僚の態度はありえない。そもそもそのような職場ならば長時間労働を強いるということはないからだ。また、労働の質も悪く、トラブルがあるからこそ時間外労働が100時間に到達するのである。
  このような事情について、武蔵野大学教授は全く捨象している。労働者を人間として見ているのではなく、生産を上げるための道具として見ているのではないかという危惧を禁じ得ない。

「会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず。」

 労務供給形態の無知
  この点は、実に初歩的な問題であり、法学部生ならすぐに理解できるだろう。この武蔵野大学教授は、労働契約と請負契約の区別がつかないのである。労働契約は、使用者、上司の指揮命令に従って労務を提供するというところに特徴がある。請負は、結果を出すという仕事を任されて、自分の判断をフルに使って仕事を完成させる。全く異なるのである。特に当該被災労働者のツイッターを見ていると、単に言われたとおりにやるだけでなく、言われないことも含めて上司が気にいる結果を出すように強いられて、そのために必要な情報もスキルも与えられていなかったことがわかる。
  東北労災病院の宗像正徳医師は、大規模な研究をされて、同じ労働時間であっても、自己の裁量(判断)が広い労働者と、狭い労働者では、狭い労働者(誰かの言いなりに働く労働者)の方が有意的にストレス物質が増加することを発表されている。また、古典的なカラセック・ジョンソンモデルという労務管理の研究でも裁量の狭いことがストレスを増加させるという結論になっている。動物は自分で自分の身を守ろうとする本能がある。自分が何かの時に何もできないという予想はそれ自体恐怖・ストレスになる。自分の判断で自分の行動を制御できない意識が高ストレスになることはむしろ当然のことである。
  自分で起業した人が、自分の仕事を自分で判断してやりぬくことはそれ自体が喜びである。多少のストレスがあっても、それ以上のやりがいがある。なによりも、それだけに集中したとしても、それ自体が自己実現ということである。徹夜しようが泊まり込みしようが、やらされているわけではない。但し、寝袋を事務所に持ち込んでピクニック気分の起業家を私は知らない。寝るなら家で寝るし、会社に泊まり込むなら徹夜で作業をしているはずだ。武蔵野大学教授の周囲は何かちぐはぐな人だらけなのではないだろうか。
  しかし、武蔵野大学教授である以上、そんなことはわかり切っていって言う可能性がある。そうみるべきであることは前述の通りである。そうだとすると、なぜ、全く労務提供の質の異なる起業家と、新入社員を同列に論じているのであろうか。そこには、特定の意図があるはずである。これこそが、なぜ過労死するまで仕事をやめなかったかについての答えの一つである。
  要するに、「自分が与えられた仕事は、自分が起業家として選択した行動である」かのように錯覚を与えようとしているということなのである。これを繰り返していくうちに、会社の利益に従って行動をする癖がついてくる。自分の人生や人間らしい在り方ということが行動原理にならなくなっていく。自分の体調や人間関係の状態に合わせて行動するということが、許さないことではないかと思ってくる。会社の求める行動をすることこそ、自分がやるべきことということを信じて疑わなくなっていく。そうして、うまく仕事がこなせないということは、自分が悪いということを感じさせるようになり、常に会社に対して申し訳ないという罪悪感を持つようになっていく。もともと、責任感が強く、何事においてもやり抜かなければならないという感覚が強い人たちだから、やり抜くことで最悪の事態をまぬかれたいと思うようになる。会社を退職しようという意識をもてなくなり、極端な話休もうとする意識も薄れてくる。休む目的は、明日の仕事に悪い影響を招かないためである。家族の幸せを願いつつ、家族のために貢献できない自分を責めるようになる。これが過労死のリアルだ。
  武蔵野大学の教授職ともいう人が、これらのことを知らなかったから発言したとは思えないし、思うべきではない。彼のツイートが誘導する先は、まさに生き地獄である。生きているという喜びも安堵さえも感じられない毎日である。

