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マスコミの報道があまりにも被害者に配慮を欠きすぎるのではないか。被害者にもそれ相応の原因があるかのように聞こえる表現は改められないか。 大阪ビル火災事件の報道と中学生刺殺事件の報道に共通する問題 [弁護士会 民主主義 人権]


大阪のクリニック火災事件で、お医者さんがお亡くなりになった
という報道に接しました。
その中で、警察は、放火事件であるとみていることが報道され
放火犯人とクリニックの間でトラブルがなかったか調べている
との報道がテレビなどで繰り返しなされました。

どうなんでしょうか。
私は、こういう表現を聞くと
亡くなったお医者さんという被害者にも何らかの原因があって
今回の事件になった、ということが示唆されているように
聞えてきてしまいます。

(もしかしたらそう聞えてしまうのは、私が特殊なのかもしれません。
その場合は謝りますし、以下は私の言いがかりということになるでしょう。)

多くの人が亡くなった事件ですから
警察があらゆる可能性を捜査することは当然です。
問題は、どうしてクリニックと加害者のトラブルの捜査
だけを報道するのかというところにあります。

このような被害者の落ち度報道は現在(事件後の月曜日)ではなされていない様子で
そのような報道が前になされたということも
インターネットでは調べにくいようになっているようです。
おそらく該当記事の全部ないしその部分が削除されているようです。

代わって、お医者さんのお人柄や業績が
丁寧に報道されるようになっています。

しかし、このトラブル報道にはもう一段階の問題点があるようです。

このお医者さんのお父さんが、
「お医者さんがトラブルを抱えていたということを言っていた。
それは警察にすべて言っている。」
という報道があり、これはまだ修正されていません。

しかし、NHKの詳細な報道によると
先ずマスコミの記者が、お医者さんのお父さんに
「何か犯人との間にトラブルがあったのではないか」
と尋ね、お父さんは
「相談は受けていたが、詳しい内容はわからない。」
というような回答をしたということが真実らしいのです。
その相談されたトラブルというのが、本件の犯人とのトラブルなのかどうかも
わからないとおっしゃっているようです。

つまり、お父さんが
自分の子どもであるお医者さんが「放火犯人とトラブルを抱えていた」
と言ったわけではないのです。

それにもかかわらず、マスコミは未だに
「父親によればトラブルがあった」と報道し続けているわけです。
あたかも父親によれば、「院長と犯人の間にトラブルがあった。」
と言っているように印象付けられる表現となってしまっています。

私がなぜここにこだわるかということなのです。

トラブルという言葉には様々な人間関係の不具合が含まれてしまいます。
どうしても人間関係の相互作用によって生じた不具合であり、
双方に何らかの問題があったように感じてしまうのです。

例えば、一方的な悪意がある犯罪の場合等は
トラブルという言い方はしないのではないでしょうか。
確かに元夫婦の間のストーカー事件などの場合は
トラブルがあったという報道のされ方はするかもしれませんが、
一方的に町で目をつけられてストーカー被害にあった
などという場合はトラブルがあったとは言わないと思います。

本件は確かに真相がまだ明らかになっていないのですが、
そうであれば、なおのこと
被害者の一人であるお医者さんに原因が無くて
一方的に事件に巻き込まれた可能性もある
ということなのだと思うのです。

そうだとすれば、一方的に被害にあってお亡くなりになった可能性があるのに
多くの方々がお亡くなりになった事件について
何らかの被害者の原因があるかのように示唆する報道をすることは
とても納得できないのです。

何もわからない段階で被害者に落ち度がある可能ような報道表現は慎むべきだろうと
そう思うのです。

これは11月に起こった中学生が腹を刺した事件の報道でも見られました。
未成年者の重大事件であるにもかかわらず
警察の断片的な捜査情報を意味ありげに報道し
あたかも加害生徒が、被害生徒からいじめを受けていたかのような
印象を与える報道表現がありました。

これ、子細に報道を読むと、
いじめと言っても深刻ないじめがあったわけではなく
広すぎる文科省の定義に照らしても
「いじめ」と言ってよいかわからないような出来事を言っているだけだ
ということがわかるのですが、

特に知識がない人が何か別の用事をしながらテレビなどを聞いていると
いじめられた報復に腹を刺した
というような印象を受けてしまっても仕方がないような報道だったと思います。
いじめという言葉を効果的に使っているように感じました。

この報道は亡くなった生徒さんのご遺族を深く傷つけたようです。
それは当然のことだし、報復報道をする段階で
ご遺族の心情を考えなければならなかったことだったと思います。

私は二つの報道表現には
共通する報道姿勢を感じるのです。

1つは、事件は、常に、一方的に起きるものではなく
被害者にも誘因があるはずだという姿勢、
1つは、被害者という絶対的善の裏の顔を「暴く」ことが
報道の仕事だという姿勢
1つは、面白ければ、その報道表現によって人が傷つくことに
配慮を示さない姿勢

もう1つが、警察との関係についてです。

どちらも警察発表を垂れ流していて
自分では何ら裏をとらない報道になっています。

マスコミの話では事件報道は
警察が正式に発表したからには報道しなくてはならない
という不文律があるとのことですが、
そうであれば、日本マスコミの伝統である
大本営発表が脈々と生きながらえているということになります。

そして、事件報道にすぐに興味がなくなってくる消費者に対して
誰かが傷つこうが、真実はどうであれ
警察発表の使える部分を使って
消費者が飛びつくような報道をしようとしているのではないか
という心配があります。

それは「一見正義のように見えて、実は不正の者を糾弾すること」が
消費者の飛びつくスタイルだとでも考えているようです。

中学生の事件ではそれが大成功で、
インターネットのコメント欄の閉鎖がなされるほどだったようです。

二番煎じが失敗しそうなのが
今回の放火事件です。

マスコミの初期報道は、
中学生事件と同じ構造をたどる姿勢が垣間見えました。
何も反省せず、同じ被害者攻撃を繰り返そうとしたように見えました。

しかし、インターネットでも、これに対する反応は鈍く、
むしろ警察や報道姿勢を激しく批判する真っ当な意見が
多く見られました。

そういう国民の反応を敏感に察したか
初期報道に対するマスコミ内部の自浄作用があったのかわかりませんが、
露骨なトラブルの存在の報道は影を潜めていますが
父親の発言は、マスコミが誘導した結果の要約にもかかわらず
父親の話のような報道が訂正されないまま掲載され続けています。

事情を分からないままの印象付け報道や
(トラブルがあるかどうかわからないのに、警察がトラブルがないか調べているという報道の類)
事情を分かっているにもかかわらず、印象的な部分の切り取り報道
(父親がトラブルがあったと言っていないのに、そういう風に言ったと要約する報道)
は、なにもこの二つの事件だけでなく、
私がかかわった案件の報道でも見られるところです。

そんなこと報道していない。
そういう印象受けるのところまでは感知しない。
誤解や悪意の読み方であり、マスコミには落ち度がない
と言っているかのような表現になっています。

「マスコミなんてこんなもんだ。」
というところを暴露することが
一番消費者が喜び、
マスコミを健全化するという意味では社会的意義のある
報道になるのではないでしょうか。

なぜ、中学生事件は、
警察の捜査情報を無批判に垂れ流したのか
報道をしなかったマスコミはあったのか。
その報道によって深く傷つく人たちがでるということを
考慮したのか、考慮しなかったのか
考慮したとすれば、どうして報道に踏み切ったのか。
加害者の一方的な話が、真実ではないかもしれないということは
報道を抑制するきっかけにはならなかったのか。

なぜ、トラブルという表現を使ったのか
父親の発言としてトラブルという言葉を使ったことに
問題があったとは思わなかったのか
そのような報道をしなかったマスコミはあったのか。

警察の情報としてトラブルを調べているという報道について
その派生効果を考えたマスコミはあったのか
どうしてその報道をやめることができなかったのか

その原因は
警察の情報を必ず報道しなければならないということなのか
その方がインパクトがあるということなのか

そういうことを検討して、
あるべき報道表現ということを
マスコミ自身が国民と一緒に考えていかなければ
いつか来た道に戻ることを国民は心配するべきでしょう。


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若い人がフェミニズムを嫌うという電通の調査に寄せて、 YOKO ONO ’I want my man to rest tonight’ [弁護士会 民主主義 人権]



先日、尊敬している若手女性弁護士の方が
フェイスブックで電通調査の記事を紹介されていました。
私は常々、この先生の着眼点の鋭さというか
紹介の気負いのなさというか
自分にはないものをお持ちだということで注目していたのですが、
いつものようにシェアしていたら、
先生の記事まで引用されていたことに何日か経って気づき
見ようによっては先生を批判しているようにも見えてしまいそうなので
慌てて削除した次第です。

という言い訳から今日は入るわけです。

その記事というのが電通の調査の記事で
若い人ほど「フェミニズム」が嫌いで
女性活躍政策も支持しない
という傾向があるということを紹介したものでした。

ちなみに、私がシェアしたときのコメントが
フェミニズムが嫌いなことと女性活躍を応援することは矛盾しない
というようなことだったと思います。

「フェミニズム」が好きか嫌いかという質問も
漠然としているためにどうかと思うわけです。

フェミニズムは時期によって
その主張内容や、活動方法が
全く別だからです。

ウィキペディアによると
女性参政権運動や社会主義に基づく女性の権利・地位向上、男女同権を求める運動を中心とした第一波フェミニズムに対して、文化・社会に深く根を張る意識や習慣による性差別と闘い、主に性別役割分業の廃絶、性と生殖における自己決定権などを主張した運動が第二波フェミニズムである[1]。
としています。
もっともこのウィキの記事は、どうやら第三波の考えによって第2次フェミニズムを解説している傾向が強く、第三波との共通点を強調しているように私は感じます。
もっとも第二波フェミニズムは、様々な思想的背景などから様々な主張がなされています。第二波とひとくくりにすることにも無理があるかもしれません。

現代のフェミニズムは第三波というそうです。

年配の人がフェミニズムに対する嫌悪感が少ないというのも
これはよくわかる。
私より上の世代は第二次フェミニズム運動と呼ばれる時代の
その時のフェミニストたちの主張や活動が念頭にあり
必ずしもすべてに賛同はしないとしても
共感できる部分が多くあったからだと思います。

私は、フェミニズムという言葉と最初に出会ったのは
オノヨーコさんです。
現代の三波の皆さんが彼女をどう評価しているのかわからないのですが、
彼女の主張するフェミニズムは、私はすんなり共感できるものでした。

そのヨーコとの最初の出会いは、敢えて邦題で紹介しますが、
「無限の大宇宙」というアルバムでした。
その中の、 ’I want my man to rest tonight’ という曲です。

是非、曲名と歌詞 で検索していただき
グーグル翻訳などで訳していただきたいのです。

実はこの時期ヨーコはジョンと別れて、失意の中にあり
新たな展開として豪華ミュージシャンが参加して
無限の大宇宙をレコーディングしたようです。

山口百恵がデビューしたころに、日本でリリースされました。
ジャケットはヨーコの横顔が大写しになっていて
今見ると何でもないのですが、
当時はひどく怖かった思い出があります。

女性上位という言葉もあった時代ですから
無限の大宇宙のジャケットは、何か怖いものの象徴でした。

その当時はさすがに小学生だったもので
ヨーコの曲を聴く機会もなかったのですが
少しして中学生になってませてきて、
何かの機会でこの歌詞を目にした時、
「ああ、救われる」という形で強く強く共感しました。
よく聞いた記憶があるのですが、海賊版にでも入っているのでしょうか。

歌詞の内容を少しだけ紹介すると

ヨーコが女性に向かって歌う歌なのですが、

あまり男性を厳しく責めないでよ
彼らも頑張っているんだから
彼らは男だからって言われて無理させられている
だから、私は、彼に今夜はゆっくりしてほしいと願っているの

みたいなところで間違いではないでしょう。

つまり、女性が女性らしさを強制されているということは
男性も男性らしさを強制されているということで
お互いが性的決めつけから解放されることで
世界は平和になる
といわれたような気になったということです。

ああ、そりゃあそうだよなあ。
と、もろ手を挙げて賛同したわけです。

その頃から、ふつふつと男らしさなんてやせ我慢みたいなものだ
というハードボイルドの哀れさを理解するようになったというか
紅白歌合戦では紅組を応援してよいんだという意識になっていったわけです。

でも、「男らしさ」を捨てることは繁殖期を過ぎるまでは難しいものです。

平和の問題も第二次フェミニズム運動は当たり前のように取り上げていました。
女性らしさとは、男性らしさと根が一つだということを見抜いていたからこそ
男性らしさが、戦争遂行など、他人と物理的に戦うための
思想統制的な道具だったのだということを主張していました。

そのときは理解できなかったのですが
男も髪を伸ばしてふらふらしているという
私の一つ前の時代のヒッピーの思想って
そういう主張もあったのかなと今では想像しています。

(それを理解できない当時の若者たちが
既存の価値観にやみくもに反発して
麻薬などに手を出していたのではないかと。

いずれにしても、大ざっぱとか極端というのはろくなことにならない。
反対勢力からのツッコミの提供になってしまう。)

前も真面目に言いましたが
男らしさ(ジェンダー)と「闘い」ということは
切り離せない問題だと思っています。

本来であれば、200万年前には人類は
この男らしさを、少なくとも人間相手には捨てていました。
人間はチンパンジーと別れて犬歯が極端に小さくなるころには
闘いを好まない動物種になっていたはずなのです。
せいぜい食料として動物を狩ることと
肉食動物から仲間を守ること
という意味合いでだけ戦う動物種だったということです。

また、心が成立したと言われる200万年前は
一生をかけて出会う人間はおそらく99パーセント仲間だったわけで、
戦う必要性もなかったようです。

ところが、農耕が始まり人間の個体識別能力を超えて
多くの人間と利害関係を有するようになって
自分達を守るために、自分たち以外の人間を攻撃できるようになってしまった。

しかし、道徳や宗教によって、それも地域の秩序が形成され始めれば
徐々に闘いも減るはずだったのですが、
さらに移動距離が長くなってしまったために、
本来利害対立しないはずの遠方の民と
無理やり利害対立の場面を作り出して戦いが始まってしまった。

