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一方当事者に偏った朝日新聞編集 目的をもって作り出される左派右派対立構造へのすり替えに警戒しよう 暇空茜氏問題は公正な財政支出と情報開示という民主主義の根幹に関する問題である。 [弁護士会 民主主義 人権]


もはや一つの一般社団法人の問題ではなくなってしまった感のある女性被害者等支援事業会計問題。このブログでは、あまり他者の紛争の中に入っていきたくないのが本音ではある。しかし、次から次と勉強の要素が出てきて、また黙っているべきではない事態が生まれてしまう。

先日毎日新聞の署名記事を批判したばかりだが、今回は朝日新聞の署名入りコラムがでてしまった。毎日新聞の記事とは比較にならない偏向記事であり、事実に基づかない報道がなされていると感じたので、言及することとした。

おそらく若者は新聞というメディアに見切りをつけるだろうという危惧を抱いた。

こらむの要旨は、暇空茜氏が、ネット民を扇動して被害女性等支援をしている一般社団法人を攻撃しているということ、しかも攻撃がゲーム感覚で行っており、かつ、陰謀論による攻撃のようであるとしているのである。

確かに、一般社団法人代表の個人名を出す時に、「共産党と強いつながりのある」という枕詞をつけていた。これには問題があると思ってはいた。これでは、受け手が左翼的思想を持っていると自認している場合は、何らかの反発が生じる可能性が出てしまう。左翼的立場の人たちから反共産党や反左翼の人を扇動するものの言い方であったと言われても仕方がないかもしれない。

しかし、実際には、暇空氏は、一般社団法人の活動を妨害したり、驚異や不快感を与える活動をすることを厳に戒める発信をしていた。あたかも朝日新聞のコラムのような報道がなされていることを警戒していたかのようである。それはこの問題を知っている人たちはよく知っている有名な話である。違法、不当な行動をいさめていたのが暇空氏なのに、攻撃を扇動しているという朝日新聞のコラムは、前述の事情があったとしてもやはり事実に反する報道というべきであろう。

また、朝日新聞のコラムでも言及しているように、暇空氏が一般社団法人から訴えられたことに対抗する費用として6千万円を超えるカンパが集まり、一定の知識層も広く支持している。もし、空想の敵を想定してのゲーム感覚の攻撃をしていると思われればそれほど高額のカンパに現れる支持が集まるはずはない。

また、暇空氏の言うところの一般社団法人の背後に「なにかグループ」という集団がいることは、東京都監査委員会が指摘するようなずさんな会計処理があるにもかかわらず巨額の公金が一般社団法人にわたっているという事実からも十分推測できることである。2018年までは東京都は原則的な会計処理を求めていたのにも関わらず、それがその後崩れてしまったということから、何らかの圧力が都の会計原則を後退させて、東京都が極めて非常識な支出をしたという結果を事実として招いているのである。一番言いたいことは、暇空氏は既に特定の一般社団法人の批判にとどまっていないということである。公金支出の実態という問題に目を向けている。ところがこのタイミングで、毎日新聞や朝日新聞が、事態を矮小化する記事を連続して上げ始めたという流れを見る必要がある。

朝日新聞の最大の問題は、東京都監査委員会の監査結果の矮小化である。毎日新聞もこの矮小化をしている。監査結果の読み方については既に紹介した通りである。肝心なことは、監査請求が「請求が妥当ではない」という結論に至ったとしても、それは暇空氏側が不当性を立証しきれなかったということであり、一般社団法人側に不当がないことが証明されたわけではないということである。また、本来は都の公金支出の問題であるから、監査委員会が指摘するような領収書が存在しないような支出に対して、公金を支出することが不当な公金支出ではないのかということが監査委員会の判断から漏れているということが最大の問題であり、今後訴訟において論点になるであろうということである。

Colabo問題から前向きに考えるべきこと 1 東京都若年被害女性等支援事業の監査結果の読み方と今後の訴訟の行方
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2023-01-11

これを知らないでか、あるいは知っているのに意図的にか、朝日新聞のコラムでは過小評価がなされている。朝日新聞の編集はそれにもかかわらずこのコラムを掲載したことになる。

もう一言だけ付け加えると、一般社団法人擁護派の用語の理論の特徴として、当該一般社団法人は善行を積んでいるから攻撃をするなという論理が強調されていることである。「目的は手段を浄化する」というマキャベリズムがここでも繰り返されていることを指摘しておく。

朝日新聞コラムの一番の問題は、暇空氏を支持する側がアメリカのQアノンであり、彼らは民主主義派を攻撃しているという図式を作ろうとしていることである。会計の不適切処理や単純ミスとして不問に付すことができない請求自体は東京都監査委員会ですら認定しているのである。根拠のない陰謀論ではない。また、これほど会計がずさんでありながら、数千万円から億という税金が特定団体に支出されているということの理由、つまり通常の委託事業や補助事業と明らかに違う扱いがなされている理由を明らかにする必要はある。当該一般社団法人ではない誰かが関わっているならばそれを明らかにするということは民主主義の根幹の問題である。陰謀論とは全く違う。

確かに現在この問題を取り上げているのは、特定思想のないプロのユーチューバーの外は、保守的メディアが多いことは間違いない。しかし、これは保守系メディアが取り上げるというよりも、左派系メディアが取り上げないということの方が正確な表現であると感じる。もっとも非組織的で自由な左派系メディアというものがあるのかという問題がないわけではない。

冒頭の特定政党と関連付けての批判が行われてきたことや左派系メディアが取り上げないということを利用して、朝日新聞がコラムを掲載したように、今回の問題を左右対立構造の中の出来事に落とし込む動きがあることには注意しておく必要がある。私は毎日新聞と朝日新聞のコラムを読むことによって改めて理解したが、これが55年体制の茶番劇だったのであろうということである。

そこでのポイントは、人間は人間同士の紛争に巻き込まれたくないという素朴な感情を持っているということである。もちろん私のこの記事のように、理不尽な対立があれば参戦しようという意識をもつ者もいるが、それは多数派にはならない。55年体制という秩序は、紛争を激化させることによって、大多数の国民の政治参加を消極化してきたという役割があり、それはこのようにして作られてきたのだろうかという疑念が芽生え始めた。あわせてその際の左派系メディアの役割にも気づかされたような気がする。

まとめると
通常の補助事業や委託事業では、一円の単位までの会計処理の問題が自治体から指摘されて、すべての領収書の提出が求められるほど、会計原則には厳格である。それにもかかわらず、どうして本件一般社団法人ではそのような会計処理が求められずに公金が支出されたのかという問題が現に存在する。

そしてそのような都と一般社団法人の関係が明らかになると思われる都のメールが、暇空氏が開示請求した段階では黒塗りされて開示されることによって、その文書が存在していたことを示していたにもかかわらず、年が改まった段階では、1,2か月間の間で破棄したと都が言い出し、情報開示が拒否されたという問題もある。

今回の問題は左派勢力が長年にわたって追及していた地方自治体の会計に関する原則と情報開示という、行政行為の可視化、公平公正さの問題という民主主義の根幹に関する問題である。その情報開示や公金支出の在り方の実態解明を一般社団法人の善行を理由に妨害することを左派勢力が行うことは、自分たちの立場の否定に他ならない。

左派という言葉の定義の問題があるが、人権や平和、あるいは平等という憲法の大原則を行政効率や経済効率よりも優先させるという特徴があったのではないだろうか。それらの政治的姿勢よりも、組織の論理を優先させ主張をするのであれば、左派とは何なのか、左右対立という二項対立の図式の本質とは何なのか、我々は改めて考える必要がある。



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なぜ女性への攻撃だけを大手新聞が問題にするのか。そのデメリットと真意についての考察 毎日新聞の署名記事に対する違和感 SNSのルールに関する議論こそ必要ではないのか [弁護士会 民主主義 人権]

2023年1月16日 記者の署名記事が毎日新聞に掲載されました。
「SNSでジェンダー問題発信 声上げる女性へやまぬ攻撃 ゆがむ日本」
という表題です。
尾辻かな子氏や吉野家専務発言の告発者の例を挙げて、「ジェンダーに関して女性が声を上げる時、過剰なバッシングを受ける事例も相次いでいる。」とまとめています。

SNSやそのまとめを見ている人にはすぐに違和感に気が付く記事です。しかし、多くの中高年以上の国民はSNSを使っている人は必ずしも多くはないでしょう。だから毎日新聞が書いているのだから正確な情報だろうと勘違いすると思います。

この記事が正確な情報か否か簡単に検証してみましょう。
先ず、この記事が何に対して憤っているのかを考えてみます。なぜなら二通りの解釈が可能だからです。

先ず、「誰かがSNSの投稿をして、それに対して脅迫罪や名誉棄損罪になるような違法な攻撃をすること」に対して憤っていると読んでみましょう。この主張はもっともな主張です。そうであるとしても、どうして女性に攻撃するときだけを女性以外を自認している人に対する攻撃と区別して憤らなければならないのかがわかりません。記事にもその理由は書いてありません。犯罪に該当するような攻撃は男性に対しても女性に対してもいさめるべきだと私は思います。

次に「女性がジェンダーに関して発信する時には、過激な攻撃が多い」という主張を述べているという解釈も可能だと思います。しかし、そうであれば、女性がジェンダーに対して発言した時の、他の発信と比較しての、攻撃を受けた事例の量や質を何らかの形で紹介するべきだと思います。必ずしも統計的な根拠を示せというわけではありません。しかし、事例2点だけを紹介しておよそ女性がジェンダーに関して発言すると過剰なバッシングを受けると結論付けることは明らかに過剰な主張です。

もっともこの記事が新聞記事ではなく、SNSの投稿であれば、そういう考えのある人もいるだろうなということでわざわざ取り上げることもありません。社会の実態を正確に伝える使命がある新聞で、名前の通った毎日新聞の記事であるから問題にするべきだと思うのです。

実際に男性が発信するジェンダーに関係のない話にも炎上はありますし、男性が発信するジェンダーに対する意見にも炎上があります。ジェンダーにかかわりなく、男女の性別にかかわりなく、犯罪やそれに準ずるような人格を否定する攻撃は行うべきではありません。本来あるべき主張はこういう主張だと私は思います。

この記事の違和感はまだあります。

尾辻さんの発信に対して「殺す」という攻撃に問題があるということは誰しも賛同されるでしょうし、発信した人間の多くも自分の表現に問題があったと自認していると思います。しかし、このような極端な犯罪的な攻撃に対しだけ批判しているのではなく、尾辻さんの意見に異を唱えた書き込みに対しても、どうやら記事は非難しているようなのです。尾辻さんの批判された元投稿は、「駅に女性のイラストのポスターが多数掲示されたことに対して、公共の場にもかかわらず女性を性的に扱うものだ」というご自分の感覚を発信したものです。これに対してそうは思わない人が「そうは思わない」ということを発信したことは、批判されることではないはずです。特に尾辻さんは国政政党の肩書を出して発信されています。この発言形式は重いですし、批判の対象となることを特に覚悟しなければなりません。国政政党の幹部としての発言に対して、その発言に対する意見や感覚の違いを発信することや、政治的な意味合いで批判をすることは私は表現の自由の根幹であると認識しています。

どうもこの記者とは表現活動についての意見が異なるようです。

また、「女性の発信したジェンダーに関する記事一般にネットは過剰に反応する」という表現も、それこそが過剰な表現です。このような表題をつけてしまい、かつ犯罪に該当する行為や人格を否定するような攻撃と、そこまではいかない批判を一緒くたにして「止まぬ攻撃」だとすると、日本のSNSでは、他者を批判する場合は、およそ犯罪まがいの攻撃や人格攻撃を行うという具合に読めてしまします。もちろん記事はそこまでは断定的に述べてはいませんが、「攻撃」という言葉を受け止める読者としては、その人それぞれの「攻撃」という言葉の平均的な攻撃が行われているという印象を持つ傾向が人間にはあるからです。これがまさに差別の温床になっているわけです。

以前に私がネット言論を研究して分析した結果としては、炎上の初期の先行する批判の書き込みは真摯であり的を射た批判がほとんどで、その後に過激な、人格を貶める批判が続くという傾向があるということでした。但し、「殺す」などの書き込みは一部であると思います。SNS全体が殺伐としたものであるかのような印象をこの記事は植え付ける危険があると思います。

この記事の全体的な問題は論理学でいうところの「早まった結論」が多投されているということです。インターネット上は「主語が大きすぎる」という決まり文句で分かりやすく批判されているところです。

「ジェンダー発言」に対して攻撃が来るとか
「物言う女性」に対して攻撃がなされるとか
そもそも攻撃が許されない攻撃であるとか
歪んでいるのが「日本」であるとか

娯楽メディアの記事やSNSの投稿であれば等閑視される範囲のことかもしれませんが、毎日新聞の署名記事としてはいかがなものかと思われます。

このような論調を行うことのデメリットを指摘しておきます。

例えば、元発信者が感覚的な発言をして、その人間が国政政党の幹部の政治家である場合でも、「それはあなただけの感覚です。」とか「だから落選するのです。」程度の発言が許されないとするというのであれば、およそ杉田水脈議員の作成した記事に対して批判ができなくなってしまうのではないでしょうか。杉田議員に対する人格攻撃などもあったわけですが、毎日新聞は杉田議員と意見の違いがあるとはいえ、インターネットなどの過激な批判について何らかの批判をしたのでしょうか。もし杉田議員に対する批判については言及が無くて、尾辻氏に対する批判だけを論難したとしたら、その場その場で意見を変える恣意的な論調の新聞だということにはならないでしょうか。また、毎日新聞は杉田議員に対するネット上の過激な形式での批判の誘因になるようなことは一切しなかったというのでしょうか。つまり読み手の感情に訴える批判はしなかったというのでしょうか。