「。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。」

何かおとぎ話か、出来の悪い人情話を聞いているような感覚になる。いったい、このようなことが許される日本の企業がどれほどあるのだろうか。むしろ、上司を説得したら最後、発達障害の烙印を押されて、退職するまで集団でのいじめに会うことが多いのではないだろうか。では、人的資源をどうやって獲得するのか具体的な方法について、私も大変興味がある、武蔵野大学の学生は、教授の説明をよく聞いて教えてほしい。死者や遺族を冒涜するツイートをする暇があったらこのノウハウをけちらずに拡散するべきである。とにかくここでも彼はプロ意識という言葉でけむに巻く。何か労働者がいたらない場合は、プロ意識が欠如しているという。「プロ意識」は自責の念を誘導するキーワードとして記銘しよう。

 武蔵野大学教授は、自分のツイートを削除したという。削除したことは高く評価して、具体的氏名は割愛した。しかし、過労死のメカニズムや、過労死に誘導するプロパガンダの存在、及びその手口について大変わかりやすいサンプルをご提供いただいたので、深く学ばせてもらうためにブログを作成した。

 武蔵野大学に限らず、各大学、高校において、人間を大切にする生き方、働くためのルールなど、人間らしく生きるための研究や講座開設がなされることを強く希望する。

過労死落語 文一ドットコム [現代御伽草子]

過労死落語 文一@

弁護士の落語っていうと、東京の女性の先生の憲法落語の二番煎じってことになりますが、まあいいや、落語って方法を使わない手はないもんだってことで、プライドも何もなく始まるんですが、

私のは、もう、古典落語「文七元結」のパクリです。人情噺の名作です。おそらくこれからお話しすることよりも、感動すると思いますから、機会があれば本物を是非お聞きください。こうやって、正々堂々とパクることができるのは、素人落語の良いとこですね。

古典落語といえば、別々の話しに同じ名前の登場人物が出てくるのですが、結構この名前はこのキャラクターというお約束があったりするんです。一番有名なのは「与太郎」でしょう。「感じ方が激しいやつ」とか、「一本抜けているやつ」とかいろいろ言われている彼です。今回主人公は文一ではなく「くまさん」です。落語の「くまさん」は熊五郎っていう名前で、魚屋だったり、左官職人だったり、大工だったりその落語によって違いますが、腕がいいという共通点があります。でも、酒で身を崩してという共通点もあり、落語ですから、最後に立ち直るんですがね。この話は現代が舞台ですから、クマゴロウっていう名前はちょっとねえって感じなんですが、まあ、隈本さんってことで、強引にくまさんって言って始めるわけです。最初は、くまさんの家でおかみさんとの会話からです。

女房:お前さん、会社の方が迎えに来られたよ。勝手に会社休んじゃったんで、叱られに来いっていうのかねえ。
くま:え?まじか?もう夕方になろうっていう時だぜ。会社が一介の従業員を家まで迎えに来るって話は聞いたことないな。ああ、でも見せる顔もないしなあ。
女房:それじゃあ、どうする?
専務:くまさあん。ぐあいどうですかあ。
くま:ええ、専務さんがわざわざ気なすったのかい。
いやいやどうもすいませんわざわざ申し訳ありません。
専務:まあ、元気そうだね。それじゃあ車待たせているから行こう。
くま:わかりました。覚悟を決めました。お供します。
専務:くまさん。夕飯まだですよね。
くま:ええ、夕飯どころか朝から何にも食べていないんで。
専務:社長の言ったとおりだ。

くま:ええっと。
専務:さあ、ここだよ。
くま:ここは・・・中華料理屋ですね。
専務:ああ、社長もお待ちかねだよ。
くま:もしかして中国マフィアとかも一緒にいるんじゃないでしょうね。隠し部屋みたいなのがあって。
専務:何をわけのわからないことを。