帝国主義的侵略や帝国主義国家相互間の戦争
というように言うらしいですよ。

だから、日本でも
遠すぎて見たこともないような外国をさして
日本の生命線だとか、絶対死守だと言っても
戦おうって気には自然にはならないはずでした。

しかし、明治以降の勧善懲悪という男らしさの教育が起き
義を見てなさざるは勇なきなりなんてことで
チンパンジーと共通祖先の頃の男性の本能を無理やり呼び起こされて
なんだかわからない怒りを持たせられて死地に追いやられたのでしょう。

私は戦争遂行のイデオロギーで一番重要なことは
この怒りに火をつけるシステムだと思います。
過剰な正義感、無謀な責任感がその油になっているわけです。
単純な、戦いたくなる感情、怒りやすい感情を
戦前の政府はコツコツと培養していったわけです。

(でも現代も、この傾向は、やはり戦前と同じようにマスコミによって
 細々とかもしれませんが、脈々と栽培されていると私は思います。
 過剰な正義感、無謀な責任感、そして二項対立、怒りをあおる報道
 には最大限の警戒が必要だと思います。)

かまやつひろしの「我がよき友よ」(作詞吉田拓郎)で
「男らしいは優しいことだと言ってくれ」
と歌ったのはこういう思想的背景が何となくあったのでしょうね。
男らしさとは、戦うことではないということでしょうね。
そして、戦争のイデオロギーが残存し、行動成長に使われたという
男性労働者たちの意識的あるいは無意識の実感から、多くの強い共感を
なんとなく得たのだと思います。

第2次フェミニズムが男性からも支持を受けたのは
無駄に男女間の対立をあおらなかったからではないでしょうか。

フェミニスト達も、男性をジェンダーバイアス越しに見るのではなく、
男性も本性は同じ人間であり、
作られた男性像を押し付けられているだけだと
少し余裕をもって、堂々と上から男性を見ていた
ということが言えるのではないでしょうか。

案外それは、男性にとっても自然で心地よいものだったのかもしれません。

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現在の男女参画のDV政策の問題点が働くシングルマザーにしわ寄せされていること。1年近く母子が引き離された事件があぶり出した男女参画政策の二つの問題構造【考え方の一つとしてでも良いから理解してほしい】 [弁護士会 民主主義 人権]

今朝、嬉しい写真がメールに添付されて届けられました。
女児が、撮影している母親に向けて、満面の笑顔を見せている写真です。
この写真が撮影できるようになるまで、1年近くの時間が必要でした。
女児は、親権者母親の監護の下で生活していたのに、監護権のない身内に連れ去られて、約1年も母親から隔離されていました。しかし、1年近くの空白の期間があっても、母子はすぐに1年前の仲良し親子に戻っています。このようなことが繰り返されないために、ここに記録します。

仲の良い親子が、1年近くも引き離され、司法からも行政からも放置され続けるというおぞましい事態を招いたことには男女参画のDV政策に原因があると考えています。「本当のDV被害者」の保護は必要ですが、現在の政策の方法論には重大な弊害があるということです。大事なことは、「支援者の支援の考え方」が、本当のDVの場面だけ限定で徹底されるということはなく、他の案件でも同じ発想で処理してしまうという、人間の脳の問題を看過しているところにあります。今回の事件は、「母親は父親から子どもを連れ去っても良い」という限定された発想は貫かれず、「親から子どもを連れ去っても良い」という発想に拡大されていて、子どもが親から引き離されて教育を受けられなくても、仕方がないという発想に繋がりました。男女参画の方法論が、今回の事件の地ならしをしていたということです。どうしてそうなったかということをお話しします。

根本には、親子を引き離すことを容認する日本の風潮にあります。フランス人のビンセントさんが日本人妻によって子どもを連れ去られて、会うことも拒否されている問題で、パリの裁判所は連れ去った妻に逮捕状を出したと報道されています。日本において報道はされていませんが、同種事案では、アメリカの裁判所が多くの日本人妻に逮捕状を出しています。日本は拉致容認国家であるというのが、欧米の日本に対する一般的な見方なのです。日本では封建的な考え方が支配的で、日本では「子どもが母親の所有物だと扱われ、子どもには独立した人格が認められていない」と思われているのです。ECからの抗議もほとんど報道されません。日本国内での同種問題は無数にあり、なぜか国もマスコミも問題にしていません。日本の人権感覚は世界的には孤立しています。一部の虐待事件などに対する報道の効果もあって、日本では親権がないがしろにされています。これは法律的に言えば親権ですが、人間的に言えばわが国が親子の関係を大事なものとしていないということです。

今回の引き離された母子のケースから、裁判所、警察、地方自治体の男女参画関連部署の、DV支援的発想による処理の具体的な問題点2点を指摘したいと思います。

第1 最初にキーワード(DV,虐待)を言った者の勝ちという政策構造

今回の事件で、行政などが連れ去った身内に寛容だった理由は、その身内が、母親の子どもに対する「虐待」があったと主張して連れ去ったことにあります。
これは、現在の男女参画のDV保護政策と見事なまでに重なります。現在のDV政策は、最初に妻がDV相談をするところから始まります。そうすると総務省の用語では、このDV相談をした人は行政によって「被害者」と呼ばれるようになります。行政文書などで、「被害者」と呼ばれるわけです。そして、被害者の夫等は、「加害者」と行政文書に記載することになっています。総務省は平成25年10月18日の事務連絡で、ここでいう「加害者」とは、被害者に危害を加えた人を言うのではないとわざわざ断っています。それならば用語を改めるべきです。日本の国家が、日本語の意味と違う意味を持たせて言葉を用いることは、理解ができません。そしてこれは確実に自治体に印象操作をしています。
具体的内容がわからないのに、「虐待」、「DV」という言葉で、行政や司法が態度決定をしてしまうということが問題なのです。この結果、妻に不具合があれば、それがことごとくDVの証拠ということになってしまいます。金属アレルギーの皮膚反応、自分で転倒したときの臀部の痣、全般性不安障害や婦人科、ないしは内分泌異常による精神不安、これらはなんら関連がないのに、バイアスで関連付けられ、DVがあったことの証拠とされてしまいました。妻の統合失調症も夫のDVが原因だとされたことがありました。これが現在のDV保護政策の結果なのです。
虐待問題も全く同一の構造があります。虫歯さえも虐待の証拠だと真面目に議論されたのは裁判所においてです。
しかも、不可思議なことに、本件のケースで裁判所が虐待はないと判断した後も、警察、裁判所、区役所、一部医師、児童相談所、子ども園などは、母親の虐待を疑い続けたのです。どの機関も、「毅然として法律を執行する」という態度がありませんでした。それにしても不思議です。身内によって、子どもが母親から引き離されているのですから、明らかな児童虐待が起きているわけです。その虐待には目をつぶり、ありもしない(行政的にはあるかどうかも分からない)親の虐待に備えようとしているのです。この理由として特に行政はマニュアルが整備されていないと行動できないようです。子どもの親からの引き離しが虐待だということは当たり前すぎてマニュアルから落ちているのでしょう。虐待は親がするものだという固定観念があるようで、親以外の大人の子どもに対する虐待は行政任務の外にあるという冷酷な態度に感じました。(最終的には、警察署が極めて常識的な対応をしたので子どもは母親の元に戻ることができたことと、児童相談所が裁判所に対して極めて客観的な態度を示したことが母子再生に役に立ったことだけは、プラスの側面として報告しておきます。心から感謝しています。)

 余計な話ですが、このようなマニュアル行政は、日本型労務管理の弊害を如実に表しています。ほうれんそう(報告、連絡、相談)という、労働者が自分で考えて判断するということを極力避けるためにマニュアルを整備して、マニュアルの範囲外のことをやらせないという労務管理の手法が、行政改革以来公務員に浸透してしまっているわけです。新日本型労務管理の思想(問題を起こさないという守りの管理思想)は、労働力の質の低下を招き生産力を低下するだけでなく、このような弊害ももたらしています。利潤原理で行動する企業と、行政サービス、福祉の原理で行動する自治体と同じ原理で行動するということの愚かしさを指摘する人をあまり知りません。

虐待、DVという「言葉を言った者勝ち」という、いかにも低レベルな発想が国家や自治体という私たちの税金で報酬を賄っている役人の発想となっていることを私たちは心配するべきです。戦争時の、「鬼畜米英」という言葉で、アメリカ人やイギリス人が鬼のような人間たちだと思わされたことと容易に重なってくるわけです。その思考節約の割り切った考え方で、人生を台無しにされた人たちが日本に無数にいるということを強く言いたく思います。

第2 加害者とされた人に事情を聴かない。アンタッチャブルな人間にされてしまう政策構造

DV政策において、行政が妻に向かってアドバイスをすることは、「夫に知られないように子どもを連れて身を隠すこと」です。この時点で、夫は加害者だと誰も認定していないことに注意してください。
本当はDVなんてない事案でも、真実がどうなのかということを問題にされません。夫は対策を立てる方法もなく、突然妻と子どもが忽然と姿を消した家に帰ってきて、ことが起きたことを知るわけです。本当にDVがある事案で、妻の身体、生命、精神が破綻するという場合で夫に改善の余地がない場合には、このような方法が必要な場合もあるかもしれません。ただ、考えてみてください。単に妻がDVだというだけで、夫はなすすべなく、妻と子どもから引き離されるわけですよ。実際はDVが無かった事案も、多数含まれる可能性があることは、お分かりになると思います。つまり、妻が不貞相手と再婚しようと企ててDV保護を申し出ても、それが通ってしまうということは制度上に理由があることなのです。読まれている方は、保護を訴えた以上、妻の全員が全員とも本当に夫からDVを受けていると言い切れる根拠が何かあるでしょうか。
女性保護のためには仕方がないという方もおられるでしょうが、最大の被害者は子どもたちなのです。

DV政策では、事前にも事後にも、加害者とされる夫から事情を聴いて、支援を見直すという手続きがないことが特徴です。妻の身体生命の安全のために緊急措置であるから、多少の見切り発車は必要だということを百歩譲って認めたとしても、DVがあったことが証明されない場合は、夫の利益は回復されるべきだと思うのですが、それはありません。DVが無かったことが証明されても夫の子どもとの関係は容易に回復されません。私は、明らかに憲法31条、13条に反する行政行為だと考えています。

今回の母子引き離し事案でも全く同じ構造が踏襲されました。

区役所の保健担当の公務員は、身内が言った「母親が統合失調症であり、近々強制入院の手続きをとる」という架空の話を真に受けて、わざわざ母親の主治医に電話で情報提供を行いました。母親と面談して確認することもなく、もちろん情報提供の同意をとることもなく、虚偽の情報の提供を独断で行ったのです。これを真に受けて主治医の治療方針が変わってしまったらどうするつもりだったのでしょうか。この情報提供は病院のカルテにも記載されていますが、私は情報提供をした区役所職員本人と電話をして確認しました。個人情報保護の観点からも大問題ですが、区役所の保健
担当の職員でありながら、精神病者には同意が不要だという差別意識が背景にあるように感じてなりません。統合失調症ではないことは完全に立証されていますし、母親は普通に営業職としてノルマをこなしている有能な労働者です。このあたりの常識というか、基本的な医学知識も行政や司法では欠落しているということを痛感しました。行政窓口には「DV相談があった」という情報しかないのに、その夫が相談に来ると、血相を変えて「あなたと話すことは何もない」と「毅然」とした対応をするようです。DVをするような人間は、クレーマーみたいな人間で、話を聞いたら最後、いつまでも居座られれて怒鳴り続けられると思っているようです。自分の身体の安全も脅かされていると思うようです。勝手に、過酷なDVをする人間だという印象操作がされているのです。夫の弁解を心理的にも聞こうとしない構造が生まれているわけです。

要するに、虐待、統合失調症という言葉に過敏に反応してしまい、本人に会って確認することが「怖かった」ということなのです。自分を守ることを最優先して、罪もない人に不利益を与えるという構造もDV保護政策と共通する構造です。

警察も同様だったので、私は本人を連れて二つの警察署を訪問しました。実際の目的は、こちらの味方になるということではなく、中立になってもらうということでした。この方針は正しかったと思います。但し、母子再生に協力していただいた警察はこの二つの警察署以外の警察署の方々でした。

某行政から「児童相談所を交えて議論しないか」ということを提案されましたが、お断りしました。子どもが親から引き離されているという虐待があるにもかかわらず、なんら現在継続中の虐待に対応しない児童相談所には不信感しかありません。これは正しかったようで、児童相談所の関与を拒否した情報は身内に流れていたようです。

情けないのは、裁判所です。詳細は控えますが、連れ去った身内の意見(母親に対する悪口)をなんら裏付けもなく真実だとして扱っていました。真実として報告した原因は、「身内はこう言っているけれど実際はどうなの」という問いかけを母親にする機会をもうけなかったということです。不利益を受けるのは子どもと母親なのに、母親の弁解する権利ということに不案内なようです。
子どもが通っていた子ども園からも事情聴取をしていましたが、子ども園が直接体験したことと身内から聞いた話が裁判所の中で未整理な状態になっていました。もちろん、母親に対する確認の事情聴取はありませんでした。しかし、この報告書を子細に読んでみて、母親に対する子ども園が持っていた敵対意識が身内から植え付けられたものだということがはっきりしました。

この点、児童相談所は、身内から一方的に話された内容として、裁判所に報告書をあげて、直接体験したことと区別して報告していました。この報告には感心しましたが、眼前で継続している児童虐待に児童相談所として何ら対応していないことには批判をし続けなければならないと考えます。

問題が大きいなと思う職業は医師です。医師という難しい職業は、おそらく、医師になるには言われたことを素直に吸収して勉強していかなければならないのだろうと思うのですが、事件の中で出てきた医師は、母親に対して確認するという作業を一切しないで母親を攻撃する意見書を書いています。例えば、「行政の働きかけを母親が拒否した。」という一文があり、それは行政からの情報だと記載していました。行政と外部委員の情報共有に関しては私は知識がありましたので、その情報の取得経緯には無理がある、つまり嘘だとすぐにわかりました。そして情報源とされた行政に確認したところ、やっぱりそのような事実は確認できませんでした。医師が過剰に母親を攻撃していたのです。

これは常々感じることです。医師は目の前の患者さんを治療することが仕事だということに原因があるのだろうと思うのですが、目の前の患者さんを守ろうとした自分の行動が、「罪もない人を不利にする」ということに無頓着すぎるということをたびたび経験しています。そして、医学的なことは専門家以外は知らないだろうと思うのか、かなり無茶苦茶な診断や意見書を作成することがあります。目の前の人を救おうとする素朴な正義感からなのでしょうが、真実に反すること、医学的知見に反することは、絶対にしてはなりません。特に診断書に関しては、虚偽内容の診断書を作成すると、医師に限っては公務員でなくとも刑法犯になることを改めて考えていただきたいと思います。それだけ医師は国家から信頼され、公正中立な態度をすることを期待されているということなのです。