意見の内容にかかわらず、言論に対しては同じルールで評価しなければ、結局は権力側の都合の良いようなルールが設定されてしまう危険があると思っています。自分と同じ意見だけを守って相手全体を攻撃するのでは、結局ご自分の守りたい意見を守れないことになると私は思います。

ネット炎上の先行議論には、意見が違っても学ぶべき点が多くありました。炎上になるようなジェンダー発言には共通の特徴があり、多くの人を否定する表現が使われています。ここを持って主語が大きいと批判されるところです。批判されるべき人でない人も批判されますし、発信内容も身もふたもない表現が使われ、多くの人が不快に感じる内容になっていることが多く、先行する批判はそこを批判しているということが、私の追っていた炎上事例ではほとんどでした。つまり批判の対象はジェンダー思想ではなく、発信者の表現の品位の問題だったということが私の感想的な結論です。

炎上の元発信者は、まるで自分が何らかの被害を受けてトラウマが生じている被害者のように、防衛意識が過敏な状態のような発言表現をしていて、批判をするべき対象を的確に限定せずに、おおざっぱに世の男性や社会全般が自分を攻撃しているかのような自分の感覚を読み手に与えていることと、本来他者の自由にゆだねられている領域(例えばオタク趣味)に対して感情的な否定的介入をしているような表現の発信がなされ、誰にも迷惑をかけずに平穏に生活している人を攻撃する発信がなされているという共通項があるように感じられました。特に他者に対して迷惑をかけていない人に対して、自分が気に入らないということでキモイというような人格否定のような子どもじみた発信をすることには適切な批判がなされるべきだと感じています。

今回の毎日新聞の記事は、あまりにも大雑把で偏った論調であると思う次第です。その他のこの記事のデメリットは以下の通りです。

・ 害ある行為をしていない他者に対して、自分がその行為に対して寛容になれない場合に、その他者の人格を貶める感情論を発信することが守られるべきジェンダー思想に基づく発言ないしフェミニズム思想に基づく発言だということになってしまう。
・ 毎日新聞は女性に対する批判を「攻撃」として歪んだ行為だと考えており、当初に発信した発信表現を問題にしないで批判は許されないという態度を示している
・ 紛争の一方に対する大雑把な支援をすることによって、対立当事者の感情を高めて紛争をあおる形になっている。
・ なによりも、炎上の元になった最初の発信についての吟味をしないで批判者ばかりを批判するということでは、SNSの発信についてのルール作りの冷静な議論をすることができないということが深刻なデメリットになると思います。

記事の着眼点として、気軽に発信できるSNSでの発信によって思わぬ攻撃を受けることができるという点は大いに共感できます。この視点は大切です。しかし、批判する者が悪いという姿勢ではSNSの使用についての成熟ははかられないと思います。SNSは行為としては気軽に発信できるのですが、公開設定をしている場合は、見ず知らずの膨大な人数に対して発信することになります。それによって他者を傷つけることも大いにあるわけです。公開のSNSの場合は、発信行為が気軽にできるからと言って、発信を気軽にしても良いわけではないということに気が付くべきです。

他者の害のない行為に対して、自分の感情をさも多数意見や公的に正しいと結論付けられた命題であるかのように発信して、その相手の人格的批判をする場合は、それを受け入れる人間に限定して発信するべきです。わざわざ批判対象の相手に発信するべきではありません。攻撃を傍観する人は攻撃者だと非難する人がいます。例えば自分がキモイ等と非難を受けた人間ではなくても、そういう理不尽な攻撃を見過ごさないということは人間の自然な感情です。そういう正義感を持った人たちにも発信しているということを自覚して発信するべきだと思います。

またそのような理不尽な攻撃が見られた場合であっても、批判する側は整然と批判をするべきであり、正義感を露わにして相手を人格攻撃してしまうことの無いようにくれぐれも注意しなければならないということをルールにするべきです。

誰が発信者であっても同じです。女性であろうと男性であろうと、ジェンダー思想があろうとなかろうとルールは共通のもの一つが設定されるべきであると考えます。

確かにSNSの使い方や発信やそれに対する批判に対しては、成熟しているとはいいがたい状況にあるように思われます。だからこそ、特定の立場だけを擁護して、基準をいくつか作るのではなく、世論で基準を合意形成していくということが必要だと思います。特定の批判を問題視することは、現代日本では国によって制裁を背景とした法律のルールを定めるという議論になる傾向にあると思います。そうではなくて、多くのユーザーによって議論をして、自主的なルールを構築することが成熟した言論活動につながると考えています。


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Colabo問題から前向きに考えるべきこと 3 批判対象の相手の人格を否定しないことこそYouTube文化を守ること 挑発にならない有効な支援こそが必要であること [弁護士会 民主主義 人権]



私はたくさんのことをユーチューブから学んでいます。特に最近は楽器のこと、興味のある音楽のこと、美術その他とても重宝して勉強させていただいております。もし、時間を作って先生のもとに習いに行かなくてはならないなら、こんなにいろいろな楽器演奏の楽しみは得られなかったことでしょう。YouTube文化は、できるだけ発信者の意図通りに自由に運営していただきたいということが切実な願いです。

今回の若年女性等被害者支援事業についても、ツイッターをいちいち読むことが困難であるので、ユーチューブのまとめ動画は本当に便利でした。

ただ、逆にいろいろな心配も出てきました。

多少熱が入ることは仕方がないとしても、中には仁藤氏に対する批判が中傷、子どものいじめみたいになっているものがあることがとても心配です。他人を呼び捨てにすることも抵抗があるのですが、それを超えてののしりの連呼などはその前までは感心して聞いていても、結局ドン引きしてしまいます。

ここで批判派の人たちに改めて確認していただきたいことがあります。統計の先生の分析では、コラボに対する敵対発信が多くなったのが、11月29日の弁護団の記者会見がきっかけになっているとされていたことです。同じようにこれからこの問題を知ろうという人たちが、一部のコラボ批判者の無駄に過激な動画やツイッターを見たならば、弁護団の記者会見を見た私たちの反応のように、良くてかかわりを持たないようにしようとする、逆にコラボ擁護派になるという効果が出てきてしまうだろうということです。

どうやら動画の再生回数を伸ばしているチャンネルは、このことをよく心得ていて、最低限度の線を守って発信しているようです。一般視聴者としては、批判的な言動を見聞きしたいという要求の中にも、できる限り安心しながら情報を受けたいという要求がどうやらありそうです。

さらに、過激な表現によって、困ったことになることを警戒するべきだと思います。

第1に、仁藤さんに対しては、私はいまだに彼女に悪意はないのではないかと信じたい部分が強くあります。これがどういうことかというのが前回の記事です。たとえ悪意があったからとしても、インターネットでの非難は数が多くなり、それを読む批判対象者本人は、世界中が自分を攻撃しているというような感覚を持ちやすくなります。批判にあたっては最低限の線をきちんと引いて批判するべきことを整然と批判すればよいのだろうと思います。

第2に、いずれ出されるだろうコラボの言い分は「担当の都の職員の了承の下で行ったから不当ではない」という主張です。そうだとすると、今度は都の職員に対する攻撃がおこなわれ、特定の職員の個人的問題にすり替えてしまう「誰か」の陰謀もあるかもしれません。インターネットによる犠牲者を出さないことを考えて行動をしていく必要があります。インターネットによる犠牲者を出すことによって得をするのは、「何か」であり、「誰か」です。

第3に、これらの最低限のルールを実践することは「YouTubeに対する規制の口実」を作らせないということにも大きな意味があります。
ここで誰かがYouTubeのなんらかの犠牲となると潮目が変わってしまいます。恣意的な基準を外部から作って、曖昧な判断の元で特定の誰かにとって不利益になる表現活動が排除されることが心配です。ユーチューブ文化が生き残るために、ユーチューバーという職業が永続するためにも、発信者側でも友情をもって相互努力をする方が良いと思われます。

最後にこの批判をあおっている人たちについて一言苦言を述べたいと思います。
それは現状の自称「コラボ支援者」の一部の人たちです。

確かに、コラボ批判者の一部に、仁藤氏に対する無意味で過激というか、子どものいじめみたいな批判があることも確かです。しかし、暇空さんにカンパをする人々や、動画再生数を上げているユーチューバーは、大部分が合理性のある批判の視点で活動をしているように感じられます。

それにもかかわらず、擁護派は、「コラボの被害女性支援は正しい、必要がある。だから、批判は女性に対する攻撃だ。」という論理?がほとんどなのではないでしょうか。これはまずい。「目的は手段を浄化する。」というマキャベリズムは、かつて暴力革命を正当化する理論だということで、保守派が左翼はこのように考えているという攻撃をした論法でした。現在コラボを否定している人で支持を集めている人たちは、押しなべて(多少枕詞のように)被害女性支援は否定しないことを先ず表明しています。あくまでも数千万円から一億を超えるような資金を回しているのに、不適切な会計処理をしているということを問題にしているわけです。

この点を無視しての先ほどの論法ですから、「被害女性支援をしている人は会計処理を不適切にしてもかまわない」という主張として、受け手は受け止めざるを得ないのです。金額からすれば些細な処理ミスということはできません。

肝心な会計処理について何も擁護していないのですから、擁護になっていないともいえるでしょう。支援をしている外形をとっていながら、何ら本人のためになることをしていないということです。本人を紛争対立のるつぼに押しとどめていると客観的には見えてしまいます。

男女共同参画事業で、出てくるキーワードが「あなたは悪くない」です。まず最初に被害者認定をして、無責任に全面肯定をして、夫だったり、家族だったりを加害者認定をします。そして、家族から本人を分離させることが一つのスキームです。配偶者暴力相談が典型です。今回も仁藤さんに「あなたは悪くない。あなたは被害者だ。」というパターンの支援をしているのでしょう。しかし、それは仁藤さんに何らのエンパワーメントもしていないように思えてならないのです。被害者とされる人が本当に建設的に歩んでいくためにどうしたらよいかという肝心なことを考えず、事案の個別性を無視してマニュアルに沿った処理をしているわけです。

同じメンバーの方々が起こした事件が、草津町長のレイプでっち上げ事件でした。この時も虚偽のレイプ被害を書籍化してしまった女性町議を、「支援」ということで応援して、大騒ぎをして、女性町議を引くに引けない事態に追い込みました。現在女性元町議を支援する会は休止を宣言したそうです。

元町議の女性の話を吟味も何もしないで、本人談で被害者であるから加害者を攻撃するという形の支援がなされました。書籍では町長室でレイプされたと記載しているのに、刑事告訴では強制わいせつだと話が変わりました。共産党(男性)を含む町議会議員は、この元女性町議を除名処分としました。ところが県が除名取消という裁決をしてしまい(理由付けが曖昧だった)、町議は議員の資格を維持してしまいました。そこで町民がこの元町議をリコールして解職が圧倒的賛成で成立しました。そうしたら支援の人たちが草津町全体を「セカンドレイプの町」と宣伝する活動を行ってしまったのです。寄ってたかって女性を攻撃する街だということが理由だそうです。しかし、レイプ犯だと虚偽の出来事を書籍化するということはどれほど非道なことでしょうか。本人や町長を支持している人たち、何よりも町長の家族に対して深刻な精神的打撃を与えることです。その内容も極めて破廉恥です。結局告訴の段階でレイプは無かったということを元町議は認めた形になって、主張が二転三転したことを理由に、町民の方々はリコールに賛成したように伺いました。リコールする住民の気持ちは察するに余りあります。また、そのような町民の民意に対して「セカンドレイプ」の町という発信を公にすることは民意を馬鹿にしていることではないでしょうか。そもそもファーストレイプが無かったのですからセカンドレイプなんてありえません。
結局元町議は支援の結果引くに引けなくなりました。しかし、あらゆる法的救済は否定されました。町長は当然ながら不起訴となり、元女性町議だけが起訴されるという結果になりました。この段になって支援者は支援を休止したとのことでした。こういう支援者の人たちは、なぜか権力には弱く、解決のために権力に依存する傾向も顕著です。でも、非道な宣伝を行った支援者たちは誰も謝りません。町長に対しても、町民に対しても、無責任に躍らせた元女性町議に対してもです。むしろ自分が被害者であるかのような言辞をする人たちがいてあまりにも無責任だと思いました。

被害の真実性を吟味しないで、発言に寄りかかり、相手を加害者と認定して攻撃する。男女参画の論法が、コラボ問題でも引き続き行われているわけです。その効果は仁藤さんを擁護することにはつながらず、紛争を激化して仁藤さんを紛争の現場に押しとどめているだけだと私には感じられます。

攻撃される方が悪いか攻撃する方が悪いかという二者択一的な考えはさっさとやめるべきです。仁藤さんをこれ以上紛争の渦中に陥れないことを第一に考えるべきではないでしょうか。それこそが若年女性被害者の救済に直結することだと私は思います。