くま:あ、社長。このたびは申し訳ありませんでした。どうも、気まずくなっちまって、会社に出られなくなってしまいました。
社長:やあ、よく来たね。あの件は、おまいさんの責任じゃないよ。やっぱりそのことを気にしていたんだな。まあ、そんなことより、ビールでも開けようね。
くま:え、お叱り会とかではないんですか。
社長:何言ってんだい。中華料理屋だから中華を食べるんだよ。たまにはいいじゃないか。お宅に押し掛けるのもご迷惑だと思って、わざわざご足労いただいたってことだよ。
くま:だって。
社長:だから、あの徳川商事の注文だがね。私のにらんだところによると、はじめから下請けいじめなんだと思うよ。あんな仕様書の部品なんて、はじめから無理だ。その上、今月からいくらいくら納めろなんて無茶もいい所だ。
でもね、安川がいろいろ検討してくれてね。どうやら、通常のねじを使うと電流が変わっちゃってうまくいかないんだ、タイプA1Cっていう型のねじを使えばうまくいきそうなんだってよ。
くま:なんだか糖尿病みたいなねじですね。
社長:ははは、但し、そのねじは、ずうっと前に生産中止になっていて、卸会社でも聞いたことが無いってくらいだったんだ。これから型を作って素材を集めてというと、生産開始は来月の後半くらいなんだな。なあに、明日かけあってくるよ。だめなら下請外しだってなんだって受けて立つよ。
時にくまさん。今日はどんな心もちだったんだい。
くま:いや本当に。一日ぼけっとしていたような気がします。あっという間に夕方になったって感じですが、ずいぶん長かったって感じです。なんだか、鉢植えの木の葉っぱをじっと見ていました。だんだん、自分は生きていてはいけないんじゃないか、死ななければいけないんじゃないかって、
社長:やっぱりな。くまさんは責任感が強すぎるから、それがあだになって、病気になりかかっていたんだよ。
くま:あっしが病気ですってい?
社長:死ななきゃいけないって思うってことが病気の症状なんだよ。いいかいくまさん。生きとし生けるもの、おけらだってあめんぼだって、生きようとするじゃないか。自分から死のうなんてものは何もないだろう。
くま:あああ、そうですねい。
社長:それは、脳の誤作動ってやつらしい。病気の症状らしい。風邪引けば、咳をするようなもんだ。
くま:そうだったんですかい。
社長:それからな。ああいう大企業の横暴で、なんともできない時、絶望的になるだろう。助かる方法がないというか。
くま:へい。
社長:くまさん、自分を責めたろう。
くま:そうなんです。でも自分を責めると、少しホッとしてしまったんです。なぜだか知りませんが。
社長:自分が悪い、自分が何とかできれば、うまくいったはずだと思って、絶望しないための生きる仕組みらしい。
くま:そうなんですか。でも社長、おかげさまで、すっかり良くなりました。このチンゲン菜ももりもり食べられます。私が病気にかかりはじめだったら、さしずめ社長さんは、お医者さんですね。
社長:こっちだって必死だったよ。奥さんに電話したら、その調子だったろう。このまま病気が重くなって会社に出てこられなくなったら、それこそ会社の一大事だ。病気はかかり始めが肝心っていうだろう。徳川商事の取引より、うちでは、くまさんの方が大事なんだよ。
くま:ありがてぇ。ほんとうにありがてぇ。今度はうれしくってこの鶏肉が食えないですよ。
社長:よかったよ。本当によかったよ。

くま:社長すっかりごちそうになってしまって。こんなにお土産ももらっちゃって。ありがとうございます。
いえいえ、もう元気ですから、少し夜風に吹かれて歩きたいんで、うちまで行進していきます。ええ、もうすっかり元気になりました。

くま:てえってくらあ。そうだ、かかあに電話しておくかな。
あの、千代子さんですか。私です。はい、はい、たくさんごちそうになりました。社長さんが、お土産まで下さって。飲んでない飲んでない。今日はそれほどは。本当。もうはやく千代子さんに電話したくってさあ。歩いているところだよ。もうすぐ澱橋だから、あれ?ちょっと一回切りますね。