この医師の素朴すぎる、つまり大ざっぱな割に強い感情を伴う正義感は、私たち国民の感情の象徴だと思います。

私たちは、なぜか、「他人が悪いことをした」ということを必要以上に信じる傾向にあり、悪い人に制裁を与えたいという感情になるようです。そして、良い悪いの判断が極めて大ざっぱです。つまり、誰かがその人は悪いと言えば、それを疑うことなく、その人は悪いので制裁したいと思うようです。妻が夫のDVがあったと言えば、裏付けがないにもかかわらず、夫は「過酷な」DVをしたと思い込み、夫から子どもを奪うことは正当だと考えるようです。夫の言い分は聞こうともしないで、私たちのこころは事実を確定してしまいます。近所の人や児童相談所が虐待があったと言えば、子どもを何年も親元から引き蓮ことは当然だと考えるようですが、別の事件では実際親が何をしたか言える人は、当の児童相談所にもいませんでした。一度虐待の認定をすれば、親からの事情聴取によって見直すということはしませんでした。親が虐待を認めなければ保護を継続すると言っている本人がどのような虐待が実際あったかを言えないわけです。社会から孤立している親(外国人、シングルマザー、うつ病者、被災者)の子が保護をされやすいと感じています。

そして不思議なことはまだまだあります。悪いことをした場合に、解決策として「制裁」しか出てこないということです。あるいは、家族を解体するという方法論しかないということです。予防や家族再生という発想はこのブログ以外であまり見かけることがありません。社会が家族を守り育てることをしないで、不具合があったら家族を解体するという論調に、奇妙なまでに統一されていると感じます。私は、国を守り発展させる礎に、家族を据えなければならないと考えています。これに反して我が国のリーダーたちは、家族よりも、何らかの機関で子どもを育てるべきだと考えているように思えてなりません。とても自由と民主主義の国家とは思えない政策が横行していると思えてならないのです。

現状の政策が、最も弱く苦しい立場であるシングルマザーが子どもを奪われるという事態として現れた、その政策の問題点がどこにあるかということについてお話しさせていただきました。


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【先日も不合理で一方的な調停があったということからの吐き出し】夫婦問題は、具体的な離婚予防策を意識して実行して楽しい生活を送るか、一方的に子どもと引き離されて離婚して精神的ダメージを受ける上にこちら側の生活に響く生活費を強制執行の脅かしの下で支払う等の数々の理不尽を受け入れるか。結局そういう選択問題だということ。 [弁護士会 民主主義 人権]



どうやら、現代社会は、普通に暮らしていると、何割かの確率で、妻は夫に嫌悪感と恐怖を抱く。当事者からすれば外れくじを引いたような感覚になる。
同時に、妻は、夫の何気ないふるまい、当たり前の感情を行政や弁護士の力を借りてDVだと評価してもらう。この結果、ある時、夫が家に帰ったら所持品とともに、子どもも妻もいなくなっている。必死になって行方を捜そうと警察に問い合わせをしようとも、警察はお茶を濁したようなことを言って、取り合ってくれない。
先ず、ここまでが第1の不合理。
誰しも、このような近未来を予想して生きていない。その前に、何らかの提案が来るわけでもない。ある日ある時、突然それはやってくる。

第2の不合理は、あなたがいろいろ手を尽くそうとすると、行政では、あなたはDV「加害者」と呼ばれている。ここでいう加害者とは被害者に加害を加えたものではなく、DV相談をした妻の夫という意味である((総務省平成25年10月18日「DV等被害者支援における『加害者』の考え方について」)。それでも、市役所では、あなたは加害者という呼称で扱われるので、DV加害者という意識を職員たちは持つ。ただの「DV」という言葉があるだけなのに、あなたはとても激しいクレーマーだと思われ、執拗に違法な要求を繰り返してくるかのような対応をとられる。職員は、明らかにあなたに恐怖を感じ、恐怖を振り払うように、あなたに強硬な態度をとる。マニュアルには、「あなたと話すことはない。」と話せと書いてあり、その通り話すことによって、実直にあなたを怒らせる職員は多い。あなたは世間から、犯罪者として扱われているという感覚を持ち、社会的孤立に苦しむことになる。子どもが心配になり、妻の実家に行ってみると多数の警察官に取り囲まれ、ストーカー警告を受ける。離婚して10年ぶりに転居をするので連絡をしたら「つきまとい」としてストーカー警告を受ける。これは実際に起きていることで、私は話を大げさに言っているわけではない。

第3の不合理は、司法の場で起きる。あなたの妻は、婚姻費用請求、離婚請求、財産分与、親権を母親に指定すること、養育費、そして慰謝料を請求してくる。

婚姻費用請求は、常に認められ、あなたは支払わなければならない。特に住宅ローンがある場合が悲惨だ。住宅ローンを支払っていることは、支払金額の算定に考慮されないからだ。婚姻費用は、同居中と同じ程度の生活を維持する目的の費用なので金額が高額になる。しかし、二か所での生活をしているため生活諸経費は二倍かかることになる。あなたの実際の生活事情は通常全く考慮されず、あくまでも年収の額面(税込み)で決定されてしまう。高額の住宅ローンがある場合は、あなたはぎりぎりの生活を強いられることになる。子どものために生活費を払うことを嫌がる父親はいない。しかし、自分に相談もなく一方的に出て行って、その結果婚姻費用の支払いが必要になったというのに、出て行った事情は考慮されない。婚姻費用は、現実の生活を送るための費用であり、待ったなしに支払わなければならないという扱いである。そのために、不当な別居かどうかを吟味することは通常行わない。
あなたは、誰も待っていない一人の家に帰り、カップラーメンをすすりながら、婚姻費用を捻出している自分に気が付く。それでも、妻は、もっと収入があるはずだといきり立つ。それはそうだろう。一緒に暮らしているときは、残業をして、人の嫌がる仕事をして、家族のために収入を無理して高めていたから、今もその収入が維持されていると思っているからだ。一人暮らしで、可処分所得の大半を養育費や婚姻費用として差し出している人間は、そのような働く意欲など持てるはずがない。それが人間だと思う。子どもを通じて臨時の支出を要求してきても無い袖は振れない。さらに、連れ去り別居があると、うつ病の治療のために費用や、不思議と怪我をする人が多く、病院代がかさむことがよくある。

財産分与も、様々な不合理を感じる。何十年先の退職金も、まだ退職していないのに、退職金を受領したことを前提として同居期間相当分を支払わなければならない。大体多くの企業では、退職するまで会社が存続するのか保証はない。公務員であっても、賃金が切り下げられていけば、将来退職金額も切り捨てられる可能性もある。どこかでリストラされる可能性も考慮されない。そもそもまだ受領していない金をどうやって払えと言うのか。あなたは、どうして裁判所でこんなことを平気で命じるのだろうとつぶやいている。住宅ローンも同様である。離婚事件の少なくない事例で、住宅ローンを組んだ1年以内に連れ去り別居が起きている。執拗にねだられて家を建てたにもかかわらずである。結婚前からある財産も、それは結婚前からあるということを証明しなければ、半分支払えという命令が出る。その証明は通常難しい。

親権は、裁判所は母親に指定する。小さい子どもの場合は特に、乳幼児期に多くの時間を過ごした方に指定することが子どもの幸せだという考えを持っているからだ。産前産後に仕事を休んで子どもの世話をするのは母親が圧倒的に多いから通常母親が親権者となるのである。親権を外れた生物学上の父親は、子どもが児童相談所に保護される事態になっても、親権者ではないからと一切の情報の提供を拒否される。行政からは、父親ではなく、第三者の一般人という扱いだ。

それでも子ども顔が見たいと思い、面会交流を家庭裁判所に申し立てる。なんと会いたいという一心で、家裁の書記官や裁判官の論文を読んで勉強したりする。家裁月報や家裁紀要等を必死に入手して勉強する。そして、唖然とする。そこで語られていることは、家庭裁判所では一切通用しないのである。どうやらそんな文献は家庭裁判所の職員は読んでもいないようだ。就学前の子どもでも、会いたくないと語れば、子どもの意思だからと言って面会は禁じられる。長期間親に会っていない子どもは、実の親だとしても会うことに不安になることは当然である。安心の記憶ははるか昔の出来事だからだ。家庭裁判所では当然のことではないと知る。子どもは何年か会えていない父親に対しても、調査官に会いたくて仕方がないということが当然だと考えられているようだ。一番納得いかないことは、現在の子どもの感情を錦の御旗のように根拠として物事が決められているということだ。二つの意味で間違いだとされている。一つは、母親とだけ生活した時間が長く、父親と面会すらしない時間が経過したという事情から、子どもの意思が形成されてしまっているということを考慮していないこと。もう一つは、子どもは成長するということ、今は良くても将来的な影響が生じるということは多くの家庭裁判所の文献で明らかにされている。しかし、この点について考察をすることが行われないこと。父親とも生活したい子どもが無理やり引き離されて、問題行動を繰り返す例が実際に存在している。
家庭裁判所はどのようなルールで運用されているのか、弁護士に尋ねてもわからないという。

そうして、子どもとも会えないまま、離婚手続きが終わらない限り高額な婚費を支払い、離婚後も養育費を支払う。支払わなければ、給料の半分が差し押さえられるという。

ここまで書いてきたことは例外的にひどい話ではない。スタンダードな流れである。もっと悲惨な目にあっている人もいる。面会交流調停を申し立てたら、調停委員から、「なんで子どもに会いたいのだ。」と尋ねられた父親もいる。身に覚えのないDVを妻が裁判所に報告したらしく(その内容は夫は知りえない)、インカムをセットした裁判所職員が、裁判所内を夫が異動するたびに少し離れてついてくることもある。見張られていることが分かった当事者が自分は当事者として平等に扱われていると果たして考えるだろうか。現実の事例では、警備員を配置しても、離婚手続きにおいては妻は夫の暴力を主張しなかった。裁判官に抗議したところ、職員の安全を図らなければならないということ以外理由を説明されなかった。不平等は仕方が無いと言わんばかりだ。子どもをとられた母親の場合は、2メートル以内に付きまとわれたこともあった。

まだまだ理不尽はたくさんある。弁護士をしていて、自分の依頼者がこのような理不尽な扱いを受けることに慣れることはない。夜中に目が覚めてしまい、悔しくて眠れなくなることもある。法律やコンセンサスでそのような運用をするならばまだ仕方がない。依頼者に説明することもできる。そうではなくてフリーハンドの感覚で、人間の心がないがしろにされているような運用は慣れることがない。裁判所は判決や決定をしなければならない、つまり白黒決めなければならない機関である。ある程度の割り切りが生まれることは致しかないかもしれない。しかし、白黒は、正義と悪ではない。あくまでも訴訟上または手続上の決着に過ぎない。しかし、黒く塗りつぶされた方は、人間の感情を抱くことも許されないような扱いを受けていると感じられてならない。

このような扱いを受けて、子どもとは会えずに金だけは払い続け、自分は誰もいない一人の家に帰り、酒をあおって面白くもないテレビを観て寝る。相手は子どもの笑顔と成長を見ながら生きていると思うと、苦しさは倍増する。自分はどうしてこのような辛い思いをしなければならないのか、それほどのことを妻にしたのかということを問い続けることになる。しかしその答えは、多くのケースで出てこない。答えの出ない問いかけを自分に対して繰り返す。
ある人は、実績のあった勤めをやめざるを得ないまでに気力が無くなり、友人の世話になって仕事を与えられても長続きしない。そういう生活を繰り返し、10年前の自分の扱いを問い続けてきた。ある人は、離婚から10年たち、偶然知った子どもの連絡先に手紙を出したところ、ストーカー警告を受けた。ある人は養育費を支払い続けたにもかかわらず、子どもが就職したときだけ履歴書用の写真が同封された手紙がよこされた。私の知っている何人かの人は自死をした。こういう人たちは、結婚して生きる希望を持たされて、その希望を絶たれるという絶望を与えられたことになる。激しい落差を味わっている。

裁判や調停での妻の主張を見てもなお、そのように苦しい思いをしている男たちが、こういう目に合わなければならない理由があるとは思われない。多少気真面目過ぎたり、正直すぎるということはある人もいるかもしれないが、ここまでひどい思いをしなくてはならないということがどうしても納得できない。中には、本当に人格的な支配を目的として、服従を強いるような行動をするケースもあった。しかし、それはごく例外的なケースである。通常はそれなりに妻の嫌悪感情を誘引するような事情があったとしても、もっぱら夫に原因があった、というわけではないと感じられるケースが圧倒的多数だ。
そういう男たちの中には、裁判所やSNSで、攻撃的言動をする人がいる。些細な問題にこだわって、大要を把握できない人がいる。従前の性格はわからないが、大多数は、このような理不尽な思いをしたために、自分を守ろうとする意識が過剰になっていることが原因だと考えて矛盾はない。しかし、そのような理解をしようとする人はほとんどいない。通常は、元からこういう性格だから妻は離婚を決意するのだという評価をされてしまう。マイナスな面だけが額面通り受け取られて評価される。幾重にも理不尽な話である。

だから、である。
だから、こんな理不尽な思いをする人が一人でも減るようにしたいと考えている。何も事情も分からないくせに、父親を否定して、母親を苦しめた父親と会いたくないという子どもたちを作らないようにしなければならないと考えている。大人になってもこのような発言をするもと子どもと話をしたが、第三者としてもこのような元子どもたちは痛々しい。自分に自信が持てず、旧友と交わることができず、引きこもり、リストカットや拒食、過食で、精神科病棟の常連となる子どもを作らないようにしなければならない。
だから、離婚の芽をつぶすこと、病的に葛藤が強くなる時期の妻との接し方を確立し、安心感を与える家族関係を作る方法を提案し続けること、大人として家族の時間が楽しいものとするためにするべきことを考えて提案することに力を入れている。予防法学こそやるべきことだと考えている。