コラボ側の人たちにお願いしたいのは、結果として批判者を挑発することをやめていただきたいということです。今回の出来事は、図らずしも、批判を受ける人は受けるなりの理由があるということを世に知らしめる結果になったと思います。

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Colabo問題から前向きに考えるべきこと 2 不適切会計処理が認定されても悪びれない理由を善意で解釈することによって男女参画委託事業の問題が浮き彫りになってくること、 [弁護士会 民主主義 人権]


今回のコラボ問題で驚いたことは委託事業であるにもかかわらず、都が会計チェックをきちんと行わないで膨大な委託費を支出していたことです。私が関与していた委託支援事業や補助金事業では、きちんと会計処理をしていますし、活動実績をする場合でも実際に行ったという裏付けになる報告書を作成しています。あまりにもリアリティのない報告書はダメ出しが出るようです。もちろん領収書も一つ一つきちんと添付しています。これらの手続きがあまりにも面倒くさいので、補助金を受けるのをやめた団体もありました。

代表の仁藤さんも、2018年のツイッターで、支援事業になる前はこれまで通り活動できると聞いていたのに、いざ委託支援事業になってみたらあれやこれや会計処理を厳密に行わなくてはならず大変だというつぶやきをしていました、この気持ちはよくわかるのです。

ここからわかることは東京都も2018年ころまでは常識的な、他と変わらない通常通りの委託事業の手続きを要求していたことです。そして今回の監査結果からわかることは、その後この原則論が骨抜きになって運用されていたことが示されました。

上の仁藤さんのツイッターを理由に当時の当時の都議会議員などが仁藤氏の要望の趣旨に沿った働きかけを都に行っていたと、現参議院議員の方がユーチューブで説明していました。このユーチューブでの説明では、会計チェックに手心を加えるようにその議員が都の担当職員に働きかけたと解釈しかないように感じます。そうだとすれば、それは都の地方行政、地方財政を脆弱させる行為であり都議会議員としてはあるまじき行為をしたという評価になるでしょう。それでもこの現在は参議院議員の方はそのような深刻な自己反省をしているわけではなさそうなので、そういう働きかけではなかったのかもしれませんが、そうだとすれば正確にどのような働きかけをしたのか説明するべきではないかと思われるところです。

また、この方のユーチューブでは、2018年にコラボに協力していた時には、コラボは一党一派に偏った団体ではないから協力したということをおっしゃっていました。ところが、2022年の参議院選挙では、代表の仁藤さんが公然と共産党候補者等の投票を呼び掛けていたことを理由に、当時は知らなかったから協力したことは仕方が無かったことだというような説明をされていました。今回のネット上のコラボの話題は暇空茜という人物の努力の結果であることは間違いありませんが、しかし事実上「誰か」のガードが下がってストレートが連打されているような印象も持ちます。もしそうであるとすれば背景として同じような政治的な事情があるのかもしれません。

ただ、一都議会議員が働きかけたからと言って会計の大原則を骨抜きにするような行為を東京都が行うとは考えらえません。この現在参議院議員の方は、自分だけでなく他の都議も同様の働きかけをしたと言っていましたが、多数で押し寄せたとしても東京都職員はこのような無理難題から行政を守るのが仕事ですから担当者レベルで大原則をやめたとは考えられません。自分の責任問題につながります。誰しもトカゲのしっぽにはなりたくないわけです。

そうだとすると、東京都のトップなり、国とのパイプを持っているなりした「誰か」がいて、都議会議員の人たちの圧力を利用して、会計原則を骨抜きにするように都の幹部に指示を出し、都の職員もその指示には従わざるを得なかったということが真相だと考えるのが自然な話だと思うのです。ずさんなチェックは政治問題として実現してしまったわけです。この「誰か」は、現在強いつながりを指摘されている団体ではないと思うのです。都の行為の大原則を骨抜きにすることができる立場の「誰か」であるはずです。(暇空さんの指摘される「なにか」にそれほど強い力はあるように思われません。「なにか」と都の両方を動かすことができる「誰か」がいたというのは陰謀論でしょうか。)

都が自ら会計原則を曖昧にしたことをうかがわせるもう一つの補助線があります。
それが今回の住民監査請求についての一連のコラボ側の反応です。不適正会計処理を指摘されたり、本来委託費で賄ってはならない費用を委託費で請求している形になっているという重大な指摘を受けても、全く悪びれる様子もないことです。

この感情については、なんとなくわかる気がします。強がって主張しているわけではなく、主観的には自然な感情なのだと思います。つまり、「自分たちは、当初の約束通り自由に自分が思うように活動してきただけだ。その後(つぶやきによる会計原則の骨抜き後)も都の担当職員との打ち合わせ通り、指導を受けたとおりに会計処理を行ってきた。自分たちは隠し事をしないで都のお墨付きの活動をやってきた。」ということなのでしょう。それなのにどうして否定評価を受けなければならないか理解できないということならば、その気持ちは理解はできます。

私はおそらくこういう流れがあったのだと思います。多くのまじめなコラボ「会計」批判者も同じ論調だと思いますが、仁藤さんが初めから都の会計チェックをずさんなものにして不当な利益を得ようとしていたとは思っていません。東京都に監査請求をして数年ぶりに請求が通った暇空茜さんも現在ではコラボ叩きという意識はほとんどなくなっていると思います。もっと大きなものを見ているのだと感じられます。

仁藤さんのツイッターの愚痴を現実化して地方財政の大きな例外を作ることにした力は「誰」なのかということこそ目を向けるべきです。と言ってもそれが何なのかについては皆目見当が付きません。

ただ「誰か」の人たちの行為の目的の合理性というか正当性というかについては想像することができると思います。つまり女性の地位の問題について、国が何か政策をしなくてはならないのだけれど、何をしてよいのかわからない。それでも事業をしなくてはならない場合どうするか。有識者会議を立ち上げて、それらしい知識や経験のある人を集め、意見を聞いて、政策の正当性をアッピールして、その内容で実施するというパターンです。ただこういうパターンでも、有識者会議のメンバーには立場が異なる人がたくさん入り透明性が確保されます。また、有識者会議の参加者にそのまま委託を行うのではなく、公募を行い、入札によって業者が決まり、業者を通じて委託事業が行われます。この委託事業に有識者が協力することは通常のことです。

ところが、現状の国、国からの予算が付く地方自治体の一部の事業ではこの透明性や一般事務の専門性の仕組みが無く、審議会で政策を作って、予算規模について意見を述べて、そのメンバーのうちのどこかが高額で委託事業を受注するということがあります。

こういう場合、政治家は自分の頭で政策を考えないで、委託をした団体に丸投げをします。それも、与野党全会一致で法律まで作って事業を進めるのです。各事業の方法論はいくつもあるはずなのに、その団体の方法論だけに莫大な予算が付くという感じです。このことについては、以前にこのブログで話しているところです。「全会一致は疑えというパラドクス」は国会でも当てはまるようです。そしてどうやら、こういう全会一致の場合の野党は、全体の会議でその行動を運用するのではなく、一部の有力な幹部が性急に独断で全会一致に参加するように決定してしまうという裏もありそうです。そして、実際運用が始まれば、専門的な委託先団体が政策のイニシアチブをとり、国の役人の担当者は専門的な知識を持たないように新たな担当者が配置転換で頻繁に交代するような場合もあるようです。そうすると、完全に丸投げになり、必要な会計チェックも行われにくくなるのではないでしょうか。有識者会議に参加した団体が国や地方自治体から直接事業委託を受ける形式の事業は総点検する必要がありそうです。

コラボは、若年被害女性等支援事業で突出して実績があるため事業の目玉のような存在だったのでしょう。もしこのコラボが、「会計処理が面倒くさいから委託を受けない」と駄々をこねるいうことになると、事業そのものが無くなってしまうと「誰か」が感じたのだと思います。その「誰か」が「なにか」を通してコラボに委託事業から撤退させないように働きかけ、都にも会計チェックを現状程度に骨抜きにするように強い働きかけをしたのだと思います。コラボとしても、これこれこういう形でよいから委託を続けてくれと実際に東京都から言われて、OKが出されたと思ってその通りにしていたとすると矛盾が無いように思います。その一端を示したメールが情報開示で出なかったメールなのかもしれません。すべて都にオープンにやっているから違法も不当もないはずだという論理は実によく理解ができます。おそらくその「誰か」のお墨付きがあったために、絶対に問題が無いと思ったのは自然な流れだと思います。

このように正義感に燃えて、自信をもって事業を行っているとき、特にパイオニア的な事業を行っているときは、一般常識というものに目が向かなくなる傾向があるようです。
今回の監査結結果からも、コラボに公金を使っているという意識が希薄であることは十分伝わってきます。委託事業だけではない法人の会計などについての費用を委託事業の費目に挙げているのは、単なる事務処理上のミスではありえず、考え方の問題です。高額な食費、旅費を会計処理上公金で賄ったことにしたことは、もちろんそれなりの言い分があるわけですが、これが公になったならば反発を受けることは当然予想しておくべきだったと思います。

なぜ、こんな当たり前のことができずに、世間知らずの状態が放置されたのかということが問題です。この辺りは、仁藤さんを支える人の中に良識のある人がいてその人が仁藤さんにきちんと説明できなかったということを意味するのだと思います。そういう人間関係であったことが図らずしも、現在の状況から推測できるわけです。数千万円から億を超える収入を回す団体に、会計の専門事務職がいないということは致命的な問題ですが、誰も指摘しなかったのでしょう。

また、こういう会計の専門技術がない人たちの根拠となるのは、最大はお金を出す地方公共団体のお墨付きですが、もう一つのありがちな相手の影響があります。それは先輩組織の会計指導です。適切な会計処理を指導するのではなく、とれるものは多くとりなさいという指導がなされて、自分の不適切会計を教えてくる組織を目にしたことがあります。おそらく、ここで「なにか」が大いに影響を与えていたことは十分想定できるところです。

それにしても、「なにか」にも都にも影響力のある「誰か」が本当に誰で、どのような目的でコラボの離脱を恐れるほど被害女性等支援事業の実施に固執したのでしょうか。私は一つは外圧なのではないかとにらんでいます。日本の女性の立場の劣位に対するどこかからの批判があり、その批判をかわすために女性の地位向上の事業に莫大な予算を割いているという体裁を取り、予算を支出する実績というアリバイを作りたかった「誰か」がいるのではないかということです。

国は、男女賃金格差については手を付けなくなり、雇用機会均等政策もおざなりの状態です。そちらで動かない分、他の男女参画政策で予算を使わなければならなかったということなのではないかとにらんでいます。

以上のように考えると、仁藤さんも利用されていたのではないかという思いが私には残ってしまうのです。

男女参画事業の一つとして若年女性等被害者支援事業が行われているのだと思いますが、男女参画事業の目玉は配偶者暴力救済(DV救済)にあります。

最後にDV政策と本件の政策の共通項だけ指摘しておきます。
同じように女性だけを被害者として固定して、つまり男性を加害者として固定することを前提として政策が運用されている。
一方の話だけで被害者として他方を加害者として家族分離が行われる。
どのような支援、救済方法なのか、きちんと国民に知らされておらず、政策の被害者の声が圧殺されている。

特によくわからないのは、東京などの繁華街にたむろしていて、救済が必要な人は何も虐待の「被害者」に限らないし、女性に限らないはずなのです。

どうして被害を受けた人限定なのか、ここがよくわかりません。

DVの場合も、DVを受けないと支援をしてもらえない、だから些細なことでもDVに仕立ててしまうという問題点が生まれるように思っています。この辺りはまた別にお話ししようと思います。


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Colabo問題から前向きに考えるべきこと 1 東京都若年被害女性等支援事業の監査結果の読み方と今後の訴訟の行方 [弁護士会 民主主義 人権]



 1月4日に暇空茜氏の監査請求について、東京都監査委員会は監査結果を発表しました。東京都に対して是正措置が命じられるという衝撃的な内容でした。住民監査とは、地方自治法242条に定められている制度です。簡単に言うと、公金の使用に関して地方自治体に違法、不当があるかどうかを調査、判断し、違法、不当がある場合には是正命令が出されるという制度です。

 この監査請求はハードルが高く、めったなことでは請求が認められることはありません。実際に東京都では舛添知事の時代以降6年間にわたり監査請求が認められることがありませんでした。請求自体は毎年数件あったようです。

 ハードルが高い理由は、監査請求という制度の設計にあります。自治体が行政の支出について違法不正がないことを証明するのではなく、住民である請求人が、公金の使い方に「違法」、「不当」があることを示さなければならないことが第一のハードルです。何しろ、一般住民である請求人は公務の外にいますから違法や不当の証拠を持っていません。これという証拠がなく監査請求をした場合は、監査委員会は、「違法、不当の証拠がなく、請求は妥当ではない」と言って請求を拒否します。だからなかなか監査請求は通りません。地方自治体の財政に関する行為ですから、そもそもあからさまな違法不当な行為は行われません。もしあからさまな違法不当な行政行為があれば、監査請求がなされる前に自浄作用で正常に修正されていることが通常の事態でしょう。