くま:もしもし、もしもし、あなたどうしたんですか。黙ってらっしゃるけれど、おい、まてぃ。ちょっとだけまてぃ。あぶねえな。何しているんだい。
文一:痛いなあ。何するんですか。
くま:何するんですかもないもんだ。こっから飛び降りたら、大けがして一生病院暮らしだぞ。決して死ねるとは限らねえぞ。うんうん。へたり込んでねえで。冷えるからな。ちょっとあそこにベンチがあるから、ちょっとあそこまでいこうな。
文一:どうして私に声をかけてくれたのですか。
くま:どうしてって、少しは正気に戻ったようだが、変だからだよ。
文一:変って。
くま:そりゃそうだろう、室内スリッパはいて、高い橋の上で欄干握りしめて川底にらんでいたんだから、正真正銘の変。
文一:あ、スリッパですね。でも、いいんです。どうせ私は、生きている価値だってないんです。止めてもらったのかもしれませんが、よけいなことされたんですよ。
くま:なに、死ななければならないってことか。
しかしな、死ななきゃいけないって思うってことが病気の症状なんだよ。いいかい。生きとし生けるもの、おけらだってあめんぼだって、生きようとするじゃないか。自分から死のうなんてものは何もないだろう。それは、脳の誤作動ってやつらしい。病気の症状らしい。風邪引けば、咳をするようなもんだ。
文一:脳の誤作動ですか。
くま:ことによると、お前さん、自分を責めて少しホッとしているんじゃないかい。それは絶望を避ける生きるための仕組みんなんだぞ。大企業の横暴なんだぞ。
文一:うちの会社は、大企業じゃないですが。そうです。自分が悪いと思うと、少し救われたような気がしました。そうだ、そうやって、だんだんと自分が悪いということに逃げてきたような気がします。
くま:元気になったら飯食え。こっちは柔い餃子で、社長がかかあに持っていけっていうからダメだけど、こっちは俺がもらってきたチャーハンの残りだから食え。
文一:いえ私は食欲は。
くま:なんだな。まだよくなっていないんだな。
文一:あなたは面白い人ですね。どうして私に優しくしてくださるんですか。
くま:え、だからさあ。会社にとって、徳川商事よりもって、お前さん、うちの会社の従業員じゃないからなあ。そりゃあだめか。それは、さっき出なかった質問だなあ。いや、こっちの内緒話。ううん。ううんと。おう!おそらく、人間だからじゃないかな。うん、ちげえねえ。俺も人間だ、おまいさんも人間だ。間違いない。
人間って、誰か困っている人を見たら、助けたくなる動物なのかもしれねえな。
文一:それでも、私は、九州からこの格好でやってきたんですよ。ここどこですか。
くま:仙台よ。宮城県だから宮崎県じゃないぞ。
文一:誰一人声をかける人はいませんでした。
くま:いや実はな。おいらも、昨日、取引先の徳川商事からの発注をさあ、無理だってわかっていて請けちゃったんだよ。ほい、いいから食べな。請けたら大変なことになるってわかっていたんだけど、ハイ箸。請け無ければ出入り止めだっていうんだろう、なんだからわからないうちに予備契約してしまってさあ。案の定部品がなくって、明日社長が謝りに行くってんだよ。会社に行こうにも行けなくてな。
文一:それは、はめられましたね。
くま:今はそれもわかるような気がするが、今朝はもう、飯は食えない、着替えはできない。とても会社に行くことはできなかった。入社してから30年たつが、初めてのことだったよ。油が切れたっていうか。それが何で陽気に手土産持っているかっていうとな。社長がわざわざ家まで迎えに来てな、中華料理をごちそうしてくれたんだよ。嬉しくてうれしくてな。なあに、さっきから言っていたことは社長の受け売りよ。
文一:なんていい会社なんでしょう。うそでもそんな会社考えたこともなかったです。
くま:お前さんも会社がらみだな。
文一:私の上司は、厳しくて、何をしても叱られるんで、叱られに会社に行くようでした。チャーハンうまかったです。もう本当に腹いっぱいです。給料泥棒だとか、役立たずって言われるのはまだよいんですが、お茶を出すタイミングが悪い、そんなの俺の孫でもわかるってこうですよ。
くま:それはえげつないぞ。えげつないって言葉わかるか?
文一:ははは、それは日本語だと思いますよ。わかりますよ。
くま:おや、わらったね。いい男じゃないか。