そして、これは、妻側にとっても、不幸を拡大しないもっとも簡単な方法だと考えている。

私のブログは、こういう動機で楽しい家族を作る方法を必死に考えて提案している次第です。

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PTSDの診断(主として連れ去り後の家庭裁判所に対して提出されるもの)が乱発されているのではないか。それは当然に第三者の権利を不当に侵害して、人生を台無しにする危険がある。考え足らずの「寄り添い」の犯罪性について。 [弁護士会 民主主義 人権]


PTSDという精神疾患があります。
外傷性後ストレス障害と訳されています。
ベトナム戦争から帰還した兵士に多く見られた精神症状について
これまでの精神疾患のカテゴリーに該当しないのではないかということで
新たな精神疾患として理論化されました。

ICD-10という国際病類分類の定義を末尾に紹介しておきます

独特の精神症状が現れる病気ですが、
強烈な外傷体験が必要とされているという
精神疾患にかかる原因があったことを要求しているという点で
国際病類分類の診断基準としては珍しい部類に入るのではないでしょうか。

その外傷体験とは、戦争、テロ、強姦、拷問という強烈な体験であるもので、
例外的に著しく脅威を与えたり破局的な性質をもった、ストレス性の出来事
とされています。

例外的な出来事が無ければPTSDと診断できないはずなのです。

ところが、このPTSDという診断を裁判所でよく見るのです。

今、裁判実務で問題とされている類型は交通事故です。
何年か前から法律実務の雑誌で裁判官たちの
批判的な論文が掲載されるようになっています。

もっとも裁判官は如才ないですから
「こんなのPTSDではない。間違った診断だ。」
というような表現は、したいとアッピールしながらしていません。

PTSDという診断が多投された結果どうなったかという
判例分析を冷静にしています。
・PTSDという診断で、損害の大きさは判断できない
・症状の程度で精神的損害の大きさを判断する
ということになるようになったと分析しています。
それはそれでよいのですが、
この流れの派生結果として
例えば強盗に身体を拘束されて武器で脅かされた女性が
PTSDの診断を受けても
PTSDの診断は信用できないから
損害額の軽減を図る手立てをしなければならないと
ざっくり言ってそのようなことになっています。

PTSDインフレみたいな状況になってしまい
正当に保護されるべき人の保護が図られない
という危険が起きているのです。

医学的には正しいかどうかわかりませんが
いまやPTSDという診断より
遷延性うつ病と慢性的なストレス障害、解離性障害の合併症
とでも診断された方がよほどよいような気がするほどです。

裁判所での悪影響は、それだけではありません。

子どものPTSDが目につきすぎるということです。

(事案は本質を害さない程度に変更しています)
子どもの精神疾患の専門医の肩書で、
瞬間的な一度の打撃による打撲(被害者は暴行、加害者は事故と対立)
があったことを理由にPTSDという診断があったり、

野球観戦の際に売店に行くときに子どもをおいて行ったことを理由に
PTSDにり患しているというのです。
6歳の子どもです。その後子どもと楽しく野球を見て帰っているのです。

この野球観戦から半年以上を経た時期の
一方の親による連れ去り別居が始まるまで
子どもには何の精神症状も出ていないのに
連れ去り後に症状が出たからと言って
PTSDだと診断書を作成しているのです。

甚だしいのは
2歳にもならないお子さんがPTSDだという診断書も
先日目にしました。
「乳幼児期の父親の(主として母親)に対する異常な言動によるもの」
というのです。
これが戦争やテロに匹敵する外傷体験だというのです。

そもそも発達科学に照らして、2歳未満の子どもの知能が
どのくらい発達しているというのでしょうか。
大人の言語も理解しているような書きぶりです。

まだありました。
母親による子どもの連れ去り別居の事例で
面会交流調停の中で
医師の意見書が提出されました。
父親による過度のしつけ、虐待によって
子どもが精神的不安定になっている
だから、試行的であっても、子どもの症状が悪化するため
面会交流には絶対反対だというヒステリックなものでした。

ちなみにこの事件は、母と子の折り合いが悪く
母の支配的拘束に絶えられない子どもが反発して
問題行動を起こしていた事例でした。

こちらの医師批判の活動(これは企業秘密ですね)も奏功して
裁判所はこの診断書は全く相手にせずに
ほどなく裁判所での面会が実施されました。
(調停委員、裁判官に恵まれた事例です)
面会室に父親が入った瞬間の
まさにはじけるような満面の子どもの笑顔は今も忘れられません。
その笑顔は父親が退室するまで1時間近くもずうっと続いていました。
父親に会えてうれしくてしょうがないということが嫌でもわかり、
合えなかったときの子どもの気持ちを考えて
こちらは1時間近くずうっと泣きっぱなしでした。

この時、この医師だけでなく、学校関係者からも
面会に反対する意見書が出ましたが、
あの笑顔を抑圧する危険があったと思うと
どんなに面罵して面罵しきれない思いということが正直なところです。

子どもの親に会う喜びを奪おうとしたことはもちろんですが、
子どもが健全に、自分は誰からも大切にされる存在だという
生きていくために必要な自信を得る機会を奪い
健全な成長を妨げる危険があったということが
よくわかります。

その後この事件は定期的な面会が実施されるようになりましたからよいですが、
そうでなければ、学校関係者と医師に対する
裁判提起があったのではないかと感じています。

簡単にPTSDの診断書を作成する医師の特徴として
・子ども本人を診察しない
・概ね同居親の話だけで症状の有無を判断する。
・同居親の話だけで虐待の事実があったと判断する。
・PTSDの診断をしても、治療は行わない
・もちろん認知行動療法は行わない。
せいぜい、コンサータなどの劇薬を処方するくらいです。

そもそも発症時期も特定していません。
もし一方の親の虐待が原因で精神症状が起きたというのならば
ストレス源である一方の親との同居中から
子どもに精神症状が起きなければならないのではないでしょうか。
ほとんどの事例ではそれはありません。
同居親自体が同居中から症状があるということは言っていません。

ほとんどの事例で
「虐待」と認定された出来事から半年以上を経た
別離を契機に子どもに症状が起きています。

多くは一方の親と突然会えなくなったことの
わけのわからない状況に陥らされた
子どもの不安の表れだとみるべきだと私には思われます。
お医者さんは、このことを思いつきもしないのでしょう。

診断の名に値するのかわからないほどの
投げやりともいえる態度だと感じる理由はそこにあります。

つまり
同居親の話だけで虐待があったと認定し
ささいな行動がPTSDにおける外傷体験だと無理な認定をし
同居親の話だけで子どもの精神症状を認定し、
発症時期をまったく気にしないで
無理な診断をするのでしょうか。

いくつか原因が考えられます。
・医師は、目の前の患者さんの治療だけを、日常的に仕事にしているために、目の前の患者の利益以外は考える職業的習慣がない。自分の医療行為によって、第三者が損害を受ける可能性があるという発想を持てない。
・素直な性格。お医者さんに多く見られるのは、素直に他人の話を信じるということです。おそらく、そういう性格だからこそ、大学の医学部という難関を突破し、国家試験に合格するということなのでしょう。だから人の話を素直に本当だと受け容れてしまう。虐待があったと思ってしまう。
・恵まれた環境に起因する素朴すぎる正義感。虐待やDV等の話は身近にはないから、そういうことがあると先ず拒否反応を示してしまうか、詳しく聞くことをためらってしまう。このため、漠然と虐待、DVという言葉だけに反応し、先ず言葉に反発して、被害者のために自分ができることを考えてしまう。
・診断書を書くという自分の立場におごり高ぶっている。診断書は、裁判で言うところの判決みたいなものです。自分が最終的な決定権を持っているという意識の効果があるのではないでしょうか。虐待があったと認定できる権限、PTSDを発症していると言える権限をもっているわけです。この権限を目の前で苦しんでいる人を助けるために行使しなければならないという、使命感、正義感があるのではないでしょうか。軍事力を強化すれば戦争をしたくなるということが言われていますが、こういうことかもしれません。
・主義主張を持った人 このような一部の方もいらっしゃる可能性は否定できません。ご自分の主義主張が、医学的知見を凌駕してしまうケースです。

でもその結果、満足するのは同居親の「気持ち」と
診断書を作成した意思の自己満足だけです。

別居親もそうですが
何よりも子どもに深刻な影響が生まれてしまいます。

統計的な研究によれば、
子どもは、診断書があるからという理由で
別居親に面会すらもできなくなるのです。
年齢によっては、子どもは
自分が悪い子だから別居親は自分に会いに来ないのかな
悪い子だから嫌われたのかな
自分が会いたくないと言ったから別居親は自分を怒っているのかな
自分はなんてひどいことをしたのだろうか
と感じるようになり、


やがて
自分は、被害者である親と加害者である親の
二人の血を引いた人間である。
自分とは相反する血が流れているわけのわからない存在だとか

自分は他人から受け入れられる存在ではないとか
深刻な影響が15歳ころから現れ始める
そういう実際の事例をたくさん目にしてきました。

実際のいくつかの事例では
入院した精神科では、
ほとんど何の治療もなされずに
社会から隔離されていただけでした。
退院しても何かが改善されたということはなく
また、入院をするということが繰り返されていました。

こうならないように
楽しく人生を歩むということが
子の福祉の意味だと思います。

子どもを診察するということは
この子どもという後の人生を決定しかねない時期に
子どもの利益のためにベストを尽くすということではないでしょうか。

幼稚な正義感で、決定権を濫用してはいけないはずです。

先に上げた野球観戦で親が売店に行って一人ぼっちになったということが
虐待だとされ、PTSD発症の原因だとされたケースですが、

実際は、子どもが「フライドポテトを食べたい」
と親におねだりしたことが始まりでした。
ひいき球団の得点機という場面だったのですが、
親がそれより子どもが喜ぶならばということで
人ごみをかき分けて売店まで行き買ってきたのです。
もちろん子どもは大喜びだったと言います。

いつもは食べる量を制限されている大好きなフライドポテトを
好きなだけ食べられたということよりも
親が野球観戦を中断して自分のために売店に行ってくれたという
親の愛情を、一点の不安もなく感じることができたからだと
私は思います。

ところが、その大切な子どもの思い出が
PTSDの原因となる虐待エピソードだと認定されてしまえば
大切な思い出が、一転して、
自分が実の親から虐待された、自分が嫌われたエピソードだと
記憶が変容してしまうのです。

子どもにとって、単なる別居親との別離を強いる以上の
極めて罪深い診断書ではないでしょうか。

このような診断書が多く作成されることが
何とかならないものなのでしょうか。


<ICD-10によるPTSD>

「ほとんど誰にでも大きな苦悩を引き起こすような、例外的に著しく脅威を与えたり破局的な性質をもった、ストレス性の出来事あるいは状況(短期間若しくは長期間持続するもの)に対する遅延したおよび/または遷延した反応として生ずる(すなわち、自然災害又は人工災害、激しい事故、他人の変死の目撃、あるいは拷問、テロリズム、強姦あるいは他の犯罪の犠牲になること)。
  典型的な諸症状には、無感覚と情動鈍麻、他者からの孤立、周囲への鈍感さ、アンヘドニア(喜び、快楽の喪失)、トラウマを想起させる活動や状況の回避が持続し、そのような背景があるにもかかわらず生ずる侵入的回想(フラッシュバック)あるいは夢の中で、反復して外傷を再体験するエピソードが含まれる。一般に、患者にもとのトラウマを思い起こさせるきっかけとなるものへの恐れや回復がある。稀には、トラウマあるいはそれに対する元の反応を突然想起させるおよび/または再現させる刺激に誘発されて、恐怖、パニックあるいは攻撃性が、劇的に急激に生じることがある。通常、過剰な覚醒を伴う自律神経の過覚醒状態、強い驚愕反応、及び不眠が認められる。不安と抑うつは通常。上記の症状および兆候に伴い、自殺念慮もまれではない。アルコールあるいは薬物の過度の服用が合併する要因となることがある。
  トラウマ後、数週から数カ月にわたる潜伏期間(しかし6カ月を超えることはまれ)を経て発症する。経過は動揺するが、多数の症例で回復が期待できる。一部の患者では、状態が多年にわたり慢性の経過を示し、持続的パーソナリティ変化に移行することがある。」


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侮辱罪の厳罰化には賛成する側面と反対する側面とあること 厳罰化の前提として行うべき【加害防止教育】 [弁護士会 民主主義 人権]


プロレスラー木村花さんが亡くなったこと等をきっかけとして
ネットでの中傷を防止することの必要性が注目されています。
その一つとして、法務大臣は
侮辱罪について、これまで拘留・過料という軽い刑罰から
罰金・懲役というそれに比べれば重い刑罰に
変更することを検討すると発表しました。

私は、これまでも同じ話題で意見を述べたことがありますが、
ネット誹謗中傷の発信者特定開示と厳罰に関する要求キャンペーンに対する疑問。この国の「リベラル」の形 
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2020-05-27
もう少しきめ細かな議論をするべきではないかと考えるようになりました。
法務大臣の問題提起が具体的であるため、
考えが進んだということになると思います。

法律改正は様々な効果があり、メリットもあればデメリットもあるわけです。
厳しくすればよいというものではありません。
それでも、法律を制定した時代と現代では、
社会の在り方が変わったというのであれば
法律の内容も変えなければならないということはあると思います。

今回、侮辱罪を厳罰化するということで、
なるほどそういうことかもしれないと思いました。

刑法が制定されたのは明治40年です。途方もなく昔です。
当時は、人は侮辱されても
それだけで命を落とすということはそれほどなかったのでしょう。
また、その人を侮辱だけで死に追い込む人も
それほどいなかったのでしょう。

他人を侮辱する場合、
基本は、面と向かって侮辱する
あるいは氏名を明らかにして侮辱する
ということが念頭に置かれていたと思います。
侮辱する方も反撃を覚悟して侮辱をしていたと思います。


当時は匿名での侮辱は、侮辱として力がなかったと思いますし、
どこの誰ともわからない人から侮辱されるということや
自分とは利害関係を持たない人を侮辱するということも
現代と比べて少なかったはずです。

ところが、現代では
インターネットで、同時に同じ空間に
途方もない人数の人が話題を共有しており、
匿名で誰からも分かられず、
覚悟もいらないで
酒を飲みながらでも侮辱することができるようになりました。