しかし、ハードルを高くする必要性もあります。不当な監査請求が乱発されてしまえば、都の財政支出がストップしてしまい、地方行政がうまくいかなくなるからです。行政効率と合法妥当な行政行為という対立しかねない要請をうまく調整する必要もあるわけです。
 
今回の監査委員会は、東京都から独立した組織なのですが、メンバーを見ると、与党の都議会議員2名も入っています。都のトップである知事と同じ意見の人が、都の行政行為の監査を行うメンバーだということも少し心配がないわけではありませんね。

 こういう高いハードルがあるのですから、監査請求が通るということはめったにないことです。暇空さんの丹念な情報開示請求からの手続きの流れは、まさに法の趣旨に則った正当な監査請求であったことを強く物語っているというべきです。

 暇空さんの監査の理由が一部認められなかったのですが、暇空氏の主張が存在しないものだと監査委員が判断したという論理は成り立ちません。存在しなかったという判断をしたのではなく、要するに資料が不足して証明できなかったということにすぎません。監査委員会は、決め手となる証拠を新たに調査することなく、暇空さんの監査事項のいくつかは「相手の回答(表3)からすれば問題があるとはいえない」ということで、違法、不当とは認められないとしたにすぎません。

しかし、監査委員会の監査結果によると、その記載事項の裏付けについては会計原則に基づいた調査がなされていない(領収書が無いことが多いという指摘あり)というのですから、会計上は限りなく疑わしいということになってしまうと思います。だから監査委員会が監査請求のいくつかに妥当性が無いと判断しても、例えば裁判の判決のようにそのような事実が無かったということを認定したわけではないということは理解する必要があります。

一般の方は、監査と言うことなので、日々の会計書類や領収書などの裏付け書類を調査したうえで理由がないと監査委員会は判断したと思われることでしょう。しかし、今回の監査委員会の監査結果はその裏付け書類が無い不適切な会計書類をしていたというのだから、裏付け調査ができなかったということですから、単に相手の回答書が真実だとしたら請求根拠がないと言ったと読まざるを得ません。

回答書を見ただけでも不当な支出があるという結果が示されたことは大変深刻なことです。領収書を残さないという不適切な会計処理は、極めて深刻な指摘しています。

 但し、こういう住民監査制度の立て付けを理解した上でも、今回の監査結果は、割り切れない文章が続いています。別々の人がそれぞれの個所を起案したような違和感があります。端的に言えば領収書がない等の不適切な会計処理であるにもかかわらず不当な公金支出としない理由があるのかという疑問が生まれるわけです。

 これもいくつか理由が考えられます。
第1に、請求者(暇空さん)が「コラボの不正会計を監査しろと」言う体裁の請求をしたと読める節があることです。そもそも監査請求は「都の行政行為」に違法、不当があるので是正しろというものです。主語は「東京都が」にしなくてはならないわけです。これが今回の請求ではコラボが不当な会計処理をしているから監査しろというように読めてしまうために、「コラボの会計報告に対して東京都が支出したのであり、その会計報告に書類上問題が見当たらないために、東京都の行為には違法、不当が無い」という監査結果の論理にすることができた要因かもしれません。

第2に、それを監査委員会が積極的に利用したのではないかという疑念があります。もちろん監査委員会は、請求人の請求書の内容を通りやすいように修正してあげる義務はないでしょうから、それが問題とは言えないかもしれません。しかし、住民監査請求は、一般住民が行う請求です。住民監査請求が制度化された地方自治法の趣旨に照らせば、その趣旨に照らして必要な監査を行った上で、適切な会計処理をしない団体に多額の公金を支出した東京都の妥当性を監査するべきだったのではないかとも考えられます。個人的な主観、感想ということになりますが、あえてこれをしなかったことは、監査委員会が世の中の非難対象を東京都からコラボにすり替えているような印象を持ってしまいました。

 私の勘違いでなければ、本来東京都が監査されるべき内容は、「領収書などの裏付けのない会計報告に対して、予算通りの支出をすることに不当性は無いのか」という問題だと思うのです。特に支出金額が多額であることに比較してあまりにもチェック体制がずさんではないかということが論点であるような気がするのです。

 暇空茜さんは、監査請求に対して行政訴訟を行うということです。既に弁護士も確保しているということのようなので、委託支援事業の支出原則に照らした東京都の支出行為の問題に裁判所の判断が入ることになるのだと思われます。監査委員会はこうなることを避けるために、是正措置を命じた監査請求結果としたはずです。最初の原則論的な説明部分(違法不当が証明できていないとする部分)があったために、訴訟になってしまったという印象を持ってしまいました。

次の問題は(ブログ上は前の記事になりますが)、ではどうして委託支援事業に対してずさんな支出が行われ続けたのかという問題を考えてみます。

余計なことを言うと、今回も、請求者立証の原則をフルに生かして、請求棄却の結論にしようという動きがあったのではないかという懸念があります。監査結果の文章は途中までこういう流れのように感じます。しかし、これを問題なしとするのは会計原則上問題が大きくなります。特に弁明自体が不当会計であるとされたという、いわば民事法上の「自白」をしているにもかかわらず、請求棄却はあり得ません。会計の専門家、法律の専門家としては、それは自分自身のプロフェッショナルを否定することになり、できないでしょう。部分的に弁明自体が失当ということであれば、監査請求を通さざるを得ません。監査請求を通すならば、不適切な会計処理にも言及せざるを得ません。注目されることは、東京都が2月28日までに、会計資料を整理して裏付けを調査、発表し、必要な公金返還手続きをするということです。ここがどこまできちんとなされるかが焦点です。コラボ自身の弁明自体が不当と認められた点に限定して調査が行われる危険があります。注目するべきポイントはここだと思われます。


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私の担当事案に現れた男女参画事業の配偶者暴力相談(DV相談)が統一教会時代の信者獲得の技法に酷似していることと家族破壊という共通の問題点 [弁護士会 民主主義 人権]

1 この記事を書く目的について

前回のブログ記事を書いたのは、統一教会の当時の洗脳の具体的な方法をテレビで観たことがきっかけですが、その時、「ああこれは全く一緒だ」という感覚になってしまったのです。どのように一緒なのかを考えた結果が昨日の記事です。これだけでかなりの分量になってしまったので、分割することにしました。

今回のテーマは、突然妻が子どもを連れて出て行って、連絡が取れなくなったという場合に、そのきっかけとなった行政や警察、そしてNPOや一般社団法人の相談対応のことです。

とはいっても、すべての相談がどのように行われているかについては情報がありません。配偶者暴力の相談をした女性を「被害者」、その夫などの相手方を「加害者」と、女性の言動だけから決めつけるような用語を用いるという共通項はあるのですが、おそらくそれぞれの機関において行われている手法は一つではないと思われます。

実際私も、女性支援のNPO法人の担当の方と協力して、DVを受けていた女性の保護と心身の立ち直りを長期間支援をしたことがあります。担当の方はまじめで献身的で良識的な方でした。実際に女性の元に足を運んで、必要な支援資源を確保して立ち直りを支えられました。間違いなく尊敬できる方です。

おしなべて配偶者暴力相談を担当する方は、私の知る限りまじめで責任感のある方々です。使命感を持って女性を保護しようという意欲にあふれた方々です。

このように事前に長ったらしい言い訳をしているのは、純粋に使命感を持って相談を担当されている方がこの記事を読んで不快になり傷ついたりしたりすることが本意ではないからです。ご理解いただくことは難しいことかもしれませんが、このような考え方もあるかもしれないと思っていただければ、望外の喜びです。

2 私の情報ソース

私が、交渉、調停、訴訟を担当した事件、あるいは相談を受けた事件が私の情報ソースです。具体的に以下のものです。

・ 公文書 妻側が情報開示をして調停や裁判に証拠提出した文書。自発的に家を出たのではなく、警察などから説得されたから子どもを連れて出て行ったのだという立証趣旨で妻側から出されることがある。
・ シェルター等に行った妻本人の話 私は家族の再生と両親のもとで子どもが成長していく環境を作るということに主眼を置いていますので、妻側と対立するということはあまりありません。むしろ妻側の話を直接聞き、理解を示し、双方にとってプラスになることを一緒に考えることで解決に結びつくということを置く経験しています。その中で妻から話を聞くことも案外多いです。
・ 裁判や調停での妻の主張 裏付けの乏しい主張であることがほとんどですが、夫の悪性を証明しようとして、相談機関でこのようなことを言われたということが準備書面に記載されていたり、調停委員を通じて聞かされることが少なくありません。
・ 夫の話、同居を再開する等関係修復が図られたり、会話が可能になって妻から聞いたという話
・ 関与した警察の方との直接の対話
等です。

3 配偶者暴力相談と面会交流調停の関係

配偶者暴力相談センターという相談機関があります。都道府県や市、区などが設置している機関です。おおもとは内閣府男女参画局という国の機関です。男女雇用機会均等政策が後退してからは、男女参画政策の目玉の政策になっています。ただ、実際に相談を担当する人は、公務員とは限らず、委託を受けた民間人が担当することもあるようです。男女参画政策の委託事業ということですね。
国のリンクを貼っておきます。正確にはこちらをご参照ください。
配偶者暴力相談支援センター | 内閣府男女共同参画局 (gender.go.jp) https://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/soudankikan/01.html

住所秘匿などの支援措置が取られる場合は、警察に相談に行くことが多いのですが、警察官は地方公務員です。その他の相談も公務員が相談を担当する場合でも委託事業の場合でも税金によって運営されています。

まずこれらの配偶者暴力相談と面会交流調停申し立ての関係をグラフで見ていただきます。圧倒的に配偶者暴力相談の件数が多く、面会交流調停申立件数は令和元年度まではそれに比べればグラフにすると線が出てきません。このため、面会交流調停の件数に50をかけてグラフにしました。
面会交流調停.png

配偶者暴力疎運の件数は年毎(1月1日から12月31日)に出されているようなのですが、面会交流調停申し立て件数は年度(4月1日から3月31日)で行われているので、3か月くらいずれた数字かもしれません。
もちろん関数でも統計上有意な関連性が認められていますが、このようにグラフにしてみると極めて酷似しており、配偶者暴力相談が増えれば増えるほど、子どもとの面会を求めて他方の親が家庭裁判所に申し立てを行うという関連性が優にうかがわれると思います。

4 担当事例に現れた配偶者相談事例の問題点

問題は大きく言えば3点です。
1)暴力が行われていない場合でも、夫がDVをしていて、このまま続くと殺されたり、重大な傷害を負ったりする危険があると、何の根拠も科学的知見もなく断定すること
2)暴力など夫婦の不具合の解決方法が、逃亡等を手段とする離婚しかないことです。

相談から別居、離婚に至る過程が、まさに西田先生の解説(前回の記事)に当てはまるようだということを紹介したいと思います。これが当てはまるとすると、妻が子どもを連れて逃亡する中の一定割合には、洗脳を受けて献金する場合のように、自分の任意の意思ではなく行動している人たちがいる可能性があるということです。
3)自由意思によらない離婚が申し立てられている可能性を否定しきれないということが第3の問題点となるでしょう。

西田先生のおっしゃる洗脳のパターンをおさらいし、この順に添って説明していきます。
信頼 → 社会的遮断 → 恐怖を与える → 権威の構築 → 自己価値の放棄
でした。

<信頼>
先ず、行政の公的相談機関や警察ですから、もちろん一般市民から信頼されている存在です。そして、妻の理由もなく生じる不安や焦燥感について、全く否定されません。「あなたは悪くない。それは夫のDVです。」と言われますから、これ自体に快さを感じるようです。妻を意識的に肯定できない夫は、なんでも肯定される期間に到底太刀打ちできなくなるわけです。

<社会的遮断>
別居を促して女性シェルターに入居させるなどということはわかりやすい社会的遮断だと思います。女性シェルターでは携帯電話も取り上げられることがあるそうです。「どうしても女性は夫に連絡を取ろうとして、連絡してしまい、会ってしまって、また元のDV現場に戻ってしまうから」ということを聞きました。ただ、スマホを預けないケースも最近はあるみたいです。ただその事例もシェルターを出てから連絡をよこした可能性もあり、実態についてよくわからないところはあります。

家を出てシェルターに入った場合、特に身寄りが夫しかいない専業主婦の方は、シェルターから追い出されてしまえば路頭に迷うことになります。夫に足取りが知られるということで仕事を辞めた人も同じでしょう。頼るのは支援者だけという状態が作り出されてしまうという事例がありました。こうなると、どうしてもシェルターに対する依存度が上がり、シェルターなどの支援機関の権威が強く大きなものになっていくようです。

シェルターに入る前から分断は始まっています。公文書で出てきた警察の実際の相談報告書では、家に帰ろうとする妻を引き留めて別居を誓うまで説得を続けたということが記載されていました。これも物理的な社会的遮断の一つになると思います。

さらに、別居後に子どもを学校に入れるなど住民票を新しい住所に移転する場合があるのですが、その際も支援措置を申立てて住所を秘匿にするように指示されるようです。「そこまでしなくても大丈夫」と妻が言っても、「念のためにお願いします。」と言って、半ば強制的に支援措置を講じさせられたという報告があります。