女房:お前さんかい。こんなところで何やってんの?いつまでも帰ってこないから心配になっちゃって。
くま:うわ女房が来た。いや、この方がね、部屋履きスリッパで九州から仙台まで来たんで、その
文一:奥さまですか。旦那様に命を救われました。
女房:おやおや、今日はいろんなことがあって、一日が長いね。
くま:職場で大変ご苦労されているそうです。
女房:そうかい。大変だねい。ところで何の仕事をしているのさ。
文一:ねじの製造販売をしています。
くま:なに?
女房:どうして、こっち来ることになったんだい。
文一:あんまり覚えていないんです.気が付いたら、旦那様に投げられて尻もちついていました。実は、私の上司が怖いというか、なんというか。本当は自分の発注ミスで特殊なねじを大量生産してしまったんですが、特売するから売りさばけっていうんです。みんな真に受けません。使い道のないねじですから、売れるわけないんです。私は、だめだと思っても、他の人がやらないなら自分がやらなければと思って営業して回って、ねじは案の定売れないわ、日常業務はできないでわと私だけが怒られる格好になっちゃって。もともと人が少なくてやることが多くて。最近は、家に帰る時間ももったいなくて、会社のソファで寝ていました。それでも売れません。そうしたら、責任とって買い取れっていうんですよ。じゃなければ会社やめちまえって。
くま:そんでおまいさんどうしたい。
文一:買い取りましたよ。貯金は全部ぱあ。もう会社にも行けないし、大量のねじの在庫抱えて生きていけないと思って、
くま:ところでさあ、そのねじなんていう型なんだい?ことによるっていとヘモグロビンっていうんじゃないかい。
文一:そんな名前のねじは知らないなあ。糖尿病みたいだな。
文一:あっタイプA1Cですか。
くま:そうそれ、タイプA1C。お前さん、それきちんと売買契約書あるの。
文一:ええ、にやにやして書かせられました。半額に負けてやるって大儲けだなって。悔しいから、倉庫借りて、そちらに全部移動しました。
くま:在庫いくらあるの
文一:ざっとケースでこれくらいですが、
くま:ことによるとそれ全部買うぞ。
女房:そろそろ冷えてきたよ。専務さんから小籠包持たせたからこれもどうぞって、ビール券もらったよ。お客さんも今夜はうちに泊まりなよ。どうせ命を助けたんだから遠慮はいらいないよ。

その夜は、遅くまでしみじみ宴会が続いたそうです。文一のねじは、ぴったり使えるもので、会社が全部買い取ったそうです。徳川商事の納期も無事に守られました。徳川商事の担当者が、これを知って会社まで来て、大声を上げながら泣いて、土下座をしてくまさんに感謝したそうです。どうやら担当者も上司に無理難題を言われて、責任をくまさんに押し付けた形になったということでした。御社のご恩は一生忘れないと、その後も何かにつけて優遇していたそうです。
文一は、前の会社を辞めて、投げ売りで買い取ったねじを正規の値段に近い値段で売り払うことができ、蓄えた資金で、中小企業専用で会員制の物資流通情報サービス事業を始めました。文一ドットコムという会社です。絶望していた需要と供給を取り持つ会社は絶大な信頼を持ち、口コミで会員がどんどん広がっていきました。その中で下請けいじめの会社の告発や、パワハラ上司への警告なども行い、たいそう繁盛したようです。文一ドットコムというお話でした。