特に利害関係のないはずの人も
また事情をよくわからない人も
過剰な正義感で、誰かを非難する
ということも可能になったのだと思います。

インターネットを利用せずには生活ができなくなり、
インターネットの書き込みも
自分を取り巻く社会だと思うようになり、
インターネットの中傷も簡単に検索することができるため、
自分に対する中傷を発見しやすく、
それが自分の身の回りで自分が否定されていると感じやすくなり、
しかもその中傷に反論する機会も説明する機会も与えられず、
無防備に攻撃にさらされるようになったと言えるかもしれません。
このため、侮辱によって命を落としたり
精神的に破綻したりという
重大かつ深刻な被害が生じるようになったと言えるのかもしれません。

現代社会においては
侮辱から国民を保護する必要性は高まっていると言えるかもしれません。

そうだとすれば侮辱罪の厳罰化というのは
賛成するべき理由も大きいと
考えが大きく動いているというところです。

但し、保護法益は、あくまでも個人であり
主として精神的なものということになるので、
その角度から限定しなくてはならないと考えています。

警戒しなくてはならないことは
政治家に対する政治的批判を侮辱罪の対象としないこと
企業の内部通報をしにくくしないこと等です。

但し、政治家に対する政治的批判ならよいのですが
コラージュや漫画化して人格を貶めるような表現活動を見ますが
私と激しく意見の違う人がされているのを見ても
私はとても不快に思います。
表現の自由との兼ね合いは本当に難しいところです。

次に、侮辱の手段として
インターネットの書き込みによるものが
禁止の必要性が高いと私は思いますので、
侮辱罪を一般的に厳罰化するのではなく
侮辱罪の特則として、インターネットによる侮辱罪として
限定するのも一つの方法かなとも考えています。

次は、侮辱の文言を限定するということがあると思います。
どんな場合でも共通して禁止するべきは
「死ね」、「消えてなくなれ」等の命や存在を否定する文言は、
どんな場合でも処罰の対象とする必要が大きいと思います。

こういう言葉は子どもでも日常的に使っているようです。
その学校での発言にも厳罰化で対応するかというと
ここはちょっと躊躇します。
私はインターネットへの書き込みに限定するのも
バランスが取れて良いのではないかと思いますが、
考慮できていない要素もありそうな気がします。保留します。

次に、直ちに生命を否定するような侮辱ではないにしても
その侮辱をなされたならば
精神的に追い詰められて自死になりやすい場合も
処罰の対象とすることが考えられます。

中高年に対しては
これまでの人生を否定してしまうような言動であり
若者に対しては
これからの人生を否定してしまうような言動ですね。
あるいは、命はともかく
絶対的孤立を強いるような言動も危険ですね。

これをすべて処罰化することはなかなか難しいと思います。

では、限界事例はどうなのか。例えば
「あなたは存在する価値がないのではないか」
「人間のカテゴリーに入らないのではないか」
というような発言は
極めて深刻な中傷ですが、
生命を否定するとまでは言えない。
しかし、生命を否定することと同じ程度だったり、
あるいは、生命を否定する以上のこと
ということになります。

どれが刑罰の対象となり、どれがならないか
刑罰法規を作る以上明確にしておかなければなりません。
そういう難しい問題はあるわけです。

本当に必要な国の行為なので
政権が提案して野党が反対する
というような単純な政治問題にはしないでほしいと願っています。

このように法律を作って、国として
刑罰をもってしても禁止するべき範囲を提案する
という方法も大切なのですが、
どうしても刑罰の範囲は限定的にならざるを得ません。

刑罰にならない言動が
社会的に許される言動というわけではない
ということはお分かりいただけたと思います。

先ず、道徳などの社会的ルールとして
やってはいけないことというものが設定されて
その中の悪質なものは刑罰で禁止する
という流れが必要だと思います。
そうでなければ、
刑罰で禁止されていないことはやっても良いという
流れになるか、
デメリットを気にしないで広範な行為を刑罰で禁止する
という流れになるしかないのです。

あなたが何気なくつぶやいたツイッターやフェイスブックが
想定していない誰かが傷ついたということで事件化したら
あなたが逮捕されるということが横行してしまう
という危険があり、
それを避けようとしてしまうと、刑罰付きの法律はあるけれど
いちいち逮捕すると大変なことになるということで
多くを見過ごしてしまうということになってしまうということです。
しつこいですけど、それではだめだということで
すべてを逮捕していたら
犯罪なんて誰でもやることだ、逮捕されても運が悪いだけだ
ということで、犯罪が身近なものになってしまう
そうなってしまうと、刑罰があるから犯罪をやめようという
抑止力が無くなってしまうという
そういうことまで考えて法律は作らなくてはならないのです。

だから、刑罰を作るのは良いとしても、
それが刑罰の対象になるということを
国民が納得するような社会ルール作りを
刑罰に先行して行う必要があるわけです。

この点に大きな問題があると思います。

つまり、これまで国や日本社会は
無責任にインターネット活用を推進するだけで
それによる弊害に対してきちんと対処してこなかった
という問題です。

せいぜいしていることは、
極めて不完全な被害防止の啓発です。

しかし、本当に必要なことは
SNSを通じて人を傷つけるという
加害行為を防止するための啓発活動です。
この視点の活動が弱すぎると
私は思っています。

その結果加害行為が蔓延し、
その結果被害が増大するわけです。

本来ならば、SNSの使用は年齢制限を設ける
ということも検討されるべきことだと考えています。
加害防止の観点からです。

しかも、これは子どもに限らず
大人でも同じです。
企業内のメール連絡やチャットなども
労務管理で行う時は
信じられない表現が横行しているようです。
立派な会社で、インターネットに関連する会社であってもです。

これまでさんざん述べてきたことですが、
なぜメールやSNSが人を傷つけやすいか
どんな時に人が傷つくのか
そこを考えた上で
加害者防止教育、啓発活動を
徹底することが必要です。

これが無くて厳罰化だけが進められると
絵にかいたモチになるだけでなく
弊害も生まれやすくなると私は思います。


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代理ミュンヒハウゼン症候群に、行政が気付かず、真に受けて子どもを攻撃する構造を考える。成人になった子どもが犠牲者になりやすい条件と、行政行為のゆるみは、一番弱い女性に被害が集中していことが同じことだという可能性について [弁護士会 民主主義 人権]



代理ミュンヒハウゼン症候群という疾患があるそうです。主として、母親が自分の子が実際はありもしない病気にかかっていると主張し、検査などのために長期入院をさせ、場合によっては自ら異物を飲ませたりして、医師などに子どもが病気であると誤解させ、治療を受けさせるという病気です。アメリカでは、いくつもの慢性疾患がある子どもを献身的に世話をしていた母親が子どもに殺されたという事件があり、犯人である子どもを調べたところ母親が世間に言っていたような疾患は何ら見つからず、子どもは母親に長期間(何年も)不当に拘束されて解放される手段がなかったという状態だったことがわかったという事例が有名だそうです。日本では赤ん坊に他人の血を飲ませて吐かせて、吐血があったということで長期入院を余儀なくされたのですが、真実がわかり母親が逮捕されたとか少なくない事例があるようです。

しかしながら、そのような典型例でもなかなか発見は難しく、現実には、何の病気もないにもかかわらず、長期入院を余儀なくされたり、自宅療養ということで、社会から隔絶されて暮らしている子どもたちがいるようです。子どもが小さい時期ならば、逆に学校や行政でそのような母親による詐病が発見されるかもしれません。問題は、子どもが成人した場合のことです。

人間関係の紛争を見ていると、母親の特に娘に対する支配は、娘が成人しても変わらないことを見ることがあります。代理ミュンヒハウゼン症候群が報告されている事例は、子どもが乳児期から幼児期のことが多いようです。この時期は、子どもの母親に対する抵抗力が弱いですから、母親の思惑は成功しやすいということはわかります。児童、生徒の時期になれば、次第に子どもの反発が強くなり、詐病を作ること自体が難しくなるのはよくわかります。
しかし、夫婦問題に携わっていると、母親の娘に対する過干渉が、様々な弊害を生んでいることを多く目にします。母親は、ふと気を許すと、どこまでも娘を過度に心配し、娘の将来を母親の力で保護していきたいと思ってしまうことがあるようです。
そうだとすると、娘の反発が強く、娘が一時的に自分から離れた経験を持つ母親であればあるほど、娘に気が弱くなるような事情があり、そんな時に娘が自分に近づいた場合、娘を自分の支配下(排他的保護下)に置くように行動する傾向をよく見ています。
娘の気が弱くなる事情として、娘の病気、娘の子ども(孫)の障害、娘自身の社会的逸脱行動(犯罪、経済破綻、不貞等々)、離婚等があげられます。

代理ミュンヒハウゼン症候群は、そのような病気や人格的問題を抱えた娘を母親である自分が献身的に世話をして苦労をしているということを第三者にアッピールすることを積極的に行うことが特徴的です。そうして、世間の同情を自分に向けさせます。一般人は、そういわれたら同情の言葉を惜しむ人はいません。

母親の排他的保護が乳幼児に終わらずに子どもが成人になっても続くのであれば、母親の被害者は、乳幼児に限らないわけです。但し、子どもが成人に達した場合は、子どもは自分の人間関係、職場、地域、夫等があるため、自分の人間関係が母親からの被害を防止したり、軽減したりするわけです。しかし、子どもが孤立している場合、例えばシングルマザーで頑張っている女性や、非正規雇用で特定の職場の人間関係が形成できない環境、住民の交流のない地域などでは、大人になっても代理ミュンヒハウゼンの犠牲になりやすい環境があるということになってしまいます。

ちなみに、大人になった子どもに対して、年老いた母親はどのような詐病を仕立て上げるのでしょうか。最初に言うことは、性格がだらしない、経済的にルーズであり破綻しがちである、まともな仕事がなく収入が安定していない、男性関係がルーズであるから始まるようです。特徴的なことは、聞く方も恥ずかしくなるような過去の娘の失敗を平然と第三者に告げることが多いようです。そういうことを、母親は、地域の友人や親せき、但し自分の子ども本人と面識のある人に吹聴するとともに、次に地域の善意あふれる有力者や宗教団体に相談し、そして行政相談会で相談するわけです。この過程で、学習するようです。どうすれば、自分に同情が集まるか、他人が具体的に自分のために行動を起こしてくれるか、どの言葉が有効かを覚えていくわけです。前回の記事などでも述べましたが、支援者は全く無責任です。今自分の前にいる人の心配を何とか軽減することが唯一の善、使命です。その相談者である母親の子どものことなんて、これっぽっちも配慮できません。見ず知らずの子どもをとんでもないダメ人間であるという事実を承認した上で、代理ミュンヒハウゼン症候群の母親の歪んだ心に「寄り添って」しまうわけです。母親は自分の苦労を理解してもらったという喜びとともに、「やはり自分の子どもはまともではない」という確信を深めていくようです。そうして、相談員はマニュアルに沿って尋ねていきます。
「娘さんは何か精神的に問題を抱えているのではないですか。」
「娘さんは、訳の分からない言葉を発したりしませんか。」
「娘さんは、本当は何もないところで何か聞えるとか言いませんか。」
「行政で、娘さんに知られないように何とかできるかもしれませんので、裏付けになるような録音テープはありませんか。」
「娘さんには小さい子どもがいるんですね。子どもに何か問題が起きてはいないですか。」

そうやって年老いた代理ミュンヒハウゼン症候群の母親は、「精神病」、「児童虐待」という言葉を学習していくようです。また、知能は高い人もいますので、巧妙に不穏当な発言を誘導して録音することに成功するようです。
但し、行政が精神病だと決めつけることはさすがに難しいので、お墨付きを得るために精神科への受診を勧めます。ここで、精神病という決めつけは失敗するはずだと一般的の人は思うでしょう。「なんたって専門家の精神科医なのだから精神病ではないとはっきり言うでしょう。逆に代理ミュンヒハウゼン症候群を見つけてもらって、解決に向かうのではないか」と思うことがノーマルですし、そうあってほしいと私も願います。しかし、そうは問屋は卸しません。

代理ミュンヒハウゼン症候群の母親は、病院が大好きです。娘の疾患を口実に、本来娘は婦人科など別の病院に行くべきところをまんまと精神科を受診させます。そうして子どもとは別にその病院に何度も行って、精神病と疑うべきエピソード(もちろん作り話)を延々に、主治医に吹き込みます。主治医は自分が診察しているときは、何も精神病のエピソードを認めていないにもかかわらず、代理ミュンヒハウゼン症候群の母親の話にもとづいて、精神病の疑いという判断を進めてしまうのです。

同時に代理ミュンヒハウゼン症候群の母親は、娘を知っている親戚や地域の人たちに、「娘は重い精神病を患っていて、今仕事もできず入院している。私も経済的に大変だけれど、娘の借金を返済しているんだ。孫も育児放棄されているから自分が面倒を見ているんだ。」というような嘘を吹聴して回ります。娘が結婚して離れて暮らしている場合は、そんな母親の話を真に受けてしまいます。

さらに、行政(保健所)にも通報して、何とか娘を強制入院させようと奮闘して回ります。この情報が行政から精神科の主治医に行くわけです。現在患者の家族が精神科に強制入院する手続きを始めようとしているようですとあやふやな情報を提供してしまいます。もちろん、娘本人の同意はとりません。母親の要請に基づいて主治医に虚偽の情報を提供するのです。

みんな、代理ミュンヒハウゼン症候群の母親の「心配」に寄り添った結果なのでしょう。でも、それによって、娘は甚大な被害を受けます。

さて、行政など公的機関、精神科医まで、代理ミュンヒハウゼン症候群の母親に振り回されて、その娘の人権侵害を行う構造はどういうものなのでしょうか。

第1に、「まさか母親が嘘までついて自分の娘を精神病だというはずがない。」という素朴な母性神話が影響をしているということが一つです。これは、実際はありもしないDVをあったと言われて、「まさか妻が自分の夫を嘘をついてまでDVがあったというはずはない。」という心理と同じなのでしょう。それよりも強いかもしれません。本人に確認すればすぐに嘘だとわかるけれど、本人に面談しないということも共通です。

第2に、特定のワードが出されると、政策的にそのワードに対する対応が最優先となってしまい、他の考慮すべき要素を考慮することができなくなるということがけっこう大きな事情だと感じられます。
「児童虐待」、「DV」、「精神病」もそのようなワードです。そういう言葉が出てしまうと、行為者の真実の検証ということはすっかり抜け落ちてしまい、「弱者保護」や「社会防衛」の観点からの行政行動が発動されてしまうようです。
本人に確認もしません。恐ろしいことです。先の精神科医に情報提供をした行政も、娘本人と話もしていません。それでいて娘の主治医に、虚偽の娘の症状の情報を伝えて、主治医に誤った判断をさせかねないことを何の躊躇もなくしています。そのことを私が指摘しても、なかなか問題があった行動だという結論を認めようとしませんでした。