<恐怖を与える>

夫によって殺される。夫はあなたを支配しようとしている等の説得は、夫に対する恐怖や嫌悪感を持つだけでなく、心理的に社会から孤立させられたような感覚を持つ場合があるようです。
深刻な問題だと思う事例が多くあります。全く暴力と言える事案の無い場合、妻に対して大声を出したこともないような夫の場合でも、「それはDVだ。このまま放置していると夫の加害はエスカレートしていくものだ。やがてあなたと子どもは殺される危険がある。」と言われたということです。この他にも同様のアドバイスがあることがほとんどです(私が担当した事例)。社会常識では、つまり国全体の秩序に照らせば、暴力という否定されるべき行為が実際にあったとしても、少なくとも命を奪うような行為に発展するとは思えない行為であったとしても、私が知りえた事例群からは、常に「このままでは命の危険がある」と説得されています。

これはつまり、相談機関の抱いている男性観というのは
・ 男性は妻に暴力を振るう。そしてその暴力はエスカレートしていく。
・ 暴力のない精神的DVでも殺人の危険性に発展する
・ DVは治らない。
というものです。
非科学的なジェンダーバイアスがいかに恐ろしいか思い知らされます。これが税金を使って行われている相談です。この理論で行くと、日本は夫による妻殺しや重大傷害事件が多発しているはずですが、そんなことはありません。殺人事件に至っては、夫婦間では夫が妻を殺害する場合と妻が夫を殺害する件数は拮抗しています。これも男女参画局のホームページにデータがあります。拮抗というかどうかのご判断はお任せいたします。

女性は必ずしも最初からそれを信じている場合だけではないようです。公文書の事例の説得を受けていた女性はそれでもなんだかんだ理屈をつけて、相談を打ち切って夫の元に帰ろうとするのですが、説得に負けて別居することにしました。ボーナスと給与を全部引き下ろし、カードの限度額いっぱいにキャッシングをして子どもを連れて出て行きました。

説得された妻も、最初は行政の説得する秩序と、夫との生活という秩序のどちらの秩序に従おうか迷っているような状態ですが、自分を否定しない心地よい方へ流れてしまったような感じでした。

ちなみに公文書の事例は妻が明らかに病的な事例でした。主張を聞いて少し考えると支離滅裂であることが分かった事案でした。実際に精神科をはしごして統合失調症の薬の重複処方を受けていました。それでも、警察は女性の言を真に受けて男性を児童虐待の疑いで、偶然かすり傷を子どもに負わせたということで、男性を逮捕し、勾留しました。真実性の検討は何もしていないに等しいです。あまりにもひどい事案だったので、警察は女性支援の件数を上げることが目標なのかと疑ってしまったほどです。当然に夫は不起訴となり、妻の申し立ては保護命令申立ては却下になり、離婚だけが成立しました。子どもはいまだに父親に会えていません。

<権威の構築と自己の放棄>

特にシェルターに入ると、先ずシェルターで保護命令申立書が用意されており、これはアンケートに答える感覚で書き込めますので、保護命令を申し立てさせられます。申立は多発していましたが、平成26年をピークに減少し、保護命令を認める決定もやはり右肩下がりに減少しています(前掲の男女参画局のホームページ参照)。この手続きに問題があることについては既に述べていますので今回は省略します。

一言だけ言えば、裁判所の決定もずいぶんずさんなもので、半年後の保護命令更新の手続きの時に私が夫側の代理人になり却下を求めたところ、何も事情が変わっていないはずなのに、裁判官が申立代理人を説得して保護命令を取り下げさせたということがあります。なぜか私が代理人になったことで、裁判官には感謝されました。保護命令を決定した同じ裁判官でした。この事例だけから考えると、裁判官は女性側の強硬な姿勢に負けて保護命令をいやいや出したということになるのではないでしょうか。そうでなければ説明はつかないと思います。

次にシェルターでは法テラス経由で弁護士が用意されており、委任状を書き、調停を申し立てるようになります。この辺りは妻からしても自動的に行われているような感覚だそうです。つまり自分の意思ではなく、そのような手続きの流れがあるので、自分の頭では考えないでその通りにしているという感覚だそうです。

もし妻が離婚調停を申し立てないと拒否をしたらどうなるでしょうか。その場合は、シェルターから出ていなかなければならないとする扱いがあるところがあるそうです。離婚手続きをすることが支援を継続して受けるための条件になっているということです。言うことを聞かなければ援助を打ち切るということは行政関与の福祉現場にありがちなパターンですね。中には賛否はあっても必要性は否定しきれないという場合もあるのですが、女性支援の場合はどうでしょうか。

ともかく、行先が無くなると困るので、法テラスの契約書などの記載はするそうです。これで契約は成立し、弁護士費用という債務が発生します。しかし、やはり調停は嫌だと依頼を打ち切ろうとした女性がいたのですが、もうすでに受任通知を出したからということで、法テラスの費用は全額払い込まなければならないといわれ、夫の元に戻った後夫が残額を一括して払ったという事例がありました。

男女参画のホームページを見ると、DVの解決方法としては離婚、夫婦関係の断絶しか用意されていません。双方に働きかけて家族再生をするという選択肢が全くないのです。一度相談してしまえば、妻も夫も後戻りができない体制に組み込まれていくように感じることがあります。子どものために頑張るという選択肢は、思想的に排除されているように感じられます。

確かに、レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」の配偶者加害のケースや、マリー=フランス・イルゴイエンヌの「モラルハラスメント」の事例(自己愛性パーソナリティの事案)、あるいはハーマンの複雑性PTSDを発症させるような事案であれば、このような政策も一つの選択肢かもしれません。

しかし、このような事案ではないことが、私が担当するケースではほとんどです。その証拠の一つとなるのは、離婚や調停で、妻側も、夫の故意の暴力があったとは主張してこないことです。それでも、殺されるかもしれないから早く子どもを連れて出て行きなさい、そして離婚に進みなさいと思い込まされてしまうのです。とても妻の口から出た話とは夫からすると信じられません。これが離婚をこじらせている一つの要因です。

このような極端な男性からの死の危険のある暴力を受けているという裏付けが何もないにもかかわらず、死の危険があると断定して、妻に逃亡を呼びかけることの正当性はどこにあるのでしょうか。どうして夫婦で話し合い、お互いの努力でやり直すという選択肢が初めから無いのでしょうか。私の感じた通りのことが行われているのであれば大変恐ろしいことではないでしょうか。その事実があることは国民には全く知らされていません。

その一つの理由は、妻の不安、焦燥感は、すべて夫の行為に原因するものであり、それは夫の改善不能のDV気質にあるという断定にあると思います。しかし、その裏付けは妻の話以外何もないか、妻の話からも導かれないか二つのうちのどちらかでした。妻が不安や焦燥感があったら、妻を逃がして離婚をさせるという、国民的コンセンサスは何もないはずです。具体的事例を言う必要はないのですが、そのような実態があまりにも国民から遠ざけられているのではないでしょうか。

ちなみに妻がこの手続きの途中で気が付いて夫の元に戻るとしても、ただちに何事もなく戻ることのできる心理状態ではないようです。実際に妻が夫の元に戻った事例でも、数か月はそのまま別居を続けて、子どもと夫との面会を重ねていく中で徐々に同居を開始することができるようになったそうです。

自分を取り戻すのも時間がかかるという、深刻な自己の価値観の放棄が見られた事案だったと思います。

多くの妻は途中で気が付くことが無く、逃げる必要性を徐々に真に受けていき、本当に恐怖を感じてしまうようです。この恐怖は逃げているという意識があるからでしょう10年たっても消えないでびくびくしている方もいらっしゃいました。

<家族破壊の被害者の被害がかえりみられない>

かわいそうなのは子どもです。父親とも、父方の親戚とも、住み慣れた家や自分の部屋とも、友人や先生方とも、遮断されてしまいます。そして自分の父親が母親を虐待するDV夫だということを繰り返し刷り込まれる場合もあるようです。やがてそれは自分に対する攻撃に転化します。自分はそのような殺人の危険のある父親の子どもなのだと思い込みながら大人になっていくわけです。私が面会交流問題に取り組み始めたのは、先ずこの子どもたちの惨状を見たからです。学校で孤立し、拒食と過食を繰り返し、自分の体を傷つけ、精神科病との入院と隊員を繰り返して、大人の年齢になってしまう子どもたちの惨状からです。そのうちの何人かは父親との交流が可能となり、何とか社会復帰ができるようになりました。

それらの事案は配偶者暴力防止政策とは関係が無かったのですが、面会交流の支援をしていく中で、人為的に子どもが親に会うことができなくなる出来事を多く見ていくうちに配偶者暴力相談の問題に気が付いていったという流れです。

ある日帰ったら妻と子どもがいなくなっていた夫は精神的ダメージを強烈に受けます。社会的には貢献度が高い人たちは、働けなくなったり、ミスが多くなりけがが頻発するようになったり、自死に至ったりしています。この問題も散々取り上げましたので、以下のことだけ述べたいと思います。

<事情を知らない人は、夫が原因だと思い込む>

私がここまで言っても、おそらく少なくない方々は、「そんなこと言っても夫にも原因があったのではないのか」と思われるでしょう。夫婦なのに妻が夫から逃げ出すなんてことは、何か夫に原因が無いとありえないのではないかというわけです。

ここがかつての統一教会の洗脳の事案と違うところです。私にはここが不条理を感じるところです。当時統一教会の洗脳を受けて家庭から離脱した人たちについて、現在旧統一教会を批判している人、対策が生ぬるいと叫んでいる人たちは、家庭にも問題があったから入信したのだという批判を受け入れるのでしょうか。言語道断だというと私は思います。同じことなのに、夫婦の問題では、夫ばかりが責められるということであればあまりにも不合理なダブルスタンダードです。人間の自由意思についての過剰な信頼だと言わなくてはなりません。

実務上、行政関与の相談を真に受ける人には、夫以外に、不安や焦燥感を感じる事情があります。調停や裁判に現れた妻が証拠提出した診断書の病名は、産後うつ、全般性不安障害、精神症状を伴う内科疾患、精神症状を伴う婦人科疾患、精神症状の副作用を伴う薬の服用、頭部外傷、脳卒中などです。最初から不安や焦燥感があり、その苦痛から何とか解放されたいという思いが強いため、夫に原因があるというと飛びつきやすい素因があるのだと思います。初めから嘘をついて夫との離婚を画策する人も中にはいましたが、子どもを連れて逃亡する多くのパターンが子の思い込みDVのパターンでした。

もしDVは実はなかったという場合はどうなるのでしょう。子どもや夫は、強力な方法で時間とお金をかけて対応することを不当に余儀なくされる上に、精神的に深刻な問題を抱えることになります。それにもかかわらず、調べもしないで家庭を分断する正当性はどこにあるのでしょうか。わずかに考えられる理屈としては、
「保護事例の中のいくつかはいわゆる冤罪事案もあるかもしれない。しかし、子どもや夫の不利益を気にしすぎてしまうと、女性の緊急保護に漏れが生じてしまうために被害が生じてしまう。やむを得ず、裏付けも取らずに家族分断を進めるのだ。」
ということくらいではないでしょうか。緊急避難の法理というものです。

しかし、こんなことをだれが同意して法律が定められ、運用がされているのでしょうか。しかも当事者や一部学者のアッピールがありながら、冤罪DVの問題はあまり取り上げられず、放置され続けています。子どもたちは理由なく父親に会うことができないばかりか、自分の父親が殺人を犯す恐れのある人物で、自分はその子どもだと思わされて成長するわけです。これが税金を使って行われているのです。

子どもが生まれたばかりは母親が主として育児をしていたからという理由(継続性の原則)で、裁判所は親権を母親にする傾向があります。また、面会交流は強制力がないために母親が会わせないと言ったら会わせるための方法が無いということが実情です。子どもと父親は何も悪くない場合でも会うことも電話をすることさえできません。こういう事態が放置されているのです。その後、子どもも自分の父親に会えない理由は父親にあるという説明を刷り込まれて行きますから、大人になっても不可解な理由で父親との面会を拒否するような場合もあるのです。子どもから見れば、先ほどの洗脳の流れはより分かりやすいと思われます。

<税金を使用しての配偶者暴力相談への要望>
1 配偶者暴力が存在するか否か、死に至る危険があると判断するためには妻以外の裏付けを取らなければ、子どもを父親から引き離すアドバイスをしないこと
2 科学的に裏付けられていない男性観などを断定的に話さないこと
3 離婚調停の手続きを開始することを施設入所の条件としないこと
4 家族再生など離婚以外の方法を解決の選択肢として用意すること
5 女性の自由意思を尊重すること
6 相談についての報告書は、保存して妥当性を第三者機関が検証する仕組みを作ること

長くなりましたので奪回方法のまとめは次回とします。

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積極的人権概念の必要性と試論 令和3年文化の日表彰記念 [弁護士会 民主主義 人権]



私は人権擁護活動に対して、令和3年11月3日付で宮城県から文化の日表彰を受けました。表彰に対して感謝の気持ちを表そうとこの文章の構想に入ったのですが、既に一年以上が経過してしまいました。あまり肩ひじ張らずに、人権啓発活動の中で感じたことをまとめてみるだけにすることとしました。

1 人権の具体的な積極的概念の必要性

人権啓発活動をする際に高いハードルを感じるのは、一般の方には「人権」という言葉の意味がわかりにくいということです。大学の法学部における人権という言葉の説明として、人が生まれながらに持つ権利とか、国家権力をしても奪えない固有の権利とか、あるいは、自由権や社会権があるとか、そういう性質的なこと、側面的なことは説明がなされています。しかし、肝心の何が人権で何が人権でないかということを考えるにあたっての道具となる定義というか、人権概念というものが曖昧で、少なくとも一般の方に向けて「一言で人権とは」ということができなくて困っています。

憲法上保障されている人権カタログを列挙して、これに類するものという説明の仕方はあると思いますが、一般の方向けのせいぜい1時間くらいのお話の中で、そのような説明をしていたら時間が足りません。啓発研修は人権の勉強会ではなく、相互の人権を尊重しあって、具体的な生活の場で人権が充足されるきっかけとするということが目的です。人権ということを法学部的に説明していったら、目的にそう肝心の話ができなくなります。

特に自治体での人権啓発の場は、「家庭の中の人権」とか、「職場(学校、医療、福祉)の中の人権」、「学校の中の人権」ということがテーマになるので、ダイレクトに私人間で相互に人権を尊重すること、その実践可能で具体的な方法を述べる必要もあります。

いっそのこと人権という概念によらずに、道徳とか優しさとか善とか別の概念を用いようかとも思うのです。しかし、それでは税金で構成される予算を執行する地方自治体という公的な機関の活動としてはやや問題があるようです。法の執行という特質を反映するためにはやはり人権啓発、人権の普及という活動という枠を維持する必要があります。また、人権ということで、家庭の中の人権を尊重するということから始まり、やがて様々な人間関係の中で、人権というツールを用いて、広く相互尊重をする社会を作るという理想もありますので、やはり人権という概念はどうしても必要だと思われます。

「世界中の人間には人権を守るという大きなコンセンサスがあります。人権ということはこれこれこういうことです。まず家庭の中の人権について考えてみましょう。そしてその人権尊重を家庭の外にも押し広げていきましょう。」と、わかりやすく言えばそういうことです。だからどうしても「人権」とは何かをわかりやすく説明する必要があるのです。

2 特に積極的な概念としての人権概念の確立の必要性

人権が確立していく歴史からすると、確かに特定の人間に対する攻撃、被害があり、それをさせないために人権という固有の権利を作り上げて、人権侵害を防止し、侵害された人権を回復させるという文脈で人権概念が構築されてきたと思います。つまり侵害されてからそれが人権だから今後は侵害されないようにしようという人権概念が確立されてきたのかもしれません。

おそらく、それぞれの個別の人権概念が確立した際には、その確立した時代の考え方があり、侵害された利益を人権として擁護しようということが、最終的には権利であり、その中でも人権として社会的に承認がなされ、高められやすい素地がその時代のその社会にはあったものと思います。

憲法の人権カタログは、そのようにして尊い犠牲や権利として尊重するという運動によって整備、充実されたのでしょう。

ところが現代社会では、様々な人間関係が形成され、人間関係相互の関係も複雑に影響しあっているという意味で、人間関係が複雑になってきていると言われています。また、特に私人間の関係では、ある時は弱者になる人たちもある時は強者となり、逆もまた真なりです。過去の時代において強者としてカテゴライズされていた人たちが、現在のある局面においては弱者になるということもよくあることです。

また、それぞれの行為を、人権侵害として評価して、負の評価に固定化することも帰って解決を妨げる結果となることも経験しています。

侵害の文脈でしか説明できない人権概念は、どうしても私人間の対立が激化していく方向に働いてしまうという弱点があるようです。特に家庭とか、職場、学校等、継続する人間関係の中での相互尊重というツールには不適格な場合も多いように感じています。人権侵害が一度でもあれば、程度や行為の意図等にかかわらず加害者と被害者として当事者を対立させるという手法は、加害者の排斥という結論になりやすいために継続的人間関係においては実務的ではないと思うのです。特に日常を継続的に共にする私人間においては、威嚇により侵害を止めるという手法よりも、理想、行動心身の実践の充実感や安らぎ、安心感によって相互尊重を進めていくべきことが多いように感じています。

侵害の文脈ではなく、目指すべき理想、実現するべき概念としてという意味で、積極的な人権概念の確立こそが、日常の生活の中で相互尊重をする暖かい人間関係を形成することためには、必要なことだと感じています。

そのような積極的な人権イメージが確立されれば、人権のイメージがもっと明るくなり、人権啓発に訪れる方々も明るく参加することができると思います。具体的なヒントを提起することで、人権尊重の活動をしてみようと研修会に参加した方々の人権擁護活動の実践の契機にもなると思われます。

3 啓発における積極的人権概念試論

人権擁護委員会のスローガンとして、相互の尊重という言葉があります。考えてみれば、人権の侵害が問題になる場面は人間関係の中での場面です。もっとも、この「人間関係」はさまざまであり、家庭や職場の同僚、学校の同級生等という私人間の人間関係もあれば、職場と労働者、生徒と学校という団体と個人という文脈もあります。また、自治体、国家、社会、あるいは地球規模という大きな人間関係もあります。そのいずれの人間関係でも人権問題は生じる可能性があるわけです。

そうすると、人権問題は人間関係の中で生じるということに着目できると思います。人権侵害は、人間関係の中で人間として尊重されないことであるという言い方が可能であると思われます。

次に、人間として尊重されるということはどういうことかという、その意味を明らかにする必要があるということになります。

おそらく、人間は、他の人間から人間関係の中で尊重されて生きていたいという本能的な要求を持っているということなのだろうと思います。対人関係学は、このことを主張しています。

要約すると、文明発祥以前から人間は群れを作って生活してきたために絶滅をまぬかれた。群れを作る原理は、心である。即ち、群れの中に所属していたいという根本要求がある。この要求は、裏を返せば、群れから外されそうになると不安を感じるということで、自分の行動を修正してでも群れにとどまろうと行動を起こす。
群れから外されそうになっていると感じる方法を一言で言えば、群れの仲間として認められていないということを感じ取ることによってである。群れの仲間として認められていないということは、群れの仲間であれば当然受けるべき態度を盗られないということである。
群れの仲間であれば当然受けるべき態度とは、かけがえのない仲間であり、いつまでも群れの仲間であり続けてほしいという態度である。健康を気遣われ、体面を気遣われ、痛い思い、苦しい思い、悲しい思い、寂しい思いをさせたくないという扱いを受けることである。
これに対して、気遣われないということは、積極的に群れの仲間がこのような負の感情を引き起こす行為を自分に対してすること、自分がこのような負の感情を抱いているのに、仲間によって放置されることということになる。(要約終わり)

今から2万年以上くらい前までは、群れの仲間も数十人から百数十人程度で、生まれてから死ぬまで基本的に同じ仲間とだけ生活していた運命共同体だったものですから、仲間と自分の区別がつかないほど群れは大切なものだったと思われます。このような人間の性質、心があったために、群れが強固に結束し、助け合うことができ、群れが存続し、文明を持たなくても人間は厳しい自然環境を生き残ることができたのだと思います。

問題は、人間の脳の進化はこの段階からあまり進んでいないことです。現代の人間は、特に都市部においては敵でも味方でもない人間にあふれています。一日で家から職場からあちこちに動き回って多くの人間と接触しています。インターネットを含めると到底把握しきれない人間と何らかのかかわりを持っている状態です。それにもかかわらず、考え方、つまり心は数十名の群れで一生過ごしているときとあまり変わらないのです。

だから、相手を仲間だと認識してしまうと、自分に対して気遣いを期待してしまい、気遣いがないとか相手から攻撃を受けてしまうと、不安や焦り、ときには恐怖を抱くようになってしまうわけです。

現代社会の人権カタログもこの原理から説明できるように思います。但し、人権カタログは、国家、社会との関係で問題になることがほとんどですし、心外の程度もある程度大きなものであることが必要だと思います。
そして、人権の侵害がある場合には、制裁や補償によって侵害の回復が求められることになります。

対人関係を小さくして、継続的な対人関係を念頭に置いて考えた場合、家族、友人、同僚等の場合、侵害がなければ良いというわけではないと思います。制裁や補償の対象にならなければ多少の侵害が許されるというわけではないと思います。また、侵害をしたという方が一方的に侵害をするというよりも、どちらかと言えば双方がそれぞれ将来に向けて行動を修正するということで解決するべき案件もあるのだろうと思います。

問題は、どの人間関係に起きていることなのか、どの程度の侵害があると言えるのかというところだと思います。

特に人間活動の基盤になるような人間関係においては、侵害を防止するよりも、広い意味での人権の充足が図られるように提案していくことが必要ではないかと思うのです。

「人間関係の中で、仲間として尊重されること」を人権ととらえることを提起いたします。特に身近な仲間の中では、人権が侵害されないといういわばマイナスの出来事を防止することを目指すのではなく、ゼロの先のプラスを目指すべく、つまり、お互いに意識して尊重しあうような人間関係を形成していくことを目指すことを提起することが人権啓発の手法としてふさわしいと考えております。

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虚偽DV政策の理不尽さをわかりやすく理解することができる草津町長の元町議の虚偽告訴罪及び名誉棄損罪の起訴に関する記者会見 [弁護士会 民主主義 人権]



令和4年11月11日、草津町長の記者会見がありました。女性の元草津町議が、議員在任中に、男性の町長から平日の午前10時に町長室で性的暴行を受けたということを電子書籍などで公表されたという出来事が発端です。時間的には前後するかもしれませんが、その後、この町議は議会で除名処分を受けましたが、県の裁定で復職し、リコールが起こり圧倒的多数で解職となり失職となりました。 この元町議を応援する勢力があり、温泉観光地である草津町に行かないようにしようというキャンペーンを展開したり、「セカンドレイプの町草津」等という批判を展開したようです。この元町議は外国人記者クラブにおいて記者会見を開き自分の主張を海外にも発信したようです。双方は告訴、告発をしあい、町長は嫌疑不十分で不起訴になりましたが、元町議は虚偽告訴罪と名誉棄損罪で10月31日起訴となりました。これを受けて町長が記者会見をしたということです。

ここで人物の関係をわかりやすく説明しています。即ち、登場人物としては、被害を受けた申告した人(元町議の女性)、加害者として申告された人(町長)、そして、被害者として申告した人を応援して加害者を攻撃した人(元町議の支援者)という三面構造です。

町長は記者会見の中で、「被害女性が自分が被害者だと言えば、被害者だと断定されて、相手が加害者だと決めつけられて攻撃を受ける」ということを訴えていました。これこそが、行政やNPO由来の虚偽DVの構造なのです。

総務省の用語でも、DVの相談を受けた妻などは、書類上「被害者」と記載されます。夫などは妻が相談をしただけで「加害者」と呼ばれます。総務省は、ここで言う加害者は、日本語の言う害を加えた者という意味ではないと通知を出していますが、それなら加害者という言葉を使うべきではないと思います。この言葉づかいや「研修」の効果が表れ、加害者と呼ばれるようになった夫などは、「あなたと話す必要はない」等と区役所で攻撃的な対応を受けるようになるわけです。

肝心なことは、被害女性が自分が被害者だと主張しただけで相手の男性が加害者として扱われるということなのです。

そして、何も事実認定がなされないまま加害者として扱われ、事実上の不利益を受けるという構造が理不尽なのです。

草津町の事件では、草津町長は何ら性犯罪で起訴もされていませんでした。それなのに、性犯罪の加害者として扱われました。著名な論客も実名で公刊物などで非難をしたそうですし、現地で集団での抗議活動なども行ったようです。元町議の主張が全くの事実無根であれば、町長はいわれのない攻撃にさらされ、家族も夫や父親が性犯罪の加害者だと言われているという強度なストレスフルの日々を送っていたことだと思います。重大な人格侵害であるだけでなく、町長に対する執務中の破廉恥行為があったということの主張ですから、政治的謀略にもなるでしょう。さらに著しい被害を被ったのは草津町民、草津観光業者の方々でしょう、レイプの町草津町、セカンドレイプの町草津町という喧伝は、謝罪しても謝罪しつくせない蛮行だと思います。

元町議の言うことが事実無根であれば、本人、ご家族、草津町と、決めつけによって極めて甚大な被害を理不尽に受けたということになりますね。

これと同じような構造による理不尽な被害を多くの夫たち、元夫たちが受けているのです。

先ほど述べたように、妻たちは行政や、警察、NPOなどで、生きづらさの相談をしています。莫大な予算が投入され、宣伝広告も充実し、相談件数は右肩上がりに増加しているようです。

しかし、相談に行く女性たちは、必ずしも夫の加害について相談に行くわけではありません。出産に伴う産後うつ、内分泌系の疾患や薬の副作用など体調の問題などで不安や焦燥感を抱いたり、職場での上司のパワハラや、取引先のクレーム対応などで精神を病んでいる場合もあります。ママ友との関係でストレスが蓄積しているケースもありました。主として、同情をされたいという精神状態に陥って、無条件の共感を示してほしいというところに多く場合共通性があるようです。