第3に、もし、通報があって、その人に何らかの保護の必要性があったとしても、特に緊急性がない場合は、その人の不利益が生じる場合は、きちんとした裏付けがあってから行政発動をしなくてはならないという鉄則が緩んでいるのだと思います。
噂話のレベルでの話を真に受けて行う人権制限はもはや適法な行政行為とは言えないでしょう。

第4に、寄り添い最優先の風潮です。目の前の人の苦しみを解除することが最優先することになり、その人の話を肯定してしまう結果になる対応が、別の誰かに回復しがたい損害を与えてしまうということを考えられないということです。

結局、「悪」のカテゴリーが行政的に設定されていて、そのカテゴリーに該当する訴えがなされると、真実性をさておいても「悪」の排除がヒステリックに開始されてしまう。こういう事態なのだと思います。

最大の問題は本人と面談して真実性を確認しないということです。
これは本来何も弁解できないことだと思います。

一度行政が悪のカテゴリーに反応して行動をし始めると、特定の部署だけでなく、その行政行為がその事件の前例判断になっていきます。代理ミュンヒハウゼン症候群の母親の行為が、名誉棄損などの刑事犯罪を構成する場合でも、警察は行政から事情を聴いて、犯罪は成立するが立件しない、被害回復に協力しないという態度をとることがあります。裁判所もなかなか法律要件があるにもかかわらず、判断を先延ばしにすることがあります。法律的要請がないにもかかわらず、法的判断の枠組みを超えて、児童虐待や精神病の有無を慎重に判断してしまうわけです。

代理ミュンヒハウゼン症候群は、このように大事になる場合だけではないように感じています。母親としての自信を持てない事情がある母親が、自分は母親であるという実感が欲しくて子どもを犠牲にしてしまう、という少ない事例があるように感じます。そして、孤立しがちな大人になった子どもたちがどうしても存在してしまう環境があります。だから、小さな、無意識の母親による子どものへの支配が多くあるような気がするのです。

代理ミュンヒハウゼン症候群は、子どもを病気に仕立て上げて他者から同情を集めるということが典型ですが、現代では少し違う形態をよく見ます。子どもからの同情というか、感謝というか、自分に対する服従です。つまり、「あなたはこんなに人間として失格のところがある、私はこれまでずいぶんしりぬぐいをしてきた、あなたの友人や、恋人も長続きしなかったのはあなたのそのダメなところ原因だ、それはなおらない、夫とも長続きするはずがない、やがて嫌われて去られてしまうにきまっている、私は見捨てない、母親だから見捨てない、私の言うとおりにすれば間違いない。」という流れが見られることがあります。

これも娘だけでなく、娘や娘の夫、その他の親戚、友人間家の心に回復しがたい影響を与えています。

整理します。
1)苦しみを見せる人間の虚偽の相談を行政が寄り添って追認する。
2)行政は特定のワードを出されると、本人から事情聴取しないで事実認定をして、本人の不利益を考えないで行動を開始してしまう。
3)最初の行政の行動によって他の公共機関は悪の排除の連鎖を止められない。
4)このため被害者は、不当な人権制限を受けるが、救済される方法がない。
こういうことがよく見られるわけです。

この被害は、結局は、孤立している人間に集中していきます。経済的余裕や知識があれば、まだ弁護士等に依頼して自分の主張をすることができますし、公的機関によって主張が認められることもあります。
しかし、例えばシングルマザーとして1人で働いて子どもの面倒を見て、失職におびえている人は、離婚事件の時の数十万円の法テラスの費用の返還もできていませんから、法テラスの利用もスムーズにはいかないようです。そもそも法テラスを利用できるということも知らない人も多いでしょう。というか、現実を打開しようという気持ちも作りにくいし、維持しにくいということが実情です。母親から攻撃されてしまえば、誰にも自分の苦しい状態を話す人もいない、勇気を出して相談しても母親がそういうのだからということで、「やっぱり精神病なのではないだろうか。」という先入観で見られてしまい、さらに傷ついてしまいます。結局、寄り添い優先主義、キーワードへの反応による人権への配慮懈怠、裏付けの検討の欠落、行政判断の連鎖は、最も孤立して、経済力もない、現代では多くいる女性に集中するようにできてしまっているのです。

間違いを恐れていては虐待防止はできないというのが今の風潮かもしれません。虐待を防止するためには、犠牲も仕方がないということは果たして正当なのでしょうか。その犠牲は、多くは人権侵害という形をとります。行政目的のためには行政による人権侵害も仕方がないというのでは、人類史は近代以前に逆戻りしてしまうのではないでしょうか、

虚偽虐待通報も、虚偽DV保護も、虚偽精神病も、根は一つです。根本に勇気をもって切り込まないと、救済されない人権侵害が増えていくだけだと思います。そして、その被害は、どんどん増えていく普通の女性に集中していく、このような犠牲はやがて女性を中心に拡大していくと私は思います。

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【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(後編)】被害者の心理 [弁護士会 民主主義 人権]



<被害者の心理がどのように失敗に結び付くか>

自分もある方面で渦中にいるので、自分の心理状態と心理反応を分析して、被害者の心理とその弊害を考えてみました。

1)前提として、人間の思考や言動は必ずしも理性的でも合理的でもない

弁護士をしているとつくづく感じるのですが、人は大事なところでもあっても、よく考えて行動しているわけではないということです。一般の方々は、どんな時も、冷静に後々のことを考えて大事な場面で意思決定をしていると勘違いされていますが、どちらかと言えば人間の意思決定はそうではない、何となく直感的に行われていることが多いようです。
例えば対立している人のどちらかに味方をしなければならない場合でも、「双方の言い分を吟味して論理的にこちらが分のあることを言っている」なんて言うことでどちらに味方するかなんて考えていません。大体は、どちらと付き合いが長いか、どちらがその場の人間関係の秩序を維持することに役立つと感じるか、どちらの顔や服装が好ましいか、あるいはどちらが負けているか、どちらが勝っているか、その年齢、かわいそうなのはどちらか、自分が反撃されないためにはどうするかなどという、こういうことでどうするか決めているようです。これは人間一般の傾向で、考える労力を省いて、直感的に意思決定をして省エネする傾向にあると言われています。
自分が被害者ともなれば、自分を守ろうとする意識がどうしても出てきてしまいます。この場合はさらにじっくり考えることは至難の業です。いち早くなるべく簡便に、自分に降りかかった危険を跳ね飛ばそうとしてしまいます。多かれ少なかれ人間はそのような傾向があるわけです。生きるための仕組みということになります。
それでは、どうしようもないかというとそうでもないようです。最近のノーベル賞受賞者や心理学の賞の受賞者は、まさにこういう研究をしている人が多いのです。人間のこのような傾向を分析し、それにどう対処するかというテーマです。つまり、人間がどういう風に間違いをする傾向にあるかを予め知っていれば、間違いの場面に直面していると気が付きやすくなる。そのときに直感的思考ではなく、分析的思考をするように意識づけることによって、その場面で間違いをする確立を低下させようという考え方です。また、他者がどのように思考を省略するかということをつかんでいれば、ではどうやってアッピールすればよいかという戦略も組み立てられるわけです。ノーベル賞を取った心理学者はノーベル経済学賞を受賞しています。
一番大事なことは、被害当事者の方は、自分には間違った行動、利敵行動をする可能性があるのだということを自覚することです。それはあなたの能力や人格の問題ではなく、被害者だから無意識に自ら損を招いているということなのだということなのです。


2)被害者が陥る心理状態

わかりやすく説明するために、ある日ある時突然子どもを連れ去られて、様々な手段を使われて子どもと会えないという連れ去り被害を受けた被害者の心理を中心に考えていきましょう。
以下の心理になることは当然だと思います。
・何が起きたのかわからない。
・事実を受け入れられない。なかったことにしたい。
・相手が出て行った理由がわからない。
・事態を飲み込めないうちは、相手と子どもの安否が心配になる。

ごくごく初期はこのような混乱が多いでしょう。少し落ち着くと次の感情も出てくると思います。
・相手が自分を否定的に考えていることはわかるが、具体的にはどういう考えか、どういう理由なのかわからない。
・相手が自分について、誰にどのようなことを言っているかわからない。
・相手に対してもやもやした怒り、不気味さ、気持ち悪さがわいてくる。
・自分について自信が無くなりやる気が起きなくなる。
・自分の未来がことごとく今回のことで妨害され、障害を受け、何をやってもうまくいかないかもしれない等と考えてしまう。自分のこれまで積み上げてきた実績が、こんなことで終わりを迎えるのかという考えがよぎる。

さらに警察や行政や司法が絡んでくるとさらに複雑になると思われます。
・誰が味方で誰が敵なのか見当がつかない。誰が手伝ったのかわからない。
・理不尽なことを誰も是正してくれないのはどうしてなのか。自分は大きなものから否定されているのかもしれない。
・自分を守らなければならないほど危険な状態だとはわかるが、どうやって自分を守ればよいのかわからない。解決の方法が見えてこない。

一言で言えば、連れ去りの被害者は不条理を実感しているのだといえるでしょう。しかし、被害者は、自分が不条理な目にあっているということさえ自覚できないことがあります。何が起きたかわからないままに苦しみ続けることもあります。自分のわからないところで、「自分のこと」が勝手に進められているということ、自分を守らなければならないのに守る方法が無いということは、人間の精神を激しく攻撃します。この激しさを考えれば、心理的に正常でいるということはあり得ないことは当事者ではなくともよくわかると思います。

3)被害者の第三者に対する感情・要求

不条理にさらされた人がどのように考えるか。
・不条理は是正されるべきだし、早急に是正されるはずだ。
・第三者、特に公平な人、人間関係の秩序を維持する役割の人たちは自分の味方になるはずだ。裁判官、弁護士、警察官、公務員等々。
・事情を説明すれば、誰しも自分の味方になってくれるはずだ。
・自分の被害は誰でも共感されるはずだし、親身になってもらって当然だ。
・誰かが自分を助けてくれるはずだ

人間は危険にさらされると、仲間に助けてもらうことをつい期待してしまう生き物のようです。自分を殺そうとする人間に対しても多くの人が命乞いをするのは当然のことです。
文明発祥以前、人間は仲間と助け合って厳しい生存競争を生き抜いてきたわけです。それが現代においても遺伝子に残存してしまっているようです。このシステムは人間の敵が人間以外の例えば猛獣である場合は、とても良く機能します。仲間の人間よりも猛獣を助けようとする行動をとるということはおよそ考えられません。自分の命を顧みずに仲間は猛獣から仲間を助けようとしたでしょう(袋叩き反撃仮説)。しかし、現代社会は、人間の敵の多くは人間です。人間と人間との対立に苦しむわけです。そしてその対立を見ている第三者もいることが特徴です。その人たちは、文明以前のように、どちらが敵でどちらが味方なのかを判断したがるようです。これを本能的に一瞬で決めてしまいます。そして、仲間でない方は敵だとしてしまいます。つまり仲間でない方は猛獣を扱うみたいな扱いをされる危険が生まれてしまいます。その判断こそ、非論理的に思考省略的に決定してしまうのです。自分が期待するほど、第三者は自分を味方してくれないことを経験するわけです。そして、関係のない第三者が自分を攻撃していることを知ることになります。もちろんわけがわかりません。
このような状態に陥った場合の人間の心理として、私は以下のような発想、行動傾向を良く目撃しています。自分でもつい最近体験しています。

・他者、特に秩序を守るべき人物に対する要求度が高くなる。(その人の事情を考慮しなくなる。)
・自分の期待に応えてくれない人に対してじれったい思いが強くなる。(同)
・自分の感情を聞いてくれる人に対して、怒りをぶちまけてしまう。(同)
・何か自分に不利な事態が、他者によって維持固定されるのではないかと疑うようになる。何かをしなくてはいけないという焦りが生まれる。
・他者が話をしていても、自分にとって悪い結論を言おうとしているのではないかと思い、つい話を先取りして、話が終わらないうちから反論を始めてしまう。(実際はその予感は当たることが多いが、話を遮ること自体が相手を怒らせる)
・自分が置かれている理不尽さですべての人は価値判断をするべきだと思う。つまり、期待している人も自分の敵を一緒に攻撃しないことはおかしいと感じてしまう。
・自分の思い通りにならないことは、誰かの自分への攻撃意思の表れなのではないかと悲観的に考える。

4)第三者の心理
  当然のことながら、第三者は、被害者の心理なんてわかりません。このことに被害者は気が付きませんし、だから自分の行動をどのように修正するべきかという発想はなかなか持てないのです。
 ⅰ)敵対する第三者
   先に述べたように、敵対する第三者は、あなたが悪だから、あなたに反対だから敵対するわけではありません。実際に対立する二人うちの、どちらの言い分が正しいか吟味しているわけではないのです。ただ、あなたと対立する人物を擁護しようとしているだけなのです。あなたと対立する人を擁護しようとして、反射的にあなたを攻撃する結果になっているだけです。つまり、こういう人は、「1人が落ち込んでいるのだから誰か落ち込ませた犯人がいる」という二項対立的な観点に立っていつのです。思考省略型の発想の典型ですね。そうして目の前のかわいそうな人を助けるということで、その人が仲間だと思うわけです。そうすると、その人にかわいそうな思いをさせている人があなただと思い、あなたは敵だという発想になってしまうわけです。敵には容赦しないわけですから、その人の相手であるあなたを攻撃してしまっているだけです。そこでいうかわいそうという判断も、性別が自分と一緒とか、年齢が低いとか、救いを求めている顔をしているとか類型的に弱い立場の人を助けようという反射的に決めているだけです。その人が本当に助けられるべき人なのかを吟味しているわけではありません。そうして、敵と味方を自分の頭の中で分けてしまうと、あとは思考停止です。多くの人間の思考省略型の意思決定はこういう風に行われています。対立者が猛獣であり、倒すべき存在ということに自動的に思考が成立してしまいます。
  こういう場合、猛獣扱いをされた方は、事実を証明していくことが有効ではあります。しかし、一度敵味方が区別されてしまうと、味方の言い分を疑うことを差し控える気持ちが生まれてしまいますし、何とか敵の反論の落ち度を探そうという意識になってしまいます。通常では有効性のある証明もなかなかそれを受け入れようとしなくなるということが起きます。話が通じなくなるのはこういうメカニズムです。これは頭に入れておいていただきたいと思います。また、元々、自分がどこで、どのように攻撃されているのかわからないので、反論しようがないということも重大な問題です。
 ⅱ)仲間だと思える第三者
  仲間のように見える第三者でも、被害者の要求するほど支援してくれるということはありません。被害者は他者に対して過大な要求を持ってしまうから、そのフィルターで仲間に見える第三者を評価してしまいます。
  しかし、通常第三者は完全な仲間にはなりません。利害関係が一致する第三者はこの世にいないからです。利害が一致している部分では仲間ですが、利害が異なる点では仲間であることを要求できません。全部同じ境遇の仲間は一人もいないと考えるべきでしょう。
  それでもこの第三者なりに被害者を支援しようとしているわけですが、あまり要求が過大になってしまうと、第三者は正論を突き付けられている、正義感情を刺激させられているという受動的な意識が強くなり、被害者を持て余すようになります。特にその第三者が、被害者をかばって、その人としては大変危険を冒して行動しているのに、被害者が「どうしてもっと自分を助けようとしてくれないのだ」というような態度、言動を第三に向けると途端に不愉快な気持ちになるでしょう。通常被害者は、その第三者が自分のためにどのようなことをしてくれているのかわかりません。さらなる援助をリクエストしてしまいます。第三者は、被害者が何を知っていて何を知らないかということをあまり認識していませんから、必要な情報を提供しようという意識は薄いかもしれません。これは、その第三者に問題があるというよりも、第三者とはそういうものだと頭に入れることが実践的には役に立つことだと思われます。
  第三者は、紛争に巻き込まれることを嫌がります。そのように考えることは誠実な人柄だと本来は評価するべきです。何が起きたのか、第三者はわからないですから被害者に一方的に加担しようとしないならば、むしろ本来信用するべき第三者なのです。
  また、第三者は、被害者が自分で解決することを望む傾向があります。なるべく自分の労力を省エネしたいわけです。これは人間の思考パターンとして普遍的なものです。たとえ、被害者が一方的に被害を受けていたとしても、できれば加害者と話合って解決しろということを言うこともありますし、自分以外の仲間を増やして加害者と対決するように提案することもあります。第三者は、被害者の心細い気持ち、そもそも自分が孤立している理由がわからないといおう理不尽な気持ちまでなかなか配慮することはできません。第三者は、自分だけが対立する二人の間に入って、やらなくても良い仕事をさせられているのに、ただ感情的になって解決に向かって何もしていないように見える被害者に、イライラしているのかもしれません。
  しかし、なすすべなく一方的な被害を受けている被害者に解決能力はないということが多くの場合当てはまるように感じます。
  このような第三者の心理は、人類普遍的なもので、よほど何らかの事情で肩入れをしていない以上は、そういうように感じるものだということを頭に入れておくことが大切です。そうでなければ、知らないうちに孤立していく危険があります。
 ⅲ)純然たる傍観者
  何も理解しようとしない傍観者という人たちが圧倒的多数なわけです。こういう人たちは、とにかく紛争に巻き込まれることを嫌います。それはそうだと思います。紛争が好きだからといって首を突っ込みたがる人はそれほどいないでしょう。
  純然たる傍観者は、怒りの感情を本能的に拒否する傾向にあります。人が怒っていることをみることを嫌がるわけです。怒りの感情を目撃すると、どうして怒っているのだろうかと懇切丁寧に理由を紐解く人もそれほどいないことはお分かりだと思います。
  怒りのとばっちりを食うとか、八つ当たりを受けるとか、自分も激しい感情を持たされるのではないかということが億劫に感じるのだと思います。また、現在の自分の置かれている状況から、他人の話で心を動かす余裕はないと考えやすいのかもしれません。案外人間は消極的な意味での平和主義者なのかもしれません。自分にはモチベーションがないのに、何かをしなくてはいけないということも、近づくことを拒否する理由になると思います。
 ⅳ)人間はキャッチ―な言葉に弱い
  わかりやすい言葉に弱いということも、人間の特徴かもしれません。これは特に対立する第三者、純然たる傍観者に強くなるように思われます。
  例えば「DV」という言葉出れば、自分が想定しうる最悪のDVが起きていたのだというイメージを作ってしまいます。本当は、嫌みが多いとか、ダメ出しが多いだけという話というか、そう感じてモラハラだ、DVだと言っているのかもしれません。しかし、第三者はDVという言葉を聞くだけで、土下座させて1時間説教するとか、何かあるとすぐに平手打ちするとか、人格を否定しつくすような脅迫が続くとかそういうことが起きている、あるいは主張しているなどというように勝手にイメージが作られていきます。 
これと似たような言葉が、「いじめ」、「虐待」、「パワハラ」、「モラハラ」等です。具体的には何もわからないのに、悪い方向でのイメージが勝手に膨らんでいくわけです。DVがあったと主張するだけで、本当にあったとして話が始まってしまいます。しかも激烈なDVがあったというイメージになります。実際、それを聞いた第三者は、その人が大変恐ろしい人間だというイメージが育っていきます。その人から自分を守らなければならないという防衛意識が強くなります。つまり怖いのです。怖いときに最近の人間は、マニュアルに頼ろうとします。その時点では、第三者から見ると、被害者は名前を持った一人の人格主体ではなく、1人の「DV加害者」になります。誰彼構わず文句を言って、気に食わないとクレーマーのように執拗に第三者自身が攻撃を受けると、つい想定をしているものです。なんとあなたは警戒されているのです。あなたから自分を守るという意識が、第三者のイメージの中であなたをさらにモンスターに育ててしまいます。
5)結果としての被害者の孤立
  見てきたように、被害者は、理不尽な状態から脱却したい、支援者は自分を十分に支援しつくすべきだ、第三者も自分に共感するべきだと思ってしまいます。これに対して通常の第三者は、そこまでは付き合いきれないという気持ちにあり、その間にギャップがあります。
  これは被害者と被害者の支援者に常にあることのような気がしてきました。精神的に衝撃的なダメージが残る被害を受けた場合は特にそういうギャップがあるようです。もちろん、人によって程度はだいぶ違うのですが、そういう火種は常にあると思います。そもそも支援者は、被害者を支援するだけでなく、他の仕事もありますし、他の人間関係でも時間を使わなくてはなりません。すべての時間と労力を被害者に捧げることは不可能です。
  被害者はそういう温度差を感じ取り、ますます苛立ちや自分が尊重されていないという思いが強くなります。

  その結果、以下のような現象が起きがちになります。
・本来、ニュートラルの立場にある人や、どちらかというと自分の味方である人の、些細な落ち度が目につく、自分に対する共感度が足りないと感じやすくなる。
・相手の気持ちを考えにくい状態なので、もっとあれをやれ、これをやれと指図をしてしまいます。自分の不安に任せたかなり細かい指示をしてしまいます。
・事態が進展しなかったり悪化したりすると、支援者を責めたりすることも怒ったりします。
・支援者は、これだけいろいろ手を尽くしているのに、あまり本質的ではないことで労力を使わされたリ、顔をつぶされたり、時間をとられたりすると、だんだん被害者が怖くなったり、不愉快になったりします。もちろんパフォーマンスは下がります。瞬間的なものであっても、支援の気持ちが失われることがあります。
 ・これが続いていくと、どうして自分が攻撃されながらこの人のために行動しなければならないかわからなくなっていきます。
 ・結局支援を打ち切ることになるわけです。
 被害者が支援者を攻撃しているわけではないのに、支援者は攻撃されているという意識を持ち、自分を守るためにその場から離脱しようとするわけです。

 
 ここまで極端な例ではないけれど、被害者の感情がさらに亢進してしまうと、以下のような印象を他者に与えています。
・単に相手に便宜を与えているだけの人(自分を攻撃しているわけではない)に対して、限りの無い恨みを抱く。自分の味方ではない人は自分の敵だと感じてしまう。
・自分の利益を図るために、周到に計画を立てて計画に従った行動ができないし、計画も立てられない。感情的な、反射的な言動が増える。
・自分だけが苦しんでおり、敗者となっている。他者、特に相手は、勝者であり自分と反対の立場であるから、楽しく勝ち誇って過ごしていると感じるようになる。
・相手は自分に対して、現時点でも、さらに攻撃しようと思っているし、貶めようと思っているはずだと確信している
 ・些細な出来事に対しても、自分が不利益を与えられるのではないかと思い、攻撃をすることをためらわない。第三者から見るとけんかっ早く、誰彼構わず攻撃するとみられていきます。

もしかすると被害者が感じているように、加害者が高笑いしていることもないわけではないでしょうが、実際は加害者も苦しんでおびえていることの方が多いように感じます。
いつも被害者の自己防衛的発想と言動、他者に対する攻撃的言動を見せられると、心が苦しくなっていきます。勢い、なるべく関わらないようにしようと思うわけです。
無駄な鉄砲を多く撃つようになります。例えば共同親権に反対する人に対して意見を言えば良いのに、あたかもDV支援者がDVがあったと決めつけるときのように、この人たちは共同親権に反対するに決まっていると決めつけて攻撃してしまう。あるいは、仲間として協働することをこちらから拒否する。

第三者は、すべての善悪、価値観、正義を、親子の断絶と交流という一つの物差しだけで二つに分けようとはしていません。

そこまでこの問題に肩入れはしません。それでも、意見を聞かれたら共同親権に賛成だというかもしれない人も多くいるわけです。実際に世の中は、完璧な支援者もいないと言いましたが、完ぺきな敵対者も多くはないのです。それにもかかわらず、共同親権反対者が、例えばAさんの主張に賛成しているという一事をもって、こちらの仲間ではなく、敵の仲間だと決めつけてしまう傾向があるようです。働きかければ味方になってくれるはずの人を自分から遠ざけてしまうということがよく見られます。味方でなければ敵だと考えやすいのは被害者の方かもしれません。そればかりではなく、反対者が別の論点で持ち上げたというだけで、そのAさんを攻撃することもあるのです。味方に鉄砲を撃っているわけです。これでは、比較的全面的に支援する人だけが仲間であり、そうでない人はみんな的だという扱いになってしまいます。そうして、自分の賛成者の中だけで共同親権推進の意見を交流させるだけになってしまう結果となるわけです。これでは、世論形成は永遠にできないでしょう。
さらに、一般の人たちに対して、極めて致命的な印象を与えてしまいます。つまり、このようにむやみに人を攻撃する人とは一緒に住めるはずがない。という印象操作です。多くの被害者は、被害前は円満な性格をしている人が多いようなので、被害が影響をしていると感じているのですが、一般の方はそこまで考えることはありません。今見ている事実に基づいて判断するしかありません。
結局、第三者から見ると反対論者の言う通り、子どもを連れ去られた被害者と自称している人たちは、元々攻撃的で、家族についてもいちいち細かい揚げ足をとっていて、相手の気持ちを考えずに自分の主張ばかりをしている人だという印象を与えてしまう危険があるわけです。その結果、連れ去れたということはDVがあったということだよねという確信を持ってしまいかねません。これでは、反対論者の言う通り、離婚の多くがDVが原因だという誤った認識を裏書きしてしまうことになります。
これが痛恨の利敵行為です。
こういうことを繰り返していたのでは、共同親権の世論形成ができないどころではありません。共同親権は危険な制度だということを宣伝しているようなものです。共同親権制度を阻害する一番の問題は、むしろ少数の反対論者ではなく、反対論者の挑発に生真面目にのってしまう「被害者の心理」なのかもしれません。

だから、やるべきことは、前編の結論と同じです。共同親権、共同養育が子どもの利益であるということを淡々と語っていくことです。これを分かりやすく表現する。あなたを支援しない人も、子どもの心細い姿はイメージしやすいのです。まさに我々がやりたいことは、このような子どもに自信をもって人生を渡って行ってもらうことです。子ども視線で、子どもの利益のために行っているということをアッピールすることが鉄則です。
運動の中で「子どもはお父さんともお母さんとも暮らしたい。」というアピールを見ることがありますが、とても素晴らしいと思います。
共同親権がいかに子どもにとって利益なのかということを淡々と説得していくことが極めて有効です。子ども目線の主張こそが最優先でなされるべきだと思います。
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【骨抜きにならない共同親権制度を創設する運動において留意するべきこと(前編)】 反対者の「論理」を踏まえた、私の考える「何を主張するべきか」。 [弁護士会 民主主義 人権]


<共同親権制度は、ほぼ外圧頼みという現状なので、選択的共同親権制度という骨抜きに着地させられる危険性が高いこと 当事者の奮闘が求められているという客観的な状態であること>

現在、法務省において離婚後の共同親権制度が議論されています。国の制度ですから世論の支持が必要になります。過労死等防止法の制定の際は、過労死防止に表立って反対する人はいませんでした。県議会や市議会でも全会派一致で制定を促進する決議があげられました。遺族の方々を中心として、少数派にならないように、多数派になることを意識して運動をされていました。政権与党(安倍総裁の自民党)の分厚い支持、法案推進の方針を勝ち取り、法律は制定されました。
ところが、共同親権制度創設には、少数者ですが表立った根強い反対派がいます。また、「単独親権をやめて共同親権にする」ということには、「過労死防止」という誰でも賛同されやすいものと違って、多くの国民にとってわかりにくいスローガンです。
共同親権制定には外圧がありますから、言葉の上では「共同親権」という言葉が入る制度ができるとは思います。実践的な問題は、言葉では「共同親権」とはつくけれども、例えば「選択的共同親権」制度ということで骨抜きの制度が作られてしまう危険をどう克服するかというところにあると思います。
選択的共同親権制度とは、夫婦の双方が合意すれば共同親権になるけれど、一方が拒否すればこれまで通りの単独親権制度とするという方法です。これでは、現状とそれほど変わりはないでしょう。様々な政治家のこれまでの発言からすると、「落としどころ」として、選択的共同親権制度が、数年前から検討されていたのではないかと感じる事情がたくさん見られます。これでは、一方的な連れ去り別居をして、子どもの監護を排他的に継続し、離婚をして親権を取得し、そのまま子どもを他方の親と遮断するという行動が、親権制度が変わっても維持されてしまうことでしょう。制度創設は、なかなか難しいことですから、今のタイミングで選択的共同親権制度となってしまったらその後に修正することは当面難しいと覚悟をする必要があると思います。
今、親権制度について知識があり、子どものための制度であるということを知っている人はどれだけいるでしょうか。かなり絶望的だと思います。共同親権制度を主張するべきである常日頃子どもの権利を主張している人たちの推進の主張も知りません。私が不案内なだけかもしれませんが、子どもの権利を一番無視する連れ去りや単独親権について何も言わないことが不思議でなりません。当たり前の、世界レベルの共同親権制度とするためには、結局当事者の方々の頑張りがとても重要だということになります。
私ごときが、運動論をお話しすることはいささか出しゃばりすぎかもしれません。しかし、当事者の方々のそばで運動を見ている者として、また自分も別の分野で同じような立場に苦しんでいるということから、色々見えることがありました。また自分の図々しい性格からも、これは私でなければ言えないことだなあと思いました。変な使命感からこの記事を書くことにしました。