その中で警察、地方自治体やNPOの配偶者相談の回答者は、夫との不具合を聞き出して、些細な日常どこにでもあるようなすれ違いをとらえて「それは夫のDVだ」と断定し、DVは繰り返される、早く逃げないと命の危険があると根拠もないのに繰り返し妻を説得するようです。そして妻は被害者と呼ばれ、夫は加害者と呼ばれ、子どもを連れて家を出て、行方を知らせないで逃げ切りなさいと指導が入ります。最近でも、妻が夫の手を払いのけて自傷したことをとらえて死の危険のある暴力を受けたということで、夫が書類送検された事件があります。その負傷に至る経緯やその後の事情を丹念に説明して不起訴になりました。本当は妻の勤務先の問題で相談に行ったのに、夫のDVということで子どもを連れて逃げ出し、子どもは父親と同居できなくなり、面会もできない状態になっています。

この場合の三者構造は、被害を受けたと申告する人間が妻、加害者として申告されたのが夫、そして被害を受けたと申告した人を無条件に援助し、夫に加害行為をしているのが行政やNPOということになります。構造的に全く同じです。

さらに共通の問題としては、草津町の事件では、草津町自体がレイプの町、セカンドレイプの町ということでイメージがだいぶ悪くなりました。観光業者としてはだいぶ先行きに不安を覚えたことでしょう。町議の支援者は、事の真偽について何も判断が下されていないまま、町長を攻撃することに傾注し、町民の被害について考慮しなかったわけです。

もっとも、リコールで圧倒的多数の住民が解職を是としたということで、攻撃の理由があるという見解もあるかもしれません。住民の意見としては、朝の十時に町長室でわいせつ行為があったということは考えられないという素朴な判断と、当初の電子書籍で発表した段階ではレイプだと言っていたのに、告訴の際には強制わいせつ罪に変わるなどの主張の変遷があったことで、元町議が嘘を言っているという判断をされたような声を耳にしました。

いずれにしても草津町民も甚大な被害を受けたのですが、虚偽 DV事件でもとばっちりを受ける人間がいます。それが子どもです。子どもは警察や行政やNPOの指示では、連れて逃げろということになります。子どもは、これまでなじんでいた学校や幼稚園の友達や先生から離されるだけではなく、子どもの気持ちとしては今までなじんでいた家、自分の道具、近所の人や猫などからも突然引き離されて、自分がどうなってしまうのだろうというパニックになることもあるとのことです。

自分という存在を見失う危険が生じるということのようです。父親の悪口を言わないようにしようというお母さん方も少なくありませんが、母親だけでなく母親の親族は子どもの前でも父親に対する容赦ない非難をする場合が少なくないようです。

どうでしょうか。草津町事件と虚偽DVの共通点がこれほど多いということに、書いていて新たに気づいたこともあったので、今更ながら驚いています。

どうして、行政などが妻側の話だけを聞いて夫からの事情を聴取しないのに、連れ去りを指示したりして、夫を孤立させたり評判を貶めたりするのでしょうか。これも、今回の元町議を支援した人たちが真実性の検証を十分に行わないで草津町長が性暴力を行ったということ前提に攻撃をしたことと共通だと思われてなりません。つまり、「男というものは女性に対して暴行を加えるものだ」という極端なジェンダーバイアスに支配された男性観を持っているためだと思われます。

草津町町長に置かれては、草津町で行われているDV相談の実態をよく調査して、自分が陥れられた被害を、自分の名前で町民に行っていないかくれぐれも点検されるべきだと思う次第です。

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施設入所=親子分離の裁判所の承認の判断要素となっている児童相談所の一時保護下における心理分析は客観的な分析結果とはなりえず予備知識と先入観で分析結果が変わる危険について 施設入所という親子分離が増加した理由は世論が怒りを利用して誘導された結果ではないかということ [弁護士会 民主主義 人権]


断り書き:私は特定の児童相談所の複数のケースの調査報告書を対象としていますので、全国的に同じ調査をしているか否かは実際はわかりません。仕事上現れた問題を指摘して、同じ問題がある場合に備えて問題提起をするという趣旨です。なお、宮城県児童相談所のケースではありませんので、念のため申し添えます。

まず、これから述べることは、児童福祉法28条1項の、親から児童を分離して、児童養護施設入所または里親委託の措置をとることにあたってのお話です。これに対して一時保護というものは、児童の安全の確保や調査などの必要性がある場合に児童相談所所長が決めることができます。但し、親との分離期間は2か月を超えることができません。裁判所の関与を不要としているのですが、国際的な批判もあるところです。

施設入所または里親委託は、他の児童相談所では例外もあるようなのですが、私が関わっている事件では、高等学校を卒業するまで続き、その間親子の体面さえも無い場合もありそうです。私が代理人になって、児相ではなく委託を受けている児童養護施設と協力して断続的に面会を実施したケースがありました。親の方は、身に覚えのない出来事を理由に施設入所が決まったために児相に対して感情的な対応を抑制できない状態となっていたし、トラウマのような心理的症状も見せていました。このような特殊事情から親子の体面ができなかったという事情もあるかもしれません。児相ばかりに問題を押し付けても何ですが、子どもを取られた親ですから葛藤が高まって持続する人間も多いと思いますし、それは他の事例でもそうでした。いわば児童相談所は葛藤が高まった人に対応をする機関ということになると思いますが、ノウハウはまるでなく、かえって親と感情的にも同じ地平で対等に対立していた様相もありました。

但し、子どもが高校を卒業するまで親子が顔を会わせないという危険のある処遇であることは間違いありません。

一方親子の自然な感情交流は人間が成長するために有益なものであり、子の福祉の観点からは親子が一緒に生活することが望ましいということが確立された価値観です。子どもにとっても、自分の親に問題があり、子どもと一緒に暮らしてはいけないと公的に評価されたということをしれば、それは精神的に打撃をうけることも間違いないでしょう。親が自分に会いに来ないということから自分が親から見捨てられたと思う子、自分は親から愛される価値のない子と感じる子どもたちもいるようです。自己評価が低くなる危険は高いです。両親が別居した場合の子どもの心理を考えれば応用がきくはずです。

自分や両親の意思に反して離れて暮らすということは、子どもの健全な成長にとって害を与える危険があるということはしっかり認識しなくてはなりません。

このため児童福祉法28条は、
1 保護者が、その児童を虐待し、著しくその監護を怠り、その他保護者に監護させることが著しく当該児童の福祉を害する場合
2 家庭裁判所の承認があること
という二つの条件のある場合は、児童の健全な成長などと言っている場合ではないので、児童相談所所長の申し立てによって親から分離して施設入所や里親委託をさせることとしたわけです。

どういう場合に1の要件に該当するか判例を調べたのですが、目を覆いたくなるような虐待の場合が多いです。理由のない暴力や性暴力、命の危険のある傷害といった強烈な加害行為があり、それによって子どもが身体的に傷ついていたり、反応性の精神障害や、発達上の問題があるケース場合が典型的な事案でした。また、特徴として子どもが学校に通学させられないというような事情も多く見受けられました。

命が亡くなったら、成長も何もありませんし、親に健康問題があり、親として感情に基づいた行為ができない事情があるため、このまま親と生活していたら人格が歪んでしまい、生きる喜びなんて感じられないだろうな、そもそも虐待死しそうだというケースであり、親と分離するデメリットを大きく上回るメリットが明らかにあるというケースだと思います。

さらにそういうケースだということを児相が判断するのではなく家庭裁判所という別機関が判断するということがみそでした。

さあ、問題がここにあります。

家庭裁判所は児童相談所と別機関だということが売りの制度ですから、家庭裁判所が児童相談所の報告書などの矛盾点をきちんと見つけだし、児童相談所の意見はともかくとしてもそれを裏付けるものが証拠として提出されていないということになれば、きちんと児童相談所の申し立てを却下しなければなりません。

児童相談所の主張をやみくもに信頼してしまって、承認の審判を出すだけの税金の無駄遣い機関にならないことが制度の命です。

これに反して決裁印を押すだけの機関に転落する要素はたくさんあります。

子どもを取り上げられる親は、現在多いのは何らかの病気があり治療を受けている、生活保護を受けている、過去において何らかの不十分な養育があった事実がある等、事情のある親が多いからです。

さらに、施設入所の前に一時保護を受けているのですから、それなりの事情を現に抱えており、理想的な養育をしているわけではなく、「子どもの長期的な心理面を考慮しなければ」、施設や里親の方が快適な生活を送れるだろうと思われる事案であると一般的には見える事案ということもあります。

つい、子どもにとって別の生活を与えたいと思うかもしれません。

方や児童相談所は県や政令指定都市の公務員であり、児童福祉士や児童心理士という肩書を持った人間たちです。この人たちが子どものことを思って申請するならば、報告を疑わないで承認してしまったほうが間違いがないだろうと思ってしまうのは人間かもしれません。法の番人である裁判官でなければということです。

また、裁判官は、認知科学や発達心理学、行動心理学についてあまり勉強をしていないようです。この知識を補うのは家裁調査官なのですが、家裁調査官に調査命令を出すのは知識のない裁判官ですから、事なかれ主義のいわゆる役人根性の強い調査官だとすれば、裁判官の知識不足を陰で笑いこそすれ、知識を補充する提言をするということはしないのかもしれません。そうでない調査官はもちろんいます。今でも立派な調査官の方々の顔が浮かんできます。名前はあまりよく覚えていませんが。

なぜ、裁判官に知識が無いかといことがわかるかと言えば、裁判官は児童相談所の職員が行った心理テストについて、評価することをしないということに気が付いたからです。

心理テストとは、ロールシャッハテスト、STCテストに代表される検査です。これが客観的に施行される、物理実験のようなテストだと思っているようなのです。

この心理テストには苦い思い出があります。労災でうつ病になった依頼者が、大きな病院の精神科で心理士の心理テストの結果、境界性パーソナリティ障害とされ、精神科医からそのような診断名を付けられました。これも大きな理由として労災が認められなかったという事案がありました。今にして思うと、その病院は患者の苦しみを取り去るために治療をやり抜こうという真摯な姿勢が無いということを今なら論証する自信があるのですが、当時は知識が不足していました。ただ、その事案でも著名な精神科医の先生にご協力いただいたのですが、うまくゆきませんでした。

まず心理テストについてですが、誤解と非難を恐れずに言えば、科学的なテストではない言うべきテストです。この意味は、誰でも同じ検査をすれば同じ分析結果になるというものではないという、再現性が無いテストだということを意味します。

例えば、ロールシャッハテストは、1920年にロールシャッハという医師が作成したテストで、紙にインクを落として半分に折りそれを開いて左右対称の抽象的な図形を作り、施行者が質問をし、被験者が回答をするという形で進められ、被験者の発語や発語回数などから被験者の心理状態を分析するというなんとも頼りないテストなのです。そもそも再現性がありようのないテストです。
また、その発言、発言回数、言い方などから、施行者が結論付けた被験者の性格に至った道筋について文章で説明せよと言ってもできるものではありません。それは、同じ流派の人たちであれば、こういう場合はこういう結果だと判断しろと言う阿吽の呼吸が伝承されていますから、流派内の人、特に師匠と弟子の間では言葉による説明が可能ですが、一般に向けた説明は無理です。どうしてそういう結論になるか誰も納得しないでしょう。「裸の王様」のようなものです。

特徴としては施行者の主観が入り込む余地がとても高いということがあげられるでしょう。

STCテストは、私は、冬の寒い日は・・・・・だ。の・・で示した空白の部分に言葉を書き込んで文章を完成させるというテストです。児童相談所で行われる心理テストでは比較的多く3割近い児童相談所で実施されているようです。
しかし、この空白の補充も、同補充すればどういう性格だということが一義的に出てくるわけはありません。やはり施行者の主観の入り込む余地が大きいテストです。

これを入社テストなどで行うことを問題にしているわけではありません。いやなら受けなければよいですし、それで採用に失敗しても自業自得ですから他人が批判する話ではないでしょう。

問題は児童相談所がこれをやっているということです。
要するに親の養育に問題があり、その影響で性格に偏りがみられるとか、発達上の遅滞があるとか、そういう判断をしようとしているわけです。それで、親子は分離され、子どもは健全な成長を阻害されるリスクを背負わされるということです。

おそらく、大半の方は、心理テストというのは、どこかにそのテストを専門的に行う機関とか専門家がいて、先入観無くてストが実施され分析がなされていると思っているのではないでしょうか。

全く違います。子どもを担当している児童相談所の職員が行っているのです。場合によっては長年子どもを担当している職員、親とけんかをしている職員が行っています。つまり、予め子どもに対する情報がインプットされている人が行うのです。心理テストなんてしなくても、ある程度分析ができているはずですから、改めての心理テストはいわばセレモニーとか裁判所に対する権威付けで行っているわけです。子どもの親に対する偏見があったり、子どもの親から罵倒されたりという経験があれば、分析結果に影響が出ない保証はありません。

心理テストの報告書からこれが明らかになってしまうケースもありました。つまり心理テストを実施しているのですが、心理分析の結果を記載しないのです。心理テスト以前に知っていた情報を理由として結論を出している報告書ですから、心理テスト報告書ではないわけです。それでも裁判官は、そのことに気づかないことがあるようです。ロールシャッハテストとかSTCとかいうちんぷんかんぷんなテスト名を出されると、それは客観的に行われて客観的な結論が関数のように出てくるテストだと勘違いをしている人もいるようなのです。知らないのに知ろうとしないわけです。

しかし、こういう心理テストは家庭裁判所では結構出てくるのです。児相の問題もそうですし、離婚の際の親権者をどちらにするかとか、面会交流の際にも、主観的心理テストの結果を踏まえてどちらかとは会わせないとか、少年事件で少年の処遇を決めるときにも心理テストが出てくる場合もあります。裁判所が心理テストのメリットデメリット、注意点を把握できないでは、家庭裁判所の裁判官としてはどうなんだろうという疑問がわいてきます。

さらに心理テストには問題があります。
それは被験者である子どもが児相で一時保護されているという環境を考慮しない場合があるということです。心理テストで、何らかの性格的傾向、行動傾向などが見られたとしても、それが親との生活で形成されたものなのか、親と長時間会えなくて、学校にも通学できないという状況を反映したものなのかわからないということですし、ある程度の年齢になればこの心理テストの結果親と会えなくなるということがわかりますから、それを警戒したり不安に感じている結果なのか考察をされることが無いということです。
この問題は常にあるように感じています。仮に子どもに何らかの問題が認められたとしても、その原因は親ではなく児相にあると解釈できる子どもの反応というものが、強引に親由来の問題だと分析されているという問題です。

また、問題は実はそれにとどまりません。
心理テストを低年齢の子どもに実施することの問題点です。例えばロールシャッハテストですと、この図形が何に見えるかというような質問をして、回答の数、所要時間、表現等によって深層心理を分析するわけですが、子どもには豊富に語彙があるわけではありません。そもそも図柄は何にも見えないただのシミです。子どもは漫画のようにデフォルメした図を好むわけですから、はっきり意味が通じる図柄でないと理解できないという発達上の問題もあります。その回答は深層心理の問題ではなく、子どもの認識と表現の発達段階の限界の問題である可能性が高いのではないでしょうか。そもそも7歳の誕生日を迎えたばかりの子どもの深層心理とは何なんでしょう。およそ発達心理学の知見もないのではないかと勘繰りたくなるテストが行われています。他者との結びつきにおいても、小学校入学前は一緒に遊んでいるようにみえても、同じ場所にいてめいめいに遊んでいることが多いそうです。人間関係が深くないというのは、同年代の子どもと比較してなのか、大人と比較してなのかわかったものではありません。

STCテストだって、小学抗低学年では、まさに国語の試験問題みたいなものです。文章を埋めることは大変なのです。能力的に負担となれば、適当に切り抜けようとすることは自分がその年ならやることです。また、空間に整序立てて書くことも、きれいな字で書くことも年齢によっては難しいことです。ここから何らかの心理状態を結論付けるなんてことができるとは思えません。

これ等の心理テストは大人が被験者であることを前提としたテストだと私は思います。

そもそも子どもには無理なテスト行って、何らかの心理的傾向を導き出そうということ自体が無謀なことだと思います。また、実際は心理士は、苦労して心理分析をしないで、こういう回答が見られた等という回答結果だけを報告し、心理傾向について報告しないで、先入観や元々あった情報で心理テスト報告の結論部分を書いているかもしれません。これは報告書を読めば簡単にわかります。

おそらく裁判官の中には心理テストの報告書を読まない人もいるのでしょう。実際に多少の知識をもって読めば、かなりいい加減な報告書もあるかもしれません。

税金をもらって仕事をしている裁判官は批判されなければなりませんが、弁護士も批判されなければならないかもしれません。心理テスト報告書など読めば批判は簡単ですからきちんと読んで、論理学的な技術をもって真実を見極めて批判をしなくてはなりません。それをしないで裁判官を批判することは、職務放棄だと思います。

ただ、施設入所を申し立てられる親御さんには経済的事情を抱えた方も多く、弁護士を依頼する費用が出せない方も多く、誰が熱心に取り組む弁護士かという情報からも疎外されている人が多いです。そう言う人が狙われているという感すらするほどです。大変悩ましいところです。それにしても、問題意識が希薄な弁護士が多いということも事実かもしれません。

弁護士だけの問題ではなく、国民全体の問題だということを最後に述べたいと思います。

児童相談所所長の28条申立は、極端に増加しています。平成元年は14件しかありませんでした。平成7年くらいになると36件、平成10年の65件まで増加していったのですが、平成11年は97件、平成12年から15年は百数十件、そして平成16年から平成21年は200件前後、平成22年から平成29年は二百数十件から300件の間ということになっています。

そんなに審判例にみられる虐待件数が増えたのでしょうか。もしそうならば、社会構造的に親が子供を虐待するようになった要因を探さなければなりません。しかし私はそうではないのだろうと思っています。要するに申立のハードルが下がったということです。しゃにむに多少判例の事案に届いていないが申立をしようということが本当なのではないかとにらんでいます。

一つには虐待に対する世論の味方が厳しくなったこと。同時に虐待を放置して児童が死亡することに対する児童相談所に対する批判が多くなったことが理由だと思います。

怒りは、単一の問題の所在しか考えることができなくさせてしまいます。つまり、虐待死を無くすという価値観です。それ自体は間違っていません。虐待死があってはならないということは当然です。

しかし、虐待死を無くすためにどんどん親子分離をするべきだということになれば反対ですし、それは子どものための議論ではなく、第三者の気持ちを落ち着かせようとするために当該子どもの健全な成長を阻害する結果になることだと私は警鐘を鳴らさなければならないと思います。子どもにとって弊害があるから、厳しい要件が満たされない限り施設入所などを認めないというのが法律と判例の立場なのです。そのことが、弊害の知識もなければ考察する余裕もないような正義感によって原則が取り外されそうになっています。その結果、成長に深刻な影を落とす児童が増え、自分を否定されたと感じる親が多数生まれ、結果として親と子双方の自死が起きているのです。

単純極まりない正義感は本当に害悪です。ただ、それはどうやら作られた正義感、誘導された世論ではないかという疑いが払しょくできません。テレビや新聞の単純な正義感に火をつける報道スタイルが誘導している印象があります。要するにテレビや新聞も、視聴回数を伸ばそうとするユーチューバーと同じ論理で国民に働きかけているように思えてならないのです。


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児相による施設入所の手続きは問題が大きいのではないか 親の権利はどうなる。子どもの成長を本当に考えているのか [弁護士会 民主主義 人権]

例えば虐待などがあれば、児童福祉法で児相が一時保護するわけです。
親の元から児相の施設に連れていかれて、親とは面会もできないことが多いようです。

但し、一時保護は2か月が限度で、
それ以上子どもを返さない場合は
児童養護施設や里親に出す許可を家庭裁判所に申し立てる手続きをしなくてはなりません。

今回この手続きに最初から関与することになっていろいろなことがわかり驚いています。

まず、根本的問題としては、
親は子の手続きの当事者として認められていません。

あくまでも行政に、施設収容してよいよと言う裁判所のお墨付きを与える手続きのようです。
だから、児童相談所所長が申立人になるだけです。

つまり、親が子どもと暮らせないということの不利益について
親が裁判で防御するという制度は存在しないということになります。

これは良いのでしょうか?

親が子どもと暮らすことが権利とされていないという
馬鹿なことがあってよいのでしょうか。
でもこれが法律の建前ですし、
親どうしの子の引き離しにおいても裁判所の一貫した姿勢です。

それでも現在の運用は、この手続きの開始は、親に対して通知され
審判手続きに実質的には入れることになっています。
しかし、それは自分の権利を行使するのではなく、
保護手続きに対して意見を言うという立場にすぎません。

具体的には証拠が直ちに開示されません。

裁判の場合は証拠の謄本が送られてきます。

しかし、児童の施設入所の手続きでは
裁判所に見せてくださいとお願いをして
裁判官の許可が得られた場合のみ見ることやコピーをすることができるだけです。

そもそも、閲覧手続きを知らなければ見ることさえできないわけです。

証拠がわからなければ、何を反論してよいのかもわからないことが多いです。
親は、子どもを取り返す防御の手段を取れないまま
子どもと引き離されてしまう危険の大きい制度と言わざるを得ません。
それでも親は当事者とされていませんので良いのだという制度なのです。

お金を取り戻す場合は防御の方法が尽くされているのに
子どもを取り戻す場合は防御の方法がそれ以下の状態になっているのです。
お金も大事ですが
親にとって子どもはもっと大事です。
ところが日本という国の法律はお金は保障するが
子どもは我慢しろと言うのでしょうか。

また、夫婦間の保護命令手続きでも言ったことがあるのですが、
裁判始まるという告知から第1回裁判までの間に期間がとても短いです
10日もあればよい方です。
これはびっくりしました。

その中に当然土日がありますから、
例えば水曜日に告知の手紙が来て
木曜日に開封して金曜日どうしようかと思っていたら
もう月曜日になれば5日後に裁判が開かれてしまうということです。

それから弁護士を探して、弁護士に引き受けてもらって
弁護士が証拠をコピーしに行ったら
第1回裁判は、準備不足で終わってしまいます。

そうなることは当たり前です。

弁護士だって他に締め切りの仕事があるわけですから
なかなか充実した反論をすることなんてできません。


親が十分な防御ができないまま、イメージによって
施設収容の承認がなされるケースも相当するあってもおかしくない
というか、そういう稚拙を防ぐことができる制度にはなっていません。



ここまで読み進めた方にはいらっしゃらないと思いますが、
児相が手続きを取るというのだから
親にはそれ相応の理由があるのではないかと思われる方もいるでしょう。

ところが、どうやらそうでもないのです。

これまでの公にされた施設収容の審判例を見ると
かなりひどい親の虐待があって
生命の危険がある場合や
学校に通学させられずに社会的な立場を構築できない場合があって
なるほどそれが本当であれば子どもためだから仕方がないかと思うのですが、

どうも最近、そうでもない事案も増えているようです。

目をつけられて親子引き離しをされそうな要素は以下の通り

第1に、子育てで児相に相談をしてしまうケース
してしまうといったって、社会的に孤立している場合は
誰にも相談できませんから
本来は児相に相談することは正解のはずです。

どうしても体調が悪くて、でも子どもを預けるところが無いときに
児相に相談することも立派だと私は思います。
でも児相が関与して子どもを預かる場合は
一時保護という手続きが取られてしまいます。

何度も一時保護を繰り返したということは
本来、行政に必要な援助を頼むことで正しいと思いますが、
施設収容の理由とされる可能性があるようです。

気軽に児相に相談してはいけないと児相が主張している事案があるので注意が必要です。
子どものために何でも隠さないで相談してしまうと
それは親子引き離しの理由に使われるわけです。

つまり、虐待のケースを積極的に調査して歩くわけではなく
児相は、主に自分のところに相手から頼ってきた人を上方的に丸裸にして
子どもを引き離しているという言い方は意地が悪すぎるでしょうか。

第2に多いのは生活保護です。あるいは貧困です。

少し思い当たることがあるのですが、
子どもが手元にいると単身より生活保護手当てが増えますし、
子ども手当も支給しなくてはなりません。

保護をして子どもを返さなければ
生活保護を減額できるわ子ども手当は支給しないわということもできるのです。

政令指定都市は、都道府県とは別に児童相談所をもっていますが、
そういう場合、どうなんでしょうね。

第3に母子家庭です。
特に母子家庭だけど、子どもの父親ではない男性の陰がある場合

そして外国人、もちろん欧米の人は違います。

第4は精神疾患を抱えている親
精神疾患者は、身体疾患者と異質に見られます。
精神疾患と言っても色々程度が異なるのですが
どうも程度ではなく病名で判断されているのではないかとい心配があります。

たいていは生活保護を受けている母子家庭で、精神疾患を抱えている人です・

こう言う人から子どもを引き離すのですから
ますます親は精神的に深刻になるのです。

要するに、抵抗が起きないだろう弱い親、孤立している親が
ターゲットになりやすいです。


どうやって防ぐか
まず、掃除洗濯、調理をできる限り行うこと
特に通期に気を配ること。

貧困は、匂いで嗅ぎつけられます。
風呂も大事です。

次に子供がいたら保育所や学校にきちんと通わせること
これまでの審判例を見ると子どもが通学しない傾向が重視されています。

そうして、親こそが友達というか相談をできる人を身近に確保することです。
一人では太刀打ちできませんし、弁護士も探せません。

それから、何をあなたが一番大事にするか
もし、目を付けられる要素を持っている人が子どもと離れたくないというならば、
自分のことよりも子どものを第一に考えることが
子どもを連れ去られない最大のポイントになるかもしれません。

自分が嫌なことがあると子どもにあたるというのは論外ですが
家事をしなくなったり、不衛生にしたりというのでは
それは子どもにとってもよくありません。

誰か頼れる人を身近において子どもを一時的に預かってもらうことも
できればよいと思います。


さて、行政は無責任に離婚を進めて母子家庭を増やしています。
しかしそこで終わりです。
母子家庭に対して、特に子育てをすることの支援が圧倒的に貧弱です。

本来精神疾患を抱えた母親に対しても手厚い保護があって当たり前だと思います。

精神疾患は先天的なものではなく、元夫のDVの後遺症として残ることもかなり多いです。
別れさせれば済むという問題ではなく
その後に生活を支援しなくては、単なる家族破壊の策動にすぎません。

もし精神疾患があるならば、子どもを育てられなくて当たり前だというのは、
それは旧優生保護法の思想そのものだと私は思います。

日本という国は、言われなければ何も変えない国かもしれません。






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