<世論形成のためにという視点が必須 反対派の弱点>

先ず、情勢分析をすることが大切です。先に述べました通り、法案成立の推進力は今は外圧が中心です。これは強力な推進力です。ところが国内の反対派の力が大きくなれば、こちらに配慮して国は何とか外圧をかわそうとすると思います。その場合は、翻訳しにくい日本語を屈指して選択的共同親権とするという方法をとるでしょう。だから、今は反対派との切り結びが重要にはなると思います。ただ、ここでいう「切り結び」というのは、どちらが世論の多数を獲得するかということです。この観点からの一番の誤った行動は反対派を直接攻撃すること、例えば論破しつくそうとすることです。(論破しようとするほど、多数が離れていく仕組みについては後編で。)
先に、反対派とどう切り結ぶか、直接対決するような場面ではどのようなことを心掛けることが戦略上有効かということについての私の考えをお話しします。
共同親権制度の目的は、子どもの利益の推進です。ご案内の通り諸外国では離婚は自由ではなく、裁判所などの関与を経て、子どもの養育方針を確立させて初めて離婚が認められるという法制度をとっています。子どもの利益を度外視して離婚は認められないのです。日本だけが、世界の常識とは異なり、大人が自分たちで勝手に離婚ができるという制度となっています。他国と比べて日本ではまだ子どもの権利、子どもの利益ということの検討が圧倒的に遅れているということが言えます。だから、外国は、日本に共同親権制度を作ることは人権問題だから、圧力をかけても内政干渉ではないという考えをとっています。
では、共同親権反対派は、どのような理由で反対するのでしょうか。子どもの利益になることならば、反対する理由はないはずです。実は反対派は、私から言わせてもらうと、争点となっている離婚後の子どもの利益という観点では何も考えていない、少なくとも争点については主張が無いといってよいでしょう。あくまでも、母親という大人の利益を理由に反対していると私には感じられます。「DV夫」から女性を解放するためには、離婚後も子どもについてDV夫と話をしなくてはならなくなる共同親権制度は創設してはならないという意見が主たる理由ではないでしょうか。
つまり、反対派の最大の弱点は、子どもの利益を促進するための制度を作ろうという時に、それは大人の利益にならないから反対だというところにあります。正面切った議論を回避しているわけです。
こちらとしては、大人の利益も考えましょうというおおらかな態度で良いわけです。共同親権としたうえで、例外的なDVの問題は例外的な対応をして女性を苦しめないようにしましょうということで良いわけです。但し、子どものためには、それでも一緒に暮らしていない親との交流が有益であるとされているので、その例外措置をどのようなものにするかについては細やかな制度設計が必要だということになります。
ところが、反対派は子どもの利益をどうはかるかということについて、定見はないようです。制度には必ずメリットデメリットが両方ありますから、デメリットを述べることはよいのですが、それではメリットがないことをどう手当てするかということを述べるべきですが述べません。極めて無責任な態度だと批判されなければなりません。まさに争点そらしで、かみ合わない議論を敢えてしているということになります。意見表明できない子どもの利益を無視しているわけです。「子どもの利益をどう図るか」という問いに対して答えないのですから、「ご飯食べた」という質問に対して「ご飯は食べていない」(パンを食べたから)というご飯論法と本質的には変わらないと思います。
さらに反対派はDV夫からの解放を言うのですが、離婚の原因の多くは、実際はDVと言えるようなことではありません。圧倒的多数の子どもたちは、親がDVをしているわけではないのに一人の親とは会わせてもらえないのです。親が家から追放されていることも日本には多く残っています。通常家から追い出されて子どもが会えなくなるのは母親です。単独親権を残存させることは、子どもと一方の親を断絶させることにつながっています。それにもかかわらず、圧倒的少数の事例であるDV離婚のために、それ以外の大多数の子どもが親に会えない、親を慕うことができないという親子の断絶の中で成長することを余儀なくされているわけです。反対派、この悲劇を継続させる結果になるということが、私からすれば大きな弱点だと思うのです。離婚するほど嫌だとしても、子どものために我慢してもらうしかないと思います。もっとも野放しにするわけではなく、主として行政が、話し合いの場の設定など安心して協議ができる人的物的支援をする必要があると思います。このシステムは、本来離婚前から活用できるようにして、離婚自体を減らすことが本当の子どもの支援だと思っています。支援がとてもできないような、面会が重度の損害をもたらすような、そんな激しいDVがあった離婚というのは、極めて少数であるということが私の実務家としての実感です。
大事なことは、大人の利益をいうことはよい。けれど、制度の目的である子どもの利益をどのように考えるかにこたえるべきだということなのです。ここを言えない反対派の論拠が貧弱であるということが反対派の最大の弱点です。どこの国でも共同親権制度を創設するにあたって、子どもの利益とDV被害をどのように調整するかということが十分議論をされています。その論議の結果、どこの国も共同親権制度を創設しているのです。DV被害はどこの国でも共同親権制度の問題の所在とはなっていますが、制度を創設しない理由にはなっていないのです。
さて、ではどうするか。反対派を批判すれば、共同親権制度が推進されるかというと、これは必ずしもそうではありません。ここが大事なところです。批判はそれがどんなに正当なものであっても、第三者は正当な批判を支持するとは限りません。むしろ批判すればするほど、第三者は引いていきます。ここが大事です。
誰かが誰かを批判することは、第三者からすれば、それを見聞きすることは抵抗があるものです。むしろすんなり共感できにくくなります。感情を交えないで純粋に議論を進めようとしても、第三者は意見の対立自体に不穏な空気を感じて引いてしまいます。ましてや、被害者ともなれば、感情を交えないで議論をすることは、自分ではできているつもりでいても、客観的にはできていません。感情が勝るのは当然ですし、感情が勝ると反射的に相手の弱点をこれでもかと突きたくなるのも自然なことです。
相手の批判に重点を置かないことが大切です。あくまでも共同親権制度は、子どもの利益のために必要なことだということを、一般の人に向けて静かに語っていくことです。そして世論を少しでも共同親権は必要かなという方向に誘導して、外圧に結び付ける。これしかないと思います。
そのためには、ひとまず感情は棚上げして、共同親権と子どもの利益について勉強しなくてはなりません。

以下、後編に続きます。




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誤解だらけの親権制度 封建制度の残存物として排斥するのがいかに浅はかであるかについて [弁護士会 民主主義 人権]

親権というと、親が子を思い通りにする権利というニュアンスがある等という浅はかな意見があります。また、家制度を前提として戸主の子どもに対する支配権だという勘違いもあります。
現代社会において、明治民法(1898年)や旧民法(1890)の知識を持つ必要性は乏しいです。わからないならば言及しなければ良いのですが、思い込みで発言する人たちがいるので困ったものです。

1)親権者は戸主ではなく父

先ず、親権者は、戸主ではなく父です。戸主と父を同一に考える人がいますが、これは戦前の「家」制度を知らない人です。我々古い弁護士は、実務上の必要から戦前の戸籍を取得した経験があります。その古い戸籍謄本をみればわかるのですが、戦前の「家」は、夫婦と子どもを単位としたものではなく、もっと広い親族を中心として成立していたものです。姪や甥、あるいは父や母なんかも普通に一つの戸籍に入っており、その中の代表が戸主となります。
明治民法の成立過程でも親権者が誰かということが争点となりました。結局対外的な代表は戸主であるが、体内的な責任者は必ずしも戸主ではなく、家族内のことである親権者は父親と定められたのです。旧民法では1次的には父の単独親権で、父がいない場合は母の単独親権と定められました。ここは、男女差別が背景にあったものとして時代の限界として留意する必要があります。もっとも、旧民法の前の明治民法では、子どもの養育義務は父母双方にあると定めていました。

2)親権の内容は支配権ではないことは学会、社会の常識だった

確かに支配権だと主張する学者は穂積八束という先生が一人いたようです。かなり高名な先生ではありますが、1人説だったということです。誰も賛同しなかったということです。その他すべての学者は支配権であることを否定しています。法律家も日本国民の常識も、親が子どもを支配することが正当であるということは、感覚的にも存在しなかったことになると思います。
親権の内容として中心的にとらえられていたのは、明治の時代から、子を監護養育する義務です。学説でも、親が子どもに対して監護養育する義務を負っているという解釈が一般的でありました。これが明治民法および旧民法における親権の本質です。この本質を果たすために、つまり親が子どもを守り育てる必要があるから、この住所を決める権利や懲戒権を親が行使することを国が認めたというのが親権制度なのです。こういう解釈が明治の法学です。どうやら「封建制度」という言葉が出てくると、何でもかんでも悪いことだと思い、その中の最悪の事態が起きているという言葉のもつ効果があるようです。つまり、印象と思い込みだけで話をしていることとなります。明治民法や旧民法の規定は、親の子どもを支配する権利ではなく、子どもの監護養育のために必要な権限が規定されたということが法解釈的には常識です。
子どもが、国や戸主に勝手に連れ去られていたならば、親は子どもを守ることができません。子どもをどこに住ませるかということは、親の権利にする必要がありました。子どもが自由に法律行為をしてしまうと、思わぬ損をすることが多いので、子どもに代わって法律行為を行う権限も子の監護養育に必要なことです。懲戒も、当時の考え方は現在と同じではありませんが、「ほめ育て」等という言葉の無い時代ですから、子どもが間違った道に足を踏み入れないために必要な親の義務だとされていました。だから、懲戒権と言っても、親が子どもの人格を無視して、子の養育と関係のない八つ当たりなどをする権利ではなかったのです。現在と違って、当時の日本にはそれが当たり前のこととして受け入れられていたことになります。
おそらく、戦後教育の中で、戦前の教育を全面的に否定するという作業が行われたため、戦前の教育や社会制度というものが暗黒の歴史のように私たちは受け止めるようになってしまったものと思われます。確かに戦争や他国の侵略という恥ずべき歴史はありますが、人間の生活の営みは戦前から戦後にかけて確実に継続しているのです。それにもかかわらず、歴史を二項対立の観点から見るような態度は極めて非科学的で感情的な態度だと思います。戦前が全面否定されることはとても残念なことですが、私はそれより明治政府によって江戸時代以前の日本が全面否定されて、日本人が自分たちの過去を知識として持てないことのほうがより残念です。とにかく間違ったことは言わないでおいてほしいというのが私の願いです。

3)親権の自由権的な機能

では、どうして、家制度がありながら戸主ではなく親が親権を行使すると定めたのでしょうか。これも明治民法や旧民法制定の際に論争がありました。大方が一致していた理由は、子どもの監護養育は親の自然な情愛にもとづいて行われるべきだということです。戸主は伯父さんだったり、大伯父さんだったりして、一緒に暮らしていない人がいる場合が多いのですが、そういう法律的な立場の人間にゆだねるのではなく、親子の情愛にもとづくべきだということが戸主ではなく父親が親権を取得する大きな理由でした。
日本の法律はよく指摘されるように儒教の影響を受けています。その根底にある思想は、これもよく誤解されます。誤解というのは、人間は親に孝行し、さらにその上の天皇、国家に忠実であれということが儒教の本質だと、これまたあまりにも通俗的な決めつけをする人たちがいます。わからないなら言及するなと思うのですが、とにかく戦前を否定することが善だということをヒステリックに唱える人は多いものです。論語の本質とは、違います。論語は国の指導者となりたかった孔子があちこちで語った話を孟子がまとめたものとされています。道徳という庶民が守るべきものをつづったものではなく、国家とはどうあるべきか、政治とはどうあるべきかということを語ったものです。その中で、孔子は、国家の目的は、家族など自然な情愛で集まり生活している人が幸せに生活するためにあるのであり、家庭の中では国家秩序より家庭の情愛を優先させるべきだということと、国の政治は親子兄弟の情愛を国中に広めていくことだと述べています(論語:子路第13の18等)。
「親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-11

実際に日本の現行刑法は、この考えに基づいて、親族間の犯罪を必ずしも罰しないという制度がありますし、家族が犯人の場合かくまうことも罰しない場合を認めています。法律を勉強してきたものはよくわかっているはずです。
論語の見解では、国の秩序を守るために家族を国に売るような行為は否定されているのです。だから、国も、勝手に子どもを親から引き離すことができない。子どものことはその親が決めるということが親権だということになります。それだから徴兵制は、特に未成年者の徴兵は論語に反する政策だと私は思います。
明治の民法学者の議論は、あまりこの自由権的側面を強調してはいませんでしたが、常識的なものとして議論の前提にあったようです。

4)まとめ
旧民法の条文、及び学者の議論の様子を勉強しても、当時、学者も国も、親権が親の子を支配する権限という議論はあったにしても相手にされなかったということがわかりました。むしろ親の子どもに対する監護養育義務が中心に親権がとらえられていたようです。監護養育として親権行使をしなければならないということで、親権の及ぶ限界が画されていました。社会の常識もそれを支持していたと思われます。
確かに現代社会は、家族が孤立化してしまい、家庭の中のことが閉じた世界になっています。また、明治時代には考えられなかった日常のストレスの持続というものもあります。日本人の親子についての常識が戦前と比べて歪んだことを示す事件も大きく報道されているところです。家のメンバーや近所の人たちが個人の家庭に入り込む余地が著しく無くなったため、行政がそれに代わって介入するということも選択肢としては持たなければならないのかもしれません。
しかし、誤った知識、思い込みの考えだけで、制度や概念が否定されてしまったところに、あるべき新しい制度の構築は難しいのではないでしょうか。無駄な観点からの制度の提案がなされる危険があります。また、誤った知識、思い込みの考えでは、何をなすべきかの優先順位も見当はずれになるだろうということも危惧しているところであります。

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